早坂さんは明かしたい   作:パン de 恵比寿

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早坂さんは愛されたい 後

「ママー。見てひこうきー。」

「はいはい、危ないから窓から顔出しちゃダメよ。

 天気予報じゃ曇りって言っていたけど、ほんと良く晴れたわねぇ」

「ああ、絶好のドライブ日和だ。これで渋滞さえなければ、言うことないんだけど」

「けど良かったの?せっかく取れたお休みだったのに」

「家でゴロゴロしているだけじゃ、あっという間に時間が過ぎていくからね。それに今日の大会は、以前からずっと見てみたいと思ってたんだ。

 今の世代を代表する選りすぐりの選手たちが集う大会。僕たちみたいな庶民が、あの秀知院学園の中に入れるってだけでも凄いことだと思わない?」

「それはそうだけど……。あなた、本どころか新聞だって読まないじゃない。討論大会なんて、見ていて楽しめるの?」

「うっ……まぁそれは……」

「ママー。見て見てー」

「はいはい、今度はなぁに?」

「ばいくー」

「バイク……?あらほんと、凄い速さねぇ。

  ………あら?でもあれバイクじゃなくて―――」

 

 

 

 

【早坂さんは愛されたい 後】

 

 

 

「……妙ね」

 

 車外に映る景色に目を細めながら女は訝しげに呟く。先刻まで少女を苛んでいたとは思えない、沈思と剣呑に満ちた面持ちだった。

 

 ……車の通りが多すぎる。時刻10時02分。平日の朝とはいえ通勤時間帯(ラッシュ)も終わり、交通量も少なくなってきて良い頃合い。事前の調査でも、特別道が混むような場所ではなかった筈だ。

 だが現実は真逆、車道を往来する車の数は益々と増え、渋滞とは行かずともスピードを大きく制限される形になっている。出せて時速40km前後。予定ではとうに郊外へと逃げ果せている筈が、想定外の足止めを受け、車内には焦りと苛立ちの空気が広がりつつあった。

 

「……秀知院で開かれる討論大会(イベント)の影響でしょうか」

「それにしたって数が多すぎるわ。学園に向かうのであれば、郊外へ(くだり)の道まで混むのはおかしい」

 

 ……四宮が動いていると考えるべきか。思案を巡らせながら、女はチラリとバックミラーを見やる。

 

 後部座席の中央に縛り付けられた少女、四宮かぐやは、浮かべる表情に力もなく、縋るような目でサイドミラーを見つめている。先刻の責め苦が余程堪えたか……だが、鏡には尾行するような車の姿も、最も警戒した空からの追っ手の気配もない。

 

 蟻のような行列を為す車の群々は、互いの距離が近いがために車種や運転手の顔も覚えやすい。この交通量での車の尾行はかえって困難。学園からここまでの道をつけ追う車があれば気づかないはずがない。

 

 一方で、こちらが車道を利用している以上、ヘリコプター等で上空から追われれば、トンネルに身を隠しでもしない限り追跡の目を逃れることはできない。その危険性を熟知していたからこそ、車内の部下にも、また街内に潜ませた多くの仲間たちにも、街内上空の様子には細心の注意を払うよう言い聞かせていた。

 

 幸いというべきか、仲間からの無線によれば、四宮家護衛陣の中でも相当な混乱があり、捜索に遅れが生じているのだという。磐石に見える警備体制も、一度崩れて仕舞えば脆いもの……否、その磐石さを崩し得るだけの準備を此方は行ってきたのだ。

 こちらが人質を車内に捕えている限り下手な手出しはできない筈。部下の手前 注意を呼びかけはしたが、計画の要である四宮かぐやを手中に収めた今、『四宮』に対する警戒は微かに薄まりつつあった。

 

 今むしろ危惧すべきは―――

 

「わかったわ、ありがとう。……進路変更よ。次の交差点を左に。山道を通って迂回します」

「……また、ですか」

「ええ……警察の動きがヤケに早い」

 

 苛たしげにハンドルを切る運転手の隣、膝上の通信機に目を落とし眉をひそめる女。

 

 これで、5度目か。路上に設置された検問を避けるため、進路変更を余儀なくされたのは。

 

 四宮家に限らず警察の存在もまた、計画を阻む大きな障害だ。

 特に誘拐事件が発覚した際、彼らの手によって設置される臨時検問。車という移動手段を用いている限り、道路を封鎖されてしまえば突破は容易ではない。警察とて闇雲に犯人を探しているわけではないだろう。検問を敷くに至ったかぎり、人質や犯人についてある程度の輪郭を掴んでいる筈。

 

 

(やはり誰かに見られていたか……早めに車を変えて正解だったわね)

 

 だが楽観はできない。万が一警察の目にとまり、車内を捜索されでもすれば人質を背負う我々に逃げ場はない。その危惧が有ったからこそ、事前に逃走ルートを幾通りにも練り、進行先を仲間に監視させては、検問との接触を確実に避ける策を労してきたのだ。

 

 進路を変えたことで、また計画に遅れは出るが、背に腹は代えられない。

 

 ……しかし四宮の護衛陣とは対称に、警察の動きの迅速(はや)さはどうしたことだろう。

 都心から郊外へと伸びる無数の道、それら全てに検問を敷くことは時間や人員的な目から見ても不可能である。国道や大通りといった、ある程度の箇所に絞って配置するのが定法。こんな場末の山道にまで手が伸びるのは些か展開が早すぎる気がする。

 

 ―――警察だけならばまだ良い。

 

 気になるのは、3度目、4度目の進路変更時に現れた謎の黒服たちの存在。

 発見した部下からの報告によれば、黒服に身を包んだその5、6人の男たちは、道を通る車を一台一台止めては、中の様子を覗き見ていたのだという。

 その止め方というのが、先ず一人が車道の真ん中に仁王立ち。運転手が慌てて車を止めたところを、残りの数人で取り囲むという、まるでチンピラ紛いの方法。断片的な情報を聞いただけでも、マトモな連中ではない。

 

 何故そんな存在が、この時間、このタイミングで私たちの進行先に現れたのか。疑問は絶えず、しかし正体を確かめると向かった部下からは以降の連絡が取れず、不気味な存在感のみを残すこととなった。

 

 

「……嫌な気分ですね」

 

「ええ……想定外のことが多すぎるわ」

 

 

 見えない手にじわりじわりと首を締め付けられているような。

 

 あるいは、後ろに座る少女……四宮かぐや本人なら何か知っているのではないか。まだこちらの知らぬ情報を隠し持っているのではないかと揺さぶりをかけたが、生憎とその成果も得られなかった。

 いたずらに苛むような言動、こちらの計画(カード)の一部を明かして見せたのも、少女の心裏を暴きだすため。

 希望を失ったように怯え揺れる少女の瞳。その様は、とても嘘をついているようには思えない。………思えないのだが、この少女からは常に何処か芝居掛かった雰囲気を感じており、それが女の猜疑心を擽っていた。

 もしこれが全て演技だというなら大した役者である。

 

 その時、再び膝上の通信機が震えだす。

 思案を乱され、また検問を敷かれたのかと苛たしげに通話に出た女は、しかし報告を聞き入れた途端、表情を凍りつかせた。

 

「………。次のトンネルで、車を停めなさい」

「は?停めて、よろしいのですか?」

「囮の車が捕まった……この車と同じナンバーの車が」

 

 それが一体何を意味するのか。驚き目を見開く運転手を横目に、女は縛られた少女を睨みつける。

 

 ……あり得ないことだ。少女には明かさなかったが、万全に万全を期して、車の交換は二度にわたって行ってきた。それでもナンバーがわれる(・・・)ということは、乗り換えの瞬間を二度とも見られるか、やはりこの少女が何らかの方法で外と連絡を取っているとしか考えられない。

 

「こいつはまだ何かを隠している。それを吐かせるわ」

 

 替えの車は用意することはできる。だがその前に、禍根は絶っておかなければ。

 殺気にも似た視線を浴びせられながら、それでも、少女の潤んだ瞳は、変わらずサイドミラーに浮かぶ陽炎のような影を追い続けていた。

 

 

 

 

 

 □■□■

 

 

 

 

 別段……演じることに特別な才能があったわけではない。

 

 どんなに素質があろうとも、何かを修めるために必要な努力、習熟までに歩むべき長い道のりの全てが無くなってくれるわけではない。

 

 修めるものの位が高いほど、道のりはより長く険しく……それが、この国の頂点に連なる『四宮』の近従となれば尚更のこと。課せられる数々の薫陶に、私は幾度となく自身の無力と不器量を思い知らされてきた。

 

 

『早坂の娘が、こんなことも出来ないのか』

 

 

 浴びせられる心無い言葉。繰り返される叱責は未熟な心を容易く蝕んでいく。

 どんな才能も、子供を大人にしてはくれない。

 

 それでも、臆病な私には逃げ出す勇気も無く

 何より、寄せられる両親からの期待を裏切ることだけは、絶対にしたくなくて……

 だから何でもなく、誰にでもなく。一番初めに嘘をついたのは自分の心。

 

 哀しいという想いに蓋をして。淋しいと嘆く心を押し殺して。幾重にもガラスの仮面を被り重ねては、弱い己をひた隠してきた。ガラス越しに映る世界は色褪せて見えたけれど、浴びせられる叱責に傷つくのが仮面だけならば怖くはなかった。

 

 そうして歩いてきた長い道のり。

 年を経るごとに広まっていく視界、幼いころには遠い頂だと見上げていた場所が、今は足元にあることを感じながらも、道は終わりなく続いていることを知る。

 ふと呼ばれた声に振り返れば、使い棄てた幾つもの仮面が転がる道を、影のようについて来る一人の女の子。どれだけ走ろうとも離れない。裸足で傷だらけの足、朧げな顔はもう思い出すことも難しいけれど……それでも声だけはハッキリと、泣きそうな声で問いかけてくる。

 

 

 

 

 ねぇ、本当にこれで良かったの――?

