「なんで、なんでだよ!? 僕は反対だ! 絶対反対だ! 凛ちゃんが、凛ちゃんが――」
僕は、四人がけの食卓用テーブルを激しく両手で叩きながら叫ぶ。
「――アイドルなんてよく分からないものになるなんて、断固反対だ!」
場所は渋谷家の居間。
この前おじさんと二人で品評会を行ったこの場所には、前回とは違い、僕を含めた総勢四人が腰掛けている。
僕の隣にはおじさんがおり、自らの意思に賛同する者を得たような歓喜を漏らしながら、同意するように頷く。
「え、お父さんは賛成派じゃなかったの?」
僕の前方に座る凛ちゃんは頬杖をついて面倒くさそうに叫ぶ僕を見ていたが、おじさんの対応に驚いて目をパチクリさせた。
「すまない。マー君と色々話してよく考えた結果、ワタシもマー君率いる反対派に移籍することにした」
「え……」
斜め向かいに座るおばさんは隣の凛ちゃんに向かって、注意したことを聞かなかった子供に言うが如くたしなめる。
「ほら、やっぱりこうなった。だからあれほど『マー君に早めに伝えておかないと後から面倒くさいことになるわよ』って忠告したのに……、言わんこっちゃない。お父さん持っていかれちゃったわよ」
「……うん、私が間違ってた。お母さんがよく言うその言葉が、ここまで身に染みたのは初めてだよ」
どうやらおばさんは、僕が反対することをすでに予見していたようだ。
エステ通いのエスパー。ダブルSの称号は伊達ではなかったか。
彼女が珍しくおばさんに咎められているこの好機を逃すわけにはいかないと、僕はおばさんに加勢する。
「そうだ、おばさんの言う通りだ! スカウトした相手側にはもうイエスって言っちゃったんでしょ!? なんでこんな引き返しにくい状態になってから伝えるんだよ!? 僕にも一言相談してくれよ!?」
厳密に言えば、すでに彼女はアイドルになることが確定しているのである。
なんてったって、もうすでに昨日の間に関係者に返事の電話をして、今日の放課後に直接会って話に行ってきたらしい。
「……いや、アンタに相談したところで……ねえ?」
凛ちゃんが他の二人に尋ねるように顔を向けると、おじさんとおばさんは同意するように深く頷いた。
少しひどくないですか、渋谷家の皆さん。というより、おじさんは僕の味方ではなかったの?
「……それに私が皆に相談している間、アンタは風邪引いていなかったし」
それでも少し腑に落ちる所があったのか、凛ちゃんは僕の方を見ずにテレビを向いて、ぼそぼそっと言い訳を呟いた。
僕はそんな彼女の姿を見てため息をつく。
「全くこの子ったら、すぐ言い訳するんだから。幼馴染の僕はそんな子に育てた覚えはありませんよ?」
「はあ? もしアンタに育てられたら、私はこんな真っ当に生きてないから!」
凛ちゃんは全力で否定した。
だが、僕はそんな彼女を睨みつけて声を大にして発する。
「真っ当に生きているなら、アイドルになんかならない」
「っ…………そ、それは……」
彼女は悔しそうに俯いた。
「凛が論破されたわ!?」
おばさんは驚く。
いつもの僕と一緒にしないでくれ。今日の僕は本気度が違う。
僕は席から立ち上がって机の反対側に回り、下を向いている凛ちゃんの顔が見えるように彼女の隣にしゃがみ込む。
そして、彼女と目を合わせて僕は口角を上げる。
「アイドルになるなら、僕をパピィって呼んでね」
「……は?」
どうやら言葉が足らなかったようだ。
数秒を思考に費やし、僕はいつものようなぶっ飛んだ思考ではなく、理路整然と彼女が納得できるようなぶっとんだ説明を頭の中で組み合わせる。
「アイドルになるということは真っ当な道から外れることになる。そうなると君の持論では、逆説的に僕が君を育てたことになる。つまり、僕は君のお父さん。でもおじさんと呼び方が同じになるから僕はパピ――」
「――許さんぞおおお!」
「ぶろぽぉあっ!」
突如、流星の如く僕の頬に飛来した謎のインパクトによって、宙を舞った僕はそのまま二、三メートルほどゴロゴロと転がった。
回転が止まり、机の方を見れば、そこにはいつの間にか立っていたおじさんが相撲でいう突っ張りの構えで佇んでいた。
馬鹿な……あの一瞬の間に、僕に悟られることもなく立ち上がり、隣に移動。そして頬に一撃を加えたというのか!?
「……く、あ、おじさん、なぜ……?」
「君はとんでもないものを盗んでいきました。……ワタシの立場です」
と、とっつぁん。
……そうか。
確かにおじさんにとって彼女の父親であるという立場は、十数年間もの長い期間で積み上げてきた誇り。
しからば、プライドを汚されたおじさんが怒りで手を出すのは、想像に難くなかった。
「……違うんですよ、おじさん。……これはおじさんにもメリットがある作戦の一環だったんですよ! もしかしたら、僕をパピィと呼びたくなくて凛ちゃんはアイドルを止めるかもしれない。そしたらおじさんも僕も両得の結果を前に万々歳。加えてもし失敗しても、凛ちゃんが否定して僕は叩かれるという筋書きまであったんですよ! ……タダでは死なぬ完璧な作戦だったというのに! おじさんがもう少し頭を回して手を出さなければ、今頃――っ!」
僕は邪魔したおじさんに思わず憤った。
おばさんは、「ちょっと口角から血が出てる!?」と言いながら、焦って救急箱を取りに行く。
凛ちゃんは、「……危なかった。もう少しで手が出てた」と己の右手を見ながらボソボソと呟く。
「だからだよ」
「……え?」
その一言があまりにも衝撃的で、唖然と口を開けたままおじさんの顔を見上げる。
おじさんは自身の胸元を親指で差し、座りこける僕に近づき見下ろす。
「ワタシを舐め過ぎだよ、マー君。その作戦を理解し、君が凛に殴られると喜ぶから、敢えてワタシが殴ったんだよ」
「……そんな……」
おじさんは僕の目線の高さに近づくために、膝を曲げると言葉を続けた。
「君の低能な作戦など、ワタシにかかればお見通しだ。いつもは君の分かりやすい行動に敢えて目を瞑っていたにすぎない」
「……ばかな……」
「いや、目を瞑らないで!? 私に教えて!?」
凛ちゃんが何か言っていたが、おじさんによって伝えられた事実に動揺してそれどころではなかった。
「だが今回、君はワタシのお父さんという尊厳に土足で踏み入った。だから、お返しに君の作戦そのものを根本からへし折ってやった、それまでの話だよ」
おじさんはそう言うと、僕に背中を向けて自分の席に戻っていった。
その背中は勇ましく、厳かで、ただ強かった。
僕は負けた。
渋谷家の自称参謀として名乗りをあげていた僕の鼻っ柱はへし折られた。
この前の品評会での戦闘で、僕は最後におじさんに組み敷かれた。
