Just Because! over and over 作:磯野 光輝
「デ、……デートって何……」
散々迷った末にようやく絞り出した言葉がこれだった。
「仲の良い男女が約束して会うこと、らしいよ」
「……逢引きとも言いそうだね」そう言いながら、いつぞやに調べたデートの定義についてしみじみと思い出す。「でもさ。陽斗に悪いよ」
「それだったら大丈夫」と森川さんは笑って言う。「だって、陽斗君には泉君と今日会って来るって、昼休みに連絡してきたから」
「……デートって、何?」
そう言ってため息を付く俺に対して、森川さんは終始笑顔のままだった。
〇
その日俺たちがおこなった行動をデートと呼ぶなら、男女が約束を取り付け、共に並んで歩けばそれはデートと称して差し支えのないことになるだろう。というのも、結局のところ、学校を訪れた俺たちがその後やったことと言えば、ただ単にそこら辺を散歩しただけなのだから。
〇
俺たちはデート云々の会話をした後、そのまま藤沢方面へと歩き始めた。別段、どこへ行くだとか、何をするだとかの明白な目標などはない。「ただ何となく。」理由を問われても、それくらいのことしか言えない。
俺の左側、三十センチ離れたところには森川さんが並んで歩いている。きっと俺たちのどちらかが手を伸ばせば触れ合える距離で、でも決して偶然に手が当たることはない。そんな微妙な距離感。
「私ね、この前泉君と会って、それでそのときに陽斗君とのことについて話してからずっと考えていたんだ」と森川さんは真っ直ぐ前を見つめながら言った。「どうして私は、プロポーズされたときに、『はい』って言わなかったんだろうって」
「……うん」
俺も森川さんと同じように、ただ前だけを見ながら答えた。
「結婚したいって言われて、もちろんすごくうれしかった。だけど前にも言ったように、仕事の問題だってある。だけどそれ以上に、私の準備ができていなかったんだって。そう気付いたんだ」
「準備?」
「そう。準備」
そんな話をしていると、いつの間にか藤沢駅にたどり着いた。しかし俺たちは駅には立ち寄らず、今度は大通りの流れに沿って歩き始める。
「私ね。本当に陽斗君は私で良いのかなって、たぶんそう悩んでいたんだと思う」
俺はそれをすぐにでも否定しようとした。でも、俺が言葉を紡ぎ出す前に、森川さんは話を続けた。
「陽斗君は私のことを好きって言ってくれるけど、私にはその理由が分からない。私はきっと、陽斗君の良いところをいくつもあげられるけど、私にそれと同じ数だけ良いところがあると思えないって。結婚してから陽斗君がその事実に気付いたら、私に幻滅しちゃうんじゃないかって。そう勝手に不安に思ってた」
少しの間、沈黙が流れた。森川さんは歩きながら、次に続けるべき言葉を必死に探しているように見えた。俺は彼女の隣で、ただ黙って次の言葉を待っていた。今ここで俺が適当な自分の意見を挟むのはきっと容易いことだ。でも、それはおそらく俺たちにとって良い選択ではないのだろうと、なんとなくそう感じた。
大通りから外れ、川沿いを歩き始めたとき、森川さんがようやく言葉の糸口を掴んだ。
「『恋愛においてもっとも辛いことは、愛されない事よりも、愛していることを分かってもらえない事だ』」と森川さんは言った。「これ、誰の言葉か分かる?」
俺はそれを聞いて、過去の偉人だったり詩人だったり、昔読んだ小説だったりを片っ端から思い出してみた。しかしどんなに考えてみたところで、自分の頭の中にはそれに該当するものはなかった。
「いや、全然」
俺は首をハッキリと横に振って、そう答えた。
「ふふ。ちょっと考えてみてよ。泉君は『この言葉』も、そしてそれを言った人も、きっと知っているはずだから」と言いながら、森川さんは大きく息を吐いた。「でもね。その通りかもしれないなって、改めて思ったの。私も最初は『この言葉』を軽く聞き流しちゃってた。でも、もう一回『この言葉』に出会ったときに、それじゃあダメだったんだって考えなおしたんだ」
「どうして」と俺は言いかける。「どうして、そう思ったの?」
「……泣いてたから、かな」
「泣いてた?」
「そう。泣いてたから」
そう言われると、ますます誰の何の言葉か分からなくなってきた。
「とにかく。『その言葉』をもう一度よく考えなおして、思い出したんだ。初めて陽斗君に告白されたときのことを。私あのとき、突然のことでよく考えずに陽斗君の告白を断ったでしょ? そのときも、陽斗君に悪いことをしちゃったなって、後で後悔したのに、それなのに私、もう一度同じことをしようとしてたって。そう気付いたんだ」
そう言って森川さんは突然足を止めた。
「どうしたの?」
俺はそう尋ねる。
「この辺かな?」
「何が?」
