そこは見慣れた近所の公園の様でもあり、幼稚園の園庭の様でもあり、またどこでも無いとも言えた。
幼い僕は、しゃがみ込んでこちらに向かって手を差し伸べる母さんを目指して一生懸命走っている。
母さんはとても優しい眼差しで見つめていたし、その腕の中に一刻も早く飛び込みたくて、僕は幾らか覚束ない足取りで精一杯駆けていた。
でも、どう言う訳かどれだけ必死になって走ってもちっとも母さんの元には辿り着けず、それどころかどんどん遠くなって行く様に見える。
その上奇妙な事に僕もどんどん幼くなって行く様で、さっき迄確かに駆けていた筈なのに、何時の間にかよちよちとした危なっかしい早足がやっとになっている。
(何だかおかしいぞ?)
それはそうだ、おかしいに決まってる!
何よりも不思議なのは、どんなに眼を凝らして見ても母さんの顔がはっきり見えないのだ。
一体どうしてなのだろうか?
僕はこの世の誰よりも母さんが好きだったし、母さんも僕の事を世界一愛している筈なのに……
だからこそ、あんなに優しい瞳で僕を見詰めている……
見詰めている?
顔がぼやけて見えない筈なのに、何故か母さんが優しい眼差しを向けているのが見えるのだ――
いや、そうではなくて知っているだけなのかも知れない。
なぜこんなことに?
その思いはどんどん強くなって行くのだが、それでも走るのをやめられなかった。
やっぱり、僕は母さんに抱き締めて欲しいのだ。
あの暖かい母さんの胸に抱かれて、恐れも悲しみも無い心の底からの安らぎに包まれたい。
一生懸命走り続けていた僕は、とうとうハイハイをしながら、それでも必死に母さんのもとに辿り着こうともがき続ける。
僕の目には涙が溢れ、口からは言葉にならない泣き声をあげていた。
(母さん! 母さんっ!!)
僕は悲しみの余り身悶えする。
(何故僕を置いて行くの⁉ 何故一人で行ってしまうの⁉)
「――――て」
その時、初めて母さんが何かを言った。
「――をあけ――ねが――」
何だか良く分からないが、母さんの声では無い様な気がする。
「しっか――して、――がいだから――けて!」
違う――これは母さんの声じゃない!
でも、何故だろう……
全く不快ではないし、それどころかとても心地よく暖かな声だ。
「ねぇ、大丈夫⁉ お願いだから目をあけて!」
急に、何処からか光が射し込んで来るのを感じる。
身じろぎをしたが、その時になって初めて自分の体を動かせる事に気がつく。
「気がついたのね⁉ しっかりして! あたしの声聞こえる?」
僕の手が、誰かにギュッと握られていた。
僕はその手を握り返しながら、あらん限りの力を振り絞って目を開け様と努力する。
まるで岩か何かの様に瞼は重たく途中で挫けそうになるが、それでもどうにか目を開ける事が出来た。
(うっ!)
その途端、眩しい光が世界を一瞬で埋め尽くしたため思わずまた目を瞑ってしまうが、それも僅かな間だった。
僕は改めてゆっくり目を開けると、これから生まれ出る新たな世界を見極め様とする。
眩しい光はゆっくりと滲んで色を帯び、
やがて空の青に変わったが、
僕の眼を捉えて離さなかったのは何も青空と言う訳では無かった。
ぱっちりしてはいるが大き過ぎない澄んだ瞳、
何故だか分からないがとても安心させられる丸みを帯びた顔と小さな顎、
不思議にその顔に馴染んでいる明るい栗色(陽光が透けて金色に光っていた)の短めの髪、
すっきりとした癖のない鼻とその下で微笑むように小さく開かれたつやつやした唇とが目の前にあり、
抜ける様な青空とその顔のコントラストは、正にその瞬間の僕にとって世界の全てだった。
そして、それは生涯忘れる事のない大切な想い出になるのだが、
この時の僕はまだそれを知る由も無かった。