最初の興奮のまま食べ続けていたら、きっと僕はお弁当を残らず平らげてしまっただろう。
正直に言って無限に食べられるのではないかと思う位それは美味しかったのだが、さすがに途中で自分に突っ込みを入れられる程には正気に戻る。
(おい! むっちゃんの分迄食べる積もりか⁉)
そんな訳で、正にギリではあったものの危うくあり得ない事を仕出かさずに済む。
「そ、そんなに美味しい?」
恥ずかしそうにそう言いながら彼女は改めてお弁当に箸を伸ばすが、それは半分をかなり割り込んだ状態になっており、やらかす一歩手前だったのは一目瞭然だ。
「う、うん、美味し過ぎて、むっちゃんの分迄全部食べちゃうところだったよ――それでもこんなに食べちゃって本当にごめんね」
「ううん、いいの♪ 仁の為に作ったんだから全部食べたって良いのよ?」
きっと僕は絶対他人には見せられない顔になっているに違いない。
全表情筋が緩み切っている上に、鼻の下が地面に擦りそうな位伸びまくっているなんて!
「じゃ、じゃあ、お弁当を食べちゃった分むっちゃんには中華街で何か美味しい物をご馳走し様かな♪」
「あら、そんなに美味しい物があるの?」
「うん、店先や露店で色んな物が売っててね、皆それを食べ歩きするんだよ」
「何それ! 楽しそうね♪」
「お弁当食べたら行って見ようね♪」
「ええ!」
とは言いつつも僕らはもう暫くの間彼女のお弁当を突きながら、港を行き交う船を眺めてはあれこれお喋りして過ごす。
むっちゃんは、一体我が家のどこにそんな物があったのかと思う様な小綺麗なお手拭き迄ちゃんと用意してくれていた。
僕が手を拭ってそれを返すと、恐らくは何時も子の日ちゃんの口を拭いてあげるのと同じ様な調子で僕の顔に手を伸ばしてテキパキと口の周りを拭ってくれる。
ところがその直後自分が何をしているのかハタと気付いたらしく、一気に真っ赤になる。
「ご、ごめんなさい仁! あたしつい何時もの調子で――」
そう言ってお手拭きを握り締めると俯き加減で恥ずかしそうに僕を見た彼女は、この世のものとは思えない程に可愛い。
「い、いや、謝って貰う様な事じゃないよ、逆にその――ちょっと嬉しかった位だし」
「やだわもうそんな事言って――バカね♪」
はにかんだむっちゃんは握り締めていたお手拭きに今更気が付いた様な顔をすると、空になったタッパーと一緒にそれを仕舞い掛けた。
が、その刹那無意識にやったのだろうが、さっと何気なく自分の口元を軽く拭う。
(あっ……)
どうやら深く考える事無く反射的にした様なので気にしなければ済む事なのだが、ご多分に漏れず小心者の僕は余計な心配をしてしまう。
(それ、僕の口拭いたやつなんだけど良かったのかな……)
こう言う余計な事を考えているのが勘の良い彼女に伝わらない訳も無く、僕の視線の先に気付くのと同時に、俄かにそのお手拭きで何をしたのかに初めて思い至ったらしい。
「えっ、あっ、嫌だっ、あ、あたしっ、ど、どうしようっ!」
と腰を浮かせて狼狽えるむっちゃんの腕を慌てて掴む。
「だ、大丈夫だから! 落ち着いてよむっちゃん!」
「じ、仁! あたしったら、な、何やってるのかしら――」
彼女は、相変わらず赤面したままオロオロしている。
(か、可愛い過ぎる……)
興奮して鼻血を出すと言うのはあく迄も漫画的な表現だと思っていたが、まさか自分が真剣にそれを心配しなければならない状態に追い込まれるとは想像しても見なかった。
むっちゃんの――と言うか多分艦娘達は皆そうなのかも知れないが――純粋さ加減に僕の心臓は撃ち抜かれっ放しだ。
「ほら、とにかく深呼吸して見てよ?」
「仁――あたしったら何てはした無い事――」
「そんな事無いよ、ハンカチ持ってるよね?」
「え、ええ」
「それで、口の周り拭いたら?」
「そ、そんな事出来ないわ⁉ だって、それじゃまるで仁が――」
「僕はそんな事思わないから大丈夫だよ! 何よりそうしないとむっちゃんが落ち着かないでしょ?」
「う、うん、ご、ごめんなさい仁」
