Just Because! over and over 作:磯野 光輝
「何? 森川さんに振られでもした?」と俺は陽斗に尋ねた。
「振られたっつうか……拒否られた?」
「は?」
俺たちはあれから、中学生のときに二人でよくキャッチボールをしたグラウンドまで移動して、ベンチに座りながら二人で話していた。足元の雪は昼の陽気にあてられて幾分か溶け出していて、地面はぬかるんでいた。ただありがたいことに、ベンチの上には雪が積もっていなかったので、俺たちは安心してそこに座り込むことができた。
「だからよぉ」と陽斗は情けない声で言う。「先週の土曜日、葉月と二人で久しぶりに『えのすい』へ行ってきたんだ」
「『えのすい』って江ノ島の水族館?」
「ああ。たまには昔行った場所にもう一度行くのも良いかなぁって思ってさ。あのときは俺と葉月と乾と、あと瑛太と夏目も……、いや、悪い」
「思い出話はいいから、続けて」
「悪かったって。そんなこえー顔すんなよ。……まあ、それで『えのすい』行って、イルカのショーだとか、サメだとかを見たあとにさ、二人でクラゲを眺めていたんだよ。そのときの葉月の横顔がさ、マジでキレイでさ」
結局惚気かよ、と俺は心の中で悪態をつく。ただ陽斗の声には恍惚と哀愁が入り混じっていて、それが一言ひとこと入り混じる配分が変化して、言葉の調子が浮かれたり沈んだりするものだから、俺はただ黙って陽斗の話を聞いていた。
陽斗の話を聞いている内に、段々と自分の意識が己の中に潜っていくような感覚を覚えた。周りの音が遠のき、そして風景からは色合いが消えた。意識の没入にその身をゆだねると、そこには陽斗が言っていたような、そして俺自身がかつてそこに居たような、水族館の光景が広がっていた。
きっと俺たちはそのとき、同じ話題を共有して同じ場所を想像しながら、全く別の人を想像していたのだと思う。陽斗がいくら森川さんの魅力を語ろうと、俺の想像の中に浮かぶ女性は、森川さんとはおよそ似ても似つかない別人で、それなのにその女性は陽斗が語る森川さんと同じような表情を浮かべていた。
碧いネオンに照らされた肌は月明かりのように透き通っていて、クラゲを見つめている彼女の瞳は物憂げに何かを語りたがっている。僅かに開いた唇から漏れるため息は、ほんの少しだけ震えている。左隣にいる彼女との間に空いた数十センチの空間には空調の風が時折流れ、少しばかり肌寒い。
俺は彼女の隣に立って、クラゲなんてそっちのけで彼女の横顔を眺めている。ピンで留められて露出している耳を、真っ直ぐな首筋を、揺れる前髪を、悲しそうな唇を、長いまつ毛を、そして、届かない瞳を。
不意にこちらを向いて、彼女は淡く微笑む。俺はそこから目を背けられなくなる。彼女はゆっくりと唇を動かして何かを言う。でも、俺にはそれが何を言っているのか理解できない。きっとその言葉や彼女の微笑みは俺に向けたものではなく、俺以外の誰かに向けたもので、だから俺にはその意味が理解できないのだろう。だからこそ俺は、俺が俺自身であることに負い目のようなものを感じ、そして手持無沙汰な左手を、固く握りしめる――。
「瑛太ぁ」
陽斗が俺を呼ぶ声で、急に現実に引き戻された感じがした。
「……悪い。何だって?」
「それでさ。俺、そこで思わずプロポーズしちまった」
「……ごめん。もう一度最初から話して」
それから陽斗は一から順にデートの詳細を話し始めた。彼らは水族館へ行って、イルカのショーを見て、サメを見て、そして陽斗はクラゲを眺めているうちにプロポーズをした。俺は最初、彼の話を聞き流してしまったのかと思って、二回目は一言一句聞き逃さないように注意深く耳を傾けていたが、どうしてもクラゲからプロポーズの流れを理解するのには至らなかった。
「だからさあ。これ以上詳細な説明なんて無理だって。俺だってなんであんな場面でプロポーズしたのか、マジ意味わかんね」
そう言って陽斗は頭を抱える。
「まあ、とりあえず何でプロポーズしたのかは良いや。とにかくそこでプロポーズを断られて、今困っているって解釈で良いわけ?」
