渋々   作:十郎

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05 憧れと性別と恋

 僕がバイトとして、花屋で働くことになった次の日。

 いつも通り授業を受けて、お天道様の日差しが最も強くなる時間帯を迎えた僕ら学生は、等しく昼休みを過ごしていた。

 僕の隣では、クラスメイト兼、金髪兼、元野球部兼、サザンクロスさんこと、サザンがクラスメイトから席を借りて座っている。その机の上には現在、彼の黒色の二段弁当だけでなく、お茶とおしぼりも彼の手によって用意されていた。

 以前、彼は凛ちゃんがアイドルになることに驚倒して咳き込み、自分の飲料が手元になかったために、他人のお茶を借りてインド飲みをした結果、口からお茶を吐き出して周囲をお茶漬けにしたからだろう。それまでは弁当箱と身一つだけで、教師の熱視線と相対し、全てを明け透けに監視される机界の最前線である僕の席まで来ていたが、今は最悪の事態に備えてお茶とおしぼりを準備して食事へ臨むようになっていた。

 加えていうなら、お茶吹き出し事件による彼の行動変化はこれだけではない。もう一つ顕著な違いがある。

 かつての彼は、飲料を飲む時はなんの恐れも抱いていない勇猛果敢な姿勢を見せていた。だが近頃は、彼の荒っぽい振る舞いとは似つかわしくない、及び腰気味にちょびちょびと飲む姿が見かけられるようになった。おそらくあの惨劇の影響であるに違いないだろう。

 喧騒激しい学内とは打って変わって、僕と、その隣にいるサザンとの間には会話がない。二人黙々とご飯を食べている。

 僕とサザンは互いに沈黙しているが、今の状況がそれほど珍しいわけではない。むしろ、頻繁に起こる現象である。

 僕も、サザンも、毎日昼休みの話題を事前に準備してくるようなコミュ力の鬼ではないし、会話がないことに焦って冷めた話題を絞り出す果汁ボーイでもない。

 話すことがなければ、話さない。それを許容し合う。互いに無言であることが、それすなわち、空気が悪いとはならない関係だ。

 これは周りのクラスメイトと比べても、珍しい状態ではない。他のご飯を共にしているグループにも、似たような距離感の者達はたくさんいる。

 例えば、相手と一緒にお弁当を食べながら、何も喋らずスマートフォンだけを叩いているという、流行のマナー違反をする連中は数多存在するし。片耳にイヤホンをつける輩も、また、その進化形として、両耳にまでイヤホンをつけて会話する気ゼロという、『もう一人で食べろや』と、思わずツッコミが大阪弁になってしまうほどの強者だっている。

 つまり僕達は、現代人のスマートフォン活用術が横行する昼休みの食事風景としては、少なくない部類に該当する。まあ、僕達以外、スマートフォンを触っている部類だけれど。

 そんな事を考えていると、ふと頭の中に閃きが訪れた。

 僕は箸を弁当箱の上に置く。そして、ポケットからスマートフォンを取り出し、空いている机上に据え置く。

 スマートフォンといえば、オペレーティングシステムという分類で大枠の二種類あるが、僕の物はリンゴマークの方である。色はホワイト&シルバー。それをクリアカバーで覆っている。

 高校入学を機に家族と相談して、連絡手段として持っておこうと買った物だ。

 連絡を取るだけが目的だったので、最初はスマートフォンより本体も通信料も安い、旧時代の携帯であるガラパゴス・ケータイを買うつもりだった。けれど、一緒に携帯ショップに来ていたお祖母ちゃんが、最新の物を買っていた方が、色々と便利だろうという憶測と、おそらく孫に良い物を与えたいという祖母心を詰めて、スマートフォンをかなり推してきた。

 結局、僕も次第に、日常的に持ち運ぶ物であるから、それ相応にお金を掛けるべきかもしれないと思い始め、お祖母ちゃんに同意する形で、スマートフォンを選ぶことになった。

 弁当の隣に鎮座している、手よりも少し小さいそれをじっと見つめる。

 購入して、まだ一ヶ月も経っていないからか、こんな小さな物で、電話やメールに加えて、ブラウジングや動画視聴、果てはゲームまでできる新鮮味が、未だに抜けきらない。

 スマートフォンは側面の電源ボタンを押していないから、画面は真っ黒なままだ。

 こ、このスイッチを押せば、僕は……。

 ゆっくりと手が進むが、目的地に辿り着く前に、空中で静止する。

 僕の心中では、大きな葛藤があった。二律背反の考えが心を駆け巡っている。

 普段の僕は決して、スマートフォンを操作しながらご飯を食べる――通称、『スマホ飯』、『ながら飯』をするような蛮族ではない。

 僕の家族――特に母さんは、いつも行儀に関して口うるさくて、その影響を幼い頃に強く受けて育った僕は、ご飯中に他の作業を並行したりしない。まして、退屈しのぎに本や漫画、そしてスマートフォンを片手にご飯を食べるなんて、一度も行ったことはない。

 ただ、ふと気付いてしまった事実が、僕を惑わせた。

 このスマートフォンを使えば、学校と学校の垣根を越えて、幼馴染みと連絡を取りながら、楽しい食事会を開けるのではないかという、画期的な真実に。

 僕は震える手をおもむろに動かし、机に置かれたスマートフォンに向かわせる。

 一センチ進む度に、幼少の頃から植え付いた教えに背く罪悪感で、胸が締め付けられる。だが、比例するように期待もまた高まってしまう。

 これが巷で噂されている『スマホ依存症』、その第一歩なのかも知れない。

 己が積み上げてきた習慣でさえ、一瞬で路傍の石ころに変えてしまう便利さの魔力。抗いがたいこの魔力に、僕は負けてしまうのか。

 僕はこのまま、信念やプライドの欠片もない堕落者となり、近代のIT革命の波に乗るイケイケな若者として、前時代的な慣習をぶち壊す勢力へ回ってしまうのか。

 僕の意志が、今試されている。

 僕はゆっくりと動かしていた手を、手早く前に出してスマートフォンを掴む。そして、側面のボタンを押して画面を明るくする。

 ホーム画面にある緑色のアプリをワンタッチ。凛ちゃんにLI○Eでメッセージを送る。

 

