Just Because! over and over 作:磯野 光輝
今この瞬間の胸の鼓動を何と表せば良いのかがいまいち自分でも分からない。歓喜と言うにはあまりにも心は揺らいでいるし、驚嘆とは言い難い心臓の動きをしている。ひょっとすると世界中のどの言語に精通している人ですらも、この心を言葉にすることはできないのではないだろうか。
ただもし叶うならば、この感情をどうにかして彼女に伝え、そして、共有したい、と心からそう思った。
けれども、いくら心の底でそう思っても、ただ一片の言の葉すら口にできない。せめて無駄でも無駄なりにあがければ、幾分かましであるだろうと、そう理解はしているのに、俺の口は「あの日」とまるっきり同じように動かない。
「どうして、泉がここに居るの?」
腕時計の秒針の音がハッキリと聞こえ、無情にも時が積み重なっていくことを意識してしまう。ああ、この空白こそが、この純然たる虚空こそが、「あの日」から続く俺自身なんだろう。
「……夏目」
辛うじて紡いだ言葉は、一度口に出してしまえば不思議なほど円滑に空気と結びつく。まるで口をそう動かして、声帯をそう振るわせるのが自然であるのかのように。
「ああ、ごめんごめん。私がセッティングしたんだよね」
そう乾さんが言うと、夏目はため息をついた。
およそ四年ぶりの夏目の姿は、全体で見るとあの頃とあまり変わりなく、でも細部に注目すると、確かな違いが所々にあった。目元にはどこか疲れが見えたし、化粧の仕方もどことなく最近の流行を取り入れているように見えた。あの頃と同じようにピンで留めた髪、その奥に見える耳には、控えめなイヤリングをしていた。
それから少し言葉を交わして、夏目は俺の正面に、乾さんは近くの空席を持って来てそこに腰を掛けた。
ただお互いに正面に座りながらも、不思議とただの一度も目線が合うことはなかった。いや、それはきっと、俺がずっと乾さんの方を向いているからなのだろうが、夏目もまた乾さんのほうから目線を離そうとしなかったから、結局このまま何時間と時間が経過しようと、俺たちの視線が交わることはなさそうだった。
「それじゃあ。さっそく作戦会議でもしますか」と乾さんは言った。
「ちょっと待って。私全然状況を飲み込めてないんだけど」
夏目の意見はもっともなものであるような気がした。そして俺自身も状況を飲み込めているとは到底言えなかった。
「つまり相馬と森川さんがなんたらかんたらって話は嘘だったってこと?」
「いや、それは本当」と俺は即座に答える。
「そそ。そのために今日は夏目さんも呼んだってわけ」と乾さんは言う。「どうせなら人数も多い方が良いでしょ」
「うーん。分かるような、分からないような……」と夏目は頭を抱える。「じゃあ、相馬と森川さんが別れないようにするのが、今回集まった目的なの?」
夏目は乾さんにそう言った。
「まあ一言で言うならば、そんな感じかな? 詳しくは泉から」
「え? 俺?」
「そりゃそうでしょ。何たって泉を通じた相馬の相談ごとなんだから」と乾さんは笑う。
彼女の言葉を受けて、夏目は俺の顔をチラリとみて、そしてすぐに視線を自分の手元へと落とした。ここに来て初めて目が合って、一瞬にして気まずさが急上昇した。
「はぁ。分かった。まあできる限り簡略に話すよ」
そして俺は、本日二度目になる、陽斗と森川さんの水族館デートの話を始めた。その間乾さんはひたすらに笑いをこらえていて、そして夏目は自分の指先をジーっと見つめていた。
一言ひとことを発するたびに、息が切れる。深く息を吸い込んで、また次の言葉を紡ごうとすると、度々息だけがフライングして苦しくなる。それでも俺は、できる限り平静を保ちながら、黙々と話を続けた。
「で、そこで陽斗がプロポーズした」
「……え? プロポーズ?」
夏目が怪訝な表情で聞き返す。
「そう。プロポーズ」
乾さんが噴出した一方で、夏目は頭を抱えて小さく唸り声をあげた。その唇はきつく閉じられていて、眉間には少々の皺が寄っていた。
