Fate/Grand Order 白銀の刃   作:藤渚

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【肆】幽暗の暁(Ⅰ)

 

 

 

 

 『化け物』

 

 

 『鬼の子め』

 

 

 『忌まわしい、何て忌まわしい』

 

 

 

 まるで豪雨のように降り注がれる、容赦ない罵詈雑言。

 

 聞くに堪えないそれらを遮るべく、耳を塞ごうと手を動かす。

 しかしその行動は、手首をきつく(いましめ)(かせ)によって叶わぬものとなった。

 

 

 

 『世に災厄をもたらす者め』

 

 

 『呪いが降りかかる前に』

 

 

 『殺せ』

 

 

 『殺せ』

 

 

 『殺せ』

 

 

 刀、斧、包丁、鉈、竹槍………一斉にこちらへと向けられる穂先に、心の底から恐怖が湧き上がってくる。

 

 

 やめて、と懇願を訴える筈だった口が吐き出したのは、言葉ではなく真っ赤な鮮血であった。

 

 

 腹部から生えた青竹に、噴き出た赤がこびりつく。立て続けに振り下ろされる凶器が、身体にめり込んでいくのを間近で見せつけられる。

 

 

 痛い。痛い。痛い。

 

 激痛を感じているのは傷口ではなく、胸の奥底。

 刃が深く(えぐ)ってくる度に、まるで心臓を(じか)に握りつぶされているかのような痛みに襲われた。

 

 

 ()めて。痛い、痛い。どうして、やめてやめて、嫌だ、やめてっ‼

 

 

 どれだけ泣き叫ぼうと、どれだけ許しを請おうと、止むことの無い罵声と残虐な行為。

 

 

 

 『殺せ、化け物を殺せ』

 

 

 『殺せ、忌まわしき者を殺せ』

 

 

 『殺せ 殺せ 殺せ』

 

 

 

 

 

 抵抗されぬよう縛り付け、一方的に力を振るう者達。

 

 飛び散る血飛沫の向こう側で、何人かが口元に笑みを浮かべているのが見えた。

 

 何が可笑(おか)しい?一体何が楽しいというのだ?

 

 嗚呼、(まこと)の化け物はどちらであろうか。

 

 

 

 憎い。恨めしい。

 

 

 (いと)わしい。大嫌い。

 

 

 

 

 

  ───なんて酷い、悪夢だろうか。

 

 

 

 

 

   *   *   *   *   *

 

 

 

 

 

 

「───ハッ‼はあ、はあ………。」

 

 首筋を、額を、大粒の汗が伝う。

 見開いた目が始めに認識したのは、古びた木製の天井と、そこから吊り下がった照明器具。

 外気に触れて冷たくなった汗を腕で拭いながら、松陽はゆっくりと体を起こす。手は掛け布団を握りしめたまま、まだぼんやりとする頭を左右に大きく動かして、辺りを見回した。

 

「……ここは?」

 

 薄明りの中で見た、知らない部屋。そこに敷かれた布団の上で寝息を立てる数名を見下ろし、松陽は首を傾げる。

 

「えっと、この人達は……?それに、私は何故此処に…………あれ?」

 

 不意に、湧き上がってきた疑問が頭の中を駆け巡り、ぐるぐると渦を形成し始める。

 

「私、わたし………わたしは、だれ、でしたっけ?」

 

 顔を触り、髪を触り、何度も確かめるようにその行為を繰り返す。

 再び溢れた汗が今度は背中を伝い落ち、徐々に冷たさを孕んでいくその感覚に身震いした。

 

「おもいださなきゃ………わたしの、なまえ………なまえは………?」

 

 頭を抱え、震える声で疑問を紡いだその時、すぐ近くでもぞもぞと何かが動いた。

 

「むにゃ……んむ~………松陽。」

 

 小さな呟きと同時に、着物の袖を掴まれる感覚。それらにハッと我に返った松陽は、咄嗟に下を向く。

 声の主はどうやら、すぐ隣で眠っているこの少女のものであるようだった。むにゃむにゃと動かす口の端には、間抜けにも垂れた涎が筋を残している。

 

「……しょう、よう?」

 

 少女の寝言を、頭の中で何度も反芻させる。その単語が示すのは何であったかを漸く思い出した時、彼の疑問の渦は即座に消滅した。

 

「そうだ、松陽………今の私の……!」

 

