その姿は、何度見ても場違いな事この上無い。
にも関わらずタラップを悠然と上がって来る彼女(いや、女性の様な何かだ――と喉の奥で船長は独り言ちる)は、その様なことを気に留める素振りも見せず自若としている様に見える。
かくする内に女性はタラップを昇り終え、彼の目の前に立った。
「初めまして、私は本船の船長です。貴女が悪意を抱いておられるので無い限り、乗組員一同は貴女の乗船を歓迎致します」
出来るだけ平静かつ淀みなく(かつ笑顔で)口上を述べた積もりだったが、彼女はそれを一顧だにせず事務的な調子でこう返した。
「時間がありません船長、直ちに船橋へ案内を、話はそこで致しましょう」
「船橋? ――ああ分かりました、それでは操舵室にご案内しましょう」
そう言って彼は先にたち操舵室に向かったが、その間も女性はキョロキョロするでもなく真っ直ぐに、しかもきびきびと付いてくる。
操舵室に着いて海図テーブル横の席を勧めても、
「このままで結構です」
と素っ気なく断られてしまう。
話の切っ掛けを失ってしまったと感じたのだが、それで気不味くなった様な雰囲気は全く感じられない。
「さて改めて申しますが船長、時間がありません。直ちに六時に転針し全速でこの海域を離れて下さい」
「いや、ちょっとお待ち下さい、我々はまだ貴女が何処の誰であるかも知らないのに突然そんなお話をされても――」
「では、私が名乗れば良いと言う事でしょうか?」
「いえ、そう言う訳ではないのですが――」
「確かに名乗らぬのは非礼であったやも知れません。それでは再び改めて、私は赤城、帝国海軍第一航空艦隊第一航空戦隊所属の航空母艦です。もっとも海没してよりこの方随分と年月も流れた様ですので、とうの昔に艦籍簿より除かれておりましょうが」
思わず彼は眼が泳いでしまい、周囲をチラチラ見てしまう――が、残念な事に操舵室の面々のほぼ同じ様な視線に遭遇しただけであった。
すっかりテンパってしまった彼は、眼前の女性の奇妙な出で立ちと彼女が名乗った氏素性の共通点を探して、頭脳と五感を限界まで酷使する。
女性は明らかに生粋の日本人の特徴を備えており、長い黒髪に純白の小袖と赤い袴というどうみても神社の巫女としか思えない姿をしていた。
その上に――と言うべきか否か、その美貌は眼が醒める程だ。
単に顔立ちがどうと言うだけではなく、日本女性としては長身といえるその背格好や端正な立ち姿に加えて、言葉に表せない凜とした空気を纏ったその姿は神々しささえ感じさせる。
とは言え、その容姿から見て彼女を軍人だと言うなら兎も角、軍艦だなどと思う者がいよう筈もない。
無論尋常ではない登場の仕方をしているのだから、ある程度とんでも無い事を言われる位は覚悟していたが、それでも自分は静御前だお市の方だとでも言われた方がまだしも腹に落ちただろう。
余りにも噴飯もの過ぎて、予想の斜め上をいくどころの話ではなかった。
しかし、そんな彼の当惑など当の女性は全く意に介する事無く、そのまま話の続きを再開する。
「さあ船長、先程も申しました通り事は一刻を争うのです。直ちに行動を起こして貰わねばなりません」
「そうは仰いますが……六時というと、180度反転しろと言う事ですよね? 何故でしょう? 理由をお聞きしてよろしいですか? その――赤城さん?」
「この先で、敵がこの船を沈め様と待ち構えているからです」
「敵――ですか? 一体どこの国の? しかも公海上で民間船を沈めようとする様な――あ、ひょっとしてテロリストか何かでしょうか?」
彼女――赤城が一瞬キョトンとしたのは、馴染みの無い言葉を聞いたからであろう事は間違いない。
にも拘らず、彼女は平然と会話を続ける。
「違います、おそらくそのどれでもありません」
「では一体――」
「私にも、確かな事は分かりません。只一つ言えるのは、彼奴らも元は私と同じく船であったと思われる事です。そしてこの船に対して明らかな害意を抱いているという事です」
「今、船であったと言われたがそれはつまり――」