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ、―ぁ――」

 

 コンクリートの壁に強く打ち付けられた背中。痛みに漏れ出た声が、長く薄暗いトンネル内に木霊する。

 車を降り、少女を取り囲むように壁際へと追いやる男たち。その中心に立つ女が、滲むような怒りを湛え声を上げる。

 

「いい加減に答えなさい。いったいどうやってナンバーを伝えたの」

「なん、の……ことですか」

「まだシラを切る気……?意地を張ったところで、なんの為にもならないわよ」

 

 また、渇いた音が響く。両腕を後ろで縛られまま、強く頬を打たれた少女は、支えも取れずに地面へと膝をついた。伝うアスファルトの冷たい感触。痛みのせいだろうか、意思に問わず滲み出でる涙、歪む視界向こうには、思い出したくもない情景が浮かび上がってくる。

 

 

『―――最近のお嬢様の振る舞いは、目に余るものがあります』

 

 

「貴方たちこそ……いったい何が目的なんですか」

「……何ですって?」

「私を人質に、お父様を脅迫するつもりですか。だったら、私を攫っても……」

「無意味、だと言うの?」

 

 コクリと。悔しげに頷く少女に、女は冷めた瞳で見下しながら息をこぼす。

 嘲笑と哀れみ。そんな想いが入り混じる表情(かお)だった。

 

「確かに貴方……四宮かぐやは、人質としての価値は低いという意見もあったわ。

 その生い立ちや、本家から受ける冷遇ともとれる扱い……四宮家総帥である雁庵への脅迫材料(カード)としては不十分だとね。

 ……私自身、あの男に人並みの愛情があるなんて思っていなかった」

 

 響く言葉に、グッと目を細める。何を言い返すこともできず、悔しさと悲しさを噛みしめるように。そんな少女に、女は視線を合わせるように膝を折ると、静かに言葉を付け足す。それでも、と。

 

「それでも、血を分けた娘よ?

 本当に何の愛情も無い子なら……わざわざ別邸を与えて、其処での生活を許すと思う?

 無関心なような扱いも……親族同士の権力争いや嫉妬に塗れた本邸の環境から、少しでも遠ざけるためだとは考えなかった?」

「っ―――」

「あの男の真意なんてわからない。復讐の相手に情愛の有無を求めるなんて皮肉な話だけれどね。それでも貴方が、父親の庇護のもとで育てられてきたことは事実。

 愛情や親切心も……結局は捉え方次第。解釈を変えるだけで幾らでも意味を違えてくる。

 覚えておきなさい。愛って字は心を受け入れると書くの。相手の心を知らなければいつまでたっても愛情は見えてこない。

 ……分からないわよね。今ある日常も、余りある幸福も、全てが当たり前に在るものだと思っている貴方には……」

 

 全てを諦めたように、冷たい瞳で見下ろしてくる女。どこか苦しげな表情は、遠い過去の自分を罵倒しているようでもあった。

 

「……でも、それももうお終い。貴方は戻ることはできない。幸せな日常にも。愛し、愛される人達の輪の中にも。さあ、時間稼ぎはもう十分でしょう?いい加減 明かしなさい。

 何を隠している。これ以上話さないというのなら―――」

 

 掴まれた頭をコンクリートの壁へと押し付けられ、痛みと眩暈が広がる。右顳の濡れた感触は血がにじみ出ているのか。それだけではない、歪む視界の先からは、あの男にじり寄ってくる。

 かぐや様(わたし)への怨みを募らせ、銀色に光る眼鏡の奥、狂気さえ宿したあの男が―――

 

 

 

 

 ―――そう。きっと罰が降ったのだ

 

『元来、お嬢様の我儘を抑えるのは使用人の責務。かぐや様の素行はお前たちの怠慢が招いたものではないか』

 

 かぐや様の姿を偽り。その名で賊をおびき出しては、己が功績のために捕らえようとした罪。

 全ては保身のため。かぐや様の近従として、その地位と卑しく小さなプライドを守るために……私はあの子を利用した。

 

『お前の代わりなどいくらでもいる。証明できるのか?情愛や因縁に頼らず、かぐや様にとってお前が如何に有益たるか。それができないようであれば、お前は……』

 

 だから……これは受けて当然の報い。

 大切な人にさえ嘘をついて。

 嘘ばかりを貫き通して。

 そんな私が、どうして救いを望むことができるだろう。

 自分からは何一つを明かそうともしない私を――いったい誰が分かってくれるというのだろう。

 

 それでも。もう戻れない日々の情景。

 この一年で随分と柔らかくなったかぐや様(あの子)の笑顔を想うほどに、目の奥から熱いものがこみ上げてくる。

 

 ―――そう。プライドなんて、本当はどうでもよかった。

 私は、ただずっと、あの子の傍で……

 

 

 

『―――ねぇ。本当にこれで良かったの?』

 

 

 

「……けて」

 

 

 辛いのなら、そう叫べばよかった。

 

 寂しいのなら、ただ愛してほしいと訴えるだけでよかった。

 

 そんなこと一つ、恐れと怯えに、貴方に明かすことのできなかった私だ。

 

 ……ねえ。そんな私を――

 

 

 

 

「助けて―――」

 

 

 

「了解」

 

 

 

 どうして貴方は、救いになんてきてしまうのかな。

 

 

 

 

 

 不意に。トンネルに響いた声に、驚き振り返る。

 光の差し込む入り口、自転車に跨ったまま壁にもたれるように立つ、一人の少年の影。

 逆光に見えぬ姿を捉えようと目を細める女は、しかしその顔を認めた途端、唖然と口を開けた。

 

「あな、た……」

 

 まだ記憶に新しい、ほんの今朝学園で遭遇した少年の姿。だがそれ以上に、彼の放つ風貌に驚愕を覚える。

 

 冬どきにしてはよく晴れた空、燦々と降り注ぐ日差しが加わったとはいえ、その額に浮かぶ汗の量は尋常ではない。

 遠く離れていても感じる荒々しい吐息。時折苦しげに顔を顰めるのは、喉の奥から酸っぱいものが込み上げているのか。浮かぶ苦悶の表情は真夏の炎天下を走るマラソンランナーのソレであった。

 朦朧と揺れ動く瞳が眼差すのはただ一つ、組み伏せられた黒髪の少女。

 まさか―――

 

「まさか、追いかけて来たというの?学園から此処までの距離を……自転車で?」

 

 自ら口にした言葉に、あり得ないと首を振る。逃走を始めて2時間以上。山道を含め、いったいどれだけの距離を走ってきたと思っているのか。

 だが現に、目の前にいる少年。その満身創痍な出立ち、迫真に満ち溢れた形相が、想像に偽りがないこと訴えかけてくる。

 なにより

 

「――そう……貴方、だったのね。私たちの車のナンバーと行先を、警察に伝えていたのは」

 

 頭の中で氷解していく疑問に合点がいくと同時、忌ま忌ましげに顔を歪ませる。

 警戒の目を空に集中しすぎたのが悪因か。否、そもそも自転車で追いかけてくるなんてこと自体が想定外なのだ。

 こんな力業が……。長い期間をかけ懸命に企てた計画が、こんな子供に邪魔されるなんて……

 

 

「とんだジョーカーね……。でも、だからどうしたというの?

 必死に追いついた貴方は、けれどたった独り。そんな満身創痍の体で、私たちを相手に如何にかできると思っているの?」

 

 嗤う女の合図と同時、少年と少女の間に割り入るように壁を作る黒服の男達。

 その手には刃渡り15cmほどのナイフが握られ、怯むような気配を浮かべた少年に、男達は不穏な笑みを浮かべながらにじり寄っていく。

 

「多勢に無勢。貴方はもう少し頭の良い子だと思っていたのだけれどね……。私が言ったことを覚えていなかったのかしら?貴方は混院でなんの」

「なんの力もなければ、後ろ盾も持たない」

 

 遮るように少年が放った言葉に、女は目を見開く。

 銀色のナイフが迫り来る中。だというに、少年は胸ポケットに手を忍ばせては、携帯電話を取り出していた。

 暗闇に光る通話中の画面。連絡の相手は―――『天文部部長』

 

「それでも、俺は秀知院学園生徒会長。

 伊達に―――日頃あの面倒な連中を相手にはしていない」

 

 

 グオンッ!!と、突如として轟いた轟音に耳を塞ぐ。

 音圧で肌が震え、鼓膜が痛みを訴えるほどに出鱈目で粗暴なマフラー音。威嚇するようにエンジン音を響かさせながら、トンネル奥の暗闇に身を潜めていたソレらは、ゆっくりと顔をだした。

