「――――さいよっ! ねえ仁っ、聞こえてる⁉ どうしたのよ?」
正直に言って葉月の声は僕にとって余り爽やかとは言えないのだが、目醒めや気付けに優れた効能がある事は認めなければならないだろう。
「ったく~お花畑にでも行ってたの⁉ それに、なに無断で泣いてる訳?」
と言いながらハンカチで僕の顔を(この衆人環視の真っ只中で)拭おうとする。
これでは赤城さんが勘違いするのも当たり前だ。
「大丈夫だよ――」
出来るだけやんわりと拒否して自らの手で何時の間にか零れ落ちていた涙を拭い、改めて目を上げるとむっちゃんの涙に濡れた瞳が見詰めている事に気付く。
(むっちゃん――こんな僕にも出来る事があったよ)
そうだ、今出来る事など迷う程多くはない。
もっと言うなら、今口にすべき事はたった一つしか思い付かない。
子の日ちゃんの実際の年齢を幾つと言うべきなのかも分からないし、その上彼女に憎まれているのかも知れないが、目の前で幼い子がこんな悲しみと痛みとに苛まれているのはどうにも耐え難い事だ。
むっちゃんに小さく頷いて見せると改めて目頭を拭い、中嶋副長に向き直る。
「渡来さん、大丈夫ですか?」
「ご心配をお掛けして済みません、副長にお願いがあるんですがお聞き頂けませんか?」
「何でしょう?」
僕はほんの数瞬だけ時間をかけて、自身の胸の中に浮かび上がって来た言葉を噛み締めた。
それから軽く唾を飲み込むと、意を決して口火を切る。
「子の日ちゃんにも一緒に来て貰う事は出来ないでしょうか?」
意識した積もりは無いのだが少し大きな声になってしまった様で、皆の息遣いが止まり、彼女の泣き声すら少し小さくなった様に感じる。
「無茶なお願いなのは重々承知している積もりですが、これ以外に解決する方法を思い付かないんです」
僕が重ねて言うと、中嶋さんは軽く溜め息を吐いて見せた後で微笑を浮かべ、
「仕方ありませんね、では改めて司令にご判断を仰ぐことにしましょう。ですが渡来さん、くれぐれも断っておきますけど一時の気紛れは許されませんよ?」
と注意を促しながらも肯ってくれる。
「有難うございます! その覚悟はしています」
何だろう、とても胸の中がすっきりとしていて良い気分だった。
「仁――」
むっちゃんの声がしたので振り返ると、彼女のキラキラ光る瞳が真っ直ぐに僕を見詰めていた。
そして何時の間にか泣き止んでいた子の日ちゃんも、まだ涙でクシャクシャの顔のまま、信じられないものを見る様な真ん丸な目でやはり僕を見ていた。
どうしたものかと一瞬迷い掛けたものの、自分の考える事など休むに似たりだと思い、口に昇って来た言葉そのままに声を掛ける。
「子の日ちゃんの気持ちも聞かずに勝手な事言ってごめんね。陸奥さんと一緒に僕の家に引っ越して来れそうかな?」
相変わらず彼女は瞬きを忘れてしまったかの様に真ん丸に目を見開いていたが、数秒後やっと言葉が染みたのかコクンと頷いた。
それを見た初春ちゃんが心底嬉し気な笑みを浮かべると、その瞳から本当に光り輝く様な涙が一粒零れ落ちる。
それはまるで神話の中の一コマの様に神々しさに満ちた光景で、僕は得も言われぬ喜悦に震え出しそうになる。
「渡来殿、感謝に堪えませぬ――言葉がもどかしゅうてなりませぬ、真の侠気と言うは、これをおいて他妾はよう存じませぬ」
そう雅やかに礼を言う彼女の瞳からまた一つダイヤモンドの様な涙が零れ、それは正に僕の決断が正しかった事を証明してくれるこの上もない証しだった。
「有難うございます渡来さん! 私の至らぬ――」
赤城さんが一際大きな声で話し始め様とするが、絶妙のタイミングで隣の加賀さんがその二の腕を軽く掴む。
「赤城さん? 感動しているのは判りますけど、何か言う前に一呼吸おいてからにして下さいね」
思い切り出鼻を挫く様な冷や水を掛けられた彼女は、
「私にもその程度の弁えはあります! ――ええと何でしたっけ――あっとぉ渡来さん、それに副長殿、何卒宜しくお願いを致します……」
と、何を伝えたかったのかはっきりしない龍頭蛇尾なコメントをするのが精一杯だった。
如何にもがっかりした様子の赤城さんは流石にちょっと気の毒な気がした。
そんな様子に苦笑しながらも、
「ただ皆さん、現時点ではまだ決まった訳ではありませんので、渡来さんの申し入れに応じられない場合もあると言う事を忘れないで下さい。よろしいですね?」