『昼休みナウ』

 

 やっべ、まじこれ、やっべ。これからの昼休み、凛ちゃんと楽しい一時を過ごせちゃうとか、やっべ。

 僕の意志は、今のひと時を大切にすることに傾いていた。

 

 ◇◇◇

 

 ただひたすらに、口に料理を運び、その味わいに没頭すること数分。

 いつまで経っても返事が送られることはなく、気になった僕がアプリをもう一度開いてみると、『既読』だけがついていた。

 僕はスマートフォンを鞄にしまった。金輪際、ご飯中に奴と関わることはないだろう。

 ちょっぴり切なくなって、どうしてあんなことをしてしまったんだ、なんていう後悔も重なってソーセージを齧る僕を尻目に、クラスメイトの男子が、大きな音を立ててドアを開ける。

 

「皆、大変だ!」

 

 彼はクラス中に響くような大きな声で伝える。

 

「あの人が! この学校屈指の伝説が、このクラスに向かっている!」

 

 その言葉は伝播していき、クラス中が――否、クラスの男子達がどよめきだし、高揚と、恐怖と、喜びという混沌とした感情の渦に、教室が包まれる。

 

「ひいいいいっ」

 

 一人は腰を抜かし。

 

「お、俺は……俺は嫌だ! アイツに捕まりたくない!」

 

 男子数人は机や鞄などにぶつかりながら、逃げるようにクラスから出ていく。

 その一方で、喜びの声をあげるクラスメイトもいる。

 

「あのお方が、参られたぞおおおお!」

「よっしゃああああ!」

 

 喧騒に包まれるクラスの中、僕は一体なにが来るんだと困惑しながらも、この暇でしかたない時間を潰せると、どこか期待を寄せていた。

 

「お、おい、あの方の音が聞こえてこないか!?」

 

 一人の男子の言葉で皆が口を閉じて、周囲の音に耳をすませる。

 コン、コン、コン、コン。

 それはコンクリートに硬いものをぶつけているような音。それは一定のリズムで、まるで人が歩いている間隔で鳴っているように思える。

 だが、上履きならあんな音は出ない。もっと硬くて足音が出やすい構造の靴。そう、ヒールみたいな物でなければ。

 そんな考察をしていると、隣で大人しくご飯を食べていたサザンが、辛気臭そうな表情で喋りだす。

 

「……ちっ。会いたくねえ奴が来ちまったか」

「誰が来るの?」

「……多くの者を深淵へと導くデーモン」

 

 僕の質問に何を答えるかと思えば、小難しい言い回しでちょっぴり痛々しい、訳の分からない言葉。

 暗鬱なサザンを尻目に、ドアの前でその音はピタリと止んだ。

 そして、誰もが息を呑む中、ドアが勢いよく開く。

 

「ここに、渋谷凛さんの幼馴染はいるかしら!?」

 

 威勢のいい声と共に現れたのは、一人の女子生徒。

 肩まで伸びる、ふんわりパーマで艶のある黒髪。鼻筋が通った鼻と、口角が上がった瑞々しい唇、吊り上がった目尻でビー玉みたいな大きな瞳が、はつらつとした表情をさらに強調させて、元気溢れる愛嬌を感じさせる。

 当然同じ高校なのだから、学校指定の白ワイシャツに、紺色主調のストライプリボン、黒カーディガン、あずき色のブレザー、グレーのチェック柄スカートを着ている。

 だがしかし、ここらの学生にしては珍しくスカートの丈が膝下まで伸びており、ストッキングに包まれた脚の先には、なぜか上靴ではなくヒールを履いている。

 図体は普通の肉付きであるが、すらりと伸びた足と、胸部装甲が皆無であるのが特徴だ。凛ちゃんの身長が百六十半ばあたりであるから、それより少し小さい彼女からヒールで水増しした分を引けば、おそらく百六十をいかないだろう。

 総じて、僕から見た彼女の印象は、少し服装が珍しいだけの、可愛い女の子だった。

 あれだけ雰囲気を出していた割に、案外インパクトに欠ける人が現れたので、僕は肩すかしを食らっていた。

 しかし、クラスの幾人もの男子は喜び、歓声を上げる。

 周囲では、抱き合いながら嬉しがる男達がいたり、「彼女をおかずにご飯三杯はいける!」とご飯を掻き込む変態がいたりする。

 

「このクラスの騒ぎようはいったい? ……というか、凛ちゃんの幼馴染って僕のことか?」

 

 予想もしない名前が挙がったことで、考えを巡らすのが後回しになったが、ここで一番その条件が当てはまりそうなのは僕だ。

 しかし『幼馴染』なんて言葉は、言った本人のニュアンスによって絞る人物が大きく異なりそうな言葉だ。

 昔からの顔馴染みという意味なら、僕以外にも該当者がこの中にいるだろう。小学校、中学校が凛ちゃんと同じだったサザンだって、その一人だ。

 

「そう、あなたよ。幼馴染くん」

 

 僕の疑問に答えたのは、机の前まで移動してきた件の女子生徒だった。

 彼女はちらちらと周囲を観察して、持ち主が学食に行って誰も座っていない椅子を見つけ出すと、えっちらおっちらと僕の机の前にその椅子を運んで、その上に座った。

 そして僕の方を向くと、自分の胸に手を当てて語りだす。

 

「改めて……、初めまして、凛さんの幼馴染くん。私の名前は美城要(みしろかなめ)。昨日346プロ経営のカフェでたまたま凛さんと知り合って、たまたま彼女がアイドルであることを知って、たまたまあなたの話を聞くことになって、たまたまあなたと同じ学校だったから、今日会いに来たの。これからよろしくしてほしいわ」

 

 彼女は、丸っきり初対面であるはずの僕に気さくに話しかけてきて、花が咲くような笑顔を向けてきた。

 

