陸奥と僕のこと改   作:Y.E.H

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〔第九章・第七節〕

 真っ暗な夜の海はそれだけで恐怖を呼び起こすものだったし、深海の暗黒を知る者にとってそれは二度と戻りたく無い残酷な運命そのものとも言えた。

 

それでもなおその上を覆い尽くす降る様な星空は、その光景を人の目と心で見詰める二人を暫し絶句させるには十分過ぎる位だった。

 

「妙高さん――」

 

先に口を開いたのは加賀だったが、最前とは余りにも違うその声の調子に妙高は面喰ってしまう。

 

「何でしょうか?」

 

もっと冷たく突き放す様な返事をしてやろうと思っていたのに、つい普通に応答してしまった。

 

「私、ひょっとして貴方に謝らなければならないのかしら」

 

思わず奥歯を噛み締めてしまう。

加賀は妙高の気持ちに気付いたのか、それとも実は以前から気付いていたのか。

 

「加賀さんは私に何か非道い事でもなさったのですか? 思い当る節が無いのですが」

辛うじて平静を装った妙高の応えを加賀は深く追及しようとはせず、そのまま話を続ける。

「貴方に覚えが無いと言うのならそれで良いけれど、でもそれを横に置いたとしてもやはり謝らなければならないわ。陸奥さんが初めて来て下さった日の事を、覚えていて?」

「ええ、良く覚えています。その折の捜索に協力するしないの話しでしょうか?」

「ええそうよ、では前置きは不要ね。――あの時私は皆の前で偉そうに、引け目を感じて口を噤めば帝国海軍の轍を踏むだけだ何て大見得切っておきながら、こんな大事な局面で自分がそれをやってしまうだなんて無様にも程があるって言うものね、情けない限りだわ」

 

「……」

 

「妙高さん、貴方の心根が勁いからなのか、それともあの様な言い方をしなければ耐えられなかったのかは判らないけれど、でも私はそれを口に出す事も出来なかった――口惜しいけど、貴方にそれを思い知らされたの。だから謝るのでは無くて礼を言うべきなのかも知れないわね、本当に有難う」

 

彼女は淡々と――妙高には到底出来ない様な卒直さで――話し終えると、そのまま黙ってしまう。

そして、その沈黙が自分に対する大変な圧力である事にも気付かされる。

加賀は飾りの一つもない素の言葉を、しかも妙高が彼女との間に掘った溝を易々と飛び越えて直にぶつけて来た。

それはまるで『貴方にこんな事が出来て?』と挑発しているかの様にも見える。

そんな事を考えていると、何かしら無性に腹が立って来る。

もちろん加賀にでは無く自分自身であったり、悉く自分の思い通りにならない現実であったり、昔も今も一体何に義理立てしているのか判らぬ不自由な男達にであったり、それら全てに対してであったりするが、その腹立ちをどうにかする為には、詰まる処何かを吐き出さなければどうにもなら無いらしい。

 

「はぁっ! 全く、加賀さんには興醒めしてしまいましたわ⁉」

「どう言う意味かしら?」

「そんな風に妙にしおらしい事を仰るものですから、これからたっぷり嫌がらせしてやろうと思っておりましたのに、何だかすっかりやる気が失せてしまったと申し上げてるんです」

「あら、それは随分と有り難いお話ね。でもそんなに遠慮する必要は無くてよ?」

「まぁ、今度はまた大層強がりを仰るんですね、迂闊な事を言ってしまわれて後から引っ込みが付か無くなっても知りませんよ?」

「貴方こそ大言壮語が過ぎるのでは無くて? これでも私は主力艦です、たかが随伴艦の分際で身の程を弁えるべきだわ」

「まだ鉄の塊だった頃が忘れられ無いんですね、そんな事だから、ちょっと殿方に心奪われた位で言うべきことも言え無くなってしまうのではありませんか?」

「貴方如きに言われる筋合いなぞ無いわ。そもそも殿方は素直な女を喜ぶものよ? 貴方の様な腹黒い捻くれ者では最初から勝ち目が無かったから、尻尾を巻いて逃げ出したのでは無くて⁉」

「素直だなんて、物は言い様ですわね。気配りの欠片も無いガサツで不躾な物言いしか出来ない女を、素直だと喜んで下さる奇特な殿方がいらっしゃるだなんて――夢でも見ておられるんですか?」

 

「――そうね、夢かも知れないわ――冷たい暗黒の中で、懐に亡骸を抱いたまま横たわっていた時には見る事すら叶わなかった夢ね。でも、もしかしたら今こうして女の姿となって星空を眺めながら、口の減らない巡洋艦女と罵詈の応酬をしているのも、ひょっとしたら鉄の塊が見ている夢なのかも知れないわね……」

 

「違います、加賀さん! 絶対に違います!」

 

思わずむきになって叫んでしまっている自分を、妙高は不思議に感じていた。

 

「これは紛れもない現実です! 加賀さんも私も皆も、暗く冷たい海底に打ち捨てられた鉄の塊ではありません。その事を片時も忘れは致しませんが、でも今はこの身と心とが私達の現実なんです! 神様は私達に一体何を為させ様としておられるのか、それは杳として判りませんが――」

 

言っている内に早くも自分が何故むきになっているのか判ら無くなってしまい、最後は龍頭蛇尾に終わってしまう。

にも関わらず、それを聞いた加賀は薄暗がりの中で微かに笑みを浮かべる。

 

