Just Because! over and over   作:磯野 光輝

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Chapter 1 Nostalgic days

 その日、東京には五センチメートルばかりの雪が降り積もっていた。白い大地に映える自身の足跡、靴越しに伝わって来る柔らかな冷気。吐く息はたちまちに白く染め上げられる。

 雑多とした新宿駅の構内にとどまっているのが何となく嫌で、不意に空の下へと歩き出したものの、依然として雪は降り続いている。空を見上げると、灰色の背景の中に無数の雪が舞い散る様子が見て取れる。手で雪の欠片を捕まえると、幾許の猶予もなく雪は融解し、後には何の意味もなさないただの水滴だけが残った。

「よ、待たせたな。瑛太」

 後ろから声を掛けられた。振り向かなくても分かる、慣れ親しんだ友人の声。

「随分と遅かったじゃん。中嶋」と俺は背中を向けたままに答える。

「仕方がないだろ? 電車が遅延していたんだからさ」

 中嶋はヘラヘラと笑いながらそう言って、あまり悪びれる様子を見せない。

「で、これからどこ行くつもりなの?」

「ああ、とりあえず予約してある店があるから、そこへ行こうぜ。……今日は俺が奢るからさ」

 中嶋は自分の両手に息を吹きかけた。そして小さく「さみー」と呟いて、視線はどこか遠くのビルの先端を見つめていた。

「おごりとか、そういうの良いって」

「良いんだよ、今日ぐらい。俺が無理に誘ったわけだし、それに誘っといて遅れたからな」

「別に……」と言いかけて、俺は一度口を閉ざした。「そういうことなら、お言葉に甘えて。でも、三分の一くらいは出すよ。せめて」

「そんなことはとりあえず向こう行ってから決めようぜ」

 中嶋の言葉を皮切りに、俺たちは歩き始めた。

 

    ○

 

 道中は取り立てて特別な会話は何もなく、ただお互いが最近どんなものなのかを伝えあっていただけだった。それでもお互いに、今日集まった意味だとか、近況の核心部分だとかには触れないように話をしていて、どことなくよそよそしい感じがした。

 中嶋が予約していた店とはどこにでもありそうなチェーン店の居酒屋で、まだ時間もさほど遅くないためか、店は予約をする必要がないくらいには空いていた。中嶋が来客した旨を店員に伝えると、俺たちはそのまま二人掛けのテーブル席へと案内された。

「瑛太。何食べる?」

「俺はとりあえず何でも良いから、注文は任せる」

「何だよそれ。女に嫌われるぞ」

 中嶋は口でこそそう言ったが、別段立腹している様子もない。昔から俺たちはそういう関係だ。中嶋が物事をグイグイと進めて、俺はそれに小言を言いながらも付いて行く。それで不都合が起こったことは何もないし、不便に感じたことも皆無。何も変わらない友情。

 それから中嶋は店員を呼んで、注文を始めた。中嶋が選んだ料理はおおよそ自分の好みとも合っていたので、俺は何も口を挟まず、店員が去っていくまでの間窓の外を見つめていた。雪はその粒の大きさを増していて、路地に残された足跡を徐々に薄くしていった。

「じゃあとりあえず。乾杯!」

 ビールが運ばれて来るや否や、俺たちは何がおめでたいのかも分からないまま乾杯をした。ジョッキが軽快な音を発した直後に、中嶋はジョッキをグイっと傾け、瞬く間に半分は飲み干してしまう。

「おいおい。あまり飲み過ぎないでくれよ」

「大丈夫だって。飲み放題だし」

 そう言ってうっすら顔を赤くする中嶋は、しっかりとスーツを着込んでいること以外は大学を卒業する前と何も変わらなかった。

「ほら。瑛太もどんどん飲め。今日は瑛太の日なんだから」

「何だよそれ」

 そうは言いつつ、一口、二口とビールを飲む。ただ、この味は昔からあまり好きではない。飲めないことはないから、ただ何となく付き合いで飲んでいるだけであって、これを好きで飲んでいる(中嶋のような)人の気が知れない。

 お通しで出された枝豆をつまみながらビールを飲んでいると、中嶋はビールのおかわりを店員に注文した。そのビールは一品目の料理と共に運ばれてきた。

「それで? 例の彼女とは最近どうなの?」

 中嶋に聞いてみた。すると彼はわざとらしくハニカミながら、少しずつ惚気話を始めた。

「いやー、それがさー」

 やれどこそこへ行っただとか、やれ先日はプレゼントを買っただとか。来週はクリスマスだからおしゃれな店を予約しているだとか。中嶋は一つの惚気話を終えるたびに追加でお酒を注文し、また新たなお酒が来るとさらに惚気るといったようなサイクルを小一時間ほど続けた。俺はそこに、時折相槌染みた笑いを入れて、ちびりちびりとグラスを傾けていた。料理を口にする気には、あまりなれなかった。

