葉月が夕飯を作りに来ると言い出した時、彼は半ば諦めてはいた。
とは言うものの、どうしてもそんな気にはなれなくて少し強く拒否したら、気持ち以上に冷えた態度になってしまった。
「分かったわよ――」
拗ねた様な(と言うか純粋に拗ねていた)顔をした彼女を見送ってから、改めてコンビニに行く。
こんな真似をしているから「何が気に入らないのか理解出来ん」などと言われてしまうのだろうか。
そんな事を考えながらゴミを丁寧に分別している自分にふと気が付き、苦笑する。
葉月が五月蠅く言うので、何時の間にか習慣になってしまったのだ。
(何だかなぁ~)
軽く自嘲しながらも自分の日常を振り返ると、そんな事だらけなのを今更ながら思い知る。
ゴミの分別だけでは無く、灯りを小まめに消す、二階の窓迄きちんと戸締りする、洗濯ネットを使う、晴れた日は布団を干す――全てしつこく言われなければ自ら進んではやら無かった事ばかりだ。
彼女が気に入らないなら言う事など聞かなければ良いものを、今や何も言われなくても仁はそれら全てを自然にやっていた。
溜め息を吐きながら、これは葉月にガミガミ言われた訳では無いが既に数え切れない程の着信確認を無意識に繰り返す。
(うう、もう通算何百回目かな~)
自己嫌悪に陥り掛けたその刹那突然スマホが目覚めて騒ぎ始め、危うく仁の心臓は口から飛び出しそうになる。
発信者が誰からと再確認する迄もない。
(むっちゃん、むっちゃん!)
焦って落っことしそうになりながら、必死にスマホを掴んでタップする。
「もしもしっ!」
と勢い込んで言った積もりの声が上擦ってしまい、鶏の様な甲高い声が出てしまう。
「――済みません、渡来さんでは無かったでしょうか――」
電話の向こうから、陸奥のおっかなびっくりと言う態の声が聞こえる。
余りにも違う声だったので間違って掛かったものと疑っているらしい。
「ち、違うよむっちゃん! い、いや違わないんだけど、その、僕だよ、仁だよ!」
「本当に? 本当に仁なの? さっきの変な声も?」
「そ、そうだよ、焦って変な声になっちゃったよ、ごめんね」
「ううん良いの、でも凄いわね携帯電話って。こんなに小さくて可愛いのにとってもはっきり声が聞こえるのね、びっくりしたわ♪」
「良かった♪ 喜んで貰えて嬉しいよ、それに電話してくれて有難う、大事な皆と一緒の時間なのに凄く嬉しいよ」
「あたしも、こんな風に話しが出来るなんてとっても嬉しいわ♪ でもやっぱりちょっと勇気が要ったわね」
「むっちゃんに比べたら僕は本当に情けないよ、電話を渡すのが精一杯だったんだから――」
束の間沈黙が流れた後で、陸奥がやや躊躇しながら話し始める。
「――あのね、仁」
「うん、何?」
「――えっと――、仁はね、その――」
「うん――」
「……」
彼女は黙ってしまい、唇を舐める様な音が微かに聞こえる。
言い出し辛い事なのだろうと思い、何を聞きたいのか水を向けて見様としたその時、電話の向こうで別の声が聞こえる。
「――つさん、ちょっ――わっていただ――せんか?」
「えっ、ちょっ、ちょっと待って加賀ちゃん、今聞いてみるから」
どうやら、加賀が一緒にいるらしい。
「ごめんね仁、加賀ちゃんに替わっても良いかしら?」
「うん、いいけど?」
「有難う――、はい、加賀ちゃん良いわよ?」
その時、またも他の誰かの声がする。
「待って下さい加賀さん、ここはやはり騒動の張本人たる私がお聞きするべきです」
張りのある大きな声は聞き間違え様が無い。
「――たいを――まりややこし――でくだ――かぎさん、こ――すなおに、――しにまか――ください」
抑揚が少ない加賀の声はやたらに聞き取り難いが、その反対に赤城は明らかに地声が大きい様で、電話の向こうの位置関係が分かり辛い。
「そう言う訳には行きません、もし私の早とちりであったなら全て私の責任です。人任せにして良い事ではありません!」
「――れなら、なおさ――しがきく――です、――かぎさんがきい――やとちりを――てはこまり――し」
「幾ら加賀さんでも言葉が過ぎませんか⁉ そこ迄私は信が置けないとでも言うのですか?」