 胸の内が晴れやかになったと同時に、一気に込み上げてくる慙愧(ざんき)の念。

 僅か数秒、だがその数秒間だけと言えども、銀時から借り受けた大切な恩師(ひと)の名を忘れてしまうなど、決して許されることではなかった。

 戒めの意味も込めて、松陽は両手で自身の頬を強く叩く。パァンッ!と響いた音は思いの(ほか)大きく、それと比例した痛みを頬に受けた松陽は肩を戦慄(わなな)かせながら、今しがた頬を叩いた手で赤く腫れた箇所を押さえた。

 軽く(さす)る手を動かしたまま、松陽は改めて室内にいる者達の顔を確認する。まず自分のすぐ隣で眠るこの少女、名はよく覚えていた。

 

「……ありがとうございます、神楽ちゃん。」

 

 (はか)らずもヒントを与えてくれた彼女に小さく礼を言い、松陽が頭を優しく撫でると、神楽は心なしか嬉しそうな表情を浮かべていた。

 続いて顔を上げて最初に見たのは、壁に(もた)れかかって休む段蔵。彼女の近くで、掛け布団にくるまって眠るのはエリザベート。その布団からはみ出た尻尾と、自身の所定であっただろう位置から大きく離れた場所で眠りこける少女……少年?のアストルフォの、それぞれ両者の寝相の悪さが合わさった一撃を顔と体に受けている、何とも不憫なこの少年。彼は…………あれ?ええと?

 突如復活してきた物忘れに狼狽(うろた)えながら、松陽は懸命にヒントを探す。すると、枕の上にきちんと置かれた眼鏡を発見。思い出した、確かアレが新八君………じゃなかった、新八君はあの眼鏡を掛けている人間のほうだった、筈。大丈夫大丈夫、間違ってないよ。多分。

 一通りの名前と顔を確認したところで、松陽は記憶にある残り数名がこの場にいないということに気が付く。

 

「銀時さん……藤丸君……?」

 

 その二名の他に、あの二匹のもふもふ達の姿も無い。もう一度よく見回してみるが、やはりこの部屋に彼らはいないようだ。

 一体どこにいるのだろう?記憶の中で最後に覚えているのは、低くしゃがみこんだ姿勢の銀時と、頭から流血した藤丸………特に藤丸は大きな怪我を負っていたので、余計に心配であった。

 そんな時、不意に松陽の頬を冷たい風が掠める。出所(でどころ)を探すと、和室の襖が僅かに開いているのが見えた。

 

「おや……?」

 

 音を立てないよう注意を払いながら立ち上がり、襖へと歩を進める。何となく隙間の向こうの景色が気になったので、細く開いたそこへ好奇心のままに顔を近付けていく。

 指を数本入れ、そろそろと開いた襖から見えたのは、和室よりやや広めの板間。薄暗い部屋の中で、松陽はその隅に佇む巨体を発見する。それは身を丸め、すやすやと眠る定春だった。その上にちょんと乗っているフォウも、揃って穏やかな寝息を立てている。

 二匹の姿を確認出来たことに、安堵の息を零す松陽。彼らにもあの時の事をちゃんと謝ろう、そう松陽が思った刹那、突然彼の(おもて)が強張った。

 

「………え?」

 

 

 

   *   *   *   *   *

 

 

 

 チュン、チュンと(さえず)る声に、高杉はふと窓の外を見やる。

 あの気味悪い『月』が消えた夜空は、また元の暗闇となって江戸の街を覆い尽くしている。だが外には新聞配達を行う若者や、頭にセットした灯りを伴ってランニングを行う夫婦の姿。そして掛け時計の針が示す卯の初刻から、もうじき朝を迎えようとしていることが理解出来た。

 高杉が障子窓を開けると、薄ら寒い風が入ってくる。何気なく振り向いて見渡した室内には、長椅子で眠りこける藤丸と銀時、隅で丸くなって寝ている定春とフォウ、その隣ではエリザベス………もとい、エリザベスの着ぐるみを被った桂が、ぬ゛~ぬ゛~と中で不気味な寝息を立てていた。因みにこれ、本人(いわ)く再臨第一段階の姿らしい。お馴染みの普段の恰好は第二のほうであり、お楽しみの第三は………おっと、ここからは皆様の豊かな想像力でイメージしていただきたい。

 

「……寒ぃ。」

 

