「ただい――」
ついそう言い掛けて、はたと気が付いた仁は口を噤む。
しんと静まり返った家の中では、靴を放り出す音すら大音響に聞こえてしまう。
「別に、こんなの何時もに戻っただけだろ!」
心の中で嘯いた積もりが知らぬ内に口を衝いて出ており、自分の声にドキッとさせられる。
どこを見渡してもきちんと片付けられており、陸奥と葉月がどれだけ念入りに出ていったのかという事を否が応でも思い知る。
何をして良いものやら見当も付かず、何かしら動きや変化が欲しくてテレビを点けてみるが、只でさえそんなものを見る習慣など無い上に、休日の午前に興味をそそる番組などあろう筈も無い。
(むっちゃんはテレビ見れるのかな)
彼女は瞳をキラキラさせて画面を見詰めていた。
陸奥に限らず、七十年間の断絶から解き放たれた彼女達にとって現代の日本は刺激に溢れている筈だ。
(もっともっと色んな事を経験させてあげたかったのに……)
どうしてこんなことになってしまったのか、理由が分からない事も手伝って感情のやり場が無い。
気晴らし出来ればとも思うが誰かに会う気にもならず、かと言って一人でモヤモヤし続けるのも結構難しいもので、結局種々の選択肢を消去していった結果居間に置いたままのPCでレポートの残りを仕上げてしまう事にした。
天気の良い休日に家に籠ってレポートを書くなど普段であれば憂鬱極まりない作業なのに、さすがの仁も今日ばかりは全くそんな気持ちにならない。
彼の心の中で陸奥の存在はとても大きく確固たるものになっていたし、彼女が家を出て行った位で簡単にそれが消え失せる筈も無いのだが、どうした訳か心の中に奇妙な空白が出来た様な不思議な感覚を味わっていた。
それに葉月に指摘された通り彼女と共にいたこの数日間で随分泣いた様な気がするのは確かで、今もてっきり涙が出るものと思っていたのに何故かそんな気配もしない。
まるで陸奥が出て行くのと共に、彼の感情の一部が拭い去られてしまった様なのだ。
(何故だろう、頭でもおかしくなったんだろうか? こんなの生れて始めてだよなぁ)
そう独り言ちた仁だったが、彼がその明らか過ぎる誤りに自ら気付くのはそう容易ではない。
この奇妙な感情の欠落を経験したのは幼い頃であり、長い年月が経過した事もあるが何よりもその痛みを伴う記憶を彼は無意識に黙殺しようとし続けていたからだ。
もちろん彼は自分の母の事を本気で忘れてしまおうとしてはいない。
それどころか自分を生んでくれたこと、そしてこの世で最も愛してくれたことに対する追慕の情は人一倍強かったかも知れない。
とは言えその想い出は彼にとって余りにも辛すぎ、その苦痛に耐えながら日々を過ごす事は到底出来なかったが為に、一時的に忘れてしまう事で自分自身を守って来ただけだった。
だが突然陸奥が去って行ったことで彼は再びこの奇妙な状態を経験し始めており、その事によって心の深層に仕舞い込まれていた葛藤が浮かび上がろうとしていた。
(何でも無い――そうだ、何でも無いさ)
力尽くでその湧き上がる記憶を抑え込みながら、仁はひたすら目の前の事に没頭し様と足掻いていた。
目が覚めると窓の外は真っ暗になっていた。
オートパワーオフが作動したらしくテレビも消えている。
腹が鳴ったので、朝食以来何も食べていなかった事にも気が付いた。
(何か食べるかぁ)
と思い立ち上がり掛ける――とその瞬間暗い室内に電話が鳴り響き、彼は大袈裟に反応してしまう。
(脅かすなよ!)