「ちょっ、ちょっと! 二人共落ち着いて! 喧嘩は止めて頂戴⁉」
電話の向こうは、急にカオスの様相を帯びつつある。
「――かなどし――せん。わた――ちついて――が、あかぎさ――んじょうてきになってい――です」
「それでは不味い事は全て私の所為だとでも言うのですか⁉ 刎頚の友だと思っておりましたのに、私の思い過ごしだったと言う事ですね!」
「赤城ちゃん待って⁉ 加賀ちゃんだってそんな積もりで言ってる訳じゃ無いわよね⁉」
これは駄目だ――こうなってしまったらもう仲裁した位では収まりが付かないだろう。
とにかく二人の間から争いの原因を取り除かなければどうにもならない気がする。
そう思った仁は(以前の彼なら考えられない事だが)素早く呼び掛ける。
「むっちゃん、むっちゃん⁉」
彼のその声に陸奥は助けを求める様に応えて来る。
「仁、どうしたらいいの? 一度電話切った方がいい?」
「いや、むっちゃんが聞きたい事を教えてよ! それが一番肝心だと思うんだ!」
まるで電波が夜空を飛んで行くのに時間を要したかの様な間の後、唾を飲み込む様な音が聞こえ、僅かな沈黙を挟んで彼女が喋り始める。
「――判ったわ、思い切って聞くわね。――あのね、仁と葉月はね、許嫁なの?」
その言葉は閃光を放つ弾丸か何かの様に耳から飛び込んで来ると、凄まじい勢いで全身を駆け巡る。
(そうだったのか!)
彼の脳裏には小さなガラスの破片の様なパズルのピースが無数に降り注ぎ、急速に一つの絵が出来上がって行く。
陸奥はあの日、どこかで赤城の話を聞いて信じ込んでしまい(嘗ての戦友の言葉というのは、何気無いものでもやはり重味が違うのだろうか)居たたまれなくなって逃げる様に出て行ったのだろう。
赤城が電話の向こうに控えていて『私の責任です!』などと言っているのは、自分が早合点して間違った事を陸奥に話してしまったことがそもそもの発端になっているのを理解しているからに違いない。
(誰かが謎解きをしたんだ――加賀さんなのかな?)
恐らくそうだろう。
冷静で情実には無頓着そうな彼女ならば、普通は気遣って遠慮してしまう様なナイーブな感情にでも容赦なく踏み込んで行けそうに思える。
幾らか事態が飲み込めた様に感じた仁は、改めて腹に力を入れると声を張ってきっぱりと言い切る。
「いや、違うよむっちゃん」
「えっ、本当に?」
「本当だよ、僕と葉月は幼馴染には違いないし親同士も親しいけど、口約束一つだってして無いよ」
「じゃあその――」
「赤城さんから聞いたの?」
「そうなの、仁も知ってるのね?」
気が付くと、何時の間にか彼女の背後は静かになっている。
「うん、赤城さんは頭良さそうだけどちょっとせっかちなのかな? だから早合点しちゃったんだろうね♪」
「そうだったのね――でもあたしがいけなかったの、ちゃんと確認すれば済む事だったのに、あたしったら……」
「そんなの仕方ないよ、赤城さんだって信じてたんだから……」
期せずしてすっと二人は無言になる。
彼らの脳裏に浮かんだのは言う迄も無く葉月の顔だったが、彼女の意図は何だったのかという確証がある訳ではなく、漠然とした疑念が湧いたのに過ぎない。
と、その静かな間を捉えて赤城が声を掛けて来た。
「済みません陸奥さん、差し支え無ければ渡来さんとお話しさせて頂けませんか?」
彼女の口調はすっかり穏やかになっているし、加賀も突っ込みを入れて来ない処を見ると、どうやら二人の諍いは無事に終息したらしい。
陸奥が断わりを入れてくる前に、彼は先に話し掛ける。
「むっちゃん、赤城さんに換わっても良いよ?」
「ええ今換わるわね、はい赤城ちゃん」
「有難うございます。では――ご、ご機嫌よう渡来さん!」
咄嗟に耳を離さなかったら寝る迄耳鳴りに悩まされたかも知れない。
「あ、赤城さん、普通に喋ってもちゃんと聞こえますよ⁉」
「これは失礼しました、慣れていないものでお許しください。では改めて、渡来さん、この度は私の不明から大変なご心労をお掛けしてしまいました。電話で申し上げるなど非礼この上ない事とは承知してはおりますが、この通り臥してお詫び申し上げます」
