渋々   作:十郎

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06 サイリウムと美城と嘘

「うそぉ、もうステージに上がるの?」

「うん……まあ、バックダンサーとしてだけど」

 

 太陽の高さが低くなり、窓から差し込む光が深くなる時間帯。

 居間にあるクリーム色の三人用ソファーに、僕と凛ちゃんは座っていた。体の力を抜いてもたれ掛かる制服姿の彼女は、未だ状況をうまく飲み込めていないような間を置いて、僕に返事をした。

 隣に座る僕を一瞥してから、そのまま喋り出した彼女の話を聞いてみると、彼女が初出勤した日――つまり昨日に、宣材写真撮影をすることになったらしい。

 凛ちゃんを撮るなら、一番うまく彼女の潜在能力を引き出すことができる、と自称している僕だけど、その話はひとまず置いておこう。

 その時に使った大きな撮影所では、凛ちゃんを含めたシンデレラプロジェクト――CPメンバーの写真撮影の他に、同プロダクションの人気アイドルの撮影が行われていた。その人気アイドルの知り合いがCPメンバーにいたこともあって、撮影の合間に会話する機会もあったそうだ。

 その人は、約二週間後に自身が出演するライブコンサートのためのバックダンサーを探していたようで、後輩として活動を始める凛ちゃん、島村、もう一人の女の子三人をバックダンサーのイメージにピッタリだったからという理由で誘ったらしい。

 アイドル業を初めて一日で、こんな機会に恵まれるのは異例中の異例ではあったが、売り出す手前の段階で、多くの人にその存在を喧伝できるまたとない提案はメリットが多く、承諾することになったみたいだ。

 これからはライブに向けてのダンスを、短期間で完璧に習得しなければならず、とても忙しくなると彼女は言った。

 

「じゃあ、予想以上に僕と話す時間が取れないってこと?」

「まあ、そうなるけど。……その言い方だと、私がいつもアンタと話す時間を用意してるみたいになるから、なんか嫌だ」

「やだやだ、いてっ、やだやだやだ!」

 

 僕はソファーから転がり落ちて、その拍子に、前に設置された木製で足が低いテーブルの角に肘をぶつけるが、痛みを無視して、カーペット上でじたばたと暴れる。

 ちなみにアルバイトはすでに終わっているが、まだ花屋は営業中だ。だから、階下に響かない程度に、存分に荒ぶる。

 

「もう決まったことだから、アンタがなに言おうが、どうともならないよ」

「やだやだ、いって、やだや――痛いっ!」

「やめなよ。ソファーとテーブルの狭い隙間で暴れるから、凄いぶつかってるじゃん。静かにしないと、チケット上げないよ?」

「やだやだやだやだや――ヒョッ? 今なんて?」

 

 僕は動きを止めて、はっと凛ちゃんを見た。

 彼女は暴れる僕の被害を受けないように、足をソファーの上に載せて、三角座りをしていた。

 

「はぁ……。……メインじゃないとはいえ、一応私もステージに立つから、チケットを何枚か貰えるらしいよ。……口うるさく言わないなら、それあげようか迷ってたけど、……やっぱり、止めとこうかなー」

 

 彼女は最後に、大根芝居さながらの演技で、残念そうに首を振った。

 

「くっ、卑怯だぞ!? 僕を脅して何をしようっていうんだ!?」

「チケットを餌に、黙らせようとしてる」

「くっ、そんなことをして喜ぶと思っているのか、この僕が!?」

「滅茶苦茶嬉しそうな顔をしてるよ」

 

 僕のことをよく分かっているじゃないか。なんか躾みたいなことされて、僕が喜ばないわけがない!

 屈服しそうになる僕は、そこでふとあることに気付く。

 

「な、ならひょっとして、寝転ぶ僕であればパンツが見える三角座りになったのも、天然ではなく餌付けのためだったというのか!? あ、じゃあ、カメラを取ってくるから、ちょっと待っててもらっていいかな?」

「……そんなわけないでしょ、馬鹿なの?」

 

 今まで上げていた足を振り下ろして、彼女は僕を何度も踏みつけた。

 

 ◇◇◇

 

 いつもと違う毎日が始まった。

 ライブの準備で忙しくなった凛ちゃんは、家に帰る時間が遅くなった。

 また帰ってきてからも、ダンスの振り付けを確認するためにDVDを見たり、家に帰っても自主練習のために一人公園で踊ったり、彼女とゆっくり話す時間はほとんどなくなり、顔を合わせない日もあるようになった。

 そんな彼女を傍目に、僕にできることは花屋のアルバイトくらいで、日常の変化によって空いた穴を埋めるように仕事に取り組んでいた。

 一緒に働くおばさんやおじさんから、真剣に取り組む彼女の様子を聞くことが、今の僕の日課になっていた。

 

「いらっしゃいませ」

「……お前、大丈夫か?」

 

 ぼーっと何も考えずに来店したお客に挨拶をすると、そのお客は知人のサザンだった。

 

