「お先で~す」
そう声を掛けてゼミ室を出ると、
「葉月、待って?」
と琴乃が追い掛けて来る。
「ねぇ、渡来君と何かあったの?」
と、やや声を潜めて話掛けて来る彼女は如何にも心配そうな顔付きだ。
「別に――ちょっと拗ねてるだけよ、お互いにだけど♪」
少なくとも半分方は本当だが、まさか海の底から現れた女性の所為でなどと言う訳にも行かない。
「え~本当に? 旨くいかないもんねー、あんな事あってひょっとしたら急展開とかある? って思ってたのに」
彼女――吉田琴乃――は、あの日ゼミの大崎共々先に帰ったが何度も連絡をくれており、随分親身になって心配してくれていたし、何より葉月にとって焦れったい事この上ない仁との関係をかなり良く理解している。
「ウフフ♪ 本っ当そうなのよ! いっそ押し倒しちゃった方が手っ取り早いかな、何てね♪」
「あっ、強行手段に出ちゃう? 言っとくけど犯罪行為はダメよ⁉ インタビューされるあたしの身にもなってね♪」
「ちゃ~んと手加減するから大丈夫よ!」
琴乃は頭の回転も早く、ちょっとしたお喋りも小気味よい。
(皆こうだったら良いんだけどねぇ)
それが望むべくも無い事は葉月にも良く分かっていた。
同世代の女に限らず、男も何だか退屈で不甲斐無いと常々感じていたし、誰にも言いはしないものの仁はずっとましな方だと言う事もちゃんと理解している。
皆の前では殊更に彼が優柔不断で頼りないと吹聴してはいるものの、実際の所は生じっかきちんと周囲に気配り出来るが故に、何をするにもやたらに慎重過ぎて決断が遅いので余計そう見えてしまうだけだと言う事も承知していた。
言う迄も無い事だが、葉月にとって素晴らしい男でありさえすれば良いのであって、他の女達から魅力的に見える必要は何もないのだ。
そんな事を考えながら駐輪場まで来たが、やはり彼の自転車はもう無かった。
(ふん、何だかやけに素早いわねぇ)
この数日仁は魂が抜けてしまったかの様に生気が無く、兎に角リアクションが乏しかった。
それだけに訓練隊に出向く前日になってのこの素早さは、彼が何かを企んでいると言う事だろう。
(そんなに私が邪魔な訳⁉)
琴乃には冗談半分で言った積もりだったのに、本気で拗ねたくなってくる。
あの日陸奥に何があったのかは概ね分かっていた。
午後の話し合いが一段落した時、彼女の隣に赤城が座って話掛けているのを葉月は見ていた。
最初二人は何気なく会話していたものの、赤城が特に意識する様子も無く話した何事かに不意に陸奥が驚いた(と言うより愕然とした)様に反応し、それから急に挙動不審になったのだ。
そして、その後のちょっとした意向確認の席上で唐突に彼女が言い出したことを聞いた瞬間、葉月は確信を持った。
赤城は単なる雑談の積もりで葉月が仁の許嫁らしいとでも言ったのだろう。
それを真に受けて信じ込んでしまったとしか考えられない。
(むっちゃんに聞かせる積もりなんて更々無かったわよ……)
そもそも仁が赤城に変な気を起こすからいけないのだ。
無論、あの鈍感は自分がそんな気を起こした事すら気付いていないのだろうが、傍から見ていた葉月には手に取る様に分かったし、陸奥に迄も見抜かれていた。
だから嫁としては是非とも釘を刺してやらねばと思ったし、一見した処赤城は早合点するタイプの様に見えた事もあり、ちょっとした悪戯心から小芝居を打って見たのだが、余りにも旨くいってしまい面喰った位だ。
もちろんその後の事に付いては少し後悔している。
どのタイミングでも良かったので二人切りになって事情を説明すれば済む事だったし、そうすれば恐らく彼女はあっさり破顔して、
「でも、仁には何て説明したらいいのかしら?」
とでも言い出し、そこから後は女同士の内密の相談に出来ただろうにとも思う。
出会ってからたった数日ではあるが、葉月は陸奥の人柄に好感を抱いている。