「あ、いやその、こちらこそどうも、何と言いますか――」
電話の向こうから、
「ちょ、ちょっと赤城ちゃん⁉」
とか
「――んなことを――も、わたらいさ――えてませんよ?」
など小さな声が聞こえて来る処を見ると、彼女は深々とお辞儀をしているらしい。
(うっ、こういう人って何か苦手だな~)
本人は誠実そのもので何の悪意も無いのにお詫びやら何やらがひどく大仰だったり、物事をとにかく勢いで進めてしまいがちな相手と言うのは仁の苦手なタイプだった。
「あのぉ赤城さん? 悪意でやった事じゃ無いんですから、お詫びはもう十分頂きましたよ?」
「しかし、加賀さんが心付いてくれましたのでどうやら事無きを得そうですが、罷り間違えば私の所為で陸奥さんと渡来さんの恋路を引き裂く処だったのですから――」
「あ、赤城ちゃんたら何言ってるのよ、もうっ!」
「――かぎさん、また、わるいくせ――てますよ」
「あ、いやこれは失敬、どうもいけませんね――私は暫く口を噤む事と致します」
誰かの手に電話が渡った気配がし、小声の遣り取りの後で不意に加賀の淡々とした声が響く。
「渡来さん、お騒がせして済みませんでした。一つだけお願いしたいのですが宜しいですか?」
「ええ、良いですよ」
「ここはやはり渡来さんから切り出して頂きたいのです。立場上言い出し難い事もあるのは良くお判りだと思いますので」
前置き抜きでいきなりこんな事を言える彼女の鋭さに、仁は舌を巻く。
全くその通りだとしか言い様が無く、彼から口火を切らなければ陸奥が自分から言い出せる事では無いと思われた。
「加賀さん、色々気遣って頂いて有難うございます。陸奥さんと替わって貰えませんか?」
彼女は返事もせずに陸奥に電話を戻している様で、再び彼は苦笑する。
「もしもし仁?」
一体何が違うのかとは説明出来ないが、その響きといい言葉のテンポといい、不思議になる位陸奥の声は彼を安心させてくれる。
「個性的だけど皆良い友達だね、むっちゃん」
「ふふ、そうよ♪ とっても良い友達ばかりよ」
「――あのね、むっちゃん」
「なあに、仁?」
「さっきはむっちゃんが勇気を出してくれたから、今度は僕が勇気を出して言うよ」
「ええ……」
「戻っておいでよ、むっちゃんの家に」
「でも、あたし――」
「中嶋さんには僕からちゃんと説明してお願いするよ。皆にも理解して貰える様に話をする積もりだよ?」
「有難う仁――あたし、戻っても良いの?」
「当たり前だよ! 誰に遠慮する必要も無いからね」
「……うん♪」
とても嬉しげなその一言に、彼の胸は暖かくなる。
「でも、やっぱり心配……」
「ひょっとしてそっちの事?」
「ええそうなの」
彼女の心配事は、あの日彼を敵意の籠った眼差しで睨みつけた子の日の事なのだろう。
「僕が話して見たいんだけど、時間を作れそうかなぁ?」
「ううん、あたしが自分で話すわ。多分初春ちゃんも協力してくれると思うから」
「そうだね、初春ちゃんが居てくれるんだよね――どうなったかとか、また電話くれる?」
「判ったわ、そろそろ消灯時間になるから今日はこの辺にさせてね?」
「うん、それじゃむっちゃんお休み、電話くれて本当に有難う」
「お休みなさい、仁」
電話が切れたあと、暫く彼は呆けていた。
(戻って来てくれるんだ、むっちゃんが……)
その実感が彼の頭と体に染み込む迄に時間を要したからなのだが、その直後突然意味不明な衝動が彼を襲い、思わず絶叫しそうになるのを辛うじて踏み止まる。
(やったっ! やったっ! やったぁーっ!!)
無言のまま床を転げ回るその姿はどう考えても異常者にしか見えず、むしろ雄叫びでも上げている方がまともに見えたかも知れない。
事情を知らない者が目撃したら思わず背筋が寒くなったかも知れず、場合によっては問答無用で通報されるところだ。
只この場面を目撃したのが葉月であったなら、間違いなく鬼の形相で彼を張り飛ばした事だろう(それどころか殺意を抱いたかも知れない)。
にも関わらず、当事者たる仁は相も変わらず何故こんなに嬉しいのかさっぱり理解していなかった。