「そんな顔が死んでる店員初めてみたぞ。……ここでバイトしてんの?」

「まあ」

 

 僕が適当な返事をすると、サザンは困ったように頭をガサガサと掻く。

 

「いくら渋谷に会えないからって、そういう顔は学校だけにしとけよ。その接客じゃあ売り上げに影響でるわ」

「……お気遣い、ありがとう」

 

 とりあえず口角を上げて、笑顔を意識的に作ることにした。

 サザンは僕の無理に作った顔を見て、適当に「まあ、いいんじゃね」と言ってから、探しものをするかのように店内を一回り確認する。そして結局見つからなかったのか、少し言いづらそうな面持ちで僕に尋ねる。

 

「……なあ、渋谷の親父さんいねーの? あの人に相談があるんだけど」

「いや、今は配達でいないよ。代わりに、おばさんなら上にいるけど?」

 

 現在、おばさんは二階で家事をしているか、リビングでのんびりとしているか、そのどちらかと思われる。

 凛ちゃんがアイドル業で忙しくなったために、渋谷家では彼女が抜けた家事の役割をカバーする必要があった。今までは、店で働くおばさん達に代わって、彼女が掃除や洗濯をしていたりして、たまに店番もしたりしていた。しかし、彼女がアイドル活動を始めたことで、その潤滑剤のような役割を肩代わりする人が必要になった。そうなるとおばさん達は今までより家事にかける時間を増やさなければならず、人員に余裕が持てなくなることを危惧して、僕を雇った。

 平日は放課後から夕方まで僕によく接客を任せるようになったせいか、最近では逆に少し時間を持て余してしまうらしい。

 おばさんは今まで仕事人間な性分があったせいか、昼頃から怠けるのは罪悪感があるのだろうか。二階に誰かが上がるたびに、寝転んでドラマを見ているのを中断して、慌てて洗濯物を畳みだしたり、皿洗いをしたりして、意味もなくカムフラージュをしていたりする。

 

「うーん、あんまりあの人に頼みたくねーんだよな。……ニヤニヤして、からかってくるからな」

 

 最後の方の声量が小さく、サザンは独り言のように言ったつもりだろうが、生憎、僕にはそれが聞こえていた。

 

「なら、おじさんが帰ってきたら、僕が伝言しておこうか? 今の時期なら、どうせ姉の誕生日に送る花選びでしょ?」

「…………あれ? お前知ってたの?」

 

 サザンは照れくさそうにして、苦笑いを浮かべる。

 むしろ何で知られていないと思っていたんだろうか。

 サザンは小学生の頃から、年の離れた姉の誕生日になると、自主的に毎年花束かアレンジメントと一緒にプレゼントを渡しているのは、渋谷家では有名な話だ。

 僕とサザンが知り合ったのは、同じ中学校になった時。でも、凛ちゃんとサザンは小中同じ学校だ。同じ地区に住んでいる彼らの家は、結構近い。

 幼い頃から何度も姉に花を渡しているサザンが、わざわざ遠出して買い物に行くより、同級生の家とはいえ近くの花屋に向かうのは必然。

 僕がサザンを知らない小学生時代から、おじさんが今時みない殊勝な子だなと毎年褒めていたし、この時期になるとおばさんも「あんな息子が欲しい」と言いながら、僕のことをチラチラと見て、謎の圧力をかけてくる。

 そもそも僕はおばさんの息子ではない、という根本的な話は置いておくとしても、僕だっておばさんとおじさんに誕生日プレゼントは毎年贈っているのに、花一つでこの落差。

 だいたい、花屋に花をプレゼントするというのがおかしな話だ。おばさん達が仕入れてきた花を僕が買って、それをプレゼントする。本末転倒すぎる。それならただお金を渡した方がいいんじゃないのか。

 そんなわけで、毎年プレッシャーという風評被害を受けているのだから、僕は若干の憎悪を抱きながら認知している。

 

「まあ、知ってるなら仕方ねーか……。けどはずいから、言いふらさないでくれよ」

「逆にこんなこと誰が聞きたがるの?」

 

 彼は視線を上に向けて、手を顎に当てて考える。

 短い時間の間に思い当たる相手が見つかったのか、顎のラインに手を当てたまま、僕から斜め四十五度の角度を向いて、キメ顔をする。

 

「そりゃあお前、俺に思いを寄せる奴とか」

「はっ」

 

 僕は鼻で笑ってやった。

 

 ◇◇◇

 

 ライブ当日。

 ゴールデンウィークで混み合う人の中、僕とおじさんはライブ会場に辿り着いていた。

 今回のライブは指定席が用意されているようで、観客が前を陣取るためなら悪鬼羅刹となり、押しに押し合うと噂されるスタンディングライブと違うらしい。落ち着いて見られると検索したウェブページに載っていた。