「有難う、良く判っているわ。どこの誰なのか判らないけど、そして私達に何をさせ様としているのかはもっと判らないけれど、この様な姿になった事に必ず何か意味がある筈ね。でも、その意味を与えられるのと自分達でそれを見つけ出して行くのとは、鏡の裏表程に違う事だわ」

 

妙高が同じことを誰かに言うとしたらもっと勿体を付ける処だが、彼女は相変わらず淡々とした調子のままだ。

もう少し付け加えるなら、恐らく加賀はその事で誰が喜ぼうが悲しもうが(更には憎まれ様が)、委細構わず同じことを同じ調子で言うのだろう。

その無神経さを軽蔑し続けて来た妙高が、自分よりも優れていると認めて来たのはこれ迄のところ陸奥だけだった。

彼女は、妙高があれこれ考えて言い繕ったり演技して見たりするのと同じ事を全く意識すること無く遣って退ける。

もたらす結果が同じでも陸奥には作った様なあざとさが無く腹が立つ程自然なので、それを目の当たりにする度に彼女にだけは敵わないと思い続けて来た。

だがこうして改めて加賀と相対して見ると、彼女にも自分が及ばない点がある事に気付かされてしまう。

加賀は単に物言いが失礼な訳では無く、言っている事が余りにも正鵠を得ているが為に言われた側の逃げ道を塞いでしまうのだった。

とは言え、それは逃げ出そうと思っている者には腹立たしい事かも知れないが、そんなことを考え無い仲間達の間では殆ど問題にならない。

 

(それじゃ結局、私だけが何時でも逃げを打てる様に考えているからと言うことなの?)

 

そんな事――と思わないでは無いが、加賀はそれのみならず、しばしば皆より遥かに先を見通した様なことも何の衒いも無く口にする。

もしそれを真っ先に悟ったのが妙高であったなら、自分の優位を失わない為に易々とは口にし無いだろう事であってもだ。

 

(くっ――)

 

言い様も無く悔しさが込み上げて来る。

今ここで彼女の鼻面を思い切り殴り付けたらすっきりするだろうか?

無論そんな訳は無かった。

もしそんな事をすれば、却って自分の方こそが良く判らない何かを守ることに汲々としているのを思い知らされてしまうのは目に見えている。

 

「――心根が、勁いからではありません――」

 

「――えっ?」

 

「私の心根が勁いからあの様に言ったのではありません、まるで私自身を見ている様で腹立たしくて仕方なかったから――何だと思います」

 

「そう――そうだったの……」

 

再び互いの間に沈黙が流れ、世界が滅んでしまう程の時が流れた後、おずおずと加賀が口を開く。

 

「妙高さん……」

 

「はい……?」

 

「ごめんなさい……」

 

何だか訳も無く可笑しくなって来てしまい、つい笑い出してしまう。

 

「――んふふふふっ♪」

「――んふっ、ふっ、うふふふっ♪」

「うふふふふふふっ♪」

「うふふふふふっ♪」

 

そのまま二人は暫く笑い続けたが、笑っている筈なのにどういう訳か涙が零れて来てしまう。

 

そして更に暫くの間二人は笑い、笑いながら涙を零した。

 

やがて少しずつ奇妙な興奮が治まり、笑いを納めた二人が涙を拭いながら顔を見合わせると、今度は先に喋ってやろうと決めていた妙高が見切り発車気味に口を開く。

 

「加賀さんでも笑えるんですね、初めて知りました」

「少々楽しい位でへらへら笑ったりしないわ、今のは貴方の病気が伝染った見たいなものよ」

「やっぱり口だけは減らないんですね――それで? お詫びの印しに、あの方のことはきっぱりと諦めて私に譲って頂けるとか位はあるんですか?」

「馬鹿を言わないでくれるかしら? そんな積もりなぞ更々無いわ。もっとも、貴方が頭を下げてお願いすると言うのであれば考えないでも無いけれど?」

「ぷっ、まさかご冗談を♪ あの方にそこ迄の値打ちはありませんわ、熨斗を付けて差し上げますから精々お好きに為さって下さい♪」

「では遠慮無くそうさせて貰ううわ。でも一つだけ念を押しておくわね。今回の事だけは別よ、長門さんと酒匂さんを日本に連れて帰る為にここ迄来たの。その為には、どうあっても副長には決断して貰う必要があるわ」

「良く分かっています。寧ろ嫌われるのが怖いのでしたら、言い難い事は全て私が申し上げても宜しいんですよ?」

「それこそ余計なお世話と言うものよ。第一、言いたくても声を上げられ無い方は他にいるの、その代わりに私達が言わなければならない事位は判っていて?」

「当たり前です! 陸奥さんがどれ程長門さんの許に飛んで行きたいと思っておられるか位、言われる迄もありません。でもそれを口にしてしまえば、旗艦として冷静に状況を見極めた見解では無く己が利を図った発言になってしまうと考えておられるからですよね⁉」

「そこ迄判っているならもう言う事は無いわね。では会議に戻りましょう、愚図愚図していると夜が明けてしまうわ」

「大袈裟な言い方ですわね。まぁ確かに、最前の様な調子では時間が幾らあっても足りないのは認めますが。私にとっては無駄としか申し上げ様の無い時間ですけどね」

「相変わらず大した自信ね、その根拠の無い自己評価の高さはどこから来るのかしら?」

「根拠ならあります!」

「まぁどこに? それとも私が急に目が悪くなったのかしら?」

 

飽きること無く罵詈の応酬を続けながら、二人は船内に消えて行った。

 

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