運良く凛ちゃんが声をかけたから助かったものの、実質僕の敗北。
凛ちゃんを想う気持ちが戦闘力になるあの戦いで負けたのだ、とても悔しかった。
だから、どこか心の中で言い訳をしていた。
知略なら渋谷家随一だと。凛ちゃんに殴られる計画を立てることに置いて、僕は誰にも負けないと。
しかし、それも完敗だった。僕はただおじさんの手のひらの上で生かされたピエロでしかなかった。
だから今日は道化としてさえ役に立たず、不快感を高めるだけの存在だった僕は、軽く握りつぶされた。そうおじさんは言っていた。
僕はおじさんに何も勝てていない。凛ちゃんに関して負けてばかりだ。
「くそっ! くそっくそおおおお!」
僕は悔しさを体で表現するために、拳で床をどんどんと叩く。この表情だけは見せないと背中を丸めて、床に額を擦りつけて腕だけを振るう。
「え、なにこれ? なんでマー君が暴れまわってるの?」
救急箱を取りに行っていたおばさんの声が聞こえる。
凛ちゃんが淡々と説明する。
「……なんか……よく分からないけど、アイツが負けた……から?」
「……とりあえず凛、あれなんとかしてきて」
「え? 嫌だよ……いつも私ばっかり。お母さんがたまにはしてよ」
「だってほら。私は机に座る怖い顔のお父さんを説得しないといけないから」
「…………分かった」
誰かが立ち上がる音が床に響き、その音源がどんどんこちらに近づくのを感じる。
誰かという名の凛ちゃんが僕の肩を叩き、僕は顔をあげると、そこには小さく手を挙げる彼女。
そして彼女は、自身の手を勢いよく振り抜く。
パチン。
「ほら叩いてあげたよ、馬鹿。よくわかんないけど、お父さんと仲直りしてきなよ」
「…………」
僕はじんわりと頬の熱を感じながら、彼女を見つめる。
「……え、なにその目?」
「…………」
僕は動かず、ただ彼女を見つめる。
「……二回目はしないよ?」
「……よっこいしょ」
僕はフローリングに座った状態から立ち上がると、スタスタとテーブルの椅子に座る。
そして、隣に座るおじさんに頭を下げて謝る。
「すみませんでした、おじさん」
「いいよ」
おじさんはにっこりと笑顔で許してくれた。
「おじさん!」
「マー君!」
ガシッ
僕たちは感極まって抱き合った。
凛ちゃんとおばさんもまた座席に戻る。
「……えらい仲直り早いわね。凛はどうやってマー君を元に戻したの?」
「叩いた。そっちは?」
凛ちゃんの問いにおばさんは頬を染めると、気まずそうに苦笑いを浮かべる。
「……今日はお母さん、お父さんと一緒にお風呂入るから」
「……そ、そう」
凛ちゃんも気まずそうにおばさんから視線を反らした。
そんな二人を確認すると、僕は抱き合うおじさんにだけ聞こえるように囁く。
「(戦果は上々だったようですね?)」
「(マー君はまずまずだったようだね。頬を叩いてまでしたのに少ない報酬、本当にすまない)」
「(気にしないでください。おじさんの大切な名を汚したのは確かですから。でも例のものは、頼みますよ)」
「(後で渡すよ。それと、ありがとう。ははは)」
「(こちらこそ、ふふふ)」
僕たちは互いに笑い合うと、最後に声を揃える。
「「(計画通り)」」
これは作戦だったのだ。
僕達が互いに喧嘩しあっていたのは、それぞれの求めるものを得るためだ。
まあ、僕がそれに気づいたのはおじさんが罵詈雑言を言いながら、座る僕に近づいてきた時だ。
おじさんが僕を罵っている時、彼は無駄に胸元を意識させる行動をとっていた。
彼は凛ちゃんがちょうど後ろになる位置に移動すると、膝を曲げて胸元のポケットからメモ帳を上にスライドさせた。
そこには急いでで書いたためか汚く、だが分かりやすい必要最低限の要求が書かれていた。
『ケンカ、ふり、入写、わたす』
これを翻訳するとそこにはこう書かれていた。
『喧嘩したふりをしてくれたら、母さんが撮ってきた凛の入学式の写真を渡すよ』
文字を読み終えておじさんの方を見ると、彼は「叩いて済まない」と言いたげな表情をしていた。
またその手元で、親指と人差し指で丸を作ったり、人差し指をクロスさせてバツマークを作ったりした。
僕は凛ちゃんに見えないようにひっそりと手で丸を作った。
その時、僕達の契約は成立した。
後で聞いた話によると、この日の前日に夫婦間でお風呂の話題が上がったらしい。
新婚当初からずっと一緒にお風呂に入っていたが、凛ちゃんが物心ついてからは「娘に悪い影響が出てはいけない」と止めていたらしい。
でも凛ちゃんが自分のやりたいことを見つける程に成長し、大きくなった。
もう頃合いではないかと思ったおじさんはその日に、「そろそろ前みたいに一緒に入らないか」と誘った。
ところが、おばさんは恥ずかしがって入ってくれなかったらしい。
見たところそこまで嫌がっている感じではなかったようで、何か後押しがあればと考えたおじさんは頭を悩ませた。
そんなおじさんは、僕と凛ちゃんのやり取りを聞いている時に閃いたらしい。
怒ったふりしたら、ご機嫌取りに一緒にお風呂に入ってくれそう、と。
そう思ったおじさんは即興でプランを練り、テーブルの下で誰にも見つからないようにメモ帳に文字を書き、それを胸ポケットに入れた。
虎視眈々と怒るタイミングを見計らっていたおじさんは、僕がパピィの話題を出した時に計画を実行に移した。
そして僕を共犯者に引き入れ、見事おばさんとお風呂に入る権利を勝ち取ったのだ。
渋谷家最高の知将。
彼こそがその名にふさわしい。
手の平で操られるの最高!
道化最高!
凛ちゃんの写真ゲットだぜ!
◇◇◇
落ち着きを取り戻した渋谷家会議。
「そういえば……おばさんはいつ凛ちゃんからスカウトされてアイドルになりたいって話を聞いたんですか?」
「えっと……確か三日前の夜だったかしら」
「……おじさんも?」
「ああ、そうだね。母さんと一緒に聞いたよ」
「……マジっすか? ちょうど僕が風邪を引いて、自宅療養し始めた日じゃないですか」
凛ちゃんは最初と変わらず頬杖をついた体制で、驚く僕をジトーっと見てくる。
「だから、そう言ったじゃん。……信じてなかったの?」
「そ、そんなことは……」
ほ、本当に言い訳だと思っていたよ。
「お、おじさんは反対派ですよね? おじさんからも何か言って下さいよ」
なんとなく責められる立場になったことを感じた僕は、アイドルを反対する同士兼凛ちゃんを愛する先輩として、おじさんに頼った。
いや、別に僕から言うことはまだまだあるんだけど。
でも、ここは年功序列を優先せざるを得ない状況だと僕は判断したわけだった。やはり経験に勝るものはない。
それにおじさんは渋谷家随一の知将。
仲間に引き入れたら、敵なしだ!
