市街地の中心部にほど近い駅で僕らは電車を降り、通りを海に向かってそぞろ歩く。
初夏の日差しがきついのではないかと少しだけ心配していたが、そんな事も無くとても過ごし易い陽気だった。
「ねぇ、どこに向かってるの?」
そう笑顔で聞くむっちゃんに指差して見せる。
「うん、あのビルだよ」
「えっ、あれなの? 何だか凄い高さじゃない? ひょっとしてあそこに上がるの?」
「そうだよ、元々日本一高いビルだったんだけど、他にもっと高いビルが出来たから二番目になっちゃったんだけどね。あそこの上から周りを見渡して、むっちゃんと行く所を決めようかなと思ってるんだ」
「凄いわ! あたし、ドキドキして来ちゃった♪」
そう言って彼女は邪気の無い笑みを弾けさせる。
久し振りに見るその屈託のない笑顔に期待感もどんどん上昇していく。
そして件のビルの展望テラスに辿り着いた時、ずっと見たいと願っていた子供の様にはしゃぐむっちゃんに僕は巡り会えた。
「ねぇ見て見て! 街が箱庭見たいよ⁉」
「本当に模型見たいだね♪」
「あっ、あの山ひょっとして富士山?」
「そうだよ」
「仁のお家はどの辺なの?」
「そうだねぇ~」
……一体どの位その楽しい時間を過ごしただろう?
四方向のテラスをくるくる廻った末に、やっと普通のテンションに戻って来た僕らは少し落ち着いて眼下の街を眺める。
「あそこに煉瓦造りの建物と草地があるのはなあに?」
「あれは赤レンガ公園だよ、あそこ良いなぁ――あそこでお弁当を食べようか?」
「ええ、そうしましょ♪」
彼女は少し照れ臭そうに下を向いた後、また顔を挙げて別の方角を指差す。
「ねぇ、あそこにいる娘ね?」
「えっどの娘?」
「あっごめんね、あの船の事よ」
「あ~氷川丸かぁ」
「あら、あたし何だか聞き覚えのある名前だわ? それに見た事もある様な気がするの」
「あのね、あの船を真っ白に塗って赤十字書いて見たら?」
「判ったわ、病院船ね! 確かに見た事あるわ――でも凄いわ、あの頃からずっと海の上にいるなんて」
「うん、でももう自力では動けないんだよ、今は綺麗に修復されて記念としてあそこに係留されてるんだ」
「そうなのね……」
「後で行って見ようか?」
「そうね、近くで見てみたいわ」
彼女の瞳が一瞬遠い時の向こうを見詰める様な色合いを帯びたので僕は少し不安を覚えたが、幸いにもすぐにそれは消え、むっちゃんは再び笑顔に戻る。
「ねえ、あそこだけ高い建物が無くて赤や金色の屋根や飾りが見えてるのは何故?」
「あそこはね中華街だよ。中華料理や食材のお店や中国雑貨の店なんかが集まってるんだ」
「うふふ、派手な色遣いがなんか楽しそうね♪」
「あそこも行って見る?」
「ええ、連れてって!」
これだけ決まればもう十分だろう。
彼女は下りの高速エレベーターが少々気持ち悪かった様だが、それでも意気揚々と歩き始める。
「ねえ仁! あたし、この娘も見覚えあるわ!」
「これは元練習船日本丸だよ、確か戦前に造られたと思ったけどなぁ」
そう言いながら二人で船を回り込んで反対側に行って見ると、説明看板がある。
「昭和五年竣工なのね! やっぱりこの娘も戦争が始まる前の事知ってるのね」
「話して見たい?」
「そうだけど――でも、それが出来るって事はきっとこの娘にとって不幸な事だわ。だから思い出話は皆とする事にするわね」
そう言って笑う彼女は、手を伸ばすべくも無い時の彼方に浸り込んで僕を置いてきぼりにしない様に気遣ってくれている見たいだった。
一緒にいてホッと出来る――という表現はきっと彼女の為にあるのに違いない。
「じゃあ行こう、この橋を歩いて行くんだよ」
「うふっ、海に降りちゃダメ?」
「だ、ダメだよ! 大騒ぎになっちゃうよ?」
無邪気に笑うむっちゃんは眩しい位だった。
公園に行く道すがら手前にあるモールの中を通り抜けて行く。
もちろん通り抜けるだけと言う建て前だが、彼女が何か目を引かれる物でも見付けてくれないだろうかと本音の処では思っていた。
そして、嬉しい事にその期待はとあるセレクトショップの店頭で実現する。
女性用の飾りベルトが幾つもぶら下がっている中に、普通の鎖の様なデザインのチェーンベルトがくすんだ様な銀色の輝きを控え目に撒き散らしながら揺れている。
特に目立つ訳でも無いそれに彼女が引き付けられた理由はすぐに想像がついた。