「それで? 彼女さんとは付き合って何年だって言ったっけ?」

「俺たちが入社してすぐの頃に付き合い始めたから……。ああ、もう二年か。早いな。信じられるか? もう俺たち、卒業してから二年になるんだぜ」

「ああ、もう二年か」

 大学を卒業してから二年、というと、時の流れはかなり早いような気がした。けれども確かに昔のことを思い出してみると、大学のキャンパスの桜並木が、授業を受けていた教室が、やけに混み合う食堂が、記憶の中から薄れていっていることを実感せざるを得なかった。記憶の輪郭や細部がどうしても白くボヤケ、あの頃感じていたであろう様々な想いは、もう記憶の風景のどこにも存在していなかった。

 しかし何故だろう。「あの日」から四年、と考えると、印象は真逆に転じた。積み重なっていく年月がひどくゆっくりに感じる一方で、かつて描いていた夢や希望や、大切にしたかったいくつもの感情は、まだ確かに俺の中に存在していて、未だしっかりと呼吸をし、埃を被りながらも脈打っていた。

「それで? 瑛太は最近どうなの?」

「どうって、何が?」

「だから、彼女だよ」

「……別に」

 彼女なんて、「あの日」からずっといないさ。

 

       ○

 

「泉とはやっぱり、こういう関係になるべきじゃなかったんだよ」

 それが夏目からの別れの言葉だった。「あの日」も今日と同じように静かに雪が降っていて、時々上着の間を縫って風が入り込んできた。ただただ震えそうになるくらいに寒い一日だったことを、今なおよく覚えている。

 そのとき俺たちは、人のまばらな電車の中で、並んで座りながら話していた。いや、正確に言うと、話していたというよりもほとんどお互いに黙り込んでいて、ようやく交わした会話が先の別れ話だった。

「だったら、俺たちはどうするべきだったんだよ」

 俺は声を荒げそうになるのを抑えて、できる限り静かにそう言った。声を抑え込もうとすればするほど、唇は震え、言葉は揺らいだ。

 何となくではあるけれど、その日呼び出されたときから別れ話を切り出される予感はしていた。そしてたどたどしいデートの様子だとか、食事中に何度もため息をつく彼女の姿だとか、今この瞬間並んで座っているときの雰囲気だとかから、いつしか予感は確信に変わっていた。けれどいざ実際に言葉で別れを告げられると、俺の頭の中では次から次へと反論の言葉が駆け巡った。でも、そのうち実際に言葉にできたのは、ほんの一部限りだった。電車の中は静かで、車両が揺れるたびに孤独の音がした。それに対して俺の頭の中だけは、行き所の無い叫び声が反響していた。

「だって」そんな俺に対して、夏目は落ち着きを払った声で言う。「だって、私は泉の理想には答えられないし、それに……」

 夏目はそこで口を閉ざした。唇を固く結んで、目を少しだけ細めて、自分の組んだ指先をジッと眺めていた。彼女の細い指先は、先程まで雪の中を歩いていた影響か、少しばかり赤く染め上げられていた。

「理想なんて……」

 理想なんて何もない。そうつぶやいた。けれども言葉の終端は、電車の走行音でかき消された。だから俺のこの言葉が彼女にまで伝わったのかどうかは分からない。だけど彼女は俺の顔を見てゆっくりと首を横に振った。

「結局私たちは、お互いに片想いしていたころから何も変わってないんだよ。あの頃から、ずっと」

「それって……」

「だからさ」と夏目は俺の言葉を遮って言う。「だから、泉は私のことを忘れて、幸せになって」

 それが彼女の発した最後の言葉だった。彼女がそのときに浮かべていた笑顔は、俺が今まで見てきた夏目の表情の中で最も儚く、そして美しかった。それはまるで、触れてしまえば消えてなくなる雪のようで、俺は彼女に触ることも、声をかけることも、できなくなってしまった。

 次の停車駅で彼女は俺を置いて電車を降りた。俺はそれを引き留めることはできなかったし、追いかけて降りることもできなかった。俺にできることなんて、置いてかれた電車の中で、「夏目……」と彼女の名前を呟くことだけだった。

 

 あのとき夏目が言った「理想」の意味を、この頃になってやっと理解し始めた。そのきっかけは奇しくも、久しぶりに小宮からもらった特別製の卒業アルバムを眺めているときのことだった。

 いつだったか、小宮に夏目のどこが好きなのかを問われた。その際、俺は確か「不器用なところ」と答えた。その気持ちは今でも変わっていない。でも、不器用な、そして不器用でも頑張る彼女を好くというのは、ある意味ではそれ以外の彼女を認めていないことになるのではないだろうか。夏目には「不器用」以外の要素がいっぱいあって、そして俺は「不器用」以外のことをほとんど知らないままに好きになって、片想いをして、引っ越してからも再開してからもずっと好きで、そんな最中で、俺の「好き」っていう感情は夏目本人とはおよそ関係ないところで大きくなってしまっていたのではないだろうか。

