世界樹が震えた。
クラウスの言葉が静寂へ溶けていくのと同時に、管理区画の奥から重々しい足音が響き始める。
――コツ。
――コツ。
ゆっくりと。
まるで、この瞬間を待っていたかのように。
やがて、白い光の中から一人の男が姿を現した。
純白の法衣。
金色の法冠。
穏やかな笑みを湛えたその姿は、教皇というよりも、一人の聖職者を思わせる。
しかし、その瞳だけは底知れぬ冷たさを宿していた。
「……マルベーニ」
メレフが低く呟く。
ジークも顔をしかめる。
「こんな所まで追って来やがったか」
マルベーニは穏やかに微笑み、一礼する。
「皆さん、ご機嫌よう」
まるで旧友へ挨拶するような口調だった。
「ここまで辿り着かれたこと、素直に称賛いたします」
その視線が、ゆっくりとクラウスへ向く。
「そして……」
「お久しぶりです」
「クラウス」
レックスは思わずクラウスを見る。
「知り合いなのか?」
クラウスは静かに頷いた。
「直接会うのは、これが初めてだ」
「だが」
「彼は私の残した世界で生きてきた」
マルベーニは微笑みを崩さない。
「ええ」
「私は、あなたという存在を知りながら、この世界を見続けてきました」
そして、静かに歩み寄る。
「ですが」
「あなたは失敗しました」
その一言で、空気が張り詰めた。
「失敗……ですって?」
ホムラが眉をひそめる。
マルベーニは振り返る。
「聖杯」
「あなたにも責任があります」
「人は変われる」
「人は成長する」
「そのような幻想を抱いた」
静かな声だった。
怒りも憎しみもない。
ただ、結論だけを述べる声。
「結果はどうでした?」
マルベーニは両腕を広げる。
「戦争」
「裏切り」
「欲望」
「嫉妬」
「憎悪」
「人は五百年前も、今も何一つ変わらない」
誰も口を開けなかった。
「ならば」
「人類という種は、ここで終わるべきなのです」
「違う!」
レックスが叫ぶ。
「何が違うと言うのです?」
「俺は!」
一歩踏み出す。
「たくさんの人に会ってきた!」
「ホムラ」
「ニア」
「トラ」
「ジーク」
「メレフ」
「ファン」
「シンだって!」
「みんな違う!」
「それぞれ悩んで!」
「迷って!」
「それでも前に進もうとしてる!」
レックスは剣を握る。
「そんな奴らを見て!」
「人は変われないなんて!」
「俺は絶対に言えない!」
マルベーニは小さく笑った。
「その程度ですか」
そして。
ゆっくりとニアを見る。
「では、あなたはどうです?」
「……え?」
突然名指しされ、ニアは目を見開く。
「あなたは、人ですか?」
空気が凍った。
「それとも」
「ブレイドですか?」
ニアの肩が震える。
「何を……」
レックスが前へ出ようとする。
しかし。
「レックス」
ニアが小さく呼び止めた。
その声は震えていた。
「私は知っています」
マルベーニは穏やかに続ける。
「あなたが何者なのか」
「あなたは人ではない」
「ブレイドでもない」
「どちらにもなれない」
「半端な存在です」
「やめろ!」
レックスが叫ぶ。
しかし、マルベーニは止まらない。
「だからあなたは隠してきた」
「仲間にも」
「世界にも」
「自分自身にも」
「違う……」
ニアの声は小さかった。
「違わない」
「だから、あなたは今でも恐れている」
「本当の姿を見られることを」
レックスはニアを見る。
彼女は俯いたままだった。
拳を強く握り締め。
唇を噛み。
何も言えない。
「ニア……?」
レックスには意味が分からない。
何故ニアがこんなにも苦しそうなのか。
何故誰も口を挟めないのか。
その時だった。
「もう十分です」
静かな声が響く。
ファンだった。
マルベーニは僅かに視線を向ける。
「あなたは」
ファンはニアの前へ立つ。
「傷付いた人の心を抉ることしかできないのですね」
「事実を語っているだけですよ」
「いいえ」
ファンは首を振る。
「あなたは、人の弱さしか見ようとしない」
「だから」
「誰も救えない」
マルベーニの笑みが、初めて消えた。
「救う?」
「救われる価値がある者など、どこにいるのです」
「あります」
即答だった。
「ここにいます」
ファンはニアの肩へ、そっと手を置く。
「この子も」
「シンも」
「ホムラも」
「私も」
「みんな、救われるために生きています」
「……甘い」
「そうでしょうか」
ファンは微笑む。
「私は五百年間、その答えを探してきました」
「そして」
レックスを見る。
「見つけました」
レックスは黙ってニアの隣へ歩く。
「ニア」
返事はない。
「俺さ」
照れ臭そうに笑う。
「何にも気付いてなかった」
「……」
「だから」
「今さら何を知っても」
「お前がニアじゃなくなるわけじゃない」
ニアの肩が震える。
「レックス……」
「だから」
レックスは笑った。
「話したくなったら話してくれ」
「待ってる」
その言葉を聞いた瞬間だった。
ニアの瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。
それは、ずっと胸の奥へ押し込めていた悲しみが、初めて外へ流れ出した涙だった。
そして、その胸元で、衣服の下に隠されていたコアクリスタルが、誰にも気付かれぬまま、淡い黄金色の光を放ち始める。
その光はまだ小さい。
だが確かに。
閉ざされていた心の扉が、ゆっくりと開き始めていた。