ここ一番と言う時に正念場と言ったりするが、そもそもどう言う意味なのだろうか?
まぁ、それは覚えていれば後で調べれば良い事であって、現状は間違いなくその『正念場』なので呑気にそんな事を考えていて良い状況では無かった。
今は加賀さんが(例によって淡々と)むっちゃんは仲間達の旗艦であり、その彼女が不安を抱えていては全員の士気に影響するので、是非とも配慮をして欲しいと述べている最中である。
聞いている中嶋さんは特に感情の色を表わさず、どの様な言い分であろうと最後までちゃんと聞きましょうという態度を見せていた。
只正直に言ってしまうと、皆がどんな意見を表明するかについてそれ程関心がある訳では無い。
僕とむっちゃんの希望は既に電話で伝えてあり、それに対する西田司令と中嶋さんの見解こそが目下最大の関心事だからだ。
それに、この件に誰が賛成し誰が反対しているのか考える迄も無いとも言えるし、この場で表情を見ていれば一目瞭然だった。
加賀さんの横に座った赤城さんは先程から目が合う度に笑顔を見せてくれるが、当のむっちゃんは対照的に少し目を伏せて物静かにしている。
初春ちゃんも物静かだがどことなく表情に翳りがあり、如何にも心の中に引っ掛かる事がありそうだ。
そして恐らくその翳りの理由であろう子の日ちゃんは、泣き腫らしたのだろうか赤い目をして机を睨み付けており、時折顔を少し上げては僕を睨む。
少し離れて座った斑駒さんは職業的な平静さを見せているものの偶に素の表情になる時があり、そんな時は軽く笑みを漏らしている。
――それらは兎も角として、僕の隣にはもちろん葉月がいた。
まるで置物か何かの様に気配を消し去り、本当に生きているのかすら疑わしい位に微動だにせず、目を閉じて一言も口を聞かない葉月がだ。
彼女が静かであればある程、僕の緊張は天井知らずに上昇して行く。
次の瞬間には机を叩いて声を荒げるのではないか、或いは唐突に椅子を蹴って出て行ってしまうのではないか、はたまた氷の様な笑みを浮かべながら、胸を抉る辛辣な嫌味を撒き散らすのではないか――などと想像の翼が際限なく広がっていく。
(は~、何か情けないなぁ……)
僕が今想像している程度の事は、まず間違いなくむっちゃんだって思い描いているだろう。
でも彼女は静謐そのものの空気を纏い、内心の乱れを表に出さない。
(ビクビクしてる暇があったら肚を括れよ!)
自分を叱咤して改めて顔を上げると、副長が喋り始める。
「皆さんの意見は良く分かりました。当隊の見解をお伝えする前に再度確認しておきたいのですが、渡来さんよろしいですか?」
「あ、はい、どう言った事でしょう?」
淀みなく言葉が出てくれたので少し落ち着く。
「ご自宅に陸奥さんを引き取られる限り、経済的な問題を始めとして様々な障害が起きる事は無論予想しておられるとは思いますが、それが場合によっては年単位の長期に渡る可能性も考慮していますか?」
「つまり、途中でやっぱり止めますと言う様な勝手が通じる話では無い――と言う事ですね?」
「その通りです、如何ですか?」
それに対する返答は、今更考える迄も無い。
「はい、その積もりです」
例え一生でもと言いそうになって辛うじて踏み止まる。
この大事な局面で葉月を真っ向から敵に回す様な事を口走れば、それこそ彼女がブチ切れてしまい、話し合うどころでは無くなってしまうだろう。
「結構です。全く同じ事は陸奥さんにも言えますが、確認させて頂いても良いですか?」
すっと目を上げた彼女の瞳は、深い海の色を湛えている。
「はい、今でも十分ご迷惑をお掛けしています。これ以上身勝手が許されるとは思っていません」
彼女の静かな言葉が響き渡り、赤城さんが満足気にウンウンと頷く。
微笑を浮かべた中嶋さんが話し始め様としたその時、突然葉月に生命が宿り眼が見開かれる。
僕は咄嗟に声を上げ様とするが、曰く言い難い迫力に気圧されて舌が口の奥に引っ込んでしまう。
しかもそれを感じたのは僕だけでは無かった様だ。
喋り掛けていた中嶋さんは口を噤み、これから何が起こるのかを見極め様と言う顔になっていたし、赤城さんは口を真一文字に結んで表情を強張らせ、感情を読み取り難い加賀さんも微かに身構えるような気配を立ち昇らせていた。
全員が見守る中、葉月は真っ直ぐにむっちゃんの瞳を見詰めるが、彼女も負けない位強い眼で葉月の瞳を見返す。
ここは漫画やアニメよろしく火花が散る処なのかも知れないが、現実にはそんな事は起きなかった――と言うよりも、シチュエーションがそもそも違っている様だ。
