渋々   作:十郎

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02 学校と来年と罠

「お母さん、いってきます」

「はい、言ってらっしゃい」

 

 朝。それは一日の始まり。

 春の清々しい風が吹き、小鳥のさえずりが空に響き渡る。

 周囲は騒々しくなり、寂しい夜が明けたことを如実に示す。

 人それぞれが、自分の目的のために行動を始める。会社に向かう大人。学校に登校する学生。子供を送る母親。

 外を歩けば、多くの人とすれ違う。

 彼女の家は店が連なる通りにあって、学校には電車通学であるから、おのずと多くの人とすれ違うことになるだろう。

 でも、それは出会いではない。まして別れではない。

 同じ時間、同じ場所。一瞬を共にしているはずなのに、彼女と彼らは他人のままだ。

 すれ違う人の多くを覚えることはないし、認識することすらないだろう。

 だから、僕は彼女と出会えたことを、心から嬉しく思い、心から感謝している。

 いつか分からぬ終着点に辿り着くまでに、一分一秒を刻みつけるように、僕は生きたい。共に歩んだという思い出をたくさん作って、決して忘れたくはない。

 だから、今日も伝えよう――。

 

「――君を愛している!」

 

 花屋の玄関でストーカーという名の紳士になっていた僕は、今日も凛ちゃんに朝一番の愛を叫ぶ。

 

「止めて。うるさい。どっか行ってよ。私の目の前から消えて」

「はは。凛ちゃんは朝から太っ腹だね。まさか、今日の初罵声がこんな早くに貰えるなんて。……ふぅ、落ち着くよ」

「今日もマー君は絶好調ね……」

 

 凛ちゃんとおばさんの二人、家族そろって同時にため息を漏らす。

 僕の心の雄叫びを聞いてもあまり嬉しくないようだ。彼女の表情が芳しくない。むしろ嫌そうにさえ見える。

 

「やっぱり……世界の中心で愛を叫んだ方がよかったかな?」

「……セカチュウに謝って。アンタの汚れた愛と一緒にしないで」

「……ピカピ?」

「……ピカ○ュウじゃない。チュウしかあってないじゃん」

 

 そこで僕は左手に隠し持っていたボイスレコーダの録音を止めた。

 

「ふふ、僕の巧みな話術に誘導されて思わず言ってしまったね、『チュウ』という言葉を! これで、僕専用目覚まし時計――渋谷凛の目覚ましシリーズ第三弾! 『おはようを口付で』のボイス素材をゲットしたことになる。よっしゃっ!」

 

 僕は思わずガッツポーズを超える嬉し恥ずかしポーズ――バナナウアーを披露した。

 バナナウアーとはフィギュアスケートの技の一つ――イナバウアーのように背筋を全力で反らした状態で、バナナを食べる大技だ。バナナである意味は特にない。

 ただこのポーズを社会生活を送る皆様の前でとれるのは、滅茶苦茶頭のおかしい奴か、頭がおかしくなるほど何かがあった奴だけだ。総じて、ほどほどにしか頭がおかしくない僕は片方に絞ることが出来るため、自分の感情が猛烈に爆発したことを意味するポーズになるのだ。

 そんな美麗な僕の姿に凛ちゃんは酔いしれ、額に手を置きながら、本日二度目のため息をつく。どうやら、怒ることさえ億劫らしい。

 

「……ほら、学校行くよ」

 

 凛ちゃんはそう言って、制服のカーディガンポケットに手を突っ込むと歩き出してしまった。

 僕は慌てて体勢を立て直して、おばさんに朝の挨拶を交わし、ついでにバナナの皮を渡して彼女の隣に移る。

 バナナの皮を渡されたおばさんは、とても嫌そうな顔だった。

 ごめん、おばさん。

 でも、駅のコンビニまでゴミを捨てる場所がないんだ、許してほしい。

 僕は申し訳なさから振り返って、おばさんに投げキスをした。

 

 プロ野球選手もかくやとばかりの豪速で、バナナの皮を顔面に投げつけられた。

 

 ◇◇◇

 

 僕と凛ちゃんは毎朝一緒に登校している。これが僕達の日常だ。

 これは同じ学校に通うようになった中学生の頃からずっと続いていて、二人が別々の高校に通うようになった今年も変わらない。

 彼女は一緒の高校ではないから、僕と登校しないと思っていたらしいけれど、そんなことはなかった。理由は言わずもがな。僕が高校に進学しても、彼女の家に毎朝向かっているからだ。

 三年間も続けている日課を、高校が別々になったくらいで止めるはずがない。何より、この僕が彼女と共にいられる時間を、みすみす逃すなんてことは、彼女が自ら僕に抱きつくくらいありえない。

 だから、僕はこのためだけに、彼女の通う女子高校近くの共学高校に入学した。

 しかし、本当に残念なことは、学校でも彼女と一緒にいることはもうできないことだ。そのことを思い出すと、僕の学校生活が灰色に染まり、これからの高校三年間が、彼女と共に過ごす幸せの日々を搾取する害悪に思えて仕方がない。

 

「はあ……」

「ん? どうしたの?」

 

 朝から消沈している僕を見て、凛ちゃんは声をかけてくれた。

 彼女は基本的に優しい。

 それに加えて、人の感情の機微を読み取るのが得意で、人間観察力に優れている。見た目や振る舞いが無愛想に見えるけれど、相手の話を真摯に受け止める真っ直ぐな彼女の内面に触れてみれば、彼女の聖母のような温かみに包まれることになるだろう。

 僕はそんな聖母凛ちゃんに抱かれる妄想をいだきながら、彼女に僕の悩める悩みを相談する。

 

「僕……これからどう生きていけば良いのかなって」

「……え、えらく重い悩みだね。さっきまでアレほど馬鹿やってたのに」

 

 凛ちゃんの想像以上の悩みだったらしく、その瞬間の彼女の困った顔が僕の琴線に触れたので、僕はコンマ数秒で首に掛けたカメラのレンズを向けた。

 パシャ――。

 

「……やっぱり、悩んでないよね?」

 

 若干イラつく凛ちゃん。

 

「悩んでいるよ。……今の動き見たでしょ?」

「あの素早い動きを見て、どこがどうして悩んでるように見えるの? 煩悩まっしぐらだったけど」

 

 なんと!?

