Just Because! over and over 作:磯野 光輝
陽斗と最後に会ったのはいつだっただろうか。前回実家に帰ったときにはなんだかんだで会えなかったから、だいたい一年半ぶりくらいか。
俺が大学に入学して、陽斗が就職して、またゼロからの関係になるのが嫌で、できる限りLINEを送ったり、一人暮らしをしていた東京から実家に帰るときに顔を合わせたりするようにはしていた。けれどもやはり物理的な距離が離れると、何だか心も離れて行ってしまう。ただその理屈で言うならば、中学生のとき引っ越した福岡よりは近いおかげか、何とか交友と呼べる程度の関係は続けてきたつもりだ。
昨晩陽斗から来たLINEに対して、俺はまだ返信できていない。陽斗と会うのは楽しみだったが、仕事を辞めたことを伝えるのが何となく嫌で、少しばかり気が引ける思いがした。
第一、仕事を辞めた理由を何と説明すれば良いのか自分でも分からない。別段同僚と上手く行かなかったわけでもないし、仕事の内容に不満があったわけでもない。あえて言うのであれば、ただ「何となく」という言葉がピッタリと当てはまる。
「でも、まあ。別に仕事を辞めたことを話す必要もないか」
実家へと向かうモノレールの中で、俺はポツリと呟く。平日昼間という時間帯のためか、人はほとんどいない。
陽斗からのLINEに関係なく、仕事を辞めたことから一度実家に帰ろうとは前々から決めていた。だからこそ推し量ったかのような陽斗からのLINEは、少なからず俺の心を震えさせた。
そろそろ覚悟を決めよう。どの道実家に帰るんだから、断る理由なんてない。そう自分に言い聞かせ、スマホに文字を打ち込んでいく。
「良いよ。しばらく暇だから」
返信ボタンを押す指が、かすかに震えた。けれど、いざ返信をし終え、LINEの間の抜けたような投稿音が鳴ると、自分が実に馬鹿らしいことで悩んでいたのだと思い始めるようになった。
何だ、意を決した返信っていうのも、案外呆気ないものだな。笑いなのかため息なのか分からない息を吐くと、昨晩の寝不足を解消すべく、座席に深く腰をかけて、重い瞼を閉じた。
○
座った姿勢で浅い睡眠をとると、よく夏目の夢を見る。
夢の中で俺たちが居る場所は、なぜかだいたいが高校の教室だ。たった三年の三学期しか通わなかった高校に、それほどの思い入れがあったとは思えないのだが、俺は夢の中でここに来るたびに、どこか胸をなでおろす。
俺は窓際の後ろの席に座っていて、そして夏目は俺の右隣の席に座っている。時間設定は放課後の夕日が差す教室だったり、授業中だったりとまちまちで、夏目の容姿も高校生のころであったり、中学生のころであったりと、統一感がない。
夢の中で、夏目は決まって消しゴムを落とす。そして俺はその消しゴムを拾おうと床を探すのだけれど、いつまでたっても見つからない。
「泉。もう良いって。大丈夫だから」
「大丈夫って……」
俺はそう反論しようとするが、いつも決まってそこで口を噤んでしまう。だから俺は何をするのも諦めて、再度椅子に座り直す。
ただの一度もこの教室で授業を受けたことがないのに、夢の中の教室は妙にリアルだ。机や椅子の木の匂い、窓から見えるグラウンドの風景。名前すら知らないクラスメイトたちの顔も、鮮明に認識できる。
今日の夢の中では、教室には俺と夏目しか残っておらず、二人して時折聞こえてくる金属バッドの音に耳を傾けていた。外の様子が気になって、俺がチラチラとグラウンドに目を向けていると、隣にいる夏目が声をかけてきた。
「外が気になるの?」
「別に、普通」
「嘘。さっきからずっと外見てる」
「そんなんじゃないよ。ただ、陽斗が居るかどうか、気になっただけ」
俺がそう言うと、夏目はクスクスと笑った。
「相馬? ……何それ。野球部なんだから居るに決まってるじゃん」
言われてみれば、その通りな気がした。ただどんなに目を凝らして、グラウンドを動く小さな点を追いかけて眺めても、陽斗らしき人物を視認するには至らなかった。
「それにしても二人とも、仲良いよね」
「何が?」
「泉と相馬。二人の関係って羨ましいな」
