〔第五章・第一節〕
車の中は、ずっと重苦しい沈黙に包まれたままだ。
僅か数時間前のあの明るい喜びに満ちた光景が、どうしてここ迄変わってしまったんだろうか?
僕は横目でチラリと様子を覗き見たが、二人共顔を上げてすらいない。
窓の外を眺めながら、先程の事を思い返す。
あの時、中嶋副長は明らかに念の為の確認をするだけの様子だった。
ところが余りに予想外な彼女の反応に、僕も副長も一瞬耳を疑ったのだ。
「いえ、出来ればすぐにこちらに来たいのですが」
そう言った声の抑揚の無さにも驚いたが、それ以上にまるで能面の様な硬い表情をしたむっちゃんは全く別人の様に見えた。
副長も何度か念を押してくれ、遂には僕も思い切って――偉そうに言う事では無いが相当に思い切って――遠慮しているんだったら一切気にしなくて良いからと言って見たのだ。
にも関わらず彼女は僕の顔も見ずに、
「違うわ、本当にあたしが来たいからなの」
と感情の籠らない声で素っ気なく応えたのだった。
そこから後はもう取り付く島も無く、唯々事務的な話しか出来ずに明日の朝に再び迎えに来て貰うと決まってしまった。
そうして僕らは、副長の用意してくれた帰りの車に黙りこくったまま乗り込んだのだ。
こんな風にお浚いするのも既に何度目かになるものの、やはり僕にはむっちゃんの突然の変化が全く理解出来ない。
午後の話し合いの最中の彼女は何度となく視線を合わせてくれたし、加賀さんの鋭い舌鋒に皆が少々動揺した時は、はっきりと僕に何かを期待している強い眼差しを向けて来てくれた。
そしてそれに何とか応え様と気力を振り絞って発言した後に、これ以上は無いだろうという飛び切りの笑顔を見せてくれたと言うのに!
その後ほぼずっと有頂天だった僕にとって、上がり切ったテンションからのこの落差は何かの悪い冗談としか受けとめられない。
今にも彼女がぱっと笑顔を弾けさせて『な~んてね!』と言ってくれはしないだろうかと半ば真剣に期待している位だ。
(一体、何を怒ってるんだろう?)
そう思って何度と無く彼女の横顔を盗み見るが一向に思い当たる節は無いし、何より見れば見る程怒っている訳では無さそうだと思えて来る。
その上更に分からないのは葉月の様子だ。
むっちゃんが突然隊に移りたいと言い出した時、僕は一瞬葉月のリアクションを期待した。
もっと言うならば、何時もの葉月であればここは絶対に何かを言う筈の処だったのに、どういう訳か彼女は終始黙ったまま――どころか、軽く目を逸らしてむっちゃんを見ない様にしていたのだ。
(何を考えてるんだ?)
僕は葉月の態度の底に何があるのか考え続けていたが、車内で二人の様子を眺めたり景色を眺めたりしながら考えては見たものの、考えが煮詰まって来る程益々理解しかねる事ばかりが目に付いてしまう。
葉月と彼女は、ほんの数日の間柄ではあるものの友達と言える位になっていると感じる(余談だが葉月はそう簡単に友達をつくらない。表面的な人付き合いは巧みなので一見すると友達は多く見えるが)し、本人からはっきり聞いた訳では無いものの、むっちゃんの性格や人柄に好感を持ってくれている様だ。
でもその反面、彼女は僕の保護者としては最大級に警戒しなければならない女性(いやもちろん正しくは軍艦だが)には違いない。
そう言う目線だけで見ればむっちゃんが僕の家から出るのを歓迎していても全くおかしくは無いのだが、幾ら何でも僕の知っている葉月はそこ迄薄情では無い筈だ。
それとも葉月は、彼女が仲間達と一緒に居る方が良いと真剣に考えているのだろうか?
――いや、そんな事は無さそうだ。
第一、もしそんな風に考えているのであればもっと積極的に振る舞う筈だし、後々彼女との間が気不味くならない様に丁寧なフォローもするだろう。
それなのに、一体どういう事情があってこんなに不自由そうにしているのだろう?
むっちゃんが僕らに対して含む処があると言うのはともかく、葉月までそうする理由は?
その事をもっと突っ込んで考えて見ようと思ったのだが、丁度その時車は朝と同じ公園の横に到着したので、僕はその考えを仕舞い込み、ここ迄送って来てくれた防衛官の男性に礼を言って車を降りる。
こういうタイミングを上手く捉えて何か話掛けて切っ掛けを作らねばと思ったのだが、まあそんなに都合良く気の利いた奴になれる筈も無く、不自然な沈黙が流れた後に突然葉月が口を開く。
「私、晩御飯の買い物行って来るわ! 先に帰っててくれる?」
彼女はそれだけ言い捨てて、僕らの顔も見ずにさっさと行ってしまう。
恐らく滅多には見られないであろう、余裕の欠片も無いその後ろ姿を暫し見送ってからむっちゃんに声を掛ける。
「じゃあ帰ろう。本当は一杯色んな物を買い揃えてあげたいんだけど、ちょっとその時間は無さそうだしね」
そう言って歩き出そうとしたが、何故か彼女は動かない。
どうしたのと声を掛け様として初めて彼女が歯を食い縛って何かを必死に堪えている事に気が付き、胸が激しく締め上げられた僕は後先も考えずに叫んでしまう。
「ごめんよ、本当にごめん! 僕は馬鹿だから、君を傷付ける様な事しか出来なくて――」
理由も何も無いが、とにかく彼女に詫びたかった。
僕の脳はもうそれだけしか考えられなかったのだが、むっちゃんもまた感情の塊を吐き出す様にそれを否定する。
「違うわ! 仁は何も悪くない! 悪いのはあたしなの――あたしが何も見えていなかったの、それだけなの……」
「それだけの筈なんて無いよ! 僕があとほんの一割だけでも気の利く奴だったら、君に――君にこんな事を言わせたりしなかったのに――僕は本当に――」
そう、どうしようも無く駄目な奴なのだ。
情けなくて本当に涙が出る。
でも彼女は――むっちゃんはそうじゃないと言ってくれる。
こんな頼りない、情けない奴を肯定してくれる。
「仁は馬鹿なんかじゃ無いわ、あたしは何時か出て行かなければならなかったの。それがほんのちょっと早くなっただけよ……。仁の所為でも何でも無いわ」
そう言った彼女はやっと僕の目を真っ直ぐに見てくれた。
その眼差しはさっきよりも少しだけ柔らかな光を帯びており、それは胸に淀んでいた思いをスッと浄化していく。
彼女に何があったのかは相変わらず見当も付かないが、それでも僕の所為では無いと言ってくれたのだから、それだけでもう十分だと初めて思う事が出来た。
そしてそう思う事で改めて自覚出来たのは、彼女がどこに行こうが僕に命をくれたのは彼女だという事実には何の変わりも無いし、僕が誓った事もまた消え失せる訳では無いということだ。
「帰りましょ? お家に」
「そうだね、帰ろう……、僕らの家に」
「あたし達の家……?」
「そうだよ、むっちゃんがどこに住む様になろうが、あそこは何時でもむっちゃんの家だよ」
「うん……」
とにかく出来る限りの用意はして、笑顔で送り出してあげよう。
やっとの事で僕はそう思える様になった。