と中嶋さんが念を押したので、僕はもちろんその場の全員が改めて深く頷く。
つと席を立った斑駒さんが、何処からかお絞りを持って来てくれた様だ。
むっちゃんはそれで子の日ちゃんの顔を拭いてあげており、子の日ちゃんもいかにも安堵した様な笑顔だ。
そしてさっぱりした彼女とむっちゃんが改めて笑い合うのを見て、僕ははっきりと悟った。
子の日ちゃんにとって、むっちゃんは母親に等しい存在なのだ。
もちろん彼女達には血の繋がった肉親や親などという概念は存在しない訳だが、明らかに子の日ちゃんはむっちゃんに母親と同じものを感じており、それを強く追慕しているのに違いない。
しかも彼女は見掛けこそ小学生位なのだが、心を持ってからの年月はたったの数週間でしかない赤ん坊の様な存在だ。
そんな彼女が母親同然の存在から引き離されるのがどういう事なのか、僕は全く想像出来ていなかったのだと改めて反省する。
(皆、元は軍艦かも知れないけど、やっぱり心は僕らと変わりないんだよな)
彼女達が僕ら人間と同じ精神構造の持ち主であるなら、自分の肉親・自分の家族――と言った繋がりを求めるのはごく自然な成り行きだろう。
(でも、そう言う事だとしたら――)
大事なことを一つ見逃しているのに気付き掛けたその時、やはりと思わせるタイミングで葉月が声を上げる。
「ちょっと仁、なにドヤ顔してる訳⁉ 本当に一度に一つの事しか見えないのねぇ!」
この言葉と共に勢い良く回転し始めた僕の脳内には直ぐその答えが浮上して来るものの、いささかハードルが高過ぎると感じて口にするのを躊躇ってしまう。
が、葉月は遠慮なくそれを口に出した。
「何だか凄い解決策出した見たいになってるけど、こんなの結局初春ちゃん一人に我慢させてるだけじゃない! こんなに仲の良い姉妹を引き離しといて、解決も何もあったもんじゃ無いわ⁉」
確かにたった今それに気付いた処だけど、そんなの副長と西田司令に無理言い過ぎだよ、そこ迄我儘と言うか無茶振りするか普通⁉
――と頭の中で捲し立てて(無論そんな事を葉月に向かって直にする様な度胸はない)見るが、それ以前の問題として初春ちゃんが黙っていない。
「塔原殿お待ちあれ、妾の胸中に迄かかるご配慮は無用に願いまする。妾の望みは明々白々、我が妹の願いを叶えて頂く事に御座りますれば、どうかご放念下されませ」
「一緒にいたいと欠片も思わないんならそれで良いけど、わたしには到底そうは見えなかったの。何を心配してるのか位分かってる積もりよ? 余り無理難題を言い過ぎたら肝心の子の日ちゃん迄一緒に行けなくなっちゃうかも知れないって思ってるんじゃないの?」
「そこ迄お察しであれば尚のこと、妾が事の軽重を慮る所以もお判りかと。子の日と二度と会えぬ訳ではござりませぬ故、ご案じめさるな」
二人の遣り取りは次第に押し問答の様相を呈し始め、話が脱線して行きそうな予感がして来る。
僕はどうやって会話に切り込もうかと一応考えているのだが、踏ん切りが付かずにもたもたしていたら、その手の呼吸だのタイミングだのに頓着しない加賀さんが例によって無愛想な声を上げる。
「子の日さん、貴方はどうなのかしら? 初春さんに一緒に来て欲しい?」
この問い掛けを聞いた彼女は、躊躇う事なく明快に応える。
「子の日は姉様にも一緒に来て欲しい、許して貰えたらだけど――」
彼女はそう言って副長の顔を見ると、その後少しおずおずと言った態で僕の顔を見てくれる。
毎度敵意の籠った眼差しでしか見られた事が無かったので今迄全く意識していなかったのだが、さすが超絶美少女初春ちゃんの妹だけあって(まぁ血は繋がっていないかも知れないが)彼女がやたらに可愛い事に気が付く。
我ながら単純な事この上ないが、男と言う生き物の業の深さ(馬鹿さ加減ともいう)故に、可愛い女の子の為ならばとつい後先も考えずに言葉が口を衝いて出る。
「大丈夫だよ、もしお姉さんも一緒に来れる事になったとしても、ちゃんと責任もって面倒見るからね。約束するよ」
パッと表情を輝かせる彼女を見るだけですっかり嬉しくなってしまう単純極まりない僕は、早速副長に向き直り改めてお願いし直そうとするが、不意にむっちゃんにじろりと睨まれたのでギクッとしてしまう。
(えっ、いやその――これはダメなの?)