どうやら二人は火花を散らすのでは無く、何かを語り合っている様にも見える。
シンとしていながらも極限近く張り詰めたその時間はひどく長く感じられ、ひょっとしてこのまま年老いてしまうのではないかと心配になるが、間もなくそれは唐突に終わりを告げた。
二人が共に口許に笑みを浮かべると再び正常に時が流れ始め、葉月は改めて静かに目を閉じ、むっちゃんは何事も無かったかの様に中嶋さんの方を見る。
見られた副長はちらと僕の顔を見て苦笑し、僕が苦笑で応じると感情を脇に置いた冷静な顔付きに戻って再度口を開く。
「良く分かりました。それでは本件についての当隊の見解をお伝えしましょう。まず、陸奥さんの希望を拒否すべき法的な根拠は恐らく存在しないでしょう。また、陸奥さんの保護を渡来さんに委ねる事についても全く同様と思われます。従って当隊としては、既に明白である国防上の要件、ひいては日本国の国益を大きく毀損しない様な対策を講じる事を前提としてですが、陸奥さんの申し出を承諾するものとします」
途端に赤城さんがパチパチと拍手をして、満面の笑みを浮かべる。
ここで一同ちょっぴり苦笑しながら一旦休憩、となれば言う事は無かったのだがそう易々とは行かなかった。
無論赤城さんには何の悪気も無いのだが、その拍手に堪えられ無かったのか、今迄机を睨み付けていた子の日ちゃんが堰を切った様に啜り泣き始める。
隣に座った初春ちゃんが丸まった彼女の背中を労わる様に撫でるが、それ位では治まる筈もなく、机の上にポタポタと涙が零れては小さな水溜りを作って行く。
むっちゃんは、机の下で彼女に手を伸ばし(おそらく手を握っているのだろう)、
「これからどんな風にして毎日会いに来るか相談するから、一緒にお話してくれる?」
と顔を近付けて優しく話し掛けるが、彼女の感情に分け入る事迄は出来ない。
「子の日は――いや……子の日は――やっぱり――陸奥さんと――一緒が良い……」
しゃくり上げながら振り絞る様に言う彼女を見ていると、僕は胸が痛くなって来る。
「それはならぬ子の日よ。其方が真に陸奥殿の事を慮るならば、一時の辛さに目を眩まされてはならぬ」
「でも姉様――子の日には――出来ないの……どうしても――我慢出来ないの――」
「いや出来る、其方は凍てつく氷海の底の孤独も耐え忍んで来たではないか、妾は知っておるぞ、其方には出来る、いや耐えねばならぬ、どうか聞き分けてはくれぬか」
初春ちゃんの瞳にも、涙が溜まっていた。
「…………」
子の日ちゃんは唇を戦慄かせながらむっちゃんの顔を見上げるが、彼女もまた涙を湛えた瞳で見返し小さく頷く。
そしてぎこちなく首を巡らせた子の日ちゃんは、初春ちゃんの瞳を見詰めると、見ている僕らが苦しくなる程の努力をしてゆっくりと頷く。
「おおおぉ――子の日や、子の日や――其方はほんに良い子じゃ……」
初春ちゃんが大粒の涙を溢しながら、子の日ちゃんを抱き締める。
「ううっ、うぇっ、えっうっうっぁっあっあっ――」
くぐもった声で押し殺す様に彼女が泣き出し、初春ちゃんが抱き締める腕に更に力を籠める。
「ほんに良い子じゃ、偉い子じゃ。まこと妾には過ぎた妹じゃ――」
「ぅおおおおぉんんっ、うぉおおおおおぉん」
泣き声は何時しか吠える様な声になっており、隣で目を閉じていた筈の葉月も何時の間にか少し身を乗り出して、この痛ましい光景をどうしたものかと眉を顰めている。
「二人ともごめんね、あたしの所為でこんな辛い思いをさせてしまうなんて――」
むっちゃんが涙を流しながら二人に腕を回してそっと詫びると、赤城さんが大きな声で割って入る。
「陸奥さんの所為などではありません! 全ては私が軽忽だったために起こった事です! 私はお二人になんと言って詫びれば良いのか――」
「もうっ、待ちなさいよっ! ――」
ついに我慢し切れなくなった葉月が口を開き掛けるが、僕をちらと見るなりそれを中断する。
「ちょっと仁、どうしたのよ⁉ しっかりしなさいよ――」
だが彼女の声は急速に遠くなって行き、既に僕の視界には咽び泣く子の日ちゃんしか映っていない。
いや、あれは泣いているのではなく、慟哭しているのだ。
愛する者を正に喪おうとしているのに、自分ではそれをどうする事も出来ない――その悲しみと苦しみに耐え兼ねているのだ。
そう、僕はそれを知っていた。
二度と思い出しくないその痛みを、僕は確かに知っていた……。