Just Because! over and over 作:磯野 光輝
約束の土曜日の朝。空は快晴。街を這う冬の風はさらりと乾いていて、草木が揺さぶられるごとに鼻をくすぐられるような感覚がする。雨はもう、降る気配がない。
前日の夜に乾さんから個人ラインで「藤沢駅に十三時集合」と送られてきたが、どことなく浮足立つような気持ちでいた俺は十一時三十分の段階で既に待ち合わせ場所にたどり着いていた。
「……まあ、さすがに誰も居ないか」
藤沢駅北口の待ち合わせ場所を一目見て、誰一人として待ちぼうけている人が居ないことを確認すると、俺は思わずそうつぶやいた。いや、むしろこんな時間にここに居る俺の方がおかしいだけなんだ。そもそも「誰か」が居たところで、俺とその「誰か」はこれから一時間強もの時間をどうやって過ごせばよいというのだろうか。
俺はそれから少しの間、歩道橋の柵に体を持たれ掛けながら、眼下を走る車の列を眺めていた。次から次に様々な種類の車が現れては、数秒のうちにビルの狭間へと消えて行った。俺がこの場所でこのままボーっとしている限り、きっとこのような光景が延々と続いて行くのだろう。そんな当たり前なことに、俺はふとため息を漏らした。
十五分位そうしていると、そんな精神的感慨よりも肉体的な疲労感のほうが増してきた。いや、それ以前に、もはや冷気に当たり過ぎて指先の感覚が鈍化していた。風の音を聴き続けた耳からはヒリヒリとした痛みが頭の方へ登って来た。……ああ、もう限界だ。そう思いながら上着の袖を少しまくり、腕時計を確認すると、悲しいくらいに時間だけはあり余っていた。
仕方なしに俺はその場から一回離れ、比較的人の目を気にせずに暖を取ることができる家電量販店へと足を踏み入れた。
店内にはまるで当然かのようにクリスマスソングが流されていた。俺はそれをできる限り気に留めないようにしつつ、店内をゆっくりと回り始めた。最初にスマホのアクセサリーコーナーを冷やかし半分に眺めた。続いてスマホの新しい機種を手に取ってみて様子を見たりしてみたが、店員に声をかけられそうになったのですぐにその場から離れた。そんなことの繰り返しをあちらこちらの売り場で行った後、俺はなんとなく本屋へ立ち寄った。
家電量販店内にある本屋であっても、この一画の雰囲気だけはやはり他とは一線を画しているように感じられる。ゆっくり息を吸うと紙とインクのにおいが微かに漂っているのが分かるし、他の家電と比べても置いてある商品量の密度が明らかに異なっている。色とりどり、様々なジャンルの本。それらを端から順番に見ていくと、いつしか受験用の赤い過去問コーナーにたどり着く。
毎年毎年新調されていくその本の表紙の数字は俺が使っていたものより六年分大きい。その中の一つを俺は思わず手に取って、中身をパラパラと眺めてみた。久しく読んでいない英語の文章、知識を問うてくる歴史の問題。一体俺は今これを解いたとして、何点取ることができるんだろうなと考えてみる。……きっと半分も採れないだろうな。三割取れれば良い方といったところだろうか。まあ、まかり間違えても合格することなんてありえない。そう自嘲気味に笑いながら、俺は持っていた本を棚に戻した。照明の加減から、「翠山学院大学」の文字が輝いているように見えた。
……俺があのとき仮に翠山学院大学に合格していたとして、俺は入学までに夏目の志望校が変わっていたことに気付けたのだろうか。きっと俺たちは何だかんだ間違いに気付けないまま別々の大学に進学していたような気がする。その結末の方が、きっと俺たちらしい。
思えば俺と夏目はいつもすれ違ってばかりだった。すれ違って、勘違いして、お互いに感情をぶつけあって、もっと拗れていく。最初はそれでも良いと思っていた。夏目が隣に居てくれるのであれば、それでも。だけど次第に、心と体の距離感のギャップに苛まれるようになっていった。そしてそれは夏目にとっても同じことだったのだろう。そもそも俺たちが同じ大学に進学できた理由だってすれ違いの思わぬ結果論でしかない。すれ違いのおかげで、大学一年から二年にかけては夏目と共に居ることができた。でも、最終的にはすれ違いの所為で俺たちは別れた。……それが俺たちの正しい結末なのかもしれない。そんな不安が頭をよぎる。
〇
「ねえ、泉。幸せって砂みたいだね」
俺たちが別れる一か月前、夏目がこんな言葉を漏らした。それと同時に、初冬の大気が夏目の吐息を白く凍らせた。俺の記憶の中にまるで一枚の写真のようにハッキリと刻み込まれている、夏目との思い出。
