姿かたちは無い。だが確かにそこに『何か』が居た。
正体不明。だが確実に居る『何か』。
恐らくそれは『意思』であり、『遺志』であるモノ。
存在する事に意味があり、そのものが意義である。
見えない『何か』は、カタルパと傍らにある刀(あるいは剣)を、取り囲んでいた。
いや、厳密には背後に数十名が、前と横に幾許かの『何か』が居た。
正義の味方を裁く裁判がこれから始まろうとしている。とカタルパは思考する。
こうした配置を覚えている。カタルパは――いや、庭原 梓は
それが裁判所での記憶である事を。『誰の』裁判の時の記憶であるのかも。――忘れたかったものさえ、たった今思い出してしまった。
全てを覚えていて、それを忘れられずにいる。
それは罪ではないし、間違いでもない。だが間違いなく梓を蝕み、カタルパを締め付けていた。
木槌の音はない(この時代以前から、最早あの音が裁定時に鳴り響く事など無いのだが)。
たとえ世界が忘れても、梓のどうしようもない程に良い記憶力が――あるいはその事の重要性に拠るのかもしれないが――忘れる事を許さない。
何故ならカタルパが
偽善者の対義は偽悪者であり、その点、カタルパと梓は対局に位置しない。正義の敵は正義でも、それらが対立するとは限らないのと、同じように。
未だ何も始まらないその状況下、カタルパはふと目を瞑った。
□■□
カタルパ・ガーデンという〈マスター〉が『始まる』動機に、現実逃避というものがあった。それは後付けならぬ前付けだ。そもそも英雄が、現実から逃避して言い訳がない。だから彼は、逃避する言い訳を探し始めた。矢張り『逆』なのだ。何かを求めてデンドロを始めた、という他のプレイヤーと同じところはある。だが、中身が逆なのだ。終局的なところが、カタルパ――庭原 梓だけ現実に帰結している。
その筈だ。
――自由が無かったから自由を求めた『誰か』とは違う。
――誰かを追いかけるようにしてやって来た『誰か』とは違う。
――現実にはない何かの為に命を賭す『誰か』とは違う。
――殺人が合法である為に殺して生きる『誰か』とは違う。
今もカタルパは――梓は――悪を許さない為に居る。
正義の味方か英雄か。その違いはあっても、現実にはなかった何かを追い求めている訳でもなく、ざっくり言えばこれを、このデンドロの世界を、現実の延長として考えている。
だから現実であってもデンドロの世界であっても、
その筈だった。
今は、違いがある。間違い探しのような差異がある。何故か。
正義の女神と同じ名前をした少女の有無が、梓とカタルパを分けているからだ。その少女の存在が、英雄もどきを、偽善者にしたからだ。
――TYPE:メイデンwithアブソリュート・カリキュレーター――
そんな少女の有無が、境界線となっている。
絶対を裁く絶対的な演算機、だと言うのである。
そも絶対とは相対の対義語であり、比肩するもののない、唯一無二を意味する。例を挙げるならば、かの宗教の唯一神とかで良いのではなかろうか。
また、彼女は絶対『に』裁く姫でもある。この場合は「決して」という意味合いが強い。
「絶対負けない」「絶対に許さない」のような、強い意思表示として使われる場合の『絶対』の意味合いを、彼女は含有している。
唯一無二を決して許す事のない姫。それが【絶対裁姫 アストライア】の根底なのだ。
完全にして究極、追求され尽くした『唯一無二』の極地――絶対者を裁く事こそ、【絶対裁姫 アストライア】の存在意義。
完全や究極を打破するという
《
それが、
カタルパ・ガーデンの
正義を滅ぼすのは別のでなくとも正義である。その、体現者。
□■□
ふと、眼前の光景に変化が生じたのを感じ取り、目を見開く。
真白な世界の中、漸くカタルパは傍らに目を向ける。
『…………』
「…………」
【七天抜刀】は何も語らない。