 驚愕の真実。

 凛ちゃんには、僕の動きがそんな邪なものに写っていたらしい。僕の中では、僕の動きの的確さ、俊敏さ、何よりカッコよさを見て、彼女はいつも僕に惚れ惚れしているんじゃないかと、そう信じたいと思っていた。

 いや、落ち着くんだ。……そうか、わかったぞ。彼女は僕の動きがいつもより精錬されていなかったから、魅力を感じなかったんだ。そうであるに違いないと思うことにしよう。

 

「いつもの僕なら、後一枚撮れる」

 

 僕はまだ本気を出していない、そう彼女に訴えた。

 

「一枚って……。あの短時間で二回もシャッター切れないでしょ?」

「ん、どうして二回?」

「……今の一回に、プラス一回だから、二回でしょ?」

「流石にそんな少なくないよ。あと一回プラスすれば、ざっと百枚くらいかな」

「えっ? 想像していたのと五十倍違う」

 

 クールビューティーな凛ちゃんはギョッと驚き、目を見開く。

 

「ふふ、冗談だよ。そのお茶目な表情頂きっ!」

 

 華麗なジョークから生まれた素敵な驚きをフィルムに収めるために、高速でシャッターを切った。

 パシャシャシャシャ――。

 そのまま、僕はカメラの画面で撮った写真を確認する。

 

「うん、バッチシ綺麗に撮れている。あっ、ちなみにさっきのは一枚しか撮ってないよ」

「……じゃあ、今のは?」

「二十枚程度」

「冗談?」

「違うよ。今回はホント」

 

 僕がそう言うと、凛ちゃんは首を振った。

 

「もういいよ、そういう嘘。枚数減らしたからって、流石に同じような嘘に二度も驚かないから。もうちょっとマシなの言ってよ」

 

 確かに僕はよく嘘をつく。利己のためだけに嘘をつく。流されるように嘘をつく。その自己保身と主体性のなさから、中学からのクラスメイトに「RPGなら、お前は不利な状況の仲間を悪びれることなく裏切る奴だよな」とお墨付きを頂く程度には嘘をつく。

 だけど、今回は本当だった。

 

「あのね、今回はカメラの連写機能を使ったんだよ」

「それでも、あんな一瞬で二十枚は取れないでしょ?」

「甘い、甘いよ凛ちゃん。このデジタルカメラは結構値が張る物だから、一秒間に大量の画像が撮れるんだよ。だから、あの短時間でも二十枚くらい余裕」

 

 デジタルカメラを凛ちゃんに見せびらかすようにヒラヒラと振りながら、僕は胸を張った。

 

「……そうなの?」

「うん。せっかくだから触ってみる? はいこれ」

「あ、うん」

 

 凛ちゃんは両手に握ったカメラをぼーっと数秒見る。

 そして少し頬を朱色に染め上げ、カメラを横から眺めるふりして、明後日の方向に顔を背けた。

 どうやら先ほどのヤレヤレ系女子っぽい自分の発言が見当違いであると分かって、急に恥ずかしくなってきたようだ。

 彼女が僕を諭すことや、間違い指摘することは数あれ、その逆はあまりない。常日頃から馬鹿にしている相手に正しいことを言われるのは、何とはなしに恥ずかしい。今の彼女に押し寄せているのは、そんな恥辱と屈辱の感情ではないだろうか。

 そうであると、僕にとっては都合が良い。

 つまり彼女の価値観では、痛めつけやすい下等な存在として、僕を認識し始めているということだ。

 射貫くような眼差しを向けながら、下等な存在としての僕に制裁という愛の罰を与える。そんな生活が始まれば、僕は、やめられない、とまらない、凛ちゃんのかっぱえび○んになってしまうよ。

 そのまま時計の秒針が四分の一くらい回転するまで、無言を突き通し、ただ足を動かしていた彼女は「あっ」と声を出して、振り返る。

 

「そういえば昨日。写真撮っていいのは、私の認識してる時だけって言ったよね? どうしていきなり撮ってるの?」

「ちゃんと凛ちゃんの見える所で撮ってるじゃないか」

「確かに見えてるけど、早すぎて認識は出来てないでしょ?」

 

 そう言って、凛ちゃんは現代っ子らしくスマホを素早くポチポチして、お望みのサイトを開くと僕の眼前に突き出す。

 

「えーっと何々? 認識の意味は『ある物事を知り、その本質・意義などを理解すること。また、そういう心の働き。(デジタル大辞泉)』」

「シャッターを切られてから、私は撮影されたこと知って、理解したけど」

 

 おっと、おっと、おっとっと。これはいい疑問だ、渋谷凛君。

 

「くふふふふ、ふははははははっ! フゥーハハハ!」

 

 痛いところをつかれた僕は、悪役のように笑った。

 

「凛ちゃん! 君もそろそろ覚えた方がいい!」

 

 ビシッと音が想像できるほどのスピード感を出しながら、自分の親指を胸元に向けた。

 

「僕がぁ! いつぅぅ! 約束をぉぉぉ! 守るぅことがあったぁぁぁぁ!」

 

 ドラゴ○ボールに出てくる、セ○のような口調で、僕は叫んだ。

 

「…………」

「長年一緒に過ごしてきてぇ! そぉんなこともぉ分からぁないのかぁ!?」

「…………」

「昨日もぉ! 僕がぁ! 約束を破ってぇ! 君を激写したのをぉ! 忘れたかぁ!? さあ、答えろぉ!?」

「ここにあるデータ、全部消すから」

 

 凛ちゃんは刺すような視線を向けながら、手に持ったカメラを指差した。

 僕はパンっと音がなるくらい、高速で手を合わせる。

 

「すみませんでした」

 

 凛ちゃんの怒りが爆発していた。

 彼女が怒る時は、暴れるように激昂したり、逆上したりすることはない。ただ静かに、眉を逆ハの字にして、ガンをつけるように瞼を見開き、その瞳の中に轟々と燃えるような闘志をむき出しにする。