「ああ、分かったよ」
おじさんは表情をキリッと引き締めると、凛ちゃんを真剣に見つめる。そして少しだけ沈黙した後に、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「……今になって意見を変えるのは申し訳ないと思うが、ワタシも凛がアイドルになることに反対だ。アイドルは多くの衆人観衆の注目を集めることになる。最近はネット環境が整っていて、情報の流通も早い。まだ若いお前が人様に一挙手一投足を監視されるストレスに耐えられるかどうか心配だ。今の若い子はSNSといった媒介を通して、見知らぬ人前で振る舞うことに慣れているのかもしれない。だが、お前は苦手だからやっていないと言っていただろう? お前がやろうとしていることは、その苦手の最前線にある職だと思った方がいい」
「……お父さん」
いつもは優しい父親の厳しい言葉は、彼女の心に響いたように思えた。
僕もまた、しっかりと娘のことを考えて言葉を紡ぐおじさんは、やはり彼女の父親だと思った。
「……それに、お前はまだ高校一年生だ。真面目なお前のことだから学業が疎かになることはないだろうが、それでもやはり学生は勉強をするのが本分。未だに慣れていない学生生活と未知のアイドル業。両立させるには相当の努力が必要だ。加えてワタシ達親側もその娘を支えていくという気構えがなければならない。それを三日前に言われて、『はいそうですか』とすぐに納得して送り出すことは親としてやはり出来ないよ」
「私は別に良いと思うけど?」
おじさんの言葉に割り込んできたのは、おばさんだった。
「な!? 母さん! 話の腰を折らないでくれ!?」
「でもねえ、私がやってもいいと思ってるのは本当だし。アナタだって最初は反対していなかったじゃない」
「……いや、まあ、あの時は凛がやりたいことを見つけて、ワタシも凛を応援しようという気持ちになっていたんだ。娘が夢や目標を見つけるのは、やはり嬉しかったからね。加えて、自分の子供がアイドルになれるほど美人だと専門の人に認められて、ワタシも有頂天になっていたんだ」
その話を聞いて、凛ちゃんは少し照れくさそうに頬をかいた。
おばさんはおじさんを咎めるように睨む。
「なら今頃自分の意見を変えて、ツラツラと娘のやる気を削ぐようなことを言うのはずるいと思うわよ?」
「し、しかし、事実問題は多々あるわけで、冷静になった今だからこそ言えることもある」
おじさんの言葉におばさんの何かが切れた。
プツンと何かが切れた。
「冷静になるのが遅いって言ってるの! それは凛が相手方に返事をする前に言うことでしょ! 後からグチグチとだらしないわよ!」
普段あまり見ないおばさんの激怒する姿に、僕は全身を震え上がらせた。
おじさんも若干及び腰になりながらも必死に食らいつく。
「い、勢いに任せていい問題でもないだろ!?」
「勢いを乗せた人が言って良いことじゃないわよ! 過去の自分の言動にしっかり責任を持ちなさい!」
「だ、だから責任を持って、間違いを修正しているだろ!」
「どうせアナタは言い訳みたいに引き止める理由を述べてるだけで、凛が離れていくことが嫌なだけでしょ! 冷静になって寂しくなったんでしょ!」
「そ、そそんなことは……」
おじさんは図星をつかれたように、尻すぼみになった。
おばさんは机をバンっと勢いよく叩く。
「やっぱりそうなんじゃない! 毎度毎度マー君と『りんりんりんりん』と、アナタの頭は年がら年中娘のことしかないものね!」
「……あ、ああ! それの何が悪いというんだい! 愛娘が知らない世界に向かっていくことを寂しいと思わない親はいない! あと数年は娘が家の手伝いをして、家族揃って笑い合うという算段をしていたんだ! それがアイドルになってしまえばご破算だ!」
「……お父さん」
凛ちゃんの二回目の父親を呼ぶ声は、一回目とは全く感じが違っていた。
これは失望した時のニュアンスだ。
「絶対に反対だ! なあ、マー君!」
ここにきて、おじさんは僕に話を振った。
お願いだから、止めてほしい。
この激戦区に僕を招き入れないでいただきたい。
怒られたい、叱られたいと言っているけれど、それは凛ちゃん専用能力であり、ここまで激昂しているおばさんは普通に怖い。
僕は凛ちゃんの冷めた感じの怒り方じゃないと耐えられない。
しかし、おそらくこのままおじさんが負ければ、我がレジスタンスが敗北することは目に見えている。
なら、僕もこの戦いに参入する必要があった。
僕は勇気を持って席を立ち上がると、机を叩いて声を上げる。
「そうだそうだ! 僕も家族揃って皆で笑い合う未来を得るために反対だ!」
「それは凛のやりたいことを無下にして、マー君とお父さんだけが笑える未来でしょうが!」
「ぐはっ」
僕はおばさんの強烈な一撃で、床に崩れた。
仰る通りです。
「マー君!? おい、大丈夫かい!?」
おじさんは床に倒れ伏す僕の上半身を抱える。
僕は震える手をおじさんの手の甲に置くと、これまた震える声で言う。
「……さ、最後に……言っておきたい……ことが」
「マー君! なんだい、マー君!」
「こ、怖かったよぉ……ガクリッ」
「おい、しっかりしろ!? マーくぅーーん!?」
僕の手は力なく床に滑り落ちた。頭は重力に従って垂れ下がった。
悲しみにくれるおじさん。数秒後、ゆっくりと僕を床に寝かせる。
「……よく頑張ってくれた。任せろ。後は全部任せろ!」
そして白目で横たわる僕の瞼を手で閉じると、立ち上がる。彼は渋谷家女二人衆に向かって、鋭い目を向ける。
「ここからは本気だ。ワタシもこの舌戦を全力でいかせてもらうよ」
薄目でおじさんの姿を確認していた僕は、彼の覇気に全身が鳥肌を立てていた。
『舌戦を制する者は渋谷家を制する』
かの偉大なる英雄――シブヤ・リン・ノパーパの言葉から生まれたことわざ。
僕もおばさんからのまた聞きでしかないが、子供の頃に聞いたあの英雄譚は今でも忘れない。
紀元前四千年頃。
人類と神々の長きに渡る争いが終局を迎えた。
シブヤ・リン・ノパーパは、その時代の戦争の影響で禁忌とされていた、人間と神の愛によって生まれた忌み子だった。
当然彼が生まれた村の人々からの当たりは強く、地獄のような毎日を生き抜いたらしい。
だが、彼は諦めなかった。
人生を諦めることなく、絶望することなく、ただひたすらに真っ直ぐ生き抜いた。
そんな彼に惹かれた者が段々と増えていき、彼は仲間と共にその武力と知力で村中の人間を救い、地位を高めていった。
そして彼が二十代半ばに差し掛かる頃、生きる厄災とされる竜と戦い、竜殺しを成し遂げた。
その栄誉から彼は、とうとうその次代最強とされる称号――「村長」の座を手に入れた。
彼に魅了された幼い少年は、宴の席で彼に尋ねたという。
「あなたは、どうして村長になるくらい強くなれたの?」っと。
そんな少年の純粋な質問に彼は笑うと、ワシャワシャと少年の髪をなでて言った。
「ワタシはそこまで強いわけではない。いつだって仲間の力を借りてきた。仲間と言葉を交わして、思いをぶつけてあって、手を貸して貰っただけだ。……そうだな。強いて言うなら、ワタシがここまでに至れた理由は、他人より少し舌を使った喧嘩がうまかったからかもしれない」
後に少年は大人になり、自身の子供達に語った。
「かの英雄は言われていた。『舌戦を制するものは、この村――「シブヤケ」を制する』とな」
二十世紀以上の時を超えて現代に伝えられる英雄の言葉。
教科書にも、どこの文献にも乗っていない英雄の伝説。
たまたまおばさんが押し入れの整理をしている時に見つけた、昔おじさんが凛ちゃんのために描いた絵本にしか記されていない、恥ずかしすぎる黒歴史。
だけど、大きくなった今の僕は知っている。
シブヤ・リン・ノパーパが、実は架空の人物であるということを。
シブヤ・リン・ノパーパが、実は現代に生きるとある人物をモチーフにしたことを。
そして、そのモチーフにされたおじさんが本気を出すということ。
それすなわち――渋谷家を制する。
「ああ、そうなの。それじゃあコッチもなりふり構わないから! アナタとお風呂一緒に入ってあげないから!」
しかし、おじさんが次に何かを言う前におばさんが宣言する。
「な!? それは卑怯だぞ、母さん!? 約束したじゃないか!?」
先程の約束を反故にすると言われ、堂々とした顔はどこへ行ったとばかりに焦るおじさん。
「お父さん、もういいよ。これ以上言うなら、品評会(?)でアイツから貰った写真全部回収するから」
「凛まで!? ひ、品評会の写真は自白してもうしないと約束するなら、没収しないって言っていたじゃないか!?」
やばい。シブヤ・リン・ノパーパが舌戦で制されている。むしろ脅されている。
やはりあの絵本の話はおじさんの妄想であって、実際の能力はフィクションあるいは誇張表現だったんだ。
というか、凛ちゃんに品評会のことバレている。
前回の品評会の後に、いろいろと凛ちゃんに問い詰められてバラしたのだろう、あのダンディ髭イケメンが。
これはヤバイかもしれない。
そんな冷や汗をかきながら、僕は机の横の床で寝たふりをしてじっとしていた。
やはり僕こそが、最高の知将。
縁と浮き世は末を待て。
この嵐が過ぎ去るまで、僕は動かざること山の如しであるくらい自然に溶け込み待つ。
部屋オブジェとしか思えないくらい動的存在感を消す。
薄く目を開いて状況を見守る僕。
わちゃくちゃと言い争う二人の夫婦を他所に、座ったままの凛ちゃんがテーブルの下を覗き込んだ。
そして、寝転ぶ僕を見る。
「写真没収するの、アンタもだからね」
飛び火した。
◇◇◇
「まあまあ、落ち着いて話し合いましょう、皆さん」
またもや、一同で最初の形に座り直した。
おじさんはすでにおばさんに完膚なきまでにノックアウトされていて、不承不承に賛成派にさせられていた。
よって、残る反対派は僕一人という状態になっている。
「いや、もうこの話し合いは終わりでしょ? そっちの大敗で」
凛ちゃんは、頬杖をつく姿勢で僕に言う。
……ずっと思っていたんだけど、話し合いがリセットするたびにその姿勢をしていない?
