Just Because! over and over 作:磯野 光輝
五分間俺はその場で立ち尽くした。それが先ほどまでの決意と矛盾した行動であることは分かっている。だけど俺の両足は決意なんて素知らぬように言う事を聞かず、反対に心臓はフライング気味に過活動し、俺の胸部を圧迫し続けた。どうにもならない緊張、喉の渇き。頭の中でフラッシュバックする「あの日」の記憶、離れていく夏目の背中と何もできなかった自分の姿。「あの日」から続く呪いが、失敗に対する恐怖で今なお俺の体を束縛する。なあ、俺はまた間違いを繰り返すのかよ。今を逃したらチャンスがあるかどうかなんてわからないんだぞ。そんな意味合いを込めて太腿を強く叩いても、まだ心のどこかで誰かの助けを待っている。
けれど十三時を過ぎても、夏目以外の人影が現れることはなく、代わりに届いたのは一通のLINEメッセージだった。
「ごっめーん! 私と相馬は三十分遅れます」
この言葉のあとすぐに平謝りするウサギのスタンプも送られてきた。「プロポーズ大作戦」LINEに送られてきたこの乾さんからの遅刻報告、……これが意味するところはなんだ? そういくら頭を回しても、今の俺では「あと三十分は助け舟が見込めない」という短絡的な事実以外は何も理解できなかった。
逃げ道が失われたことによって、諦めに近い覚悟ができた。
一歩踏み出して夏目の方へ近づいていく。一歩、また一歩。感覚が遠のいて痺れている足を無理矢理に動かしていく。視界に写る夏目の姿が大きくなるたびに高鳴っていく拍動、脈拍と同期し歪んでいく世界。浅く早い呼吸は妙に熱っぽい。
夏目は今、スマホを操作し俯いている。こちらに気付く気配はない。きっと先ほどの乾さんからのLINEをチェックしているのだろう。少し画面を見つめた後、彼女はスマホを右手に持ったまま、左手で頭を抱え始めた。それ故に表情が見えなくなる。ただそれは、裏を返せば夏目の方から俺に気付く可能性もなくなったということだ。これは喜ばしいことなのか、それともその逆か。そんな取り留めのないことを考えているうちに、もう声をかけられるくらいのところまで近づいている。
「夏目」
そう声をかけると、彼女の体はピクリと跳ね上がった。夏目は素早く顔を上げてから、俺の顔を一瞬だけ見上げた。しかしその後数秒の間に、その視線は段々と下げられていき、最終的に俺の胸元辺りで止まった。そんな夏目の一挙一動が、いちいち不安に感じてしまう。
俺は少し戸惑いながらも、夏目から少し離れたところで柵に寄りかかる。
「……待った?」
何も言う事が思いつかなくて、ただ口癖のように俺はそう言った。
「……ううん。別に」少し遅れて夏目はそう言葉を返してきた。
そこからまた少しの間無言が続いた。それもそうだ。俺の方からこうやって声をかけておいて、何一つ話題を持っていないのだから。さっきまであれだけ考える時間があったのに、頭を巡らせたのは概念的な論理についてばかりで、実際的な会話の種についてなどまるで考慮していなかった。願望だけは満月のようにハッキリと輝いていて、それでいてそこへ至るための道筋は深い森の影に紛れて見えない。今の俺はまさにそのような状態にあるように思えた。
「あのさ」今度は夏目の方から口を開いた。「LINE見た?」
こんな情けない俺に対して、夏目の口調は落ち着き払っているように感じた。だけどそれと同時に、夏目の表情はこの前会ったときよりもどことなく硬いような気もした。夏目は目を少し細めて、自身の鼻先をじっと見つめているような顔を保って、口だけを器用に動かして話している。……いや、この顔をより正確に表現するのであれば、固いというよりも無表情を意識的に作っているというほうがより直感的だろうか。まあしかし、どちらにせよ、きっと俺自身も他人の事をとやかく言えないくらいには酷い顔をしているんだろうな。口元に手を当てるとそんな考えが頭をよぎった。
「乾さんからのやつ?」
俺がそう聞き返すと、夏目は深く一回頷いた。
「三十分って、いくら何でも遅刻しすぎでしょ。それも二人そろってなんて」と言って夏目は笑って見せた。だけどその笑顔は口角ばかりを無理してあげたような、苦しそうなものに見えた。
「まあ、二人には二人なりの事情があるんだよ。きっと」
なんて答えるのが正解か分からなくて、俺は当たり障りの無いことだけを口にした。
「きっと、ね」と夏目は言った。「相馬は何て言ってる?」
夏目の言葉に対して俺は首を数回横に振った。
「いいや。特になにも。乾さんからの連絡を通して遅刻するって聞いただけだから」
「ふーん。そっか……」ぼんやりと夏目は呟く。「それにしても、三十分か……」
三十分。その時間ははたして短いのだろうか、長いのだろうか。夏目はどう思っているのだろうか。いや、それ以前に、俺自身は短いと思っているのか? それともその逆か?