 凛ちゃんは今までの会話中一度も止めることがなかった足を止めて、腕を組んで、カメラを持っていない方の手の指で上腕を一定のリズムで叩く。その瑞々しい唇を通して、憎たらし気な声を発する。

 

「ほら、まず頼み方ってものがあるでしょ? 口調はいいけど、態度がなってない」

「う、うっす!」

「『うっす』じゃないでしょ? 茶化さない」

「は、はい!」

 

 上半身と地表の角度が四十五度を作るほどに、きっちり頭を下げる。

 

「常日頃から迷惑を掛けている私を敬う気持ちが足りない。もっと頭を下げて。あと、言葉は? 一回だけなの? 一回言うだけなの? さっきの丁寧な言葉遣いは忘れちゃったのかな?」

「は、はひぃ!」

 

 何だ、これは。この快感に心と体を抑えられそうにない。

 もっと怒らせたらどうなるんだろう?

 彼女の天元突破した怒りの熱を全身全霊で浴びてみたい。

 恋のスリーステップが告白、結婚、出産なら、調教のスリーステップは注意、強制、体罰。そして僕は今、至高のお方から調教を頂いている最中。

 そんな無上の環境に足を突っ込んだ僕が、さらに全身どっぷり突っ込むためには、彼女の怒りにさらなる薪をくべる必要がある。

 だが、それには写真と呼ばれる大きな生贄を捧げなければならない。

 快感は一時のものでしかない。だけれど、写真は永遠だ。その時、その瞬間の思い出に残る彼女の一顰一笑を収めた写真は、今後も残り続ける。

 天秤に掛けてみれば、その比重は火を見るより明らかだ。

 僕にとっては、一瞬で過ぎ去る楽しさよりも、忘れ去られない今を大切にしたかった。

 だから、僕の選択は写真を天秤に載せられた時から、決まっていた。

 

「誠に申し訳ございませんでした」

 

 僕はいつものように冗談な態度ではなく、素直に謝るのだった。

 

 ◇◇◇

 

「……それで、さっき悩みの原因は?」

「悩み?」

「ほら、言ってたじゃん。これからどう生きていけば良いとかなんとか」

「ああ、そんな話あったね。そういえば」

 

 凛ちゃんと駅の改札で合流すると、彼女が話を振ってきた。

 東京在住の僕達が乗る朝の電車は計り知れない混み具合だ。おしくらまんじゅうを全方位から受けて、死にかけることもしばしば。

 それに女性だとセクハラを受ける危険だってある。彼女は美人だから、その被害を受ける可能性も高く、僕とは分かれて女性専用車両へ乗るのが常だ。

 彼女と会話を楽しむことができなくなるのは悲しいけれど、仕方がないことだ。彼女のお尻を触ろうとして、殴られるのは僕の専売特許だ。誰にも渡すことはできない。

 

「いや、なんで唐突にお尻触ろうとしてんの?」

 

 触手のように淫靡にヌルヌルと動き、歩行の振動で左右に少し揺れるスカートへと向かっていた僕の手は、彼女の手によって、手首を取り押さえられていた。

 

「この厳しい民主主義社会の常識に対するアンチテーゼを体で表現したんだ。加えて、『これは僕のモノだ!』って大衆に伝える意味もある。そしたら変態たちも気を回して、いくらか凛ちゃんの身も安全でしょ?」

「意味分かんないよ、今が一番危ないよ。お願いだから、時間と場所を弁えてよ」

「よし、分かった! 今日の夜中に凛ちゃんの部屋に向かうよ!」

「立場を弁えて」

 

 語気を強めて、にべもなくバッサリと僕の案は断ち切られた。

彼女の冷たい対応に、普段通りの僕なら、そのまま何もなかったかのように平然としていたことだろう。だけど、最近の僕は普通ではない。

 僕は大きくため息をついた。そして、最近頭の中にこびりついて消えてくれない悩みを吐露する。

 

「僕は辛いんだよ。中学まで毎日ずっと一緒だった凛ちゃんと、これからは別々の高校に通わなければならないんだ。……僕はその時間を、何に費やしたらいいか分からないんだ。僕はどう生きたらいいんだろう」

 

 やることなんて、凛ちゃんの写真の整理くらいだ。それは学校ではできないし、やる気もない。彼女の写真は僕一人で嗜むためのものだ。赤の他人に見られてたまるかってもんだよ。

 

「いや、普通に勉強しなよ。学校ってそのための場所でしょう?」

「僕は授業を聞き流すだけで、それなりの点数が取れる」

「素で嫌味ったらしいよ。……もしかして、さっきの重い悩みの原因ってそれ? それって、進路希望調査票だした時にも散々話したことだよね。いい加減にしないと、うざいよ?」

「だって、だってぇ、凛ちゃんが女子校なんかに通うからぁー。男子禁制の花園に言っちゃうからぁー」

 

 おかげで、僕はその女子校に近い高校を選ぶしかなかった。凛ちゃんがいないだけで、楽しみゼロパーセントだよ。

 

「……何回も言ったよね? 私は一人になりたいの。学校までアンタと一緒にいたくないの」

「なんで、なんでぇ!? 僕と一緒にいたくないのぉ!? 学校でぇ、僕とキャッキャウフフと青春を謳歌する夢を見ないのぉ!?」

「うん」

「えっ。真顔?」

 

 凛ちゃんは、マジのガチで僕といるのが嫌っぽい。

 これは何かの間違いだと思いたい。ツンデレだから、本心を隠しているんだと思うことにしよう。

 僕は、凛ちゃんの正直な気持ちを確認するために、ある方法を思いついた。

 

「凛ちゃん。素っ裸になっていただいてよろしいかな?」

「はあ!? ……どこからその展開はやって来たの?」

 

 凛ちゃんは、恐怖に怯えるように腕を抱いて、さっと僕から距離を置いた。

 僕はさっと距離を詰める。

 彼女はささっと距離を開ける。

 僕はさささっと彼女を中心に半円を描くように走り、彼女の逆隣に回った。

 