 自身の席に向かいながら周りを見渡すと、椅子や壁が濃褐色で統一されている落ち着いたデザインの舞台であり、その広さに圧倒される。。

 こういうことには無知ゆえに、なんとなく大きな映画館のようなイメージを勝手にしていた。

 しかし、全ての席が同じように階段状であるだけで、規模が全然違う。客席は二階や三階まであり、総座席数を考えれば、予想の何十倍もありそうだ。

 駅や市街地にある街頭ポスターや、建物のスクリーンに映しだされるほど、大々的に告知されているとは知っていたが、ここまで大がかりなライブであるとは、予想しなかった。

 僕の常識においては、新人どころか、完全な素人でしかなかった幼馴染みを誘うほどの舞台が、こんな大規模なはずなかったからだ。

 ここまでの規模であるなら、チケットも数ヶ月前から予約されていたはずだ。イメージだけで選ばれたという話だが、そもそも、たかが二週間前に、こんな大舞台のバックダンサーを決定するなんて、スケジュール的に問題があるのではないだろうか。衣装準備や広告関係なんかもさることながら、未経験者なんて選んだからには、完成度や成功率は下がるし、レッスンでさらに切迫しそうな気がする。

 けれども生憎、僕にこういった業界に関する知識は全くない。僕の知識は学生の範疇で収まっていて、この思索はとても正確性に欠ける。

 だからこそ、経験不足な常識の上で稼働する僕の頭では、この大規模なステージに一片の可能性すら抱かなかった。

 数え切れないほどの座席が、観客で埋まっている。

 ここまでの人がたった数人に注目して、その対象がいつも隣にいた幼馴染なんていう身近な存在だと思うと、どこか嬉しい感慨深さを持った。

 だが、それと同時に少し暗い感情を抱くことにもなった。

 この先彼女が人気になって、主役としてこの規模のライブを行うようになったならば、僕は彼女の隣にいることができるのか。全く異なった世界の存在になってしまうのではないだろうか。

 そうなってしまえば僕はもう、彼女と目を合わすことさえできなくなるかもしれない。彼女がどこか離れていくような気がして、僕の意志とは裏腹に少し不安を抱いた。

 僕とおじさんは一緒に、隣り合ってライブ会場の客席に座った。

 

「マー君、ラ○トセーバーは用意しているかい?」

 

 そう問いかけるおじさんの手には、まだ光っていない青の棒が一つ。

 

「サイリウムのことですか? もちろん持って来ていますよ」

 

 ネット社会は便利で、ライブ初心者にも手厚い保護をしてくれる。あまりこういうことに興味のない僕やおじさんでも、予め必要な物を簡単に調べておけるのだ。

 サイリウムというのは、アイドルのライブで必需品とされる物の一つで、起動させると光る使い捨ての棒のことである。

 僕は斜めがけ鞄の中から、おじさんと同じカラーである青のサイリウムを、二本取り出す。

 なぜおじさんと色が重なっているかといえば、なんでも応援するアイドルのライブ中に、暗闇の客席で振るのがサイリウムらしく、その色は『好きなアイドルのカラー』で決めるらしい。

 凛ちゃんは好きな色と聞かれたら、『蒼』となぜかマイナーなチョイスをするほどに、色に対する謎の深い拘りが昔からある。

 それに、この回答にも一捻りあって、『蒼』色は本来緑っぽいカラーなのだけれど、彼女が言っているのは、『蒼穹』や『蒼天』での意味での『蒼』――つまり『青空』色――要するに、『青』色という、面倒くさい通訳を必要とするニュアンスを含んでいる。

 長年一緒にいたからこそ、僕とおじさんは今では理解している。だが、その情報を得た当初は、『青い物で身の回りを固めてるくせに、なんで好きな色は緑っぽいのなんだろう』と、彼女の言動の不一致に頭を回さなければならない。

 おじさんはサプライズプレゼントあげる際、事前情報収集でこの紛らわしい情報を入手してしまい、悩んだあげく、文字通り緑色っぽい物を送ってしまい、少しがっかりされるという、大やけどを負った経歴まである。

 僕もまた先駆者に忠告を受けなければ、危うく同じ道を辿っていた。

 つまり、経験的にそのことを知っている僕とおじさんが、彼女のために選ぶ色を、自ずと一つに定めるのは、必然ともいえた。

 

「そうそう、そんな名前だったね。どうにもワタシには、光る棒が全部ライト○ーバーに見えてしまう。憧れた童心に返ったような気分になって、チャンバラしたあの頃のように、振り回してしまいたくなるよ。…………ああ、良いこと思いついたよ、マー君。折角なんだし、家に帰ったら一戦どうかね?」

 

 そう言って、おじさんは嬉しそうにブンブンとサイリウムを振る。しっかりと他の人には当たらないように小振りでだ。

 おじさんは僕と同じように、剣道やフェンシングなどの剣技を用いた競技を経験したことがないのだろう。動きは見るからに僕と同レベルの初心者丸出しで、弱々しく力を感じない。