むしろ僕が見る限り、ツッコミや動きがないとずっと頬杖をしているよね。
この会議が面倒で嫌だと体で表現したいのは分かるけれど、頬に手の跡が残り始めている。
「その体制止めたほうが良いと思うよ。頬杖をつきっぱなしで顔が赤くなっている」
そう言いながら、僕は自分の頬を指してジェスチャーした。
「え? ……あ、そう」
凛ちゃんは言っていることを理解すると、少し照れながら膝に手を置く形に移行した。
気になっていたことを解消出来た僕は、そのまま凛ちゃんに話しかける。
「それで……僕が納得するために、この場で凛ちゃんに一つ質問したいんだ」
「質問? そんなので納得するの?」
「まあ」
「なら早く言ってよ!? この長い話し合いすぐに終わったかもしれないじゃん!?」
「いや、最後の一押し……って感じだから」
最初は反対だったけれど、これ以上反対しても見えてくるものがないとよく分かった。彼女の意志が固いことは確かだ。
だからこの質問で彼女の本心をしっかりと確かめて、認めることにした。
まだ不満のある表情の凛ちゃんだったが、ため息をついて気持ちの整理をつけると、いつもの落ち着いた表情に戻る。
「……まあ、それだけで納得してくれるなら答えるよ。でっ、なにを聞きたいの?」
僕はこほんと咳払い。
顔を引き締めて、背筋を伸ばし、服装を整える。
大きく息を吸って、吐いてを二度繰り返し、そして彼女に促されるまま、彼女に問いかける。
「それじゃあ質問です――以下の状況に置かれた少年の気持ちを答えなさい」
「うそ、ここにきて心理テスト!?」
彼女の落ち着いた表情は一瞬で瓦解した。
◇◇◇
「ずびびぃ…………あー、鼻水が」
今日も今日とて、朝から待ち合わせもしていないのに花屋の前にやってきた僕。
体調を崩しているのは、四日前のおじさんとの戦闘によるものだ。
あの後凛ちゃんとテレビを見ながら寝落ちした僕は、汗で濡れたワイシャツと春とはいえど冷える空気によって、翌日に高熱を出した。
あえなく学校を休むことになった僕に、家族は病院に行ってくることを提案した。
しかし僕の体調も昼頃を迎えると急に安定し始めて、油断した僕は病院に行かないことにした。
だが、それが全ての間違いだった。
次の日には、さらなる高熱が僕を襲ったのだ。
だがしかし、その日は土曜日。
最寄りにある病院は、午前中しか診察を行っていないのだ。
だがだがしかし、僕の家族は誰も車の免許を持っていない。
僕は電車を乗り継いで、徒歩でそこに向かう必要があった。
だがだがだがしかし、午前中の僕にそんな体力は残されていなかった。
その次の日は日曜日で病院は休診。
結果、僕は一つの判断ミスによって金土日の三日間を寝て過ごすことになり、熱は下がっても未だなお万全の体調には戻っていない。
「……まだ風邪治ってないの?」
鼻をすする僕に、花屋の玄関から現れた凛ちゃんが話しかけてきた。
「あ、凛ちゃん。おはよっくしょん!」
凛ちゃんはそんなくしゃみをした僕から、大人一人分遠ざかった。
凛ちゃんは嫌そうに僕を見る。
「風邪移さないようにしてよ。今日、人と会う約束あるから。……というか、なんで治ってないのにマスクしてないの?」
くしゃみで外部に少し鼻水が漏れ出した僕は、ティッシュで鼻を押さえながら彼女に答える。
「……もうほとんど治りかけだから、マスク使うほどじゃないと思って。ほら、この粘性の高い鼻水を見れば、病原体がほとんど退治されたことが分かる」
「やめっ、ティッシュを近づけるな!?」
凛ちゃんはさらに僕から二歩ほど飛び退いた。
「そんなに嫌がらなくても」
「嫌だよ!」
あ、はい。すみません。
凛ちゃんの眉尻がつり上がった、いつもより勢いのある形相に、思わず恐縮してしまう。
僕はこれ以上凛ちゃんに距離を取られてはたまらんと、ティッシュを丸める。
「それにマスクしないもう一つ理由があるんだ。……実は、昨日使っていたマスクが最後だったんだ」
「間違いなくそれが本当の理由だよね!? ……もう、ちょっと待ってて」
嘆息した彼女はそう言って、家に戻っていった。
数分もしないうちに帰ってきた彼女は、手に持ったマスクを僕に手渡す。
「はい、何個か予備のも持ってきた。忘れないうちに家に置いとく分買っときなよ」
「ありがとうぅ……いつも、迷惑かけるねぇ」
僕は腰痛に悩む老人のように腰を曲げて背中に手を置き、掠れた声でお礼を言った。
「はぁ、ほんとそうだよ。ちょっと遅れたから、早足で行くよ。おじいちゃん」
そう言って、彼女は歩き出した。
◇◇◇
「ところで凛ちゃん。僕が風邪引いている間になにかあった?」
隣を歩く彼女は、僕の突然の指摘にビクリと肩を揺らす。
「え、なんで?」
「うーん、うまく言えないんだけど、いつもはクール系女子の凛ちゃんが、若干テンション高めというか。ノリノリでアゲアゲ――のり巻きフライ系女子になっているというかなんというか」
「……言いたいことはなんとなく伝わってくるけど、後半の表現どうにかならない?」
「じゃあ、いつも喋らない奴が趣味のことになると饒舌になる時の顔に近い」
「むしろ悪くなってる気がするけど!? それって今の顔、相当ウキウキしてるってことだよね!?」
やっぱり、いつもよりツッコミや怒りの切れが増している気がする。普段の凛ちゃんなら、呆れと失意と怒りが混ぜ合わさったみたいな、淡泊な反応をするはずだ。
若干おばさんみたいな勢いのあるリアクションのせいか、違和感が酷い。
凛ちゃんは青を基調とした折りたたみ式手鏡を鞄から取り出して、自身の顔を確認する。
そして四方から鏡に映る自分の顔を確認する彼女を、傍から見ている僕は思った。
それ意味あるの、と。
自分の顔を意識している時点でもう違う表情だよ、と。
彼女が天然ボケをかましてくるなんて、珍しいこともあるもんだ。
だから、彼女の様子がおかしい理由を、僕の希望的観測の上で察してみることにした。すると、とてもピッタリなものがあった。
彼女を安心させるために、歯をキラリと光らせる程のイメージで眩しい笑顔を作る。
「大丈夫。僕も君と会えなくて寂しかったさ!」
「え、突然なに?」
おっと、これは華麗な切り返し。
まったくもって僕の予想は的外れだったようだ。
彼女は結局表情の変化についてよく分からなかったのか、折りたたみ式の手鏡をパチン閉じて、鞄にしまう。
そして、左手をカーディガンのポケットに突っ込んだ後、空いた右手でソワソワと自身の長い髪をいじりだす。
そのまま、僕達はただ黙々と歩いた。
数十秒の間無言を突き通していた彼女に合わせて、特に喋ることが思いつかなかった僕もずっと黙っていた。しかし、彼女は僕と違って喋ることがないわけではなさそうだった。言うか言わないか渋っている、あるいは言い出しづらそうだった。