「うん?」森川さんはそう言って微笑みながら、俺の方を真っ直ぐに見つめてきた。「私が陽斗君に、『in unison』を聴いてもらったところ」
〇
俺と森川さんは、しばらく何も話さず、ただ川の流れを見つめていた。いや、きっと今、森川さんはそのもっとずっと先を見つめている。俺には見えていない何かが、今、森川さんの視界の中にある。でも、そこまで分かっていても、俺には森川さんが見据えているものが何か、分からなかった。
太陽が傾き始めていた。川面が陽光を存分に含んで、そしてそれを反射する。赤い煌きが、瞳の中に入り込んでくる。
「初詣のとき、陽斗君に突然告白されて、断って。でも、泉君と陽斗君の一打席勝負を見ていたら、何も考えずに走り出していて、気が付いたら、私、トランペットを手に持ってたの」
そう森川さんは語り出した。
「それから私、陽斗君にちゃんと返事をするまでに、またトランペットをしっかりと吹けるようになろうと思って、練習を始めたんだ。それも、この場所だった。
何でそんなことをしたのかって、色々自分の中では理由があったんだけど、多分一番は、中途半端な返事をしたくなかったから。だからもう一度、ちゃんとトランペットを吹けるようになって、それからハッキリと返事をしようと思ったんだ。何でそんな回りくどいことしようとしたのか、今にして考えたら馬鹿らしいんだけどね」
と森川さんは口元に手を当てて笑う。
「そんなことないよ」
「そうかな?」
「うん。俺は立派なことだと思うよ」
少なくとも、俺なんかよりもずっと。
「……でもね。練習をしていたある日。陽斗君が突然、ここまで自転車で来たんだ。と言っても、依子が勝手に呼んだだけみたいなんだけど。……そのとき陽斗君から頼まれたんだ。『in unison』を吹いてくれって。それで一応演奏してみたんだけど、多分技術的には凄く下手だったはず。リハビリ中で、それに、緊張もしていたから。だけど、不思議と音が広がっていくのを感じたの。この川の流れに沿って、ずっと遠くまで」
俺は目を閉じて、陽斗が聞いていたであろうその曲を想像した。穏やかな川の上を風のように流れていくトランペットの音色、美しい夕陽、陽斗の幸せそうな顔。森川さんの演奏が、街中の大気を微かに揺らす、そんな光景を。
「陽斗君はそんな私の演奏を好きだって言ってくれた。……あの頃からずっと、陽斗君はそう言ってくれてる。
私ね、だから思ったの。私が好きな陽斗君が、私のことを好きって言ってくれるのなら、それを信じたいって。もちろん未だに、何で陽斗君が私を愛してくれるのか分からないけど、陽斗君の気持ちは蔑ろにしちゃ、きっとダメなんだって。『さっきの言葉』に出会えて、そう思えるようになったんだ。……不安はあるし、まだ仕事とか色々問題だってある。だから今すぐどうこうって訳にはきっと行かないけれど、でも、陽斗君がずっとこの先も、変わらない気持ちで居てくれるのなら、私……」
そう言いかけて、いきなり森川さんは肩を震わせて笑った。
「ねえ、泉君。こういうのって惚気話っていうのかな?」
「いや、陽斗のそれに比べれば、まだまだだって」
俺がそう返すと、森川さんはもっと大きく体を震わせだした。そんな様子を見ていると、何だか俺の方もおかしな気持ちになって来た。
俺たちはそのまま、日が沈み切るまでの間、ただお互いの顔を見合って笑い続けた。別に何が面白いだとか、楽しいだとか、そんなものはまるで無かったのだけれど、それでも、俺たちは笑い続けていた。
〇
突然電話の着信音が鳴った。俺は慌てて自分のスマホ画面を確認したが、そこには何も映し出されていない。一方で、正面では森川さんが携帯を耳元に当てていた。
「あ、もしもし。……うん。うん。今いるよ。……うん。分かった」
そう言って森川さんは、自分のスマホを俺に差し出してくる。
「陽斗君から」
俺はコクコクと二回無言でうなずいてから、電話を替わった。
「……もしもし」
「お、瑛太。どう? そっちは」
「どうって、別に……」
そう答えつつ、俺は内心ビクビクしていた。状況だけ取り出してみれば、俺は人様の彼女とこうして二人きりで居るわけだし、いくら許可を取ったと森川さんが言ったところで、実は陽斗が気を悪くしている可能性だってある。
「別にって何だよ、別にって。まあいいや」電話越しに陽斗の笑い声が聞こえた。「瑛太。……ありがとな」
「え? 何が?」
「いや、これってあれだろ? 日曜日の一件のために布石を打ってるっていうか、そういうやつだろ?」
そう言われて、俺はどうにも答えに困った。陽斗の言っていることはまるで見当違いだけれど、陽斗にそのまま勘違いさせておいた方が自分から色々なことを説明しなくても良いだろうとついつい考えてしまったからだ。
何かのヒントを得られないかと森川さんの方を向いても、彼女が笑顔をこちらに向けていると分かっただけで、それ以外に何も得られなかった。
