渋々   作:十郎

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01 覚醒とあだ名と女の子

 灼熱の太陽が照りつける、暑い夏。

 僕はすっかり水分を失った喉へ、押し込むように唾をごくりと飲み込んで、逆に汗で潤いきった顔を、着ていた黒の半袖ティーシャツの肩口で拭っていた。

 

「ねえ、だいじょうぶ? ……しんどいの?」

 

 周囲の木々からセミの騒々しい鳴き声が響く中、少し舌足らずな高い声が聞こえた。

 音源に目を向けるより先に、それは勝手に僕の視界に入ってきた。僕の顔を覗き込みながら、少し心配そうな瞳をしているそれは、当時、小学二年生だった僕と同い年くらいの女の子。

 キャミソールで、丈が膝くらいの青みがかったワンピース、その中に白いシャツを着ている。全体的に明度が高い服装とは対象的に、肩に少々届かない程度に切り揃えられた髪は、まるで墨汁を垂らしたみたいに、他色の余地を一切許さない光沢のある黒であった。

 それは、とても母さんに似ていた。

 その髪は、僕の父親から受け継いだ少し茶色っぽい髪とは違っていて、何となく羨ましくて目に入ったのは、今も覚えている。

 

「いや、ぜんぜん」

「それなら、おきたほうがいい。今日、あついし、人にふまれると、あぶないから」

 

 そっけなく、不機嫌そうに女の子は言っているが、その実、その言葉は全て僕を心配するものだった。

 

「だいじょうぶだよ。何時間もこうしているけど、しんどくないし、人にふまれるどころか、ボクの近くまできたのは、今日はキミがはじめてだよ」

 

 僕はずっと、公園の端で横になっていた。草木が生い茂るような場所でもなく、木陰なわけでもなく、日差しが照りつける土の上で。

 

「……今日は? なら、ずっとここでねころんでたの? きのうも?」

「そうだよ」

「じゃあ、おとといも?」

「そう」

「さ、さきおとといも?」

「うん」

「……あつくないの? かお、まっ黒だけど?」

「あついけど、こうしてまっていると、見れる、見られると思うから、ガマンしているんだ」

「……ふーん」

 

 彼女は僕の回答を聞いて、少し考えるそぶりを見せると、寝転ぶ僕とは真反対に位置する青空を見上げて、もう一度僕の方に振り返った。

 

「それって、空のこと?」

 

 彼女はそう言って、上を指差す。

 そのポーズが、たまたまその日の朝にテレビに映っていた、お天気お姉さんの決めポーズに似ていて、この子もあのニュースを見ていたのかなと、僕はなんとなく親近感を抱いていた。

 

「半分せいかいで、半分まちがいだよ」

 

 確かにあの青く澄んだ空の奥深くでも、地面の上に大の字になる僕なら、眺められると信じていた。

 

「……でも、ほかに見えるようなモノはないと思うけど?」

 

 彼女は眉を不釣り合いに歪めて、僕の言動に対しておかしいと訴える表情をしている。

 彼女は気づいていなかったが、その時の僕には、現在進行形で僕だけが見られる物があった。

 彼女は、眉尻の吊り上がった目がさらに鋭く見えてしまう半眼を作って、眉間にしわを寄せた。

 平常時から睨んでいるようにも見える彼女の表情がさらに険しくなり、あまりにもアレだったので唖然とする。

 よくよく観察してみると、その眉は不均衡に歪んでいた。やはり彼女は考え込んでいるだけのようで、別段怒っているわけではなさそうだった。

 彼女は何かを思いついたのか、恐る恐る聞いてくる。

 

「……ユウレイが見えている、とか?」

「ぶふっ! はははっ、そんなの見えるわけないよ」

 

 彼女の検討違いの考えに思わず笑ってしまった。彼女は目に角を立てて笑う僕を見つめる。今度こそ、その表情に見合った感情を伺わせた。

 

「……笑わないでよ。じゃあ、なにが見えてるの?」

 

 彼女は自分の恥ずかしい間違いを払拭するように、僕に怒った。先ほどの考え込む姿は厳かだったけれど、僕は全く怖くなかった。落ち着いた怒りを見せる彼女の声は、普通の人ならなおさら冷酷に感じただろうけれど、一握りの怖じ気も僕の胸中にありはしなかった。