「ああ、うん、よろしく。美城……さん?」

「同学年だから『さん』はいらないわよ。それに美城じゃなくて、要って呼んでくれると嬉しいわ。私、芸能業界きっての一大企業である346プロダクション会長の子供なのよ。美城だと会社の名前と被っちゃってよく分からなくなるから、あんまり呼ばれたくないの」

 

 コミュニケーション能力にたけているのか、それともただ友達の友達は友達を素でいくタイプなのかよく分からないが、彼女は他人に臆していない。言い換えれば、子供っぽい無遠慮さがある。柔らかさを感じる表情と仕草、加えて、少し童顔な面も合わさって、他人に緊張感というのをあまり抱かせないタイプに思える。

 凛ちゃんと知り合って昨日の今日で、僕に話しかけるアグレッシブさも鑑みると、友達多そうな人だ。

 

「そう。なら要って呼ぶよ」

 

 最近僕の日常でよく耳にする、346プロダクションと関係がある人物なようだったが、芸能事務所にはさして興味が無いので、特に驚きも、好奇心も湧かなかった。

 むしろ会話の中に、若干実家の自慢が入っていたことの方が気になったが、僕はそれを無視して、彼女の提案を軽々しく受け入れるのだった。

 

 ◇◇◇

 

「それで、凛さんというアイドルの幼馴染であるあなたに、折り入ってお願いがあるのよ」 

 

 僕のことを知っている要にも、一応の自己紹介をし終わった後。

 彼女は、机を跨いで弁当のエビフライを掴もうとしている僕に、わずか数十センチの距離まで顔を近づけてきた。

 

「おおぉっ」

 

 彼女の気迫と、顔面の近さに、思わず上体を後ろに反らす。

 

「私が人生でアイドルの幼馴染に会ったら、絶対聞こうと思ってたことに、答えてもらえないかしら?」

 

 なんだろう、その僕が偉くピンポイントに回答者として抜擢されそうな質問は。

 

「別にいいけど、なに聞きたいの?」

「ほんとう!? じゃあ、早速だけど質問するわね! ……ずばりっ、幼馴染がなぜアイドルになれたんだと思う!? あなたにとっては、凛さんということになるのだけどっ!」

「顔」

「…………」

 

 僕が真顔で即答すると、彼女は元気と勢いを失って、呆気に取られた顔をした。

 だが、すぐさま自我を取り戻して、眉間に皺を寄せて、すっぱい物を食べた後のような顔をする。

 

「な、なんだか予想していたのと違うわ。……そうね、言葉が足りなかったわね。こう一般的な意見じゃなくて、幼馴染の観点から、もっと掘り下げた意見を言ってくれないかしら?」

 

 幼馴染から見た、凛ちゃんがアイドルになれた理由。

 なかなか難しいことを聞いてくるな。

 凛ちゃんに関することなら、知識人と自称しても差し支えないレベルかもしれないが、事アイドルに関しては、その存在自体、僕の中で明確に確立していないのだ。

 もちろん、テレビ等を通して簡単なイメージならあるが、他人にさして価値を感じない僕の性質上、自分と全く無関係な個人へ好意を寄せることはなく、言い方は悪いが、その好意でお金を稼ぐアイドルの知識は必然的に乏しい。『容姿に自信のある子が、歌って踊って、その他色々と活動する』、そんな抽象的な像が、僕の思い描くアイドル像である。

 そうなると、凛ちゃんのどの部分がアイドルに向いていたかなんて質問には、具体性の欠ける答えしか用意できなくなってくる。

 

「うーん。……そもそも、なんでそんなことを聞きたいの?」

 

 僕が尋ねると、彼女は僕が箸を持っていない左手を、両手でガシッと握り、嬉しそうに上下に振る。

 

「よくぞ聞いてくれたわ!」

 

 彼女は目を瞑りながら、ゆっくりと席から立ち上がる。自身の胸に左手を置いて、右手で力強く握り拳を作る。

 そして、かっと目を見開く。

 

「それは、私がアイドルに憧れているからよ!」

 

 立ち上がったままの彼女は、そのまま天に祈るように両手を絡めて、恍惚とした表情をしながら話を続ける。

 

「幼少の頃から、私は可愛くて、綺麗で、素敵なアイドルが大好きで、アイドルのような魅力溢れる素晴らしい人になりたいと常々思っていたの。でも、昔から取捨選択ができなくて、四方八方、選り取り見取りで皆大好きだからこそ、憧れを一人の人物には絞れなかった。だから、彼女達が持つ輝かしい魅力について分析し、研究し、私の私による私のための理想のアイドル像――つまり、なりたい自分を目指すことにしたわ。時には両親や、姉や、友人。時にはアイドルファンや、芸能関係者。時にはアイドル本人にも話を伺って、私自身がなりたいと思い描く、理想の存在とは一体何か。その存在に近づくために必要なものは何か、ひたすらに研磨してきたわ。でも、未だ明確な答えは出ていないの。アイドルがスカウトや選考を潜り抜けて、普通の女の子から輝かしいアイドルという存在になったというのなら……、容姿はもちろんのこと、個性、性格、運みたいなアイドル足り得る素晴らしい要素の何かが、他人より優れているからだと思うわ。そして、それらが私にアイドルへの憧れを抱かせているものであるはずなの。ただ、私はその要素が全部優れていて、ただ全部寄せ集めた存在になりたいとは思わないの。もちろん大切なことではあるのだけど、それは十人十色、人それぞれが持つべき個性でなければ意味がないわ。私が私でありながら、アイドルみたいな魅力ある人になる、そこが大切なの。優れた要素で塗り固めただけの存在は、もはや私ではない別人になってしまうから。それに、私が憧れた多くのアイドルは、皮だけ被れば、成り代わられてしまうような人じゃなくて、生まれ持っての天性とか、これまでの歩んだ人生で育まれたオンリーワンな魅力を持っていると思うわ。だから、私はこう考えたの。個人が持つ魅力的要素を包括して、総合的に一人の人間として評価を下す時、全てのアイドルが当てはまる抽象的な共通点。要するにアイドル足り得る人物とは、一概念的にどんな人か。その答えに見合うことだけが、私らしくアイドルのような魅力ある人になるために、必要不可欠なことだと。そして、肉親や、あなたみたいな幼馴染のように、アイドルの原石に長年寄り添ってきた人達なら、身近に見てきたことで、一面的でない彼女達の魅力を認識しているから、私が求める答えを知っているのかもしれない。そう考えてあなたに質問したのよ!」