「最近大人向けの本を読んで知ったんだけど、体は正直らしいんだ。ならば、そこから凛ちゃんの本心をほじくり出そうと思って。ダメかな?」

「あのさ、逆になんでいけると思ったの、普通に考えて? あと、言葉選びが微妙に気持ち悪いの、それ止めて」

 

 凛ちゃんのマジ(で引いている)レスに対して、僕は頷く。

 

「まあ、そうなるよね。確かにあの要求も言い方も引くよ。僕もそう思う」

「……じゃあなんで言ったの?」

 

 僕は思考にふける。

 確かになぜこんなことを言ってしまったんだろうか? 僕はあの時に一体何を考えてこんなこと……。

 あ、分かった。

 

「……言い方変えたらワンチャンいけるかな、みたいな?」

「ないよ」

 

 だねっ。

 その常識という幻想をぶち壊す、のセリフで有名な僕でも、そんなことが起きるなんて思っていない。

 実のところ、なんとなく頭の中の思いを垂れ流していたら、いつの間にか口に出ていた。

 

「そもそも、私は本心しか話してなかったけど?」

「はい、うそー。僕のことが大好きなくせに。この照れ屋さんめっ」

 

 僕は片方の目をつむってウィンクを作り、右手の人差し指で凛ちゃんのおでこを突いた。

 

「えぇ、ちょ、止めて。本気で止めて。離れて。それはないよ、ほんとキモい」

 

 先程のやり取りをやり直すかのように凛ちゃんは腕を抱きながら、さっと僕から離れた。その姿がなんだか面白くて、僕は笑ってしまう。

 

「はは、そうだね、僕もそう思うよ」

「じゃあなんでやったの?」

 

 相当気持ち悪かったのか、凛ちゃんの必死の形相に問い詰める。

 伊達に怒られ続けたわけではない僕でさえ、その勢いに戦のいてしまった。

 これは真面目に理由を考えよう。

 ふむ。

 しばしの沈黙。思考にふける。

 そして、僕は数秒で答えに至った。

 

「…………ノリ、かな?」

「…………止めて」

 

 だねっ。

 僕は自分の行動にとても後悔した。

 

 ◇◇◇

 

「はあ、どうしてくれるんだよ、凛ちゃん。僕の生きがいを奪った凛ちゃん」

「まだその話続けるの? ていうか、物々しい言い方しないでくれる?」

「……君が犯した離別行為によって、僕は甚大な被害を受けているんだよ。そう、原因は君なんだよ。君が僕の人生を狂わせたんだ。……まさか、幼馴染みに多大な災難を与えているこの状況を聞いてもなお、君は『関係ない』と無視するはずないよね?」

 

 さあ、どうする? 

 君が僕のことを大切だと思っていると思いたい僕が、君によってこのような辛い状況に立たされている今。

 責任感が強い君が、何もせずにいられるはずがないだろうと僕は勝手な予測を打ち立てた。

 となれば、思いつく解決策は一つ。

 

『君が僕の高校に転校するしかない』

 

 我ながらになかなかの誘導作戦だ。

 さあ、さあ。

 君のぷっくりと艶のある唇を柔軟に動かして、僕を救うために転校すると言ってくれよ?

 僕が期待の眼差しを寄せる中、彼女は麗しい均整の取れた眉毛を非対称にずらして、僕を見返す。

 

「余裕で無視できるよ」

「この薄情者!」

 

 凛ちゃんがこんな冷たい人だとは思いたくなかった。もっと温かい人だと思いたかった。

 君のビンタは焼けるように熱いのに!

 

「そもそも。なんで私がヤバイ状況にあるように言われてるのか、納得できない」

「えっ、ここで理由を言っていいの?」

「……え、どういうこと? 公に出来ない理由だったの?」

 

 人でごった返していた駅から離れて、すでに人通りの少ない道に入っているけど、それでも通りには幾人かの学生やおばさん、出勤する大人がいる。

 

「僕的にはそこまで秘密にする理由じゃないよ。凛ちゃんが良いなら言うけど?」

「……じゃあ、言ってよ。そんな言い方されると逆に気になるし。……って、あ」

 

 周囲の人影を確認していた彼女は、何か気づいたように声を上げた。

 

「どうしたの? そんな鳩が散弾銃を食らったような顔して?」

「……鳩死んじゃうよ。……私も今気づいたけど、いつも別れてる場所、もう過ぎてるよね」

 

 あ、本当だ。

 

「まあ、気にすることないよ。この道を進んだ先からも、僕は登校できるわけだし」

「いや私が嫌なの。アンタと噂になるのが」

 

 彼女と僕の高校は、歩いて五分もかからないくらい近い距離にある。

 そのおかげで登校時間が重なり、彼女とこんなに長い間喋ることができる。

 だけど近いといっても、駅から学校への道のりや人混みを考慮すると、全く違う登校ルートになるのが普通だ。 

 そのため、僕は少し遠回りをして一緒に通学しているわけだが、その上で彼女に一つルールを設けられた。

 それは、学生が多くなる場所を通る前に解散するというものだ。

 彼女は性格上、好んで人通りの少ない通学路を選んでいる。

 だがそれでも学校へ近づくに連れて、どんな道も学生が多くなる。

 照れ屋な彼女曰く、「僕の存在がクラスメイトに知られたら、学校にいけない」とのこと。

 だから彼女は、そういった学生の多くなる道を通る前に僕と別れることを一緒に通学の条件にした。

 まあ、彼女の中学のクラスメイトには知られまくっているけどね。

 

「分かったよ。それじゃあ、またね」

 

 そのルールを守らないと縁を切るぞと脅されているので、僕は素直に従った。

 

「うん、じゃあ」

 

 ちょうど前には別れ道があり、僕は手を振って彼女と違う方に進む。

 数十歩歩いたところで、僕は話が途中だったことを思い出した。

 彼女が聴きたがっていた彼女がヤバくなる理由を伝えるかどうか一瞬迷ったが、まだ近くにいるならと来た道をUターン。

 

「凛ちゃん!」

 

 僕は分岐点まで戻ると、離れていく後ろ姿の彼女に届くように大声で呼んだ。

 

「え?」

 