 車道を塞ぐほどに並ぶ幾台もの黒塗りのセ〇チュリー。ナンバープレートの数字は全てゾロ目。前進する車の前には、頬や額にいくつもの傷跡を携えた黒服の男達が立ち並び、皆血走った眼光を瞳に浮かべている。

 スーツの胸元に刻まれた家紋は、思い出す必要さえない。この街、いや全国においてさえ、知らぬ者はいない、広域指定暴力団―――

 

 

「龍珠()――!?」

「おどれらか お嬢のご学友攫おうなんざ不逞な輩はあぁぁ!!!」

 

 トンネル内に轟く怒号の叫びに、身構え後退る犯人たち。

 ――それだけではない。遥か遠く、何処かから聞こえてくる甲高い音に、首謀犯の女は顔を強張らせた。

 まだ微かにしか聞こえない、しかし今最も聞きたくはない警察車両(パトカー)のサイレン音。それも一台や二台ではない。幾つもの音と車両が重なり列を為しながら、この場所へと近づいてきているのが分かる。

 

「あなた……いったい何をしたの」

 

 国家権力と反社会勢力(アウトロー)。この国の抱える相反する2大勢力が、トンネルを隔て一手に集まろうとする異常事態に、震えの混ざる声を零す女。

 彼らを呼び出したことだけではない。何らかのコネで連絡を取ったにしても、渋滞状態において召集までのこの早さはいったい如何いうことか。

 事前に、我々がこのトンネルで停まることを予測していなければ、とても―――

 

 

『……進路変更よ。次の交差点を左に。山道を通って迂回します」

 

(まさか……誘導されていた?

 誘拐犯(わたしたち)の足が止まり、少女を安全に救出できる『乗り換え』のタイミングを狙い打つために―――)

 

 

「早坂!」

 

 受け入れがたい事実を飲み込むより早く、少年の手から投げ放たれた何かを、思わず目で追う。頭上に舞う、「対・全国討論大会」と描かれた分厚い手帳。

 それが陽動と気づくまでにかかった時間は秒にさえ満たなかったが、それでも名を呼ばれた少女は一瞬の動揺(スキ)をつくように、女の手を振り払っていた。

 

「痛っ!?しまっ―――」

「奥方!さがってください!」

 

 追いかけ伸ばした手は、しかし、一介の令嬢とはとても思えない体捌きで駆け出す少女を捕らえることも叶わず、背後から来る衝撃に阻まれる。何事かと振り返れば、視線の先、少女の離脱を合図としたかのように、猿叫のような叫び声を上げながら飛びかかってくる強面の男達。

 その勢いやまさに鉄砲玉、ナイフでの威嚇など一切怯むことなく、むしろ拳一つで此方をのそう(・・・)と襲い掛かってくる彼らと、それに応戦する部下たちによって、トンネル内は瞬く間に混沌の息へと包まれていった。

 

 

 怒号が飛び交うトンネル内をひた走る少女。

 薄暗く覚束ない足元。両手を後ろで縛られた不安定な態勢のままの疾駆に、危うく転びそうになった体を、少年の腕が抱き留めた。

 

 

「悪い―――遅れた」

「会、長……」

 

 

 見上げる碧眼。凭れかかる腕の中、早坂は少年の全身汗ばんだ服など構いもせず、胸へと額を寄せる。

 

「気づいて……いたんですね」

「誰に演技を教わったと思っている。………いいや。途中まで完全に騙されていたがな。

 言いたいことはあるが後だ。走れるな」

 

 交わす言葉も短く、急くように手を引いては光の溢れるトンネル出口へと駆け出していく白銀達。数え切れぬ野次と怒号が飛び交うトンネル内。ナイフを取り落とされ、いつしか拳の殴り合い(ステゴロ)に発展している抗争は、黒スーツばかりに身を包む男たちのせいで、どちらが優勢なのかも分からない。

 

 

「―――待ちなさい!」

 

 だがその中、走る白銀たちの背を追いかけるように女の声が響いた。

 もう追いつかれたかと顔を顰め、振り返った白銀は、しかし映った光景に目を見開く。

 

 女が静止を呼びかけたのは、白銀たち相手にではなかった。

 歪んだ銀のフレーム。割れたレンズの向こうに血走った目を浮かべた男が、猛然と迫り来ている。

 その胸元には既にナイフが構えられ、正気を失った瞳が一点に早坂を捉えているのを視た瞬間、白銀は庇うように少女の前へと乗り出していた。

 

 

「会長!?」

 

 策があったわけではない。

 ただ、両手の利かない少女では防ぐ手立てもない。そう思い抱いた瞬間、体は動いていた。

 刺突の傷害を僅かにでも抑えるように、胸前で腕を交差させる。それが気休めに過ぎないことは、白銀自身が一番よくわかっていた。

 

 酷くゆっくりに感じる時間。恐怖に閉じそうになる瞳を必死に堪え、刻一刻と迫りくるナイフの先端を見捉え―――

 

「ガッ!?」

 

 だが、その切っ先が突如揺れた。

 衝撃に崩れる男の体。ナイフは白銀の顔のすぐ横を通り抜け、縺れる様に姿勢を崩してはそのまま固いアスファルトへと倒れ込む。

 

 衝撃の正体。男の背後から突進を浴びせた女は、取り零されたナイフを直ぐさまに拾い上げては、頭上高くへと振り上げる。

 紫のグラデーションが掛かった長い黒髪、その合間に覗く揺れる瞳が、真直ぐに早坂を見下ろしている。

 

「っ―――!何故っっ!」

 

 啼泣にも似た声を女へと叫ぶ男。

 それは白銀達も同じ想いだった。女の真意が分からず、極度の緊張に白熱した頭が、助けられた事実を未だ受け止めきれずにいた。

 

「その子は、四宮かぐやじゃない……!他人を手に掛けて、無意味に罪を負うような真似はやめなさい!」

「っ、ですが―――!」

「私達が憎むのは『四宮』だけよ!どんなに身を落としても、恩人の子を傷つけるようなことはしない……っ!」

 

 絞り出すような声に、手に持ったナイフを遠くに投げ捨てる女。

 その姿、女の眼差しに男は打ちのめされたように顔を歪ませると、言葉にもならぬ呻き声と共に、地面へと首を擡げた。

 

 何度も何度も地面へと振り下ろされる拳。次第に薄れていく熱気のなか、後には男の哀しい慟哭だけが残った。

 

 

「……ほんと、やられたわ。」

 

 囁くような呟き。

 余程に慣れぬ運動だったのか、女は緊張の糸が切れたように、その場にへたり込んでしまう。

 

「まさか最初から騙されていたなんてね……。貴方も、番狂わせ(ジョーカー)ではなく、ただの付き人(ジャック)だったということね」

 

 なんて忌々しい子たち。そう零す女の表情は深い諦めと……けれどどこか憑き物が落ちたかのような、淋しげな笑みが浮かんでいた。

 近づいてくるサイレンの音。視線を移せば、山道を縫うように幾台ものパトカーが登ってきている。あと数分もしないうちに此処へとたどり着く……だというのに女は逃げる素振りも見せぬまま、懐から白いスカーフを取り出しては、未だ血の滲む早坂の額にそっと当てる。

 

「……ごめんなさいね。貴方を巻き込んでしまって。

 ううん。四宮に歯向かう時点で、早坂の家にも禍災が及ぶことは分かっていた。今更謝る資格なんて、ないわよね」

「……どう、して」

 

 何を問うべきことも分からず声を零した少女に、女は徐に通信機を取り出すと、伝え聞かせるように少女へと差し出す。

 

 

「今頃は、囮の方(あちら)も大騒ぎね。車一台を追うのにヘリを8機も出撃()されて……使用人に過ぎない貴方を、必死になって取り返そうとしている。

 どうやら貴方のご主人様は―――私の知る『四宮』とは少し違うようだわ」

 

 

 悲しさとも嬉しさともいえる微笑を零す女。

 その後も。パトカーが辿り着くまでの間もずっと、女は早坂の傷の手当てを止めようとはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 □■□■

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、初めから分かっていたのか。四宮が狙われることは」

 

 数分後、二人は四宮が用意したのだろうか、見るからに高級感漂うリムジン車に乗り、衆知院学園へと向かっていた。煌びやかな内装に加え、後部座席から運転手側が見えない構造は、狭い部屋に二人きりでいるような、どこか閉鎖的で気恥ずかしい気分を覚えさせられる。

 

 しかし早坂の方は気にした素ぶりもなく、落ち着いた様子で淡々と事の顛末を説明する様子は、良くも悪くも、見慣れた四宮の侍従の顔だった。

 

「分かっていたと言っても、具体的な確証があったわけでありません。ただそういう動きがあること……かぐや様を狙い、誘拐を企てる何者かの集団がいることは、以前から掴んでいました。彼らが、人々の往来が増える討論大会(きょう)という日を狙い定めていることも………けれど、それだけの情報をおさえておきながら、別邸(わたしたち)、本邸の護衛陣でさえも、首謀者の尻尾を掴むことができずにいた。 ……だから私たちは、罠をはったんです」

「罠……?」

 

 元来、鼠一匹通さぬほど厳重厳戒な警備網。そこに敢えて蟻の子が通れるほどの隙を作り、賊を誘き出すための謀計を画した。一度入れば2度と出られぬ堅牢。獲物を引き込むための餌、計画中、万が一にもかぐや様に危害が及ぶことなきよう、囮役には影武者である早坂が名乗り出た。

