渋々   作:十郎

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長らくお待たせしました。渋々、最終話です。


10 護と凛で渋々

 多くの人にとって休日となる土曜日の午前中。

 自宅の最寄り駅である三軒茶屋から、一駅跨いだ先にある渋谷駅。電車からそのホームに降り立った僕は、人混みの流れに従いながら、徒歩十五分程度で辿り着ける346プロダクションに向かっている。

 346カフェで働く同僚が芸能の仕事でシフトに入れなくなり、その代理を頼まれた僕は、ここ一週間で身に起こった様々な出来事で、平素とは間違っても言えない心持ちだったが、表面上は悠々としながら宮益坂を歩く。

 宮益坂は緩やかな上り斜面であり、息を乱すような急勾配ではない。けれども、よくニュースで取り上げられるスクランブル交差点が遠目からでも見える程の距離にある為、この場の人混みは推して知るべし。休日ということもあって、周囲は賑やかさを増していて、多少の窮屈感や圧迫感がある。

 だが、人口密度は渋谷駅構内から出口までが峠であり、その峠を既に越えている僕にとっては、目前に広がる人の量を、たいした事はないと称することが出来る。

 どれもこれも首を大きく曲げて見上げなければ全体像が把握できない建物の間を進む。車の走行音、多種多様の人々が響かせる喧噪は、東京に引っ越してきた当初は耳障りで仕方が無かったが、定住して半生を費やしてきたこの身からすれば、既に耳慣れしてあまり気にならない。

 高くなっていく太陽の光が歩道を温める。昼頃になれば、気温がさらに上がり、快適さは熱による暑さに乗っ取られそうだ。それでも、気を重くするような湿気のしの字も感じずに済むのだから、最低限度の心地良さを確保してくれる今日の天気を、僕はそれなりに評価している。

 梅雨時には珍しい空模様は、昨日からずっと同じままだ。一片の白も許さない徹底された青の一色は、その濃淡だけで奥深さを感じさせ、人工物の隙間から上空にかけて広がる様は、その偉大さのおかげか、軽く見上げただけの僕の心情を少し軽やかにする。

 ここ一ヶ月に及んで、何度も見た玄関口を視界に収めつつ、346プロダクションの敷地に入ると、結婚式場か何かと勘違いしてしまう程に豪華な洋風の建物が真正面に構えている。名古屋城の天守に載る二頭の鯱に通ずる、金色の華美な装飾で模られた時計が、煉瓦色の洋館の頭頂部にトレードマークの如く乗せられている。

 ここを通るたびに、僕は酷く場違いな空間にいる気分になる。身分を偽って舞踏会に出席しているかのような、境界線を踏み越える感覚をいつも抱く。

 それは、僕が凛ちゃんの近くにいるために、要の縁故でアルバイトを紹介してもらったという経緯を考えれば、一般的に当然の感情なのかもしれない。けれど僕の抱くこの感情は、正規ではない手順でこの立場を手に入れた負い目から生まれたものではなく、僕の願望を起因としていた。

 心の平穏を保つために、ここに境界線があると決めつけていた。彼女の隣にいる理由を、一歩離れた立場で、フィルタ越しに覗き込むことで、別の安心できるものに置き換えていた。臆病な僕は、自分自身で見切りをつけて、その違和感を抱かなければおかしいと望んでいた。

 だが、それは間違いなんだろう。

 母さんは強い人だ。昔からそう思っていたが、今になってよりそう思う。

 あの人は、様々な困難や悩みを抱えて、苦しくて一時は枯れるほどに涙を流しても、勇ましく顔を上げて、僕という幼い命を護るために身を粉にして立ち上がった。

 世間では、性格に合わない夜の仕事を無理してでも頑張っていたその姿を、自身を二の次にして、恥も外聞も無くプライドさえ擲って、何もかもを犠牲にしてまで僕を育てたと捉えるかもしれない。

 けれど、そんなことはないと今になって僕は考えるようになった。ずっと側にいた僕でも、今に至るまでずっと気付けなかった母さんの矜恃は、確かにあったように思えて仕方がなかった。

 母さんは夜の仕事を苦手としていたが、決して共に働く人達の事が嫌いなわけではなかった。むしろ、仕事を辞める時に涙を流したくなるくらい大切に想っている人達ばかりだった。

 そして、母さんが大切に想う人達もまた、母さんの事を大切に想っていた。

 母さんの仕事仲間だった名前も知らない女性が、僕に教えてくれた母さんの面白い話も、悪戯のための言葉も、託児所から家まで送迎してくれる男性が、毎日くれた飴も、別れの日に贈ってくれたマグカップも、全ては母さんが気付いた関係の分け前を僕が貰っていたからだ。

 周囲の人を大切に想っていた母さんは、自分だけでなく、自分の息子さえもその輪に包み込めるくらい、周囲の人から大切に想われていた。

 子供に名前を付ける時、親は何を考えるんだろうか。多くは、子供がどのように育って欲しいか、その望みを込めて名付けるだろう。そしてそれは、親が、人が生きていく上で得て欲しいもので、大切にしてほしいことなんだと思う。

 なら、そんな願いが込められた僕の名前は、その生き方は、母さんにとって何よりも素晴らしい生き方だったんだろう。

 『周囲の大切な人達に護られ、またその人達を護れるような人』――僕の名前に込めた想いを、自分が大切にしたい生き方を決して違わないように、母さんは僕と共に暮らしていた。自分の本当に大切な矜恃を胸に抱き続けていた。譲れない誇りを持って、母さんは周囲を愛し、そして愛されながら、支え、支えられていた。

 前に座る運転手の男性、僕の左側に座る母さんと、右側に座る母さんと働いていた女性。母さんが築いた繋がりを感じられるあの空間にいる時間が、僕は嫌いじゃなかった。

 家族以外の全てを切り捨てることを既に心に決めていた当時の僕が、自分の名前が持つ意味を知って、唯一母さんではなく護りたいと思った人達は、母さんが大切に想っている人達だった。

 僕はずっと、母さんの悲しむ顔が見たくないからその人達を護りたいと、付属的な因果関係を僕の感情に当て嵌めていた。

 けれど、子供の頃の僕はただ、温かい想いを向けてくれるあの人達を、大切に想っていたんだと思う。

 母さんが手を取って繋いでくれたあの関係の輪が、母さんが大切にする生き方が表したあの空間が、臆病な僕でさえ、手を伸ばしてしまいたくなる程に眩しかったから、一方的に握られていた手を、気付けば握り返していたのかもしれない。

 逃げ続けて今に至った自分には、幼い頃のように、無意識に踏み出す事なんて出来そうにない。冷え切った感情でしか他人と接してこなかった僕が、今頃になって本気で他人と向き合うなんて、生き方を根底から変えることが容易だとは思えない。

 昨日の公園でおじさんは、僕が『貸し借り』や『自分本位な理由』という建前を用意して、家族以外の誰かのために行動すると言った。そして、そんな僕を『優しい』人だと称した。

 けれどそれは、やはり的を射ていない。母さんの過去を知った今でも、いや今だからこそ確信を持って言える。

 僕の言動の根底にあったのはもっと打算的な理由で、他者を想うことを起源としたものではない。

 誰かに『借り』を作りたくなかったのは、僕自身が『護られる』だけの人間になりたくなかったからだ。『自分本位な理由』は確かに家族以外の人間に手を貸す自分への建前だったが、それは僕が僕自身に『護れる』人間だと証明したかったからだ。

 『周囲の人を護って、護られる』、僕は幼少期の母さんと一緒にいたあの頃から、母さんが誇りに思えるような、自分の名前に相応しい人間になりたかった。ただその目標のために、僕は周りの人を利用していたに過ぎない。

 そこに誰かを思い遣る気持ちはなかった。僕はただ承認欲求を満たすことを目的にして、その過程に価値を見出していなかった。心を持たないロボットが命令に従うように、あるいは義務感のようなもので動いていた。

 だから、僕が『優しい』人間だとおじさんが考えるのは、やはり空虚な行動の外側だけを観測した結果なんだと思う。でも、それでも、中身のない偽物でも本物だと思えるなら問題ないなんて空しい論理を、昨日までの僕なら考え、言葉にしていただろう。

 けれど僕の人生の幸福を想う願いにとって、中身のない空っぽな行為に、価値なんてないんだ。それで得られるものは、何もないんだ。

 

『周囲の人を護って、護られるような、優しい強さと好意を得てほしい』

 

 母さんが本当に願っていたことは、僕がこれから気付いていく多くの関係で、想い、想われ、その輪で幸せや愛情だけでなく、悲しみとか、怒りとか、綺麗事じゃない感情に向き合って、それでも他者を大切に想えるような『優しい強さ』と『好意』を僕が得ることだったんだろう。

 人と人が繋ぐ関係には、必ず多くの失敗や後悔、勘違いや喧嘩があって、向き合うことが難しいほどに辛いことも、悲しいこともあって、足が竦んで立ち上がれない経験もするだろう。

 それでも、歯を食いしばって、震える足を前に伸ばすこと。そして、その歩みを通じて、誰かを『優しく』想える『強さ』を磨いていく。誰かに『好意』を抱いていられる自分になっていく。

 サザンと要、竹下がぶつかり合いながら、それでも互いに大切に想うことを約束した時みたいに。

 前川達と彼女達のプロデューサーが苦心しながら、互いに心根を共有した時のように。

 あんな風に、悩んで、考えて、迷って、信じて、願って、泣いて、そうして強く繋がっていく。

 僕にとって、母さんが名付けてくれた『護』という名前は矜持だ。

 だから、その想いを勘違いで歪め続ける人生はもう終わりだ。小さな子供みたいに怯えて、殻に閉じこもって、臆病なまま歩みを止める自分は終わりにする。

 決意を強めるように短く息を吐く。そして、止まっていた足を前に進める。

 前方の洋館の外周を沿うような道を進み、奥に聳え立つオフィスビルのさらに奥、別館と呼ばれる建物に向かう。

 ここから別館までの距離は字面的には建物一つ分程度の距離と捉えられる。しかし、その間にあるオフィスビルは群を抜いて巨大であり、ガラスが張り巡らされいる典型的な外観だが、見て取れる窓を参考に階数を指折り数え始めても、両手を軽々と三、四週しそうなくらいである。

 加えて、346プロダクションの敷地自体が馬鹿にならない程大きい。どれくらい大きいかと言えば、僕が人生で一度も使った事のない単位である東京ドーム一つ分くらいには、敷地面積があるはずだ。

 芸能事務所でありながら、テレビや映画みたいな映像関連の作成も手広く行っているようで、施設自体が撮影用の物まであるらしい。僕が今向かっている別館と呼ばれる施設には社内カフェ以外にも、エステルームや大浴場、サウナなんて所もあるらしく、従業員の福利厚生が行き届いている。

