〔第十二章・第一節〕
仁の自己嫌悪は、陸奥が戻って来たことで一層深刻になった。
あの日以来葉月は毎日食事を作りにやって来ただけでなく、週末には朝から押し掛けて彼に朝食を食べさせると外へ連れ出し、あちらこちらと連れ回した。
ところが、とにかく一言も陸奥と何があったのかを聞こうとしない。
仁はと言えば、何時彼女が強面を剥き出しにして何があったのか白状しろと詰問するのだろうかと戦々恐々だったのにである。
とは言えそんな風にビクビクしている内に、何となくだがどうも聞きだす意味が無いからそうしないらしいと言うことに気付いた。
葉月は、彼が陸奥に惹かれていることもやっとそれに気付いたことも、なおかつその上に実は葉月のことを好きだったいうことに気付いたこと迄どうやら全て承知の上らしい。
(こんなの絶対に超能力者だろ――あり得ないよ……)
それを悟ると同時に、彼はまた無駄に一つ賢くなる。
これ迄葉月の自信過剰な程の余裕は何なのかとことある毎に癪に障っていたが、結局彼女は彼自身ですら気付いていなかった本心をずっと以前から見通していたのだろう。
だからこそ焦る必要が無いのはもちろんのこと、高校時代に後輩と付き合い始めたのすら落ち着き払って眺めていたのに違いなかった。
『少しは頭冷やして良く考えなさい⁉ 今ならまだ許してあげるわよ?』
この数日間、彼女からその無言のプレッシャーを掛けられ続けた仁はそれにほぼ押し切られ掛けていた。
何より単なる打算を抜きにしても、彼はやはり陸奥が救いを得て哀しい記憶から解放されることを望んでいたからだ。
(そうだよな、むっちゃんのことはきっぱり諦めるべきなんだ)
そんな風に考え直したからこそ『おおやしま』が接岸するのを見守っていた時も、葉月にしっかり腕をフォールされていることにどこか安心感すら覚えていた。
にも関わらず、そういう思考過程を経て辿り着いた(やや妥協的な)結論を瞬時に覆してしまった陸奥の行動は、彼にとってももちろんのこと意外にも葉月にとってすら全く想定外だったらしい。
「アンタ一体何考えてんのよ! どうしてそう雰囲気に呑まれ易いのかしらねぇ」
そんな風に電車の中で散々当たり散らされたのだが、確かにこれ迄の陸奥の振る舞いからしてあんな大胆な事をするとは予想していなかったのだろう。
ましてや、一度は反省して己の許に戻り掛けた筈の仁があっさり奪い返されたことに対する苛立ちは推して知るべしである。
(はぁ~、それにしても何てダメな奴なんだろう……)
彼女に抱き付かれた瞬間に、覚悟していたことやら何やら色々なものは正に煙の如く消し飛んでしまっただけでなく、気が付くとしっかり抱き締めていたのだから、それこそ幾ら葉月に責め立てられ様が返す言葉もない。
(でも、あれはないよ――あんなに可愛いのは反則だよ)
確かに彼にとって陸奥は、『美人』でかつ『可愛い』などと言うこれ迄に会うどころか意識した事すらない様な稀有の女性ではあるのだが、さすがに今更それに驚かされることなど無い筈だった。
それなのに、幾ら顔を合わせるのが久し振りだったとは言え、彼の瞳を見詰めた彼女は『魅力』だのの陳腐な言葉では表現できない様な何かを溢れさせており、目があったその一瞬で彼の魂はギュッと鷲掴みにされてしまった。
何せ、その途端に束の間ではあるが葉月に対する後ろめたささえも忘れてしまったぐらいだ。
そんな訳で彼は今改めて激しい自己嫌悪に苛まれていると共に、陸奥と二人切りの時間を過ごせると言う余りにも甘い幸福に浸ってもいる。
「ねぇ仁?」
「えっ、な、何?」
「葉月はやっぱり泊まりに来るかしら?」
「多分そうするんじゃないかなぁー、それこそ明日からでも」
「うふっ、そうよね♪ あの剣幕だったらそうするわよね」
葉月の余裕の正体を何となく推測出来た(恐らく一部だろうが)仁にも、陸奥のこの不思議な余裕は理解出来ない。
葉月を正面から敵に回すことなど考えもつかない彼にとっては、いつ何時そうなってもおかしくない(というかもう既にそうなりかけている)状況で平然としていられるなどあり得ない事だ。
(ひょっとして、長門さんが言ってたのはこういう事なのかな?)