 その姿を確認した僕は、嘲る。

 

「良いんですか? そんなハナコに勝てそうにない剣技では、ハナコと同程度の実力を一時的に有すると思われる、思いたい、思えたらいいな、そんな僕とこの二刀一対の名刀――『蒼凛丸(あおりんまる)』で、おじさんなんて一撃ですよ?」

 

 僕は両手に持ったサイリウムをクロスして、カチカチとぶつけ合う。

 いつかの日に、渋谷家在住の小型犬であるハナコに完敗した僕とは違う。

 なぜなら、僕には蒼凛丸がついている。

『蒼穹を掌り、凛とした美しさを放つ二つの棒』と、密かに僕に囁かれている蒼凛丸。

 ああ、百円ショップで、蒼凛丸と出会った三日前のあの日のことは、今でも明瞭に思い出せる。

 曇天のなか買い出しに行った僕が、スーパーの袋の中に入れた蒼凛丸と一緒に外に出れば、あら不思議、綺麗な青空が広がっていたのだ。まさにその名に相応しい出会いだった。

 未だその美しく輝く姿を、使用者である僕すらお目にしていないが、その発動は任意に可能であると、パッケージがご教示くださった。数時間で力を失ってしまう上に、一度発動すれば二度と輝くことができないという、決死の究極奥義であれ、その輝きは絶大。

 真の実力を発揮した蒼凛丸と一緒なら、僕はハナコと一時的に同程度の戦闘力に至る、と予想している。

 双剣ゆえに輝きは二倍、手数も二倍。ロングレンジとは言わないまでも、攻撃範囲は広がり、圧倒的戦力差を埋める力になる。あの優秀なハナコでさえ、眩い輝きと、伸びたリーチによって、翻弄されるに違いない。

 とどのつまり、一本の輝きしか有しておらず、担い手の力量すら僕と同程度のおじさんでは、手も足も出ない。

 だがそんな自信たっぷり、余裕たっぷりな僕の姿を見ても、おじさんに動揺した様子はない。彼の目は、なんの恐れも抱くことなく、真っ直ぐに僕の瞳を射抜いていた。

 

「はは、若造にしては大した威勢だ。……だが、二刀一対が、君だけの専売特許だと思わないように、忠告しておくよ」

「ま、まさか……?」

 

 驚き慄く僕に対して、おじさんはニヤリと口角をあげると、隠し持っていたかのように懐からもう一本のサイリウムを取り出した。

 

「もしかしたら君の分も必要かもしれないと買っておいて、正解だったようだ。……そう、ワタシも今この時を以て、君と同じく双剣使い――その名も『ブルー・リン・ソード』を操る者だからだ!」

「っ!? ……しかも、ほとんど名前の意味が同じじゃないですか!?」

 

 全部漢字に翻訳すると、『蒼凛剣』。

 

「当然だよ。……なにせ、ワタシも君と同じ百円ショップで、同系統かつ、同系色の全く同じ物を買ったからね。いわば、互いに鏡映しの存在であるようなものさ」

 

 確かによく見ると、おじさんのブルー・リン・ソードは僕の蒼凛丸と全く同じ形状だった。

 両者互いに双剣使いで、同一の棒。これでは、僕が有していたおじさんに対するアドバンテージはなくなる。雌雄を決するのは、互いの技量のみということになる。

 だが、優位な立場になくなっても、僕は不敵に笑顔を浮かべる。

 

「面白い、面白いじゃないですか」

 

 一進一退の攻防。それにこそ、勝負の面白さがあるというもの。圧倒的勝利に価値などない。

 僕の勝負師としての熱き魂が、血湧き肉躍る。

 そしてそれはおじさんも同じようだった。

 互いに自分が思う格好いいポーズを取りながら、睨み合う僕とおじさん。今にも導火線に火がつきそうなくらい、互いの闘志をぶつけ合う。

 無言で数秒見つめ合い続ける。

 すると、緊張状態だった脳は次第に緩慢になっていき、感情は冷静さを取り戻していく。ポーズのために空中で静止させた腕を疲れたので下ろしたくなり、おじさんの挙動一点に狭まっていた視界は広がっていく。そして、最終的に僕は自分がどこにいるのかを思い出すまでに至った。

 平静となった僕とおじさんの考えは同じだったようだ。互いに長い間相手を注視していたからなのか、僕とおじさんの心は、一瞬で通じ合った。

 

「……マー君。こういうやり取りは家でしようか」

「はい」

 

 僕達は、公共の場で始めるにはあまりにも幼稚すぎる争いの無期限見送りをここに宣言した。

 

 ◇◇◇

 

「……しかし、娘がこんな大舞台に上がるというのは、なかなか緊張してしまうものだね」

 

 数分後、少し落ち着かないようにおじさんはため息をついた。

 その様子を見るに、やはり先程のやり取りは気を紛らわすための一環だったように思える。

 おじさんは基本的に、身内以外では渋くてダンディな髭野郎という体裁を整えている。花屋に来るマダム達には人気が高いし、おばさんも他所様から羨ましがられる自身の夫を、自慢にしている。