 

「答えを教えちゃったら、おもしろくないでしょ? ボクがヒントを出すから当ててみてよ」

「ヒント?」

「うん。それじゃあ一つ目のヒント。ボクが見ているモノは水色のモノなんだよ」

「水色? そんなモノ、ここらへんにないよ?」

 

 彼女は周囲を見渡して水色を探すが、周りには滑り台や砂場やブランコなどの遊具か、青々とした葉をまとう木々しかなかった。

 それは当たり前だった。僕が見ている物は突っ立って探すだけで、やすやすと見つかるほど甘い場所になかったのだから。

 

「……そのヒントじゃ分かんないよ。べつのはないの?」

「もう、しかたないな」

 

 僕は手を肩の近くに上げて、ヤレヤレと大げさに首を振る。

 

「……ねえ、早く言ってよ」

 

 彼女は僕の仕草と顔に若干苛立ったのか、急かした。

 僕はそれに抵抗する意味もなかったので、彼女の望み通りに次のヒントを答える。

 

「それはいつもカゲにあって、風がふくとさらに見れるモノなんだよ」

 

 彼女はヒントを聞いて、唸り声をあげながら思考にふけった。

 もっと時間をかけて考え込むといいよ。その方が、なんとなく嬉しい。

 昔の僕は、その時えらく打算的なことを考えていた。そして、その理由を深く考えることを拒絶していた。

 

「ぜんぜん答えが分かんないよ。もうあきらめるから、答え教えて」

「あきらめるのが早いよー。がまんが足りないんだよー」

「んっ……」

 

 彼女は唸った。

 そして悔しかったのか、再度彼女は答えを導き出そうと思考に落ちていく。

 だけれど考える糸口さえ見つけられなかったのか、相当答えが気になっていたのか、ギブアップは予想以上に早かった。

 

「分かんない。……教えてよ」

「しょうがないなぁ」

 

 僕は喜々とした表情を作って、彼女に真実を教えてあげた。

 

「ボクはキミのパンツを見ていたんだよ」

「…………は?」

「だから、キミのおパンティさ。かくされている三角形を、ローアングルからくいこみの形が分かるくらいながめていたのさ。いつもはスカートの中でカゲにかくれているけど、風がふけばよく見える。ほら、パンツ。それが答え。どう、マンゾクした? 水色パンツのキミ?」

 

 僕は公園の端で一人、横になっていた。

 違和感の塊である僕を見て、声を掛けてくる人は少なからずいた。それは大人や年寄りだったり、同年代の子どもだったり、様々だ。

 話しかける人の態度も十人十色であり、怪我をして動けないのではないかと心配して話しかけてくれる人もいれば、興味本位で話しかけてくる人もいた。

 僕の狙いが、その話しかけてくる人たち本人であるなんて思いもよらずに。

 僕はひたすらに寝転んで、女性がやってくるのを待っていたのだ。

 もしその女性がスカートを穿いていれば、寝転んでいる僕にとってこれほど僥倖なことはなかった。セクハラし放題なのだから。

 彼女は茫然としていた。

 

「どうしたの? ……もしかして分からなかったかな? パンツって言うのはキミがはいているその水色の……って、どうして手を上げて――ひでぶっ」

 

 懇切丁寧にスカートの中を指さして説明する最中、再起動した彼女が右手を挙げて、手のひらで僕の頬を思いっきり殴った。

 幼い少女の力でも全身をうまく使えばそれなりの威力があり、それに加えて猛暑でも水分を取らずに横になっていたためか、僕は意識が朦朧とした。だが、それと同時に頬の痛みにある種の幸福感と達成感を抱いていた。

 突然頬を殴った彼女は、そのままスタスタと離れていった。しかし、数メートル離れた先で思い出したように振り返って、冷たい眼差しで僕を睨みつけると静かにこう言った。

 

「変態――」

 