 

「………それで、四宮に化けていたのか」

「はい……。けれど賊側はこちらの想定を遥かに上回る物量で押し入ってきた。空いた穴をまるで鑿岩機で押し拡げるかのように……。本来誘拐なんて手は、力のない者が追い詰められた果てに取る、最後の手段なんです。力ある家ほど、四宮の恐ろしさもより知ることになるから……。五篠が四宮に弓引くなど想像もしていませんでした」

「……あの女性(ひと)、知り合いだったのか?恩人がどうと言っていたが……」

「いいえ、私も詳しくは……。ただ以前、学生時代からの友人の一人が五篠家に居ると……そんな話を、母から聞いたことがあります」

 

 

『―――懐かしいわね。この中庭は何も変わっていない』

 

 学園で交わした会話。どこか遠く、もう戻らない日々を思い出すような姿は、白銀に憐憫にも似た想いを残した。

 

「秀知院に着き次第、私は護衛陣に報告に向かわねばなりません。会長も、どうかお休みを取ってください。私を助けるために、きっと酷くお疲れでしょうから……気分が優れないようであれば、すぐにでも信頼できる医師を呼びますので、仰ってください」

 

 どこか沈黙を嫌うように、言葉をまくし立てる早坂。気丈な振る舞いは、とても先ほどまで攫われていた身とは思えない。

 ……四宮の近従とは、あのような危難さえも、何変わらぬものとして受け止めなければならないのだろうか。

 揺れる黒髪にそんな想いを馳せながら、白銀はふと膝の上で重ねられた彼女の両手へと目を移す。

 トンネルで繋いだ時には か細く震えていた、白磁のように美しく、強く握れば容易く壊れてしまいそうな手のひら。

 

 ―――だが、その手は今もまだ震え。重ねたもう片方の手で必死に覆い隠そうとしている姿を見た瞬間、白銀は彼女の手を掴み上げていた。

 

「アンタ……こんな時ぐらい演技やめたらどうだ」

 

 どうして気づけなかったのか。

 平気でいられる筈がないのだ。万全な策を企していたと言うのなら、拐われることは彼女にとって完全な想定外だったはず。

 いつ正体を見破られるかも分からぬ恐怖、謀られたと憤る犯人がどのような凶行に走るか想像せずにいられた筈がない。敵意と悪意に満ちた視線に晒され、たった一人、来る見込みも無い助けを願い待つことが、どれだけ心細かったことか。

 

 繋がれた手を、弱々しくも振り払おうとする早坂。だが白銀がそれを許さなかった。

 

 この手を離せば、彼女はきっとまた仮面を被ってしまう。自分を騙して。哀しい気持ちも、辛いと思う心も、全てを押し殺して。

 そうして独りになって、初めて泣くのだ。

 誰に弱さを明かせぬまま。誰一人、慰めてくれる者もいないまま。

 

 そんな事を続けていれば、彼女はきっと壊れてしまう。確信にも似た思いが、白銀を突き動かしていていた。

 

「………」

 

 固く握られた手を、揺れる瞳で見つめる早坂。

 初めて少年から向けられる怒り。けれど不思議と怯えの色は浮かんでこなかった。

 人の心をよく知る少女だ。それが誰の為を想い怒ってくれているのかも、確と理解していた。

 

「……ありがとう、ございました」

「は?」

 

 唐突に溢れたお礼の言葉に、怒気が混ざりながらも素っ頓狂な声を上げてしまう白銀。

 

「ずっと、追いかけてきたくれたことです」

「……言っておくが、助けたことに対する礼なら聞く気は無いぞ」

 

 目の前で友人が攫われるのを見て、何もせずにいられるほど、白銀は薄情でも蒙昧な人間でもない。

 それでも彼女が謝るのというなら。自分には助けられる価値すらなかったと云うのなら―――

 

「それでも、です」

 

 目を伏せ、首を振る早坂。掴まれた手を両手で握り返しては、囁くように声を零す。

 

「ありがとうございました……ずっと追いかけてきてくれて……ずっと、諦めないでくれて」

 

 サイドミラーに映る小さな影。

 遠く、今にも消えてしまいそうな姿をずっと探し続けていた。

 苦しげに歪む表情、滝のような汗を滲ませ息を荒げる姿は、抱える刻苦の大きさを言葉以上に伝えてきて………それでも、たとえ何度遠く突き放されようとも、必ず追いついて来てくれる貴方の姿を、ずっと請い求めていた。

 

 貴方は知らないのだろう。その姿にどれだけ救われたか。どれほどの勇気を貰っていたか。

 貴方がいたから私は―――あの暗く狭い檻の中、恐怖に塗りつぶされそうな心を、必死に奮い立たせることできたのだ。

 

 

 頭を下げ、繋いだ手を大切なもののように額へと寄せる少女。肩を震わせ、今にも泣き出してしまいそうなその姿に、白銀はバツの悪そうに小さく息を吐いた。

 

 

「……聞いていいか。どうしてあんな無茶をしたんだ。囮なんて、危険なこと」

「………っ」

 

 びくりと揺れる少女の肩。

 それは自転車で追う最中にも、ずっと胸に巣くっていた疑問。

 安否を確認するため四宮に繋いだ電話は、突如バッテリー切れにより途切れた。その時は四宮自身に特に慌てた様子もなかったことから、拐われているのが早坂だという確信を得るに留まったが………。

 後になって思えば、あのタイミングでのバッテリー切れは、何者かが四宮との連絡を阻もうとしているような、そんな策謀染みた気配を感じさせた。

 

 四宮の携帯に干渉できて、謀略が得意な人物は誰か。その意図を感じ取ったからこそ、白銀は救援の手を四宮ではなく、知り合いである部長たち(彼ら)に求めた。

 

 そう――四宮は知らされていなかったではないか。計画のことも……早坂が囮になることも。

 

「いくら犯人を捕らえるためだからといって、アンタが危険に晒されるようなことを四宮が許すとは思えない。だからアレは―――あんた達が独断で行ったものなんじゃないか」

 

 口を開かずとも、白銀が問うたびに増していく手の震えが、答えを代弁してくれている。

 

 そう。何よりこの手。白銀には、目の前の少女が拐われていたこれまで(・・・・)のことにではない………むしろ四宮に報告を行うこれから(・・・・)に怯えているように思えてならなかった。

 

 

 暫し、流れる沈黙。

 いいやその間にもどれだけの葛藤があったのだろう。少女は幾度も震える口を開いては、何も言えず、苦しげに閉じることを繰り返す。

 ソファに降ろされる繋がれたままの右手。白銀は急かすようなことはせず、少女が自身の口から真実が語られるのを待った。

 長いようで短い時間が過ぎ、そして―――

 

 

「……辞令が、くだったんです」

「辞令?」

「かぐや様からではありません。私たち使用人全ての人事を取り決める本邸から。私の……かぐや様の近従の任役を解雇()く辞令です」

「な―――」

 

 

 驚愕に口を開く白銀の隣、追憶に沈むように早坂は目を伏せた。

 

『最近のお嬢様の振る舞いは目に余るものがあります』

 

 召還された四宮家本邸。待ち構えていた本邸家従たちは、ぞっとするような重い声で、糾弾の言葉を投げかけてきた。

 

『元来、お嬢様の我儘を抑えるのは使用人の責務。かぐや様の素行はお前たちの怠慢が招いたものではないか』

 

 ―――分かっていた。彼らの目的が、かぐや様を昔の姿に戻そうとしていること。

 氷のように何の感情も抱かず、問題も起こさない。ただただ家の格に沿った振る舞いを行う美しくも触り難い日本人形。それが、彼らが かぐや様に臨む在り方だったから。

 

 いかに本邸家従であろうとも、令嬢であるかぐや様本人に言及するには限界がある。だからこそ、その矛先は使用人である我々へと向いた。そして、一番始めに白羽の矢が立ったのが

 

『何より、早坂。幼少より側で仕え、安易に気を許せるお前の存在があるからこそ、お嬢様の甘えを助長しているではないか』

 

 今まで幾度にも本家の意向からかぐや様を守ってきた私という盾が、どれほど彼らに疎ましく思われているか。四宮から多大な信頼を受ける早坂家……そこにどれだけの嫉妬の念が渦巻いているかも、よく識っていた。

 

 積もり積もった反感の仇。かぐや様の専属近従であろうと、所詮は数いる使用人の内の一人。人事権の一切を担う彼らに辞令を言い渡されれば、私に抗う術などない。

 

 ……それでも

 

『……否定。そんな言葉を並べたところで、意味がないことは分かっている筈だ。口だけなら何とでも偽れる。重要なのは実利。―――示せるのか?情愛や因縁に頼らない、貴方自身の有能さ。お前の持つ技能がかぐや様にとって如何に有益であるか。それができないようであれば、お前たちには……別邸の勤務から離れてもらう』

 

 

「………っ、」

 

 少女の声に耳を傾ける最中、白銀は知らず痛みを覚えるほどに拳を握りしめていた。

 

 なんだ、その勝手は。

 四宮が早坂に向ける親愛も。早坂が、近従となるべく重ね続けてきた努力も。全てを蔑ろにするような本家の言い様に、心の底から怒りが湧き上がって来る。

 姉妹同然に育って来た二人にとって、それがどれだけ残酷な仕打ちか。どれだけ―――早坂のプライドが傷つけられたことか

 