 突然大声で名前を呼ばれた彼女は反射的にこちらを向いて、僕の行動に困惑していた。

 

「さっき話していた理由、伝え忘れていたよ! その理由は――君が僕を愛しているだろうからさっ!」

 

 僕の大きな声が建物にぶつかり、こだまのように近辺に鳴り響いた。

 しばらくの間、僕らの周りにいた人たちは言葉を失い、静寂が訪れる。

 そのほとんどの音が失われた世界で唯一聞こえるのは、駆動する自動車の騒音と僕の声の残響だけだった。

 

「――はっ?」

 

 凛ちゃんの感嘆詞を起点に止まっていた時間が動き出すと、

 周りにいた少数の学生が黄色い声で色めきだし。

 おばさんは「あらあら若いわねぇ、昔は私も……」と過ぎし過去を懐かしみ。

 出勤途中のおじさんサラリーマンはなぜか僕にサムズアップする。

 僕もなんだか嬉しくなって、サムズアップ仕返した。

 

「それじゃあ、今度こそじゃあね!」

 

 僕はそう凛ちゃんに告げると、今度こそ分かれ道に向かって歩き出した。

 

「いや、ちょっと待って? なに平気な顔で立ち去ろうとしてるの!?」

 

 凛ちゃんが何か言っていたが、遠くて聞こえないや。

 

 ◇◇◇

 

「お前、モデルに興味ないか?」

「ない」

「……もうちょっと考えてから言ってくんない?」

 

 放課後の教室。

 いつもの「さようなら」の挨拶を終え、生徒達は自由に行動を開始していた。

 一年生が入学して一週間。そろそろ部活動選びも終局を迎え始めていて、多くの人がすでに入部を決めていた。彼らは新品のラケットや、キレイなシューズを抱えて教室を後にする。

 僕はもちろん帰宅部一択であり、話しかけてきたサザンもまた散々迷ったあげく、同じような結論に至ろうとしている。

 だから僕はこれと言って急ぐ用事もなく、のんびりと帰る準備をしていたし、彼もまた同じ境遇にある僕を見かけて、横の空席に腰掛けた。

 そこで彼が発したのは、彼の口からは出ようもないはずの縁遠い言葉であり、まるで怪しい仕事に勧誘する怪しい人物のような言葉だった。

 危険な香りを漂わせる彼の発言に、僕は何も考えずにノーを叩きつけた。

 それは一種の本能に近い反応だったかもしれない。

 彼は、僕のカスタマーサービスの行き届いた即時対応に、少しショボーンとしていた。

 

「どうせ目当ては僕の体なんでしょ? なら、ごめん」

 

 僕は自分の体を抱きしめて、再度彼の勧誘を断った。

 

「いやモデルに誘ってんだから、それは当然だろ!? 誤解を招きかねない言い方すんなよ!」

「…………つまり、僕の心も目当てってこと?」

「なんでそうなるの!? これお前のセリフだけ取り出したら、俺がお前に好意を抱いているみたいな感じの話になってんだがっ!?」

「僕は君が好きだよ」

「ちょ、えっ……何そのいきなりの告白。な、なんか照れるわ。お前、顔だけはいいし」

「えっ……」

 

 嬉しそうに頬を赤らめ頭をかく彼に、適当な冗談を言った僕はとめどない不気味さを感じていた。

 僕はせっせと鞄の中に教科書を放り込んだ。

 持って帰る必要のない物も、とにかく放り込んだ。

 パンパンになった鞄を肩にかけて席を立つ。

 

「そんなに急いでどうしたんだ? この後急ぎの予定でもあんのか?」

「いや、ないよ。それじゃあ、また来年」

 

 僕はそそくさと教室を後にする。

 

「お、おい、待て――ってもういねーし。なんだよ、アイツ。話まだ終わってねーんだが。つーか来年ってなんだ? 言い間違いか? ……まさか今年もう会わないって意味?」

 

 ◇◇◇

 

 うまく、サザンを撒くことが出来た。

 そのまま、僕はいつも通り凛ちゃんの家に向かう。

 

「こんにちは、おじさん」

「お、いらっしゃい」

 

 店先の花の手入れや整理をしていた凛ちゃんの父親であるおじさんは僕を笑顔で出迎えてくれた。

 昨日はおじさんが花の配達で店にいなかったけれど、いつもはおばさんと二人、あるいは交替で接客をしている。

 おじさんは、ダンディ・渋い・髭。

 この三つが特徴であり、黒髪を短く切り揃えて、仕事中は薄緑のワイシャツの上に青いエプロンを着ている。

 公の場で見せる外面と身内に見せる姿を徹底して区別している人で、花屋の営業先や接客ではとても紳士的でその外見に見合った対応をしている。だからか、奥様方からも陰ながらに人気を博しているとおばさんが自慢げに言っていた。

 けれど、身内に見せる姿はその外見とは逆方向といっても過言ではないので、おばさんがそんなおじさんにため息を吐くことは決して少なくない。

 

「母さん。今日はマー君とアレする約束があるから、ちょっとの間一人で店番頼めるかい?」

 

 店内の奥にいたおばさんは、おじさんに呼ばれてこちらに近づいてきた。

 

「……アレって、アレのこと?」

「そう、そのアレ」

「いつか凛に見つかっても知らないわよ?」

「何と言おうが大丈夫。ワタシとマー君なら。ねっ?」

「ねー」

 

 そう言って、僕達は二人肩を組む。

 

「現に、もう数年続けていても凛にばれていないからね。ふはは」

「もちろんですよ。僕達の対策は完璧ですから。ぬはは」

 

 ニヤニヤと男二人で笑う。

 それを見たおばさんは気味悪そうにしながら、ゆっくりと僕達から距離を置いた。

 

 ◇◇◇

 

 場所は変わって、花屋の上階にある渋谷家リビング。

 壁沿いにテレビ、それに対面するように白いソファーが置かれ、キッチンの近くにはいつも渋谷家が食事する時に使われる、長方形の木製テーブルがある。

 そのテーブルの長辺には二つずつ、合計四つの椅子が配置されている。

 テーブルを挟むように対面に座る僕とおじさん。

 