 ――僕の気合いで持たせていた意識は、狂おしいまでに愛おしかったその表情によるダメ押しをくらって気が緩み、あっという間に夢の世界に消えていった。

 うっすらと開かれた瞳が最後に映していたのは、気を失った僕を見て慌てて近づく少女の姿だった。

 

 あの日、あの時。この出会いがあったから、今の僕がいる。

 彼女に怒られること、叩かれること、叱られることを求める、そんなどうしようもない奴に覚醒した僕と、渋谷凛の、出会いだった。

 

 ◇◇◇

 

 放課後開幕の合図であるショートホームルームの挨拶を終えると、新一年生として四月から発足したクラスは喧騒に包まれた。

 それでも中学の頃に比べて少し大人しく感じるのは、高校生活と友人関係が未だぎこちないからだろう。入学式を迎えてから、まだ一週間も経っていないのだから当然といえば当然だ。

 

「おい、ドM野郎。もう帰るのか?」

 

 そんな教室の中で、同じ中学を卒業して、高校デビューを機に金髪に染めたクラスメイトに、僕は話しかけられていた。

 

「ああ、キンオナチュウの奴じゃないか」

「いや、『金髪になった同じ中学の』奴ってちゃんと言えよ! 言葉ちょっと入れ替えたら、まるで俺が、溢れ出る欲望を必死に抑えてる奴みたいになるだろ!?」

「なら、僕をドM野郎と罵ることも止めてよ。僕が罵られて喜ぶのは、一部の人だけなんだ」

「……ちっ、分かったよ」

 

 彼は嫌そうに頭をかいて、了承した。

 何故か彼は挨拶代わりに僕のことを罵ってくる。たぶん、彼にとっては一種のコミュニケーションでしかないのかもしれないけど、僕は野郎に罵られたら、普通にイラッとするので、止めてほしい。

 

「僕と佐藤……じゃなくて……なんだっけ? とにかく君とは中学からの付き合いなんだよ? そろそろ僕の地雷とか沸点とか、色々見極めてくれよ」

「……人の名前を憶えていない奴は言っちゃだめだろ、そのセリフ」

「失礼だよ。僕はちゃんと君の名前を覚えているさ。確か…………そう、サザンクロスさんだよね?」

「佐山十三(さやまじゅうぞう)だ! なんだ、そのサンタクロースのぱちもんは。最初の『さ』しか合ってねえ!」

「あれ、そうなの? 読み間違えていたみたいだ」

「……お前、頭大丈夫か? 一遍小学生から読み方勉強してこいよ」

 

 僕は怒った。かの邪智暴虐の男を一泡吹かせなければならぬと決意した。

 僕の席は教室の真ん中の列で、一番前だ。つまり、教卓の真ん前だ。

 僕は三、四歩ほど歩いて、黒板の前に立ってチョークを持つ。

 そして、目の前に広がる黒板なんて名前なのに、緑の板に文字を書いていく。数秒を要して目的を完遂すると、サザンクロスさんの方を向いて、黒板を叩く。

 

「きっちり読んでいるよ。ほら、『佐(サ)山(ザン)十(クロス)三(さん)』」

 

 彼は黒板に書かかれた文字を唖然と見ながら、喉の奥から染み出たような声を出す。

 

「…………た、確かにそう読める気がする」

 

 僕達の話を盗み聞きしていたのか、それとも、声がただ大きかっただけかは知らないけれど、まだ教室に残っていた生徒の一部が、なるほどと頷いたり、少し感心したりしていた。

 思ったより反応が良かったため、僕は腰に手を当てて少し胸を張ることにした。

 僕の姿を見て、サザンは若干悔しがった。彼はなにか気に食わないのか、口を尖らせて話し始める。

 

「でもよ、十数年この名前だけど、そんな斬新な読み方、誰にも呼ばれたことないぜ。やっぱり、こんな発想をするお前の頭がおかしい――」

 

 ――トントン。

 その時、僕達と同じ中学だったクラスメイトの一人が、彼の肩を叩く。

 

「……なんだよ? って、お前は――」

「ごきげんよう」

 

「――ウェーブフラットの竹下!」

 