 だから、そんなおじさんがこんな人目のつく場所で、僕と家の中でしかしないような馬鹿な会話を始めたのは、もっぱら別の事で気を紛らわしたかったからなんだろう。

 娘を心配する気持ちから、目を反らすための言動。僕にはそう思えた。

 おじさんは緊張をほぐすように、ゆっくりと胸を押さえて、何度か深呼吸をする。

 ライブの開幕のアナウンスが流れる。客席側の照明がゆっくりと光輝を失い、ステージだけが明るく照らされる。

 先ほどまで騒がしかった周囲は大人しくなり、今か今かとライブに注目している。

 多くの人にとって、待ちに待ったひと時が、もうすぐ始まろうとしていた。

 凛ちゃんが踊るのは、このライブのちょうど中頃。城ケ崎美嘉というアイドルの持ち歌――『TOKIMEKIエスカレート』という曲を、バックダンサーとして踊ることになっている。

 城ケ崎美嘉は若い子を中心に、今人気沸騰中のアイドルだ。

 今時の若者らしいファッションセンスが魅力であり、アイドルにしては珍しく、男性以外の若い女性ファンを多く持つ。女子中高生には、彼女の着回しを真似する人も多々おり、流行の発信者として、ファッション業界からも注目を集めるほどだ。

 また、彼女のそんな外面的な魅力もさることながら、実妹がいることによる本人の姉御肌な性格も、男女共に好感度が高い。

 元モデルであったことも影響して、彼女の内外両方の個性を一言で表す名として、『カリスマJKモデル』とファンからは呼ばれているらしい。

 その呼び名は、アイドル要素ゼロと思うかもしれないけれど、最近はアイドルのモデル進出も多く、逆も然りであるから、そこまでおかしくはないとのこと。

 ちなみにあまり関係はないが、城ケ崎美嘉の妹は、凛ちゃんと同じシンデレラプロジェクト所属のメンバーであるらしい。

 これらの情報は全て、僕達とは別にサザンとライブを見に来ているらしい要が、熱く語っていた中のほんの一部だ。後はあまり覚えていない。

 ライブはすでに始まり、室内に広がる人々の熱気と、生で聴く歌声が壁や人にぶつかり、幾重にも反響していた。

 僕は舞台の上にいるアイドルを誰も知らないが、観客の盛り上がりに当てられて、どこか高揚した気持ちでステージを見ていた。

 僕は音楽に興味があったわけでも、アイドルに興味があったわけでもないから、ライブに言った経験が今までなかった。ネットは便利だが、こういうことに関する基礎知識不足のせいで、いったいどんな知識を検索し、頭に入れたらいいか、根本的に分からなかった。

 だから、持ち物くらいは調べた後に、サザンや要にライブに行く旨を伝えて、経験者に教えを乞うことにしたのだが、嬉々として語る要の説明が長すぎて、初手の城ケ崎美嘉解説の半ばあたりから、全く聞いていなかった。

 ここにきて、その付けが回ってきた。

 歌に合わせて声を出したり、手拍子を入れたり、サイリウムを振ったり。

 周りはノリノリで何かしているのに、僕とおじさんはほとんど何もできずに、ただ茫然とステージを眺めるしかなかった。強いて何かをしたというのなら、他の人に合わせて立ったり座ったりしたことくらいだろうか。

 時間はあっという間に過ぎていき、すでにライブも中盤に差し掛かっていた。

 周囲についていけず戸惑ったりしたけれど、それでも刺激的な時間であったのは確かだ。ライブのルール上、凛ちゃんがこの舞台に立つ姿を、カメラで収められないのは残念で仕方がない。

 とうとう次の曲は、僕達の主たる目的である凛ちゃんが踊る曲だ。

 サイリウムと同じく、これもネット検索のおかげで、事前に準備しておいたペットボトル茶を開けて、カラカラの喉を潤し、少し湿った額をこれまた準備しておいたタオルでぬぐう。