チェーンには船の錨の形をした可愛いペンダントがぶら下がっていたからだ。
「ひょっとして自分の錨を思い出すの?」
顔を近付けて一心にそれを見詰めているむっちゃんにそう話し掛けると、微笑みながら応えてくれる。
「ううん、だって全然似て無いもの」
そう言いつつも改めて視線を戻した彼女は、
「でも可愛い♪」
と付け加える。
その彼女の表情を見た僕の胸中には迷いなど浮かび様も無かった。
「済みません!」
声をあげて女性の店員を呼ぶと、
「これ、ちょっと着けて見たいんですけど?」
と言いながらベルトとむっちゃんとを指し示す。
「えっ、いやだちょっと待って仁⁉」
「まぁまぁ、そう言わないで着けて見せてよ♪」
言う迄も無いが買い気を露にしているのに店員が遠慮する筈も無く、その女性はむっちゃんの後ろに回り込んでさっさとベルトを巻いてしまう。
今日の彼女は淡い藤色のスリーブレスの上に鉄紺色のストライプが入ったごく薄い白いブラウスを着ていたが、予想通りと言うか錨のアクセントが良く映える。
「うん――とっても良いよ、凄く似合ってる」
「ほ、本当に?」
「うん、シンプルだから他の服でも合わせ易そうだしね。じゃあこれ貰えますか?」
「えっ、ダメよ仁! そんなの悪いわ⁉」
「ゴメンね、今だけは僕の我儘に付き合ってくれない?」
「そんな我儘だなんて――もう、仁ったら……」
不承不承肯ってくれたむっちゃんだったが、そこはかとなく嬉しそうにしてくれているその様子は、何とも言い様が無い程に僕のハートを鷲掴みにしてくれる。
モールを出て、赤煉瓦の倉庫が見える遊歩道を歩きながら改めて詫びる。
「勝手な事してゴメンね、でもどうしても買ってあげたかったんだ、普段からお洒落もさせてあげられないから」
「知らない!」
そう拗ねた様に唇を尖らせた後で、彼女は小さな声を出す。
「有難う――仁♪」
(!)
体から一斉に何かが蒸発して行く様な感覚が全身を包み込み、それと入れ替わりに甘く香しい液体がその空隙を満たして行く。
経験したことのない幸福感で、僕はまるで酩酊しているかの様に目が回り掛ける。
(いやいや待て待て、しっかりしろよ⁉)
これから今日最大の――いや、僕の人生最大と言っても過言ではない――イベントであるむっちゃんの手作りお弁当タイムが待っていると言うのに、そこに辿り着く前にドロップアウトする訳には断じていかない。
必死の思いで正気を取り戻し、足を踏ん張って何とか耐え忍ぶ。
ほんのりと頬を染めた伏し目がちな彼女は、どうやら僕の魂が抜け出そうになったのには気付いていないらしい。
改めて深呼吸すると、昂る気持ちを何とか抑え込みながら精一杯平静を装った声を出す。
「そ、そろそろ、どっかのベンチに座って食べよっか?」
「ベンチ?」
「あっ、あんな長椅子の事だよ」
「そ、そうなのね」
等と会話を繋ぎながら良さそうな場所を探す。
「こっ、ここにしよっか⁉」
「う、うん、良いわね、そうしましょ♪」
お、落ち着け落ち着け!
むっちゃんのお弁当は逃げたりしないぞ⁉
腰を下した彼女が鞄の中から角ばった包みを取り出して、二人の間にそれを広げる。
飾り気の無いタッパーを開けるとふわりと香ばしい匂いが立ち昇り、一瞬僕はクラリとするが心の中で再度己を叱咤して気をしっかり保ち、彼女の努力の結晶と対面する。
(あっ……)
詰められていたのは隠元と人参の肉巻きと目に鮮やかな卵焼き、レタスの仕切りに載ったプチトマトだった。
「葉月見たいに色んなお料理作れないから恥ずかしいんだけど――食べて見て?」
彼女の声を幻聴の様に朧気に聞きながら、自分の中の何かに突き動かされる様に箸を取り肉巻きを口に運ぶ。
口の中に甘辛い味覚が染み込む様に広がると共に、脳裏には懐かしさと痛みとを伴う情景が湧きあがる。
――――幼い僕は幼稚園指定の小さな鞄を広げており、そこに白い手に抱えられた小さな包みがそっと入れられる。
僕はその中身が大好きな肉巻きと卵焼きである事を知っており、その白い手がとても暖かく柔らかな事も良く知っていた。
その手が鞄の蓋を閉めてくれ、それを肩に掛けてくれる。
嬉しくなった僕が上を見上げると、その白い手がそっと頬を包み込んでくれる。
優しく慈愛の籠った眼差しで僕を見詰めるその顔は、聖母の様な笑みを浮かべたむっちゃんだった――――
いや、違う!
