Just Because! over and over 作:磯野 光輝
翌日、日曜日。空は昨日よりまして良く晴れ渡っていたものの、風が強く、浮かぶ雲が細切れになっている。そんな昼下がり。俺は善行駅近くにあるファストフード店の窓際の席から外を見つめながら待ちぼうけをしていた。この駅に来るのも、前に森川さん宅で鍋を食べたとき以来のことで、換算するとおよそ六年ぶりということになる。しかしながら駅前の様子はあの頃とほとんど変わりない。窓景は二十四時間営業のスーパーを背景として、時折人々が寒そうに身をかがめながらそこを通り過ぎる。どこにでもありそうな、何の変哲もない風景だ。
「よ、泉」
乾さんが俺にそう声をかけてきたのは、俺が暇つぶしがてらに通行人の数をカウントし始めて、ちょうど三本目の指を折り曲げたときのことだった。
「久しぶり」と俺は答える。
乾さんは高校生のころと同じように、髪の毛を後ろで束ねていて、パーカーにジーパンを着合わせてた服装をしていた。
挨拶をほどほどにすると、彼女は俺の正面の席に座った。
「ま、随分と久しぶりの再会だけども、さっそく本題について話しますか」と彼女は言いながら肩をすくませた。
「その前に、どのくらいの事までは知ってるの?」
「うーん、実のところ何がどう起こったか、ってのはまったく知らないんだよねー」と彼女は言う。「この前、葉月とLINEしててさ、クリスマスの話題になって、だけど何となく様子がおかしかったから。それに泉からも突然のLINEが来たから、何か起きたんだろうなって、それくらい」
「……なるほど、分かった。じゃあ今回の事の顛末をできる限り簡単に話そうと思うんだけど」
「けど?」
「……笑わないであげてね」
そう前置きをしたうえで、俺は昨日陽斗から聞いた話をそっくりそのまま乾さんに伝えた。つまり、陽斗と森川さんのデートの一からクラゲまでの様子を。
「そこで、陽斗が森川さんにプロポーズした」
「は? プロポーズ?」
俺は無言でうなずいた。
「プロポーズって、あの?」
「その」
最初、乾さんは事態を飲み込めていなかったのか、口を半開きにして気の抜けた表情をしていたのだが、段々と頭が理解に追いついて来るにつれて、彼女の口元はほころび始め、やがてそこからは大きな笑い声が漏れ始めた。
「プ、プ、プロポーズって……」
「だから、笑ってやるなって」
そうは言いつつ、俺自身の口元も、どこか緩んでいるような気がした。
それから話を勧めようとして、彼女の笑いを制したものの、状況を詳しく説明するために「指輪」だとかそんな類の言葉を発するたびに、彼女は何回でも吹き出して笑った。だから俺が昨日陽斗にした話の内容を彼女に伝えきるのには、思っていたよりもずっと多大な労力が要された。
「まあ、そういう訳で陽斗にはそう言ったんだけど、森川さんは今どう思っているのか探りたいと思って、昨日相談のLINEを送ったんだ」
「……なるほど、……ふへ」幾分か収まって来たものの、彼女の唇は未だに少し吊り上がっている。「まあ、ただどうなんだろう」
「どうって?」
「うーん。つまり葉月が今のままでプロポーズを受け入れるかどうか、分からないってこと」と言って彼女は腕を組む。「もちろん、いきなりのプロポーズで驚いて、思わず断ったってのもあると思うんだけど、それ以外の何かもあるような気がするんだよね」
「それ以外って?」
「具体的な言葉は浮かばないけど、乙女心、的な何か?」
「疑問形で返されても困るって」
「と言われてもね、私にそんな乙女心何て分かるはずがないし」
「女子が何を言ってるんだか」
「女子であることと乙女であることは別でしょ。好きという感情と結婚という行為が結びつかないのと同じようにね」
彼女はそう言って、窓の外を見つめ、そしてため息をついた。そのため息は町中を曇らせてしまいそうなほどに、深くて長いものだった。
「随分と悲しいことを言うんだね」
「ありふれた話でしょ。でも、泉だったら良く分かるんじゃないの?」
「別に? 心当たりはないけど?」
「ふーん。まあいいや、とにかく私じゃ役に立たない方面の話もあるだろうから、泉と相馬のために乙女を呼んで進ぜよう」と彼女はスマホを取り出して、何やら操作を始めた。
「え? まさか森川さんを?」
「まさか。ただの友達を呼ぶだけだって」
友達、ね。友達の友達なんてのは、きっと世の中で一番相手をし辛いような関係性であると思うのは俺だけだろうか。いや、あるいは友達の友達を友達の前で平然と呼ぶ友達こそがもっとも付き合っていて気疲れをする相手なのかもしれない。なんて軽く冗談染みたことを考えてみる。ただ事態を進展させるための手段が他に思いつかないので、ここは苦渋の選択の末、乾さんの言う友達の友達に一つ賭けてみることにしてみた。
「一時間くらいで来られるってさ」と彼女はスマホをしまう。
