〔第七章・第一節〕
坂道を登る陸奥の眼に日に照り映える白い雲が眩しい。
手を繋いだ子の日は教えて貰ったばかりのスキップをしながら、嬉しくて仕方がないと言った態で飛び跳ねている。
とは言え、気持ちの上では陸奥も一緒に飛び跳ねたい位だった。
(本当に、戻って来れるなんて――)
僅か三週間しか経っていないのにとても長い間離れていた様に懐かしく感じられ、自分には存在しない筈の故郷を思わせる。
(皆こう言う気分だったのね)
母港に帰投する時、士官も兵も関係なく皆一様に底抜けに明るい笑顔を浮かべていたのが何故だったのか、理解出来た気がする。
「ねぇ陸奥さん、お家って言うんでしょ? お家に行くのね?」
子の日が下から見上げながら聞く。
「そうね、でもお家に行くのじゃないわ、お家には帰るのよ♪」
「帰るの?」
「そうだよ、今日からは子の日ちゃんのお家だよ♪」
後ろから仁が声を掛ける。
「ほんと⁉ 本当に子の日のお家⁉」
「うん、子の日ちゃんと初春ちゃんと陸奥さんと僕のお家だよ」
「皆のお家ね♪」
「うんっ!」
彼女のあどけない笑顔は喜色に満ち溢れていた。
「ほほ、渡来殿はほんにお優しい方よの。子の日よ、ゆめゆめ勘違いするでないぞ? 渡来殿がこれ程仁慈に篤い方にあらねばこの様な厚遇などあり得ぬ事ぞ」
初春が目を細めながら諭すと、子の日は、
「うん、判ってるよ!」
と言いながらスッと陸奥の手を離し、後ろにいた仁にギュッと抱き付くと彼の顔を見上げて愛くるしい礼を言う。
「ほんとに、本当に有難ね仁!」
「こりゃ、そなたの恩人ぞ⁉ 御名を呼び捨てるとは何事か!」
そうだった、いつの間にか子の日は彼の名を呼び捨てにしている。
「でも姉様、仁がそうして良いって言ったの」
(もう、仁ったら!)
思わず締まりの無い顔をしている仁を睨むと、彼は慌てて顔を引き締め、初春にも呼び捨てを勧める。
「あ、あの、初春ちゃんも渡来殿って言うのは勘弁してくれないかな? これからは仁で良いよ?」
陸奥としては自分(と葉月)だけの特別な呼び方だったのに――と言う思いがなくは無いものの、さすがに気に入らないからと言って止めさせる訳にもいかなかった。
(これが仁なんだから仕方無いわよね)
「渡来殿の仰せ故承らぬ訳にもいかぬでしょうが、御名を呼び捨てるは如何にも無礼に思えてなりませんのう」
「え、じゃあ――どの位だったら妥協出来そう?」
彼女は少し思案顔になり、
「仁殿――ではご容赦頂けませぬかのう、陸奥殿?」
と、何故か彼では無く陸奥に了解を求めて来る。
「何であたしに断るの?」
訝しく思って問い返すと、彼女は扇で口許を隠しながら、
「妾が余り渡来殿に親し気にしては、陸奥殿より如何なるお叱りを受けるやも知れませぬ故♪」
と悪戯っぽい視線を投げ掛ける。
「初春ちゃんたら揶揄わないで頂戴⁉ もう、やだわ――」
思わず顔が赤くなるのを感じてチラリと仁の顔を盗み見るが、彼は少し苦笑しながら
「じゃあ、今日からはそれでよろしく!」
と、陸奥の事には触れずに会話を終わらせてくれる。
その気遣いにホッとする間にも懐かしい渡来家の前に辿り着いたので、感慨深く見上げる。
「さあ着いたよ、今日からここが帰って来るお家だからね」
彼が子の日と初春の顔を見ながらそう言うと、続いて陸奥を見て微笑む。
口に出すのはちょっと恥ずかしかったので、眼で、
(只今、仁)
と告げる。
すると彼もまた、
(お帰り、むっちゃん)
と瞳で語り掛けてくれる。
「どっから入るの? 早く入って見たいよ!」
子の日が催促するので彼は門扉を開けながら
「あそこの扉だよ、今開けるからね」
と言って先に立ち、鍵を取り出すと扉を開ける。
「なに? いい匂い!」
玄関に入るなり子の日が声を上げるが、それは陸奥にとっても好ましい香りであると共に、懐かしさと緊張感の入り混じった形容し難い感傷をも呼び起こす。
「あら、皆お帰りなさい、随分ゆっくりだったのね仁」
エプロン姿の葉月が奥から現れて出迎えてくれる。
「只今葉月、結局戻って来ちゃったわ♪」
こういう事態を予想していた陸奥が落ち着いて声を掛けると、彼女は如何にもと言った渋面を作って見せる。
「ったく~出戻るにしても早過ぎるのよね! お餞別、返して貰おうかしら⁉」
そう言い放っておいてニタッと笑うが、今の陸奥はそれに余裕を持って応じることが出来た。
「あらあら、どうすれば良いかしら? 皆と一緒におやつするのに全部使っちゃったのよね、仁のお餞別はまだ残ってるんだけど」
ニヤリと笑みを返しながらそう応えると、それを聞いた彼女もクックックと含み笑いを零す。
傍らでどうなる事かと緊張した面持ちの仁だったが、そんな彼を一瞥した葉月はサッと明るい表情に切り替え、初春と子の日に向かって声を掛ける。
「じゃあ残りは三人で仲良く使うのね♪ さぁさっさと上がりなさいよ、私のお古だけど二人の服持って来たのよ!」