 不機嫌そうに振り返ったサザンの目の前にいたのは、教室内だというのにシルクハットを被った、生きる伝説として知られるアナザーネーム(異名)持ちの竹下であった。

 ウェーブフラットの竹下。

 彼になぜこの異名が付いたかを説明するには、悲しくも切ない、涙なしには語れない長い話が必要になる。

 だが、一文で事の成り行きを表そうとするならば、その若さにして、彼の頭が「波平(なみへい)」だからだ。

 長き時を共にするはずだった頭頂部の友、つまるところ髪を失った彼の夢は、自身にあだ名という呪いをかけた「波平」、延いては「磯野家」の滅亡。

 しかし、相手はアニメ業界きっての長寿アニメ。圧倒的継続力と秘技「サザ○さん時空」によって全く進まない時間。彼らが年を取ることはなく、年月を経るごとに、現実世界を生きる僕達だけが老いていき、不利な状況へと追い込まれていく。

 しかし、彼はその事実を知ってもなお、諦めない。その復讐に燃える姿から、永遠を終焉に変える復讐者――アヴェンジャー。あるいは、彼の言動もさることながら、その容姿を必死に笑い話に変えようとする道化具合から、ペテン師ならぬ、テッペン死とも呼ばれている。

 サザンの驚く姿を見た彼は、さぞ嬉しそうににやりと笑い、口を開く。

 

「サザンクロスさん、貴方の負けです。そしてようこそ、こちら側へ。ワタクシは大変喜ばしく思っています」

 

 彼は、室内でさえいつもカムフラージュに被っているハットの帽子を脱いで、仰々しく一礼した。

 彼がネタ以外でその頭を白日の下に晒した時、それは彼が本心を語っている時に他ならない。

 

「何の勝負の話だよ!? ていうか、サザンクロスさん止めろ! なに自分と同じヘンテコあだ名側に、俺を招待してんだよ!? 絶対入らねぇからな!」 

 

 その時、少し離れて座っていた、高身長のがたいが良くて強そうだけど、実は弱くて泣き虫で丸メガネ、前髪が重力に逆らって前方に飛び出ていて強い奴には徹底してへりくだり、男のくせにセミロングの髪を後ろで二つに縛っていてお風呂が大好きな、これまた同じ中学の生徒が立ち上がる。

 

「やい、サザンクロスさん。お前の負けだ。大人しく仲間になれ!」

「お前は――一人ドラ○もん(仮)の藤田!」

 

 このクラスに在籍する、もう一人のアナザーネーム(異名)持ちの藤田。

 彼の異名はその容姿、性格、趣味が、某有名な青狸の主要登場人物の特徴を合成したかのように思えることからついた、これまた生きる伝説の男。だが、肝心の青狸には似ていないことによって、そのあだ名に(仮)が付けられることになってしまった、哀れな男でもある。

 また、別名をキメラ。ただし、彼をこの名で呼ぶ者はほとんどいない。

 だって、なんか格好いいから。

 

「いやもう、負けでいい。だから、その名前で呼ぶな」

「敗者にはあだ名あるのみ。アンタは、自分で自分をサザンクロスさんであると認めたんだ!」

 

 次に乱入してきたのは、黒板から一番離れた最後尾に座っているクラスメイトだった。

 

「認めてねえ――ってお前、席遠いな!? 教室の端から端までの距離あるじゃねぇか!? ……てか、誰!? 異名持ちどころか、そもそも同じ中学じゃないよな!? まだ一度も話したことないよな!?」

 

 サザンは困惑と怒りを足して二で割ったみたいな感情を顕わにしていた。

 常日頃から割り方大きめのサザンの声は、竹下や藤田の連続で投下された仲間発言の対応で勢いを増していて、とてもよく響く。怒声と勘違いしてもおかしくないサザンの声量は、話に割って入ってきたクラスメイトを及び腰に変えてしまう。

 