もしかすると『何か』が見えているのかもしれない。何せ神話の伝承が由来の武器だ、北欧とギリシャで文化圏こそ違えど何かしら見えるのかもしれない。それは流石に、期待のし過ぎというものだが。
ざわめき始めた観衆。目の前……と言っても背後も真横も同じ何も見えない光景である事に代わりはないのだが、方角的に前方で、女性らしき声で『何か』が言った。
『貴方の中にある正義を、教えて下さい』
と。
その声は威厳に満ちていて、カタルパは無意識に従った。
「俺の……俺達の正義は、守りたいモノを守るだけの正義です。一度守ると決めたら守りきる。どんな障害からも、どんな理不尽からも。だからこそ――それ以外を切り捨ててしまえる。そんな正義です」
その回答に、見えない『何か』は確かに頷いた。
前から、横から、後ろから。視線が突き刺さるのを感じる。
その視線に込められた意味は『好奇心』だ。ふと傍らの刀を見れば、刀でありながら焦っているような、そんな気がした。
舐め回すような視線の乱舞の後、左側から男の声がした。これまた威厳のある声で、偉丈夫と言った印象を受ける声だった。その声が発せられると同時、視線が一斉に男に動いた。
『ならば俺からは何も無い』
随分とあっけらかんとしたセリフだった。だがそのセリフの意味合いは大きかったようで、辺りからは「そりゃそうか」「認めるだろうねぇ」「流石」などと性別も年齢もよく分からない声が右から左からとめどなく流れた。
今思えばカタルパの位置は証人の位置だ――そして左側は原告と原告の弁護士の位置だ。
この裁判の原因は『絶対』という概念にある。
絶対に悪を屠るという《
ならば本来……傍らにある【七天抜刀】ないしカタルパは、被告側となる右側に居なければならないのではないか?
もしかすると中央に立っているというのは勘違いで、実は裁判所的に右側に居て――否、それならば先程前方から聞こえた声の主が原告側からのセリフになり、左から聞こえる声は証人のセリフとなる。それは有り得ない。
では、被告は誰だ?
見えない。見えないが居る筈の『何か』。
否、もっと根本的な事から考え直そう。
そもそもこれは、裁判なのか――?
『正義は示された、と見てよろしいですね?』
初めに聞いた、女性の声。
一同が頷く雰囲気。
そこでようやく気付く。
これは、裁判ではない。ただ俺は、見えない『何か』に囲まれただけだったのだ。
結論に辿り着き、嘆息するカタルパ。後ろからの視線が多いのは別にそういう構造か、そういう塊が出来ているだけで、裁判所なんて関係ないのだろう。
そうして初めの疑問に回帰する。では何者なのか、と。
霧が晴れるように微睡みが醒めていく。
左方にも右方にももう何も無い『何か』が退席し、消えたのだろう。つまり微睡みの覚めと共にこの囲いの集いは終わったのだ。
……これも逆か。終わったから、覚めるのだ。
その中、カタルパが最後に見たものは。正面の、最初と最後に声を聞いた、女性で――
――長く伸びた銀髪、その髪と同じように煌めく銀の眼。神聖さを保ちながらも何処か子供らしく思える白いワンピースのような衣装。そして腰に巻き付いているのはベルトではなく、あれは――
そこで、景色は途絶えた。
□■□
目を覚ますと、激痛が走った。
ベッドの上で転げ回るカタルパは、ふと違和感に気付く。
いつもの場所ではない。つまり『計算部屋』――王城でない事に気付く。そもそもベッドで寝ず、座ったまま寝ているのがカタルパの常だ。……皆様は真似しないでほしい。
では何処かと見回す。
女子らしい家具。僅かながら漂う甘い芳香。それはアイラの匂いではなかった。
「ん?……あ、覚めましたか」
部屋の入り口から届いた、どこか冷めた声。それでハッキリとカタルパは覚醒する。
「あぁ、なんだ……セムロフか」
「なんだとはなんです」
【探偵】にして【詐欺師】、セムロフ・クコーレフスがそこには居た。今度はちゃんと、見える相手だった。
( °壺°)「今年最後の更新ですね」
( °壺°)「皆様良いお年を」