そう言って夏目はため息をついた。そして彼女は何も書かれていない黒板に真っ直ぐな視線を送った。この夏目は、中学生のころの夏目だろうか。……いや、それも少し違う気がする。今ここに居る彼女は、俺の記憶にある中学生の彼女よりも、少しばかり髪が長い気がした。だとしたら、高校に入学した直後あたりの夏目なのだろう。彼女が来ている真新しい制服も、俺の推論の妥当性を誇示している。高校一年生の夏目。俺が知らない夏目。陽斗のことが好きだったころの夏目……。
「私ね。何かきっかけさえあれば変われるんじゃないかって思ってたんだ」と夏目は呟く。「でもね、そんな都合の良いきっかけなんて、起こり得るはずがない。だって、何が起きれば自分がどう変わるのかさえも、私自身分かっていないんだもん」
夏目は黒板のずっと先、もっと遠くを見つめながら、淡く微笑んだ。その横顔は、笑顔と呼ぶよりも、泣き顔と呼ぶ方が、ずっと正しい表現であるような気がした。でも、彼女が視線の先に見据えている光景は、隣の席からは共有することができなかった。
「ねえ泉。そろそろ起きなよ」俺の方を一瞥もせずに、夏目は言う。「そろそろ起きないと、乗り過ごしちゃうんじゃない?」
「今日は別に急ぎでもないから、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ。泉は、ここに居て良い人じゃないんだから」
夏目は顔を少し俯かせて笑った。いや、笑っているように見えただけで、本当のところどうなのかは俺には分からない。彼女の目には影が差していて、その先にある感情を読み取ることができなかった。だから、声のトーンや、クスクスと揺れる体から、彼女の表情を類推するしかなかった。
「それって、俺がこの教室に居るのはおかしいからってこと? ここで授業を受けたことも、そもそも入ったことすらないから」
「答えなんて、泉の方がずっとよく知ってるはずでしょ? だってここは泉の夢なんだから」
「夢……うん、夢。確かにそうだ」と俺は言う。「でも、夢だとしても、ここにずっと居たいって、どうしても思ってしまうんだ」
俺がそう伝えると、教室は突然まばゆい光に包まれた。思わず俺は立ち上がり、夏目のもとへ駆け寄ろうとしたが、すでにそこに夏目はいなかった。夏目だけでなく、机も、椅子も、教室も、夢の中にあったすべてのものが俺だけを残して、消えていた。
「あなたが見るべき人は、私じゃない。もう同じ間違いを繰り返さないで」
夏目の最後の言葉が、何もない世界に響き渡ったのち、世界は静寂に包まれた。その世界の中には、俺すらも存在しなかった。
○
目を覚ますと、視界が幾分か滲んでいた。眼をこすればこするほどに、電車の内装は滲みを増していく。たまらなくなって、首を強く横に振る。深く息を吐いて、頭を抱える。目を瞑った暗闇の奥に映る夏目の横顔は、夢から覚めたという実感が芽生えるほどに、かき消されていった。
最寄り駅である湘南深沢駅に着く直前、眼下に広がる雪景色の住宅街を見ていると、六年前のセンター試験の日、夏目のために居ても立ってもいられずに走り出したことを思い出した。そのときは相手にどう思われるのか、なんてまるで気にせず(冷静に考えれば、自分が試験を受けるわけでもないし、まだ付き合っていた訳でも夏目のために動き出すなんて、引かれても仕様がない)に走り出した過去の自分が、あの瞬間に限ってどうしてあのような行動がとれたのか不思議でならない。あんな考えなしの行動、陽斗みたいに後先を考えていない行動は、明らかに自分の柄ではない。ただ、あの瞬間、雪上を懸命に走っている瞬間の心臓の高鳴りは、それまでも、そしてこれまでの人生で一度も感じたことがない。
煌く街並みをボーっと眺めている内に、自宅の最寄り駅に着いた。寂れた駅のホーム、錆びた階段。無人駅であるために、降りる際に車掌に乗車券を渡すという行為は、ひどく田舎染みている行為な気がしていた。けれども今、こうして過去の行動を辿っていると、実家に帰って来たという実感が沸き上がって来る。
階段を下って、駅から出ると、近くのコンビニに停車していた車からクラクションの音が鳴った。
「まったく……」