「それで………アンタはそれを受け入れたのか。出来た筈だろう?有能さを示すことなんて……今までずっと、側で四宮を支えて来たアンタなら」

「……いいえ」

 

 願うような少年の言葉にも、少女は顔を伏せ悲しげに首を振る。

 

 かぐや様の身の回りの世話も。その我儘(ねがい)を聞き届けることも。四宮の使用人ともなれば出来て当然のスキル。代わりはいくらでも居る、そう彼らが告げたように、私固有の価値には成り得なかった。

 

 私が唯一秀でたもの。かぐや様と長い年月を掛けて築き上げて来た信頼は、しかし、それに縋ることを許されない。

 主人と使用人との間に親愛関係など不要。

 『四宮成らば、人を愛すな。成らば、は無い』

 四宮の訓えを忠実に遂行(まも)ろうとする彼らにとって、私達の関係はどうしようもなく煩わしいものに過ぎず………私がかぐや様の寵愛を頼りに、側に在り続けることを決して赦しはしなかった。

 

「結局、私は自分で探すしかなかった。自分に出来ること……私にしか示すことのできない『利』を」

「……その、答えが」

 

 コクリ、と頷く少女。

 その拍子に揺れる黒髪に、改めて少女の風貌を凝視する。

 赤色のカラーコンタクトに秀知院学園の制服。装飾、雰囲気、佇まいに至るまで、その姿は四宮かぐやを完璧なまでに模写している。

 極め付けはその髪。ウィッグやカツラに頼ることなく、地毛を染め上げて再現した黒髪は、しかしあの美しかったブロンドを炭の底に沈めてしまったようで……。囮に賭ける早坂の想い、その痛ましいまでの心中を垣間見るようで、白銀に強い悲壮感を抱かせた。

 

 本邸の護衛陣ですら掴むことのできなかった誘拐犯の正体。

 仮に、囮となった早坂達の功績によりそれを捕らえることができれば、かぐや様を護る使用人としての確かな『利』を示すことが出来るのではないか。

 磨き上げて来た演技の技術を、本邸の家従達にも認めさせること出来れば―――

 

 

「そんな……」

 

 そんな、穴だらけの策に縋るしか無かったのか。

 そんな稚拙な希望に頼らざるを得ないほど―――彼女は追い詰められていたのか。

 

 きっと早坂は全てを隠し通すつもりだったのだろう。自身が囮になったこと。本家から糾弾があったことも。一切のことを胸に秘めたまま、事を終わらせるつもりだったのだ。

 それも全ては―――

 

「……けれど、結果はこの(ザマ)です。愚かにも賊に拐われ、護衛陣だけでなく かぐや様にまで多大な煩虜を負わせてしまった失態。ましてそれが、かぐや様に無断での行動ともなれば、責任は免れません……。そう遠くないうち……私は別邸の勤を(はな)れることになるでしょう」

「………」

 

 それで、いいのか。問おうとした声は、意味を持たなかった。

 黒髪に隠れた表情は見えずとも解る。真っ赤になるほど固く握られた手。悔しさ、哀しさ、侘しさ。抑えられえぬ感情に震える掌は、どんな言葉よりも鮮明に、彼女の心根を表していた。

 

 

「ソレを……四宮には話したのか」

「言えるわけが、ないでしょう……っ!」

 

 ひときわ大きな悲鳴が車内に響く。

 剥がれかけた仮面。その奥に覗く濡れた瞳が必死に訴えている。

 

 どうして、そんなことができよう。

 自らの失態、後ろ暗い失錯を勧んで明かすことなど。私はかぐや様の名と御姿を利用した。賊を捕らえる功績のために、なんの相談もできないまま、独断で事を推し進めた。それは言い逃れようのない事実だ。

 

 全ては保身のため。かぐや様の近従としての地位、その卑しくも小さなプライドを守るために、私は……

 

 

(―――違う……)

 

 そんなもの(・・・・・)、本当はどうでもよかった。

 いくら汚名を着ようと。どんな不遇な扱いを受けようとも。

 私が本当に怖かったのは……

 

 

 ―――あの子は気付くだろう。

 周囲から信頼する従者ばかりが左遷されて。使用人だけではない。白銀会長や藤原書記、生徒会メンバーを始め他の学友との干渉も禁じられるようになって。

 

 それが、誰の我儘を矯正(ただ)そうとしたのか。

 誰の行いに対する罰だったのか。

 

 周りがどれだけ欺こうとも、聡明なあの子は、きっと気がついてしまうのだろう。

 

 再び囚われた冷たい鳥籠の中、けれどその悲哀は、外の世界を知る以前とは比較にならない。心を許せる人は一人もなく……許せば、その人はまた遠くへと居なくなってしまう。

 私達を巻き込んでしまった後悔に、自分を追い詰めて……。

 自由など初めから望むべきではなかったのだと、心を押し殺して……。

 あの子はまた、昔のように心を閉ざしてしまうのではないか。

 

 私が7歳のとき。本邸で再会したあの子は、以前とは別人のように変わり果てていた。四宮の訓えに染まりきり、何も信じない、何にも期待しない、氷のように冷たい眼。

 

 また……あの子にそんな顔を浮かべて欲しくなかった。

 俗悪な本家の物言いなんかに、自分自身を否定して欲しくなかった。

 

 あの子が笑えるようになったのは、決して一人の力なんかではない。

 白銀会長に藤原書記、生徒会メンバーや学園の友人……そして、その中にはきっと私も。

 多くの人との出会い、奇跡にも似た偶然の数々が、あの子を変えてくれたのだ。

 

 何より―――あの子自身が、変わりたいと努力してきたから。

 

 

 私はただ……守りたかっただけだ。

 従者として。ずっと傍で見守ってきた姉として。

 あの子が必死に築き上げてきたもの。

 あの子自身が結んできた繋がりを。

 

 後悔して欲しくなかっただけだ。

 時に弱く、時に脆い。明かすことさえ恐ろしい心。

 それでも、誰よりも臆病で傷つきやすかった貴方が、誰かに心を開こうとした想いは―――

 

 決して、間違ったものではなかったんだって

 

 

 

 

 肩を震わせ俯く早坂。

 それでも、涙だけは頑なに見せようとしない彼女に、白銀は小さく息を零すと徐に懐から携帯電話を取り出した。

 

「ひとりで抱え込みすぎだ。アンタは」

 

 何を、と。不安げに顔を上げる早坂を他所に、連絡先から目的の人物を見つけては、電話をかける。

 2、3度のコール音が響き……

 

「――ああ、石上か?急ですまないんだが……四宮、近くにいるだろう?代わってくれないか」

 

 愕然と目を見開く早坂。携帯から耳を離した白銀は、勇むような瞳をぶつけてくる。

 

「四宮の傍を離れたくないんだろう?だったら、残る手は一つだ。四宮に全てを明かし、令嬢である四宮(アイツ)の口から、本邸に異議を申し立ててもらう。……それしか、アンタの異動を取り消す方法はない。」

 

「……やめて、ください……あの子にそんな事をさせられる筈がないでしょう……っ!

 貴方は知らないんです。かぐや様がどれほど本邸の執事達を恐れているか……」

 

 ……そう。あの子にとって、本家からの言いつけとは父親である四宮巌雄の意思と同じ。

 認められたいという願い。失望されたくないという想い。父へと抱く、敬愛と畏怖の入り混じる複雑な感情は、そのまま代弁者である本邸執事たち(カレら)への怯えへと現れ……これまで令嬢の身でありながら、一度とて反発することもしてこなかった。

 たとえ、それがどんなに厳しい躾であろうと、父から向けられた僅かな関心(・・)、人一倍家族からの愛情に飢えるあの子が、蔑ろに出来る筈がない。

 

 求めども満足に得ることの出来ない温もり。私にとって、母と交わした連絡帳がそうであったように……か細くも朧げな繋がりに縋る切なさは、痛いほどに知っていたから―――

 

 

「……確かに、俺は四宮の家については何も知らない。アイツが本家からどんな扱いを受けているのかも」

 

 早坂の必死な訴えに、白銀は微かに目を伏せ応える。

 何も知らないくせに、わかったような口をきかないでください。ふと、以前彼女に言われた言葉が脳裏に蘇る。

 それでも

 

「……それでも、アイツが一番大切なものは側に置いて離さないこと……。本当に大切な人が傷ついているのを黙って見ているような奴じゃないってことだけは知ってる」

「っ―――」

「弱いだけじゃないだろう。怖くて、頑固で、優しくて……それが俺たちの知る、四宮かぐやだろう」

 

 言い圧すような言葉、確信に満ちた意志を宿す少年の瞳に、息を詰まらせる早坂。差し出された携帯電話、受話口から漏れ出た微かな声が、少女の心を揺らした。

 

『会、長――?』

 

 聞き慣れた筈の声。けれど事件(あんなこと)の後だからだろうか、それは酷く懐かしく聴こえて……ただ耳に届いただけで目の奥にジワリと暖かいものが広がる。その声をも聞きたいと、気がつけば、震える手は携帯を自身の耳へと運んでいた。

 

「かぐや、様……」

『、早坂っ!!?』

 