 はっきり言って、そんな所にお金を掛けて後々経営に響いてこないのかという不安を伴う疑問の方が、僕は驚きより先に抱くくらいだ。

 企業の社員がどの程度の人数なのかとか、年の利益がどれくらいなのかとか、僕はそこらに関して全くの無知である為なんとも言えないが、外国の大手IT企業みたいなカジュアルで遊びのある社風を肌で感じて、ここが日本の首都にして、その中でも人の流入が多い渋谷という街の一角であるということを忘れそうになる。

 結論として、僕がバイト先に辿り着くまでの経路――玄関から別館までの道のりは長い。敷地が広いおかげで建物間の距離も余裕を持った作りになっていて、密集していない。間には中庭なんかもあって、通勤通学をする人のように、その道に慣れて足早に目的地に進む人でも、徒歩五分くらいは覚悟するべきだろう。

 敷地内の緑溢れる中庭を眺めながら、歩を進める。ネクタイをしっかりと締めたスーツの人や、軽装の洋服を着る容姿の整った人とすれ違いながら、別館に近づく。

 僕の仕事先である346カフェは別館一階内の一部を使っているが、お客さんは内から店に入るルートと、外から直接向かうルートの二つがある。

 346カフェは、中庭に隣接するように作られたオープンテラスが用意されていて、外のテラス席からでも注文を受けられるようになっている。そのため、店そのものが別館に埋め込むような形で、内と外、二つの出入り口を用意している。加えて、従業員には専用の出入り口が用意されているため、僕が店に辿り着く道筋は計三つある。

 いつも使っている従業員出入り口へ向かう時、カフェのオープンテラスの横を通ることになる。ふとそこを確認すると、既に店のシャッターが上がっていて、開店前準備が始まっていた。

 祖父が愛用していた腕時計を確認すると、今の時間は午前十時。カフェは十一時に開店し、今日の僕みたいにシフトが最初の時間に入っている従業員は、十時二十分には店に着いて、制服に着替え、開店前準備を始める必要がある。

 特に遅れていないが、自分も担当する仕事を他の従業員が始めているというのなら、急いだ方がいいだろう。僕は肩に掛けたベージュのトートバッグがずり落ちないように持ち手を支え、若干の駆け足で、テラス席抜けて、店に向かう。

 実を言うと、テラス側の出入り口から店に入るのが一番距離が短く早い。けれど、防犯や天候の影響を受けないように、開店前や雨の日はシャッターが下ろされて通れないし、従業員が営業中に客が利用する出入り口を使う訳にもいかない。総じて特別な事情がない限り、従業員出入り口に回り込むのが普通だ。

 だが、誰かがシャッターを既に上げていて、客が訪れない営業前ならば、テラス側の出入り口を経由して従業員のロッカールームへ向かう事はなんの問題もなく、時間短縮に繋がる。

 外からカフェの前まで足を進めると、この店のアルバイターであり、僕に業務のいろはを教えてくれた先輩である安部さんが、箒を両手にテラス席周りの掃き掃除を始めていた。

 その姿は丈が短いメイド服という、いつもの奇抜なカフェの制服だ。

 カフェテラスは自然溢れる中庭の隣であり、テラス席近くには様々な花が植えられている。降り注ぐ日差しは頭上のシェードによって柔らかくなり、シックなデザインの茶色いテーブルや椅子も含めて、安部さんが立つその場所は、異国感を与える様変わりな雰囲気がある。メイド服という違和感の塊が、この場においてだけ認められているのは、カフェやテラス席の外観が及ぼす恩恵が大きいのかもしれない。

 僕の足音が安部さんの耳に届いたのか、テーブルの下を軽く覗き込むようにして、しっかりと椅子の四つ足の間に箒を入れ込む安部さんは、その手を止めて顔を上げる。

 

「あれ? 渋谷くん?」

「おはようございます、安部さん」

 

 身長が百八十程ある僕より頭一つ半ほど小さい安部さんは、346プロダクションのアイドルとして活動をしながらも、ここで生活費の為にアルバイトをしている。身長だけでなく、大きな垂れ目と小さな唇、その間が短いという子供っぽい見た目に反して苦労人で、一途に目標に取り組む努力家というのが、僕の印象だ。

 安部さんは、僕に向かって会釈を返す。

 

「はいっ、おはようございます」

「いつもより早く来てるんですね」

「今日は私が店の鍵当番だったので、一番乗りですっ」

「ああ、なるほど。ちょっと面倒臭くないですか? 他の人より先に来ないといけないのって」

「うーん、どうでしょう? 確かに絶対遅刻できないって身構える気持ちもありますけど、日頃からお世話になってる店長から鍵を任せて貰えるのって結構嬉しいですよ。信頼の証みたいで」

 

 安部さんは頬を上げて、にこりと笑う。

 その姿を見ていた僕は、思わず感嘆の声を上げる。

 

「へー、そんな風に思えるのは凄いですね。僕なら『バイトなのに面倒な役割を押し付けられた』とか思わず言ってしまいそうです」

「あははっ。確かに渋谷くんズバッと口にするタイプですから、臆せず言っちゃいそうではありますね。でも渋谷くんに頼んだら、結局引き受けてくれそうなイメージもありますよ?」

「実際そうなったなら、安部さんのイメージ通りに僕は動くと思いますよ。今の僕はなんたって、『周囲の人に心の底から優しくする』をモットーにしてますから」

「そうなんですか?」

「はい、今の僕はひと味違いますよ。鍵の話で例えるなら、以前までの僕は『雇われの身だから、下の者はこき使われて当然か』って思いながら軽く引き受ける感じですが、その活動期間中はなんと、何も思わず軽く引き受けてくれます」

「えっと、うーん? どっちの渋谷くんも軽く引き受けてませんか? 変わってるようで、実はあんまり変わってないような……」

「変わってますよ。激変です。激変越えて確変に至って、パチンコで大当たりからの、宝くじ買って、三億当たります」

「え……、さ、三億当たったんですか? ……ひょ、ひょっとして三億当てたから心に余裕ができて、人に優しくなったんですか!?」

「なんですか、それ。言い掛かりはやめてくださいよ。僕三億なんて当ててませんし、宝くじも買ってませんし、パチンコで大当たりすらしてません」

「んっ、えっ、……ついさっき言ったこと、全部否定しちゃってないですか? それじゃあ、どこから三億の話って出て来たんですか?」

「口に出任せを頼んでおきました」

「『出前を頼んだ』みたいな気軽さで、嘘吐いたこと告白しないでください!」

 

 がっくりと肩を落とした安部さんは、そのままじとっとした目を僕に向けてくる。

 どうにもバイトの先輩はお疲れの様子だと感じた僕は、「はぁ……、これで勘弁してください」とやれやれ感を出しつつトートバッグからメモ帳を取り出して、リングで留められた一枚のページに『肩たたき券』と書いて、それをまるで金持ちが手切れ金として小切手を渡すように千切って渡した。

 記された文字列を確認した安部さんは、当初は信じられないように僕の顔を見たが、再度手元の紙切れに視線を戻して数秒が経つと、少し嬉しそうに笑っていた。

 僕は知っていた。安部さんが一人でいるとき、よく疲れた表情で肩を回していたことを。

 

「まあ結局、僕がさっき何を言いたかったかといえば、立場があるなら誰でも鍵当番を断らないですよ、って話ですよ。でもそんな都合がなければ、給料とか増えない無駄な責任や仕事を背負いたくないのが、大多数の心理だと思いますよ。学校で特にメリットを感じない委員とか決める時、全然手が挙がらないのとか、まさにそれじゃないですか」

「でも、そう言う渋谷くんは、給料が増えなくても、人一倍お仕事頑張ってますよね? 毎回就業時間より早く来て準備してくれますし、覚えが良くて、要領が良くて、気が回りますから、『新人なのに一緒に働くと、普段より楽に感じる』って皆から評判良いんですよ。知ってました?」

 

 安部さんは、運気だけでなく、労働意欲まで押し上げるあげまん代表のような褒め言葉を弄する。その姿に、僕は舌に何も載せていないのに、生クリームを食べている時の甘ったるい味わいを覚える。

 アイドルに恋い焦がれ、現在その立場にまで至ったらしい安部さんは、アイドルに強い憧れを抱いて女装するサザンの友人――要と、本質的な部分が似ている気がする。

 自分が理想とする可愛い存在であろうとする意識を、長年の積み重ねによって無意識に昇華させている。先天的ではなく、後天的。作為的、人為的なその行動様式は、はっきり言ってしまえば、体に染みつくぶりっ子の性。魔性の女と言い換えても、少しも耳障りがよくならないそれは、男性に媚びを売りすぎて、恋愛を目的とする集まりとかで、女性に妬まれそうである。

 要には、本人が男であり、男に興味が無い為、セーフティーネットがしっかりと用意されているが、安部さんの場合、恋愛関係という安定しない足場で、痴情のもつれとかでバランスを一度でも崩してしまえば、落ちるところまで落ちて、慣性が付いたまま、固い地面に叩きつけられそうである。

 そうなった時は、体育倉庫から借りてきた柔らかめなマットを幾重にも積み上げて、どうにか衝撃を吸収してあげよう――なんて、特に意味もない事態を想定する僕は、相手に先行き不安な事を思われていると露知らない安部さんに向かって、表情を変えることなく頷く。

 

「体のいい言葉の裏で、便利な駒扱いされてそうですけど、それでも、いつもよりは気持ち仕事を頑張ることにしますよ」

「素直に受け止めてくださいよ……」

「だって僕を持ち上げても、気をよくして何か奢ったりしませんよ? 常日頃から貧乏性が染みついて財布のマジックテープは堅いですから、本当に欲しい物以外買いませんし」

「そもそも、年下でバイトの後輩、まして財布がマジックテープの人から募ったりしませんよっ」

 

 出た。マジックテープ財布使いの宿命とも言われるこの瞬間が。

 僕が今使っている財布は、小学生の時にお祖母ちゃんに買ってもらった物だが、この年になってそれを使っていると、周囲の人に何かと指摘される時がある。

 同じ学校の金髪野郎――もとい、知り合いには「お前、まだそれ使ってんのか?」と呆れたように見られ、花屋の変態子供おじさん――もとい、渋くてダンディなおじさんには「マー君それ……、そろそろ新調しない?」と言われ、そっと一万円札を差し出されるのだ。

 『僕が気に入っているんだから外野が文句を言ってんじゃねぇ、ボコボコにするぞ』と機嫌が悪い時は心の中で思ったりもしているが、総じて何が言いたいかと言えば、マジックテープ財布の地位が世間では低すぎるという事だ。

 巷では開閉時のビリビリ音が五月蠅くて下品とか、子供っぽいとか言われているが、マジックテープ愛好家からの意見としては、その音が最高だと思っているし、『なに巫山戯た事を抜かしてんだ、ボコボコにするぞ』と思っていたりもする。つまるところ、マジックテープは人によっては最高だということだ。

