その甘さは、砂糖のようだった。甘いと分かっていても、いずれは波のように引いていく、有限の甘さ。幽玄のような甘さ。
珈琲の中に入れてしまえば、直ぐその闇に溶けていってしまうような、
あの闇をどうにかしたいなら、砂糖ではなく、白い白いミルクになるべきだったのに。
その甘さは、ミルクの甘さではなく、間違いなくシュガースティック、或いは角砂糖のそれなのだ。
それが、その甘さこそが――【絶対裁姫 アストライア】だった。そうだったのだ。そうだった――筈だったのだ。
□■□
いつからだっただろうか。
カタルパの掲げる正義が、カタルパと【アストライア】の、二人だけのものではなくなったのは。厳密には違うのだろうが、本質は同じ正義を、あの上半身怪異や木龍使いが掲げている。
――実に、腹立たしい。
【アストライア】は胸の内の怒りを、日々煩わしく思っていた。
怒る事が無意味と分かっていながら、それがやめられなかった。
怒っていると思っている自分を、日々煩わしく思っていた。
『其方の内面はその外面と違い、いやはや中々に黒いではないか』
その思いを見透かして、最近は水晶が話しかけるようになった。
あの楔だ。宿敵であった筈の、仲間だ。
【アストライア】は行き場のない憤りを、水晶にぶつける事にした。
それは最早、恒例行事となっていた。
「相変わらず君は戯言しか言えないんだね」
『まさか。的を射た虚実ではないか』
「虚実……?なら今のそれはどちらなんだい?どちらと言っても信じはしないけれど」
『信頼性が無いな』
「元々敵対関係であったのに今更じゃないか」
『…………敵対関係、か。それについては、未だ継続中と言えようが』
そればかりは苦笑するしかなかった。カタルパの掲げる正義が、あくまでも『二人だけのもの』である限り、その『二人』に含まれないこの水晶は――勿論、その定義により魔導書も――別の正義を掲げる、『二人』の敵なのだから。
正義の敵は、別の正義だ。だから『二人』とその他は、相容れない。元より二人だけの世界に何かを介入させる気は【アストライア】には無かったが。
拒絶。断絶。彼女の鎖は、彼を取り巻くだけで、そこで途絶えている。他を縛る為ではなく、彼を
……いや、仮に他者に創られたのだとしても彼女の、【アストライア】としての内面は恐らく、変わりはしないだろう。こんな内面だからこそ、彼女は【アストライア】と銘打たれたのだろうから。
『兎角、正義とは千変万化であり、千差万別でもある。元より相容れない。そこについては此方も一線を引いている。
そこで同調も強調もする心算は無い。無論、これ以上敵対する心算も無いが。
此方はもう、其方の精神に干渉する程度の力しか残されていない。少なくとも其方の正義の上塗りは出来ない。其方の正義に嫌々付き従うのがようやっとだ。
それはあの手甲も、鎖の刀も、魔導書も、単眼鏡も同じだろうが、な』
「構わないよ、そんなの。私とカーター以外の事を、気にしている暇なんて永遠に来ないからね」
サラリと、仲間である筈の存在を切り捨てるのは、流石と言うべきなのか、非情と言うべきなのか。どちらにせよ、最早彼女の中にマトモな『仲間意識』たるものは無い。
デジタル思考のような
狂っている。それは今更ながらの感想であり、いつであっても、彼等彼女等には驚く程にしっくり来る言葉だった。
□■□
「アイラ?」
目的地に辿り着いたと同時、ほんの短い間、アイラが直立不動だった事を、カタルパはその時初めて気にかけた。彼にしては、遅かった。いつも彼女の事を考えていそうな彼が、彼女の異変を数秒であれ放っておくなど。
それこそ異変である。カタルパ・ガーデンとは異なり、以前のそれとは変わっている。
それがカタルパだと言うのなら。
そうして千変万化していく事がカタルパの正しさなら。
その時点で、食い違っている。
水晶は不意に瞑目した。……する目が無いが。
本当にそうならば、本当に彼が変わってしまったと言うのなら。彼女は何処に向かえば良いのだろうか。
彼女が辛うじて正常で居られるのは(マトモでは無い)、カタルパと寄り添うように生きているからだ。それこそ『人』と言う字の成り立ちのように。
彼女はまだ、独り立ちするには早すぎるのだ。狂った理論を掲げようが強大な力を持っていようが彼女はまだ、幼いのだから。
(そうした事を考えてしまうのは、此方が世話焼きだから、なのだろうか)
水晶の楔は思案する。
鎖が所有者を縛るものだと言うのなら、楔はその鎖を打ち付ける。そして所有者はその楔を引き抜く。
それは、蛙と蛇と蛞蝓の三角関係が如く、三竦みとなっていた。