 

 喜怒哀楽の様々な様相を用いて語られる長々とした話が、終わった。

 満足したような笑顔で、要は席に座る。

 そんな彼女を見る僕は、この質問をしたことに若干の後悔が押し寄せていた。あまり興味のない内容を長々と語られたのもさることながら、なんだか僕の回答に偉いほどの期待が寄せられていると、知らされる羽目になったからだ。

 心なしか目の前にいる要の瞳が、話を聞く前より、キラキラと輝いているような気がする。

 とりあえず、僕は視線を机の弁当に向ける。おかずを口の中に入れて頬張った。もしゃもしゃと口を動かしながら、回答を考える。

 数十秒が経った。

 僕は口の中にある食べ物をごくりと飲み込んで、答えを口にする。

 

「……そういうのは、自分で答えを見つけるべきだと思うよ?」

「…………」

 

 彼女の瞳は一瞬で輝きを失った。

 いや、そんな顔をされても、仕方ないじゃないか。

 凛ちゃん自身の魅力を、僕が語るなんて、そんなおこがましいことはできない。それに、そんな僕が用意できる唯一の答えなんて、高が知れている。

 アイドルであるから、魅力がある。愛している型にはまった存在だから、魅力がある。

 そんな元も子もない虚しい回答を、わざわざ僕は口にしたくないし、ついでに、長年思索に耽ってきた君が、聞きたがっているとも思えないのだから。

 なんとも言えない空気感が、僕達を取り囲む。

 とりあえず、僕は現在進行形でクラスに起こっている変化について、隣でずっと黙りこくって、そっぽを向いて、顔を隠すように俯くサザンに尋ねることにする。

 

「ねえ、サザン。周囲の男子数人が、一様に僕を睨んでいるんだけど……なんで?」

 

 僕の席は一番前に位置しているために、気付くのが遅れたが、多くの刺すような視線が僕の背中へ向けられていた。

 

「…………」

「おーい、おーい」

「…………」

 

 サザンの肩をバシバシと叩くが、サザンの反応はない。まるで屍のようだ。

 要が教室に入る前に言っていた彼の痛々しい発言からして、このクラスで起きている現象の理由を知っていると思ったけれど、これじゃあ役に立たない。

 

「あ、ああっ! 佐山君じゃない! 髪の色が変わっていたから、気付かなかったわ!」

「あれ? 知り合いだったの?」

 

 最近は皆がサザンって呼ぶから、本名の方を忘れそうになるが、彼の名前は佐山十三(さやまじゅうぞう)。

 高校デビューを機に金髪に染めた成金野郎である。地毛は黒髪なので、中学の時とは印象がかなり違う。僕も慣れるまで、サザンに話しかけられても誰だか分からなかったほどだ。

 

「ええ。中学の時に彼ともたまたまCDショップで知り合って、その……色々と交流があったのだけど……最近は連絡が取れなくて。……お、おおーい、佐山君?」

 

 彼女も僕と同じように、サザンの肩をトントンと叩く。

 

「…………ちっ、聞こえてるよ」

 

 すると、サザンは苛立たしげに要の腕を払いのけて、返事をした。

 明らかに仲良しではなく険悪なムードを出すサザンと、その姿を見て悲しそうにする要。

 サザンは腕を組みながら、隣に座る僕だけを横目で見る。

 

「どうしてクラスの奴らがお前を睨んでいるかって質問だったな……。答えてやるよ、その質問」

 

 おい、僕の質問しっかり聞こえていたんじゃないか。なんで僕の声では返事しなかったんだよ。

 

「その理由はな。……コイツが――」

 

 サザンは要を一瞥する。

 そして一泊間を置くと、答える。

 

「――コイツが『アイドリングストップ』の名を冠する、アナザーネーム(異名)持ちだからだ」

 

 僕は別段その事実に驚くことはなく、淡々とそれを受け入れた。

 なぜなら、クラスメイトの異様な騒ぎようから、彼女が只者ではないことは分かっていたからだ。

 僕達一年が高校に入学してから、まだ一か月にも満たない期間しか経っていない。それにもかかわらず、他クラスにまでその異名を轟かせるなんてことは、クラスメイトが言っていたように、まさしく伝説に相応しい存在でなければ到底可能ではない。

 

「コイツが『アイドリングストップ』と名付けられた意味は二つ」

 

 そう言って、サザンは二本の指を立てた。

 

「一つ目は、コイツの性質だ。天性のアイドル好き故に、その話題ならばどんな相手にでも飛びつき、ペラペラと矢継ぎ早に会話をする。その終わりなき洗礼を受けた者達が、『アイドルのトーキングはもうストップ!』と一度は言ってしまうことから名付けられた」

 

 その話を聞いて、要は気まずそうに縮こまる。

 なるほど。僕も先ほどのとても舌が回る演説に辟易としていたが、多くの人もそう思っていたようだ。さながら、始業式や終業式で行われる校長先生の長話のようだった。

 僕みたいな連中からしたら、たまたまアイドルの話題を出しただけで飛びつかれて、面倒くさいことこの上ない。

 要の勢いのあり過ぎる言動を物語った異名。

 悪くない。悪くはない異名だ。だがしかし、良くもないというのが僕の感想だった。

 第一に、異名に無理矢理感が強過ぎてすんなり受け入れられない所だ。

 みんながみんな矢継ぎ早に紡がれるアイドルの話を止めてほしいと思うのだろうか。もし会話相手がアイドル好きの人であれば、むしろ共通の趣味で盛り上がれて楽しいはずだ。好きなことについてずっと話し続けてくれる人がいるというのに、その会話をわざわざ自分から打ち切りたいと思うことがあるだろうか。用事があるみたいな外的な要因を除けば、話し続けたいと考えるのが普通だろう。