 呟いた声は、薄闇の中に溶けて消えていく。

 高杉は窓際へと向き直ると、開いた掌に魔力を集中させ、具現化した煙管を(たずさ)える。その側をひらひらと舞う一羽の蝶が火皿に止まると、熱を孕み赤くなった刻み煙草から、一筋の煙が昇った。

 吸口を咥え、肺と口内を煙で満たした(のち)、外に向けて緩く吐き出す。紫煙はゆらゆらと揺らめきながら、徐々に暗い江戸の街へと溶けていった。

 煙管を(くゆ)らせ、高杉はもう一度振り向く。彼の目が捉えるのは銀時達……ではなく、その向こうの和室へと繋がる襖。先刻ちゃんと閉めなかったのか、そこは僅かに開いていた。

 

「………松陽先生。」

 

 無意識に口から零れ出た、恩師の呼び名。

 河川敷で銀時に抱えられた姿を目撃した時、気を失っていた彼を自らの腕に抱いた時………その姿形に、懐かしい匂いに、胸の内の感情が爆発しそうになったのは桂だけではなかった。

 この薄い襖を(へだ)てた向こうに、あの人はいる………会いたくて、逢いたくて堪らなかった存在(ひと)。そして、この異質な世界に降り立った自分が、『復讐者(アヴェンジャー)』となり果てた原因(りゆう)

 

 

 

 

『あなたは充分に強いですよ。あの銀時とあれだけやりあったんですから、道場破りさん。』

 

 

 嬉しかった。実家(いえ)でも塾でもかけられたことの無かった、温かい言葉が。

 

 

『それでいい……悩んで、迷って、君は君の思う侍になればいい。』

 

 

 心地良かった。優しい声が、見つめる眼差しが。

 

 

 

 

『松下村塾へ、ようこそ。』

 

 

 

 ああ、この人の言葉に、この笑顔にどれだけ救われたことだろう。

 

 先生の背中を追いかけていきたい。先生の隣に並べるようになりたい。

 

 そしていつか、先生(あなた)が俺に対して言ってくれたような、『自分の思う侍の姿』になって、共に一人前となった銀時や桂と揃って認めてもらいたい────

 

 

 

 

 だが、そんな(ささ)やかな願いですらも、突如として容赦なく叩き壊されてしまう。

 

 

 松下村塾(ひだまり)を奪われ、恩師(ひかり)を奪われ、只茫然とするしかなかった幼子の自分達を、現実は嘲笑った。

 

 全てを取り返す為に、剣を取った。またあの場所(ひだまり)に帰る為、何度だって血に(まみ)れた。全身を覆ったその(いろ)が、敵のものでも味方ものだろうと、まして自身から零れたものであっても、最早どうでもいい。

 再び吉田松陽(せんせい)を自分達の元へ還せるのだったら、幾ら穢れようが構わなかった。

 

 

 

 

『やっ……やめろ………頼む。』

 

 

 曇天の下、泥や返り血にくすんだ白い羽織を(ひるがえ)し、銀時はゆっくりと松陽に近付いていく。

 

 手には、共に師を取り戻さんと誓い、数多の障害を切り伏せてきた彼の刀。

 

 その刃先が、今まさにその師へと向けられようとしている。

 

 

 嫌だ。やめろ、銀時。その人は、その人だけは────

 

 

 

『やめてくれェェェェェェェェ‼』

 

 

 

 

 

「…………っ。」

 

 反芻した過去の記憶に、煙管を離した口許が歪む。

 ひらりひらりと、高杉の憎悪の化身である数匹の琥珀の蝶が、室内を舞っていた。

 

 

 サーヴァントとなった今でも、(かつ)ての記憶はしっかりと保持されている。先生を捕らえた者、先生を捕らえるよう命令した者、そして先生を………吉田松陽を間接的に殺した者達。全て切り伏せ、皆地獄に送ってやった。

 

 しかし、この胸中に渦巻く厭世(えんせい)嫌忌(けんき)は消えることは無い。否、サーヴァントになってから(むし)ろ、内側から身を焼くような憎悪の焔は勢いを増すばかり。

 

 嗚呼、憎い。俺から、俺達から居場所も先生も奪った奴等が、憎くて堪らない。当事者を殺しても尚、この想いは微塵も掻き消えることはない。

 