自身の発する音が小さくなれば、その分、朝の騒がしい周囲の動きを鋭敏に感じとれる。中学生の一団が笑い合う声、どこかでなった車のクラクションの音、駆け足気味のサラリーマン達が奏でる硬い革靴とアスファルトの衝突。
その中に彼女の声が混ざったのは、ちょうど信号機の前で足を止め、進行許可の合図を待っている最中だった。
固く閉じていた唇がもごもごと開く。
「……えーっと、まあ、何かあったといえば、あったんだけど」
彼女の声量は、後半になるほど落ちていった。
「あ、やっぱり。何があったの?」
「……あー、えっと」
「うん」
「……その」
「うん」
彼女は言いづらそうに言葉をつまらした。
「……ごめん、ちょっと待って」
彼女はそう断りを入れると、数回深呼吸をする。
よしっと気合いを入れると、先程から段々と赤くなってきている顔を僕の方に向けて、真剣な面持ちで言葉を紡ぐ。
「私――」
彼女が喋りだしたその時、文字通り僕の鼻腔がくすぐられた。
「――ハックションッ――」
「――アイドルになるの」
「…………ああ、鼻水が出てきた」
僕はマスクを顎の下までずらすと、ポケットの中のティッシュを探る。
「しかし凛ちゃんがアイドルか……。ん? アイドル? …………アイドル!?」
僕は隣の彼女へバッと振り向く。
「アイドルってあの歌って踊るやつだよね!?」
頬の熱が未だ冷めていない彼女は、僕の勢いにたじろぐ。
「う、うん、そうだけど。……とりあえず、まず鼻拭こうよ?」
どうやら僕の勢いではなく鼻水にたじろいだようだ。
僕はぐいっと凛ちゃんに顔を近づける。
「いや、こんな時に鼻なんて拭いてられないよ!」
「いやいや、拭いて!? 汚い!」
◇◇◇
「よお、ドM王。一緒に飯食おうぜ」
昼休み。
サザンは片手にお弁当を持って、僕に声を掛けた。
「風邪が移るかもしれないよ? 僕は朝の内にくしゃみや鼻水は止まったけど、咳や喉の痛み、熱は昨日まであったよ?」
「ん? ……つまり、今はバリバリ健康じゃねーか!」
僕の巧みな言い回しに引っかかればよかったのに。これだから頭の回転が速い奴は。
「チッ」
「あ、今舌打ちしたな!? 俺と食いたくねぇの!?」
「チッチッ」
「……これはどっちだ? イエスかノーのどっちだ? ……一緒に飯食おうと言ったら『チッ』という返しが来て、一緒に飯食いたくないのかと聞いたら、『チッチッ』が返ってきた。日常会話における舌打ちは嫌がるニュアンスが強いから『チッ』の返事を『ノー』に置き換えて考えれば、『チッチッ』は否定の否定、つまり……、『イエス』ってことか!?」
僕はサザンに向けて人差し指を立てて、手首のスナップを利かせて横に振る。
「チッチ」
「……もう意味分かんねぇけど、とりあえず分かってることは、お前が俺を舐めてるってことだ」
彼の発言に恐れをなしたように、僕は思わず身震いする。
「止めてよ、気持ち悪い。僕がいつ君の『チチ』を舐めたっていうんだ」
「え、いや、おっぱいのことじゃねぇよ!?」
彼の大きな声は、予想以上に響き渡り、一瞬にして教室を静寂に変えた。
◇◇◇
「つーかそもそも馬鹿は風邪引かねえ。つまり、お前は風邪を引いてない」
何だよ、その理論は。
それ僕=馬鹿って意味じゃないか。
「毎回言っているけど困るよ。僕が罵られても喜ぶのは、一部の女性だけなんだよ」
他の女性に罵られるなら、まだなんとかギリギリほんのちょっぴり我慢できる可能性も無きにしも非ずかもしれないけれど、男に罵られたら僕は普通に切れる。
彼は、主が学食に向かった隣の席に腰掛けると、なぜか真剣な表情で口を開く。
「いや、無理だ。お前が社会的に罵られる存在である限り、俺には無理だ」
普段は僕と同じでアホみたいな顔して生きているのに、こんな時だけ決め顔になる。使い方を間違えている気がする。
しかし、全く失礼な奴だ。
僕ほど反面教師として社会に貢献している人間はいないというのに。
だけど、彼にいくら言っても暴言を止めないことは分かっている。
「……分かったよ、もう無理なお願いはしない。そこで妥協案を考えてきた」
「妥協案だあ?」
懐疑する彼に、僕は前々から考えていた秘策を掲示する。
「君を女にする」
「……はあ!? どこがどうしてその結論に至った!?」
「まあ、落ち着いてよ」
僕は学生服の胸元からトランプと同程度の形、サイズのカードを一枚取り出した。
「これが今回のキーカードだよ」
僕はそれを手裏剣の如く彼に投げつける。
シュッ。
バシッ。
彼はそのカードを見事にキャッチした。
流石は元野球部のエース。
三年間ベンチに座り続けたことで名を挙げただけはある。
「なっ――」
手元にあるそのカードを見たサザンは驚愕した。
「マジックカード――融合!」
そう。
僕が投げたのは遊戯王オフィシャルカードゲーム、デュエルモンスターズのカードの一つ。
このカードを発動すれば、プレイヤーは自陣のモンスター二体以上を合体させることで、強力なモンスターを召喚することができる。
「……しかし、なぜに遊戯王?」
「それを利用するわけさ。僕達の妥協案にはね」
今ひとつ要領を得ていない彼に、僕は一から説明を始める。
「僕は一部の女性にしか罵られたくない。しかし、サザンは僕を罵ることを止められない。ここまではいいね?」
「ああ」
「ここでマジックカード融合を発動し、この相反する二つを融合する」
「……ああ」
「その結果、女性とサザンの要素を兼ね備えた新たな存在――サザ子が召喚される。僕は女性に罵られることで、なんとか一応の自制が可能かもしれないという期待値低めな状態になり、サザンは男性から女性になることで、僕を罵ることが低水準で限りなく不可能に近い可能となる。……どうだい、この完璧なタクティクス(戦術)?」
「…………ああ、一般常識をエクシーズしてるぜ。しかも、名前が雑い」
「褒めないでくれよ、サザ子」
僕は照れて、彼女の肩を叩いた。
「褒めてねえ! ……つーか発動してんの? このカードもう発動してんの!?」
サザンあらためサザ子はえらく取り乱した。
何を分かりきったことを聞いているんだろう、サザ子は。
「だって、君が発動を宣言したじゃないか。こんなふうに……『マジックカード――融合!』って」
僕は、サザ子が投げられたカードをキャッチする所から驚いて叫ぶ所までを再現した。
「ちっげーよ! あれは何ていうかリアクション芸の一種だったんだよ!」
なんだよ、違うのか。
「じゃあ、さっさと発動を宣言してよ」
「いや、するわけねーだろ!?」
なんだよ、しないのか。