覚えのある青い車、ナンバープレート。フロントガラスの奥では母親がこちらに向かって手を振っていた。
車道を渡って車に近づき、ドアを開ける。その瞬間に車特有の萎びた匂いが鼻についた。
「お帰り」と母が言う。
「迎えに来なくても良いって言ったじゃん。雪もまだ積もっている訳だし」
「良いじゃない。久しぶりなんだから」
母は終始、柔らかな笑みを浮かべたままだった。
仕事を辞めたときも、両親には事後報告だった。それでも両親は、最初は驚きはしたものの、すぐに俺の選択を認めてくれて、あとには何一つの小言も言わなかった。余りにも簡単に話が通り過ぎたので、どことなく拍子抜けしたのを覚えている。
仕事を辞めたと報告した日からちょうど二週間の今日。特に東京でやるべきこともなくなった俺なのだが、別によくよく考えてみれば、ここ神奈川でもやるべきことなんて何もなかった。ただ両親が心配していたから一度顔を出そうか、くらいの気持ちで訪れただけだ。現に今この瞬間も、運転する母親の傍ら、俺は退屈そうにスマホの画面を見ているだけだ。
何度かLINEを開いたり閉じたりを繰り返しているが、陽斗からの返信は未だ来ない。当たり前か、平日の昼間なんて、普通は仕事中だろう。むしろあんな中途半端な時間に返信したこっちのほうが異常と言える。
何だか馬鹿らしくなり、ひと眠りでもしようと思ったとき、突如スマホが震えた。期待と不安で心臓が跳ね上がる。呼吸は浅く、顔が熱くなるような気がする。ただ、いざ画面にホップアップされた「なかじ」という名前を見ると、熱くなっていた体温が一気に冷めあがった。
「昨日はマジすまん! 今度必ず埋め合わせする!」
「別に、気にすんなって。昨日は楽しかったよ」と俺は返信した。「それよりも、仕事は?」
「今、昼休み(笑) まあとにかく次回は俺が全部奢るから。また飲もうぜ!」
中嶋のその文章に続いて、「ウェーイ!」と書かれたスタンプが送られてきた。俺はそれに対して、「また今度な」とだけ返した。
中嶋とのやり取りにひとしきりの蹴りを付けると、俺は窓の外の景色に意識を向けた。懐かしい街並みは、所々が記憶と異なっていた。例えば近所のコンビニが改築されていたいたりだとか、信号がLED式に変わっていただとか、そんな言わばどうでも良い違いばかりに気が付く。そしてその風景の節々に、あのころの俺たちの姿がチラついた。
家に着くと、俺は真っ先に自室へと向かった。高校三年生のときに引っ越してきたこの家に関しては、大学生になった途端に一人暮らしをしたためか、あまり感慨のようなものは感じない。
家を出るときにまとめた荷物は部屋のタンスの中にしまい込んである。陽斗とのLINEで、少しばかり昔が懐かしくなって、そのうちの荷物を探していると、すぐに目的の思い出の品は見つかった。
中学生のころに使っていたグローブ。グローブの内側には「ラスト一球まで」と書かれている。そして陽斗が愛用していたグローブにも、同じ言葉が書かれている。陽斗は今も、あのときのグローブを大切に保管しているのだろうか。
俺はそのグローブを枕元に置いて、ベッドに寝転がった。蛍光灯さえつけていない部屋は、カーテンの隙間から外の陽光が僅かに入り込んでいるだけで、どこか薄暗い。寝不足を癒すには良い環境であるように思えた。
横向きになるように寝返りを打って、グローブをなぞるように指を這わして、感触を楽しむ。
「ラスト一球まで」この言葉は、現在でも有効なのだろうか。有効だとしたら、俺に残されている「一球」とは、一体なんだ? 仕事もやめて、過去の恋愛を引きずって、過去の友人に対してLINEを返すことにさえ臆病になっている俺に対して、最後のチャンスなんてものがあるのだろうか。
……いや、やめよう。これ以上は無益な思考だ。そう思い立ち、グローブから目を背けるように再度寝返りを打った。そして俺は、何も考える必要がないように、睡眠の世界へと救いを求めた。
寝るまでの束の間、昔のことを思い出していた。高校の卒業式の日、陽斗と一打席勝負をして、俺がホームランを打った日。あの日、最後の一球を打ち返した快音が、頭の中で鈍く響いた。