 会場の人と違って別に声を出したわけでも、激しく動いていたわけでもない。ただこの空間の熱気、体のうちから湧き出る高揚、早く脈打つ心臓の影響で、汗をかいてしまう。

 隣のおじさんも、僕と同じように額をタオルで拭っていて、春だと怠ってタオルを持ってこないなんてミスをしなくて、本当に正解だったと実感した。

 ペットボトルとタオルを鞄にしまい、再度ステージへ振り返る。まだかまだかと一分一秒が長く感じる。

 僕とおじさんが固唾を飲んで見守る中、曲のイントロが流れ出した。

 ポップで明るめな曲調。凛ちゃんがリビングのテレビで、必死に目にしていたDVDから流れていたものだ。

 何もしていない僕でさえ、歌詞を覚えてしまうほどに何度も耳にした曲。

 ひたすらに打ち込む彼女の姿が、了然に思い出せる。

 願うように汗ばむ拳を握りしめる。うまく力が入らないことが分かって、初めて僕は自分が緊張していることを知った。

 僕もおじさんと同じだ。平然を装っていただけだった。

 誰もがひときわ輝くステージに注目する中、くり抜かれたステージの穴から、それを埋めるようにせり上がった床の推進力を得て、打ち出されるように四人の女の子が飛び出す。

 手前の真ん中に、城ケ崎美嘉。

 その後ろに、一定の間隔を置いて横に広がる、三人のバックダンサー。

 ステージに向かって左、それが凛ちゃんの位置だ。

 僕達の席は、ステージにどちらかといえば近いような中間あたり。視力に自身がある僕も、おじさんも、彼女の詳細を捉えるのに申し分ない場所だ。

 瞳に映る彼女は、数週間前までダンス初心者だったとは思えないような、切れのある動きをしている。何度も練習しているところを見たことはあれ、今の姿は全く別物に思える。

 照明の影響、衣装の良さ、大音量が占める空間、観客から湧き出す興奮。

 何が原因なのかは、分からない。

 ただ、プロの人に劣らない華麗なダンスを披露しているその姿は、輝くステージで立つことに見合っていた。

 呆然とその姿を見ていた僕は、隣のおじさんに肩を叩かれて我に返った。

 おじさんの両手に輝く二本のサイリウムを確認して、僕はその存在を思い出した。鞄から今まで取っておいた二本のそれを取り出すが、ここで一つの問題に気づく。

 僕とおじさん以外の人が握るサイリウムは、全部オレンジだったからだ。

 おそらく、この『TOKIMEKIエスカレート』で振るサイリウムのカラーはすでに決まっており、ライブにまで来るようなファンにとっては、常識もいいところなのだろう。

 だが、ライブ初心者で、城ヶ崎美嘉のファンでもない僕たちが持ってきたのは、凛ちゃんのための青いサイリウム。

 そもそも僕達は彼女に近すぎるあまり、失念していたことがある。これは城ヶ崎美嘉のソロ曲であって、多くの観客にとってバックダンサーは、メインを引き立てる存在であるという一般的な解釈を忘れていた。

 バックダンサーによって、振るサイリウムのカラーを選ぶなんて変わり者は、この会場に僕達しかいない。

 不幸にも、他のアイドルに特に興味がなかった僕とおじさんは、この曲のためだけにしかサイリウムを買ってきていなかったので、別のカラーはない。

 どうしようか迷う僕を尻目に、おじさんは、青の棒を曲に合わせて振る。テンポは家で何度も耳にした曲であったためか、周りに合わせてなんとかなっている。むしろ、そのせいで色合いの異質さが目立っている気がするくらいだ。

 だがそんなおじさんを見て、僕の中の迷いはなくなる。

 こっちの色の方が、僕たちの応援が彼女に届くと思ったからだ。

 メインの人じゃなくて、バックダンサーをきちんと見ているぞと、二人くらい空気を読まず、色違いの棒を振ったらいい。

 僕は青い棒を起動させて、光り輝くそれを適当に振り上げた。

 

 ◇◇◇

 

「みんなー、ありがとねぇ!」

 

 数分だったけれど、数秒にも感じる曲を終えて、城ケ崎美嘉は観客に呼び掛ける。

 彼女はバックダンサーの凛ちゃん達を軽く紹介すると、三人に感想を尋ねた。

 予定にはなかったのか、突然マイクを向けられた三人は戸惑う。

 しかし、今まで息の合ったダンスを披露していただけはある。数秒もかからず三人は、互いに頷きあって声を上げる。

 

「「「サイコー!」」」

 

 彼女達はどこまでも輝く笑顔で、そう答えた。

 その凛ちゃんの笑顔と声は、今まで見たことも、聞いたこともないくらい、素敵なもので、決して僕と一緒にいても、あんな姿は見せてくれないだろう。

 それは酷く悲しい事実であれ、分かっていたことだ。

 だって、彼女はずっと自分のやりたいことを見つけたいと、そう思っていたのだから。

 ずっと隣にいた僕は、そのことに気付いていた。

 思春期の僕たちは、大人になろうとする段階だ。様々な自己の苦悩を抱えて、身体的な変化と共に、精神的な変化も訪れることになる。

 第二次性徴は自立を促し、僕達はこの厳しい世界を一人で立ち上がるために、自分だけの何かを求める。

 彼女が何に惹かれてアイドルになったのか、そこまでは僕にも分からない。けれども、ステージの上に確かにそれはあって、多くの人達の喜びに囲まれて、綻んだ表情を浮かべる彼女は、今それを手に入れたはずだ。