 胸の内を満たしていく、醜い感情。だが不思議なことに、それらが増幅し膨らめば膨らむほど、どこかで満悦(まんえつ)している自分がいることに気が付いた。この感覚は、そう。空腹だった胃袋を満たした時に似た………

 

 

 

 ───ああそうか、これが『復讐者(アヴェンジャー)』というやつなのか。

 

 

 怒り、嘆き、妬み、恨み………様々に入り混じった負の感情。『憎悪』と総称されたそれらこそが、この霊基(からだ)の動力となっている源に違いない。そんなものを(かて)として現界している自身など、殺戮を犯すだけの兵器と(なん)ら変わり無いではないか。

 

 銀時に対し、『人でなし』などとほざいていた先刻の事を思い出し、高杉は自分を(あざけ)り嗤った。

 

 

 

 ────パァンッ!

 

 

 不意に聞こえた音が、陰鬱になりかけていた高杉の私考を阻害する。琥珀の蝶を消散させ、高杉は直ぐ様視線を音のした方……和室へと向ける。

 そこから暫しの沈黙……時間にして二分弱といったところだろうか。布の擦れるような音の後に、襖の隙間から数本の白い指が伸びてくる。それらは襖の堅縁を掴むと、音が立たないようそろそろと慎重に横へと動かされ、隙間を拡大していく。

 さらり、と薄闇の中でもよく映えた亜麻色の髪が覗いた時、高杉は目を見張った。

 

「─────っ‼」

 

 言葉が、喉の奥で(つか)えたように出てこない。

 

 ゆっくりと襖から身を乗り出してきたその人物…………十数年振りかに見た、松陽(おんし)の動いた姿に、高杉は思わず煙管を落としそうになる。

 幼き頃より見てきたそれと、何一つ変わらない容姿。だが真っ直ぐと正面を見つめる彼の怪訝そうな表情は、いつも笑みを湛えていた松陽をよく知る高杉にとって初めて見るものであった。

 

「……………。」

 

 松陽は何も言わず、黙ったまま一点を見つめ続けている。一体何を見ているのだろうと視線を辿ると………ああ成程、その答えは()ぐに分かった。くぅくぅと寝息を立てる定春……もとい、その定春に寄りかかって眠る謎の物体X──エリザベスの着ぐるみを凝視したまま、松陽は微塵も動かない。険しい表情(かお)から読み取れるのは、あれが何なのかを彼が懸命に理解しようとしていることだ。

 静かな時間が流れた(のち)、ふと視線に気付いた松陽の顔が、不意にこちらを向いた。

 心臓が止まりそうになる程の動揺が表に出ないよう、高杉は平静を必死に(つくろ)う。狼狽する彼とは正反対に、松陽は悲鳴を上げるわけでも、わたわたと慌てふためくわけでもなく、ただほんの少しだけ驚いたような様子で、棒立ちの高杉をじっと見つめていた。

 ………再び訪れる沈黙。一秒が何分にも感じられる程の気まずい時間が流れていく中、ぐぅ、と気の抜けた音が静寂を破った。

 

「あっ……え、えぇと………。」

 

 音の発信源となった自らの腹部を押さえ、俯いた松陽の頬は赤くなっている。以前見たことなど一度も無かったであろう、こんなにも師が恥じらう姿に言葉が出なかった高杉だが、やがて彼の開きっ放しだった口が大きく吹き出した。

 肩を小刻みに震わせる高杉に、松陽はきょとんとしている。暫くした後、右目を指で拭った高杉は障子窓から離れ、歩き出した。

 

「ここに座っててくれ、いいモン持ってくる………おっと、その前にこの暗さは不便だな。」

 

 空いたほうの長椅子を指した(のち)、高杉は広げた掌に揺らめく火の粉に、軽く息を吹きかける。風を受けて(ちゅう)へと舞い上がったそれらは、瞬時にその姿を蝶へと変えた。目の前で起きたことに呆然とする松陽に小さく笑みを零し、高杉は扉を後ろ手で閉めた。

 

「………………。」

 

 松陽は呆けたまま、室内を飛び回る光の蝶と高杉の消えていった扉を交互に見つめる。ぐうぅ、と先程よりもやや大きめの腹の虫が鳴いたことで我に返り、静かに襖を閉めてから示された長椅子へと移動する。

