※腐向け・女性向け・ブロマンスのような描写があります
※最初から最後までフィクションです。実在の人物・国家・団体とは微塵も関係ありません

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――舞台はキューバ革命もひと段落して1965年。肇国の英雄がふたり。築いた地位も第二の故郷と呼んだ国も友も家族すら捨て旅立つ者と、国家の礎として指導者として残る者。そんな決別の夜もあったかもしれない。









カストロとゲバラの関係は美味しい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長い長い話し合いの後、静まり返った部屋には、どこかから流れてきたサルサがちいさく響いていた。開け放した窓から、昼間の暑さの名残をはらみ湿った夜風がゆるりと部屋をなでてゆく。

 

 さほど広くも無い部屋は質素と言えるほど飾り気が少ない。一国の元首たる人物の私室とはとても思えないだろう。ひとつしかない椅子を僕に譲り、部屋の主はベッドに浅く腰掛けている。うつむき、片手で目元を覆う姿は重々しい。

 

 先に沈黙に耐えきれなくなったのは僕の方だった。彼の表情を隠しているその手を取ると、閉じていた目蓋がゆっくり開き、緩慢に僕を見上げた。真黒い瞳が揺れている。いつだって傲岸なほどに自信に満ちていた彼が、このときばかりはひどく困った顔をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「アフリカの革命が僕を必要としているならば、何を置いても行かなければならない」

 

そういう約束をしたね、と言うと、彼はため息のように掠れた肯定を呟いた。

古い約束だ。だが、ひとたび交わした約束を、忘れる男ではないと知っていた。

 

「……いつか、こういう日が来ると覚悟していた」

 

 そう言うくせに、彼は失望を湛えて目を伏せた。他人の眼をまっすぐに見つめることを恐れない君が、僕の言葉から逃げるように顔を背ける。鋭いナイフが心臓に入り込んだような気がした。痛みを気取られないように口早に出立の予定と計画を告げる僕を、彼はかつて何度もそうしたように雄弁に引き止めようとしてくれた。

 

「まだこの国の革命は終わっていない。やるべきことはこれからの方が多いくらいだ。党指導部におけるおまえの存在も、閣僚として、少佐として、なによりキューバ国民として、おまえの力が不可欠なのだ。この国だけではない、私だってそうだ」

「君にそう言ってもらえるのは何より嬉しい。だが、僕でなくてはならないことは、もうない。いいや、この島の外でやるべきことは、僕にしかできない。ちがうかい、フィデル」

「たとえ、アフリカがおまえを必要としているにせよ、どうしてこんなにも急ごうとする。革命初期の危険を知らないおまえではないだろう。チェ・ゲバラが必要とされていればこそ、拠点を設営し民衆の支持を得て一定の安全を確保するまでは、部下に任せておけばいい。今は後方からの支援と部隊の支援がおまえの為すべきことだ。そしてこの国から世界を相手に発信するのだ」

「だめだよ。シエラ・マエストラで君は身の危険なんてかえりみたかい? 常に前線に立ち続けた君に、僕に安全を説く権利はないはずだよ。……なぁ、フィデル、そんな君だから僕たちは命を投げ打ってでもついて来たんだ。それがわからない君じゃないだろう。僕は行くよ。君がそうして示してくれたように。新しい革命を導くために」

 

 それでも、条件はまだ整っていないし、アフリカはキューバとは違うのだ、国民の意識が熟すまで待つべきだと、言い募る彼の言葉はきっと正しいのだろう。だが、僕の決意は揺るがなかった。

 それが僕の夢であり、そしてまた、君の夢でもあるからだ。

 

 

 

 君があまりにキューバを愛するから、この国のために驚くほど長い間、君と共に戦ってきた。気付けばマリア・アントニアの家で君と出会ってから10年にもなる。その歳月のすべてを僕は革命に捧げ、君に夢も命もあずけてこの国を築き上げた。

 

 今では、僕はあまりにもこの国をこの国の人々を愛してしまっていた。旅立ちを決意したとき、半身を引き剥がされるような痛みを感じたほどに。巨大な喪失感に涙がこぼれそうなほどに。

 だが、同時にこの国を離れた時にはもう、僕を縛り付けるものは何もないのだと思うと奇妙にせいせいとした気分になるのだ。置き去りにするものの重さのために、旅立つ己の身軽さを思い知らされる。

 これでもう僕はどこへでも行ける。どんなことでもできる。どこで死んだってかまわない。

 

 大切なものは全部、君とこの国に預けてゆこう。妻にも、子供たちにも、必要なものはすべてこの国が与えてくれるだろう。そういう国を僕たちは目指したのだから。

 

僕は自由になる。

孤独で過酷な自由だ。

君を思い出すものは、何も持っていかないつもりだ。

君の意思も理想も、僕の心とともにあるのだから。

 

 

 