「でも、これってやっぱり気を使われているのかもね」と言って夏目はため息を付いた。
「……何が?」
「うん? 二人そろって遅刻ってところが」
「どういう意味?」
「はぁ」そう言って夏目は肩をすくませた。「だからさ。相馬の遅刻連絡が乾さんを通してくるっていう所がおかしいんだって。確かに今回の待ち合わせ場所を設定したのは乾さんだけど、それにしても私はともかく泉にまで相馬から連絡が来てないなんて、それってやっぱおかしいでしょ?」
ああ、確かにそう言われればおかしいのだろう。ただそれを言われるまで気付かないほどには、俺の頭も十分におかしいと言えそうだ。
吐き出したため息が微かに残って、フッと空へ吸い込まれていく。まったく、今日はたまらなく寒い。風が吹くたびに露出した鼻は痛みを発し、上着のポケットに突っ込んだ指すらもかじかんでいる。そして、こんな寒さをどうすることもできないというもどかしさに、ただひたすら孤独を感じる。
「今日はどこ行くかとか、決まってるの?」と俺は夏目に聞いた。
「……うん。まあ、一応行く店とかはこの前乾さんと決めておいた」と夏目は言った。「それよりもさ、相馬はどんな感じなの?」
「どんな感じ?」
「うん。だから、まだ本気で森川さんに指輪渡すつもりなのかってこと」
「ああ、そういう事。……陽斗はまだ、指輪を渡す気満々だよ。俺たちが裏でこそこそやっているのが申し訳なるくらいにね」
「ふふ。やっぱりね。その方が相馬らしいよ。……でも、それ用の作戦も考えてあるから大丈夫。森川さんと直接話し合って、乾さんと二人で決めた作戦だから、きっとそれがベストなはず」
空には白い絵の具で描かれたような掠れた雲が、強い風に吹かれて流されていた。きっとあの空の向こう側では強風が吹き荒れているのだろう。冬の冷たい風が、強く、激しく。それに耳を澄ませれば、ビルとビルの間を抜ける空流の音が、笛の音色のように聞こえて来る。
「ねえ、泉」
「……何?」
俺は宙を見上げていた視線を下ろし、改めて夏目の方を向いた。ほとんどそれと同時に夏目も俺の方に顔を向けた。そのとき、俺は今日初めて夏目の目を正面から見た。良く晴れた空の青を受けて色合いを増したその虹彩を、透き通っているのに深い湖のように底が見えないその瞳を。僅かに目尻だけ細めたその微笑と、微かに震える唇を。その表情は、先程までの不自然に凝り固まった顔とは違い、実に自然で円滑で、そして調和的な笑顔だった。
ああ、夏目がこんな表情をするときはきまって俺にとって不都合なときだ。別れたときだって、それに久しぶりに再開した日の別れ際だって。そんな肝心なときに、夏目はいつもこのたまらなく美しい顔をして、俺の一切の反論を封じ込めてしまう。
僅かに空いた会話と会話の狭間。一筋の風が俺たちの間を通り過ぎて行く。
「だから時間があるし、これを機に謝ろうかなって」
夏目は俺の目を見つめたままそう静かに言った。
「謝るって……」
謝るって、何をだよ。
「全部だよ。全部」夏目は言葉をさらに続ける。「今までの事全部。この前お姉ちゃんと私と泉とで変な空気になっちゃったことも、バスで仕事の愚痴を言っちゃったことも、とにかく全部」
夏目はどこか明るい調子でそう言って、くるりと身をひるがえし俺に背中を向けた。彼女が後ろ手に組んだ指先は冷たい風に当てられてほんの少し赤く染められている。
「気にしてないって、そんなこと」
夏目の背中に向かってそう言うと、彼女はこちらを振り返ることなく首を横に振った。
「違う。泉じゃなくて、私が気にしてるの」夏目はさらに話をつなげる。「疲れてたんだ、きっと。仕事とか色々で。去年は一年目なのにすぐに担任になるし……、まあ小学校だと基本的にみんなそうなんだけどさ。そこでいっぱい失敗して、泣きそうになったし辞めたくなったし、それでも頑張って何とかやって、それで今年はもっとうまくやろうって張り切ってたら、今年は今年でまた別の問題が起きて……。だからさ、疲れてただけなんだ。本当に」
失敗ってなんだよ。問題ってなんだよ。どうしていつもいつも、そういう大切なことを何も話してくれないんだよ。
「だから私はもう大丈夫。学校も冬休みに入ったし、仕事もしばらく休みだからさ」
話し続ける夏目に対して、俺は何一つ言葉を発することができない。途切れることのない夏目の話の合間に俺の言葉を挟み込むなんてことは物理的に不可能であったし、それに、夏目のこの表情を見ていたら、何を言うべきなのかも分からないほどに、俺の意識は吸い込まれてしまう。いつものように、今までのように、「あの日」のように。
「それにね、まだまだ泉に謝りたいことはいっぱいあるんだ。付き合ってた頃のことだって、それに、『あの日』のことだって」
その話は前にも聞いた。だから……。
「だからさ、泉。ごめんね。本当にごめんなさい。今まで迷惑かけて。……ううん、正直今もだよね」
だからもう謝るなよ。それ以上。
「だけどもう大丈夫。もう泉には迷惑かけない。プロポーズ大作戦が終わったら、もうそれで私たちは会う必要もなくなる。もう泉に迷惑をかけることもなくなる。それでおしまい。私たちは、それで」
そう言って夏目はゆっくりと振り返った。靴と地面が擦れる音が鳴り、続いて彼女の髪はふわりと風に舞った。少しずつ露わになる横顔、段々ハッキリと認識できるようになるその表情。
そうやって振り返った夏目の目元は笑顔を保ったままで、悲しみや涙で一切濡れていなかった。……ああ、そうか。俺は、もう一度告白するチャンスも与えられずに振られたのか。
夏目が俺の決意を知っていたのか、知らなかったのかは分からない。でも、夏目のその優しい目と柔らかな表情に、俺は一方的な別れを告げられた。それだけは覆しようのない事実だった。