「ご、ごめん。いきなり話に割って入ったら、そりゃあ変な奴って思うよね。で、でも、僕は『サザンクロスさん』ってあだ名が好きだ。僕は天体観測が趣味なんだけど、サザンクロスはみなみじゅうじ座を表す言葉なんだ。今日この時この瞬間、宇宙の中にあるこの教室という小さな空間で、その名を持つ者が生まれてきてたことを心から嬉しく思う。これからの生活、色々な事があるとかもしれない。あだ名のせいで、自由な生活ができないって、嘆くこともあるかもしれない。あだ名さえなければ、こんな苦労を背負うことなかったと思うかもしれない。でも、あだ名と一緒に過ごして、笑って、泣いて、喧嘩して、そうやって自分と成長していく。それがあだ名ってもんでしょ。……だから、僕のことは嫌いになっても、『サザンクロスさん』のことは嫌いにならないであげてほしい」

「……いやいや、何言ってんの? いきなり話に割って入ってくるのも変な奴だけど、あだ名を子供の如く扱ったり、他人のあだ名を自分より擁護したりする奴の方がよっぽど頭おかしいからな?」

 

 クラスメイトの自身をも顧みない姿に心打たれたのか、サザンの冷酷な対応に心を痛めたのか、周りの男子生徒の一人も主張し始める。

 

「なあ、もういいだろ!? 『サザンクロスさん』はお前のあだ名なんだろ!? お前が一緒に生きてやらなきゃ、誰が『サザンクロスさん』に愛を教えてやれるんだよ!?」

「ちょ、え? 『サザンクロスさん』ってのはあだ名で、俺の子供とかじゃないよな?」

 

 男子生徒に続くように、気の強そうな女子生徒、確か僕の記憶によれば委員長か風紀委員長に立候補していた人が、サザンを糾弾する。

 

「認知しないさいよ! 『サザン』は、あなたなしじゃダメなの! あなたじゃなきゃ、意味ないの!」

「お、おい……なんなんだよ、こいつら! 高校入学して一週間しか経ってねえのに、ほとんどの奴とはまだ話したことすらねえのに、なんで会話に入ってくんの!? 言ってることも意味分かんねえしさ!?」

 

 驚くサザンを尻目に、周囲のクラスメイトからの声は止まらない。新しく生まれたあだ名を認めない――認知しない彼を糾弾する者が、続々と現れていく。それはまるで押し寄せる波のように、クラスメイトからクラスメイトまで伝達していき、最終的には――。

 

『サザン! サザン! サザン!』

 

 ――クラス中が彼に手拍子を送り、彼のあだ名でエールを送っていた。

 

「や、止めろ! そのあだ名を呼ぶな! 本当に止めてくれ! 心機一転、新しい青春の日々に胸を膨らませた俺の高校三年間を、そんなサンタクロースさんみたいなあだ名で呼ばれ続けるなんて、絶対に嫌だあああぁ!」

 

 滅茶苦茶嫌がるサザンに、調子づくクラスメイトはさらに声を張る。

 ウェーブフラットの竹下と一人ドラえもん(仮)の藤田は、新たな仲間の誕生に高笑いをする。

 その光景は後に、サザンクロスさん降誕祭と呼ばれ、クラスメイトの中では、イエスキリストの降誕祭にあたるクリスマスに匹敵する恋人達の憩いの日として語られることになった。

 

 ◇◇◇

 

 時は変わり、場所も変わって、僕は小店が立ち並ぶ通りを歩いている。サザンクロスさんが呼び名として定着してしまったサザンはあの後、げっそりとした表情で、教室を後にした。

 結局、彼がなんの要件で僕に話かけてきたのか、理由は分からなかったが、それは明日に聞けばいいと思った。

 少し早足になって、道を歩く。

 目的地はもうすぐだ。僕は内なるパトスを抑えきれずに、意識的に体をできるだけ早く動かす。

 堅いアスファルトをどんどん進み、目的地が見えてきた。

 そこは植物が育ちようもないコンクリートジャングルにも関わらず、唯一花に囲まれた場所だ。

 僕はその中に入り、黒髪ポニーテールの青いエプロン姿の店員に声を掛ける。

 

「こんにちは、おばさん」

 

 僕の声に反応して、周囲の花の手入れをしていたその女性は、耳たぶのイヤリングを揺らして、こちらを振り向く。

 

「あら、マー君。いらっしゃい。今日こそ花を買いに来てくれたのかしら?」

「そんな訳ありませんよ。僕、花そのものには一切興味がないんですよ」

「……花屋を経営してる人に向かって言うセリフじゃないわよねぇ」

 