 彼女をアイドルに誘ったプロデューサーは、さぞ目の良い人なんだろう。

 だけど、僕には彼女の成功が素直に喜べなかった。

 僕の幸せは彼女との日常にあって、僕はそれがいまだ手放せずにいた。

 僕は彼女に幸せになってほしい。それが彼女の多くの時間を奪った僕の贖罪であり、これから何より優先するべき望みだった。けれど、それは僕が隣にいられることが条件なんていう、身勝手な思いの上で成り立ち続けていたことに、たった今気が付いた。

 まだライブは続いている。ステージの上には他のアイドル達が踊っていて、彼女達の努力の証しが披露されている。

 だが、僕はこれ以上ここにいる気はなかった。

 サザンや要が熱中するほど、アイドルが魅力ある存在だと学んだ。しかし、僕の濁った目には、その輝きが眩しすぎる。

 僕は未だ熱の冷めない様子でいるおじさんに、体調が悪いと一言告げて、その場を一人後にした。

 

 ◇◇◇

 

「「「かんぱーい」」」

 

 私は家族と一緒にダイニングテーブルに腰かけて、互いにグラスをぶつけた。

 テーブルには、いつも通りお母さんの料理――ではなく、今日はお父さんが作った唐揚げをメインのおかずにした料理が並んでる。

 イベントや祝い事の際は、なぜかいつもと違ってお父さんが調理をして、なぜかいつも唐揚げを作る。特にそこに深い理由はなく、お父さんが何かしてあげたいという衝動に駆られてしまうらしいのと、子供の頃に親がそうしてくれてたからみたいだ。それはお母さんも同じだったようで、渋谷家で受け継がれてきた伝統的な習慣のような感じだ。

 加えて、冷蔵庫の中には、食後のデザートとして、高そうなチョコレートケーキまで用意されてるらしい。チョコレートが好きな私のために、お父さんが買って帰ってきてくれたものだ。

 

「いやぁ、本当に凛のダンスはすごかった! 他のアイドルも見ていたが、凛は全く見劣りしないどころか、一番上手だったじゃないか!」

「絶対身内贔屓だよ、それ」

 

 私はお父さんの見当違いな意見を、即座に否定する。

 お父さんが娘に対して、甘々の裁定を下すのは、昔から変わらない。運動会で組体操しようが、音楽会でクラス全員と一緒に歌おうが、絶対に私が一番上手かったと言ってくる。

 お父さんの言葉を真に受けて、幼い頃は嬉しがってた私も、何度も同じような発言を繰り返されるうちに、その評価を全く信用できなくなった。

 ハイになっているお父さんに、お母さんは不機嫌そうに声を掛ける。

 

「……アナタ、帰ってきてからそれ言うの、何回目? 帰ってきた凛から、関係者の人や観客席で見ていた同じ所属の子から賛辞を貰った話はもう聞いてるの。すごいすごいって、小さい子じゃないんだから、もうちょっと具体的に情景描写しくれないと、全然雰囲気掴めないのよ。アナタの代わりに、一人店番を押し付けられた私への配慮ってものを、これっぽっちも感じないのだけど?」

 

 お母さんは、お父さんにライブを見に行かせてほしいと頼み込まれて、嫌々重要な仕事を引き受けてた。だからか、今日はお父さんへの当たりが、若干強い。

 

「す、すまない。ちょっと言葉が足りなかったかもしれないね。けど、母さんには感謝しているよ。ほらほら、今日はめでたい日なんだ。そんな顔しないで飲もう」

 

 お母さんのご機嫌取りのために、お父さんはへこへことお酌を始めた。

 私はそんな二人を見ながら、未だ夢見心地のような感覚にいる。今日の体験への実感が、未だに心に馴染んでこないからだ。

 バックダンサーに指名されてから、毎日があっという間に流れていった。

 全くの素人である私には、心の支えになるような一つの自信もなくて、一日一日が過ぎるたびに不安や焦り、緊張が高まってきた。

 ただただ練習を繰り返す。それだけが安心する手立て。

 プロの動きを観察して、その動きを自分の体に馴染ませる。暇があればダンスの練習ばかりして、何回も何回も繰り返して、何度も何度も失敗した。

 体が悲鳴を上げて、筋肉痛で体が固まってしまったせいで、さらに動けなくなることもあった。止めてしまいたくなるほど、自分の不甲斐なさを噛みしめることばかりだった。

 でも、自分で決めて進んだ道で、一度引き受けたことだ。

 誰かに迷惑を掛けて、逃げ出すことは絶対に嫌だった。それに何より、私だけの何かを見つけられるかもしれないと、期待を抱いたアイドルの世界を、私はまだほとんど知らなかった。だから、こんな中途半端なところで、止まる気にはなれなかった。