言いたいことや聞きたいことはいくつかあったが、それをある程度飲み込み我慢する。しかしどうしてもこらえきれなかった言葉だけを俺は発した。
「それで? その友達とやらはどんな人なの?」
「うん? 小学校で教師やってる人」
俺はそれに対して「へー」と答えることしかできなかった。思えばそれ以外の返答などあるはずもないし、大してその友達とやらに興味がある訳でもないのに、どんな人なのかどうか聞くのは余りにも愚問であったような気がする。
「まあ、友達が来るまでの間、しばらく世間話でもしてますか」と乾さんは言う。
「世間話、ね。そっちは今も陸上やってるの?」
「お、いきなり地雷踏んでくるね」
「え?」
地雷という言葉を聞いて、俺は思わず聞き返す。大学を卒業したときには、(陽斗からの又聞きではあるが)彼女は確か企業の実業団に所属したという話を聞いたし、そして何よりも、俺が持っている彼女のイメージは常に走っているイメージであったため、それがよもや地雷になっているとは思いもしなかった。
俺が何と答えれば良いのか迷っていると、乾さんはまた顔をほころばせ、しばし口の中で笑いをこらえた後、それをどっと吐き出した。
「ごめんごめん。嘘うそ。今ちょっと怪我してるから、ってだけの話。一応今も陸上は続けてるよ」
そう言って彼女は右ひざのあたりを指し示して、少し動かして見せた。足を補正具か何かで固定しているのか、その動きは少しぎこちないものだった。
「はぁ。驚かさないでよ。久しぶりに会う相手だとそういう地雷が本当にあり得るから」
「だからごめんって。……まあ、地雷に関しては、泉の方が色々ありそうだけどね」
「……別に、そんなことないって」
「そう? じゃあ、今日こんな時期に泉が帰省している事とかは聞いても大丈夫なの?」
乾さんは突然まじめな表情になって、俺の目を覗き込むようにしながら質問してきた。その瞳はどこか確信染みていて、そこに映されている俺の姿は、まるで弄ばれているかのように矮小なものだった。
「はは。まあ、そんなものだろうとは思ってたよ」
乾さんは笑って言った。俺もそれにつられて笑った。人が少なく、物静かな店内に、俺たち二人のどこか含みを持った乾いた笑いが薄っすらと蔓延した。笑っている内に何が可笑しいのか分からなくなっても、俺は笑う事を辞めることができなかった。今この笑みを顔面から取り外してしまうと、瞬く間に店内が冬の大気に包まれてしまうような気がした。
「そうだ。一つ聞き忘れてた」と俺はわざとらしく思い出したかのようにそう言った。
「何?」
「乾さんはさ、陽斗と森川さんが結婚するって言ったら、賛成するの?」
「あーそっかあ」と彼女は両手を頭の後ろに当てて、少しばかりのけぞる。「そこまで考えてなかったなぁ」
「それもどうかと思うけどね」
「まあね。でもさ、結局私は葉月が最終的にどう判断するか、だと思ってるから」でもさ、と彼女は言葉を繋ぐ。「でも、相馬にもう一度プロポーズさせるってのは、ある意味で葉月の選択肢を広げる役割があると思うから、そういう意味では賛成なのかもしれないね」
「森川さんのこと、大切に思ってるんだね」
「まあ、付き合い長いしね。そりゃ幸せになってほしいでしょ」
「幸せ、ね」
その言葉にはどこか聞き覚えがあった気がした。
それからしばらくの間俺たちは、乾さんの友達とやらが来るまで、世間話とも昔ばなしとも分からないような曖昧な話をし続けた。話の中心に出てくる人物の大体が陽斗と森川さんで、なぜか俺も、そして乾さんも自分の話をしようとはしなかった。だけど俺にとっては自分の話をするよりもそっちの方がずっと楽で、そして楽しかった。特に陽斗が俺には見せないような一面の話を、こうやって人伝に聞くのは新鮮味があってかなり興味を引かれた。
そして一時間後、乾さんのスマホがLINEの着信を告げた。
「あ、今ちょうど駅に着いたってさ」
「あのさ。俺、今更ながらものすごく気まずくない?」
「何で?」
彼女はあくまでも、自身の行為に関しては何ら疑問を持っていないようであった。
「だからさ、まったく知らない人たち同士が、こうやって顔を合わせて恋愛話を繰り広げるって、ものすごく変な話じゃない?」
「あー。そういうこと? ……だったら、それは大して問題じゃないと思うよ。それはね」
「それってどういう……」
俺がそう言いかけると、後ろから自動ドアが開く音と、それに続く声が聞こえた。
「あ、ごめん、乾さん。遅くなっちゃって……」
その声は後半になるごとに、どこか弱々しく変動していき、最終的には自然と消え行った。ただ俺は、その声に強烈な既視感を感じた。いや、そんなはずはないと自分に言い聞かせても、どうしても懐かしいと感じてしまう。ずっと探し続けていたような、それでいて、もう二度とそれが叶わないと諦めていた相手の声。
「どうして、泉がここに居るの?」
ひどく乾ききった声は、冬の夜空のように寒々しく、そしてその内に秘める星々の煌きのようなものを、俺は背後から確かに感じた。