「ほんとに⁉」
子の日が瞳を輝かせると、彼女は何やら得意気な顔付き(こう言うのがドヤ顔と言うらしいと最近陸奥は知った)で、
「そうよ、それに今日は晩御飯も特別よ!」
と胸を張って見せる。
「とっても美味しいわよ、あたしも大好きなの」
と言いながら陸奥は子の日を上がり框に座らせ、靴を脱がせる。
「塔原殿、重ね重ねお心遣い痛み入りまする。我ら家庭の暮らしというものに不慣れに御座ります故、宜しくご指導下されよ」
初春が深々とお辞儀をして礼を述べると意外にも彼女は、
「ま、細かい事は追々仁に聞いて頂戴、私もご飯の支度位はしに来るけどね」
とだけ言い残してさっさと引っ込んでしまう。
「ねぇ仁、葉月はどうしたの?」
陸奥が不審に思って聞くと彼は
「うん――取り敢えず泊りに来るのは止めるんだってさ。夕食は作りに来るって言ってるけどね――」
と少々歯切れの悪い返事をする。
恐らく彼女が何故この様な行動に出るのかその動機が理解出来ないのだろう。
だが、陸奥には何となく理解出来る様な気がする。
赤城・加賀と話してどうやら誤解があったらしい事が判って以来、気持ちの中にはずっと葉月に対する疑念が渦巻いており、あの時彼女の瞳の奥を覗き込む迄それは続いていた。
赤城は頻りに自身の軽率さにこそ全ての原因があったのだと繰返し、
「塔原さんは、故意に騙そうとした訳では無いと思います」
と擁護していた(仁と陸奥の心情を慮っての事だろう)が、幾ら予断を交える事無くその時の状況を聞き返して見ても、彼女は勘違いさせ様としていたとしか思えない。
只その真意は何だったのかと問われると、結局推測の域を出ないのは言うまでも無い。
ましてや赤城を通じてそれを陸奥の耳に入れる積もりだったと言うのは、幾ら賢い彼女とは言え手が込み過ぎているとも思える。
にも関わらず陸奥が疑念を拭え無かったのは、本当に悪意が無いのなら何故自分に打ち明けてくれなかったのかと言う点に尽きる。
そんな濁った感情を抱いて葉月の視線を受け止めた時に陸奥が感じたのは、葉月の真意に対する驚きでは無くそれを受け止める側である自分自身の変化だった。
あの時葉月の瞳の中に見出したのは、彼女らしい向こう気の強さだった。
(本気で戻って来る積もりなのね、私言い訳とかする気無いから!)
まるでそんな言葉が聞こえて来た様な気さえした。
ところが自分でも驚いた事に、その強い意志の背後に彼女が抱いている負い目の様な弱々しい感情が垣間見えてしまった。
それを目の当たりにした時、陸奥は彼女の弱さに同情にも似た感情を抱いたのだ。
(言い訳して貰う必要なんか無いわ、あたしは自分が戻りたいと思うからそうするだけよ)
葉月に投げ返すことが出来たのは、そんなどこかしら淡々とした思いでしかない。
その無言の遣り取りは、自分が仁と葉月に守られるだけの存在だった時には到底成り立たないものだっただろう。
彼女の胸中も含めて事の真相が全て判ったとは思わないが、事情がどうあれ陸奥は自分の新しい人生(と言うのが相応しいのかどうかはさておき)が始まったその場所迄時計の針を戻すことを願った。
そしてそれだけは、例え彼女が不満を抱いたとしても譲歩したりする気は無いと、明確に意思表示をしたのだ。
彼女はそれを感じ取り、陸奥に対する見方を改めた――誤解を恐れずに言えば対等の存在であると認めた――が為に、これ迄の路線をも改めたのだろう。
ひょっとすると自分の勘違いに乗じ様とした事で後ろめたさのあった葉月が意識的に一歩引いたのかも知れず、それは、彼女の示した度量であるのかも知れない。
「どうしたの?」
子の日の問い掛けで物思いから引き戻された陸奥は、
「何でも無いわ、只あたし、塔原さんにお料理を教えて貰う約束してたから、その約束はどうなったのか聞かなきゃって思ってただけよ」
と、からりと言って仁の顔を見る。
少し戸惑った様な顔をした彼は急に破顔して、
「大丈夫だよ、葉月は約束を忘れた訳じゃないよ」
と明るい声を出すと、陸奥の顔を見て目を瞬かせる。
「あら? まさか仁ったら、ちょっと涙目になってない⁉」
「そ、そんな訳無いよ! 何か凄く嬉しいのは認めるけど――」
「ほほ、何やら楽し気にござりますな♪ これは毎日退屈しておる暇なぞ到底ありませぬのう」
「は、初春ちゃんも勘弁してよ……」
「もう姉様⁉ 仁を苛めちゃダメだよ!」
子の日が彼にキュッと抱き付くと、姉に向かって口を尖らせる。
(仁ったら、だらしない顔しないで!)
陸奥が睨むと、途端に表情を堅くした彼は
「と、とにかく荷物を置いて一息入れよう♪ 家の中も案内してあげるからね」
と幾分早口になりながら、子の日の手を引いて廊下を歩き始める。
(もうっ!)
と心の中ではむくれながらも、やっと家に帰って来たと言う安心感を陸奥は噛み締めていた。