 この異名はその理由に対して違和感を抱かせ過ぎている気がする。

 そして第二に、この理由ではインパクトが欠け過ぎている。これではせいぜいクラスの変わり者程度の扱いが関の山だろう。クラスさえ超越し、生徒の間で伝説とされている者の異名が、この程度の理由で収まっているはずがないと思う。

 僕の違和感を抱いた表情を確認したサザンは、なぜか辛そうに顔を歪めながら話を続ける。

 

「……一つ目は、二つ目の意味を知らずに異名を吹聴した奴から広がった誤用みたいなもんだ。二つ目こそが、この異名の真の意味。コイツの生まれ持っての優れた容姿と、アイドルみたいな素敵な人になりたいという願いから磨かれた愛嬌と、元来の性格による気さくさ。それらによって生まれた『アイドル並みの可愛さを止めてくれ!』という、一部の男達の切実な願いがこの異名には込められている」

「ん? ……二つ目が意味分からないよ。僕ら男からしたら、『可愛さ』は望むべきところじゃないの?」

 

 僕の至極真っ当な疑問を、サザンは鼻で笑う。

 

「……はっ。普通の女子ならそうだろうな」

 

 彼はそのまま、自嘲気味な面持ちで言う。

 

「だが、コイツは男だ」

 

 え、嘘でしょ?

 僕は間違いなく女性と断定していたはずの人物へと、顔を向ける。

 そこには当たり前のように頷く彼女、否、彼の姿があった。

 

「そうよ。さっきも言ったように、私は小さい頃から女性アイドルに憧れていたの。私は男だから女性アイドルにはなれないけど、女性用の服や、化粧とか、そういった物を自ずと好むようになったわ」

「でも……制服が女性用だよね?」

「ええ、好きだから、休み時間になったらいつも着替えてるの。もちろん、授業中はちゃんと男性用の制服を着てるわよ。ちょっと手間暇がかかるけど、なんたってこの学校を選んだ理由が、女性用制服が可愛いって理由だったりするから、そこまで気にしてないわ。まあ、高い声で口調も女性っぽくしてるから、分からないのも分かるわよ。……ふふ、この声凄いでしょ? この可愛い声で地声なのよ」

 

 そういって、嬉しそうに胸を張る要は、どこをどう見ても女性だった。

 サザンは苛立ちを噛み締めるように、歯軋りする。そして、そんな彼の姿を見た要も、はっとしたように表情を暗くした。

 

「……そして、その愛嬌溢れる姿と豊かな表情、同性ゆえに男性へのボディタッチの気安さを持ちながら、アイドルの話題となればコイツは、『どんな相手』にでも笑顔で楽しそうに話しかける。たとえそれが、冴えない男だろうが、非モテ男子だろうが、キモオタだろうがな。そしたらどうなると思う? 答えは決まりきってる――」

 

 サザンは両手でハートの形を作る。

 

「――フォーリンラブ。恋に落ちちまうわけだ」

 

 愕然とする僕。

 色々と言いたいことはあった。

 どうやって女性用制服を手に入れたとか。要の声帯における二次性徴はどこへ行ってしまったんだとか。手でハートを作るポーズは、男がやると本当に気持ち悪いから止めてくれとか。

 本当に色々と言いたいことがあった。

 でも、僕が一番に信じられなかったのは、世のモテない男子達の惚れっぽいハートだった。

 

「そんな馬鹿な」

 

 僕は否定の言葉を口にした。

 そんな僕にため息をついたサザンは携帯を取り出し、どこかに電話をかける。

 プルルル。

 教室に着信音が響き渡る。

 その音源に視線を向けると、その先にはとある人物が、携帯を耳に当てて通話を開始していた。

 

「俺だ。わりぃけど、お前の力を貸してくれ。少々頭の固い奴がいてな。これ以上一人で解説をしていたら、惨めで仕方ねぇんだわ」

 

 サザンはどこかの誰かに、電話で話しかけた。

 

「畏まりました。今すぐそちらに向かいましょう」

 

 視線の先の人物も、携帯でどこかの誰かと話していた。

 サザンともう一人は、互いに同じタイミングで通話を終える。そして、もう一人は移動してこちらに向かってきた。

 

「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃーん。こんにちは、皆さん。そしてごきげんよう、姫。竹下でございます」

 

 僕達の前に現れたのは、かの偉大なるアナザーネーム持ちにして、その若さにして、頭にあるべきものを失った『ウェーブフラット』の竹下であった。

 室内にもかかわらず、頭頂部のツルツルを隠すようにシルクハットを被っている。

 彼はそれが落ちないように右手で器用に押さえながら、左手を腹部に当てて、綺麗に一礼した。

 

「……あの、姫って呼ぶの止めてもらえないかしら? やっぱり恥ずかしいのだけど」

 

 そう言って、苦笑いを浮かべる要。

 どうやら竹下とも知り合いだったようだ。

 

「申し訳ございません。それだけは了承できないのです。これは姫への敬意の表れであり、これを止めることは、即ち不遜な行いなのです。ワタクシには、そんな恐れ多いことができません。どうかワタクシめの我が儘を、ご容赦ください」

 

 もう一度竹下は頭を下げる。

 

「……わ、分かったわ」

 

 仕方なく納得した要をさて置いて、サザンは語り始める。

 

「それで竹下を呼んだ理由だが、察しの良いお前なら分かる通り、奴もまたこれだからだ」

 

 そういって、サザンは手で作ったハートをぐるぐると回す。

 なにそれ、流行っているの?

 というか、その話より先にわざわざ竹下に電話を掛けた理由を教えてくれよ。同じ教室にいるんだから、普通に呼べばすぐ来たでしょ?