 耳が痛むほどに大きな声は、驚愕、心配、歓喜、様々な感情が入り混じり、実際に目にしたわけでもないのに、瞼の裏にあの子の姿を思い浮かばせてくる。

 

 大丈夫か。どこも怪我をしていないか。誘拐犯に酷いことをされなかったか。矢継ぎ早に成される質問の数々は、けれどいつまで待とうとも、あれ程恐れた叱責の言葉は出てこない。

 いったいどれだけ不安だったのか。微かに混ざる息は、あの子が泣いているのだと教えてくれた。

 

『大丈夫なのね?ちゃんと、帰って来れるのよね?どこにも………行ってしまったりなんてしないわよね……?』

「かぐや様……」

『良かった……。本当に、良かった……』

 

 ポタリと。涙が溢れ落ちる音は、電話の向こうからではなかった。震える伝わる吐息。たったそれだけのことが―――幾重にも被り重ねた仮面を容易く剥ぎ取っていく。

 

 

 ああ――私は何て、愚かだったのだろう。

 

「ごめん……なさい」

『早坂?』

 

 何に対する謝罪か。不思議そうに聞き返すかぐや。

 それでも、一度解き放たれた想いの瀬は、留めどなく溢れ出して行った。

 

「ごめんなさい……っ」

 

 

 あなたに嘘をついて。

 

 こんなにも、哀しい思いをさせて

 

 何が姉だ。

 

 何が守りたいだ。

 

 本当に弱かったのは私のほう。

 

 本当に離れたくなかったのは、私のほう。

 

 ただ私が―――

 

 

 ずっと あなたの傍に 居続けたかっただけなのだ。

 

 

 

 

「あなたに……明かさなければいけないことがあるんです」

 

 

 少女は語り始めた。

 抱えてきた秘密。胸に隠してきた咎の全てを。

 零れ落ちる涙、ポツリポツリと啜り泣き呟く声は、今にも消え入ってしまいそうだったけれど……かぐやは聞き返すことも、責めるようなこともせず、ただただ彼女の話を聞き受けていた。

 時折、自ら語る咎の大きさに、逃げ出したくなるのだろう。ギュッと、握る力を増す手のひら。繋いだままの手、伝わる震えと恐れに、白銀は彼女を勇気づけるように、握られた手を同じ強さで握り返すのだった。

 

 今の早坂は、白銀の知る彼女の姿からは遠くかけ離れている。

 臆病で泣き虫。握り離さない手は、親から逸れまいと必死に怯える子供のようだ。

 

 ……けれど、だからだろうか。

 白銀には、きっと今の姿こそが、彼女の言っていた『本当の私』なのだと……

 

 

 なんとなしに、そう思うのだった。

 

 

 

 

 □■□■

 

 

 

 

「早坂……っ!」

 

 辿り着いた秀知院学園。正門で待っていた四宮は、早坂が車から降りる姿を認めるや、駆け寄り抱きついていた。腕の中まるで子供のように泣き噦る四宮を、抱きしめ返す早坂。

 時刻11:30。正門は既に討論大会の見物客で賑わい、行き交う人々は皆何事かと驚いたように目を向けていたが、そんなこと気にも止めず、二人は再会の喜びを分かち合っていた。

 

 ……だがその空気を引き裂くように、冷たく嗄れた声が響く。

 

 

「それまで」

 

 

 決して大きくはない、しかし腹の底にずしりと響く声に、四宮たちはもちろん、白銀も正門の方へと振り返る。

 オールドシルバーの髪に、貴賓と厳格さを纏う漆黒の執事服。左目にモノクルを携えた初老の執事は、冷たく無感情な目線を少女たちへ投げかけていた。

 

 

「衆目環視の間。これ以上、四宮家の令嬢たる御方が、痴態を晒すのはおやめください。………早坂もいったい何をしている。護衛陣への報告がまだであろう」

 

 

 モノクルの奥に覗く瞳がギョロリと動き、早坂を射抜く。一切の温もりも宿さぬ冷たい灰色の眼。小さく、悲鳴にも似た息をもらした早坂は、弾かれたように四宮から手を離し―――

 

 

「黙りなさい」

 

「——、なにか?」

 

「黙れと言ったのです。今まで隠れてコソコソと。よくも私の大切な近従を虐めてくれましたね」

 

 

 離れかけた手を力強く握り返す四宮。

 威圧する言動、氷のような冷たい気配に、老執事は目尻を上げ、早坂もまた不安げに少女を見つめ返す。ただ1人、傍らから見守る白銀だけは微かに口元を緩めていた。

 この物言い、この威圧感は恐ろしくも懐かしい。それは白銀が記憶する中で、最も打破が難しいと知る人の貌だった。

 

 

「………嘖むなどと。我々はただ巌雄様の意志に従い、お嬢様の身を案じているのです。

 頂点(たかみ)に立つ者、その寵愛は万人に等しく注がれねばなりません。特定の個人が愛顧されれば、必ずや其処には軋轢が生まれる。四宮の訓えを覚えておいででしょう。

 『四宮成らば――』」

 

「『人に貰うな。成らば奪え』」

 

「っ……、」

 

「それも、訓えの一つでしょう?……嫉妬に溺れた貴方達の言葉なんて聞くも煩しい。そもそも、お父様が本気で早坂を取り上げるつもりなら、私が反感を抱く間さえ許されず、早坂はとうに左遷されてしまっている筈」

 

 

 違う?そう冷たく問い質す声に、老執事の浮かべる鉄仮面の端、微かに身表れる苛立ち。今まで従順を保ってきた少女が、これ程の反発を見せることなど、予想もしてなかったのだろう。

 四宮はなおも一歩踏み出して言い放つ。

 

 

「……今までの私は、ただお父様に与えられるまま、大切なものを守ることもしてこなかった。……けれどこれからは違う。

 何度でも言ってあげます。早坂は私の近従です。もしお前たちがそれを阻もうと言うのなら―――たとえその首を落としてでも、全力で奪いに行きます」

 

 

 

  一切の恐れも、怯えもなく本邸家従へと言い放つ四宮の姿に、早坂はまた目の奥に熱が帯びていくのを感じ、顔を伏せる。

 

 

「……会長の、言うとおりでしたね。

 あの子は私が思うよりもずっと強くかった。ただ私が忘れて……あの子を、信じてあげられなかっただけで……」

 

「四宮が怒っているのも、強くいられるのも、早坂のためだからだろう。………アンタだって、誰より四宮(あいつ)の弱さを知っていたから、たとえ一人でも本邸家従に抗おうとした。

 弱さを見せられるということは、甘えと信頼の裏返し。……正直、俺はその関係が羨ましいよ」

 

 

 慰めなのか、あるいは単なる本音なのか。俯く少女の頭に手を置く白銀。しかしその手は、突然眩暈に襲われたようにくらりとたたらを踏む姿により、すぐに離れた。

 やはり相当に疲れているのか。早く保健室に……そう告げようとした早坂だが、その背に不意に声がかかる。

 

 

「ハイ、ミユキ シロガネ」

 

「―――っ!?」

 

 

  呼ばれた本人以上に驚き振り返った早坂の目に映ったのは、長い口髭を手で玩び、のほほんと笑みを浮かべ立つ学園長の姿だった。隣には生徒会メンバーの一人、石上優が立ち、どこか居た堪れない表情でマイクと数本のコーヒー缶を手に抱えている。

 

 

「オ手柄デしたね。……デスが、まだ仕事が残ッテますよ」

 

「……分かっていますよ」

 

 

 特に驚いた様子もなく「ナイスだ石上」なんて返しては、早速コーヒーを飲み始める白銀。余程喉が渇いていたのだろう、缶3本を瞬く間に飲み干してしまうと、そのままマイク片手に体育館へと歩き出していった。

 

 

「―――ま、待ってください」

 

 

 その時になって、ようやく学園長の言う「仕事」の意味を思い出した早坂。白銀の背を追いかけ、咄嗟に彼の手を握り止める。

 

 

 事件のことで忘却していたが、会長は討論大会において司会を務めることになっていたのだ。だが彼は、既に早坂(わたし)を追うために満身創痍。今だって平然を装っているが、それが如何に無理を通したものであるか、演技を教えた早坂にはありありと見て取れた。

 

 

「誰か……他の人に頼むことはできないんですか?」

 

「皆、(すす)んでやりたがる役ではないし、時間もない。………何より」

 

 

 四宮の前で、そんなかっこ悪い姿は見せられない。疲労の浮かぶ土色の顔で、なおもそんなことを言う彼に、早坂はぐっと目を伏せる。

 

 

「どうして……」

 

 

 胸に湧き上がる、悔しさにも似た情動。

 どうしてそんな無茶ばかりをするのか

 一人で背負い過ぎだと言うのなら、それは貴方の方だ。

 

 

 貴方が今日という日に向けて、どれだけの苦労を重ねているかも知っていた。進行役(ロール)の修練、語学の習得……けれどそれが望んだ苦労でないのなら、誰かに代わってもらえれば其れに越したことはない。

 

 自分の代わりが居るのなら、それで―――

 

 

  そう思い抱いた途端、ハッと息を飲む早坂。

 実際にそう(・・)言われて。突きつけられて。一番悔しさに震えていたのは誰だったか。

 

 

「別に………アンタと同じだよ」

 

「……え…?」

 