 そんな価値観を土足で踏みにじってきては、良心ぶったふりをして諭してくる奴ら、偏った意見で物事を語る奴らを、僕はあまりよく思っていない。

 だが、それは現代社会の民主主義が生み出した多数決という価値観の闇であり、発言者一人に切れ散らかしても意味が無いこともまた事実であり、認める所である。

 そこで、僕は周囲の人にマジックテープの地位向上を促す活動を行っている。

 そうすることで、社会全体がマジックテープ財布を容認し、大人もマジックテープ財布を心置きなく手に取って、大手を振って歩ける時代がやってくると信じている。なんなら最終的には、まるでバイオリンで音を奏でるかのように、ビリビリと開閉音を優雅に演奏するマジックテープニストが世界的に認められると信じている。

 だから、今日も僕は、多数決主義という数の暴力に対する一市民の革命者として、その偏見を握りつぶしてみせる。

 

「マジックテープへの偏見酷くないですか? 僕なら土下座でも、靴舐めでも何でもするので、軽くて、機能性が高くて、使いやすい、そんな愛らしくも素晴らしいマジックテープの地位向上をよろしくお願いしますよ」

「マジックテープへの偏愛酷くないですか!?」

 

 

 ◇◇◇

 

 

 話も一区切りついて、僕が着替えの為に従業員ロッカーに向かおうとした時、安部さんはふと何かを思いだしたような顔をして、話し掛けてくる。

 

「そういえば、すっかり聞きそびれてましたけど、渋谷くんはどうしてここにいるんですか? あっ、もしかして、ロッカーに忘れ物でもしました?」

「ん?」

 

 安部さんが、カフェでアルバイトという真っ先に浮かぶはずの理由を自然に除外していることに、僕は眉を寄せる。しかし、先の発言からよくよく考えれば、僕がアルバイトの代理を引き受けたことを、安部さんは知らない可能性が高い。

 僕の記憶違いでなければ、休む本人から代理を頼まれ時、相手側から店長にも話を通しておくと言われた。ここ一ヶ月程度でそれほど多くの時間を共有してはいないが、電話で申し訳なさそうに頼んできた相手が、自ずから言い出したことを忘れはしないだろう。店長にちゃんと伝わっているはずだ。

 であれば、休憩室の壁に掛けられた紙のシフト表を上書きするのを忘れていたとか、安部さんがメモ代わりに、毎月携帯で撮影しているシフト表の写真が古いままだとか、そういう全体への情報共有不足が、僕と安部さんの認識違いの原因と考えるのが妥当だ。

 

「いえ、僕がここに来たのは、いつものように働くためですよ。今日外せない用事が入った人がいて、僕がその代理として働くことになったんです」

「……えっ」

 

 僕が喋っていると、次第に安部さんの瞳は大きく見開かれていく。終いには、口元から小さな驚きの声が漏れ出していた。

 安倍さんは、箒を持たない右手の人差し指を自身の顔に向け、瞼をぱちくりとさせながら、だらしなく空いたままだった口を動かしていく。

 

「その渋谷くんの代理が、私、ですよね?」

「……はい?」

 

 安部さんの意味の分からない言葉に、今度は僕の開いた口が塞がらなくなる。

 けれど、皆無と言って良いほど心当たりが一つもなく、一ミリも記憶を掠らない出来事に、言葉の意味を飲み込んだ僕は即答する。

 

「身に覚えがないです」

 

 僕の返事に安倍さんは「えっ、あっ、そうですか……」と小さく呟いて、考え込むように「うーん」と唸り声を出す。

 目を瞑って、振り子のように頭を左右に傾げる安倍さん。それに連なって揺れる明るい茶髪のポニーテールを眺める僕は、そのキューティクルの整った髪がナポリタンに見え始め、予期せず、今日の昼食に何を食べるか確定することになった。

 僕がそんな今の話と全然関係ない所に思考誘導されていると、いつの間にか目を開いていた安部さんが話しかけてくる。

 

「あの……、要さんからお話聞いてませんか?」

「要から?」

 

 僕は顎に左手の指先を沿わせて、肩への引っ掛かりが浅くなったトートバッグを右手で深く掛け直す。

 そして、今回起きた『代理の代理事件』のキーパーソンとなるだろう要と、それに関する出来事を記憶の中から探し出す。すると、この事態を引き起こした要に深く親交のある一人が、昨日の放課後、犯行声明のような発言をしていたことを思い出した。

 

「……ああ、そういうことか」

「何か分かったんですか?」

「はい。どうも事の成り行きを考えると、僕と安部さん被害者なのかもしれない」

「ひ、被害者?」

「ええ」

 

 僕は深く安部さんに頷く。

 おそらくこの『代理の代理事件』は、僕を彼女のライブに連れて行こうとする勢力、要とサザンによるものだろう。

 僕は事情聴取を行う警官のような雰囲気を出しながら、目の前に佇むバイトの先輩に尋ねる。

  

「安部さん、あなたは要からバイトの代理を頼まれたんですよね?」

「は、はい。昨日の夕方もカフェで働いてたんですけど、その時ここを訪ねてきた要さんに、直接お願いされました」 

「その時、要は何と言っていましたか?」

「えっと、確か……、渋谷くんと約束していた大切な用事があったけど、本人がバイトの代理で断念してしまったから、どうかその代わりをして欲しい、みたいな感じだったと思います」

 

 安部さんが予想通りの答えを返したことで、僕の予想は確信へと変わった。

 要が言う大切な用事というのは、十中八九、今日行われる凛ちゃんのライブだろう。

 要は僕とライブに行くことを、偉く楽しみにしていた節があった。僕がアルバイトを理由に行かないと伝えた時、眉を八の字にして悲しそうに肩を落としていた。

 僕の参加不参加程度でそこまで一喜一憂する気持ちは理解に苦しむが、安部さんに代理を頼む犯行理由としては見当違いではないはずだ。

 そして、要の身近な人物であり、要と同じく僕と一緒にライブに行く予定だったサザンも、この件に間違いなく関わっている。

 仲直りしてからの二人は行動をよく共にしているし、最近何かと僕の周りを嗅ぎまわっているのは明確な事実だ。

 昨日の夕方、要は安部さんに代理を頼んだらしいが、その日は、サザンが僕にしつこくライブへ行くよう説得してきた日でもあった。サザンが教室を去る時、置き捨てるように僕に放った言葉の意味は、『要が僕のアルバイトの代理を用意するから、お前はライブに来い』という風に今なら捉えることができる。

 本人の承諾もなく、僕の請け負った仕事を委託するなんて、勝手な事をしてくれる。

 僕は目線を安部さんに向けて、思考を邪魔しないように黙ってじっと待ってくれていた安部さんへ、語りがたい真実を口にする。

 

「安部さん、この事件の真相を突き止めました」

「事件って……、そう言うと、なんだか大ごとに聞こえてきますね」 

「犯人は要です」

「いや、あの、それ、最初から分かってましたよ?」

「え……、じゃあこの事件は、既に安部さんが解決済みってことですか?」

「いやいや、どうして渋谷くんに連絡が届かなかったか、それが知りたいんですよね? 考え込んでいましたけど、原因は分かったんですか?」

「そんなの分かりませんよ」

「じゃあなにも進展してないですよっ!」

 

 しかしなんというか、安部さんに連絡は入れておいて、当人である僕に連絡を寄越さないというのは、滅多に起こることではない。あまり他に状況証拠がないためよく分からないが、僕に伝えるという過程で、彼らにとっても何か予定していない事が起きたと考えるのが筋の通った推測だろう。

 

「とりあえず、本人に聞いてみますか」

 

 事態の概要も掴めたのだから、これ以上頭を悩まして時間を費やすべきではない。文明の利器を使って、とっとと要に話を聞けば良いというもの。

 肩に掛けたベージュ色のトートバッグを漁る。メインの収納スペースではなく内側にあるポケットから、白いスマートフォンを掴み上げて、クリアカバーに覆われたそれの電源ボタンを親指で押す。

 しかし、なにも反応を示さない。僕の予想では、スマートフォンは画面を発光させ、シンプルな背景画像の上に現在時刻を示すロック画面が映し出すはずだが、どこか調子が悪いのか、数秒待っても依然として無反応であり、ツンケンとした態度を示してくる。反抗期の少年少女でも、もう少しマシな反応を示すのではないかと思うくらいには、画面は何も変わらず、何度かボタンを押しても一向に変化が見えない。

 もしや鞄の中に入れている間に、運悪く誤作動で電源を切ってしまったのではないか。

 そんな一考をして側面ボタンを長押しして見れば、待っていましたとばかりに、中身が全く詰まっていない電池マークの画像が数秒だけ画面に表示される。

 とどのつまりこれが意味するのは、現状このスマートフォンが、反射で手鏡にする程度の価値しかないという事だ。

 僕はスマートフォンをトートバッグにゆっくりと仕舞い直し、正面に立つ安部さんから視線を少しどころか九十度ほど逸らして、青く澄み渡る空を見上げる。

 

「この事件は迷宮入りにした方がいい、そう思いませんか? そもそも事件だなんだと騒いで、犯人が誰かを決めようとすること自体、間違っていたんですよ」

 

 僕は降り注ぐ太陽の光に目を細めながら、諭すように安部さんに語りかける。支離滅裂な僕の態度に頭を傾けていた安部さんは、困ったような表情を変えずに口を開く。

 

「あの、とりあえず要さんに電話で一度聞いてみた方が良くないですか?」

「すみません、携帯のバッテリーが切れちゃってて」

「あ、じゃあ私の携帯で連絡しま……って、うん? ……それっていつからですか?」

「たぶん昨日から?」

「……現行犯、ここにいたんですね」

 

 そういえば、昨日の朝におばさんへ花屋のアルバイトを休む連絡を入れてから、スマートフォンを使っていなかった。なんなら手に持った回数は、通学用の鞄からアルバイト用のトートバッグに移し替えた今朝の一度だけだった。

 僕はネットサーフィンをするなら、写真のデータを管理する目的で購入したノートパソコンを使うし、スマートフォンのゲームアプリをすることはない。昨日の朝に確認した時には既にバッテリーの残量が数十パーセントしかなかったが、連絡機能が主な利用方法でしかない僕にとって、それほど危機感を抱く出来事ではないそれは、他の出来事によって頭の片隅どころか、押し入れに追いやられていた。それがここに来て、牙を剥いてきたらしい。

 どうやら僕は被害者面をした加害者だったようだ。

 自分は何も悪くないと言い張る人間が、少しも悪くないわけがない。昼頃にテレビで放送されるサスペンスドラマは、僕にそのことを教えてくれていたんだ。「絶対コイツが事件の原因だよ」と笑い者にしていた彼らのことを、決してもう馬鹿にしたりしないと僕は心に誓う。

 そんな決意を固める僕を尻目に、安部さんは少し心配気に口を開く。

 

「あの、そもそもの話なんですけど、その用事って、今の時間的に急がなくても大丈夫なんですか?」

「いえ、そんなことないですよ。まず用事っていうのが、アイドルになった幼馴染みのライブなんですが、予定通りの時間だと、今から急いで向かっても間に合わないでしょうね」