「まあ。それで俺たちの目的は、成功するにしてもしないにしても、陽斗にもう一度プロポーズさせて、日曜日までに二人が仲直りできるようにするってこと」
「日曜って……、ああ、クリスマスだから」
俺は無言でうなずく。
「でも、どうなんだろう」と夏目は言う。「相馬にもう一度プロポーズをさせるより、先に森川さんに話を聞いた方が良いような気がするけど」
至極まともな意見だった。
「夏目さんはさ、葉月が何でプロポーズを断ったと思う?」と乾さんが尋ねる。
「うーん。その場を見ていないから、今は何とも……」と夏目は言った。「でも、あの二人を見てたら、いつかは結婚とかしてくれたら良いなって、思ってたから……。良いよ。結果はどうなるか分からないけど、私にできる事があれば協力するよ」
そう言って夏目は笑みを浮かべた。傾き始めた西日が夏目の顔を淡く照らし、柔らかな光と溶け合う彼女の笑顔からは、温和な印象を受けた。ただ、その笑顔は優しさから出たというよりも、妥協や譲歩といった、ある種の諦めから来ている笑顔であるように俺には思えた。
「協力するったって、一体何から始めれば良いんだか」と俺が言うと、
「まあ、とりあえず、森川さんから話を聞くしかないんじゃないかな?」と夏目が答えた。
「結局、どれもこれも葉月次第な気はするよねー」と乾さん。
それから俺たちは、どうやって事態を進展させるかについて話し合ったが、結局まともな策としては、森川さんから直接話を聞き出すことだけであるという結論にほとんど落ち着き、あとは具体的な方針を取り決めようと、会議は進捗していった。
「うーん、あ、そうだ。私ちょっとお手洗い行ってくるから、二人で話進めといて」
ある程度話の区切りができたとき、乾さんはそう言ってわざとらしく席を外した。
彼女の背中が遠のき、そして見えなくなったとき、夏目が口を開いた。
「何だか、乾さんには大分気を遣わせちゃってるね」
「どうだか」
二人きりになると、俺は夏目と目を合わせられないでいた。ただそれはたぶん、夏目にとっても同じことで、夏目は相変わらず自分の指先を眺めている。
「絶対そうだって。さっきから、会話が途切れないように無理させてるもん」
「どうだろう」
俺がそう言うと、途端に空気は静まり返った。なるほど、どうやら夏目が言った事は正しいらしい。
「それよりもさ、良く夏目は、ここに来て何の小言も言わなかったよね」
「何それ」
「いや、ただこんな状況に招かれたらさ、何か裏があるんじゃないかって、思いそうだなって」
友達に呼び出されて顔を出したら、振った元カレが居たとか、何らかの陰謀の香りしかしない。
「ああ、そういう事……。ここに来たとき、泉を見てびっくりはしたけど、ただ泉は私が来ることを知らなかったんだろうなって直ぐに分かったから」
「どうして?」
「だって、私を見たときの泉の顔、すごかったもん。口なんてポカーンって開けて」
そう言って夏目は、そのときの俺の顔の真似を始めた。俺はそれを見て思わず笑いだす。「そんな顔してないよ。それに夏目の顔だって、なかなかだったよ」
「泉ほどじゃないって」
そう言って、俺たちは互いの顔を見やり、そして笑った。俺の正面には夏目が居て、夏目の視界の中には俺が居る。そんなごくありふれたはずの、懐かしいはずの情景が、しだいに俺の心を支配して行くようで、夏目を中心として自分の世界が狭まっていくのを感じる。
「あれだね。泉、今回は私のことを忘れてなかったんだね。高三の頃と違って」
「あれは違うって。……それに、今更忘れられる訳、ないじゃん」
「……うん」そうして夏目は、また視線を下に落とした。「それにね、泉には謝りたいなって、ずっと思ってたことを、乾さんも知っていたから」
「それって……」
「前にね」と夏目は俺の言葉を遮るように言う。「前に乾さんと森川さんと会ったときに、昔の話になって、それでそのとき、『泉に謝りたい』って言ったんだよね。だからそれもあって今日は私も呼ばれたんだと思うんだ」
「謝るって、今更何を?」