「いいから、いいから」
そうこうしてやっと彼女は落ち着きを取り戻したので僕もほっとしてふと周囲を伺うと、何だかあちこちから視線を感じる気がする。
散策に来ているらしい老夫婦がニコニコしながらこちらを見ているのは、ひょっとすると『若いって良いわねぇ♪』的な事を言われてるのかも知れない。
「そろそろ行こっか……」
「そ、そうね、何か妙に居辛い気がするわね……」
妙な気恥ずかしさを覚えながら、僕らはそそくさとその場を引き払う。
別の場所に移動する前に、公園内を歩きながら海側から横濱の街を眺める。
「この辺からだと三つの塔が見えるんだよ」
「塔?」
「ほら、あれがクィーンであれがキングで、あそこに小さく見えてるのがジャックって言うんだよ」
「あら、あたしひょっとして見た事あるかしら?」
「見た事あってもおかしく無いと思うよ? 三つ共戦前からあった筈だし」
「見覚えはあるんだけど――何だか建物がたくさんあって、随分景色が違う感じだわ」
「そうだねぇ、戦前は三つの塔以外に目立つ大きな建物がほとんど無かったらしいからね」
「それだけ長い時間が経ったのね」
「まだまだ、取り戻す事が一杯ありそうだね」
「そうね、もっともっと色んな事を知りたいし、見てみたいわ」
「うん」
そんな会話をしながら遊歩道を歩くが、彼女と二人でいると何だか時間がとても速く過ぎて行く。
気が付くともう公園に着いており、件の氷川丸が近くに見える所迄来ていた。
「あれがそうね」
「うん、やっぱり覚えてる?」
「ええ――真っ白だったのを見たのは多分一回だけなんじゃないかしら? この姿でも見た事ある様な気がするわ」
「へぇ~」
「うふっ、でも全然自信無いわ♪」
「なぁんだ、ハハハ♪」
「うふふふ♪」
楽しそうに笑った彼女はすっと笑いを納めると
「船の格好も、昔と今ではすっかり変わっちゃったのね」
と遠い目をして呟く。
「後で乗りに行こうね」
そう声を掛けると彼女はこちらを振り返って、そっと柔らかい笑みを浮かべて頷いてくれる。
「じゃあ行こう、中華街はこっちだよ」
「ええ」
僕らは公園を横切って街中へと足を向ける。
「だんだん、それらしい感じがして来たわね」
「そうだね、ここからって言うはっきりした区切りがある訳じゃ無いからねぇ」
周囲の景色はどんどん派手なコントラストになり、急に人も増えてくる。
「す、凄い人出ね、皆ここに遊びに来るの?」
「人気の街だしねぇ、観光客もたくさんいると思うよ?」
そして中心街に差し掛かると、むっちゃんは思わず感嘆する。
「なあにここ? ここだけ違う国見たいだわ⁉ やたらキラキラしててこんなにたくさん人がいて――」
「何だか凄い活気だよね」
「陸の上って本当に凄いわ……まだまだこんな所があったなんて」
「さあ行って見よ? 面白そうな物も美味しそうな物も全部チェックして行こう♪」
「楽しみだわ♪ あっ仁、あれはなあに?」
「あぁあれはね――」
僕らは人混みの中を右へ左へと縫って歩き回る。
何と言っても楽しいのは、彼女がとても健啖な事だ。
「このお店の月餅は美味しいよ?」
「本当に⁉ 食べて見たいわ!」
「ねぇ仁、あれは何?」
「あれは芸豆巻かな?」
「このお団子、はふっ、おひしひけど、ほふっ、熱っつぅ~い♪」
「揚げたてだからね♪」
美味しそうに一杯食べる彼女は、一緒にいるだけで嬉しくなって来る。
(葉月だとこうは行かないよなぁ)
これ迄に無理矢理引っ張って来られては名の知れた店で食事をした事もあるが、その後で食べ歩くなど出来る状況では無かった。
例のパフェにしてもそうだが、おやつに何か食べようという時の彼女の昼食は軽くサラダを突く程度なのだ。
(あれっ……)
葉月のことを考えていると、突然胸の奥にチクッと針で突いた様な痛みを覚える。
何だろう、僕は彼女に後ろめたい思いでも抱いているのだろうか。
それとも単に、今頃葉月が皐月ちゃん達のお守りをしていると言うのに気楽に遊び歩いている事が済まないだけなのだろうか?