「え!? それって凄くまずいじゃないですか!? ……あっ、でも、『予定通りの時間だと』なんて言い回しに、渋谷くんの落ち着き様からして、ライブの時間が後ろにズレてるんじゃないですか?」

 

 先ほどから僕の嘘や言動に振り回されて若干疑心暗鬼になっている安部さんは、慌てた表情から一転して、僕を訝しむように眺めながら、希望を見出したように少し口角を上げる。

 釣られて、僕も思わずにっこりと笑顔になる。

 

「そんな都合の良い話、あるわけないですよ」

「ええ!?」

 

 彼女のライブは正午に千葉のショッピングモールで行われる。そして今の時刻は十時十分だ。つまり、一時間五十分で現地に到着する必要がある。けれど、今僕のいる346プロダクションの最寄り駅である渋谷駅から、ショッピングモールの最寄り駅までは、電車で一時間四十分は必ず掛かる。それに加えて、ここから渋谷駅までの距離、ショッピングモールとその最寄り駅の距離を考慮すると、走っても二、三十分は上乗せされるだろう。

 つまり、彼女のライブ時間に間に合うのは極めて難しい。

 僕の上向きな表情に対して、全く真逆の下向きな発言を簡単に受け入れられなかったのか、数秒間、人間的な活動を停止させていた安部さんは、ぱちくりと瞼を動かすと、それを契機に慌てて捲し立てる。

 

「じゃあどうして渋谷くんはそんな呑気なままなんですか!?」

「人間諦めが肝心だと思うんです。ちなみに僕は、安部さんが要の名前を出した辺りから、もう諦めてましたよ」

「……それ、ほとんど最初からじゃ? な、なんでそんな大事なこと、真っ先に伝えてくれなかったんですか!? 事件とか犯人とか、主に渋谷くんが無駄話しちゃいましたよ!」

「ははっ」

「笑って誤魔化さないでください!」

 

 当人よりもずっと慌てている安部さんは、「えっと、えっと、私の携帯で要さんに連絡して……」とメイド服のポケットの中を漁り出すが見つからず、自分の服の隅々を上から叩いて探すが見つからず、もう一度ポケットの奥深くに手を入れた所で「あっ、店のロッカーに置いてきたんだった!」と自身の探索行動に何の意味も無かったことを認めた。

 第三者でありながら、他者の為にどこまでも熱心に行動できるその姿を見ていた僕は、じんわりと胸が熱くなるのを感じた。まるで、なくしてしまったピースを一つ見つけたかのような感覚を抱いた。

 僕は「安部さん」と一声掛ける。

 こちらを振り向く、小さな体に大きな思いやりを秘める女性に、静かに頭を下げる。

 

「心配してくれて、ありがとうございます。それに、折角の厚意で代理を引き受けていただいたのに、こんな事になってしまって、本当にすみませんでした」

 

 要とサザンが相談もなにもせず実行し、僕の不注意によって起きた不慮の事故は、この際後回しでも構わない。

 けれど、何か理由があるわけでもなく、急遽押し付けがましい願いを快く引き受けてくれて、その上で、今もなお僕達に必死に手を差し伸べようとしてくれる、そんな優しいこの人に対して、今の僕が真っ先にやるべきことは、感謝と謝罪を尽くすことだと思った。

 僕の両肩に小さな手が置かれる。上向きに軽い力が加わったことで、その意図に従って僕が顔を上げると、いつもと変わらない安部さんの笑顔がそこにはあった。

 

「全然気にしないでください。今回は運が悪かっただけですよ」

 

 見切り発車で、勢い任せで、周囲を顧みられない、そんな高校生になったばかりの僕達が、あと数年程度でここまで成熟した人間になれるかと問われたら、僕は自信を持って首を縦に振れそうにない。

 けれど僕は、この胸に芽生えた心地よい熱を返せる人になりたい、そう思った。 

 

「この埋め合わせは必ずします。それで、今日の仕事についてなんですが、安部さんの都合に合わせて、このまま働くかどうか選んでもらえればと思ってい――」

「――いたああぁ!」

 

 まるで僕が「思っていたああぁ!」と、変な奇声を上げだしたと勘違いされてもおかしくないタイミングで、大通りの方から大きく、甲高い声が、鳴り響く。

 突然の大きな音に振り向いた僕の視線の先には、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、別の方向の誰かに手を振る金髪の少女の後ろ姿があった。

 

「こっち、みくちゃんやっぱりこっちにいたよっ!」

「……城ケ崎?」

 

 その少女は、凛ちゃんと同じアイドルプロジェクトに所属している城ヶ崎莉嘉だった。

 突如思わぬ形で遭遇した相手に、僕は一瞬目を疑い、事実確認のように少女の名字を呟いたが、少女の目立つ金髪とその五月蠅い動きを観察すると、それが本人であることは間違いない。

 だが、僕がそんな確認に時間を費やしているうちに、振り返った城ヶ崎は次第にシルエットを大きくする。後ろの一部分を高い位置でツインテールにした金髪が風に靡き、全力で距離を詰めてくる姿は、まるで支柱に掛けられた鯉のぼりが元気に揺れるあの姿を思い出す。

 如何せんアイドルを目指して頑張る少女に対する感想として適切ではない気もするが、幾分の会話を交わした城ヶ崎の性格を鑑みれば、喜ぶ可能性も少なくはない。少女は、男子と比べて早熟な女子の中学一年生にも関わらず、カブトムシを愛好するなどの小学校低学年の子供染みた所が多いからだ。

 だから、僕と比べれば頭一つ半ほど小さいと言える体格を活かして、勢いを気にせず僕に突進してくることは、決して難しい予想ではなかったかもしれない。

 

「かくほー!」

 

 そう声を上げた少女は、僕の腰に飛びつく。いや、飛び掛かる。

 直前まで迫ったそれを咄嗟に回避できるほどに僕の身体能力が高いはずもなく、もし対応できたとしても、ダイビングキャッチもかくやと飛び掛かってくる少女を避けて、レンガ舗装の路面に叩き付けるわけにもいかない。どっちにしろ腹部に彼女の肩が食い込むことが確定していた僕は、普通の生涯の内、そうそう出さないような「かはっ」という、バトル漫画で腹に衝撃を受けた時みたいな息の吐き出し方を実践することになり、呼吸もままならない困窮した状態となった。

 せめて少女と共に倒れて仕舞わないように、脹ら脛に精一杯の力を込めて体勢をなんとか保つ。歯を食いしばり、眼球をこれでもかと開いて、連続しない区切り区切りの呼吸で酸素を取り込もうと必死になる。だが、腹回りに抱きつく少女がさらに僕をぎゅっと抱きしめてきて、その食い込んだ身体に腹式呼吸を妨害されてしまい、うまく息を吸い込めない。

 痛みによって回らない思考の中で、僕にできることは少ない。それでも、めらめらと燃え盛る憎悪は、はらわたが煮えくり返る程であり、もう痛みで腹が熱いのか、憎しみで腹が熱いのかどうか、僕には分かりそうになかった。

 だが、とりあえず金髪クソガキボンクラアホガールは絶対に泣かす、人の痛みを肌で感じさせると誓いを立てた僕は、痛いのなんのと吠え叫ぶ前に、抱きつく少女を抱きしめ返す。

 もう絶対離さない、必ず貴様を絶望と怨嗟の牢獄へ陥れる、と厨二病チックな闇の人格を芽生えさせていると、中学生の癖に金髪に髪を染める暴行癖が治らない頭のおかしい女は、「えっ、お兄ちゃん、ちょっと恥ずかしいよ……」と僕の腹に蹲りながら、急に女々しくなって意味の分からない供述をしてくる。

 僕はキレる時は、キレる。男に意味のない暴力を受けたならば、普通にキレる。幼馴染み以外の女に意味のない暴力を受けたならば、限りなく低い水準で、いやもうそんなの切り捨てろよ、と思われるくらいの割合でたまにキレない。要するに、ほとんどキレる。

 怒りに飲まれた僕は、腹の痛みなど放っておいて動き出す。

 抱きしめていた腕を開放し、腹元にある金髪が生えたボールの側面に両拳を添える。そして、全力を持ってぐりぐりと拳を押し付ける。

 

「いたたたたっ!? 割れちゃう、割れちゃう、頭割れちゃう!」

 

 少女は暴れて抵抗することで、僕の拳から抜け出す。そして一メートルほど遠ざかってから、僕を威嚇するように眉間に皺を寄せて睨み付ける。

 

「お、お兄ちゃん! 酷いよっ、なんでこんなことするの!?」

「痛かったからだよ。タックルが」     

「タックルじゃないよ、どっちかって言うとハグだよっ! 乙女の柔肌で抱きとめてあげたのっ!」

 

 あんな勢いよく突っ込んできた人間の運動量を、ハグという認識に抑え込める程、城ヶ崎の柔肌に衝撃吸収能力はない。そんな物理法則が成り立つ世の中なら、力士のタックルが与える衝撃は皆無と言えるだろう。

 内心では未だに憤慨している僕だって、城ヶ崎の態度次第では、年上として怒りの剣を納めるつもりもあった。けれど、本人は反省の色を見せないどころか逆ギレしてくる始末。

 これはもう少し分からせてやる必要がある。警戒した城ヶ崎を罰するためにどうやって近づくかを、僕は考え始める。

 

「莉嘉ちゃん! そんな言い争いしてる場合じゃないにゃ!」

 

 城ヶ崎が頭のおかしい言動で僕に接している間に、もう一人の誰かが近寄ってきており、話に割り込んでくる。その声の方向に視線を向けると、そこには城ヶ崎同様にアイドルであり、昔で言う所のおかっぱ頭の髪型をした、何故か猫語を操る僕と同年代の女――前川みくがいる。

 

「そうだった! ほら、早く行かなきゃっ、お兄ちゃん!」

 

 焦ったように、僕の手を掴んで引っ張る城ヶ崎。僕はこれはチャンスだと内心ほくそ笑みながら、外面だけは慌てたようにして、彼女の手をしっかりと握り返す。

 

「ちょ、ちょっと、説明してくれないと何も分からないよ。……そもそも何で二人がここに?」

 

 僕は前川に現状の詳細を尋ねながら、どこかに連れて行こうと手を引く城ヶ崎を、逆に強い力で引っ張り返した。驚いた顔でよろけながら近付いてきた城ヶ崎を軽く抱きとめる。

 

「要ちゃんから連絡が来たんだにゃ! メッセージで連絡しても既読が全然付かない。電話を掛けても繋がらない。もしかしたら、346カフェに行ってるかもしれないから、近くにいる私達に探してくれないかって、さっき頼まれたんだにゃ!」

「そういうことか……。でも346プロに居たってことは、二人とも仕事だったんじゃ?」

「今日はレッスンだけで、みく達は時間的にまだ余裕があるから、全然気にしないでいいにゃ!」

 

 事情を聞いて、目の前の前川と僕の胸元にいる城ヶ崎を観察すると、普段着だと勘違いしていた彼女達の服装は、確かにダンスなどのレッスンを受けるための、身軽な運動着にも見えてくる。

