Just Because! over and over 作:磯野 光輝
「陽斗君のことは、もちろん好きだよ。でも、不安なんだ」と森川さんは静かに言った。
穏やかな店内には食器同士がぶつかる音が方々から時折響き、空調の音が静かに漂っていて、それ以外には周りのお客さんがひそひそと話す声しか聞こえなかった。だからそんな中で発せられた森川さんの声は、静かながらもどこか力がこもっているような気がした。
「不安って、どんなところが?」と夏目が尋ねると、
「うん。上手く説明はできないんだけど」と森川さんは返答に困っていた。
「ま、まあまあ。陽斗が嫌われているわけではないっていうのはとりあえず分かったんだから、あんまり掘り下げすぎるのも良くないよ。それに結婚に対して不安を抱くっていうのは、たぶん当然なことなんだからさ」
ぎこちない雰囲気に耐え兼ねて俺がそう言うと、夏目は静かに息を吐いた。
「ううん。良いの、泉君。夏目さんの言う通り、確かにハッキリさせないといけない事だから」と森川さんが言った。「たぶん、問題は色々あるんだ。例えば仕事のことだって、結婚したとしても私は実家の手伝いを止めるわけにはいかないし、陽斗君には今の仕事がある訳だから……。それに陽斗君のことだから、たぶんあの場でのプ、プロポーズは、きっと、あんまり深いことまで考えてないだろうから……」
森川さんの至極当然とも言うべき考察の前で、俺たちはぐうの音すら出すことができなくなってしまった。森川さんの言葉の節々からは、この一件に関する深い考えとそれに費やした時間を感じ取ることができた。きっと彼女は(陽斗を含めた)俺たちの中で誰よりも、今回の問題に対して真剣に考えていたのだろう。
それに対して俺たちは所詮、陽斗につられて浮かれていただけなのだろう。つまり「友人の結婚」という非日常に対して、当事者(というより森川さん)の事まで深く考えることなく、理想を理想のまま口に出していただけにすぎないのだろう。
「はは、まあ、たぶんその通りなんだろうね」と乾さんは苦笑いをしていた。俺もまったくその通りだと思った。
「うん、確かにそうだね」と夏目も言った。
この一連の流れでほとんど今後のことが決定したようなものだった。しかしこのままでは陽斗が余りにも不憫であるような気がしたので、一応なりともフォローを加えておくことにした。
「ま、まあ、陽斗もそんな後先考えられなくなるくらい森川さんのことが好きってことだよ、それにこの前陽斗にあったとき、本当に死にそうな顔してたからさ、結婚云々はなしにして一度連絡くらいは取ってあげてくれないかな」
気まずさの中で発した自身の言葉は、消え入りそうなほどに震えていた。話している途中で、いっそのこと陽斗のことを見捨ててしまおうかと思ってしまうほどに、周りの視線を強烈に感じた。それでもこうやって陽斗をかばう言葉を言い切ったことを、少しくらいは陽斗に労わってほしいと心から思った。
「うん。そうだね。陽斗君には悪いことしちゃった」と森川さんは言った。「突然のことで、びっくりしちゃったんだ。その場から逃げるように帰っちゃったし、それに、陽斗君のLINEに対して何て返せば良いのかもわからなかったし。決して嫌いじゃないけど、今はまだもう少し考えたいってことを、勘違いさせないように伝えたくって」
森川さんの言ったことを素直に受け取ると、事態は思っていたよりもずっと楽観視することができて、それでいて複雑に絡み合っているかのようだった。
つまりは、森川さんと陽斗は互いに好き合っているのだから、別れるという最悪の結末を迎える可能性は限りなく低いが、結婚という最高の結末は、森川さんの不安を一から十まで解消できないと迎えられそうにない、ということだ。