「先程も申し上げた通りです。私は赤城、帝国海軍の軍艦です、それ以上でもそれ以下でもありません。さあもう時間がありません、一刻も早く転針して下さい」
「ですが、そうおいそれと出来る事では無いでしょう。少なくとも関係機関や会社に連絡して確認をとった上でないと……」
(第一、貴女をいきなり信用しろと言われても――)
という言葉を船長は呑み込む。
それを投げ掛けるには、この自分は航空母艦赤城であると名乗る不思議な女性は、少々ひたむきすぎる様に思えたからだ。
だがそのひたむきさは、一転して怒気を孕んだ激情に変わる。
「そんな悠長な事をしている暇など無いことが判らないのですか⁉ 私はもう二度と、油断と慢心とによって全てを失う事などしたくないのです! 私は、皇国の軍艦として果たせなかった義務を今度こそ果たす為に来たのですよ⁉」
操舵室内は水を打った様にしーんとしてしまう。
だがどういう訳なのか、赤城の厳めしい表情を目の当たりにした船長の脳裏に浮かんで来たのは一見全く関係無いとしか思えない別の情景だった。
何故か突然甦って来たのは、幼い頃に見上げた母の顔だった。
厳しく気丈であったが、こうして今思い返すと優しい顔ばかりが記憶に残っている。
八歳の時に船乗りであった父を海難事故で喪ってからは、文字通り女手一つで自分を育ててくれた。
母は自分が父と同じ道を選ぶ事について生涯無言を貫いたが、どんな思いだったのだろうか。
何れにせよ、最早それを確かめる事は不可能になってしまったし、父を喪ったのと同じ悲しみを再び味あわせる心配も無くなっていたが。
「分かりました、貴女を信じましょう」
この言葉にクルー全員が騒めき、当惑した様な囁きが交わされるのをはっきり耳にはしたが、船長の関心は既にそこには無かった。
彼の言葉を聞いた赤城は厳しい表情をさっと脱ぎ捨て、
「有難う! 何があろうと、私は貴方方の盾となって全力でお守りします!」
と晴れやかに言って明るく微笑む。
その笑顔は先程とは一転してまるで少女のように可憐で、吸い込まれるかの様に魅力的だった。
(そうだ、私はずっと母を笑顔にしたかったのだ)
「諸君、今言った通りだ! 航海長、直ちに減速し微速にて180°転針したまえ!」
「アイアイサー! スローダウン、ハードスターボード、あー……306!」
「本社、管区警備、ホノルルオフィスに連絡! 本船は安全上の理由により一時的に予定航路を外れ待避行動を取る! 詳細は追って連絡する!」
「船長、乗客へのアナウンスはどうしますか?」
「それは――」
船長が応え様とした刹那、船の遥か前方、正確には徐々に横方向になりつつある方角から微かな轟音が鳴り響く。
「まさか!」
操舵室内がどよめく中、不意に女性――赤城が走り出す。
「赤城さん⁉」
彼女は真っ直ぐに左ウイングに向かっている。
船長が追い付きウイングに出たその時またも轟音が響き、曇天で視程は悪化していたものの辛うじて確認出来る程の距離に水柱が上がるのが見えた。
「何が起こっているんですか、赤城さん⁉」
「改めてお願いします! 出来る限り速やかにこの海域を離れて下さい。必ず私達が貴方がたを護って見せますから!」
そう早口で捲し立てると彼女はひらりと――それこそ何の外連も無く――手摺を躍りこえて、20メートル以上も下の海面に向かって身を躍らせる。
「あっ!」
そう声を上げるのがやっとだった。
追い付いて来た航海長共々慌てて下を覗き込むと、てっきり海面に叩き付けられたと思っていた彼女――赤城は、出現した時と全く同じ様に海面にすっくと立ち、そのままの姿勢でまるでスケートでもするかのように最初の時よりも更に高速で滑走しはじめる。
彼らが呆気にとられて見送る間にみるみる彼女は遠ざかって行き、すぐに芥子粒の様になってしまう。
「一体何なんでしょう? 夢でも見てるんでしょうか?」
航海長の問いに対して、彼は
「私にも良くわからん……」
と応えるのがやっとだった。