世界樹は崩れ続けていた。
白い壁が音を立てて崩れ、遥か下方では都市そのものが雲海へ沈んでいく。
警報音は既に途切れ途切れとなり、それさえも世界の終わりを静かに見送る鎮魂歌のように聞こえた。
その崩壊の中心で。
シンは静かに壁へ身を預けていた。
「……参ったな」
苦笑する。
「もう、身体が動かない」
「無理をしすぎです」
ファンはゆっくりと隣へ腰を下ろした。
昔と同じように。
旅の途中、野営地で焚き火を囲んだ時のように。
何も特別ではない時間が、そこには流れていた。
「覚えていますか」
ファンが静かに口を開く。
「ラウラ様が初めて私たちを連れて旅に出た日のことを」
シンは目を閉じる。
「……ああ」
自然と笑みが浮かぶ。
「あの日のお前は」
「随分と人見知りだったと思う」
ファンも笑う。
「シンさんもです」
「俺は違う」
「いいえ」
「ラウラ様の後ろに隠れていました」
「……そんなこともあったな」
二人は顔を見合わせる。
思わず笑みが零れた。
五百年ぶりだった。
こんな風に、何気ない思い出を語り合うのは。
「ラウラ様は」
ファンは崩れゆく天井を見上げる。
「いつも言っていました」
『旅は終わるものじゃない』
『誰かへ繋がるものなんだ』
静かな声だった。
「その意味が」
「今なら分かる気がします」
シンは何も言わなかった。
ただ。
静かに頷く。
「俺は」
ゆっくりと口を開く。
「長い間」
「ラウラの願いを履き違えていた」
刀へ視線を落とす。
「世界を憎めば」
「ラウラを忘れずに済むと思っていた」
「でも違った」
小さく笑う。
「忘れていたのは」
「ラウラが何を願っていたかだった」
ファンは優しく微笑む。
「ラウラ様は」
「きっと怒っています」
「そうだろうな」
「でも」
少しだけ悪戯っぽく笑う。
「最後には許してくださいます」
沈黙が流れる。
崩壊音だけが遠くから聞こえてくる。
やがて。
シンはゆっくりと空を見上げた。
「……ファン」
「はい」
「ありがとう」
「何がですか」
「待っていてくれて」
ファンは静かに首を横へ振る。
「待ってはいません」
「信じていました」
「あなたなら」
「必ず帰ってくると」
その一言だった。
シンは目を閉じる。
五百年。
誰にも言われなかった言葉。
誰にも信じてもらえないと思っていた言葉。
それを。
今、ようやく受け取ることができた。
「帰りましょう」
ファンがそっと手を差し出す。
「皆さんが待っています」
シンはその手を見る。
白く細い指。
五百年前と何も変わらない手。
ゆっくりと、自分の手を伸ばそうとする。
だが。
途中で止まった。
腕が動かない。
もう。
指一本動かす力すら残っていなかった。
「……駄目だな」
小さく笑う。
「ここまでのようだ」
「そんなこと」
ファンは首を振る。
しかし。
シンは穏やかな表情のまま続けた。
「分かるんだよ」
「ブレイドだからな……」
「命が尽きる瞬間くらいは」
「ファン」
「はい」
「一つ」
「お願いがある」
「何でしょう」
「レックス達に伝えてほしい」
「……」
「未来を」
「ありがとう、と」
ファンは涙を堪える。
「それは」
「ご自分で伝えてください」
「……出来れば」
「そうしたかった」
苦笑する。
「だが」
「俺には」
「もう時間がない」
大きな爆発が起こる。
世界樹がさらに大きく傾く。
天井が崩れ始めた。
「シンさん!」
「行け」
「嫌です!」
ファンは叫ぶ。
「もう誰も置いていきたくありません!」
「お願いです!」
「一緒に!」
「帰りましょう!」
シンは静かに笑う。
その笑顔は。
どこまでも穏やかだった。
「……ラウラも」
「同じことを言っていた」
シンは最後の力を振り絞り、ファンの頭へそっと手を置く。
震える手だった。
それでも。
優しかった。
「生きろ」
「ファン」
「俺の分まで」
「ラウラの願いを」
「未来へ」
ファンは堪えていた涙を流した。
もう。
言葉にならない。
ただ何度も。
何度も頷くことしかできなかった。
「行くんだ」
その声は静かだった。
けれど。
決して覆ることのない決意が込められていた。
ファンはゆっくり立ち上がる。
一歩。
また一歩。
離れていく。
何度も振り返る。
そのたびに。
シンは小さく微笑んでいた。
最後まで。
彼はラウラが愛したままの、優しいシンだった。