と思った瞬間、葉月が爪先に力を込めて踝の骨をガンと蹴飛ばす。
――つまり余計な口を挟まず黙ってろと言う事ね、そうですか分かりましたよ……。
葉月が僕の心を読めるのは分かっていた積もりだが、むっちゃん迄何時の間にか同じ事が出来る様になってるなんて!
いや、確かに調子に乗り掛けてたのは認めるけど、まるで二人が示し合わせている様に見えるのは気の所為なんだろうか?
すっかり凹んでしまった僕を尻目に、赤城さんが話し始める。
「副長殿、我等は決して無理難題をお願いし様とは思っておりません。しかしながら事情の許す限りご検討を頂きたいのです。初春さん、貴方がどうしても拒まれると言うならいざ知らず、司令に希望をお伝え頂くだけでもすべきでは無いでしょうか?」
泰然として如何にもリーダーらしい威のある彼女の言葉に、初春ちゃんも困った様な顔をしながら応じる。
「赤城殿、もし何方にも累を及ぼすこと無かりせば、妾も子の日と離れて暮らしたいなどとは無論のこと思いませぬ。さりながら、隊にも渡来殿にもご負担をお掛けするは自明の事なれば、如何にも申し訳なき仕儀にて――」
その古風な言葉遣いは兎も角、こんなにゆかしい心遣いなり物言いなりを日常生活で耳にする事などまずあり得ないだろう。
大和撫子と言うのはこんな女性のことなのだろうか?
思わず僕は副長の顔を見るが、彼は先程よりも更に冷静さを心掛けた口調で皆に語り掛ける。
「赤城さんの言われる通り、希望であれ主張であれ司令には正しくお伝えすべきですしそうする積もりです。司令がどの様なご判断をされるか皆さんにはお待ち頂く事、そして結果が如何なるものであれ決定には従って頂かねばなりません。私が改めて申し上げる事はそれだけです」
(何だか凄いな……)
感情を排したその言葉は副長の冷淡さ故ではなく、行き掛り上こうなってしまった初春ちゃんの気持ちに配慮した結果なのだろう。
それに感心してしまった僕は、先ほど二人に警告されたのも忘れて何か出来る範囲で上手くフォローしようとつい声を掛けてしまう。
「司令からお許しを頂けたら子の日ちゃんと一緒に引っ越して来て貰えますか? 僕のお願いも聞いて貰いたいですし」
やや心許ないコミュニケーション能力を総動員したその発言を、彼女はちゃんと汲んでくれた。
「まことその通りでしたのう渡来殿、お約束を果たす為にもお世話にならねばなりますまいのう」
そう言って彼女は子の日ちゃんの顔を見て微笑み、子の日ちゃんも満面の笑みで応える。
(良かった♪)
その心和む光景を目にしてすっかりホッとしてしまった僕は、その所為もあってか少々催してきたので、
「済みません、ちょっとトイレ行ってきます」
とサラッと立ち上がろうとしたのだが、前触れ無くその手首を葉月がギュッと掴む。
「その前に説明して行きなさいよ、約束って何の事かしら?」
「何だよ、別に勘繰られる様な事じゃ無いよ」
「あたしも聞きたいわ、仁?」
(いや、むっちゃん迄そのぉ――えぇっ⁉)
油断していた上に必要以上に焦った僕は頭の中が真っ白になってしまい、一番不味いタイミングで絶句してしまう。
(な、何とかしなきゃ!)
行き詰まった末に助けを求めて初春ちゃんの顔を見たものの、彼女の驚くべきリアクションによって奈落に突き落とされる。
「ほほ渡来殿、
そう言った彼女は扇を広げて目から下を隠すと意味有り気な眼差しで僕を見るが、目元が桜色に染まっているのは一体どうやっているのだろうか?
「仁!!」
むっちゃんと葉月が見事にハモりながら椅子を弾き飛ばして立ち上がる。
その恐るべき情景を目の当たりにした僕の脳内で、ピーンという甲高い音と共に何かが直結した。
部屋の出口に最も近い位置に座っていた僕はサッとドアに手を伸ばし、構わず引き開けると全速力で部屋を飛び出す。
「ちょっと、待ちなさいよ⁉」
「仁、仁⁉」
「ほほほほ♪」
「艦内では走らないで下さ~い!」
「まぁ、何はともあれ――」
入り乱れて響いて来る皆の声を背中で聞きながら逃げる僕の足どりは、その緊迫した状況にも関わらず、心躍るかの様に軽やかだった。