街並みを抜けて公園に出ると、喧騒から解放された感じがしてホッとする。
それはむっちゃんも同じ様で、テンションが上がり切った後で普通に戻った時の様に少々気怠げな表情をしていた。
「ここってちょっぴり静かで落ち着くわね」
「そうだね、結構人もいるんだけどねぇ」
「皆不思議ね――同じ人なのに、場所によって大きな声出したり静かに喋って見たり使い分けてるのね。そう言うのは誰かが教えてくれるものなの?」
「そうじゃないよ、普通は自分でそんな事を経験して身に付けて行くんだよ」
「ふふ、じゃああたし達は本当にまだ子供見たいなものね♪」
「経験の量から言えばそうなのかも知れないけど、でも、それだけじゃない様な気がするんだけどなぁ。何て言ったら良いのかな――只余計な手垢が付いて無いだけじゃなくて、本来人が持ってた筈の美点見たいなものを備えてると思うんだ。僕らの様な人間が擦れて忘れてしまったものをね」
「ねぇ、仁は人間が好きじゃないの?」
「そうだなぁ、余り好きじゃないかもな~」
「あら、それじゃあ毎日どうやって同じ人間に囲まれて暮らしてるの? ずっと我慢してるの?」
「まぁ、そこは何とかやってるけどねぇ。でもむっちゃん達と一緒にいるとやっぱりとてもホッとするんだよ」
「やあね仁ったら。そんな言い方したら、まるで人間よりもあたし達艦娘の方が好き見たいじゃない?」
「冗談じゃ無くてその通りだよ? 僕は人間よりもむっちゃんの方がずっと好きだよ」
何も考えずにすっと口にしてしまったが、そう言ってからふと見ると彼女は何となく頬を染めて軽く視線を逸らす。
そのリアクションを見ると自分の言った事が急に照れ臭く思えて来て、何か言わずにはいられなくなってくる。
「あっ、いやその――えっとぉ~皆良い娘ばっかりだからね、やっぱりその――」
「ううん、いいの。だって、やっぱりそう言って貰えるの凄く嬉しいもの。それにね、仁がその――あたし達の事好きって言ってくれるのとね、そ、その、同じ様にね、あ、あたしも、あの、仁のこと――」
そう言うと彼女は口籠ってしまうが、思いもよらない方向に会話が転がり始めたので、急に只ならぬドキドキ感が体の内側からはち切れそうな位に溢れて来る。
まるで全身がブーンと音を立てている様な錯覚に襲われるが、全く以て気に入らないことに、こんな時に限って僕の体は僕自身に忠実なのだ。
(だ、駄目だ――しっかりしろ、普通に会話しろよ⁉)
必死で自分を叱咤するが、結局何時もの如く僕は誰かの後塵を拝してしまう。
「――い、行きましょ仁? あたし、早く乗って見たいわ」
むっちゃんはまだ少し頬を紅潮させながらも、桟橋に係留された氷川丸を指差して上手く切っ掛けを作ってくれる。
「そ、そうだね! 行って見よっか」
(はぁ、相変わらず情けない奴だな……)
今し方迄半端じゃ無くときめいていた状態から一転して軽く凹んでしまった僕は、彼女のリードを有難く受け入れて桟橋に向かう。
そして二人分の乗船券を買うと、タラップを昇って船に乗り移る。
「商船のデッキってこんな感じなのねぇ」
彼女は興味深げに周囲を見回しているが、やはりその瞳はどこかしら僕の理解の及ばない彼方を見詰めている様な色を湛えている。
「あっ、やっぱり通路の広さが全然違うのねぇ」
「むっちゃんとってこと?」
「ええ、それに水密区画の数もずっと少ないわね、やっぱり」
「軍艦とは違う?」
「そうねぇ、だってこんな豪華な内装なんて艦長さんのお部屋でも無かったし、こんな広々とした食堂だって無かったもの」
「こんな立派な船内だったら、二週間や三週間は海の上にいても平気かな?」
「何言ってるんだって思われちゃうけど、あたし陸の上にいる方がホッとするのよ? 海の上に出ると緊張しちゃうの」
「本当に?」
「そうよ、何か皆そう見たいなの、可笑しいわよねぇそんなのって――」
そう言って彼女は一際遠くを見通す様な表情をする。
「ちっともおかしくないと思うよ」
「そうかしら?」
「そうだよ、だって見てごらんよ」
丁度そこにあった鏡の前で立ち止まり、手で指し示す。
「どう? 船の姿のむっちゃんが映ってる?」