「それでは、今日の品評会を開始する! 参加者は二名。エントリーナンバー一番、前へ!」

「イエッサー」

 

 おじさんの指示によって、僕は席を立ち、いわゆる誕生日席の場所とされる縦長テーブルの短辺部分の前に移動する。

 僕が移動を完了したのを確認し、おじさんは大きく頷く。

 

「では、作品と題名を」

「サー、イエッサー」

 

 僕は一枚の写真を裏向けにして、テーブルの上に置いた。

 それを見たおじさんは、かじりつくように写真に顔を近づける。

 

「……ごくりっ」

 

 おじさんは息を飲む。

 僕は勢いよくその写真を表に向けた。

 

「こ、これは!?」

 

 僕の師匠であり、マエストロ。そのおじさんを唸らせるだけの一品。今日僕が用意した作品は、それほどまでの物だった。

 

「題名は――あの日見た凛とした花の名前を、僕はまだ知らない」

 

「ぐれいとおおおおおおおおっ!」

「お褒めに預かり、光栄です」

 

 僕は背筋をきっちり伸ばし、ゆっくりと上品に頭を下げた。

 僕が出品した写真は、神社に続く階段を上る学生服の少女を、後ろから撮影した物だ。

 その少女は眼前から強い風に吹かれたために目を細めて顔をそむけている。そのため、写真には哀愁を漂わせる情緒的な横顔が写っている。

 彼女の長い黒髪が風になびき、それが木陰の隙間から所々に照りつける日差しによって、絹糸のように輝く様は、幻想的な存在感を示していた。

 まさしくその少女――渋谷凛の美しさ際立つ奇跡の一枚。

 そう。

 僕達が現在進行系で行っているのは、凛ちゃんの写真交換会である。

 

「はあはあ、はあ。と、とても素晴らしい写真だよ。……これはいつ?」

 

 おじさんは絶叫によって乱れた息を整えると、僕に尋ねた。

 

「高校の入学式の帰りですね。神社が近くにあったので、これからの高校生活がうまくいくように願っておこうってことで、立ち寄りました」

「ああ、確か凛と母さんがそんな話をしていた。だが、…………君は凛とは違う高校だろ?」

「走りました」

「その一言で十分理解した。ありがとう、君の英断に感謝を」

 

 そう言って、おじさんはほくほく顔で写真をエプロンポケットにしまった。

 僕は一礼して、おじさんの対面の席に座り直しコールする。

 

「続きまして、エントリーナンバー二番。前へ!」

「イ、イエッサー」

 

 この時、僕はおじさんの声に動揺していた。

 先程の僕と同じように、叔父さんも舞台という名のお誕生日席ゾーンに向かっているけれど、ここに立つものは、出品者としての威厳と気品も重要視される。たとえいかに美しい作品を生み出そうとも、礼儀や礼節を重んじない者の作品は、それだけで評価を下げられてしまうからだ。

 凛ちゃんを愛する者として、自身のせいで凛ちゃんの写真の評価が下がるというのは、許されないことだ。

 だから、その点において、おじさんは厳しく僕を指導した。

 そのおじさんが、返事でどもるなんて精彩を欠く行為をするなんて……、一体何があったんだ?

 しかし、ここで僕が焦っていても意味がない。僕は深呼吸をして、進行役兼観客として続きを促す。

 

「作品の提出と題名を」

「…………」

 

 おじさんは作品を見せようとも、口を開こうともしない。

 

「んっん。……どうしたんですか? 早く作品の提出と題名を」

 

 咳払いをして、再度促す。

 おじさんに何が起こっているんだ。

 僕は春にもかかわらず額に少量の汗をかいていた。

 

「…………せん」

 

 おじさんは、ぼそっと何かを呟いた。

 

「すみません。聴き取れませんでした。もう一度お願いします」

「……ありません」

「ん? どういうことですか?」

「今回提出する写真は、ありません」

 

 僕は思わず席を立ち上がり、おじさんに詰め寄ると、彼のワイシャツの襟を掴んで怒りをぶつける。

 

「あ、あなたはご自分が何をおっしゃったのか、分かっているのですか!? しゃ、写真を用意してない!? ふざけないでくださいよっ! ここは凛ちゃんを愛する者達によって執り行われる神聖な集い! その厳格な集いの場で、このような狼藉をなしていいと本当に思っているのですか!? あれほど礼を重んじたあなた自身が、この伝統ある文化に泥を塗ったのですよ!?」

 

 おじさんは僕の勢いに負けて後ずさりする。そして、肩身狭そうな感じで両手の一刺し指をツンツンしながら、弁解を始める。

 

「えっと、だって……流石に年頃の娘をイベントでもないのに撮影なんてできないよ。そんなことしたら、娘に怒られて、冷たい態度をとられてしまうからね」

「…………僕は良いんですか?」

「き、君は落ちるとこまで落ちているし、何より喜んで怒られているじゃないか! それに、カメラの撮り方を教えたワタシより、君の方がずっとうまく撮れるようになっている。これからは、わざわざ自分で撮らずに、撮影上手な君の写真を貰おうかなーっと思ってね。ほら、愛娘の撮影権を与える対価的な感じで」

「…………」

「何も問題ないだろう? 互いにウィンウィンの関係じゃないか!」

 

 いや、おじさんしか得していない。

 

「……納得できません。返して下さいよ! さっきの写真!」

 

 僕はおじさんに掴みかかった。

 

「な!? これはもうワタシの写真だ! 誰が返すものか!」

 

 おじさんは卑しくも写真を渡さないように抵抗する。

 僕とおじさんの取っ組み合いが始まった。

 

 ◇◇◇

 

 それは渋谷家リビング史上最も醜く、互いに一歩も譲らない男同士の血で血を洗う戦い。

 一方は愛するものを取り戻すため。

 一方は愛するものを守り通すため。

 両者の体格は変わらず、戦闘経験も同程度。

 ならば、想いの強い者が勝利という栄光を手に入れる。

 勝者は自身の深い想いを誇り。

 敗者は自身の浅い想いを恥じる。

 両者はその拳に想いとプライドを乗せ、

「ホワチャーッ!」

「アチョーッ!」

 同時に振り抜いた――。

 