そろそろお腹が空いて辛くなっていたので、鞄から弁当を取り出し、食事を始めることする。
サザンもぶつくさと僕に文句をつけていたが、その手は同時進行で弁当の包みを外しだした。
机に置かれた僕の弁当箱は、黒色の二段式だ。
二階層に分割するメリットは、おかずとご飯を分けて入れられること。
漬物の汁や肉の油がご飯を侵食しない。
それだけで一段式の奴らから、羨望の眼差しを集めることが出来る。
一段式の変わった奴の発言で「ご飯に味がついておいしい」とか、「口の中に入れたら同じだ」というのをたまに耳にするが、それは所詮負け犬の遠吠え。
彼らがなぜ負け犬になるかは二段式のメリットからも当然ではあるが、逆にその恐るべきデメリットからも大きく由来する。
二段弁当は一段弁当より、おかずの調整が難しいという問題を抱えている。
一段弁当ならご飯を大量に入れることでおかずの割合を少なく出来るが、二段弁当では分割されているためにそれができない。
つまりちょっとでもおかず作りをさぼれば、ご飯でカバー出来ずスカスカでなんか悲しい状態に陥るのだ。
要するにご家庭の方にとって、一定数のおかずを必ず用意しなければならない毎朝の二段弁当作りは天敵である。
加えて、さぼれないから使えるレパートリーがどんどん減っていき、おかず選びに悩んで面倒くさいことこの上ないのだ。
さらに、チャーハンやオムライス等の一品で事足りる料理を、どーんと弁当一杯に敷き詰める最終奥義が使えない。
故に、子供には使ってほしくないのである。
ならば、それでもご家族の方がなぜ二段弁当を作るか?
理由は明白だ。
毎朝時間がなくて忙しかろうが、朝起きるのが辛かろうが、時にはやる気が出なかろうが、
それでも子供の成長のために、子供の笑顔のために、
体力と時間をいくらかけても惜しまない――、
――そんな無償の愛があるからだ。
故に一段式がいくら吠えようとも、僕達はなびいたりしない。
二段式弁当を作るご家庭の皆様に、栄光あれ!
ちなみにプラスチック製食品保存容器使いや、二個の小型弁当でおかずとご飯を分けるスタイルは、一概にどうとは言えない。
あのグループは個人の特色が出過ぎる傾向にあるからだ。
僕とサザンは弁当を開く。
彼もまた二段弁当という無償の愛に選ばれし者である。
「サザンの弁当は、いつもお姉ちゃんに作ってもらっているんだっけ?」
「ああ。姉貴が自分の分も作ってるからついでに俺の分もってな。お前は、ばあちゃんだっけか?」
「うん。おばあちゃんが『あんまり何もしてあげられないから、料理だけは絶対作る』ってね」
「……いいばあちゃんだな。いただきます」
「……そっちもね。いただきます」
感謝の念を抱きながら、二人で黙々と箸をすすめる。
僕が唐揚げ、サザンが厚揚げを同時に掴み、揚げが二つでアゲアゲだなと思った時。
僕の頭の中に、今朝のノリノリでアゲアゲな幼馴染とのやり取りがフラッシュバックした。
「あ、凛ちゃんがアイドルになるらしいよ」
「ゲホッゲホッ……オエッ、ウゴウァ、ゴホッ、あ、あの渋谷が? ゲホッ、ゴホッ、悪い、茶をくれっ」
「いいよ、ほい」
学校の自動販売機で買ってきていた未開封のペットボトル茶を苦しそうに咳き込むサザンに渡す。
彼は受け取ったボトルを開けると、頭より高い位置に移動させて、顔を上に向けて、口をつけずに重力だけを使って器用にお茶を流し込む。
ボトルに口をつけずに飲む方法――通称、インド飲み。
インドでは水を回し飲みする文化があることから生まれたこの飲み方。
日本でもしばしば飲料を共有する時に用いる者が現れ、時には普段からこの飲み方の者もいる。
「衛生的」や「相手への配慮」と考える賛成派と、「行儀が悪い」や「間接キスを意識しすぎ」と考える否定派の熱い論争が勃発し、未だ正しいとされる答えは出ていない。
サザンはいつも口をつけて飲むスタイルだ。
そんな彼が敢えてこのスタイルに変更した理由は、状況を見れば自ずと見当がつく。
苦しい状況にも関わらず、敢えていつもと違った飲みにくく、わざわざ行儀の悪いと思われるスタイルを選ぶメリットはない。
新品を開けたのだから、飲むことにおいて彼が間接キスを意識することも、衛生面を気にする必要もない。
ならば、これは後からそのお茶を飲む僕を考慮しての行動に他ならない。
自分が口を付けた物を返したくない、あるいはせめて衛生的に、せめて口の付けていない物を返したい。
彼なりの思慮の結果であり、ある種はお茶を借りた相手への恩義を忘れない精神の現れでもあり、尊ばれる心である。
僕は君のそんな所が、嫌いじゃない。
だがその潔癖な心根と水を流し込む技術は尊敬に値するけれど、その技をむせている時にやるのはどうかと思うよ。
「ゴファッ!」
案の定、水を流し込んでいる最中に咳き込んだせいで、彼のダムが決壊して外界へとお茶が飛び出す。
しかし、運悪く咳で反射的に顔を上から前方に下げてしまったために、ボトルから流し込んでいる最中だったお茶は彼の頭頂部に注ぎ込まれる。また口から飛び出たお茶は周囲や彼のズボンを濡らすだけに至らず、机の上にまで降り注ぐ。
しかも、机に向かった大半のお茶が見事に弁当を直撃。
ものの一瞬、されど一瞬。
クラスメイト全員が教室で起きた悲劇に注目する。
衆人観衆の中、驚きと衝撃ですっかり咳が止まってしまった彼。
憂鬱そうにお茶浸しの顔を手で覆うと、悲しげに一言。
「……弁当も体も、お茶漬けだ」
◇◇◇
掃除をすること、ほんの数分。
同情したクラスメイトの助けを受けて、予想以上に早く片付けることが出来た。
こぼしたお茶をわざわざ弁償してきたサザンと、弁償されたお茶の残りを彼にあげた僕は再度食事を始めている。
「渋谷がアイドルになるとか全然想像つかねーんだけど。アイツ美人だけど全然愛想ないよな。そんな奴がアイドルなんかになれんの?」
若干濡れた金髪が窓から差し込む光でキラキラと輝いているサザンは、お茶漬けを掻き込みながら先程の話の続きを始めた。
「僕も想像出来ないよ。『にょわー、凛ちゃんだよ! あなたのハート、ハピハピにしちゃうにぃ!』とか、「しぶにゃんだにゃ!」とか言い出したらどうしようって思うよ」
「キャラ崩壊待ったなしだな。……一体どういう経緯でそんなことに? 案外、昔から密かにアイドルに憧れていたとか?」
僕は今朝の登校中に凛ちゃんから聞いた話を思い出す。
「昔から興味があったとかは聞いたことないね。凛ちゃんの話によると、そもそもの経緯の始まりは数日前に遡るんだ。放課後、街中で警官に取り押さえられた彼女が――」
「――いや、待て! すでに最初からおかしいだろ!?」
いや、そんなことないんじゃない?
