払暁『おおやしま』は浦賀水道に向かって進んでいた。
「久し振りに見る日本はどう、姉さん?」
「いや――正直に言うが懐かしいな――。どの様に否定しようが、やはりここは私の故郷なのだな」
「ねぇ、故郷ってどういうもの? 日本は酒匂の故郷?」
「酒匂は難しい事を聞くな♪ そうだな――故郷は自分が生まれた所だから、酒匂にとっても日本は故郷だぞ。どうだ、懐かしいと感じるか?」
「良くわかんない、でも――何かこの辺がもやもやするの」
そう言って彼女は両手で自分の胸に触れる。
「それは、酒匂ちゃんにとって故郷が大切なものだからだと思うわ」
妙高が彼女に投げ掛ける視線は優しさと慈愛に満ちており、声音も柔らかい。
「故郷は大切なの?」
「そうよ、大切だからこそ裏切られれば悲しいし、遠く離れている程そこに帰りたいと願うものよ」
「恐らく妙高の言う通りなのだろう、どれ程恨み憎もうが、結局どこかで帰る事を願っていたのだろうな、大切な故郷であるからこそ……」
艦娘達は、暫し言葉も無く徐々に明るさを増していく陸地を眺めていた。
「あっ、あれは?」
長良が声を上げて指差す方角を見ると、灰色のずんぐりとした船影が同航しながら接近して来る。
「まぁ『とおとうみ』ではありませんか」
赤城の言う通り、青と白の信号旗を三つはためかせながら接近して来たその特徴ある艦形は紛れもなく『とおとうみ』だった。
「凄い! これは異例中の異例ですよ⁉」
斑駒(娘)が驚きの声を上げたのは他でもない、『とおとうみ』は登舷礼の態勢をとっていたからだ。
これに対して『おおやしま』側の船内も慌ただしくなり、当番の警備官達がデッキを駆け廻って船尾の日章旗を半旗にしたり通路に整列したりしている。
そうする内に『とおとうみ』の信号旗が赤白や赤白青三色のものに入れ替わると『おおやしま』側でも良く似た信号旗が二枚掲揚され、ようやく答礼の用意が整う。
ラッパの吹奏が始まり艦娘達も警備官達と共に敬礼するが、間もなくそれが終わると今度は双方の乗員たちが思い思いに手や帽子などを振り始めた。
「何だか微笑ましい光景ですね」
言いながら高雄が『とおとうみ』に向かって手を振ると、乗員たちが嬉しげに歯を見せて手を振ってくる。
「高雄は随分人気があるのだな」
「そうよ姉さん、どこへ行っても男の人達はみんなまず高雄ちゃんを見るんだから♪」
「そんなことありませんよ、陸奥さん大袈裟です……」
そう言った彼女が僅かに頬を染めると、それを見たかの乗員たちは更に盛り上がっている様だ。
(あら?)
先程から艦橋横の張り出しに艦長たる篠木が立ってこちらに手を振っているのだが、どうも彼の視線が特定の誰かに注がれているらしい事に気が付く。
「ねぇ加賀ちゃん、篠木艦長なんだけど――」
「私も先程から思っていました。艦長殿は明らかに特定の誰かを見ておられますね」
そう言い交わした二人が少し身を乗り出して彼の視線の先を確かめ様とすると、期せずして反対側から同じ事をしようとした蒼龍・飛龍と目が合う。
「あーっ、やっぱりそうですよね~♪」
「そうねぇ、どうやら間違いないわね♪」
「何だ、どうかしたのか?」
「ふふ、向こうの艦長さんがね、どうも誰かにご執心みたいなのよ♪」
「そうなんですよ~♪ ねー妙高さん⁉」
飛龍がそう言って妙高の顔を覗き込むと、彼女は如何にもと言った様子でつんとして見せる。
「艦長殿に限らず、殿方が私に見惚れるのは別に当たり前のことですわ。ですから、それにいちいち一喜一憂する必要なぞありません」
「良く言ったぞ妙高よ!