周りを見回してみると、みんながそれぞれ異なった、三者三様の表情を浮かべていた。乾さんは相変わらず呑気そうな、どこかヘラヘラとした表情をしていたし、森川さんはそれとは対照的に深刻そうに眉をひそめていた。そして夏目は少し俯きかげんで、自分の食べかけの料理をジーっと見つめていた。そんな中で俺はどんな表情を浮かべているのか、まるで見当が付かなかった。
「そう、だね」夏目が発した声の出だしは、ほんの少しだけ掠れていた。だけどその後に続けた言葉は、芯がしっかりと通った、何らかの決意がこもったような声だった。「でもさ、相馬が森川さんのことを愛してるって気持ちだけは、しっかりと分かってあげて。誰かを想う気持ちがその相手に十分に伝わらないことって、きっと何よりも辛いことだから」
その言葉を受けて、森川さんは少し考え込むようなそぶりをした。まず最初に夏目の目をジーっと見つめ、それから俺の顔をチラリと一瞥した。そして大きな深呼吸を一回してから、しっかりとした口調で答えた。
「……うん。分かった。私、陽斗君に自分の気持ち、ちゃんと伝えるよ」
そう言い終わると、森川さんは表情を少し和らげた。それにつられて、夏目の顔もどことなく綻んだ。
「ささ。この件はこれで解決ってことで、改めて乾杯と行きましょ!」
乾さんがそう言ったのに合わせて、俺たちは促されるがままにグラスを掲げた。乾さん以外、全員が全員苦笑いを浮かべていたが、いざ互いのグラスを合わせると、途端に可笑しさが込み上げてきて自然と笑みがこぼれた。
乾杯からしばらくの時間が経つと、コース料理の最後にとデザートが運ばれてきた。小さいお皿に乗ったシンプルなバニラアイスで、俺たちはそれを食べながらポツリポツリと当たり障りのない昔話を始めた。
「まあさ、相馬は昔からそうだったって、いつも行き当たりばったりで、後先考えなくて」と乾さんが笑いながら言った。「でもさ、私たち、そのおかげでこうやって友達になれたんだからさ、もしかしたら感謝しなくちゃいけないのかもね」
「ふふ。確かにそうかも」と夏目が笑った。
「じゃあさ、次はちゃんと陽斗も呼んで、五人全員でまた食事でもしようよ」と俺が言うと、森川さんは、「そうだね」と答えた。
「だからそれまでに、ちゃんと陽斗君に気持ちを伝えないと」
そう言ってアイスを口に入れる森川さんの表情は、今日一番の晴れやかな表情だった。
〇
食事を終えて店から出て、藤沢駅までの道のりを歩いているときに、森川さんから声をかけられた。
「ねえ、泉君。ちょっとだけ良いかな?」
「俺? ……まあ、全然かまわないけど」
こうやって改まって森川さんから声をかけられるのは、今まであまりなかったことのような気がする。
夏目は一瞬だけ俺の顔をチラッと見て、すぐにまた正面を向いた。そして乾さんと会話をし始め、微笑を浮かべた。
一方で俺と森川さんは少しだけ歩くペースを落として、乾さんと夏目のあとを追って行くように二人の後ろに付けた。夏目たちの声が街の音に紛れるようになったとき、森川さんが口を開いた。
「泉君と夏目さんは、まだ、その……」
森川さんはそこで言い辛そうに口を噤んだ。
「……別に、どうともなってないよ」
「そう、なんだ」
俺がそう答えると、ほんの少しだけ沈黙が流れた。車が何台かすぐわきを通過して行った。すれ違った通行人は何が楽しいのか、ゲラゲラと笑っていた。俺と森川さんは互いに黙りながら、粛々と夏目たちのあとを追っていた。
あともう少しで駅に着くというタイミングで、森川さんは再度口を開いた。
「あのね、泉君」
「な、何?」
唐突に大きな声が出されたので、俺は少し驚いた。
「……ごめん。やっぱり何でもない」
森川さんが言おうとしていたことのニュアンスは痛いくらいにヒシヒシと、地肌を通して伝わって来た。でもそれを実際の言葉に置き換えてあげることは、俺にはできなかった。どんな言葉を当てはめるのが適切なのか、俺には分からなかったからだ。だから、森川さんがそれを伝えることを諦めたのも、無理がないことのように感じた。