「――ううん、違うわ」
「それが答えなんじゃないかなぁ。人間の姿をして人間の心を持ったら、人間と同じ様に感じるのが普通なんだと僕は思うけど」
そのまま、暫く無言で鏡を見詰め続けたむっちゃんは、やがて小さく呟く様に応じる。
「そうね、仁の言う通りかも知れないわね」
そのまま何かに思いを馳せている様な表情でゆっくりと歩き始め、屋外デッキに出る。
「むっちゃん――」
後から付いて行ってそう声をかけると、彼女はデッキの手摺に体を預けながら立ち止まり、大桟橋の方を眺めた。
僕も横に立って、今しもこの氷川丸とほぼ同じ位の大きさの客船がゆっくりと出港して行く様を目で追う。
「でも、船である事を消してしまえる訳じゃないわ……」
その言葉は緩やかな潮風に巻かれてふわりと浮き上がり、暫し揺蕩うとやがて海に溶け込んで行く。
「そうだよね――良いことも嫌なことも嬉しいことも悲しいことも、簡単に消えて無くなったりしないよね……。どんな事だろうが、全部自分に起きた事なんだから」
「仁にも消えて無くなって欲しい事があるの?」
「気持ちの上でだけはね、嫌な事や辛い事に目を背けたり無理矢理忘れたりするだけじゃダメなんだろうなって何時も思うんだよ。でも、結局僕はずっとそれをして来たのかなって、今になって思い知らされてるんだ……。むっちゃんが心の奥に抱いてる、その――記憶見たいなものをちらっと見た様な気がした時から――」
「ごめんなさい。そんな悲しい事を思い出させてたなんて、気付いて無かったわ――」
「むっちゃんが謝る様なことじゃないよ……」
こんな時、もう少し気の利いた台詞の一つも言えたら良かったのにと常々思うが、機転も利かなければ弁も立たない僕は例によって空しい努力を少々した挙句に黙り込んでしまう。
そのまま余裕で放送事故が起こる位の間僕らは無言だったものの、並の人間よりもずっと気配り上手な彼女が、片手を延ばしてプレゼントしたベルトの錨を弄びながら静かに話し始める。
「副長からお話があったわ」
「えっ、ひょっとしてサルベージの?」
「ええその話よ」
「むっちゃん、僕はその――」
「うふふ、有難う仁♪」
「えっ……?」
「副長が教えてくれたの、仁が何て言ってたかって」
「ええっ! そ、そんな、中嶋さん酷いや――」
「ごめんなさい♪ でも、あたしとっても嬉しかったわ」
「そんな風に言われると情け無くなるよ。僕が何か君の為にした訳でも何でも無いのに」
「ううんそんな事無いわ。あたし何となく分かったの、仁があたしに誓ってくれなかったら、きっとこんな話はどこからも出て来なかったんだって」
「まさかそんな事――」
「もちろん只の偶然なのかも知れないわ。――でも、あたしにはそう思えるの。仁が強くそう願ってくれたから――だからきっと、この世界のどこかに居てあたし達に人間の姿を与えた誰かが、それを聞き届けてくれたんじゃないかって」
「神様って事?」
「妙高ちゃんはそう言ってたわ、あたし達にこんな姿を与えたのも船の神様が為さった事なんじゃないかって」
「船の神様……」
「あたしには判らない――神様なのかもっと違う存在なのか。――でも何かがあって、あたし達の理解を超えた力見たいなものが働いてるから、あたしはこんな姿で今ここにいて仁と出会ってるんだって」
「それじゃあ、僕がむっちゃんに命を助けられたのも――」
「そうとしかあたしには思えないの。だって只の偶然だけで、こんなにもあたしの事を一生懸命に考えてくれる誰かに出会えるなんて……」
そう言った彼女が、僕の目を見詰めた――――もう少し正確に言うならば、見詰め様とした。
何故なら、彼女がこちらを振り向こうとしたその瞬間から周囲の世界は突然時間の経過が遅くなり、何もかもがスローモーションになってしまったから。
(違うんだ――僕は君に命を助けられて――だから僕も、君の為に何か出来る事を――僕はずっとその積もりで……)
彼女の余りに美しく透き通ったその瞳に視線を捉えられる迄の間、僕は必死で弁解し続けていた。
弁解?
一体誰に?
もちろんむっちゃんにでは無い。
――では、葉月に?