「自分がどれだけ出来ない奴かなんてことも知ってる。けれど だからこそ………頑張ったなら認められたいだろう。上手くいったなら、ちゃんと誰かに見て欲しいだろう。そう願うことは……別に、我儘なことではないんじゃないか」

 

 

 呟くように残し、再び体育館へと歩き出していく白銀。離れていく手のひら、僅かに残る温もりを胸に抱いたまま、遠くなっていく背中を早坂は見つめることしかできなかった。

 

 

「……早坂先輩。これ」

 

「……?」

 

 

 名も知らぬ感情が胸に広がるなか、ふと呼ばれた声に振り返れば、石上会計が何かを手渡してきていた。銀色に光る小さな円盤。100円玉硬貨2枚。

 

 

「コーラ買ってきてください」

 

「え……。え?」

 

「石上くん。あなた私の早坂を使い走ろうだなんて、随分と剛毅になったものですね」

 

「えっ!?いや違っ……!会長のために買ってきてあげようと……!」

 

「会長……?コーヒーじゃなくていいんですか?」

 

 

 いつの間に這い寄ってきていたのか、地の底から湧き出るようなオーラを放ちながら、背後から顔を出すかぐや。途端に涙目になる石上だが、早坂からの問う声に自分を落ち着けるように咳払い一つ、真っすぐに向き直る。

 

 

「確かに会長はコーヒー好きのイメージがありますけど……本当に頑張った後の自分へのご褒美は、いつもコーラって決めてるんです」

 

「私も会長に賄賂(おねがい)するときはコーラを持ってきますよ!」

 

 

 エヘンと胸を張る藤原書記。突然出てきて何を口走るのだろう この子は。

 

 

「こういう大きなイベントの時は、いつもは僕から用意しておくんですけど……今回は、先輩の手から渡した方がいいと思ったので……」

 

「………」

 

 

 手のひらの硬貨へと目を落とす早坂。握りしめればジワリと、自身の体温が溶け込んでいくのが分かった。

 

 

「お金は……返します。ちゃんと自分で買って……私の手から渡します」

 

「……。わかりました」

 

「いまカラ買っても、渡す頃にはヌルくなってしまいますヨ」

 

 

 

 割り込んできた声に振り返れば、学園長が体育館へとエスコートするように、手招きしている。

 

 

 

「さあ、まもなく開演デス。褒美のハナシは後。

 いまはシッカリと彼の勇姿を見届けてあげるコトが大切でショウ?」

 

 

 

 

 

 

 □■□■

 

 

 

 ―――その後、行われた全国討論大会は多くの人々に記憶に残すこととなった。

 

 

 全国からより集められた選りすぐりの選手達。体育館常設の巨大スクリーンには、グラフや年表を始めとした多種多様の資料が掲示され、確固たる理論と裏付けの元、互いに一歩も譲らぬ論議が繰り広げられていく。

 

 

 選手たちの手腕もまた様々。相手側の矛盾点を捉えるのが特段に上手い者。話術とジェスチャーを合わせ、より深い説得力を生み出す者。資料に敢えて隙を作り、相手側に突っ込ませることで強引に自分の論理(ペース)に持っていくような猛者もいた。

 

 

 そして白熱する舌戦の中で、同じくらいに存在感を放っていたのが、司会役の白銀である。

 複雑な専門用語が立ち並び、傍聴者側が置いてきぼりになりやすい討論大会。加えて、会話を主とする競技形態は互いの意思疎通が何より重要となり、選手だけに任せていては解釈の飛躍や話の脱線も起こりやすい。それが言葉の異なる他国籍の生徒も参加してくるなら尚更のこと。

 だからこそ、互いの主張を逸早く読み取り、選手間だけでなく観客側にも分かりやすく伝達(アウトプット)する白銀の存在は、試合進行を支える重要な柱となっていた。

 

 

 極め付けは決勝戦。勝ち上がった秀知院学園チーム、「傷舐め剃刀」のべツィーによってなされる徹底的な人格否定に、マイクさえ握れなくなるほど泣き崩れてしまった選手を、司会役の白銀が懸命に励ましながら討論が続くという、なんとも異様な試合展開。いつしかべツィー1人を相手に一丸となって議論に挑んでいく様は、大会方式としては極めて逸脱したものだったが……自分の学園のチームと敵対することになっても、他校の生徒を助ける姿。その心意気は、参加選手だけでなく観客達にも、白銀の……延いては彼が会長を務める秀知院学園の徳の高さを知らしめることとなった。

 

 

 健闘むなしく、大会は結局べツィー率いる秀知院学園チームが大勝。それでも試合後、決勝で共に壇上に上がった選手は、涙を流し何度も頭を下げては会長と握手を交わしていた。

 

 

 ………その姿。流す汗に光を弾けさせ、声を張り上げる試合中の雄姿も。

 観客席に座る早坂は、買ったばかりのコーラを握りしめたまま、片時も目を離すこともなく見つめ続けていた。

 

 

 

 

 

 □■□■

 

 

 

 

 

  拝啓、白銀御行様。

 

 

 

  ゆく秋の寂しさ身にしみるころ、いかがお過ごしでしょうか。

  月日が経つのは早いもので、あの事件から早7日。先ずはじめに、この7日間、貴方に一切の連絡が取れなかったこと。学園に顔を出せず不安を抱かせてしまったことを、お詫びさせてください。

  あの事件の後、事後処理の関係により暫く別邸を離れていましたが、私は今も変わらずかぐや様の近従として仕えさせていただいて―――』

 

 

「……(かった)い」

 

 使用人用の私室にて一人、自らが書き記す手紙の内容に、重い溜息を零す早坂。

 取り出される新たな用紙。カリカリと鳴る万年筆の音。『拝啓 白銀御行様』。この文頭で書き始めるのも、これで21回目か。机横のゴミ箱は既に半分近くが、紙くずで埋め尽くされてしまっていた。

 

 一体全体、どうしてしまったというのだろう。

 あの日以来、ふつふつと胸の奥から湧き上がってくる感情の波。心を制御することなんて、今までは意識するまでもなく出来ていた筈なのに、焦れったいような……擽ったいような……自分でもよく分からない情動に振り回されてばかりいる。

 

 この手紙だってそうだ。記したい内容、伝えたい事はハッキリしている筈なのに、遅々として筆が進まない。もっといい文章はないか。これで 感謝の気持ちはちゃんと伝わるか。そんな想いばかりが急いては、筆を空回りさせる。この手紙を実際に会長が手に取り、読んでいる姿を想像するだけで、どうしようもなく思考が熱を帯び、手を震わせるのだ。

 

 ―――あれから。

 

 討論大会を終えた会長は、そのまま電池が切れてしまったかのように眠りに落ちてしまった。

 石上会計に肩を担がれ、いったい何時の間に呼んでいたのか、書記ちゃんの用意した車に乗り、妹さんと一緒に自宅へと送迎されていく白銀会長。私とかぐや様は看護に名乗り出る間さえなく………用意していたコーラも、結局渡せずじまい。あの図ったかのような手際(タイミング)の良さ。あの時だけは、かぐや様が書記ちゃんを呪おうとする気持ちが少し分かった気がした。

 

 あの日渡せなかったコーラ缶は、今も大切に自宅の冷蔵庫に保管している。新しく買うことも出来たが……それでは意味がないのだと、自分でもよく分からない拘りにあの一本を手放せずにいる。手紙だってそう。連絡を取るだけならラインや電話一つで出来るというのに、頑なにそれを拒んでしまう自分がいる。

 ほんとうに、らしくもない。非効率というか、非論理的というか―――

 

 

「あーもうっ」

 

 バンッと机を叩き、年甲斐もなく……いやまるで年相応の少女のような声を上げ立ち上がる早坂。

 こんなモヤモヤとした気持ちでいてはまた1日を無駄にしてしまう。要リフレッシュ。いざお風呂場へと向かうべく、棚から入浴剤の箱と用具一式を持ち出しては、廊下へと躍り出るのだった。

 

 

「…………」

「…………」

 

 だが、タイミングが悪かった。勢いよく開けた扉の先、丁度廊下を通り過ぎていた老執事と目が合う。

 ヒュッと細くなる息。休暇真っ最中といった早坂の様相に、老執事はギラリとモノクルを光らせ、より一層眉間に皺を増やしては、何事かを言おうと口元を歪める。

 

 だが、その言葉を遮るように突如響く電子音。

 見れば彼の胸元、かぐや様が使用人呼び出しの際に用いる通信機からであった。発せられる色は赤。『緊急性高し』『とにかく早く来なさい』の意。

 一瞬顔を顰めた老執事だが、自制を効かせるように咳払い一つ、すぐに無表情の鉄仮面を被ると、足早に廊下奥へと歩き去って行った。

 

「…………ふう」

 

 薄れていく重圧にほっと撫で下ろす肩。何をされたわけでもないのに、嫌な冷や汗をかいてしまったと思う。

 

 

  あの一件以来、かぐや様の決死の申し出により、私達、別邸使用人の異動に関する案件は、全て白紙に戻った。

  早坂以上に自分の身の回りの世話を出来るものはいない。そう声高に豪語する かぐや様に対して、しかしそこで引き下がっては本邸家従の名折れ。断言するのはせめて我らの働きを見てからにしてほしいと、本邸家従達は二週間の期間、別邸で給仕に就くことを申し出た。

 