「姉さん、ちょっと喰い付くとこズレてるわよ……。それはそうと、つまり妙高ちゃんとしては全く相手にする気は無いってことなの?」
「もちろんです、私はそんなに安売りする程困ってはおりませんし」
「え~でもぉ、篠木艦長ってちょっと感じ良くないですかぁ?」
「結構爽やか系だよねぇー♪」
蒼龍は、妙高が興味ないのであれば自分が興味があると言わんばかりの顔だ。
「因みに篠木艦長は独身でいらっしゃいますよ、念のため」
斑駒(娘)がさり気なく口を挟むと、蒼龍と飛龍は顔を見合わせる。
「ねえねえ、ちょっとだけ手ぇ振って見ようよぉ」
「え~どぉするぅ? ちょっと振って見る?」
「妙高ちゃんったらどうするの? 本当に放っといていいのかしら?」
「結局妙高さんは自分に自信が無いのね、まぁ謙虚なのはそれはそれで良いことだけれど」
加賀のこういう物言いが、どうやら彼女には一番効くらしい。
「自信が無いなどと戯言も大概になさって下さい! ――判りました、そこまで仰るのでしたら私が普段は皆さんの程度に合わせているだけだと言う事を、とくと思い知らせて差し上げましょう」
そう言うとさり気なく目を伏せて俯いた彼女は、数秒後ゆっくりと眼差しを上げる。
やや憂いを帯びたその瞳は星の煌めきを湛えており、吸い込まれそうな位に神秘的だった。
そして、幾らか伏し目がちなまま一心に視線を注ぎ続けている篠木の顔を上目遣いに見詰めると、恥じらう様に頬を染めてごく控え目に小さく手を振って見せる。
ところが、その結果は目を見張るものがあった。
それを見た途端、張り出しの上に立った篠木が突然凍り付く。
そして一瞬の後には手摺を掴んで身を乗り出すなり、制帽を毟り取る様にひっつかむと千切れそうな程腕を振り始める。
「えぇ、何あれぇ――」
「こ、効果覿面ねぇ……」
陸奥らが唖然とする中、なおも千切れんばかりに帽子を振り続ける篠木を乗せたまま急速に『とおとうみ』は離れて行く。
双方の乗員は相変わらず手を振り続けているが、何時の間にかデッキに現れたらしい中嶋が少し離れたところで「あの馬鹿……」と呟くのが聞こえる。
やがて人の姿が芥子粒程の大きさになると、妙高がふっと息を吐いて首を左右に傾げて凝りを解す様な仕草をして見せる。
「妙高さん、凄ぉーい♪」
「いやぁ~何かちょっと悔しいなぁ」
「ふふ、飛龍さんも蒼龍さんも精々努力為さる事ですね」
「きゃー、感じ悪―い♪」
「全く――お前達、
長門が呆れた様にそう言うと、瑞穂がそれに応える。
「長門さん、私達は確かに
「
赤城がそう言うとさすがに長門も苦笑する。
「やれやれ、今度は私が瑞穂に一本取られてしまったか♪ それにしても常在戦場の意気は遠くなりにけりだな、些か残念なことだ」
と腕組みをして、小さくなって行く『とおとうみ』を目で追う。
「それでも姉さん、平和を楽しむ事はちっとも悪いことだとは思わないわよ? 規律や秩序を守るのとその事とはまた別なんじゃないかしら」
「そうか――ならば平和を謳歌する日本を存分にこの目で見てやろうではないか、お前達と共にな」
その言葉に一同が笑顔を浮かべたその時、
「皆さんお早うございますぅ~」
という声と共に龍田が駆逐艦達を引き連れて現れる。
「おお龍田よ、もう車椅子無しで良いのか?」
「はぁーい、まだちょっと頼りない感じですけどぉ~何とか行けますよぉ、ほらこの通りぃ――」
「おい、危ないぞ!」
「あっ、いやぁ~ん♪」
突然躓きよろけた龍田は咄嗟に腕を伸ばした長門の胸に倒れ込み、しっかりと抱き止められる。
「気をつけねば駄目ではないか、くれぐれも無理をしてはいかんぞ⁉」
「済みませぇん、もう少しだけ長門さんに支えて頂いた方が良い見たいですぅ」
「無論だ、上陸する時もちゃんと手を取ってやるぞ」
「有難うございますぅ~」
そう言いながらも、彼女はなかなか長門の腕の中から起き直ろうとはしない。
(龍田ちゃんたら――さっきのも絶対わざとよね……)
思わず心中溜息を吐いた陸奥に仲間達が苦笑を向けて来る。
(まぁ、幾ら姉さんでもその内気付くわよね――。それ迄は龍田ちゃんの好きにさせといてあげようかしら)
そう思い直すと、皆には苦笑交じりの笑顔を返す。
海面には、昇り始めた朝日がつくる『おおやしま』の影が船首波を横切って長く伸びていた。