 安部さんや城ヶ崎より少しだけ背の高い前川は、青紫色の裾の長いティーシャツに、スパッツかタイツか名称がよく分からないが、脚にフィットする黒のズボンを穿いている。

 確かにそのズボンは公園でランニングしている人が穿いていそうではあるが、上半身の猫のマークが付いたティーシャツも含めた全体像だと、お洒落に疎い僕は、どうにもラフな格好の普段着だと判断してしまう。

 けれど、おそらく違うのだろう。前川はその性格的に、普段着はもっとフリフリした服を着ていそうだ。

 もう一方の城ヶ崎に至っては、黒のタンクトップに黄色の短パンという虫取り少年スタイルであり、あまりのその奔放な性格に似合っていたため、普段着以外の可能性を疑う余地はない。おそらく城ヶ崎は、これが運動着であると同時に普段着でもあるのだろう、間違いない。

 とりあえず今日城ヶ崎が仕事で身嗜みに気を遣う必要が全くないことを知った僕は、胸元で大人しくしている城ヶ崎の頭の上に手を伸ばし、その綺麗に整えられた髪をぐちゃぐちゃにする。「えへへ……、うん? ああっ、アタシのセットした髪が!?」と嘆き叫ぶ城ヶ崎を視界の下に捉えて、ようやく自分の中で煮えたぎっていた怒りを静め、タックルでの溜飲を下げることにした。

 そんな僕を傍目に見ていた前川と安部さんは、どうしようもない奴を見るような呆れた目を向けてきたが、僕は清々しい笑顔でピースを返した。

 すると、胸元にいた城ヶ崎が、「んもぉ!」と牛の声真似をしながら、挙げた拳をポコポコとぶつけようとする。僕はそれをひょいひょいと後ろに避けながら逃げていると、自慢の跳躍力で一気に飛び掛かってきたため、真剣白刃取りの気分で、城ヶ崎の振り下ろされた両手の手首をキャッチしてやった。

 「ぐぬぬぅ」とぶりっ子みたいな呻き声を上げる目の前の城ヶ崎に、マクドナルドでも注文できない最高の0円スマイルをお届けしていると、僕らのやり取りに痺れを切らした前川が、叫ぶように話に割って入る。

 

「だーかーら、そんなことしてる場合じゃない! 渋谷くんは早く要ちゃんの所に行くにゃ! というか、そもそもなんで要ちゃんに連絡しなかったにゃ!?」

「携帯のバッテリーが空になってたんだよ」

「もうっ、何してるの! ……ああ、もう、さっさと行くにゃ!」

 

 前川は焦ったように近づいて、城ヶ崎の手首を掴んでいた僕の手を引き剥がし、そのまま引っ張っていく。

 

「待って待って。今から急いで言っても、間に合わないよ」

 

 僕が静止を促しても、前川は引っ張る手の力を止めることはない。むしろ、その力を強くして、訴えかけてくる。

 

「そんなことない! 今、要ちゃん達がこっちにタクシーで向かってるにゃ! 電車じゃなくて、車で向かえば、凛ちゃんのライブに間に合うにゃ!」

「タクシーで要達がこっちに向かってる? なんで要たちはそこまで……」

 

 どうして僕の為にそこまで行動してくれるんだ。

 昨日おじさんから聞いた、花屋に僕の事を尋ねに来た時だってそうだ。要やサザンにとって僕はそこまでする価値の人間だとは到底思えない。

 それは城ヶ崎や前川にだって同じ事が言える。彼女達はレッスンの為にここに来ていて、これからのスケジュールだって決まっている。それにも関わらず、僕の携帯電話に連絡が付かないというそれだけで、ここまで足を運び、今も当人である僕が抵抗を示しているのに、そんな僕を必死に連れて行こうとしている。

 二人と関わった時間なんて、それほど長くない。時たまカフェに寄る城ヶ崎や前川と話をすることはあれど、それは世間話程度で、近所の人と雑談する程度のたわいないものだ。

 どうして、皆そこまでして、僕のために必死になってくれるんだ。

 

「それは要ちゃん本人に聞いて欲しいにゃ! でも、私は渋谷くんに苦しいとき助けてもらったから、だから、渋谷くんが困っている時、少しでも君の助けになりたいの!」

「要ちゃんから聞いたよ! 凛ちゃんのライブは、お兄ちゃんにとって大切なことなんでしょ! じゃあ行かなきゃ駄目だよ!」

「渋谷くん、バイトのことは気にしないで、行ってきてください!」

 

 前川の感謝を纏う瞳が、城ヶ崎の純粋に人を想う声が、安部さんの幸せを願う笑顔が、彼女達が抱く温かな気持ちを僕に伝えてくる。それは僕の心臓を熱くし、より早く激しく血液を循環させる。気付けば僕の身体は、足先から指先まで温もりが広がっていた。

 僕が彼女達に抱いた感情は、幸福だろうか、好意だろうか、感謝だろうか。どの字に当て嵌めてもどこか違和感を抱いてしまって、結局のところ明確な言葉が思いつかない。

 けれど、彼女達がアイドルとして何故選ばれたのか、その魅力がなんとなく分かった気がした。

 だからこそ、僕は自分が誰かを想う気持ちに真っ直ぐ向き合って、自分自身の想いにとって何が大切かを考え選択する。

 

「ごめん。それでも僕は、行かないよ」

「……なんで?」

 

 城ヶ崎は不安そうな顔をこちらに向けて、ぽつりと言葉を零した。

 決して、自分を取り囲む温かな想いを怖れたからじゃない。

 昨日の様々な出来事を通して、僕は母さんの願いを正しく受け止めて、自分を見つめ直すことを選んだ。僕はもう視野を狭めることを止めて、成長するために、他者に抱く感情に向き合うことを心に決めた。幸福だけでなく不幸が付き纏う、そんな人との繋がりと向き合って、たとえその落差で僕自身がどれだけ苦しんだとしても、もう臆病になって逃げたりはしない。

 不幸を怖れて、幸福から目を背けたりしない。

 だからそもそもとして、僕が凛ちゃんのライブに行かないことを選んだ理由は、僕の心情とは全く関係がない。本当にこれっぽっちも関係がない。ただ現状を理知的に鑑みた時に、僕がライブに行くと不利益が生じるというだけだ。

 僕はそれを伝えるために、城ヶ崎達に向かって口を開く。

 

「僕は今、凛ちゃんと仲違いをしている。それも先週のライブが切っ掛けだ。だから、もし僕が彼女の舞台を見に行って、そんな僕に彼女が気付いた時、その集中を邪魔してしまう可能性は大いにあるんだ。僕が彼女に向き合う気持ちを固めていても、彼女の大切な舞台でそれを押し付けるのは違う。物語のように大きな転機や行動を通して、気持ちを伝えたり、確かめたりする必要はない。現状の僕が一番大切にしなければならないことは、彼女の今を邪魔しないことなんだ」

 

 僕がいたから、彼女は前回のライブでベストを尽くせなかった。自意識過剰でもなんでもなく、事実として僕が笑顔でその場にいれなかったから、彼女の動きを鈍らせた。

 彼女が僕をどう捉えているのかは分からない。けれど、ライブ中の彼女が、客席にいる近しい人間のことを強く感じ取ってしまうことは間違いない。そして、その相手に大きく影響を受けてしまうことも確かだ。つまり、観客の顔がよく見えるライブ会場に僕がいること自体が、彼女のパフォーマンスに響く可能性がある。

 もし今の僕が、何のフィルタもなく彼女の舞台を見て、その素晴らしさに笑顔になれたとしても、同時に大切な人だったと実感して、遠い存在になってしまったことに、締め付けられるほど胸が苦しくなっても、そんなことは二の次で良い。

 『これからはちゃんと君自身に向き合ってみせる』なんて意思表示を、わざわざ彼女の集中を乱してまで、言葉にして明確に語れもしないのに、突発的に客席で伝える必要なんてない。

 別になにもおかしな話ではない。

 受験当日の学生に、愛の告白をして心を乱すような人間は空気を読めという話であるし、作業に集中している時に、声を掛けられるのは迷惑なだけという話だ。

 言葉じゃなくて行動で表した方が気持ちが伝わるなんていう、自己中心的な思考を彼女の大切な舞台で押し付けるのは、愚かな行為だ。

 僕が彼女をどう考えているとか、これからどう向き合いたいだとか、そんなことを伝えるのは、渋谷家二階のリビングでも、道端でもどこでも良い。お互いに時間のあるときに、彼女の気持ちに余裕がある時に時間を取れば良いだけだ。

 

「だから、ここまでしてくれた皆には申し訳ないけど、僕は行かない」 

 

 彼女の晴れ舞台からもう目を逸らしたくないし、彼女に会いたいと思っていることは確かだ。

 けれど、自分の願望を押し付けることと、誰かを想うことは違う。

 それを分かっていながら、皆が行けと言っているからなんて、周りの人の言葉でライブに行く自分を正当化したくない。多くの人が僕の為に行動してくれているからこそ、僕は僕の判断と責任で行かないことを選ぶ。

 心優しい人達に責任を押し付けて仕舞えば、僕は『護られる』のではなく、ただ『依存する』だけの人間に成り下がる。僕にとってそれは、決して許せない行為だ。

 

「駄目よっ!」

 

 突如背後から聞こえた大声に、思わず僕は振り返る。するとそこには、学校では既に馴染み深くなった人物が、肩で息をしながら立っていた。

 

「……要?」

「はぁはぁ、あなたは、絶対に私達とライブに行かなきゃ、駄目よっ」

 

 黒のロングスカートを揺らす要は、いつもは整えられているふんわりパーマの黒髪を乱していて、苦しそうに白い衣服に包まれた胸に手を置きながらも、必死に僕に向かって首を振った。

 そして、一度大きく息を吸い込んだ要は、僕の瞳を真っ直ぐ見つめながら、再び叫ぶ。

 

「あなたに来てほしいのは、私と佐山君だけじゃない! 舞台に立つ凛さんだって、同じ気持ちなんだから!」

 

 

 ◇◇◇

 

 

「こっちだ、急げ!」

 

 サザンが先導し、僕達はショッピングモールの通りを走る。

 休日ということもありショッピングモールの人混みは多く、家族に連れられた子供の声から、友人同士で笑い合う声など鼓膜を揺らす。数秒ほど前から目を離せば人とぶつかってしまいそうな通りを縫うようにして掛ける僕達を、おかしそうに眺める人や、嫌悪の表情で見つめる人もいる。

 けれど、サザンも要も、全く気にしたような素振りはなく、ただライブに間に合うことだけを目指して地を蹴る。

 僕はそんな二人の後ろ姿を視界に収めながら、何故彼らが凛ちゃんの気持ちを知っているのか、そして彼らがどうしてここまでしてくれるのか、移動中の車内で聞いたその理由を思い出す。