むっちゃんである筈が無い……
(母さん! 母さん……)
「――――仁! 仁! どうしたの⁉ 泣かないで!」
彼女は僕の腕を掴んで揺さ振りながら、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「あ――ご、ごめん――僕はまた――」
「お料理――不味かったの?」
「ううん違うよ、その逆だよ」
「嘘――だったら何故泣くの?」
一瞬どう答えるべきなのか迷ったがお茶を濁す事など出来る筈も無く、ありのままを話すしか無かった。
「むっちゃんが肉巻きと卵焼きを作ってくれたのは何故?」
「葉月が、仁の好きなお料理だって言ってたからよ」
「有難う――僕がこれを好きなのはね、小さな頃に母さんが良くお弁当に持たせてくれたからなんだ」
「仁のお母さん――」
「うん、僕が幼稚園の時に死んじゃったんだ」
「ねぇ仁、ひょっとしてあたしにこの靴を買ってくれた時に、突然泣き出したのは――」
彼女は確かにあの日買った紺青のデッキシューズを履いている。
「むっちゃんが選んだその靴が、母さんの思い出のある靴と同じだったからだよ」
「そうだったのね――じゃあ今仁が泣いたのは同じお料理だったからなの?」
「それだけじゃないよ、むっちゃんの肉巻きは母さんのと同じ味だったからだよ。とても長い間思い出せなかったんだ――この味を」
「ごめんなさい、あたし仁に喜んで貰いたかったのに、そんな悲しい事を思い出させちゃうなんて――」
「もう一度言うけどその逆だよ。僕は凄く嬉しいんだよ?」
「本当に?」
「うん、葉月のお袋さんや葉月や、親父迄も肉巻きと卵焼きを作ってくれたよ。――でも、どれも母さんの味とは違ってたんだ。むっちゃんのを食べる迄それすら忘れてたんだから――本当に嬉しいよ」
そう言ってもう一つ肉巻を取って口に運ぶ。
(この味――やっぱり母さんの味だ)
「美味しいよむっちゃん、凄く美味しいよ」
「嬉しい――本当に良かった♪」
やっと彼女は微笑んでくれる。
「卵焼きも食べていい?」
「ええ!」
そしてそれもまた予想通り、胸の奥が疼くような懐かしい味だった。
「信じられないよ――何でむっちゃんのお料理はこんなに母さんのと同じ味がするんだろ。――本当に美味しいよ♪」
その言葉に心底嬉しそうな笑顔を浮かべる彼女を見ていると、さっき感じた心がとても温かい何かで満たされて行く様な得も言われぬ幸福感に包まれる。
「ご飯も食べる?」
と言いながらむっちゃんが開けてくれたもう一つの包みの中身は、何とお握りだった!
(むっ、むっちゃんが握ってくれたお握りだと⁉)
「あのね、初めて食べたあのお握りとっても美味しかったから自分でも握って見ようって思ったんだけど――炊き立てのご飯ってとっても熱いのね。火傷するかと思っちゃった♪」
その情景が頭に浮かんだ僕は次第に冷静さを失いつつある。
(むっちゃんがふーふーしながら握ってくれたお握りとか、どんだけご褒美なんだよ!)
思わず伸ばした手が震えてしまうが、それでも必死に自分を押さえ込んでまだほんのりと温かいお握りを手に取り、一瞬溜める余裕すら無く一気に口に運ぶ。
(な、何だこの味は――)
具が昆布である処迄ちゃんとあの日のまま再現されているのはさておき、只の塩味が付いた海苔巻きご飯の筈なのに、経験した事の無い様な味だった。
「お、美味しい……」
「本当? 本当に美味しい?」
半分だけ顔を上げて目だけで見上げる様にこちらを見詰めながらそう聞く彼女に、半ば上の空だった僕自身を差し置いてまたも僕の体が勝手に返事をしてしまう。
「こ、こんなに美味しいお握り食べた事無いよ、本当に最高だよ!」
途端に彼女は頬を薄紅色に染めて、
「そ、そんなに大袈裟な事言っちゃやだわ⁉ もうっ、仁のバカ……」
と言うなり恥ずかしげに俯いてしまう。
そんな悶絶しそうな位に可愛いむっちゃんを穴が開く程見詰めながら一心不乱にお握りを頬張る姿は、きっと見るに堪えないものであったに違いない。
(あぁ、自分では自分を見られないってこんなに良い事だったんだ)
そんなとことん下らない事を考えている僕は、紛れも無く幸せな奴だった。