 おばさんは口をヒクヒクとさせながら、少し目尻が上がった目を細めて笑顔という、とても器用な表情をしている。しかし、僕からは、それがなんだか般若の能面にも見えた。

 僕が向かっていた場所は、花屋だ。おばさんと、その夫のおじさんは、自営業でこの花屋を営んでいる。

 それほど規模が大きい店なわけでもなく、店頭での売り上げは、近所の人や常連さんがほとんどらしい。

 それでどうして店が成り立っているかといえば、典礼所や結婚式場等の大口の取引先をいくつか持っているためだそうだ。

 

「確かに失礼だったかもしれません。別に花に、全くこれっぽっちも興味がないというわけでもないかもしれません」

 

 自分の思った正直な気持ち、というわけでもなく、八割おばさんのご機嫌取りの虚言を吐露すると、おばさんはまるで世界がひっくり返ったような形相をする。

 

「もう七、八年くらいうちに来ていて、一度もうちの商品を買ったことがないマー君が、どういう気の変わりようなの?」

 

 少し棘のある言い方な気がするけれど、たぶん気のせいだと信じたい。

 

「いえ僕は、とある花には前々から興味があるんですよ。でも非売品なんです」

 

 僕は困ったように首に手を当てる。

 正直それが売っていたら、どれだけ値が高かろうがいつでも購入しているのだけれど。

 

「そうだったの。でも、花で非売品ってことは相当希少な物なんじゃないの?」

「そりゃあ、当然ですよ。者が者ですから」

「へー、ちなみにその花はなんて名前なの?」

「渋谷凛って花です」

「……あ、そう」

「あれ、反応薄いですね? 女性を花に例えた高度な冗談だったんですけど、……まさか、嫉妬ですか?」

「違うわよ! なんとなく分かってたの!」

 

 おばさんは全力で否定した。

 その強すぎる拒絶が、逆に僕の言葉が真実であると示しているとするのは、あまりにも突飛な考えである。僕自身、そう自覚しながらも、言葉を続ける。

 

「おばさんも花に例えてほしかったんですか? 大丈夫ですよ。おばさんにはちゃんと伝わっていなかったようですが、僕はいつもおばさんを見るたび、花に例えるほどに、若々しく美しい綺麗な女性だって、そう思っていましたよ」

 

 年の割には。

 

「あ、あらそう?」

 

 おばさんは嬉しそうに照れた。なぜかよく分からないが、髪の毛や服などの身なりも整え始めた。

 またそれに加えて、「次は何を言ってくれるのかな」みたいなキラキラと期待した目で、こちらをチラチラと見てくる。

 もしかして、本当に言って欲しかったのだろうか。

 僕は仕方なく次の言葉を口にした。

 

「はあ、もう少し早く生まれていれば、こんな美麗な人と縁を結べたかもしれないのに」 

「ふふ、ごめんなさいね。華麗なお姉さんにはもう旦那がいるの。どれだけ愛しても、私の隣の席は埋まっちゃてるの」

 

 流石にお姉さんは誇張表現ではないだろうか。この人ノリノリだな。

 

「くそ、悔しい! …………この思いを諦める代わりに、綺麗で美麗で華麗な美しいお姉さんに一つだけお願いしてもいいですか?」

「ふふ、何かしら? 言ってみなさい」

 

「凛ちゃんのパ――」

「――ダメ――」

 

「――ンツ……」

 

 全部言い切る前に断られた。

 僕の心が読めるというのか、この人には。

 さっきの渋谷凛という花の話も、僕が何を言うか分かっていたらしいし。

 

「ただいまー」

 

 僕とおばさんが客のいないことを良いことにおしゃべりしていた花屋に、帰宅したことを告げて入って来たのは、おばさんの一人娘であり、僕が待ち望んでいた女の子。

 学生服である黒のカーディガンのポケットに両手を入れた彼女は、初めて僕と会った小学二年生の時とは変わった、お腹あたりまで伸ばした艶やかな黒髪を揺らしながら、こちらまでやって来る。

 