「うーん。いや、それも少し違う」と陽斗は大きく息を吐く。「プロポーズをしたら、葉月に『ちょっと考えさせてほしい』って言われた」
「それって良くある話じゃないの?」
「いや、まあ。よく考えればそうなんだろうけど。俺そんときパニクっちゃっててさ、自分でもなんでプロポーズしたのか分からねえし、しかも断られるしで、それでつい食い下がっちゃって……」
陽斗はそこで大きなため息をつき、それっきりピクリともしなくなった。頭を抱えて項垂れたまま動かない彼の姿は、人生に悲観した彫刻家が作り出した遺作のようなものに見えた。
ただ、ここまでの陽斗の話で何となく話の終着点が見えてきた。
「つまりそこで食い下がって、森川さんにさらに強く断られて、それっきりで気まずいってこと?」
陽斗に確認を取ると、彼は首を一回だけ縦に動かした。さらに追及してみると、プロポーズをして食い下がった直後、森川さんは突然走り出して先に帰ってしまったため、それっきりまだ一言も話していないらしかった。
「でもそれって結局、謝るしかないんじゃない?」
俺がそう聞くと、陽斗は俯いたままに答える。
「すぐにLINEで謝ったべ。でも、未だに返信がない」
俗にいう既読スルーがちょうど一週間続いていて、たまらなくなった陽斗が俺に連絡をした。というのが、今回の相談の顛末であるようだった。
「葉月の既読スルーとか、マジで最初に振られたとき以来だわ……」と陽斗がぼやく。
確かに、陽斗と森川さんとの間のケンカの話なんて、一度も耳にしたことがないし、陽斗から時々届く近況報告も常に幸せそうな話ばかりだった。だからこそ、陽斗は陽斗なりに今回のことを重く受け止めているのかもしれない。
「できればさ、来週の日曜日までに仲直りしたいんだ」
「それって、クリスマスだから?」
俺がそう聞き返すと、陽斗はコクリと頷いた。
「はぁ。それで、陽斗は俺にどうしてほしいわけ?」
「……葉月が今どう思っているのかが知りたい。今、葉月が怒っているのか、呆れているのか、それともただ単に、俺と結婚なんて考えられないのか」
陽斗の願いは明白なものだった。ただそれを叶えるための手段が俺にはどうしても思い浮かばなかった。
「陽斗はさ」と俺は陽斗に尋ねる。「陽斗は、森川さんが良いって言うのであれば、今すぐにでも結婚したいわけ?」
陽斗は少し迷ってからポツリポツリと言葉を紡ぎ出した。
「正直分からない。プロポーズだって、思わず口から出たものだし……。でも、葉月が良いって言ってくれるのであれば」
「……ふふ」
陽斗がこんなにも可愛らしいことを、余りにも真面目な表情で語るものだから、俺は思わず笑いだしてしまった。
「な、何が可笑しい!」
「別に。可笑しいわけじゃないよ。ただ、変わらないなって思って」
「はあ?」
陽斗は昔から、馬鹿で、純粋で、そして自分に真っ直ぐだ。難しいことを考えるくらいなら先に体を動かすし、そして何より森川さんのことをただ純粋に好いている。口を開けば森川さんの話しかしないし、森川さんのためならなりふり構わず必死になれる。そんな陽斗がどこか羨ましくて、俺は笑いを止めることができなかった。
「だったらさ」と俺は笑い声の合間に言う。「プロポーズが本気なんだったら、必要なものがあるんじゃないの?」
「必要なもの?」
「ほら、プロポーズって言ったら?」
「……え? 指輪?」
「貯金は?」
すると陽斗は、「えーっと」と呟きながら指を折り、何やら考えごと始めた。そして指を四本折った辺りで突然何かに気が付いたように声を上げた。
「おいちょっと待てよ。マジなプロポーズをする流れになってるじゃねえか!」
「だって、一度したプロポーズを取り下げるわけにはいかないじゃん」
それに、俺の想像が正しければ、森川さんは陽斗のことが嫌で断ったわけではないような気がした。だからきっと、あと何か、もうひと押しするものさえあれば……。
俺たちはもう二十四歳で、陽斗に至っては社会人六年目だ。それに二人は付き合ってから五年にもなる。だから、そろそろ結婚という二文字について真剣に考え始めても良い頃合いなのではないだろうか。