アイドルになれる彼女は、たぶん住む世界が違うんだよ。
おそらく、きっと、メイビー。
「でも事実だよ。路上で子供を怯えさせ、泣かせたって理由で」
「そこはかとなくお前の影響を感じる理由だな。お前を殴りすぎて、暴力や破壊衝動に目覚めたとかじゃねーの?」
「ええぇ、うそぉ。マジでぇ!?」
「滅茶苦茶嬉しそうだな……」
やはりそうか。最近僕を叩く回数が増えてきていると思っていたんだよ。
「……序盤からすげー展開だが……そこからどうアイドルに繋がるんだ?」
「えっと、それをたまたま見かけて警官を止めようとしたのが凛ちゃんをアイドルに誘った人。でもその人も怪しくて結局署まで同行をお願いされて、そこでやっと警官の勘違いで実は凛ちゃんは子供に何もしていなかったと判明。子供が落とした玩具の小さなパーツを踏まないように立ち止まっていただけらしい。その後署を出てからアイドルに勧誘されてきっぱり断るんだけど、その人は諦めずに毎日ずっと下校を狙って会いに来たらしい。凛ちゃんのクラスメイトが学校付近に不審者が現れるって噂する程にしつこかったって話だよ」
「……渋谷は変態ホイホイか何かなのか?」
「カサカサ」
僕は思わず凛ちゃんにホイホイされることを夢見て、Gから着想を得た変態的な動きをする。
「うおっ、ここに変態が! 誰かアース○ェット、あるいはゴキジェッ○プロを持ってきてくれ!?」
僕を害虫扱いした彼がそう叫ぶと、どこからともなく赤い筒と緑の筒が飛んできた。
◇◇◇
冗談で言ったアー○ジェットとゴ○ジェットプロが本当に投げ込まれて素に返った僕たちは、持ち主である一人ドラえもん(仮)の藤田の席に向かい、返品した。
なぜ彼が学校に多種類の殺虫スプレーを持ってきているのか、その理由を僕達は尋ねようとは思わなかった。
ただ僕は鞄から常識外れな便利道具を取り出した彼に、4次元ポケットから常識外れなひみつ道具を取り出すドラえもんの面影を見た。
彼の異名に「(仮)」が取られる日がいつか来る、そんな気がしてならない。
「ふーう、食った食った。ごちそうさん。……で、さっきの話の流れからして最終的に渋谷は根負けしたってとこか?」
席を立ったついでにトイレに向かった僕が帰ってくると、サザンは弁当を完食し片付けまで終えていた。
おかしい。僕は何かと騒いでいたせいで、弁当をまだ半分も食べられていないのに。
「……そうなるね。凛ちゃんは、これから同じ所属になる長年アイドルを志望し続けた女の子の話を聞いて、やってみることにしたって言っているけど。でも僕はそれだけじゃないと思う。……ここだけの話、彼女は押しに弱いんだ」
「そりゃ見りゃ分かるわ。そうでもなければ、あれだけ毎日迷惑かけてるお前と何年も付き合ってられない。むしろ、ダメ男に引っかかることを心配するレベルだろ」
「まあね」
「……しっかりと自覚はあったんだな。……けどそういや、お前はさっきの話に出てないよな? お前が関われば、もっと面倒臭いことになっていると思うんだが?」
「だって、僕も今朝知ったからね」
「は? でもお前、渋谷といつも一緒にいるよな?」
「そうだけど、例のスカウト男は巧妙にも、僕が一緒にいない時間を狙って彼女に話しかけていたんだ。下校時や僕が風邪を引いていない時とかに」
「……なるほど。ますます怪しくなってくるじゃねーか」
「でしょ? ところが残念。しっかりとした企業に努めている人らしい。確か……346(ミシロ)プロダクションだったかな」
「346プロダクションだと!?」
あまりの驚きでサザンは立ち上がり、目玉をひん剥いて叫んだ。
そしてそのまま、動揺を隠せない面持ちで彼は語りだす。
「346プロ……長い歴史をもつ老舗企業であり、多くの歌手や俳優が所属している大手芸能プロダクションだ。その規模の大きさから芸能事務所としてだけでなく、TV番組、映画などの広範囲な映像制作分野でも活動している。その346プロだが二年前に新しくアイドル部門を設立してから、多くの個性豊かなスターを世に送り出している。アイドル業界に新しい風を吹き込む、台風の目。そんな今注目を集める346プロに、渋谷がアイドルとして所属するだと!?」
なにこの人滅茶苦茶詳しい。
どうやら、僕の予想以上に凛ちゃんはすごい所からオファーを受けていたみたいだ。
「芸能人とかアイドルとかに興味がなかったから、全然そこらへんの知識を知らなかったよ。それにしても、サザンはやけに知識があるね?」
「それほどでもない。346は有名だしな。これくらい俺たちの業界では一般常識も良いところだ」
いや、どこの業界の話だよ。
「346プロで有名なアイドルって言ったら、カリスマギャルの城ケ崎美嘉とか、元女子アナの川島瑞樹とかだな。あそこのプロダクションは『新しいアイドルのカタチ』をモットーにしてるから、所属している人もユニークな人が多い。それに色々な所にパイプを持っているからか変わった経歴を持つ人もいるな。元警官のアイドルとかもいるし。まあ、もちろん学生でアイドルの子もいるがな」
「へー」
僕はサザンのうんちくに頷きながら、卵焼きを頬張る。
僕の好物はカレーライス、唐揚げだ。だが、卵焼きもそれなりに好きだ。
砂糖で甘めに調理した物もなかなかに好きだが、我が家で作る塩や醤油を多めに入れた濃厚な卵焼きの方が好きだったりする。
悪く言えば高血圧になりそうな味だが、へへっ、この体に悪い感じがたまらない。
そんな悪を好む僕を見ながら、サザンは眉根を寄せる。
「そういや、お前はアイドルになることに反対しないのか? 俺が知るお前なら絶対反対すると思ってたんだが?」
僕は微妙な表情を作る。
「うーん……賛成とか反対以前に、そもそもアイドルがいつも何しているのかよく知らないんだよね。僕の中でフワフワして曖昧な職だから、知識不足でなんとも言えないって感じ。サザンはどうして僕が反対すると思ったの?」
「そりゃあ、アイドルになれば仕事とかレッスンで放課後や休日も忙しくなる。ピンからキリまであるから一概には言えねえけど、今まで通り渋谷と一緒にいられるとは思えねえからな。……それにもし渋谷が人気アイドルになったら、お前だろうと同年代の男がべったりよりついていたら、変な噂になりそうじゃねえか?」
唖然とする僕は、箸で掴んでいた二個目の卵焼きを、ぽとりと弁当の上に落とすのだった。
◇◇◇
僕は長く話しすぎて喉が渇いてきたので、サザンの弁償代で帰りに買いなおした新品のペットボトル茶を鞄から取り出して蓋を開けた。
ごくごくと子気味のいい音を立てて、お茶は僕の体内に入っていく。
時間が経っているためにお茶はぬるい。
温かいお茶の熱が体にじんわりと広がる感覚も、冷たいお茶の五臓六腑に染み渡る感覚もない。