「おかえり、凛ちゃん。今日のパンツは何色かな?」

 

 僕は彼女が身に纏っている紺色のスカートをまくろうと、裾に手を延ばす。

 ガシッ。

 彼女に腕を取られた。

 ベチコンッ。

 そして空いている手で鋭いビンタを受けた。

 

「変態」

「うはぅ! ブルブル」

 

 僕はいつもの快楽に身を沈めるように体を振動させた。

 

「口でブルブル言わないで、気持ち悪いから」

「えー、取って置きの感情表現なんだけど、一応」

 

 僕は唇をすぼませて、すねているような表情をして凛ちゃんに訴える。だがそれも、残念ながら彼女には届かなかったようだ。

 彼女は僕を華麗にスルーして、花屋のカウンター奥へ進んだ先、そこにある階段に向かう。この階段を上がれば、晴れて彼女は正しくお家に帰宅したことになる。つまり、この花屋の二階には、渋谷家の生活空間が広がっているというわけだ。

 僕も凛ちゃんの後ろを、金魚のアレのごとく付いて行く。

 もちろん僕はアレの糞なので、彼女のお尻にくっつこうとしたけれど、避けられて叩かれて、睨まれた。アヘ顔ダブルピース。

 仕方なく、僕は彼女と距離を離した。

 だが階段を二、三段上ったあたりで彼女は急停止する。そして、後ろの僕の方へくるりと振り返る。その目は半眼であり、まるで呆れているかのような顔をしている。

 

「……アンタ、なんで四つん這いで階段上ろうとしてるの?」

「なんで? ……ふふ、おもしろいことを聞くね。もちろん君のパンツを眺めるために決まっているじゃないか!」

「決まってない、全くこれっぽっちも決まってないよ」

 

 凛ちゃんは片手を頭において、軽くため息をする。その仕草が僕の感性を刺激した。僕はパシャリと持っていたミラーレス一眼カメラで彼女を撮影した。

 

「やったぁ、凛ちゃんの素敵な一枚、今日も取れたぞ!」

 

 僕はいつでも、凛ちゃんの素敵な姿を保存出来るように、構造上、一眼レフと比べて重量が軽いミラーレス一眼カメラを常備している。撮影する光景が全て液晶画面越しになるミラーレス一眼と違い、ファインダー越しの生の光景が撮れる一眼レフカメラも持ってはいるが、流石に常備するのは重いのでイベント時だけ使用している。

 僕の早打ちを持ってすれば、たとえコンマ一秒の奇跡の瞬間を捉えることも、造作もないかもしれない。

 だが残念なことに、口の堅いこの僕でさえ、凛ちゃんのセクシー写真を撮影した際は、溢れ出る感情で口を滑らせてしまう。僕のレイジングハートが、この一枚を彼女に伝えろと訴えかけてくるから。

 そしたら、写真を撮ったことがばれて、叩かれ殴られアヘ顔にされて消されてしまうのがいつものパターンだ。

 

「……もう散々言っても聞かないから、写真を撮るのを止めてとは言わない。だけど、せめて私がちゃんと認識してる時に撮って。後、ローアングル禁止だから」

「うっす、先輩!」

「……先輩って、同い年でしょ? テンションおかしくない?」

「何言っているの? 僕はいつも通りだよ」

「……あれ、確かに……おかしくない?」

 

 凛ちゃんは頭を抱えた。

 

「凛ちゃん大丈夫? 疲れているんじゃない? 僕ならいつでも君の椅子になるよ?」

「……いや、あれはもういいから。勉強しようと座った椅子が柔らかくて、下を向いたらアンタがいた時の気持ち、分かる?」

「最高! でしょ?」

「ちがいます」

「ごめん、凛ちゃん。よく聞こえなかった。もう一回言って?」

「……なんでポケットからボイスレコーダ取り出して、立ち上がって、私の口元に向けてるの?」

「残像だよ」

「いや、ここにあんでしょ」

「あっ」

 