心の中で悪態を付きながら子機を取り上げると『渡来衛吾』の表示が出ている。
(親父か……)
余り話したい気持ちでも無いが、さすがに無視するのは気が引けた。
「もしもし」
「仁、家にいたんだな。今日は休みじゃないのか? それとも帰って来たところか?」
遥々地球の反対側から架けているとは思えない明瞭な音声だったが、今の彼にとっては耳障りなだけだ。
「レポートまだ仕上げて無かったからやってただけだよ」
「そうか、ひょっとしてこの間言ってたフィールドのレポートか? 葉月ちゃんも一緒だったんだろう?」
父――衛吾は、言う迄もなく葉月が大のお気に入りだ。
今年の正月に帰国した際も葉月の手料理に舌鼓を打ち、上機嫌で、
「葉月ちゃんさえ居てくれれば仁は安泰だな♪」
と彼女の野望を後押しする発言をして喜ばせている。
只さすがに仁が気乗りしていない事位は薄々気付いており、彼の感情を無視したゴリ押し迄はしていない。
「ああ、どうせ仕上げはまた一緒にやるしさ」
まさか陸奥のことを話す訳にも行かず、それ以上答えることが無い。
「どうした仁、何かあったのか?」
(もちろん何かあったさ!)
と言いたいのを堪えて、
「別に大した事じゃないよ」
と流そうとする。
しかし衛吾は納得せず、
「本当か? 仁、もし何か面倒な事にでもなっているんだったらちゃんと教えてくれ。帰る必要があるんなら出来るだけ早く帰る積もりだ」
と食い下がる。
だが、父の言葉を聞けば聞く程彼の心は頑なになっていく。
「出来るだけって、何か起こってから一週間も経って帰って来て何か出来るのかよ」
自分で思っていたより冷たい声が出てしまうが、知った事かとも思う。
「……」
電話の向こうで父は黙ってしまい、少しだけ後悔した彼は、
「どっちにしろ大した事ある訳じゃないから。何かあったらまた電話するよ」
と少し普通の声音で言ってから、
「それじゃあ――」
と会話を終わりにし様とする。
にも関わらず、衛吾は
「待ってくれ仁」
と引き留める。
「?」
「仁――――、済まん……」
それを聞いた途端、胸の中で無明の焔が一気に燃え上がる。
「何が『済まん』だよ! なに、今更謝ってんだよ! 自分が好きでやっといて何が済まないんだよ! そんな事母さんが生きてる内に言えよ! 無理矢理我慢させてるとでもずっと思ってたのかよ! そう思ってんのに好きな事してたのかよ! 母さんは親父の犠牲者なのかよ! ふざけんなよっ!」
全身が一本の太い血管になった様にドクンドクンと脈打っている。
全力疾走でもした後の様に荒く早い息をしながら、仁は子機を握り締めていた。
「……言ったよ――母さんには――」
父は絞り出す様にそう言ったが、そもそも彼は返事を期待していた訳では無かった。
「叱られたんだ――、今、お前が――言ったみたいに……」
微かに声が震えている、父は泣いているのかも知れない。
「分かってて何で言うんだよ――おかしいだろ」
自分でも意外な程普通の声が出せた事に、彼は少し驚く。
「……ああ――、そうだな、本当にそうだ――、おかしいな……」
父の気持ちを理解出来たとか言う訳では無かったが、心の片隅に押し込め様としていた過去の事を今更穿り返している自分が虚しくなり、これ以上諍いを続ける気が無くなって来る。
「親父、話せる時が来たら話すから――必ず話すから――だから心配しないでくれよ」
「――――分かった、何かいる物とかあるか?」
「あの、少しだけ――金使っても良いかな?」
「もしお前が必要だと思うんなら貯金位全部使え。無くなったらまた馬車馬みたいに働いて稼いでやるさ」
「有難う――それじゃあな親父」
「ああ、お寝み仁、また電話する」
そう言って父は電話を切った。
家の中は堪え難い程の静けさで、思わず蹲ってしまう。
(寒い……)
気温が低い訳でも熱がある訳でも無いが、震える程寒い。
(むっちゃん……)
今ここに陸奥がいたらそっと抱き締めてくれるだろうか。
突然そんな思いを抱いた自分自身に戸惑った仁だったが、同時にそれはどれ程暖かく心地良いだろうかとも思ってしまう。
にも関わらず、彼はそこに懐かしさと痛みとを感じ取ったが為に、強く意識する前にそれを頭の中から無理矢理追い遣ってしまった。