だけど、体に馴染むように入っていくぬるいお茶も僕は案外気に入っている。
半分ほど飲み終えると、僕はお茶をテーブルに置いた。
そして喉も潤ったところで、再度僕は対面に座る凛ちゃんに質問を掲示する。
「さて質問です。この状況下に置かれた少年は何を思ったでしょうか?」
「ながーい!」
凛ちゃんが珍しく大声を出すと、今まで嫌々そうに話を聞いていた彼女は怒涛の勢いで喋りだす。
「話長いよ! 三十分もこの質問のために話す必要あったの? アンタの今日の一日を振り返る必要があったの? 最後のチョロッとした部分話すだけでいいじゃん!?」
バンバンと机を叩く凛ちゃんの隣で、おばさんは堪え切れないように腹を抱えて笑い出す。
「く、ふふふっ……へ、変態ホイホイ……凛が変態ホイホイって、あはは」
「そこ!? そこなのお母さん!? 笑うよりもっと言うことあるよね!?」
僕の隣のおじさんは、不安げな面持ちで必死に凛ちゃんに尋ねる。
「ワ、ワタシは変態ホイホイの対象ではないよね? 変態では……ないよね?」
「お父さんも気にするとこそこなの!? もっと色々突っ込む所あるでしょ!?」
よっぽど変態扱いされたくないのか、おじさんは焦ったように凛ちゃんに言う。
「いやいや、これはとても重要なことだよ。答えによってはショックで仕事に影響が出て、家計に大打撃を与えるかもしれないから気を付けてくれ」
「それもう娘的に一択しか選べないよね!? 脅迫してきてるよね!?」
そんな渋谷家夫妻の言葉を聞いて、僕は凛ちゃんにホイホイされたかったのを思い出していた。
善は急げということわざもある。
僕はサザンにも見せたGがモチーフの変態的な動きを始めることにした。
「カサカサ」
「うわ、なに? え、滅茶苦茶気持ち悪いんだけど!?」
僕を見た凛ちゃんは、椅子ごと僕から後ずさりしていく。
今日は何かと後ずさりされることが多いな。いや、案外いつもされているような気もする。
「逃げないで早く僕をホイホイしてよ~」
「いや、ホイホイってなに!?」
僕に対して取り乱す凛ちゃん。未だ諦めず問い詰めるおじさん。
「凛、返事はまだか!? ワ、ワタシは変態なのかい!?」
「それより、お父さんの隣にいる気持ち悪い動きしてるのなんとかしてよ!?」
「そんなことよりも質問の返事をしてくれ!?」
「ああ、もう、しつこいっ! 変態かどうか不安になってる時点できっとそうだよ!」
おじさんはその答えを聞いて、ひどく落ち込んだ。
まるで燃え尽きて真っ白になってしまったかのように、力なく背もたれにもたれかかった。
それを見ていたおばさんはさらに笑い出す。
「あははははは、う、うちの娘、やっぱり変態ホイホイだったわ。あはははは」
◇◇◇
騒々しくなっていた僕達は落ち着くことにした。
凛ちゃんは声の張り上げ連発により疲弊して、僕がテーブルに置いていたお茶を手に取ると、ごくごくと最後まで飲み尽くした。
そんな彼女を見て「それ僕のおごりで、貸し一つね」と言うと、「今朝にマスクあげたから、無効」と論破された。
でも、何枚かの使い捨てマスクとお茶半分の値段的な差を考慮してか、彼女は財布からそっと五十円玉を僕の前に置いた。
僕のお金で買ったお茶をこぼしたサザンの弁償代で買ったお茶を飲んだ凛ちゃんにお金を渡された。
なんだか、一向に物が変わらないわらしべ長者になった気分だった。金額は減っているけれど。
壁に吊された時計を確認すると、短針がすでに夜であることを如実に示している。
「それじゃあ、そろそろ時間が時間なので帰ります。家族がご飯作って待っていると思うので」
僕はリュックサックを担ぎながら、席から立ち上がる。
「あら、もう結構時間が経ってたのね? 私も早く夕飯を作らなくちゃ」
おばさんもキッチンに向かうために、席から立ち上がる。
「そうだね。ワタシもそろそろお腹が空いてきた。早く食べられるように母さんの手伝いでもしようかな」
おじさんも、席から立ち上がる。
「……いや、まだ私はさっきの話の質問に答えてないけど?」
椅子に座りっぱなしの凛ちゃんは僕達に言った。
「「「あっ」」」
一同は彼女を見た。
「『あっ』って、皆忘れてたの!? あれだけ長い時間説明に費やしていたのに!?」
そういえば、そうだった。
彼女は僕達の言動に指摘を入れていただけで、質問には答えてもらっていなかったな。
まあ、実はその回答に意味なんてないんだ。。
階下につながるリビングの扉に向かいながら、解説する。
「あー、あれの答えはどうでもいいんだよ。僕が見たかったのは凛ちゃんの反応」
僕はドアノブに手を置いて振り返る。
「反応?」
彼女はよく分からないと言いたげに眉を寄せていた。
「そう、反応。今日の凛ちゃんはどこかおかしかった。ボケに対するツッコミだって激しくなっていたし、若干テンションも高かった。冷めている感じじゃなくてノリノリでアゲアゲ――のり巻きフライだった。その変化の理由って、凛ちゃんがアイドルになることにどこかワクワクしているからだよね?」
「…………」
彼女は不愛想だ。いつも不機嫌に、あるいは怒っているように思われてしまいがちな、感情の起伏が表層に出てきにくい、そんな人だ。
僕と彼女は小学校が違う。だから、幼い彼女の学校生活、同年代の他者と向き合う彼女を、僕は知らない。だけど、おばさんから聞いた話によると、今よりもっと自分の感情をうまく伝えられなかった小さい頃は、同年代の子や、クラスメイトと仲良くできなかったらしい。
そんな過去も経験する彼女が抱いた、喜びや楽しさ……そして、期待。
いつもなら全部彼女の中に収まってしまいそうなそれが、家族や幼馴染の前とはいえ、今はここまではっきりと伺える。
「僕はそんな君をしっかりと感じられたら、とても納得できると思った。言葉や理由より、君の活き活きとした表情や普段より高めな声が物語る心を感じたらね。だから、溜めに溜めて盛大に馬鹿なこと言った。君に今起こっている変化を引き出すために。おばさん達はそれに途中で気づいて、僕と一緒に道化側に回ってくれたんだ。そうですよね?」
僕が笑顔でおじさんとおばさんの方に振り向くと、二人は気まずそうに眼を反らした。
「……あの……ごめんなさい。……私は面白いからただ笑ってただけなの」
「……ワ、ワタシも、ただ尋ねたかっただけだ」
「…………」
「…………」
凛ちゃんは通学の時でも、耳に小さなピアスを付けて、シンプルなネックレスを付けている。無愛想も相まって不真面目そうな印象を与えがちだが、その外見に似合わず生真面目な性格なのは、親から受け継いだものだろう。
僕はその時、強くそれを実感した。
この日、渋谷家は紆余曲折しながら、最終的に全員が『凛ちゃんがアイドルになる』ことを了承した。