「あのさ。心配してくれてありがとう」
俺がそう言うと、森川さんはほんの少しだけ微笑んで言った。
「ううん。だって私たち友達でしょ? だからさ、次はちゃんと五人で集まろう」
「うん。そうだね」
ため息とも安堵ともつかない息が、自然と肺の底から漏れだした。
駅に着き、森川さんと乾さんが改札に入ったのを見届けて、俺と夏目はバス停へと向かった。
一昨日一緒にバスに乗ったときのことを思い出して、どことなく気まずさを抱えている俺に対して、夏目はスマホをしきりに操作しながら、また俺のものとは別種の焦りを感じているようだった。
「あのさ、どうかした?」と俺が尋ねると、
「え? あ、うん。ちょっとね」と夏目ははぐらかすように答えた。
そんな会話をしているうちに俺たちはバス停へとたどり着いた。時刻表で次のバスの時間を確認すると、まだしばらく時間がありそうだった。
「バス、少し待つことになりそうだね」と俺は言った。
「う、うん。そう、なんだけど……」
夏目がそう言いかけたとき、バス停に一台の車が停まった。もちろんそれはバスではなく、普通の自家用車だったのだけど、停まった瞬間にクラクションが鳴らされたことと夏目の表情から、何か厄介ごとが舞い込んできたのだとすぐに理解した。
「お待たせー美緒。おっ瑛太君も久しぶりー」
「……お久しぶりです。美奈さん。……綺麗になりましたね」
見え透いたお世辞を皮肉を込めつつ仕方なく口にすると、美奈さんは運転席から満足気な笑みをこちらに向けてきた。
夏目が隣で大きなため息をついたのを尻目に、俺は頭を抱えつつ大袈裟に肩をすくめた。
〇
何が楽しくて振られた彼女とその姉と同じ車に乗り合わせているのかは分からなかったけど、それはきっと助手席に乗っている夏目も同じようなことを考えているのだろうと推測するのは容易なことだった。後部座席にただ一人座った俺は、窓の外に流れる夜の街並みに救いを求めようとしていた。しかし、窓ガラスを隔てた外の景色は俺にはまるで無関心で、ちっとも救いの手を差し伸べてはくれなかった。
「へー。瑛太君、今こっち戻って来てるんだ」
「はい、まあ、所用で」
「ふーん。そっかそっか」
美奈さんは俺と夏目のことを知っているのか、知らないのか。どちらなのかは分からなかったが、知らないとすればあまりにも察しが悪すぎるし、知っているとすればあまりにも暢気すぎるような気がした。
夏目は俺とは反対側の街並みを見つめたまま、先程からピクリとも動かない。時々声をかけられても中身のまるでない空返事しか返していない。俺もできることなら、それとまったく同じ反応をしたいと思ったが、仮にも送ってもらっている身分でそれは図々しいにもほどがあるので、ある程度体裁を保った返事をしていた。
「それで? 今日はまた何かあったの?」
美奈さんの問いに対して夏目が口を開かなかったため、俺が代わりに答えた。
「今日は高校のときの友達と会ってたんですよ。その帰りで」
「へー。良かったじゃん。美緒」
夏目はあくまでもだんまりを決め込むようだった。
夏目家が近づいたとき、美奈さんが夏目に話しかけた。
「私これから瑛太君を家まで送り届けるけど、美緒はどうする? 降りてく?」
夏目が答えるより前に、俺が先に答えた。
「悪いですよ。流石に。ここまで送ってもらっただけでも十分なのに」
「良いから良いから。私が送りたいから送るの。それで? 美緒は?」
「……私は、降りるよ。今日はちょっと、疲れてるんだ」
「そう? 残念だねー」
美奈さんが誰に対してそう言ったつもりなのか、俺には理解できなかったが、少なくとも美奈さんだけはこの状況を楽しんでいるかのように笑顔だった。
