目を開けてから暫く――実際にはほんの数秒の事だったが――仁は只ぼんやりと自分の顔を覗き込んでいたその女性の顔を見詰めていた。
その内ゆっくり頭が回転し始めると共に、彼のおかれた状況と少しずつ甦り始めた直前の記憶とがリンクし始め、目の前にいる不思議な――と同時に魅力的な――女性が何者であるかという疑問が急速に沸き上がって来る。
しかし、それを口にする前に女性が先に口を開く。
「大丈夫? 気分悪いの?」
如何にも心配そうに聞く女性の頭に角が生えているのに気がつき、思わず仁はギョッとしてしまう。
(まさか鬼⁉ って事はここは地獄⁉)
だが次の瞬間、自分の余りに低レベルな想像力につくづく嫌気がさしてしまう。
何の事は無い、その角は彼女のカチューシャについており、しかも角と言うには随分幾何学的な形だったからである。
「ねぇ聞こえてるんでしょ? お願いだから何か言って!」
更に心配そうに眉をひそめて軽く口を尖らせた彼女の可愛さに、一瞬心臓がキュッと半分位に縮まった仁はあたふたと返事をし様とする。
その途端、彼はその女性の手をしっかりと握り締めているのに気が付き、狼狽して手を放しながら、
「あっ、そっ、その、ごめんなさい……」
という何ともイケて無い第一声を発してしまう。
にも関わらず、それを聞いた彼女は一瞬目を丸くした後で、
「んふっ、ふっ、んふふふふふっ♪」
と、とても楽しげに笑い始める。
その無邪気な屈託の無さは、彼が思わず
(鬼じゃなくて天使だったんだ!)
と半ば真面目に納得してしまう程だった。
彼女はまるで純粋な磁力そのものの様で、仁はちっぽけなクリップか何かの様にいともあっさりと吸い寄せられてしまい、上半身を起こして座り込む。
喉の奥に軽い違和感を覚えるが、口元が少しぬるついていたのでどうやら海水を吐き戻した所為らしい。
「大丈夫見たいね? 良かった!」
すっと自然に笑いを納めた彼女が、笑みを浮かべながら仁の顔を見つめる。
「僕は確か、海に――」
「そうよ、船から落っこちたの。それとも、もしかして自分で飛び込んだの?」
「まさか! 幾ら何でもそんなバカな事はしませんよ……。それより、ひょっとして貴方が助けてくれたんですか?」
「ええ、本当にびっくりしたわよ!」
「他には誰か……?」
「誰も、あたしだけよ」
「え、本当に?」
「そうよ! ここ迄引き上げるの、重たくて本当に大変だったんだから♪」
恐らく彼女の言った通りだろう。
ぱっと見たところ女性はかなり大柄で、如何にも水泳か何かをやっていそうな(女性としては)がっしりした体格の様だが、それでも一人で仁を助けてここ迄引き上げるなど並み大抵の苦労では無かったはずだ。
「何て言うかその――本当に、有難うございます!」
思わず仁は姿勢を正して、地面に頭を付けてしまう。
「ちょっ、ちょっとやめてよ! そんなお礼言われる様な事じゃないわ!」
「そんな訳無いですよ! 貴方は命の恩人です! 今日からの僕の命は貴方から貰ったものだから、この事だけは絶対に一生忘れません!」
「もう、判ったわよ! 良く判ったから顔を上げてちょうだい⁉ 恩人だなんてくすぐったくて仕様が無いけど……」
「それでも僕は感謝せずにはいられません。もし出来るなら、何か具体的な行動で恩返しさせて欲しいと思ってます! 迷惑に思うかも知れないけどそうさせて下さい!」
「もう……本当にそう思うんだったら、良い加減に顔を上げて欲しいわ!」
「あ、す、すいません!」
仁が慌てて顔を上げると、彼女は口を尖らせて一瞬渋い顔をして見せた後で自分の額を指差し、
「白くなってるわよ!」
と言って悪戯っぽく笑ってみせる。
「あ……」
仁が額を払うとばらばらっと派手に砂が落ち、彼女が楽しそうにクスクス笑う。
(何か無邪気な
「それと――何だか気持ち悪いわ、その言葉遣い」
「えっ?」
「だからその『ください』とか『ございます』とかよ⁉」
「あ、あの――いや――それじゃあそのぉ……普通にタメ口とかで良いの?」
「ため口? それ何? よく判らないけど常体みたいなものだったら別に良いわ」
「じょ、常体って? ……う、うん……それじゃ改めてその……本当に有難う――そもそもどうやってここ迄連れて来てくれたの? まさか泳いで?」
「う~ん、ちょっと違うわ」
「え、じゃあボートか何か?」
とは言ったものの、この浜辺にはそんなものは見当たらない。
「ううん、そうじゃないわ」
「それじゃ、一体……?」
「あたしも良く判らないんだけど、海の上では軽々抱っこ出来てたのよ。それが岸に上がった途端急に重くなっちゃって、ここ迄引き摺って来るのがやっとだったの」
「え???」
彼女は一体何の事を言っているのだろう?
「ごめんね、それってどう言う事?」
「今言った通りの説明しか出来ないわ、あたしも初めての事だし……やって見せてあげる位は出来るけど?」
そう言うと彼女はさっと立ち上がったが、その拍子に剥き出しのおへそや太股が仁の目線の高さになり、思わず視線が泳いでしまう。
改めて良くみると、女性は随分刺激的な格好をしている。
上下セパレートの水着の様な服装は申し訳程度にしか肌を覆っておらず、ミニスカートの丈は下着が見えそうな程で、その上目立つ赤いハイソックスに件のあの角である。
(コスプレか何かかな?)
そんな事を考えながら波打ち際に歩いていく彼女の後ろ姿を見詰めていた仁は、いきなり度肝を抜かれる。
「あ……え……?」
波打ち際まで歩いていった彼女は、何とそのまま波打ち際を通り過ぎて立ったまま水面をアメンボか何かの様にすーっと移動したのだった。
そして数メートル滑る様に岸を離れた彼女はくるりと優雅にこちらを振り返ると、
「こんな風にね――」
と普通に話し始め様としたものの、彼がポカンとしたまま見詰めているのに気が付き、
「どうしたの?」
と聞きながら岸に戻って来る。
「今、君……その、えっと……?」
「なあに?」
全く信じられない位彼女は屈託が無い。
「いや……その、何でそんな事が出来るの?」
「そんな事って? ――あ、そうね! そう言えば普通の人間はこんな事出来なかったわね。でもごめんね? なぜ出来るのかはあたしにも答え様が無いの。船が海に浮かぶのは当たり前だから、ちっとも不思議に思ってなかったし……」
「船って……? 君は、一体……?」
「あたし? あたしは――」
その刹那、ひと時雲に隠れていた太陽が顔を出し、
まるで地を撫でるように明るい陽光が辺りを包む。
その眩い光に縁取られ、
あらゆる方向に撒き散らされる金色の光を纏った神々しい姿の彼女の唇がゆっくりと動くのを、
仁はまるで奇蹟を目の当たりにする羊飼いの様に見詰めていた。
「あたしの名前は――――陸奥よ」
それは正しく、女神の啓示そのものだった。