 ――そして数分間に及ぶ死闘を繰り広げてなお、両者の戦いは決着の兆しを見せない。

 

「かーえーせ! かーえーせ!」

「あ、そんなことを言っても良いんだね!? 渋谷家の財政は妻に握られているけど、一応大黒柱兼凛のパパであるこのワタシに言って良いんだね!? 剥奪するよ!? 君の撮影権を剥奪するよ!?」

「……お父さん、何を剥奪するの?」

「だから、凛を撮影する権利と言っているだろ! それに、君にお義父さんと呼ばれる筋合いは毛頭ないし、今は絶対に呼ばせないよ!?」

「な、なんだ、この力は!?」

 

 何故かおじさんの力が増大し、そのパワーと勢いに押された僕は、おじさんに馬乗りにされて体の自由を奪われる。

 

「君が調子づかないように今言っておく。……凛はパパに嫁ぐかもしれないから、先立って私をお義父さんと呼ばないように!」

「何の話ですか、いきなり! 僕はお義父さんなんて呼んでいませんよ!?」

「変な言い訳をするな! 二人しかいないこの部屋で、君以外の誰が呼ぶというんだい!?」

「私」

 

 むさ苦しい男二人のどちらでもない、聞き覚えのある高い声の発生源におじさんと僕が振り向くと、そこには仁王立ちした凛ちゃんがいた。

 

「ただいま」

 

 僕達は馬乗りになった状態を素早く解除した。火照った体から湧き出る汗はどうしようもないが、それ以外の身なりを整えて立ち上がる。決して彼女を見ることはなく。

 

「……い、いやー、喧嘩ごっこは楽しかったね。た、たまには体を動かさないとね。気持ちわ、若返った気がするよ」

「……え、ええ、そうですね。お、おじさんとっても強かったなー」

「ははは。ま、まだまだ若い人には負けられないからね」

「こ、こんどは負けませんよ。ははは」

 

 互いにぎこちない笑みをこぼしながらソファーに座り、一息つく。

 

「おおおおおかえり、凛」

「おおおおお邪魔しています、凛ちゃん」

 

 そして、彼女が今帰ってきたかのように挨拶をした。

 し、しまった!

 おじさんとの戦闘に集中しすぎて、彼女が帰ってきていることに気づかなかったみたいだ。

 幸いなことに品評会の証拠となる写真は机上に置いていないし、会の途中に乱入されたわけではないからその存在に気付かれていないはずだが……。

 でも、一体どうして? 

 セキュリティは万全だったはず。

 彼女がこんな簡単に、僕達に気づかれずにリビングにやってくることは不可能なはずだ。

 僕達がこの品評会をやる時は、三重の警備体制を張るのが常。そうでなければ、数年も彼女に見つからずにはいられない。

 第一防衛班のおばさんは何をやっていたんだ!? おばさんには、凛ちゃんが帰って来たことを、僕達に伝える任務を命じていたのに!?

 凛ちゃんは、僕とおじさんを一睨する。

 

「まず、喧嘩の音ですごい怒ってたお母さんから伝言。『下の店に響くくらいうるさいから、止めなさい!』って。それとよく分からないけど、『凛が帰ってきたわよ』って伝えといてって言われた。……これ、私が伝える意味あるのかな」

 

 裏切り者、現る!

 おそらくおばさんは、うるさい僕達にお灸をすえるために、わざと凛ちゃんを通したんだ。

 くっ、信じていたのに。おばさんのバーカバーカ。

 ……しかし、不測の事態やおばさんがミスすることも視野に入れて、僕達は第二防衛ラインも用意していたはず。それがどうして発動しなかった?

 

「で、次。階段の途中にこれ置いたの誰?」

 

 彼女は肩に提げた鞄から、ブーブークッションを取り出した。

 

「そ、そんな……」

 

 第二防衛ラインが、正面から突破されていた。

 

「ば、馬鹿な!? 凛はどうして踏んでないんだ!?」

 

 このトラップの発案者は、おじさんだ。

 僕に完璧なトラップだと散々解説していただけはあって、このトラップがどうして破られたのか分からず、おじさんは凛ちゃんに説明を求めた。

 

「……どうして踏むの?」

 

 凛ちゃんは、コイツ何を言っているのかよく分からないといった面持ちだ。

 彼女は言外に言っている。

 

『この私にとって、これはトラップでもなんでもない』っと。

 

 やられた。

 僕達は凛ちゃんの性質、なにより性別による影響を見誤った。

 僕とおじさんなら、階段にブーブークッションなんて置いてあったら、間違いなく試しに踏んでしまう。

 現に、僕はおじさんに実験的使用でこのトラップを敷かれて、まんまと引っかかってしまった経歴を持つ。

 だってブーブークッションとかあまり見たことないし、どんな音が出るか気になるから。

 このトラップは、そんな人間の知的好奇心を利用した完璧な策である――はずだった。

 だがしかし、僕達は見落としていたのだ。

 

 彼女がクール系を気取るイケイケ女子だということを。

 

 クールに、「そんな物なんて興味ないよ」とばかりに踏まず。

 男子ならまだしも女子だからか、「あんな音が出るの気軽に踏めないよ」とばかりに踏まず。

 その二つが統合された結果、簡単にスルーされた。

 くそぉ!

 そもそも第一防衛ラインを超えられたことがなかったから、第二防衛ラインが発動するのは今日が初めて。

 だから、その精度を全く推し量れていなかった。

 実質ぶっつけ本番状態なのだから、穴があって当然だ。

 それなら、まさか……。

 第三――否、最終防衛ラインにもまた同じような見落としが?

 

「それとハナコがリビングのフェンスを越えて、階段上がった先に居たんだけど。大人しくしてたから良かったものの、降りて店に出たら大変だから、気をつけてよ」

 

 凛ちゃんの足の後ろから、トコトコと顔を出したのは件のハナコ。

 裏切り犬、現る!