 きっとそのようなことの積み重ね、総称を夏目は「理想」と言ったのだろう。そしてその「理想」は、夏目と別れたあとの今でも、少しずつ、少しずつ、歪な形で肥大していっている。

 

       ○

 

 一件目の居酒屋を出たあと、俺と中嶋はまた次の店に入った。今度の店は静かな雰囲気のバーで、俺が一人になりたいときだとか、学校帰りや仕事帰りにたびたび訪れていた店だ。中嶋はここへ来るときにはもう、足元がおぼろげになっていたが、ここでさらに無理をして飲んだために、ついにカウンターに突っ伏していびきをかき始めてしまった。昔から中嶋は酒に弱いくせに飲みたがりで、学生の頃は良く介抱していたことを思い出した。そして何事も考えずにのんきに暮らしていた頃を思い出して、俺の口元は思わず緩んだ。

「すみません、マスター。タクシーお願いできますか?」

「ええ、分かりました」と彼は慣れた様子でタクシーを手配した。

「じゃあそれまでに一杯だけ。……ジントニックお願いします」

「かしこまりました」

 タクシーが来るまでの間。俺は少しばかりマスターと言葉を交わした。思えばこの店に来るのも随分と久しぶりなことで、話すべきことはいくつかあった。それらを一つ一つ消化させていって、最後には簡単な挨拶をした。

「だからさ、マスター。俺、しばらくはこの店に来ないと思います」

「そうですか……。では、いつの日か。また会えることをお待ちしております」

 そう言ってマスターは淡く微笑んだ。俺もマスターに対して笑みを返して、店を後にした。無論会計は俺が払った。

 店から出て、ふと後ろを振り返る。そこにあるのは地下の店へと続く、何の変哲もない、細くて急な階段。ただそれだけだ。でも、ただそれだけの情景がいずれ記憶から失われてしまうと考えると、物悲しい。果たしてこの先の人生で、この店を訪れることがあるのだろうか。そう改めて思うと、胸の奥が少し、締め付けられる思いがした。

 店の前まで来たタクシーに、多少乱雑に中嶋を放り込んだ。雪中で人を担いで歩くのは思ったより難儀な作業で、何度か足を滑らせそうになった。俺がそんな苦労をしている一方で、中嶋がぐっすりと眠り続けていた。

「お客さん、どちらまで?」

「えーっとですね」

 何度か中嶋の家に行ったことはあるが、流石に住所までは覚えていない。中嶋の体をゆすって住所を聞き出そうとしたが、中嶋はまるで起きる気配を見せなかった。そこで俺は仕方なく、ある程度の方向だけを運転手に伝えて、後の事を考えるのはできる限り後回しにしようと開き直ることにした。

「すみません。とりあえず走り出してください」

 俺がそう告げると、車は緩やかに発進した。

 タクシーの窓から眺める新宿がどことなく新鮮に感じるのは、雪が積もっているからなのだろうか、それともこの近辺で車に乗る機会がないからなのだろうか。コンビニの明かりが、大声で歌う大学生たちが、植え込みに向かってしゃがみ込んでいる酔っぱらいが、窓一枚を隔てただけで別世界の出来事のように感じる。

「えいたぁ……」

 寝ぼけているのか、舌っ足らずな口調で中嶋が俺の名を呼ぶ。

「何?」

「俺はさぁ、不安なんだ。瑛太がさあ、仕事辞めたって聞いて……」

「別に……」

 そこに続けるべき言葉を、俺は思いつかなかった。

 タクシーの進行に合わせて、必死に中嶋の家を思い出して、運転手に指示を出す。何度か見当違いの方向へ行きかけるものの、分かるところからしらみつぶしに車で徘徊している内に、どうにか中嶋が住むマンションへとたどり着くことができた。

「おい、着いたぞ」と俺は中嶋の体を揺さぶる。

「うーん……」と中嶋は唸る。

「……仕方ない、か」

 俺はそれから運転手にタクシーの運賃を払い、中嶋を担ぎ出した。そして中嶋の部屋まで彼を運び、彼のポケットから鍵を取り出し、そして部屋のドアを開ける。

 中に入ると、来客用に準備していなかったためか、床には脱いだ服やら本やらが散乱していた。俺は躓かないようにしながら頑張って中嶋をベッドまで運び、寝かしつける。相変わらず中嶋は唸り声を数回上げるだけで、未だ意識は半濁としているようだ。

 自分の上着からスマホを取り出し、時間を確認すると、終電が近いことに気が付いた。今から急げば辛うじて自分の家にはたどり着きそうだが、目を開ける素振りすら見せない中嶋を見ていると、何だか疲れがどっと出てきて、帰る気力がうせてしまった。

「なあ、今日ここ泊まるけど良いよな」

 中嶋は返事の代わりに大きなイビキをかいた。

 

 その夜。手持ち無沙汰を紛らわすために、意味もなくスマホを眺めていると、突然かつての友人からLINEのメッセージが来た。

「久しぶり。近々会えない? 相談したいことがある」

 

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