 僕が凛ちゃんに向けていたボイスレコーダは簡単に奪われてしまった。

 まさか、一瞬で僕のフェイクを見抜いたというのか。パケット放題ならぬ、嘘つき放題のこの僕の熟練した言動を一瞬で……だと。ありえるのか。ありえーる。凛ちゃんなら。

 さすがだ。だけれど、「童話なら『狼と羊使い』に出てくる羊使い」と僕の主人公体質を認めてくれたどこかの誰かのためにも、僕はここで終われない。

 

「い、いや、こ、こここれはちちち違うんだよ? た、ただ凛ちゃんの敬語が珍しかったというか、希少性が高かったというか……。だ、だから……それをボイスレコーダで録音しようしたけど……あれ? それって悪いことなの? 毛ほども悪くないよね。なにか文句あんの!?」

「凄く動揺してるし、答え言ってるし、最後の方なんで逆キレ気味なの?」

「愛ゆえに」

「わけわかんないから」

 

 ど、どうして。どうして僕の感情が届かないんだ! こんなにも、君に叱られたいと思っているのに! ああ、この悲しい世の中に――。

 

「――オーマイゴッド!」

「私が言いたいよっ」

「ブへッ!?」

 

 僕は、凛ちゃんに顔を平手打ちされた。そのまま、倒れて床に横たわる。

 ひんやりとした床の冷たさと、頬にこもる熱に挟まれて、その温度差が刺激を強調し、圧倒される。

 脳の快感物質が溢れ出るのが分かる。全身に行き渡った快楽は、僕を縦横無尽に責め立てる。

 ああ、これだよ。僕はいつだって、これを求めていたんだ。カメラで君を撮るのも、君の声をボイスレコーダで録音しようとしたのも、ある種このための布石だったんだよ、凛ちゃん。

 君はなかなか手を出してくれない、優しい子――というわけでもなく、案外叩かれているけれど。

 でも僕が喜ぶから、殴らないと言ってしまうツンデレ――結構殴ってくるけれど。

 だから、そんな君に暴力ならぬ、愛のムチを振るわせることはとてもじゃないが、簡単なことではない。

 ぬふふ、君は僕の手の平で踊ったというわけさ。

 僕は未だに階段を二段ほど上がった場所にいる凛ちゃんに顔だけを向けて言う。

 

「……計画通り。凛ちゃん……僕の勝ちだ」

「……はあ、なんでこんなんに好かれちゃったのかなぁ」

 

 凛ちゃんは小声でブツブツと何かを言っているけれど、よく聞こえなかった。何をしているんだ。優秀なはずの僕の耳!

 

「……とにかく、写真撮る時は、さっき言ったルールだけは守って」

 

 そういって凛ちゃんは階段を上がっていく。

 彼女が階段を一段ずつ登るたびに横たわる僕の目には、神秘のベールというスカートに包まれていたはずの布が見えていく。

 

 パシャッ。

 

 カメラの音が鳴り響き、それと同時に凛ちゃんの足も止まる。

 彼女はまるでパーツが錆びてしまったロボットのようにゆっくりと、煮えたぎる怒りの暴発を抑えるように震えながら、禍々しい形相でこちらを向いた。

 

「……ねえ、話聞いてた?」

「ぼ、僕は悪くないんだ。悪いのは僕の右手だ! このっ、このっ!」

 

 僕はそういう体で、言いつけを守ろうとしないカメラを持った悪い腕を叩く。

 一体この腕は何を考えているんだ。凛ちゃんが、僕のことをゴミを見るような目で見ているじゃないか。冤罪だ。

 

「……止めて、右手は悪くないから」

「凛ちゃん……」

 

 彼女の聖母のように慈悲深い愛は、こんな罪深い右手でさえ許してしまうというのだろうか。なんて素晴らしい人なんだ。

 凛ちゃんは、上った階段をまた降りてきて、仰向けに横たわる僕を上から見下ろす。

 

「悪いのは、ここだよね」

 

 そう言って、彼女は黒い靴下に包まれた足を僕の股間に向けた。

 

「え?」

「さようなら、男の子」

 

 勢いを溜めるように大きく曲げた足を、そのまま真っすぐぼくの局部に振り下ろそうとしている。

 

「うそうそ、悪いのは僕! だから、ちょっとまっ――」

 

 ドスッ。

 ――今日、僕は女の子になりました。

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