 僕が二人との約束を反故にして、一緒にライブを観に行かないと伝えた時。彼らは僕の態度に違和感を覚え、その原因を知るために、サザンと交流があるおじさんのもとを訪ねたらしい。そこでおじさんを通じて、僕と凛ちゃんが仲違いしたこと、けれど彼女が僕のライブ参加を望んでいることを知った。そしてそんな事情を聞いた彼らは、僕を説得してライブに連れて行くことを、彼女に約束した。

 事のあらましを聞いた時の僕には、なんとも彼らの目的が分からなかった。

 僕の言動がおかしかっただけで、どうしてその原因を知ろうとしたのか。そのために、何故近しい間柄でもないおじさんのもとを訪ねたのか。当時の意固地な僕をライブに連れ出すなんて面倒な役割を、なんで自発的に引き受け、態々彼女に約束したのか。

 その行動の理由が思いつかなかった。その強い想いを支える何かを、彼らの中に僕が紡げていたとは到底考えられなかった。

 僕がサザン達に与えられたものなんて数えるほどもなくて、むしろ与えられる側だった。

 声を掛けるのはいつもサザンで、346カフェのアルバイトを紹介してくれたのは要で、僕の知るアイドルの情報は、二人から教えてもらったものだ。

 『家族以外の他人なんてどうでもいい』なんて斜に構えていた僕は、彼らとの関係を娯楽だと割り切って、彼らの優しさに甘え、それに気付くことができなかった。

 いや、むしろ怯えていたんだろう。この関係が所詮高校生活の三年間しか続かないものだと考えて、たとえ続いたとしても、隣で笑い合うことが当たり前な日常は今この時だけだと決めつけ、恐れていた。

 伸ばされた掌は、少し触れるだけで心地よい温かさを返してくる。その温かさを認めないことで、僕は自分を護っていた。彼らはそれを受け入れることで、僕を護ってくれていた。

 彼らの優しさによって一方的に繋がり、護られていたこの関係のどこに、彼らの強い原動力たり得るものがあるのだろうか。彼らの優しさに向き合う覚悟を今の僕が持っていたとしても、過去の僕が積み上げたものに――彼らの中にある僕に、一体どれほどの価値があるというのだろうか。

 僕には分からなかった。

 

『中学の頃から今に至るまで、わざわざ自分から嫌いな奴に話掛けるわけねぇだろ』

 

 サザンはそんな僕に、いつものぶっきらぼうな素振りで言った。

 

『あなたは、人と変わった私を受け入れて、変わらないまま一緒にいてくれるから」

 

 要はそんな僕に、朗らかに笑いながら言った。

 走って胸が苦しいはずなのに、あの時の二人の言葉を思い出しただけで、僕の口角は自然と上がってしまう。溢れ出す感情が、僕の体を押し出す大きな力となって、足先は地面を強く蹴り上げる。

 ずっと不安だった。僕は母さんの真意に気付いてから、これまでの空虚な自分に自信が持てなくなっていたからだ。自分の生き方は中身の伴わないもので、自分の承認欲求を満たす為だけの取り繕った行動は、僕にとって何一つ誇れるものではなくなったからだ。

 過去の多くの繋がりが、現在の観測では酷く空しく映り、自分が誰かに好意を向けられるだけの人間だと思えなかった。 

 僕の周りには、優しい人が多すぎる。僕はその優しさに護られて生きていた。僕の繋がりは、その優しさを拠り所にしていたに過ぎないと、そう考えていた。

 けれど彼らの言葉は、過去の空っぽな自分を満たすには有り余るほど十分なものだった。彼らに好意を持ってもらえたことが、過去の自分を肯定できる誇りになると気付くことができた。

 一度気付いてしまえば、視野が広がった。

 必死になって僕を連れ出そうとしてくれた城ヶ崎と前川、笑顔で送り出してくれた安部さん、彼女達を目の前にして、僕が言葉にできなかった感情は、まさしく誇らしさだったんだと思う。魅力溢れる周囲の人達が、僕の為に行動してくれたことが誇らしかった。

 母さんが言っていた『優しい強さと好意』を得ることは、この経験を何度も積み重ねていくことなんだろう。

 誰かの『好意』を写真のように切り取って、アルバムのように多くの誇れる自分を集めて、どんなに辛く悲しくても、誰かを『優しく』思い遣れるような『強さ』を得ていく。

 僕の名前には、そんな意味が込められている。

 

「もう始まってる!?」

 

 前を走る要が、焦ったように声を上げる。

 僕の耳にも、遠くからスピーカーを通して響き渡る声と音楽が届く。僕が腕時計を確認すると、既に長針は十二を過ぎ去っていた。

 サザンは走る足を止めず、隣の要に少しだけ視線寄越して口を開く。

 

「落ち着け要! 聞こえてくんのは、まだ一番のAメロだ!」

「ほんと!? あ、ほんとだわ! これなら、Bメロの間くらいには着けるわね!」

 

 凜ちゃんのデビュー曲が公開されて未だ一週間程度しか経っていないというのに、サザン達は曲をしっかり覚えているのか、ここからステージまでの距離をメロディで換算する。

 

「正確には、凛ちゃんが一人で歌う部分くらいか」

「それだ!」

「それよ!」

 

 まあ、僕も覚えているが。

 そうこう話しながら走っているうちに、僕達の視界はライブ会場であるショッピングモールの広場を捉える。

 ショッピングモールの広場は二階から三階までがくり抜かれたような吹き抜けの形状をしており、天井を直に見上げることができる。現在の広場は一部の明かりが消されてその周辺が暗くなっていて、上階のくり抜かれた部分の外縁には落ちないように透明の手すり、それに沿うように設置されたエスカレーターを背後に、前回の初ライブと同様、カラフルにライトアップされた城のようなステージが確認できる。

 ステージに近づくごとに、目の前の人混みは群衆と呼べるほどの密度まで高まっていき、通りから広場の境を越えれば、人が通れるような隙間を見つけることが難しくなる。

 学校の昼休みに聞いたサザンや要の話だと、彼女の所属するCP――シンデレラガールズプロジェクトは、前回のショッピングモールでの大規模な演出の初ライブが功を奏したらしく、SNSなどで劇的に注目を集めている。

 確かにアイドルに詳しくない僕にとっても、前回のライブは目を見張るものがあり、その特異性はアイドルファンにとっても、一般人からしても明らかだっただろう。

 ショッピングモールという誰でも無料で自由に観られる会場、言い換えれば、収益は何一つ生まれず、広告活動以外の意味がない舞台にも関わらず、それに掛ける費用は見るからに膨大なものだった。飛び出る絵本のように立体的な構造をした城の舞台セットを用意し、スタンドライトやフロントライトなどの劇場さながらの照明機材を用いて、事細かにステージを彩っていた。

 その素晴らしい演出は、駆け出しのアイドルに用いるものとして常軌を逸しており、老舗の一大芸能プロダクションが主催するとはいえ、安定した集客さえ見込めない新人アイドルが初めて立つものとしては、狂っていると言っても過言ではないほど高価だと思う。

 実際、前回のライブでは観客の姿は疎らであり、その多くが通りすがりの人だった。もしかしたら彼女達のライブがメインの目的で訪れた観客の方が少なかったかもしれない。

 経験豊富な企業である346プロが、凛ちゃん達の経歴――同プロダクションの大人気アイドルのバックダンサーを演じ、幾つかのテレビやラジオの番組で宣伝を行ったというだけで、その認知度を高く見積もってしまい、実際の動員数に対して多額の費用をかけたとは考えづらい。

 おそらく346プロダクションは、多くの人にこのCPを注目させるマーケティング戦略として、大きな話題性を生み出すことに注力したのではないだろうか。

 イルミネーションのように綺麗に彩られた大規模な城の舞台セット。346プロダクションは、敢えて過度ともいえる非日常的な演出をショッピングモールという身近な日常の中に入れ込むことで、多くの人の興味を沸き立たせ、より心象に残る状況を生み出した。また、写真や動画という情報量の多い媒体で見栄えする演出を行うことで、観客となった人達が、SNS上で思わず誰かと共有したくなるようにライブをプランニングした。

 そう考えれば、居合わせた観客の誰かがアップロードしたライブの写真や動画がSNS上で注目を集め、それを皮切りに動画サイトの346プロ公式ライブ映像が視聴され、再生数を劇的に伸ばすことになったのは、偶然の産物だとは思えない。

 大きな力と基盤を持つ大手プロダクションの強みをうまく利用した方策であり、人を掌の上で踊らせるような末恐ろしい手腕は、見事と言う他ないだろう。

 凛ちゃんが346プロにアイドルとしてスカウトされたと聞いた当初は、怪しい宗教の勧誘に近しいものさえ感じていたが、346プロの策略にはまった観客によって、僕らがステージの仔細がなんとか見える距離までしか近づけない現状から察するに、名実ともに有数のプロダクションだと認めざるを得ない。

 観客という名の分厚い壁によって仕方なく足を止めた僕たちは、息を整えながらも凛ちゃん達が踊り歌う姿を見上げる。

 彼女達――『ニュージェネレーションズ』の衣装は赤色で纏められていて、赤い学生帽を斜めに被り、襟がフリルのワイシャツの上に赤いショートジャケットと、腰の高い位置で留められた赤いスカートを着ている。

 それぞれのメインカラーによって、青、ピンク、黄色のリボンを身に付けており、彼女達を照らし出す個々のスポットライトもまた、同じ三色が割り振られている。

 彼女達が近づけば混ざり合い、舞台の城と共に彩りを変える様は、七色に輝く宝石のように煌びやかで調和を感じさせる。万華鏡のように時々で全体像が移り変わるステージは、観ている人の瞬きすら惜しくさせるだろう。

 そんな光景の中心にいる彼女は、いつも以上に綺麗で、それでいて可愛らしい。

 彼女の澄んだ声は、楽しそうな曲調に合わせて、晴れ晴れとした明るい感情を伝える。スラリと伸びた白皙の足を軸に身体が動かし、揺れる身体に連なって靡く艶やかで長い黒髪は、柔らかい曲線の像を生み出す。翡翠の瞳は、彼女の好きな青い光を反射していて、夜空に浮かぶ一番星のように輝き、その存在を知らしめる。いつもクールで喜怒哀楽が小さい彼女の表情は、幸福に溢れている。 

 この舞台の前で彼女の姿を観ることを考えた時、寂しさを感じなかったといえば、嘘になる。彼女自身に向き合うと決めた今だからこそ、僕はそれをより強く感じていた。

 僕にとって彼女は当たり前に側にいる存在で、会わない方が珍しいくらい一緒の時間を過ごしていた。おじさんが言っていたように、大切な人が離れていくことを悲しく思うことは当たり前のことで、その距離が演者と観客という関係で明確に現れる舞台に、どこか物寂しさを抱かないことはない。

 だから、この舞台を見つめる時、僕に去来する感情は決して単純なものではないと思っていた。

 張り詰めた心を表出するように肩肘を張って、耐えるように拳を強く握りしめて、それでも、彼女の願いを応援すると決めた僕は、確かな喜びに口角を上げるんだと、そう考えていた。