 竹下はサザンの机の前、つまり僕の斜め前、要の横を陣取ると語りだす。

 

「僭越ながら、ワタクシも姫の魅力に落ちた一人。高校という新しい舞台で、一念発起して女子に話しかけたワタクシでしたが、相手方はワタクシの頭に注目するばかり。変わらないこの世界と自身に失望し、せめて住む世界が違うアイドルの笑顔に癒やしてもらいたい。そんな思いから夕暮れの放課後、書店でアイドル雑誌を開いたところで、姫と出会ったのです。彼女は私の頭を気にする素振りも見せず、雑誌のアイドルについて楽しそうに説明してくれました。……その後は、特に語ることはありません」

「俺も似たようなもんだ。中学二年生の秋、ドM野郎には一緒にいてくれる美人な幼馴染がいるのに、何故か俺にはいない。『顔か、やはり顔なのか、変態でも顔が良ければそれでいいのか』と、日々募る負の感情を抑えるために、ファンだったアイドルの元気な歌声を求めてCDショップに寄った。そして、その時、コイツに出会った。その後はアイドルファン同士ということもあって、お互いの見解を話し合ったり、ライブを一緒に見に行ったりと、色々と交流があったんだが……まあ、後は特に語ることはないな」

 

 二人とも特に語ることもなく、恋に落とされたことがよく伝わってくるよ。

 その頃を懐かしむような表情を浮かべる竹下とサザン。

 しかし、すぐに悲しそうな顔に戻る。

 

「だが、要は男だ。最初は知らなくても、どこかでこの問題にぶち当たることになる」

「真実知った者に残された道は二つしかありません。……自身の恋心を封じるために距離を置くか、それを知ってもなお、茨の道を突き進むか」

 

 そうか。だから、要が教室に来ることを知ったクラスメイトの数人は、恐れをなして逃げ出したんだ。

 自身が消し去りたい恋の過ちである存在に恐怖し。男に恋したなんて、今の日本では間違いなく異色とされる自分の性癖を危惧し。要に近づくことで、心の奥にしまいこんだ恋心が再び目覚め、またハートキャッチされてしまうことを憂慮した。

 

「なら、今もなお僕のことを睨みつける連中は……」

 

 何となく全貌が見えてきた僕が小さく呟くと、それを拾い上げたサザンと竹下は、言葉を付け加える。

 

「大方、お前の予想通りであるはずだ」

「茨――いえ、正確にはバラの道を選んだ男達の、哀れな嫉妬といったところですかね」

 

 やれやれと竹下は首を振った。

 

「……まあ、その道を選んだところで、悲劇は終わらないけどな。……なんせ、コイツはそのなりにして、男に興味がねーんだから」

 

 サザンの言葉を受けて、気まずそうに要は口を開く。

 

「……その、告白してくれる人に悪いとは思うんだけどね。綺麗だとか、可愛いだとか言ってくれるのは、アイドルみたいな魅力的な女性像を目指す私にとって、とても嬉しいことなのだけど。でも、やっぱり私は女性の衣装とかに興味は合っても、男の子が好きなわけじゃないの」

「……さっきお前が、俺に誰が来るのか尋ねた時、俺がなぜコイツをデーモンと表現したか今ならわかるだろ? このくそったれ野郎は、小悪魔なんて――リトルデビルなんてレベルじゃねえ。恋した者を地獄に叩き落とす悪鬼――デーモンだ!」

 

 恋に落ちてしまえば、後は何を選んでも地獄。恋心を否定すれば人生のトラウマとなり。肯定しても、想い人が自分に振り向くわけではない。

 八方塞がりの状態でできることは、結局、悶々とした想いを胸に抱くことだけだ。

 サザンの酷い言いように、本人はズーンと落ち込んでいた。

 だが、サザンはさらに憤激して、机を拳で強く叩きつける。

 

「ひっ!?」

 

 要は突然響き渡る大きな音に驚いたのか、思わず声を上げてぎゅっと目をつぶり縮こまる。

 

「畜生! もっと早くコイツが男だって知っていれば、こんな思いをしなくて済んだのにようっ! ……コイツと一緒の高校に行きたくてこの高校選んだのに、受験会場でたまたま会ったら、男子生徒の制服着てたんだぜ。それで、突然本当は男でしたって告げられて……、今まで好意を抱いていた女が男だったなんて事実、簡単に受け入れられるわけねーだろ! 男とイチャイチャしてる姿見たなら潔く諦める覚悟はあった! でもこんな事実を突きつけられて、俺の気持ちはどうしたらいいんだよ!」

 

 感情が抑えられずに絶叫するサザン。彼の暴走は止まらない。

 席から立ち上がって、要を射抜くように鋭く睨み付けながら、強圧的な低い声で言う。

 

「ここの高校に通うようになってから、お前と同じ中学の生徒に聞いたよ……。お前、別に周囲に男だって隠してなかったんだよな?」

「え、ええ……」

「だったらなんでだ? なんで俺にはすぐに教えてくれなかったんだよ、かなめぇ!」

 

 サザンが今日一番に出した大声は、教室中を静まり返すのには十分だった。

 誰もが唇を閉じる中、サザンだけが言葉を続ける。

 

「……お前が早く性別を教えてくれたら、俺は決してこんな苦労を背負い込むことはなかった。一年以上もかけて膨れ上がったこの煩わしい思いを抱える必要はなかった。……なあ、やっぱりお前は、ずっと俺の心を弄んで楽しんでたのか?」

「そ、そんなことは……」

 

 要は威圧的に責めるサザンに対して、伏し目で頼りない否定をする。

 その姿が、サザンの癪に障ったのだろう。彼はいっそう眉をつり上げる。

 

「違うっていうのかよ!? 他校とはいえ中学の頃からの付き合いだぞ。私生活の話だろうが、トイレの時だろうが、些細なことからでも、性別を教える機会なんていくらでもあっただろうがっ! それに俺が男女間で行うような好意のアピールした時でも、お前に告白した時でも、ばっさりと事実を伝える機会はあったはずだ! それなのに、気付いてないふりして、答えを引き伸ばして、抽象的な言葉で誤魔化して、なにもなかったことにしたのは、どう考えても意図的だったようにしか思えねぇよ! ……どうせ、どうせお前は憧れのアイドルみたいに人に好きになってもらいたいから、体よく俺をずっと弄んでたんだろ!? ……そんなお前のちんけな自己満足のために、俺はあんな苦しい感情を抱えることになったんだよっ! 人の気持ち馬鹿にしてんじゃねぇぞ! 分かってんのか! この変態クソオカ――つっ」