化け物が化け物を縛り、化け物が化け物を打ち付け、化け物が化け物を引き抜く。
世界がまた、通常に一瞬一瞬を重ねる。その一瞬の隙に行った逡巡を、【ギャラルホルン】は語らない。
数瞬のカタルパの放心も、数瞬のアイラの長考も、一瞬の【ギャラルホルン】の思考も。
繋がっていながら、語ることは無い。
驚くべき事は、それでも尚繋がってはいる事なのだろう。切れてしまいそうなのに切れない腐り縁――鎖縁――なのだろう。
それを運命と呼ぶのなら、些か言葉遊びが過ぎる。
正義という概念に取り憑かれた彼等は、まだその見えないモノの形を追い求めている。或いは、それが納まる器になろうとしている。
どちらも愚行だ。それを考える事もまた愚考だ。
だがそうして、愚かしい事が彼等の存在証明に成り得るのなら、尚更彼等は愚考と愚行を重ねる。
二層の『愚か』で出来たミルフィーユが、彼等自身が目的地に辿り着く足掛かりになるのならば、尚更。
――――それこそ、
それを正義と盲信し、妄信して猛進するだろう。
襷は託されるモノで、鎖は縛り付けるモノ。二つのモノが、庭原 梓を雁字搦めにしていたとしても。
更に【アストライア】の鎖で、梓と同じカタルパ・ガーデンが縛られていたとしても。身動が取れなくなっても。彼等彼女等の正義は、決して揺るがない。
寧ろ動けないからこそ、その正義が不動のものとなる。なんともまぁ、摩訶不思議なお話である。
だが所詮は
ただそれだけで、それこそが全てだった。
それが、矮小で狭小で僅少な、正義だったのだ。
□■□
辿り着いた場所は、よくミルキーが居る店……とされる場所だった。あの自由奔放な娘が、特定の場所に入り浸るとは到底思えなかったカタルパは、半信半疑のまま扉に手をかけた。
今日そこに来た目的は幾つかあるが、筆頭は【ギャラルホルン】の件だ。【終点晶楔 ギャラルホルン】本人は多分そのままでもいいんだろうが、楔が剥き出しになっていて、鎖を繋ぐ箇所すら無いのは推奨出来ない。
カタルパがそう告げた時、アイラが
「推奨出来ないのか……水晶だけに?」
などと言っていたのはここだけの話だ。
【ギャラルホルン】もそれ以上文句を垂れたりはしなかった。所有者に対する忠誠、だと信じたい。
「いらっしゃい」
見た目四十程の男の店主がカタルパに定型句を言う。カタルパは会釈してからその店主に切り出した。
「ミルキーって奴はいますか?」
「あぁ、居るよ。今日も奥の席に居る」
大して大きくないその喫茶店の奥の席は、外の光が遮られる位置にあり、暗視ゴーグルのようなものが無ければそこに誰かが座っているのかさえ分からない。
店主はもうコーヒーカップをナプキンで撫でている。もうカタルパに関わる心算は無いらしい。いや……何処と無く『関わりたくない』という意思を感じた。カタルパは初対面だろうから、必然的に、消去法でミルキーのせいだ。
カタルパは嘆息し、序に落胆しておいた。いや、安心したのだろう。
何処に行っても、彼女の普遍性は不変だったのだから。
「大分暗いね、カーター」
「まぁ、豆電球で照らしてるだけみたいだしな」
二人でその席に行くと、暗がりの中で見慣れた姿を見つける事が出来た。
「やっほー梓。それにアイラちゃんも」
「よぉ、相変わらず」
「今日は下半身は……あるみたいだね」
「何処を気にしているんだアイラは……」
テーブルの下からアイラがミルキーを覗く。今回はちゃんと脚を視認出来たらしい。
以前は別の場所で待ち合わせた際、急いで来たからという理由で上半身のみで来た事があった。亜音速で上半身が迫る光景は何度経験しても慣れない。数日に一度闘技場でカタルパとミルキーは手合わせをするのだが、カタルパの勝率が悪いのは(相変わらずの『悪』に関する定義の事もあるが)その上半身オンリースタイルのせいでもある。
「見ちゃいやん」
「キモい声を出すな」
下半身が付いている事を聞いてか、店主が安堵していた。……多分、以前ここで下半身を切り落とした事があったのだろう。カタルパは店主の苦労を垣間見た気がした。その喫茶店の勤務と関係の無い苦労を。
チラリと目を向けた先、店主の左手に紋章を見た。気にかける程では無いが、彼をティアンだと思っていたカタルパは無意識に眉を上げた。それから、視線をミルキーに移した。ミルキーは眉を上げたのを見たのか、少しキョトンとしていた。
「ん?……どったの梓」
「いや……なんでもない」
さぁ、建設的な話をしよう、と梓は密談を開始する。
議題は【終点晶楔 ギャラルホルン】について。
今日もそうして、泡沫の夢が過ぎていくのだった。