 けれど、その予想は大きく外れた。今彼女の舞台を眺める僕は、胸の内から止めどなく沸きでるたった一つの感情に支配されている。

 これまでの僕にとって、彼女を想う気持ちは母親に対するような家族愛じゃなければならなかった。僕が僕でいるためにそれが必要だった。

 彼女の怒った顔が、母親と一番似通っていたその表情が、一番好きでなければならなかった。そう考えていなければ、僕は彼女と向き合うことができなかった。

 けれど、そんなのは勿論思い込みでしかなくて、幼稚な言い訳に過ぎない。

 何年も彼女の隣にいて、共に時間を過ごしてきた僕にとって、彼女は誰でもない『渋谷凛』でしかなくて。彼女の怒った顔は、彼女が見せる魅力的な表情の一つなだけで。だから僕が本当に一番好きな彼女の姿は別にあって。

 噛み締めるように幸せを感じる姿が好きだ。時々分かりやすいくらい表に出る幸福な姿が好きだ。

 彼女にアイドルになりたいと伝えられた時、彼女の進む道を素直に応援したいと思えた一番の理由は、喜びや楽しさに包まれる彼女を見たからだ。その先にある彼女の幸せを、僕が見てみたいと思っていたからだ。

 そんな彼女の姿が、今僕の瞳に映っている。それなのに、寂しさなんて、悲しさなんて感情にかまけていられるはずがない。

 舞台の上に立つ三人が一緒に歌い出したと思えば、曲調が変わる。最後のサビに入ったのだろう。元気を表現するように歌われる曲が、モール内を震わせるように響き渡る。

 

「『誰かを魅せたい』と想うこと、それがアイドルの魅力なのかもしれない」

 

 隣から要の声が聞こえた。ただ自分に語りかけるように、添えるような声音だったが、ステージと距離が離れていたことで、その声は周囲の音に飲み込まれることなく僕の耳にまで届いた。

 その言葉は、要が見ず知らずの僕の元を訪れてまで、アイドルの幼馴染みである僕に尋ねた質問の答え。女性アイドルが大好きで、自分らしくありながらもアイドルのような魅力的な存在になりたい願う要が、多くの人に投げかけ続けた問いかけ――『アイドルたり得る人物の共通点』、その結論のように思える。

 僕と同じようにその声を聞いていたサザンは、要に問いかける。

 

「なんでそう思ったんだ?」 

 

 要は心底嬉しそうに言葉を返す。

 

「恋をすると女性は綺麗になる。それは、魅せたい誰かがいるから。それなら、誰かを魅せる仕事を望んだ彼女達が、綺麗にならないわけない、魅力的に映らないわけない、そう思ったの」

 

 彼女達が曲を歌い終える。そして、後奏の最後に合わせてダンスを踊り終える。

 スピーカーから流れる音が完全になくなり、周囲の音が一時的に有り触れた日常に戻る。けれどそんな時間はほんの一瞬でしかなくて、多くの観客がその日常を掻き消すように賞賛の拍手を送る。

 それに対して、ステージの島村や本田は手を振りながら感謝の言葉を返す。その顔は純粋な笑顔を浮かべていて、胸中の喜びを感じさせた。

 そんな二人の間で、凛ちゃんは真っ直ぐに観客の姿を見つめていた。荒れた息を整えるように胸に手を置き、肩を少し上下に揺らしながら、ずっとその瞳の焦点を観客の後ろ側――僕の方へ向けていた。

 その表情は、ライブを成功させた喜びに満ちていたが、その内に何かを抱えているように見えた。

 彼女がこの舞台に込めた多くの感情がその瞳の奥に隠れているようだったが、僕はそれらの感情を把握することも、想像することさえもできない。それにも関わらず、僕には彼女が何かを求めているような気がしてならなかった。

 そんな彼女に対して、群衆の中にいる僕ができることなんて高が知れていて、そんな現状を打開する上手い手段も立場もありはしなくて、そもそもとして『彼女が何かを求めている』なんて考えは、僕の独りよがりの主観的な観測によるものでしかない。それでも、僕は彼女に何かを伝えなくてはならない、そう思った。

 これまでの僕は臆病で、大切な人は家族だけだと絞り込むことで自分を護っていた。家族のように明確な繋がりがなければ、不安定な関係にある他者を、大切に想うことが不安だったからだ。停滞を望んで、心の成長を拒絶していた。

 そんな僕と真剣に向き合って、ずっと側にいてくれたのが彼女だった。

 事故で亡くなった母親が生きていると盲信した幼い僕が、その存在を身勝手に彼女に押し付けて始まった関係は、ふとした出来事を切っ掛けに、僕が正しく彼女と母親を別の存在だと理解した後も、続くことになった。

 その理由は、僕が彼女の側にいることを望んだからだ。これまでの僕にとって大切な人は家族だけだったはずなのに、他人であるはずの彼女を僕が大切に想っていたからだ。

 振り返れば、その始まりは二人で共に泣いたあの時からだったのかもしれない。

 僕が側にいることを望んだ、孤独に苦しむ幼い彼女を通じて、自身の胸に潜む寂しさに涙を流した時、同時に僕は、父親や親しい人との別離によって捨て去ることを決めた、他人を大切に想う気持ちを取り戻していた。抱きしめた彼女の温もりが、僕の震える身体に心地よい熱をもたらしてくれて、彼女のことを手放したくないと、側にいてほしいと、そう思えていた。

 けれど、これまでの僕には踏み出す勇気がなくて、母親と似通った彼女の姿を免罪符に、彼女のことを大切に想う自分を許していた。

 ずっと心の奥底で、罪悪感のようなものを抱いていた。彼女の瞳は僕を映しているのに、僕は彼女の姿を見ていない。臆病な僕が彼女と築ける関係は、不義理な紛いものでしかなくて、僕はそれを自覚しながら、何年もの間それに縋っていた。

 そんな僕に、彼女が傷付き、怒りや悲しみを覚えるのは当然だろう。

 彼女は何年もの間、僕の弱さを指摘せず、僕の我が儘を聞いてくれていたのに、僕は彼女の初ライブを、その真剣な努力と成果を、『渋谷凛』としてではなく、母親の面影を感じる誰かとしてしか向き合っていなかった。

 愛想を尽かされてもおかしくない、顔を見るのも嫌だと、拒絶されてもおかしくないはずなのに、彼女はそんな僕を見限ることなんてしなくて、僕が今日のライブを観に来ることを望んでくれていた。

 臆病な僕がどれだけ彼女を傷付け、悲しませたとしても、向き合うことを選んでくれた。

 どうすれば、この感謝を、この喜びを、この幸福を伝えられるのだろうか。

 思考という段階を踏んでその答えへ辿り着くより先に、僕の体は動きだす。

 大きく息を吸い込んで、喉を震わせ叫ぶ。

 

「僕は、君が好きだ!」

 

 ひたすらに心を駆け巡り続ける感情を、言葉に変えた。

 拍手と混ざり合って雑多な音になってしまっても、周囲の観客が驚きで口を閉ざしてしまっても、彼女に僕の感情が伝わっているというのなら、構わない。

 僕はただひたすらに彼女の瞳を見つめ、肺に込めた空気という燃料を全部使って、思いの丈をぶつけた。

 僕の声が彼女に届く。

 彼女は、最初にその瞳を丸々と開いて、

 次に、泣き出しそうなくらい眉を寄せて、

 そして、最後に――。

 

 ――満開という言葉が似合う、とても魅力的な笑顔を浮かべた。

 

 

 ◇◇◇

 

 僕は、人通りが少ない住宅街の道を一人黙々と足早に進んでいた。

 夕暮れ時の風景は、その日の終わりを感じさせる。空に浮かぶ太陽は最後の大仕事として、周囲を紅色に染め上げ、点在する街灯は、一足先に夜に向かった暗闇を照らし出す。

 食欲を掻き立てる料理の香りが、近所の家から風にのって伝わる。

 遠くからは車の走る音が聞こえ、それに混じって、別れの挨拶をする子供の高い声が耳に届く。

 籠にボールを入れて自転車に乗る子供とすれ違ったことで、目的地までの距離が近いどころか、既に視界の中に小さく捉えていることを再度認識する。

 六月の今日の気温は、温かいというよりは暑い。残照とはいえ、未だ陽光でオレンジ色に染まる歩道は熱を保ち続けていて、ランニングのような運動をするなら、もう少し冷えるのを待った方が快適だろう。しかし今の僕は、目的地へ早く辿り着きたいと逸る気持ちばかりが前に出て、駆け足気味で始まった歩行速度の変化は、次第に疾走と形容できるまでに達していた。

 目的地の入り口に到着した僕を迎えるように、近くの木々が風によって揺れ動き、葉擦れの音を響かせる。

 僕の家の近所からは二番目に近いこの公園は、決して大きいといえる程ではない。春は公園の外周に沿うように立ち並ぶ桜が綺麗だと、花見に来る人もいるみたいだが、今はその桜の木々は緑溢れる葉を携えているため、公園に来るのは子供か散歩に来たお年寄りばかりだ。

 今のような夕暮れ時の時間帯ともなれば人がいる方が珍しくなり、周囲を見渡しても、奥の茶色いベンチに座る一人の女性と、その手に握るリードに繋がれた一匹の小型犬しか見当たらないほどだ。

 僕は、走って早まった心臓の鼓動を抑えるために深呼吸を行ってから、足を進めて女性が座るベンチに近づく。

 僕の足音に気付いたのか、女性の足下にいた小型犬――ハナコが耳を揺らしてこちらに振り向いた。ハナコの頭を撫でていた彼女も、その変化に気付いて顔を上げる。

 彼女は、薄い青紫色の襟が広いティーシャツに、濃いジーンズを身に纏っていて、首元には花を模したネックレスが輝いている。陽光で凹凸がしっかりと確認できる彼女の顔はいつも通り綺麗で、僕よりも幾分か鋭さが足りない、長い睫毛を伴ったつり目が印象的だ。

 

「こんにちは、凛ちゃん」

 

 ベンチの前に辿り着いた僕は、挨拶と共に彼女の名前を呼んだ。

 そんな僕に対して少し驚いた表情を向けていた彼女は、首を少し傾けて、長く艶やかな黒髪を軽く揺らすと、続けて口を開く。

 

「なんでここに?」

「凛ちゃんの家に行ったら、散歩中だっておばさんから教えてもらったんだ。だから、君に会いに来た」

「……それなら、態々こっちに来なくても携帯に連絡してくれればよかったのに。すれ違いになったらちょっと面倒じゃない?」

「僕の携帯、充電が空っぽなんだよ」

「お母さんに連絡してもらえばいいと思うけど。それで、家で私の帰りを待っとけば」

「帰りなんて待っていられないくらい、君に早く会いたかったんだ」

 

 僕が自分の気持ちを素直に伝えると、彼女はいつも通りの落ち着いた態度のまま、左腕のシャツの袖を右手で巻き込むように握りしめて、「ふーん」といつも通りに感嘆詞を述べながら、その顔を僕から逸らした。