「泉と別れたころの私はさ、……というより私たちは、結局お互いがお互いに片想いをしているだけだったんだと思うんだよね」夏目は大きく息を吸って、そしてそれをすべて吐き出した。「だからどれほどお互いの体が近くにあっても、心の距離なんてのはちっとも縮まらないで、もどかしくて、苦しくて……。だから、私は別れようって思ったの。お互いのために。でもさ、もしあの頃、今ぐらいに落ち着いて自分たちのことを考えられたら、もしかしたら……」
夏目はそこで口を閉ざした。唇をぐっと噛み締めて、しばしの間目を固く閉じていた。それが何分間か続いたような気がした。でもそれは、あるいは俺の勘違いであって、夏目がそのような行動をしていたのはほんの数秒であったのかもしれない。ただ、俺にとっては夏目が次の言葉を発するまでの時間がとても長く、そしてとても孤独な時間であるような気がした。夏目がこんなにも近くに居るのに、そこに届かない孤独。俺はそれを黙って耐え忍んでいた。
それから夏目はゆっくりと目を開ける。
「だから、もしかしたら、もっと良い別れ方もあったのかも」
そう言って夏目は俺に微笑みかけた。彼女の笑顔は別れた「あの日」とまるで同じで、綺麗だった。そしてそれを見て、ああ、俺たちは結局、どうやっても「あの日」に別れていたのだろうと、直感的に理解した。夏目のこの笑顔を美しいと思う俺は、夏目を引き留めることは決してできないのだと。
乾さんがお手洗いから帰って来たのはそのすぐ後だった。
「お待たせ、二人とも」と言って彼女は席に着く。
彼女が戻ってくると、先程までの探り合うような会話や、たどたどしいような雰囲気が嘘のようになくなり、俺たちは陽斗のプロポーズに向けた作戦会議を再開した。ただいくら話したところで、結論などは最初から決まっていて、あとは誰がそれを切り出すか、というだけだった。
「じゃあさ、こうしよう。私が葉月を呼び出すからさ、みんなで食事に行こう。相馬なしで」と乾さんは言った。「夏目さんはそれで大丈夫?」
「うーん。平日の夜は余り早い時間じゃなければ大丈夫、かな。ただ、急に何かがあったりして、少し遅くなる場合もあると思うけど」
「おっけーおっけー。泉は? 大丈夫そう?」
「……まあ、俺はいつでも大丈夫」
そう俺が言うと、乾さんは満足そうにうなずいた。
「じゃあ、それで決まりという事で」
会議は彼女のその言葉にて打ち切られた。
店の外に出ると、辺りはすっかり赤く染め上げられていて、夕日が目に染みた。自然と俺たちは目を細め、手で目元に影を作った。
「もうこんな時間かぁ」と夏目がつぶやく。
「今日はさ、二人に会えてよかったよ」と乾さんは言った。「何だか、昔に戻ったみたい」
「そんなしみじみしなくて良いよ。どうせ近いうちに会うんだから」
俺が笑いながらそう言うと、乾さんは「それもそうか」と言って笑った。
「じゃあ、私はこれから病院で足見てもらうから、ここで」と乾さんは俺たちに手を振る。
「あ、そっか。……じゃあね。また近いうちに」と夏目は控えめに手を振った。
乾さんの姿は、すぐに夕闇の向こう側に隠れて見えなくなった。残された俺たちの頭上では電灯がともり始め、日中から続く強い風は夜の匂いを運び始めていた。研ぎ澄まされた冬の匂い、街中を這う冷気、たまらず俺は上着の中に身を潜める。
「ねえ、泉。私たちも帰ろうか」と夏目は言った。その言葉はパッと白い花を咲かせたのち、散り散りに消えて行った。
夏目の髪は風ではらはらと舞っていた。街灯の青白い光を受けた彼女の顔はとても寒そうに見えて、しきりに髪の毛を整える彼女の手は、どこかためらうように震えていた。
夕暮れと夜陰の狭間とでも言うような時間帯の中で、俺と夏目はこんなにも近くに居ながら、互いが個別に寒さと戦っていた。夏目の手を取ることができたらどんなに良いだろうか、そしてもし夏目も同じ思いでいていくれたら。なんてのは、結局、俺の独りよがりなのだろう。
体の芯がすっかりと冷え切って、俺は思わずくしゃみをした。乾いた音が空虚に響くと、鼻と目の奥が少しばかり熱くなった。