一瞬自分の中に正体不明な感情が眠っていることに訝しさを感じたが、むっちゃんの弾ける様な笑顔に接すると、そんな戸惑いは瞬時に吹き飛ばされてしまう。
「こんなに美味しい物がたくさんあるなんて――人間って本当に凄いのね」
「これでも中華料理の一部だけだからねぇ。普通の人間だって一生の内に味わえる物なんてたかが知れてるんじゃないかな」
「そうなの? それでもあたし――ちょっと食べ過ぎかしら?」
「この位で食べ過ぎとは言わないんじゃないかなぁ♪ もっともっと欲張っても良い位だよ?」
「ウフフ、でももう欲張れないわ、さすがにお腹一杯よ♪ ちょっと調子に乗り過ぎちゃった見たい――ごめんなさい仁」
「あのね、僕も謝っていい?」
「仁が何を謝るの?」
「むっちゃんがね、とっても美味しそうに食べるのが嬉しくて、ついあれもこれも食べさせちゃったからね」
「あら! じゃあこんなに次から次へと食べちゃったのは仁の所為なの⁉」
「い、いや、あながち僕の所為だけじゃないとは思うけどね……」
「非道いわ仁ったら! 一体どっちなのよもうっ♪」
そう言った彼女は太陽の様に眩しい笑顔で楽し気に笑い、それからふっと穏やかな表情になる。
「こんなに楽しいの初めてよ――有難う仁」
そう伏し目がちに礼を言ってくれるのに何か応えなければと思ったのだが、胸が一杯になってしまい言葉が出てこない。
(むっちゃん、君の為だったら僕は……)
彼女に対する想いが湧き上がって来るのを感じると同時に再び胸の奥にチクリと痛みが走り、葉月の顔がふっと過る。
(何だよ――どうしちゃったんだよ……)
甚だ身勝手なのだが、むっちゃんとのこの上もなく楽しい時間をこんな風に翳らせる彼女に対して少々腹立たしさすら覚えながら、僕はその顔をグッと心の片隅に深く押し込んでしまう。
「腹ごなしに少し散歩しなきゃいけないねぇ」
「港に戻るの?」
「そうだね、さっきの公園をもう少し歩いてから行こっか」
「――うん」
このにじみ出るような嬉しげな笑顔を、ひょっとして僕だけに見せてくれているのだろうか?
僕と一緒にいる事を純粋に嬉しいと感じてくれる誰かがいる喜び――しかもそれがむっちゃんなのだ!――に、何だか足元すら覚束なくなって来る。
「やだっ! ちょっと仁、大丈夫?」
「ご、ごめん、楽し過ぎてどうやって歩くのか忘れちゃってたよ♪」
「か、揶揄っちゃやだわ⁉ もう仁ったら」
軽く膨れて口を尖らせる彼女の横顔に占拠された僕の脳裏には、葉月の顔が浮かぶ余地などすっかり無くなっていた。