たとえここでプロポーズの話が一回流れたとしても、それがすぐに別れることと直結するわけでもない。だからきっと、一番マズイのはこのままズルズルと膠着状態を引っ張って、段々とお互いの気持ちが離れて行ってしまうことなんだと思う。だったら、成功するにしても失敗するにしても一度ハッキリさせてしまって、それから二人で再スタートを切った方がずっと良いはずだ。
「でもよ。葉月がもし結婚したくないんだとしたら、……というより、俺自身が嫌われているんだとしたら、それって嫌がらせにならないか?」
絶対ないとは言えないけど、絶対大丈夫だと思う。そう言いかけたが、思えば根拠のない推論であるので、発言は控えた。ただ森川さんの事を考えたとき、嫌いな人間とわざわざ五年間も付き合い続けたりしないだろうから、きっと俺の想像は正しいと、不思議な確信があった。
「そうだ!」と陽斗は勢いよく頭を上げた。「なあ、瑛太! それとなく葉月がどう思っているのか探ってくれよ!」
「いや、話が良く分からないんだけど」
「だから。『久しぶり』だとかなんだとかで、偶然を装ってさ。そんでそれとなく葉月の気持ちを聞いてくれよ」
「いや、それ意味わからないし。それに忙しいし」
とっさに自分でもわけわからない嘘をつく。
「でも、LINEではしばらく暇だっていってたべ。ほら」
陽斗はそう言ってスマホの画面をこちらに向け、先日のLINEのやり取りを満面の笑みで見せつけてきた。それから陽斗は両手を合わせて、再三の礼をして拝むような姿勢をとる。
「なあ、マジで! この通り!」
陽斗はそのまま、馬鹿の一つ覚えみたいに「頼む! この通り!」と言い続けた。言葉を繰り返すたびにその勢いは増していき、終いには雪解けた地面の上で両膝を着こうとしたために、たまらず俺は、「ああ、もう。分かったから」と了承してしまう。
「おお! 瑛太ぁ!」
陽斗はそのままの勢いで俺に飛びついてきて、そして強く体を抱きしめられる。先ほどからずっと声を上げ続けている陽斗をよそに、俺は自分の安請け合いをひどく後悔し始めていた。
結局陽斗の興奮が収まったのはそれから三十分もあとの事で、その間にも、陽斗は何度も俺に対して確認の意味を込めて「なあ、絶対だよな。絶対やってくれるよな」と問い続けた。そして俺はそのたびに「はいはい」と空返事をした。
「はぁ。何だか結局俺の話ばかりになっちまったな」と陽斗は言う。
「何? 他にもしたい話があったの?」
「いや、うん? まあ、あるにはあるのか」と陽斗は急にまじめな表情を浮かべた。「瑛太、お前、何かあった?」
心臓が一回大きく跳ねて、体の中心から痛みに似た熱さが広がっていくのを感じた。
「別に、何もないけど」
「でもよ。今朝会ったときの瑛太の顔、結構やばかったぜ。なんというか、普段から眠そうな目してるけど、今日は……死んでた」
「たぶんそれは、今朝待ち合わせ前に走ったからだよ」
「そっかぁ。なら別に良いんだけど」
陽斗は何か言いたげに「ふーん」と呟いた。辺りには会話の余韻がしばらく漂い続けていた。どこか不満げな表情でいながらも、俺が暇な理由だとかを聞かないのは、気を使っているのか、それとも本当に興味がないのか、まるで見当がつかなかった。
「そういえば、彼女とかは?」
「居ないって、別に」
「夏目と別れてから?」
俺はそれに対して何も答えなかった。
「あーあ。瑛太と夏目はお似合いだと思ってたんだけどな」
「……昔のことだって」
「そうだな。お前らが別れてから、『えのすい』LINEだって一回も動いてないし、結局みんなで会おうって話も流れちまったし」
大学二年生のとき、森川さんの帰省に合わせてまたみんなで集まろうという話が立ち上がったことがあった。ただその話を取りまとめる直前に俺たちが別れ、――グループLINEではそれを言わなかったのに何故か――それが周知の事実となり、結局その集まる話はなかったこととなった。
「俺さ、時々思うんだ」と陽斗は言う。「今は今で、もちろん幸せなんだけど、もしあの頃に戻れたら、もっとたくさん皆で遊びたかったなって。葉月や瑛太と個別に会うんじゃなくて、みんなで」