 そうやって思い定めたことはすべて嘘偽りのない真実だというのに、今は彼の手を離しがたく思うのも、またたしかに僕の気持ちだった。君の言葉よりも雄弁に、君の手が僕の心を引きとめようとする。

 整った長い指は器用だったが、銃を取るのは似つかわしくないといつも感じていた。その指は、ペンを持ち、本の頁を丁寧に捲るほうがはるかに似合っている。

 はじめて握手を交わしたときよりも、皺は増えたかな。夜が明けるまで語り明かしたあの頃、僕らは今よりずっと若かった。あれから何度も握り締めてきた彼の手は、大きくて暖かく乾いていて、なめらかに磨耗した木材を思わせる。

 

 ふいに僕はこの手が好きだと思った。そうして、この指先もこの腕も体も心も細胞のひとかけらも余さずこの島に捧げた君に、どれほど惹かれてきたか心の奥で思い知る。

 それはこの国を離れようと決めてはじめて、どれほど深くこの国に根を張ってしまったか気づいたということでもあった。今では、僕にとってこの国と君は不可分のものになってしまった。

 

 君が愛し夢見たキューバは僕のもうひとつの故郷になった。この国が生み出すものは、陽気さと哀切を奏でる音楽も、喉を焼く酒も、子どもたちの輝く笑顔も、この肺に馴染んだ葉巻も、みな世界一愛おしいものだった。この島の、深い緑の森も、白い砂浜も、夏の嵐になびく一面のさとうきび畑も、他の何色でもないカリブの海の青さも、すべてすべて、懐かしく思い出す故郷の景色になるだろう。

 

 いま、僕の目の前にいる君こそがキューバであり、この国のすべてが君につながっている。

 キューバの痛みは君の痛みであり、キューバの誇りは君の誇りであり、キューバの人々の幸せは君の幸せなのだから。

 

 

 

「これはキューバの指」

 

友を見つめたままその手にくちづける。

 

「これはキューバのために動く腕」

 

そのまま手を持ち上げて、手首の青い静脈の上にくちづける。皮下に脈打つ動脈を思う。

 

「これは」

 

彼の髪に手を添えて

 

「キューバに生きる人々の幸福を考える頭脳」

 

額にくちづける。

 

「これは」

 

吐息がかかるほど顔を寄せて、

 

「キューバの未来を語るくちびる」

 

彼の瞳をのぞきこむ。

視線が絡む。彼の黒い瞳がひとつまたたいて、諦めたように、許すように、瞼が閉じられた。そっと、ふれる。

 

 フィデル、君は知っていただろうか? かつて恋人と交わしたどんな情熱的なキスよりも、君の舌の上で僕の名前が誇らかに響くとき、この心臓は熱く震えるのだと。はじめて触れる君のくちびるはなんて熱いのだろう。このキスは、恋や愛よりも、十字架にくちづける狂信者のそれに似ているかもしれない。

 

 

 

「愛しているよ。キューバを、君を」

 吐息の混ざる距離の囁きに、彼はわずかに口を開き、だがそれ以上引き留めるための言葉を積み上げようとはしなかった。かわりに重ねられた唇と君が呼んだ僕の名は、この心臓が止まる日まで僕の胸の中に残るだろう。

 

 

 

 語りつくせない言葉はまだ部屋の中をさまよっていて、ときおり、僕の、彼の、頭の中で鳴り響いては砕けるけれど。饒舌な彼のどんな言葉も、もう僕たちの未来を変えることは出来はしなかった。

 

 いつか来るこの日を知っていながら、なぜ僕たちはこんなにも、分かちがたいほどに互いを引き寄せてしまったんだろうか。僕がいなければダメになる君じゃないし、君がいなければ何もできない僕じゃないはずだと確信している。それでも、こんなふうに同じ景色を見られる相手に、ふたりと出会えるはずがなかった。

 

 君との出会いは確実に僕の人生を運命を変えてしまった。それは恐ろしい不幸だったのかもしれない。避けがたい死の瞬間に、僕は十字架の上で神に見捨てられた男のように後悔し嘆きを叫ぶかもしれない。

 

 だが、幾度人生をやり直せたとしても、君が誘ってくれるなら、僕は何度でもこの島への小さな舟に乗っただろう。たどり着く先が泥の中で這いずる惨めな死であったとしても。そして運よく革命を乗り越えて君とともに生き残りさえすれば、いつかかならず僕たちは、この別れの夜を迎えただろう。

 

 旅立つ僕は、あるいは君より先に死ぬかもしれないが、あの世の入り口で君を待っているよ。できれば何十年でも待たせてくれ。待って待って待ちくたびれた頃に、爺さんになった君が来たら、僕が死んだ後の君が生きた世界のことをたくさん聞かせてくれ。それから一緒に行こう、同じ地獄が僕たちを迎えてくれるだろう。

 

 その日までさようなら。

 

 

 

 この両腕にありったけの革命的情熱をこめてきみを抱擁する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




(執筆2013年3月1日)
(2016年11月25日へ捧ぐ)




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