 見慣れない部屋の様子を見回し(特に圧倒的存在感を放つエリザベスを何度も見やり)ながら、松陽は長椅子に腰を下ろす。ふと顔を上げると、向かいの長椅子で眠りこける藤丸と銀時が目に入った。寄り添うようにして寝ている両者は揃って口端から涎を垂らし、何とも間の抜けた(ツラ)で毛布を被っていた。

 

「銀時さん、藤丸君……ああ、よかった!」

 

 二人の無事を確認出来たことに安堵し、松陽は胸を撫で下ろす。そんな時、先程の引き戸が開かれ、高杉が盆を持って部屋に戻ってきた。漂う香りが鼻腔を(くすぐ)り、松陽の腹の虫が再び騒ぎ出す。

 高杉はテーブルに近付くと、盆の上に乗ったものを松陽の前に置く。傍に止まった蝶の淡い光に照らされたそれは、少量の漬物と共に皿に盛られた、数個のおにぎり。その隣には手拭に続いて、温かいお茶が煎れられた湯呑もあった。

 

「昨日の夕餉の残り(モン)だ。じゃじゃ馬姫……じゃなかった、神楽?っつったか。アイツが貴方(アンタ)にって寄せておいたんだぜ。」

 

「神楽ちゃんが……?」

 

 真っ直ぐな瞳で見上げられ、気恥ずかしさから目を逸らしてしまう。高杉は盆をテーブルへと置くと、空いた松陽の隣へと腰掛ける。どこかぎこちなさを感じさせる高杉の動作に首を傾げつつも、松陽は視線をおにぎりへと移す。

 丁寧に拭いた手で、おにぎりを一つ取る。綺麗に握られた三角形をまじまじと観察した後、一口()む。ゆっくりと数回咀嚼(そしゃく)すると、緊張気味だった松陽の表情が徐々に和らいだ。

 

「……美味しいです。」

 

 ()いで出たそれは、素直な気持ちだろう。(にこ)やかにおにぎりを頬張る松陽の様子を眺める高杉もまた、口元に弧を描いていた。

 口いっぱいに詰めたおにぎりを頬張り、やや(ぬる)めに煎れられたほうじ茶を煽って流し込む。一つ目のおにぎりを完食した後、ふと松陽が顔を上げ高杉の方を向く。

 

「あの、ありがとうございます。ここまでして頂いて………ええっと。」

 

 もごもごと、(ども)りながらこちらを見つめてくる松陽の意図を、高杉は直ぐに察する。

 

「ああ……そういやぁ、今の貴方(アンタ)は何も覚えちゃいねぇんだったっけな。」

 

「あの……はい、すみません。」

 

「謝らないでくれよ、別に責めているワケじゃねぇんだ。」

 

 悪かったな、と続けてから微笑む高杉。その表情はどこか(うれ)いにも似たものを帯びているようだった。

 

「俺は……俺の名は、高杉晋助。貴方(アンタ)が先に出会ったあの天パ………銀時の朋輩(ほうばい)みてぇなモンだ。」

 

「銀時さんと、お知り合いなのですか……?」

 

「知り合いどころか、切っても切れねえ腐れ縁さ。ついでに言うと、そこのペンギンの化けモンの着ぐるみ被った奴も含めてな。」

 

 高杉の指した先には、松陽が発見した時よりも傾きの大きくなった桂がいた。ぬ゛~ぬ゛~と相変わらず不気味な寝息を立てて体重をかけてくる桂に、定春は()も不快そうに唸り声を上げていた。

 くすくすと笑う松陽を何も言わずに見つめていた高杉だが、深呼吸を一つ終えると、意を決したように松陽へと向き直る。

 

「……なあ、松陽『先生』。」

 

 高杉が発した刹那、松陽の表情(かお)から微笑が消える。間を待たずしてこちらを向いた彼の見開いた目は、明らかに驚愕を訴えていた。言葉を失ったままでいる松陽に、高杉は続ける。

 

「記憶を失ってる貴方(アンタ)にとっちゃ、俺が何の話をしているのかも分かるめぇ。だからこっからは、俺の他愛ない独り言だとでも思って聞き流してくれても構わねえよ。」

 

 高杉は(おもむろ)に立ち上がり、()り足で障子窓へと移動していく。僅かに開けられた窓の向こうで、ぽつぽつと街灯りが増えていくのが見えた。

 