夏目は言葉通り、彼女の家に着いたとき迷わず車から降りて行った。扉を閉めてこちらに小さく手を振る夏目に対して、俺も数回手を振り返した。
さて、こうして別れた恋人が車から降りていくと、この空間に残った人選は更に良く分からないものとなった。しかし美奈さんはあくまでも楽しそうに微笑みながら運転を続けていた。
「まあ、世の中には残念なことなんてたくさんあるよね」と美奈さんが突然言った。
「何がですか?」
「うん? 例えばお似合いだと思ってたカップルが別れちゃったりとか?」
「……知ってたんですか?」
俺がそう聞くと、美奈さんは意地悪く(少なくとも俺にはそう見えた)笑った。
「まあ流石にね。いくらか相談には乗ってたからさ」
「……それはどうも、ご迷惑をおかけしました」
「瑛太君は悪くないよ。……それに一応フォローしておくと、美緒もね。誰も悪くない、仕方がなかったことなんだと思うよ」
「お似合いのカップルなのに、仕方がない結末なんてあり得るんですかね」
「お似合いだからこそ、仕方がない結末があるんだよ」
俺には美奈さんの言葉の真意が良く分からなかった。その旨を素直に伝えると、美奈さんは少し笑いながら答えた。
「私も別に心理学を専攻していたわけじゃないからさ、詳しいことも根拠があることも言えないけど、たぶん二人は似合いすぎてたんだと思うんだ。私は」
「どういうことですか?」
「つまりさ、似すぎてたんだよ。二人はそっくりだってこと。だからどちらかが辛いときに、二人そろって辛くなっちゃって、それでいて二人とも自分で抱え込んじゃう性格してるから、それをうまく共有することができなくなっちゃうって悪循環に陥ったんだと思うよ」
「まるで実際に見たかのような口ぶりですね。……でも、その通りかもしれないです」と俺は言った。「夏目から別れを切り出されたとき、『私たちはお互いに片想いをしているだけだ』って言われたんです。……その意味を、今ようやく分かった気がしました」
そう言い終わって、俺は一体何を言っているんだろうと思った。言ったことを取り消したいとも思った。こんな女々しくて馬鹿らしいことを言うと、美奈さんの爆笑を誘発するのではないかとすら考えた。でもそんな予想とは打って変わって、美奈さんはすごく真剣な表情を浮かべていた。
「でも、瑛太君は今、一歩前進できたんじゃないかな? たぶん、振られたときの話を誰かにするなんて、初めてでしょ?」
確かに、こんなこと今まで誰にも言ったことがなかった。けれども、そのことと一歩前進がどう結びついているのかが俺には分からなかった。
そのことを質問しようかどうか迷っているとき、ちょうど車が俺の家へと着いたため、終ぞ聞く機会を逃してしまった。
お礼を言って車から降りようとしたとき、美奈さんが声をかけてきた。
「最後にさ、これだけは聞かせて。瑛太君は、美緒のこと、まだ好き? チャンスがあるなら、また付き合いたいと思ってる?」
「……たぶん、その選択肢は俺にはないですよ。俺が好きかどうかは関係なく、あんなひどい別れ方をしたんだから、向こうがまた付き合いたいなんて、思わないですよ」
俺がそう答えると、美奈さんは、
「そっかー。瑛太君ならそう言うと思ってた」と笑った。「そんな瑛太君に一つ、良いことを教えてあげるよ」
「良いこと?」
「昨日偶然さ、美緒に同じ質問した訳なんだけど、実は全く同じ答え方を美緒もしてたんだよね。やっぱり二人はお似合いだよ」
美奈さんは俺を励まそうとしているのか、それともお似合い同士の俺たちの恋愛はもう諦めろと遠回しに宣告しているのか、どちらなのかは理解できなかったけど、彼女の言葉を信じるならば、俺たちがよりを戻すかどうかの選択肢は誰が持っているのか、その所在が行方不明になってしまっているような気がした。