今朝長門が葉月に言ったこと、そして三人が帰宅してから話してくれたこと――それらはつまり、仁や葉月が恐らく生涯に渡って経験することが無いかも知れない状況だ。
日常に潜んでいる漠然としたものではなく、直接的な死と言うものが目と鼻の先を掠め髪や服を翻して飛び交う戦場を、彼女達は自らの力だけを頼りに潜り抜けて来た。
彼ら一般人には想像する事しか出来ないその経験が彼女を変えてしまったのだろうか。
そんな事を考えていた彼の手に突然陸奥の手が重ねられ、思わず声を上げそうになってしまう。
「あたしね、まだちゃんと話してないことがあるのよ♪」
「う、うん、どんなこと?」
「姉さんを加賀ちゃんと一緒に取り返して来たって言ったでしょ?」
「うん、何だか怪談話見たいで凄いよね、それ」
「そうね、でもそんな怪談に出て来る見たいな得体の知れない相手にどうやって勝てたと思う?」
「え――むっちゃんと加賀さんが必死に頑張ったからじゃなくてってこと?」
「それだけだったら、多分姉さんを奪い取られてたわ」
「――本当に?」
「そうよ、あたし達本当に力が尽き掛けたの、だからね、その時心の中で無我夢中で叫んだのよ、『誰か助けて! 力を貸して⁉』って」
「えぇっ!」
つい大きな声が出てしまう。
「どうしたの?」
「あ、あの――いや、先にむっちゃんの話を聞くよ、その後で話すよ」
「判ったわ――それでね、叫んだ時に海の真ん中なのに突然部屋の中にいる人の姿が見えて来たのよ、誰だか判る?」
「まさか――それって――」
「そうよ、そのまさかよ――仁がこの居間で両手を握り合わせて祈ってくれてるのがはっきり見えたの。それを見た途端にね、体の中に力が湧いて来て姉さんを取り戻せたのよ! 仁が約束守ってくれたからよ」
「――僕もだよ」
「何? どう言うこと?」
「朝そこに立って、むっちゃん達がいる方角に向かって祈ってた時だよね」
「そうよ! 仁はそこに立っててあっちから朝日が当たってたわ! 何故判るの⁉」
「その時むっちゃんの声が聞こえたんだよ、『助けて! 力を貸して⁉』って――」
「うそ……」
「とてもはっきり聞こえたんだ、だからもう心配でたまらなくなってね、それから八幡宮にお参りに行ったんだけど――でも、そもそも間に合ってなかったんだね」
「そんな――信じられない、あたしの声が仁に届いてただなんて……」
「僕も信じられないよ、こんな事があるなんて……」
期せずして二人は無言になる。
重ねられた彼女の手にキュッと力が入れられ、仁の手を握り締める。
心拍数が一気に跳ね上がり全身の毛穴から水分が滲み出るのを感じるが、彼の視線は陸奥の瞳に釘付けになっており身動きも出来ない。
「皆や姉さんにとっては、日本に帰ることがとっても意味のあることだったわ、でもね、あたしにとってはここに――仁が居るこのお家に帰って来ることが一番意味のあることだったの」
「僕も――そうだよ」
(バカバカ! 何言い出すんだよ⁉)
「本当に?」
(やめろ! ちゃんと言い直せこのクズ!)