 

 サザンの言葉は途中で止まる。いや、止めさせられた。

 竹下が彼の顔を殴ったからだ。

 

「…………なにしやがる」

 

 低い声を発しながら睨み付けるサザンに、竹下は一礼する。

 

「申し訳ございません。ですが、貴方の言葉が行き過ぎたものだったので、止めさせていただきました。ワタクシの止め方もいささか暴力が過ぎましたので、報復に一発殴りたければ、どうぞご自由に」

「…………ああ、そうかよっ!」

 

 サザンは竹下の顔に、勢いよく拳を叩きこむ。

 強烈な力によって、竹下のシルクハットは宙を舞い、後ろによろけた彼は、黒板側の壁に背中を打ち付ける。そして背中を滑らすようにして、床の上に力無く腰を落とすことになった。

 不幸中の幸いだったのは、僕達の机が最前列であったために、机や他の人を巻き込まなかったことだ。

 クラス中が突如起こった喧嘩によって彼らに注目する中、サザンは苛立った様子のまま竹下に近寄り、壁を背に座る彼の襟を掴んで、強制的に顔を上に向かせる。

 

「結局はお前も同類だろうがぁ。……綺麗事言ってんじゃねぇぞ!」

「……ははっ、綺麗事ですか。……生憎、この頭になってから言われたのは、罵詈雑言の汚い言葉ばかりで、すっかり忘れてしまいましたよ」

 

 おどけたように喋る竹下のシルクハットは、殴られた勢いで彼から離れた所に落ちていて、その頭は無防備に大衆の目に晒されていた。

 

「てめぇ、ふざけてんじゃねぇぞ!」

「……くくっ、ふざけているですか? ははは、これは面白いことを言いますね」

 

 竹下は大袈裟に笑う。

 彼は右手を挙げてサザンの襟首を掴むと、眼前にまで引き寄せる。

 

「ふざけているわけないだろっ!」

 

 そして、その瞳に熱を携えて、声を荒らげた。

 

「貴方には分からないのか! どうして要さんが男だと隠していたか! 他の人には臆せず伝えても、あなたにだけは伝えなかった理由が! その気持ちがっ!」

「わかるわけねぇだろっ! 数週間前に知り合った程度のお前に、何が分かるっていうんだよっ!?」

「分かる、ワタシには分かる! 世間から、大衆から、周囲から、大きく逸脱した人間であるワタシには分かるっ!」

 

 ネタ以外で竹下がシルクハットを外した時、それは彼が本心を語る時だ。

 竹下の鬼気迫る表情は、それだけの重みがあった。

 

「若いうちに禿げたワタシは多くのものを失った! 愛も、青春も、プライドも! 何かが一つ違うだけで、多くが変わった! 生き方が変わった! 人の見る目が変わった! そんなワタシにできることは、ただ必死に隠すことだけだ! 恥を覆い隠し、本心を覆い隠し、何より頭を隠す! 男性でありながら美しい女性に憧れる要さんは、私と同じように周囲からは異質な存在だ! それが原因で周りから悪感情を向けられ、遠ざけられ、辛い思いをしたこともあったはずだ! それでもワタシとは違い、要さんは決して自分の異質さを隠すことはなく、堂々と胸を張って性別を受け入れていた! ワタシ自身も当初は要さんを女性と勘違いしていたが、些細な会話から本人に男であることを伝えられた! それでも諦めきれず告白した際も、要さんから男であることを理由にきっぱりと断られた! そんな要さんが、あなたにだけは故意で男であることを隠し通した理由は――」

 

 竹下が苦しそうに息を吸う小さな音が、この時だけは僕の耳にまで届いた。

 

「――要さんにとって、あなたが嫌われたくないほどに、とても大切な人になっていたからだとしか思えない!」

 

 竹下の紡ぎだすその言葉には、僕には理解できない多くの感情が詰まっていたように思える。

 友人を思いやる優しさ。想い人が自分より他の男を想っているという憤りや悔恨。なにより、他者と異質であることで、彼が味わった苦痛や悲哀。

 普通ではない。竹下と要が体験した苦難の原因は、ただそれだけだった。

 しかし、それだけのことで人は他者を同情し、嫌悪し、侮蔑し、嘲笑し、疎外する。

 僕達が竹下の頭を面白おかしく語るのも、要が男であることを嫌がるのも、結局のところ、何も変わらない。

 要や竹下はそんな周囲に立ち向かってきたのだろう。一方は厚い仮面で全てを覆い隠し、もう一方はひたすらに自身の想いを貫いた。だから、同じような境遇の人間の気持ちが、痛いほどに分かるのかもしれない。

 要がサザンの頭を気にせず話をしたのも、そんな要に竹下が魅かれたのも、共感する想いがあったからなのかもしれない。

 だが、サザンのような個々の性質に差異があっても、世間から一般と定義される者達には、その感情を認識できても、真に共感はできない。経験のない事実を聞いて慮るだけでは、限界があるからだ。

 サザンにとっては見えない繋がりが、要と竹下の間に確かにあったのだ。

 だからこそ、その繋がりの部分に置いては、決して長いとはいえない期間であっても、竹下の方がサザンより、深い理解に至れたのではないだろうか。

 

「……んなこと……」

 

 肺から絞り出したような小さな音の振動は、僕の鼓膜を微かに揺らした。同時に、竹下の襟首を握るサザンの右手は、力なく垂れ落ちる。

 僕の前で座ったままの要は、その姿に唇を開いては、言葉を飲み込んで、真一文字にその唇を閉じる。サザン達を見ては、次に自分の太股の上で閉じられた両手に視線を移す。何度も同じ仕草を繰り返すけれど、一向に声は上がらず、堅く握られた拳はスカートを巻き込んでいて、ファスナーに生地が挟まったように、うまく動かせていない。

 率直にいえば、僕は第三者だ。今目の前で起きている騒ぎは、僕と全く関係ない。勝手に始まったことだから、勝手に終わってくれたらいいと思う。

 ただ、食事中に目の前でこんなことをされては、最高の状態でお祖母ちゃんの弁当を食べることができない。他人に興味のない僕でも、濡れ場で食べるご飯の質は若干下がりそうなのである。