「『松下村塾』………(かつ)貴方(アンタ)が、とある田舎に開いた私塾の名だ。金も(ろく)に取らず、貧しい子供を集めて手習いを教えていたその場所に、俺達も教え子として貴方(アンタ)の元にいたんだよ。」

 

 咥えた煙管の先端に、一羽の蝶が止まり、消える。昇った細い煙が、窓の外へと吸い込まれていく様を眺めながら、高杉は続ける。

 

「……銀時はな、アイツがまだほんのガキの頃、貴方(アンタ)が戦場で拾って育てたって聞いてる。ヅラ……そこで(いびき)かいてるペンギンの中身だ。そいつぁ親も育ての祖母も喪って、天涯孤独になっちまった時に貴方(アンタ)と出会った。俺は………通ってた名門塾(クソみてえなとこ)実家(うち)も投げ捨てて、貴方(アンタ)の門下に入った………分かるか?俺達三人を救ってくれたのは紛れも無ぇ、先生(アンタ)なんだ。」

 

 松陽に背を向けたまま、高杉は淡々と語り続ける。振り返らずとも、松陽が困惑している様子は何となく感じ取れた。無理もない。一切の記憶を失くしている彼に対し、こんな話をしているのだから。

 

「いつも、何時(いつ)でもその(ツラ)に笑みを湛えて、でも時々は言動と行動が合致しねぇで、何度も俺らを振り回して………それでも、貴方(アンタ)の傍にいるのは心地が良かった。武士道とは、侍とは何かを説いてくれた貴方(アンタ)の声は、今でも忘れちゃいねえ。いや、忘れられる筈がねえ。」

 

「……………。」

 

 松陽は、何も答えない。否、この僅かな距離であろうにも、彼の息遣いまで聞こえないというのは、少し妙に思えた。

 

「例え人でなしになろうと、その果てに復讐者なんてモンに成り下がろうと…………俺は、貴方(アンタ)を忘失することは決して無ぇのさ。なあ、松陽先───」

 

 

 

「どうかもう、そこまでにしていただけませんか………高杉『さん』。」

 

 

 すぐ背後から聞こえたその声は、聞くに堪えないと言わんばかりに高杉を遮る。

 吃驚(きっきょう)し、思わず煙管を置いてあった煙草盆に取り落とす。それから即座に振り返る。すると長椅子にいた筈の松陽が、自身のすぐ後ろに立っていた。

 気配など、微塵も感じなかった………だが、それより高杉を驚愕させたのは、先程の楽し気な様子から一変した、松陽(かれ)の表情だった。

 何故?どうして貴方は、そんな悲しい表情(かお)をしている……?

 

「………ごめんなさい。」

 

 飛び回る蝶の薄明りに照らされた松陽の、微かに動いた口許。そこから紡がれた謝罪の声は、微かに震えていた。

 

「貴方が色々と教えてくださったお陰で、私が名を借り受けている『松陽』という方がどれほど皆さんに想われ、慕われているのかを知ることが出来ました…………だからこそ、私を『松陽(せんせい)』と呼ぶことは、どうかお()めになってください。」

 

「な……に、言ってんだよ?先せ──」

 

「高杉さん、貴方や銀時さんが私に親切をしてくださることは、凄く嬉しいです。しかしそれは、私があなた方の恩師によく似ているからではありませんか……?今の私には、幼い銀時さんや高杉さん、そしてヅラさんのお世話をした記憶も、皆さんと過ごした思い出も、何一つ備わっていないんです………こんな私など、皆さんの慕う『松陽先生』と見た目ばかりが似ただけの別人に過ぎません。」

 

「っそんなことは………‼」

 

 言いかけた高杉の脳裏を、桂と交わしたあの会話が唐突に(よぎ)る。

 

 

『もしも、もしもだぞ?あの襖の向こうにいる松陽先生が、仮に記憶を取り戻したとしても………その時俺達の前にいるのは、本当に『松陽先生』なのだろうか?』

 

 

 分かっている。今目の前にいるこの男が、確実に『松陽先生』である保証は無い事など。

 

 だか、否定などしたくはなかった。会いたくて、逢いたくて、手を伸ばしても届かない(ところ)へ逝ってしまったあの人が、結ばれた不思議な(えにし)によって、こうして再び触れられる距離にいるのだ。

 

 英霊(サーヴァント)になったことや異次元からの来訪者、常夜の国となった江戸の異変。だがそんなことなど、今の自分(おれ)には(はな)からどうでもいい。

 

