白い通路に、靴音だけが響いていた。
世界樹の上層。
人の手によって造られたとは思えないほど巨大な空間は、どこまでも静かで、その静けさがかえって、この場所に眠る長い時間を感じさせる。
先頭を歩いていたレックスが、不意に足を止めた。
「いた」
その一言だけで、全員が武器へ手を伸ばす。
通路の先。
そこには、一人の男が立っていた。
白銀の髪。
蒼い外套。
冷たい眼差し。
シンだった。
彼は最初からそこにいた。
まるでレックス達が来ることを知っていたかのように。
「来たか」
静かな声だった。
怒りも。
殺気も。
以前ほど感じられない。
それでも、その場に立つだけで空気が張り詰める。
「シン」
レックスは聖杯の剣を握る。
しかし、シンはレックスを見ていなかった。
その視線は、ゆっくりと仲間達の間を移り、最後に一人の女性で止まる。
ファン。
五百年前。
ラウラと共に旅をしたブレイド。
長い沈黙が流れた。
やがて、シンが口を開く。
「……幻では、なかったのか」
その声は、どこか掠れていた。
ファンは静かに一歩前へ出る。
「はい」
微笑む。
昔と何一つ変わらない、穏やかな笑みだった。
「お久しぶりです、シン」
シンは答えない。
ただ、じっとファンを見つめている。
その瞳には、困惑があった。
信じたい。
だが、信じられない。
そんな矛盾した感情が見え隠れしていた。
「……どうしてだ」
ようやく漏れた言葉は、それだけだった。
「君は、あの時――」
「死んだはず、ですか?」
ファンは静かに続ける。
「ええ。そのはずでした」
「なら」
「私にも分かりません」
首を横に振る。
「気付いた時には、目を覚ましていました」
それ以上は語れない。
彼女自身も知らないのだから。
シンは目を閉じる。
胸の奥で、五百年前の記憶が蘇る。
ラウラ。
ファン。
穏やかな日々。
もう二度と戻らないはずだった時間。
「……そうか」
小さく呟く。
その声には、どこか安堵が混じっていた。
ファンは、その変化を見逃さなかった。
「シン」
優しく名前を呼ぶ。
「あなたを迎えに来ました」
その一言に。
レックス達も息を呑む。
シンだけが動かなかった。
「迎えに?」
「はい」
ファンは頷く。
「もう、一人で歩かなくてもいいんです」
「……」
「ラウラ様なら、きっとそう仰います」
その名前が出た瞬間。
シンの表情が僅かに揺れた。
「ラウラを……、その名前を、口にするな」
低い声だった。
怒りではない。
悲しみだった。
「あなたに、その資格はありませんか?」
ファンは責めるような言い方はしなかった。
「では、私にもありません」
シンは目を見開く。
「私は、ラウラ様を守れませんでした」
静かな声。
「あなたも」
「……」
「私も」
ほんの少しだけ笑う。
「きっと、同じなんです」
沈黙。
世界樹の空調だけが静かに鳴っている。
その時だった。
「俺も」
レックスが前へ出る。
シンが視線を向ける。
「俺も、ファンと同じだ」
「……何?」
「一緒に来てくれ」
レックスは真っ直ぐシンを見る。
「もう終わりにしよう」
「終わり?」
「楽園へ行こう」
その言葉に、シンは小さく笑った。
自嘲だった。
「お前は、本当に変わらないな」
「え?」
「誰でも救えると思っている」
「思ってる」
レックスは即答した。
「少なくとも、仲間は」
「……」
「シンもだ」
シンは何も言わなかった。
しばらくの間、レックスを見つめる。
その瞳に映るのは、かつての英雄アデルではない。
ラウラでもない。
ただ、一人の少年。
未熟で。
青臭くて。
それでも真っ直ぐ前だけを見る少年だった。
「……なるほど」
シンは静かに頷いた。
「少しだけ、分かった」
レックスの表情が明るくなる。
「じゃあ!」
「だが」
シンは腰の刀へ手を掛けた。
「それでも、俺は進まなければならない」
鞘から白銀の刀身がゆっくりと抜かれる。
「この世界を終わらせるために」
凍てつく冷気が通路を満たす。
レックスも聖杯の剣を構えた。
「シン!」
「もし、お前が本当に未来を切り開けるというのなら」
剣先がレックスへ向けられる。
「俺を越えてみせろ」
その声には、以前のような憎悪はなかった。
あるのは。
一人の戦士としての問いだけ。
レックスは静かに頷く。
「分かった」
そして、小さく付け加える。
「でも、勝ったら一緒に行こう」
一瞬だけ。
シンの口元が、本当に僅かに緩んだように見えた。
「……馬鹿な奴だ」
次の瞬間。
二人は同時に床を蹴った。
五百年という時を越えた想いが、今、交錯する。