 つまり僕にも影響が及ぶのだ。それもお祖母ちゃんの弁当を美味しく食べることに関してだ。他人事とほっとく領域の話ではなくなってきている。

 だから、とっとと話を終わらせるべく、僕も少しだけ動く。

 要の背中を押す。力は余りいらなかった。

 元々、意志はあったのだ。ただ、足が竦んでしまっただけ。

 要の足は、要の予想以上にすんなりと立ち上がって、前に進んだようだ。僕に振り返った顔が、驚いたものだったのがその証しだ。

 僕は要に何も言わない。今この場で、言葉を紡ぐのは、あまりにも野暮というものだ。首だけを縦に振って、前を向けと合図を送る。

 サザンの前にいて、僕達のことを視界に捉えられる位置にいる竹下は、こちらの様子を見ていた。彼は要のヒールの大きな足音にも気付かないほど頭を悩ましている昼食時の僕の隣人に、声を掛ける。

 

「否定する前に……、本人の言葉を聞いてみるべきではないですか?」

 

 竹下もまたサザンの襟首から手を放し、首を振ってサザンに後ろを向くように促す。

 しゃがむサザンが後ろを振り向くと、そこには移動して近くまで来ていた要が立っていた。

 

「……要」

 

 彼の視線の先にいる要は、震える声を発する。

 

「……ごめんなさい、佐山くん。……私はあなたに嫌われたくなくて、あなたの勘違いに気付いていながら、ずっと男だって……隠していた。……昔から本当の性別を伝えたら……親しかった人でも距離を置かれることが、何度もあった。でも、それを小さい頃から何度も経験した私は、仕方ないことだっていつも心に折り合いをつけていたわ。だけど……私と熱くアイドルの話をしてくれるあなたは、本当に気の合う友人だった。……いつの間にか私にとって掛け替えのない人になっていて、……日に日に真実を伝えるのが怖くなってきて……。だから……自分のためにあなたを傷つけるようなことを……っ……本当に、本当にごめんなさい」

 

 要は深く頭を下げた。

 サザンはなんとも読み取れない表情で要をじっと見つめる。

 そのまま数秒間が経った。時が止まったように、誰もが息を吸うのも忘れて動けない。

 廊下を反響して他のクラスの騒ぎがこちらに届く。逆に言えば、それほどまでにこのクラス、この空間だけが音を失っていた。

 その静けさを瓦石のように、我関せずとばかりに、最初に動き始めたのはサザンだった。

 立ち上がり、要を無視してその横を通り過ぎる。

 彼のその行動が意味するのは、言葉にせずとも誰もが共通して理解しただろう。

 彼は要を拒絶したのだ。

 頭を下げた要は肩を震わせた。瞳から一滴の涙が重力に従って零れ落ちるのが見えた。

 竹下は怒りの表情で、もう一度サザンに訴えかけるために足に力を入れて、立ち上がろうとする。

 だが、彼が立ち上がることはなかった。

 なぜならサザンは、床に落ちた竹下のシルクハットを拾い上げ、ほこりを払いながら二人の元へ戻ってきたからだ。

 彼は要を背にして、帽子をぶっきらぼうに竹下の頭に被せる。

 

「……殴って悪かったな」

 

 僕からはサザンの表情は見えない。けれど、その顔を見た竹下は安心したのか、様相をいつものシニカルなものに変えて、口角の片側を上げる。

 

「……はは、構いませんよ。お互い様ですから」

 

 竹下の返事を聞いたサザンは、そのまま要の方に振り返る。

 驚いたように顔を上げた要の目先には、頭をガシガシとかきながら不愛想な面構えのサザンがいた。彼は長い時間をかけてようやく喋りだす。

 

「…………さっきは言い過ぎた。お前の気持ちも考えずに勝手なこと言いまくって……、ほんと、悪かった。…………それになんつーか……今まで避けてたのも、ごめん。……それと、あー……えっと……」

 

 彼は申し訳なさそうに下を向く。その瞳だけは要に向けながら、言葉を続ける。

 

「…………またアイドルのうんちく、聴かせてくれると嬉しい。俺もお前にいっぱい話したいこと、あるからさ」

「っ……。………………うんっ」

 

 要は少しの言葉しか返さなかった。

 その時の要がどんな表情をしていたかは、僕も含めたクラスメイトには見えていなかった。

 要が立っていたのは教室の最前列に位置する僕の机より前だ。そのため黒板に向かっていた要の表情が見られたのは、サザンと竹下だけ。

 後日竹下が語っていたが、あの時の要は涙を流しながら笑っていたらしく、その笑顔は惚れ惚れするくらい綺麗だったとのこと。

 サザンは友人として要と向き合うようになったが、嬉々として僕に要の素晴らしさ伝えてくる竹下をみるに、彼の茨の道はまだ終わっていないように思える。 

 また、この日を境に僕たちの日常に二つの変化が訪れた。

 一つは、要が昼休みになると、僕とサザンと一緒にご飯を食べるようになったこと。

 僕の隣で、サザンと要はアイドルについて熱く、楽しそうに話している。

 彼らの姿を見るクラスメイト達は、どこか微笑ましく感じているのだろう。僕を一様に睨んでいた連中もその顔は優し気だった。少しだけ悔し気でもあったけれど。

 生憎、僕は二人の会話についていけず、興味のないアイドル話を長々とされる苦痛を味わうようになってしまった。要の抑えが効かない喋りには、辟易する毎日だ。

 そして、もう一つの変化。それはこの日、この教室で、この場面を見ていた者達が竹下のことを誰も『ウェーブフラット』と呼ばなくなり、頭をいじることもなくなったことだ。

 どんな心象の変化が起きたのかは分からない。

 それは善意なのか、同情なのか、それとも別の何かなのか。僕には未だ正しい答えが見つけられない。

 ただ……彼らの瞳が、決して頭皮ではなく竹下本人を映すようになったことは確かだ。

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