あれは確か、二人で映画を見た帰り道でのことだった。あらかじめ言っておくが、その映画自体は酷く平凡なラブストーリーだった。大した山もなく、落ちもなく、ただそこら辺に居るような高校生たちが等身大の恋愛を自分の世界内だけで繰り広げているような、そんな古今東西ありふれた代物だった。あれから四年たった今となっては、もはやタイトルすら覚えていない。だけど一つだけ、そんな平凡な作品の中にワンシーンだけ、今も鮮明に覚えているシーンがある。
潮騒が薄っすらと流れる海岸、満月の下、主人公とヒロインが砂浜に腰を下ろしておこなった、二人で幸せな事柄について互い違いに言い合うだけという仕様もない会話。「お腹いっぱい食べる」「テストで良い点数が取れる」「みんなからがんばれって言われる」そんな言葉が繰り返されたのち、「今この瞬間が一番幸せ」という物語上無難な終着点を経てそのシーンは終了した。別になんてことはない、ありふれたシナリオの一部。けれども俺がわざわざそんなシーンばかり覚えているのは、それも結局夏目の所為なんだろう。
「砂みたいって、どういう意味?」
あの日の俺は夏目のふとした言葉に対して、ただ単にそう聞き返した。間の抜けた返事、今にして思えばそう感じられるが、だけどそれもあの時の俺にとっては仕方がないことだったのだろう。
「うん? ……うーん。なんとなく?」
俺の質問に対して、夏目は語尾を僅かに上げて疑問形で返してきた。それから夏目は少しの間小さなうめき声を出し続けたが、それも数歩足を進める内に収束していき、最終的に夏目は完全に唇を閉じた。そして彼女はただ真っ直ぐ前だけを見つめる。「もうこれ以上話すつもりはありませんから、何も聞かないでください」そんな言外の意志が、夏目の目元に落ちた影から感じられた。結局彼女は、それきりその話題に関しては口を閉ざしてしまったため、夏目がどのような意図を持って幸せを砂と表現したのかは終ぞ知り得なかった。けれどもあの日の俺ですら、この比喩が俺たちの恋人関係に対する批判であることは理解できた。いや、理解せざるを得なかった。
俺と夏目以外に誰も居ない路地裏、ポツリポツリと人工的な明かりを発する街灯。そんな中でこぼれ出てきた夏目の吐息の煌きを見ていれば、彼女の不満なんて手に取るように理解できた。
あの日の俺は二つの選択肢を持っていた。一つは夏目の意思を尊重して、何も言わないという選択。そしてもう一つは、夏目の様子なんて無視して自分から一歩踏み出すという選択。あのとき俺は、言うまでもなく前者の選択肢を選んだ。そしてその結果、俺たちは一か月後に別れることとなった。別にあのときの選択のみによってそういう結末に至ったとは思っていない。だけど、あの一件は間違いなく俺たちのターニングポイントだったんだと、思い返すことが度々ある。
……ああ、そうか。こういうすれ違いの積み重ねが俺たちなんだ。お互いの事を思って決断した選択が常に裏目を引く。そんなことが何重にも折り重なっていき、気が付いたときにはどうにもならないほどに重々しく心の中にのしかかっている。
〇
夏目の意志はもちろん大切で、尊重しなければならない。でもそれ以上にあのとき俺は自己を主張しなければならなかった。……いや、これはただの結果論か。頭の中で無限に続いて行く後出しジャンケン。永遠に終わらない妄想と後悔の連続。しかしそんな後ろめたい気持ちを未だに抱えている一方で、今この瞬間も、「夏目はどう考えているのだろう」と考えてしまう。
……いや、違う。そんな弱気じゃダメなんだ。昨日小宮から言われたじゃないか。「大切なものを絶対に離すな」と。夏目がもしほんの少しでも、いや、万が一にでも俺のことをまだ想っていてくれているのであれば、今度こそは一歩を踏み出そう。俺たちがもう二度とすれ違わないようにするためには、次につないだ手をもう二度と離さなければ良い。それこそが実に単純で演繹的な思考というものだろう。そんな思考を祈るような気持ちで何度も何度も心の中でつぶやく。
約束の時間の五分前に俺は待ち合わせ場所に戻ろうとした。しかし、その場所を遠くから眺めた瞬間に、俺の脚はすくみ歩みは止まってしまった。
雑多とした駅前。寒そうにコートに身を包む人々のその向こう側に、見慣れた人影が一つ。間違いない、遠くからでもハッキリと分かる。冬の高い空を物憂げに見つめる瞳、時折立ち昇る白いため息、髪の毛を撫でるその仕草は、記憶の中の残像と一致する。
「夏目……」
不意に唇から飛び出たその言葉は白い花を咲かせるより前に、北風によってさらわれて行った。