「………松陽先生、俺は────」

 

 

 

  ふわり、

 

 

 両の頬を包む、温かな感触。

 鳩が豆鉄砲、という言葉がそのまま当てはまりそうな程に、高杉は突然のことに丸くなった右目で眼前……彼の頬に手を添える、松陽を見る。

 

「少し………もう少しだけ、待っていてもらえませんか?どれだけの時間がかかるかは、見当もつきません。ですが、私は必ず思い出してみせますから。自分の事も、貴方のことも、そして銀時さん達のことも………。」

 

 こちらを真っ直ぐ見つめる表情は穏やかであるものの、絞り出すようなその声は震えている。そして彼は、泣きだしそうになるのを必死に堪えたような、そんな笑顔を浮かべて言った。

 

「だから、それまで『先生』はお預けです。そうでないと、あなた方が想い慕っていらっしゃった、本当の『松陽』さんに申し訳が立ちませんからね。」

 

 へへっ、と悪戯っぽく微笑む松陽。どことなく幼さを感じさせるその表情と仕草は、高杉の知らないものであった。

 それでも、この両手から伝わってくる優しい感触と温もりは、間違いなく自身の記憶の中にある『松陽(かれ)』のものに違いなかった。

 

「………ああ、分かった。それじゃあ俺も、一つだけいいか?」

 

「はい、何でしょう?」

 

「その………俺の呼び方なんだが、出来れば名前で呼んでほしい。(いや)、名前で呼んでくれねぇか?」

 

「名前………ふふっ、実は先刻、銀時さんにも同じことをお願いされたんですよ。」

 

「だろうと思ったよ。抜け駆けしやがってあの野郎………で、どうなんだい?」

 

「勿論、謹んでお呼びさせていただきます…………よろしくお願いしますね、『晋助』さん。」

 

 

 

 『晋助』

 

 

 

 胸が震え、痛い程に締め付けられる。

 

 再びこの人に、この優しい声に、名を呼んでもらえる時が来ようなど、夢にも思わなかった───。

 

 

「!……晋助さん、どうなさいました?」

 

「ああ、何でもねぇよ…………煙草の煙が、目に沁みちまったかねぇ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひらひらと、一羽の光の蝶が煙草盆に止まり、羽を休める。

 

 

 

 淡い光に照らされた煙管の火皿は、当に冷たくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 和室の掛け時計が、卯の正刻を指したその頃。

 

「………ん。」

 

 体内にセットしていた起動タイマーが作動し、段蔵が目を覚ます。

 背伸びをしてから立ち上がり、残る眠気で若干ぼんやり気味の頭を動かして、室内を見回す。まだ皆が眠りこけている様子を眺めていた時、ふと彼女は藤丸と松陽の姿がそこにないことに気付く。

 

「マスター?松陽殿……?」

 

 室内を見回すが、いない。爆睡するアストルフォの布団を引っぺがしてみても、やはり二人はいない。段蔵は首を傾げながら、居間へと繋がる襖に手を掛ける。

 音を立てないよう、ゆっくりと開いた襖から和室を後にすると、夜目の利く段蔵の視界に二つの長椅子が映る。

 銀時と、何故か藤丸が互いに寄りかかる形で眠るその向かいに、松陽は座っている。彼はこちらに気が付くと、にっこりと微笑んだ。

 

「松陽ど───」

 

 名を呼ぼうとする段蔵。だがそれを遮ったのは、自身の口元に人差し指を立て静粛を(うなが)す松陽の動作だった。

 一瞬きょとんとするも、長椅子にもう一つある人影を認識した時、彼の行動の理由が理解出来た。

 

「……成程、そういう事でしたか。」

 

 段蔵が目を落とした先……松陽の膝の上にあったのは、高杉の頭だった。長椅子に身を横たえ、松陽に膝枕をされている状態で、彼は眠っていたのだ。

 終始相手を射貫くような眼光を放っていた右の目は瞼に閉ざされ、規則正しく呼吸を繰り返す高杉の寝顔は、段蔵が見たことも無い程に安心しきっている。

 まるで、母親に抱かれた幼子の様な彼の寝顔を観察した後、揃って顔を上げた松陽と段蔵は、互いに微笑み合った。

 

 

 

 

 

 

 

 ────間も無く、幽暗の江戸に夜明けが訪れる。

 

 

 

 

《続く》

 


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