 僕は、ズボンを鼻で突いて自身の存在を伝えてくるハナコのために腰を折り、その茶色の毛で覆われた首筋を撫でてやる。

 ヨークシャー・テリアとミニチュア・ダックスフンドの血を引くハナコの外見は、前者の比重が非常に大きい。

 そのため、その毛は遺伝的に長く絡まりやすいはずなのだが、よくブラッシングしてもらっているおかげで指通りがよく、滑らかで心地よい手触りを保っている。

 僕は、首を伸ばして気持ちよさそうなハナコに視線を向けながら、凛ちゃんに語りかける。

 

「僕はさ。今日のライブ、本当は観に行くつもりじゃなかったんだ」

「……うん、知ってるよ」

 

 彼女は呟いた。

 

「僕があの場所に辿り着けたのは、サザンや要、多くの人が僕の為に動いてくれたおかげなんだ。……君が望んでくれたから、僕は今日という一日を、幸せな思い出にできた」

「……アンタには、ちゃんと観てほしかったから」

 

 彼女は優しく言葉を紡いだ。

 

「ライブ、すごく楽しかったよ。凛ちゃんは普段から美人さんだけど、それがより際立ってた気がする」

「……」

「僕は歌とか踊りに関してド素人だから、その点は『すごく良かった』って、そんな簡単な言葉でしか胸の内にある感動を伝えられない。でも、色とりどりに輝く舞台の上で素敵な衣装に包まれた君の姿は、ずっと君を写真に収め続けた僕が太鼓判を押すくらいには、綺麗で、可愛くて、魅力的なものだったと思う」

「……ありがと」

「一緒に観たサザンや要も楽しそうにしてたよ。ライブが終わった後、三人で食事したんだけどさ。料理そっちのけで、ライブの話ばかりしてたんだ。アイドルの話をする時はいつも僕が聞き役になるんだけど、今回に限っては二人に負けないくらい僕もよく喋ってたんじゃないかな」

「……そう、なんだ」

「まあ、島村達の話になると、二人と違って僕は全然喋ることがなかったけどね。僕は、君のことばかり見ていたから」

「……見ないと勿体ないよ。二人とも可愛いから」

「じゃあ、その二人よりも可愛い君から目を離すのは、勿体ないどころじゃないね」

 

 僕が笑いかけながら、視線をハナコから彼女の方へ上げると、逸らしていた視線をいつの間にか戻していた彼女と、目が合った。

 その表情は、照れくささを隠しきれないはにかみ笑いで、幸福感に浸るような笑みだった。

 いつもはキリッとした印象を与える眉間は弛緩していて、眉尻が下がっている。小さく開いた唇の両端は、赤い頬に伴い押し上げられていて、柔らかな曲線を描いている。その瞳は夕日に照らされた影響か、普段よりもずっと煌めいているように見えた。

 普段の無愛想でクールな彼女が浮かべるものとしては、あまりにも分かりやすくて、優しく甘い表情だった。

 僕の視線に気付いた彼女は、驚きを表すように瞼を大きく開いた。そして数秒も経たない内に、まるで逆上せてしまったかのように顔が真っ赤に染まっていく。

 眉を八の字にして、口をぎゅっと結ぶと、慌てたようにしゃがみ込む僕の顔に手を伸ばしてきて、僕の両目を手で覆い隠した。

 

「えっ」

 

 僕は突如訪れた視界の変化に呆然としてしまう。

 現状の僕に感じ取れるものは、近くで聞こえる彼女の吐息と、少しだけひんやりとした彼女の掌、そして手元のハナコを撫でる感触だけだった。

 

「あの……、凛ちゃん? なんで?」

「……アンタのせいだから」

「僕のせい?」

「褒め殺そうとしてきた」 

 

 風で木々がざわめく音が鳴り響くと同時に、彼女から花の甘い香りが届く。

 花屋に通い続けた僕の知識と経験を照らし合わせれば、それが、今の季節に最も花を咲かせ、香りを楽しむ三大香木の一つである、クチナシの香りだと分かる。

 クチナシはその甘い香りを風に乗って運ぶことから、『喜びを運ぶ』という花言葉を持っている。

 

「いや、でも僕、普段からあれくらいは言ってたと思うんだけど?」

「……そうだけど、いつもと違って、真面目な顔と声で話すから」

「そう言われると逆に、今までの僕がどんな感じだったのか分からなくなってきた」

「……貼り付けたような胡散臭い顔、取り繕ったような軽い声だった」

「それは……参ったな。僕は凛ちゃんに一生嘘を吐けないかもしれない」

 

 欺瞞でしかなかった僕の態度を、しっかりと彼女は見抜いていたらしい。

 これまでの自分を振り返って、思わず苦笑してしまう。

 そんな僕の耳に、彼女の息を呑む音が聞こえてくる。程なくして彼女は、鈴を転がすような声を響かせる。

 

「だから、……ずっと嫌だったんだ。アンタのそんな所が大嫌いだった」

 

 暗闇の中で聞こえた彼女の声は、何年も積み重なった感情が詰まっているように思えた。

 僕は自身の両目に覆い被さる彼女の手を握り、優しく力を込めて動かす。何の抵抗もなく彼女の手は視界から外れ、閉ざされていた瞳に光が戻った。

 僕は足元にいるハナコを一撫してから、曲げていた膝を伸ばして立ち上がる。そして、ベンチに座って俯く彼女に向かって、僕の気持ちを言葉に変える。

 

「これまで、君とちゃんと向き合わなくて、ごめん」

「……うん」  

「君を傷つけて、君の気持ちを考えないで、酷い言葉を言ってしまって、ごめん」

「……うん」

「これからも仲良くしてほしい。誰でもない君自身が好きだって、僕はもう言えるから」

 

 僕が言葉を伝え終えても、彼女の顔は下を向いたままだった。

 けれど、彼女はベンチからゆっくりと立ち上がって、僕との少ない距離を縮める。そして、その額を僕の左肩に押し当てると、両腕を僕の背中に回してぎゅっと抱きしめてくる。

 

「私も、アンタが――護のことが好き」

 

 彼女は僕の首元に顔を埋めて、囁くように声を発した。

 もし僕の視界に彼女の赤く染まる耳が映っていなければ、頬に触れた彼女の髪に少しのくすぐったさを覚えなければ、彼女の心臓から伝わる大きな鼓動を感じなければ、その言葉を信じることができなかったかもしれない。

 

「嬉しいよ」

 

 僕の感情は、笑みと共にすぐに言葉に表れた。驚きや戸惑いなんかよりもずっと早く、僕は彼女に好意を抱いてもらえたことに、幸福を抱いていた。

 

「凛ちゃんには散々迷惑掛けちゃったからさ。実は本気で嫌われたりしてないか、ちょっと心配だったんだ」

「……嫌いな人に、自分の舞台を観てほしいなんて、思ったりしないよ」

「凛ちゃんはほら、見た目の割には優しいからさ」

「喧嘩売ってる? ……というか、私が伝えた言葉の意味、本当に分かってる?」

 

 声音でしか判断できないが、なんだか彼女は不服そうだった。

  

「分かってるよ。僕も君が好きだ」

「……ばか、やっぱり分かってない」

「いや、分かってるって。僕のこと、男として好きってことでしょ?」

 

 彼女は驚いた表情で顔を上げ、僕を見上げた。

 慣れない感情を言葉にしたせいか、未だに彼女の頬は赤く染まったままで、唇が少し震えている。

 

「流石に分かるよ。凛ちゃん、そんな簡単に好きって言ったりしないし、なんか滅茶苦茶心臓ドキドキしてるし」

「え……?」

 

 彼女のはっと我に返った表情をすると、恥ずかしそうに唇を固く結び、また僕の肩と首筋の間に顔を隠した。そのまま僕の背中をばんばんと掌で軽く叩いてくる。

 なんとも愛らしい仕草に、僕は彼女の頭を優しく撫でながら笑った。

 

「ははっ、凛ちゃん、さっきから照れ過ぎだよ」

「う、うるさい。全然心臓がドキドキしてないアンタの方がおかしいよ、絶対」

「凛ちゃんに抱きしめられてると、むしろ僕は落ち着いた気持ちになるよ。やっぱり、男の僕より全体的に曲線的で柔らかくて気持ちいいし、花屋の娘特権で身体から花の良い香りもするから、リラックス効果が高いんじゃない?」

「……なんか、冷静な態度で詳らかに抱き心地を言う人って、凄く変態っぽいよ」

「そんな変態に、アイドルが抱きついたままでいいの? 周りに人はいないけど、一応公共の場だよ?」

「それは……、駄目……だと思う、けど。……アンタは、離れていいの?」

「まあ別にそこまで問題ないけど」

「……なに、その返事」

 

 僕の答え方が彼女の癪に障ったのか、声が威圧的なものに様変わりする。照れて赤みが戻らない耳が邪魔して、その迫力は皆無と言ってもいいが、抱きしめる力が若干強くなっていて、物理的に圧を掛けてくる。

 

「私ってそんなに魅力ないの?」

「いやいや、今日ここで会ってから僕、凛ちゃんの魅力について結構語ってるよ? 僕の褒め言葉に照れ笑いを浮かべていた凛ちゃんはどこに行っちゃったの」

「……だって、私はこんなにドキドキしてるのに、アンタは平気な顔してるし。それに……今も、その……、私だけだから」

「ん? なんのこと?」

「……全然、抱きしめ返してくれないから」

 

 彼女の声量は尻すぼみに小さくなっていった。風に煽られて消えかかるマッチ棒の火のように、その存在は弱々しいものへと変わっていった。

 心からの好意や恋愛事に慣れていないのか、途端にポンコツになりだした彼女。いつものクールな態度は消え去り、強い意志を感じさせる瞳が僕を見つめることはなく、情緒の不安定さが言葉の端々から伝わってくる。

 僕はそんな彼女を、右腕を使って背中から優しく抱きしめる。びくりと揺れる彼女の肩を気にせず、その頬に左手を添えて、顔を上へと向けさせる。

 見つめ合うお互いの顔は、息が混じり合うような距離になった。間近で見つめる彼女の瞳は、いつもより潤んでいて、夕暮れの赤い光を受けてきらきらと反射していた。

 

「……凛ちゃんは今、アイドルだからさ。君がアイドルとして頑張っている間は、こういうこと、僕は我慢するつもりなんだ」

 

 そう言って僕は、薄い桃色の唇に、触れるだけの軽い口づけを交わす。

 温かなその唇は、瑞々しく心地よい柔らかさがあるけれど、緊張が伝わるような確かな硬直があった。

 体感時間にして数秒程度。そんな一瞬の間、僕らはキスをした。

 僕からゆっくりと唇を離す。

 僕の視界から全体像を把握できるようになった彼女の顔は、キスを終えても未だ呆然としたままで、それでも大きく開いた目は僕を真っ直ぐ見つめていた。

 僕はそんな彼女に宣言する。

 

「何度でも言うよ。僕――渋谷護は、渋谷凛のことが好きだ」

 

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