「……まあ、近からず、遠からず」
まったくもって近くはなかったが、陽斗の話をしていたのだから遠くはないと自分自身に言い聞かせた。
「おお。そうかそうか。やっぱり瑛太は頼りになるぜ」
そんな能天気な陽斗に対して、俺はついつい聞いてしまう。
「いや、陽斗はそれで良いの?」
「うん? 何が?」
「だって、今の俺と森川さんの状況ってさ、陽斗からしたらあまり好ましくないものなんじゃないの?」
「え? どうして?」と陽斗は言って、しばらく無言になった。しかしその数秒後、「あー」というつぶやきと共に、陽斗はまた話しだした。「いや、そんなことは全く考えてなかったわ。だって、瑛太と葉月だぜ? 別に全く知らない男相手だったらあれだけど……、それとも何? 今そっちでいかがわしい状況になってるの?」
「いや、それはない」
俺がそう即答すると、陽斗はまた大きな声で笑いだした。
「だろ? だったら別にいいべ。それに、今日の葉月、いつもより元気そうだったから。……俺にできなかったことを瑛太がしたってのは、正直少し悔しいけど、でも、それ以上に、葉月には幸せで居てほしいからよ」
「……ふふ」思わず俺は苦笑した。「良くそんな恥ずかしいこと惜しげもなく言えるね」
「あ? 何だ瑛太、こんにゃろう。勝者の余裕か?」
「そんなんじゃないよ。それに」俺はため息を付いた。「それに、森川さんを幸せにできるのは、やっぱり陽斗だけだよ」
森川さんには聞こえないように、小さな声でそう言った。
彼女のスマホを森川さんに返すと、二人はそこから二、三やり取りをしただけで、すぐに電話を切ってしまった。
「もう良かったの?」
「うん。大丈夫。残りは日曜日に話すって」
森川さんの笑顔は、いつの間にやら街灯に照らされ始めていた。
「ねえ。泉君。そろそろ帰ろうか」
「うん。そうだね」
冷たい夜の風が、彼女の髪の毛を揺らした。
〇
俺たちはそのまま元来た道を戻り、藤沢駅へと向かった。帰宅という観点で考えたとき、藤沢駅によるのは森川さんにとって随分と回り道だったけれど、彼女は俺の反対を押し切って付いて来た。
駅にたどり着いたタイミングで、森川さんが俺に話しかけてきた。
「ねえ。泉君」
「何?」
「……その」と森川さんは言いよどんだ。「私が偉そうに言えることなんて何一つないし、それに、泉君がどういう気持ちか何て、私には分からない。……本当はもっと、今日話そうとしていたこともあったんだ。だけど、やっぱりそれを決めるのは、私じゃないよね」と言って彼女は顔を伏せた。
「……どういう事?」
俺がそう尋ねると、森川さんは首を大きく横に振った。彼女の長い髪の毛がハラハラと宙になびいた。だけどその後、再び顔を上げたときには、彼女はまたいつもの笑顔に戻って言葉を続けた。
「ううん。やっぱりこれは、泉君自身が自分で気が付いて、そして自分で決めるべきことだから。だけど、私がさっき言った『あの言葉』だけは、忘れないで。それでね、もし何かあったら、私も、そして陽斗君も、いつでも待ってるから。だから……」
「……うん。ありがとう」
素直な言葉がポロリと口からこぼれた。
俺たちはそれからバス乗り場へと向かった。そしてそこにたどり着いたとき、幸いなことに、俺が乗ろうとしていた深沢方面のバスはちょうど発車準備を始めようとしていたところだった。
俺がバスに乗り込もうとしたとき、ふと、森川さんに聞きたいことが頭に浮かんだため、俺はそれを口にした。
「ねえ。そう言えば今日のこれはデートだって言っていたけど、それって結局どういう意味だったの?」
「ああ、それ? ふふ。昨日ね。依子が私に対して、『結婚とかプロポーズとかそんなことになる前に、男遊びの一つや二つして比較できるようにしておけ』って言ったから、それへの当てつけでちょっとそう言ってみただけ。……泉君と話したかったのは本当だよ?」
「別に、疑ったりしないよ」俺はそう微笑み返した。「今日はありがとう。楽しかった」
「私も。だから今日はありがとう」
そう言い合って、俺たちは互いに別れを告げた。
帰りのバスの中で、俺は森川さんが言っていた、とある人の言葉について考えていた。
「恋愛においてもっとも辛いことは、愛されない事よりも、愛していることを分かってもらえない事だ」
どんなに過去の知識を掘り下げてみたところで、やはりそれが誰によるものなのかは分からない。でも、その言葉に対して、俺は酷く共感を覚えた。自分の中に存在する、この女々しくてドロドロとした、恋慕と後悔が入り混じったようなこの気持ちが、一生相手に伝わらないのだとしたら、それは紛れもない悲劇だと、そう思って笑うほかないだろう。
俺はぼんやりと曇った窓ガラス越しに外を見渡して、泣きながら「あの言葉」を言ったという人の姿を探した。