 ハナコは、渋谷家在住の小型犬。

 犬種はヨーキーとミニチュアダックスフンドの間の子。

 そして、僕達が階段の頂上に設置した最終防衛ライン。

 彼女は凛ちゃんへの愛情もさることながら、家主がいない部屋を守ることにおいて、他の追随を許さない防衛力を誇る。

 僕もまた、その鉄壁の守りに敗北している一人。

 凛ちゃんの部屋にダンボールを被って侵入した、僕ことコードネーム――スネークが、彼女にやられること幾度。

 凛ちゃんに対する奉公の精神から生まれる全力の咆哮と、勇敢な剣士のように人を恐れず繰り出す犬歯でのCQC(近接格闘)攻撃。

 この二つの武器を用いて、渋谷家に僕の所業を摘発&一匹で、あるいは凛ちゃんと一緒に僕をボコボコにするという、究極コンボを得意とする。

 昨日の敵は、今日の友。

 なんとなく幾多の戦いを通して尊敬と友情が芽生えた僕は、彼女に我らが最終防衛官の席を与えた。

 彼女の任務は、凛ちゃんが階段を上っていることを、吠えて僕達に知らせることだ。

 その類まれなる能力を活かして、僕達の救世主になってくれるだろう。

 そんな期待を寄せるほどに、彼女には優秀な実績があった。

 ところが、彼女は味方ではなかったのだ。

 今なら分かる。

 ……彼女はスパイだ!

 彼女が、凛ちゃんの不利になるようなことをするはずがなかった。

 彼女が、本当に凛ちゃんを敵に回すようなことがあるはずなかったんだ。

 凛ちゃんに忠を尽くす。

 その圧倒的な忠義と敵をも惹きつけるカリスマ。

 そして単独で敵内部に潜入という特殊ミッションをこなす能力。

 今日をもって僕は、畏敬と共に畏怖の感情を込めて、彼女をこう呼ぶことにした。

 ザ・ボス、と。

 しかし、事実が分かった今でも、僕は納得できない。

 彼女が僕の作戦に従ってくれていれば、僕とおじさんは幸せになれたし、ボスは不名誉な脱走兵の烙印を凛ちゃんに押されることはなかった。

 なぜなら、彼女の功績を讃えた僕が、うまく庇うはずだったのだから。

 そのためのカバーストーリーだって用意した。

 僕は立ち上がって、ボスを糾弾する。

 

「どうして僕を裏切った!? ボスゥ!?」

 

 しかし、僕の叫びは聞こえなかったかのように、スタスタとボスは歩いていった。

 彼女は凛ちゃんの部屋の前に辿り着くと、器用にジャンプでドアノブを下げて、扉を開けた。

 そして、その中へ消えていった。

 彼女は何も伝えようとはしなかった。

 だが、それが彼女の答えだと思った。

 

 全ては凛ちゃんのため。

 

 家族(おじさん)も、

 

 名誉も、

 

 自分の命(時間)さえも犠牲にして凛ちゃんに尽くした、

 

 歴史に語られることのない英雄。

 

 彼女こそが、真の愛凛者(パトリオット)。

 

「くぅ、はあ、うぅっ」

 

 僕は彼女の忠義に泣いた。

 扉の向こうに消えた彼女に向かって敬礼し、静かに泣いた。

 

「……ねぇ、なにこれ?」

「さあ? ワタシにも分からない」

 

 ◇◇◇

 

「ワタシはそろそろ仕事に戻るとするよ。母さん一人に仕事を任せたままだったからね」

 

 そう言っておじさんはソファーから立ち上がると、暴れ回ってかいた汗を拭うこともせず、そそくさと扉に向かう。

 だがリビングから出ようとした矢先、凛ちゃんに声を掛けられる。

 

「お父さん、後でさっきの権利云々について話あるから」

 

 おじさんはピクリと肩を揺らし、振り返ることなく彼女に背中を向けて、小さな声で言う。

 

「……おいおいじゃあ……ダメかい?」

「それっていつ?」

「…………葬儀後」

「誰の?」

「………………ワタシの」

「縁起でもないこと言わないでよ」

「……………………はい」

 

 おじさんは肩を落として、とぼとぼと立ち去った。

 それを見送った凛ちゃんは自室に鞄を置いてきて、洗面所に向かう。

 手にタオルを持って戻ってくると、キッチンにある冷蔵庫のお茶をコップに注いで、それら二つを僕に渡した。

 

「ありがとう」

 

 暑くて上着を脱いでいた僕は、受け取ったお茶をゴクゴクと飲んで渇いた喉を潤す。

 そしてタオルで額の汗を拭いながら、ソファーに座り一息ついた。

 彼女も先程までおじさんが座っていた僕の隣に腰掛けると、テレビを点ける。

 そのまま目線はテレビに映したまま、僕に話しかける。

 

「汗かくくらい暴れないでよ。小学生じゃないんだから」

「……はは、ごめん。これからはもうしない」

 

 流石に営業妨害はしたくなかった。

 

「……まったく」

 

 彼女は僕が反省の色を見せると、それ以上何も言わなかった。

 僕はぼーっとテレビを眺める。

 テレビに映る渋い男性を見て、ふと哀愁漂う背中で出ていったおじさんを思い出す。

 

「……おじさんも汗かいていたよ。タオルとか渡さなくて良いの?」

「……きっとお母さんが何とかしてるよ」

「……そっか」

 

 その後は会話もなく、たまたま再放送でやっていた人気ドラマを二人で観ていた。

 特に興味を引かれる内容でもなく、僕の瞼は次第に重くなっていく。

 西の空に沈み始めた太陽に照らされて、赤色に染まっていく室内。

 テレビの音に混じって、下からおばさんの接客する声が小さく聞こえる。

 体を動かした後の心地よい倦怠感と、柔らかいソファーの上。

 春の快適な温度と、少し開いた窓から流れ込む涼やかな風。

 何より彼女の隣にいることが、とても落ち着いた。

 ずっとこんな日々が続いていけばいい。

 僕はそう願いながら、そっと瞼を閉じた。

 

「……そういえば今朝の別れ際のアレ、あの距離から大声で言う必要あったの? 周りの人に凄い見られて恥ずかしかったんだけど」

「……すぅ」

「…………寝てるし」

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