陽斗のその意見には、俺もほとんど同意できた。しかしただ一部分だけ、俺は陽斗に同調できず、それ故に陽斗のことを心底羨ましいと感じた。
それからまたしばらく昔話を楽しんでいる内に、グラウンドには夕日が差し始め、淡い蜜色の明かりが雪中に溶け込み、新たな輝きをもって散乱していた。
そこからまた二人で話をしながら、沈みゆく陽をベンチから眺めていると、背後から近づいて来る夕闇の足音には全く気が付かず、ふとしたときには、俺たちを照らすのは遠くにある青白い街灯だけになっていた。
「どうする? 瑛太。これから飲みに行くか?」と陽斗は言う。
「ごめん。今日は何だか疲れたからパスで。それに陽斗のプロポーズの作戦も練りたいし」
疲れたのは本当のことで、それに、これ以上話していると自分の嫌なことばかりに目が行き、口に出る言葉もすべて呆れ返るようなことばかりになりそうだった。
ただ、俺がそう陽斗の誘いを断ると、陽斗は元気よく「おう!」と答えるだけだった。
帰り道、途中まで俺と陽斗は肩を並べて帰って、モノレールに沿った通りに出たところで別れた。別れ際の陽斗の背中は、高校生の頃とそっくり同じでありながら、彼の背中があの頃よりもずっと大きく見えた。
家に帰って、スマホを確認すると、陽斗から「葉月のこと、頼む」という言葉と「お願い」というスタンプが来ていた。それに対して俺は「OK」というスタンプを返した。
「頼むって言われても、一体どうすれば良いんだろうな」
第一こんなことに関して明白に答えを出せるのであれば、今の自分は悩むことなんて何もないように感じた。ただ、陽斗の必死に頼み込んできた様子を思い出すと、それを無下にはできなかった。
「森川さんに直接聞くのもな」
それから俺は随分と考えて、昔懐かしい「えのすい」のLINEグループを開いた。もちろんグループLINEで問題をごった返すつもりはないが、この問題に関して少しばかり協力してくれそうな人物の心当たりがここにあった。
グループのメンバーを確認して、目的の人物を見つける。と言っても、メンバーは五人であるため、探す必要などほとんどなかった。
「依子」とユーザー名を設定している彼女、すなわち乾さんとは、同じLINEグループに居たけれど、思えばLINE上で直接やり取りをしたことはなかった。だから今一度ここに立ち戻って、一から友達登録をするほかなかった。
こちらから一方的に友達になって、次のようなメッセージを一方的に送った。
「久しぶり。泉だけど。陽斗と森川さんのことで相談がある」
乾さんからの返信を待つ間、暇つぶしがてらに「えのすい」LINEグループを過去からさかのぼって眺めていた。最初の方には、水族館での写真がまとめて貼ってあって、その一枚一枚を眺めているとあのときの記憶がおぼろげながらも蘇って来た。
陽斗が口の大きな魚と張り合って大口を開けている写真、イルカのショーを見て盛り上がっている陽斗と森川さんの弟たち、他にもたくさんの写真があって、その節々には夏目の姿があった。
さらに画面をスクロールさせていくとしばらくは雑談が続いていて、取り留めのない会話の合間には、センター試験の日に雪の心配をしたり、センター試験の打ち上げに鍋の約束をしたりと、記憶の欠片がそこかしこに点在していた。
指を動かすごとに時系列は現在に近づいて行って、会話の頻度はどんどんとまばらになって行く。そして四年前のとある日にスクロールはパタリと止まり、それ以上の文章がないことを静かに告げられた。
最後の会話の中で、「またみんなで会いたいね」と発言する森川さんに対して、俺と夏目は同意を示すスタンプだけを送っており、「えのすい」LINEの活動はそれっきりだった。画面上に大きく描かれた白いウサギと太ったハムスターは、時が止まってしまったみたいに、ずっとこちらに笑顔を向け続けていた。
およそ二時間後に、乾さんからの返信が来た。
「良いよ。私も多分同じ用件で、誰かと相談したいと思ってたところだから」
この言葉と共に、ピンク色のウサギが「OK」という文字を掲げたスタンプが送られていた。