常日頃から物足りなさを感じる周囲の同性達に比べても、その気配りやセンス、賢さや誠実さと言った人格の差は一目瞭然と感じていた。
これ迄の人生で親友と言える様な友人を持った経験が無かった彼女にとって、初めて親友になれるのではという秘かな期待を抱かせる存在だった。
(でもねぇ……)
思わず溜め息が出る。
あのバカはどう考えても陸奥に惹かれ始めていた。
本人にその自覚があろうが無かろうが嫁の目は誤魔化せない。
もちろん断じてそんな事を容認する訳にはいかないので、何時キュッと締め上げてやろうかと様子を窺っていたのだが、これまた残念な事に彼の気持ちが一方通行では無く、陸奥もまた彼に対して特別な感情を抱き始めている気配なのだ。
仁を締め上げるだけならまだしも、彼女に考えを変えさせるというのは容易な事では無いだろうとかなり危機感を抱き掛けた葉月だったが、もう少し冷静に観察しているとそこ迄事態は切迫していない事にも気付く。
今のところ感情が未発達な上に経験値も足りない陸奥は、その感情を自在に表現する事はもちろん恋愛感情とはどういうものなのかすらちゃんと理解出来ていない様なのだ。
これを知って少し安堵した葉月は、いきなり仁を巡って対立する様な面倒な事に発展しそうに無いと思い、やや警戒を解き掛けていた。
ところが予測不能な事態というのは起こるもので、それなりに時間の余裕もあるだろうからどうやってやんわりと引き離すべきかゆっくり考え様と思っていた所に、唐突にしかも自ら手を下す必要もなく陸奥の勘違いが起こってしまった。
いざそうなってみると少々申し訳無いとは思ったものの、こんな降って湧いた様なチャンスを見逃せと言うのは随分酷な話に思えた。
何せ真正面から衝突するといった最悪の事態を回避しながら、二人の感情がはっきりする前に程良い距離を置かせ、自然に火照りが冷めるのを待つという穏やかな解決を図れる上に、陸奥との友情も壊さずに済むかも知れないという正に願ったり叶ったりの機会だというのに!
結局何度となく葛藤はしたものの、ただ我慢して見過ごせと言うなら兎も角、誤解を解くためには自分から進んで行動を起こさねばならないという高過ぎるハードルを越える事は出来なかった。
後は精々彼女を邪険に扱わない様に慎重に(かつ出来るだけフェアに)振舞う位が精一杯だった。
しかしながら事はそれだけでは終わらなかった。
やっとの思いでこの辛く居心地の悪いイベントを乗り切れそうだと油断し掛けたその時、全く予想だにしない事が葉月を襲った。
彼が陸奥を乗せた車を追い掛け様とした時、本当に心の底から怖ろしくなったのだ。
『仁をとられる!』
その恐怖で彼女はパニックに陥ってしまい、尋常では無い力(これが火事場の馬鹿力と言うものだと身をもって知る羽目になった)で彼の腕を締め付けた上に、何と彼に行かないでくれと懇願してしまったのだ。
我に返った後でさすがに羞恥と自己嫌悪に苛まれてその場から逃げ出したが、その背に向かって仁が投げ掛けた言葉は更に彼女を打ちのめした。
何とあの甲斐性無しは、葉月の最も大切な思い出をちゃんと覚えていたからだ。
(どう言う事なのよっ! そこ迄分かってる癖に私のこの扱いはなんなの⁉)
引き返して仁の胸倉を掴んで首ガクガクして遣りたくなるのを必死に我慢して立ち去ったのだ。
(こんなに長年世話焼いて来たのに、もう少し優しくしてくれたって罰は当たらないでしょっ!)
今も恐らく何処かで自転車を走らせている筈の仁に向かって、心の中で思い切り喚き散らして見たが不意に虚しくなる。
(はぁ~あ、私、何でこんな病気患ってんだろ)
思わず自嘲してしまう。
(ウダウダしてないでさっさと帰ろう……)
珍しく凹んだ彼女は、肩を落としてとぼとぼと自転車を押しながら校門を出た。