 ………だが、かぐや様の我儘ぶりは、明らかに普段に比べて5割増し。私への仕打ちに対する仕返しも兼ねているのだろうが、その横暴ぶりに翻弄される本邸家従の姿は、見ていて同情さえ抱くものだった。彼らの長たるあの老執事も、この一週間で随分と老け込んでしまったように見える。

 

 対して私の方は、彼らの働く期間、事件後の療養も兼ねて休暇を戴くことになった。家事ダメ。給仕ダメ。とにかく安静にしていなさいと。かぐや様の言い付けは、其れは大袈裟なものだったが、心配してくれている気持ちわかったので素直に頷くことにした。

 

 ……が、最近ではそれもちょっと後悔もしている。

 

 そも突然のお暇。休むことに慣れていない私の休日は、まずどう休憩を取るべきか、何がしたいかを箇条書きすることから始まり。そしてそれらも、持ち前の要領の良さのせいで、大抵をやり終えてしまっていた。あと残るは会長へ手紙を書くことのみ。

 

 加えて、先の本邸家従達の奔走ぶり。彼らが必死に働いている中、手紙を書くことにばかり時間を使っている我が身を省みると、なんとも申し訳ない気持ちが浮かんでくるのだ。

 

(……なんか、この歳でワーカホリックみたいで嫌だな……)

 

 入浴剤二箱を浴槽にぶちまけながら独り言ちる早坂。実はかぐや様に内緒で、こっそりとかの老執事に給仕の手伝いを申し出たこともあったのだが……

 

『施しは結構……我々にも矜持というものがある』と一蹴されてしまった。

 

『……何より…フフ。この我儘ぶり……。母君にお仕えした日々を思い出します……。やはり血は争えませんなぁ……フフ…フ…』

 

 疲労の浮かぶ顔で虚ろに笑う老執事に、素直に頷くことにした早坂。というか、ちょっと気持ち悪くて引いた。

 あまり無理をし過ぎて、あの誘拐犯の男のように潰れてしまわないことを願う。

 

(……そういえば)

 

 ふと浮かんだ男の顔に、以前にも一度、今と同じように かぐや様が使用人にキツくあたる時期があったことを思い出す。

 

 勤務実績も優秀とされ、本邸への栄転も確実と評価されていた当時の彼。

 ………だがその実は、異常な出世欲と顕示欲を隠し持ち、他者を蹴落とすために、同じ使用人同士でも給仕の粗探しや妨害、時に失敗の捏造まで行うような男であった。

 

『早坂の娘のくせに、こんなことも出来ないのか』

 

 未だ耳に残る嘲笑。その鉾先が、かぐや様の近従である私に向くのもまた当然の成り行きだったのかもしれない。執拗なまでの虐めは、私の心に決して小さくはない影を落としていた。

 

『珍しいわね。早坂がこんなミスをするなんて』

『……申し訳ございません』

『何かあったの?』

『いいえ。かぐや様のお手を煩わすような事は、何も』

『………。そう。ならいいわ。下がりなさい』

 

 まだ氷の令嬢と呼ばれていた頃のかぐや様。

 手元の本から目も離さぬまま、私の様子になどまるで興味もなさそうだったけれど………思えば、彼への当たりが強くなったのは、それから少し経ってから。

 きっと、あの時も……

 

 

(やっぱり……会長の、言う通りでしたね)

 

 

 今も昔も変わらない。かぐや様は、怖く、強く、優しく―――そしてずっと私を、守ってくれていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「くぷぇ―――ほ」

 

 浴室に立ち込める白い湯気。47度にまで茹だった湯船に首深くまで浸かれば、体の輪郭がぼやけてくるような、心地よい浮遊感に身を包まれていく。

 

『演じない私の方がいいって言ってたよね。だったら―――本当の私を見せてあげる』

 

 熱に溶け微睡む頭が思い出すのは、かつて自分が告げた言葉。まだ会長に正体を明かす前、私が“ハーサカ”として振舞っていた頃の記憶。

 

『人は演じなければ愛されない。それは紛れも無い本心です。逆を言えば、「本当の私」というのは、それほど取るに足らない存在なんです。強く見せなければ……良く演じなければ、誰も振り向いてくれないほどに。それでも……そんな私でも。貴方は「本当の私」が良いと言ってくれますか?』

 

 当時の私には分からなかった。

 自分が彼に何を明かしたかったのか。

 本当の私を見せて。ありのままを曝け出して。

 それを認めて欲しかったのか。それとも否定して欲しかったのか。

 時に強く、時に弱い、形を持たぬ心の在り処に迷い揺れていた私。

 

 けれど―――それも今なら分かる気がする

 

(結局私は、どちらも(・・・・)認めて欲しかったんだ)

 

 仮面を被ることでしか、弱く臆病な己を隠しきれなかった私。

 それでも、たとえ演技であったとしても。

 かぐや様の専属侍従となるべく……あの子の側にいたいと、積み重ねてきた努力の数々は、決して偽りのものなどではなかった。

 

 演じることに偽ってきた弱い私も。

 演じることで頑張ってきた強い私も

 そのどちらもが『本当の私』で……

 

 片方だけを認めることも、片方だけを否定するなんてことも、して欲しくはなかったのだ。

 

 

 ―――嗚呼。思い至ってみれば、何で子供らしい。

 稚拙で我儘な願いなのだろう。

 

 ………だけど

 

『別に………アンタと同じだよ』

 

『え……?』

 

『自分がどれだけ出来ない奴かなんてことも知ってる。けれど だからこそ………頑張ったなら認められたいだろう。上手くいったなら、ちゃんと誰かに見て欲しいだろう。そう願うことは……別に、我儘なことではないんじゃないか』

 

 

 ブクブクと、潜るように湯船の中に沈んでいく。こんなにも頭が火照っているのは、のぼせてきているのか。

 それでも湯から上がる気はしなかった。上がってはきっと……この火照りに対する言い訳が出来なくなってしまう。

 

 

 

「………しい」

 

 白湯気の漂う天井にポツリと呟く。それはかつて、この浴場で1人零した言葉。そして……

 

 

 忘れないで。『愛』という字は、心を受け入れる、と書くの。

 

 

「………うらやましい」

 

 

 あなたが心を開き、もしその全てを受け入れてくれる人がいたなら

 

 

「一度くらい。私もあれくらい誰かを好きに―――」

 

 

 その人はきっと、あなたを――――

 

 

 

「――――」

 

 

 

 

 口にした名前は………しかしそれはまた泡となり、声になることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 




■ あとがき □

最後まで読んでいただきありがとうございました!GWには書き上げると言っておきながら2ヶ月近い遅刻、本当に申し訳ないです(泣)

さてさて、ぶっちゃけ終盤のお風呂シーンを書きたかったがために始めたこのシリーズ。実際に恋仲にならずとも、似た者同士、早坂さんに会長を意識して欲しかったというのが、私の希望でした。終わり方としては中途半端な感じに……。

けどそこに至るまでは本当に長い道のりで、会長と早坂さんを仲良くさせるにはどうしたら良いか。完璧超人の早坂さんに心を開かせるには?など、一人悶々と構想と妄想を重ねては、結果的に早坂さんには誘拐されていただくことになりました(笑) 。
追走中の心理戦や、白銀会長による救出シーンとかは、もっと格好良く描きたかったのですが、作者の知識と実力不足のせいであんな脳筋な解決法に………すまぬ……すまぬ。なのでせめてもと、救出シーンには分かる人は分かるネタをぶっ混んでおります。Ibを……魔女子さんのその後を早く……アカ先生ッ!

最初は会長が早坂の本心を暴き出す予定だったのですが、書いているうちに二転三転、やっぱり早坂さんの本音を聞き出せるのは かぐや様だけかなぁ……と。あと かぐや様にも格好いい見せ場作りたかったので、この顛末に。剣道部部長や天文部部長については完全に妄想。誘拐役の女主人さんについても、チョイ役のつもりだったのが、途中からやたらと感情移入してしまって、裏設定を付け足したり根っからの悪人にすることができなかったりと……オリキャラが苦手だった人はホントごめんなさいね。でも後悔はしていない。

……で、ここからが恥ずかしい裏話。実はこのssを描き始める当初、会長と早坂さんは従姉弟同士なのではと疑っておったんです。同じ青色の鋭い瞳、圭ちゃんと早坂さんの似たような言動、三人ともかぐや様大好きなところとか。まだ早坂さんの両親が未登場だったので、早坂母と白銀父が兄妹で、早坂家に嫁いだ妹が厚意により白銀父を誘うも、親から継いだ工場を守るために白銀父がコレを拒否。結果2人の不仲が進み、互いのことを知らされていなかった……なんてバックストーリーを勝手に妄想していました。今の会長と圭ちゃんの関係が更に拗れてしまった感じ。
もし白銀御行の名前に『J』が由来しているところがあったら、愛(I)・御行(J)・圭(K)の並びが出来るんだけどなぁ、などと考えながら、本作でジョーカーやらジャックやら、やたらJに因んだ単語を会長に押し付けているのはその名残です。いつか後日談として早坂さんと圭ちゃんの話も書いてみたい。

さて 語りたいことはまだまだありますがこの辺で。もっと文章量減らして、読みやすい文章書けるよう精進していきます。そすれば投稿ペースも増えますからね。

ではではアデュー!



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