「むっちゃんに帰って来て欲しかったんだ、一日も早く……」
(何考えてんだよ、最低だ! クソッ)
「仁――、ここがあたしの――」
ガタンッ
突然玄関の方で大きな物音がしたので、まるでスプリングが弾ける様に二人とも数センチ程飛び上がる。
「な、何、今の音⁉」
「な、な、何だろうね? ちょっと見て来るよ」
「あ、あたしも行くわ」
そそくさと立ち上がった二人だったが、僅か数秒後に困惑した表情を浮かべる羽目になる。
「今晩わー、暫くご厄介になりますけどよろしくお願いしま~す♪」
「は、葉月……」
「あら、ひょっとしてお邪魔だったかしら? まぁ邪魔するために来たんだけど」
「何もこんな夜中に来なくてもいいだろ?」
「誤解しないで欲しいわね、わたしはむっちゃん達を家に引き取ってお世話してあげたい位なのよ? でも守秘義務があるんだからそんな事する訳に行かないでしょ⁉ だから不自由を我慢して仕方なく泊り込みに来たんだからね!」
「一体どんな理屈だよ……」
「うふふ、ありがと葉月♪ じゃあこれからは朝晩と葉月のご飯が食べられるのね?」
「人を炊事係見たいに言わないでくれる⁉ そんな楽させるわけ無いでしょ! 何言ってるのよこの図々しい戦艦女は!」
「おい葉月やめろよ⁉」
「良いのよ仁♪ それにあたし、前よりとっても図々しくなってるかも知れないわよ?」
そう言って笑みを浮かべた彼女は、図々しいかどうかは別としても確かにまた一段と人格のようなものの奥行きを感じさせる様になっていた。
「さあ! 分かったらさっさと上がらせてくれないかしら?」
と口では言っているが、仁の許可が出る迄待つ積もりなどサラサラ無いことは良く分かっていた。
有無を言わさず上がりこんだ葉月は、如何にも当然といった風情でスーツケースを抱えて二階へと消えて行く。
「はぁ~」
「やっぱり、葉月には敵わないわね♪」
気のせいかも知れないが、陸奥は何やら楽しそうだ。
「いいよ、もう振り回されるのも慣れちゃったから」
「あら、でも本当はちょっとホッとしたんじゃないの?」
「えっ……」
上目遣いに仁を見詰めた彼女の視線は、葉月のものとはまた違ってはいるものの彼の心の奥底迄も一目で見通してしまう様な抵抗し難い力を持っており、思わず喉がカラカラになってしまう。
「ふぅーんやっぱり図星なのね、仁ったらもう♪」
情けないことに全くその通りなので反論する余地も無いが、だからと言って図星を衝かれたまま黙っているのでは後ろめたいことを考えていますと言っている様なものだ。
「ご、ごめんね、むっちゃん――」
毎度馬鹿の一つ覚え見たいに何を二言目には謝ってんだよ! と心の中で自分自身に突っ込みを入れていると、彼女がフッと軽く鼻を鳴らして彼を見詰める。
「まぁ謝ってくれたんだから赦してあげるわ、だってそれが仁なんだから」
結局彼は葉月だけならまだしも、陸奥にも全く歯が立たないのだった。
(いや――何を今更か……)
「さ、明日も早いからそろそろ寝る用意するわね、仁はまだ起きてるの?」
「そ、そんなこと無いよ、僕もそろそろ用意するよ」
「よろしい♪ じゃ行きましょ」
何事も無かったかの様にスタスタと居間に戻る彼女を追い掛けた仁だったが、ふと気が付くと吐き気がする様な自己嫌悪が洗い流されている。
(ひょっとして、二人のお陰なのかな?)
まるで昔からそうだったかの様に、何時の間にか二人が居てくれなければ自分だけではどうにもならないことがどんどん増えていくこの有様は一体何なのか。
彼は秘かに苦笑いするより他なかった。