――確かにそれはあり得るかも知れないが、とても残念な事に僕はとっくにその答えが分かっていた。
(まただ、また僕は同じことを――)
だが、次の瞬間彼女の瞳はしっかりと僕の瞳を捉え、そこからまるで錨でも投げ込まれたかの様に、僕の心は彼女の中の海に深く繋ぎ止められてしまう。
そしてその瞬間から時の流れは変わり、僕とむっちゃんを取り巻くこの世界は突然目にも止まらぬ速さで動き始め、見る見る内に遠い時の彼方に運ばれて行く。
「仁……」
我を忘れる程に強く彼女に吸い寄せられていたが為に、その言葉がむっちゃんの唇から出たのか瞳からそのまま発せられたのかすら理解出来無くなっていた。
「むっちゃん……」
この気持ちを表現出来る様な器用な言葉を何一つ持たない僕だったが、今この瞬間に自分が実は何を願っているのかだけは漠然と分かった。
そう、このまま、このまま君と二人で、誰一人知る者も無い、遥かな時の果てに行けるなら――そこならば、僕は、君を……。
その想いが全身を満たした次の瞬間、とても賑やかな集団(皆結構なご年配だった)が突然デッキに現れ、その喧噪の力によって魔法を解かれた僕達は一瞬で現代に舞い戻ってしまう。
「あ……」
「あ……」
小さく嘆声を発した僕とむっちゃんは、互いに見詰め合っていた事に今更ながら気付いて赤面する。
彼女は真っ赤な顔をしたまま左向け左をして俯いてしまい、情けない事に僕もそれに倣う。
「ご、ごめんなさい仁――本当にあたしったら――」
「ぼ、僕の方こそ、その――ご、ごめんね――な、何て言うか……」
そう言った切り僕らは口籠ってしまうが、それでも僕の脳裏は彼女の瞳の奥の深い海の色に塗り潰されたままだった。
そのまま金縛りになった様に僕らは動けずにいたが、やがて(案の定と言うべきか)彼女が口を開いて時を元通りに進めてくれる。
「そ、そろそろ帰る?」
やっと金縛りが解けた僕もどうにかそれに応じる。
「そ、そうだね、晩御飯の買い物もしなきゃいけないし」
何とかそれだけを言ってぎこちなく動き始めようとした拍子に、僕の手とむっちゃんの手が偶然触れ合う。
(はっ!)
一体どうした事なのか、ちょっと手が当たっただけなのにそこから感電してしまったかの如く体が硬直している。
これでも一応キス位は経験もあると言うのに、むっちゃんはそれ程特別な存在なのだろうか?
しかし幾らそんな風に反問して見た処で、僕は自分自身の本心を手繰り寄せるどころか相変わらず従順とは程遠い己の体のコントロールすら取り戻せずにいた。
その間に彼女の手は、僕の手の横で逡巡するかの様に行きつ戻りつを繰り返した挙句、すっと僕の手を握る――――いや、握る直前でぴたりと止まった!
(仁……)
彼女の心の声が一瞬はっきりと頭の中に響き、僕はその意図を悟る。
むっちゃんは差し出したその手を握って欲しいと言っていた。
自分から一方的に握るのでは無く、はっきりと受けの形を作ったまま僕がその手を握るのを待っていた。
もちろん彼女がわざわざそうする事の意味など、深く考える必要すら無いだろう。
(ど、どうしよう……)
改めて己の小物っ振りを思い知る。
今こそ自分の意思表示をしなければという時なのに、心臓が体の外に飛び出しそうになる程緊張して、自分の手をごく普通に閉じると言うとてもささやかな事すら出来ないのだから。
にも関わらず、酷く腹立たしいことに僕の体は既にその答えを持っていた。
奴は逡巡して右往左往し続ける僕自身を差し置いて、迷う事無く彼女の手をギュッと握ったのだ。
(!!)
その刹那、握った彼女の手から何か――エネルギーとでも? ――が奔流となって流れ込んで来る。
足元が急に覚束なくなって、何だかふわふわと頼りな気に浮いたその体はまるでむっちゃんの手に握られた風船の様だ。
「帰りましょ」
彼女は恥ずかしそうに伏し目がちにしながら、それでも僕が風に吹かれてどこかへ飛んで行かない様にしっかりと手を握って歩き始める。
言葉を発する事も出来ずに只々彼女に引かれていく僕は、やっとのことで自分の体に追い付きつつあった。
そう、長い回り道の末に僕はやっとそれを自覚した――紛れもなく自分が恋に落ちている事を。
そして最早言う迄も無い事だが、むっちゃんと出会ったあの日からずっと。