 唐揚げを一つ食べ終えた私は、息を吐いて、椅子の背もたれに上半身の体重を置く。視線は一応前方に向けてるけれど、その実、何も見てない。

 安心感と達成感が混ぜ合わさって、無意識に呆けてしまってる。

 目まぐるしい日々は、ようやく今日で一段落した。けれど、胸に残る熱がまだ冷めきってない。

 ステージからでしか見られない、観客が生み出した光り輝く絶景が、確かな証拠として頭に焼き付いて離れない。

 お父さんとお母さんの会話をBGMに、見慣れたダイニングテーブルを眺めてると、なぜか少し違和感がある。何か一つピースが抜けてるような感覚。

 四人用のテーブルに腰掛ける私の隣にはお母さん、斜め前にはお父さん。だけど、目の前は空席だった。

 こんな時はうるさく騒ぎそうな誰かさんがいないことに気づいた私は、二人に尋ねる。

 

「そういえば、アイツは?」

「うん? ……あー、マー君のことかい?」

 

 私の問いに答えを返したのは、眉を寄せたお父さんだった。

 

「うん。今日みたいな日はいつも一緒に食べてるのに、なんでいないの?」

 

 誕生日やクリスマスを含めた今日のような祝いの時、アイツは夕飯を私達と一緒に食べる。

 反対に普段のアイツはお父さんやお母さんがご飯を誘っても、決して頷いたりしない。いつも家に帰って、必ず家族と一緒に夕飯を食べてる。

 頑なにアイツが家でご飯を食べる理由は、家族が大好きだからだけれど、料理好きのおばあちゃんが作る品が、どれも絶品であるからだとも思う。それを毎日食べてきたアイツの舌が、そんじょそこらの料理で満足できないほどに、肥えているからじゃないかと、私は勝手に推察してる。

 実際、私が初めて一人で作った料理のカレーライスを味見したアイツは、味の問題点をバシバシと口うるさく指摘してきたし。その時は、私が怒って食べなくていいと、皿を取り上げたくらいだ。

 それだけ家族も家族の料理も大好きなアイツだけど、こういった日は散々迷った挙げ句、ご相伴にあずかるのが、お決まりのパターンだったはずだ。

 そんな風に思っていたから、どうしてもアイツがいないことが、おかしく感じてしまう。

 

「マー君なら、凛が踊った後に人混みに酔ったと言って、一人で帰ってしまったんだ。家に帰ってから、大丈夫かどうか電話を掛けたんだが、どうにも繋がらなくてね。家にも掛けてみたんだが、帰ってきてないらしい。とりあえず来るかなと思って、多めに作ってはいたんだが……、結局、今日は来ないみたいだ」

 

 少し寂しそうにお父さんは笑った。

 馬鹿やってくれる相手がいないせいか、祝い事時のお父さんにしては、大人しい気がする。

 

「ふーん、そうなんだ」

 

 私の心中では、どうしてかアイツの具合を心配する気持ちより、腹が立つ気持ちの方が大きかった。それを認識してしまった私は、よく分からない自分の情動に、さらにもやもやした不快感も抱いて、気分が悪くなった。

 私は唐揚げを箸で差して、大口で齧りつく。

 口をもぐもぐさせる私に、じーっと視線を寄越していたお母さんが、少しずつ表情を変化させて、薄笑いを浮かべる。

 

「あらあら、不機嫌そうね。……もしかして、マー君に来てほしかったの?」

「ほんなわえない」

 

 私は食べている物を隠すように口に手を当てながら、行儀悪くもすぐに返事をした。

 お母さんの言っていることが、あまりにも見当違いだったからだ。

 だがそれが照れ隠しに思われたのか、それともこの話題が話題だったせいか、お父さんが飛びかかる勢いで前傾姿勢になって、話に割り込んでくる。

 

「な、なんだと!? もももしかして、凛はマー君への愛にとうとう目覚めてしまったのか!? こんな格好いいお父さんがいるのに!?」

「アナタを引き合いに出すのはおかしいでしょ? ……いや、でも、うーん、そうね。マー君の凛に対する変態的な行動はあれだけど、外見とかの上辺だけはアナタと同じくらい優良物件ではあるわよねぇ」

 

 お母さんは指折り数え始める。

 

「顔はキリッとしたイケメンだし、昔からたまにうちの手伝いしてたからか、花屋のイメージを崩さないように、身なりに気も遣ってる。それに、あの年で百八十くらいの高めの背で、……確か凛の身長が百六十五くらいだったわよね?」

「うん、そうだけど。それがどうしたの?」

「ほら、世間的によく言われるでしょ。恋人に求める理想の身長差は十五センチくらいだって。凛とマー君なら、私と背の低いお父さんでは決してできない爪先立ちキスなんて、ドラマみたいなこともできるんだから」

「できるもなにもしないし」

 

 私は間髪いれずにお母さんの言葉を否定した。それに続いてお父さんも不服そうに言葉を重ねる。

 

「背の低いとは、失礼な。ワタシの背丈はマー君とほぼ同じなのだから、決して低くはない。百七十ちょっとも身長を伸ばしてしまった母さんに責任があるだろう」

「仕方ないじゃない。昔から牛乳好きだったせいか、気付けば高くなっちゃったのよ。好きで大きくなったわけじゃないからこそ、娘には身長差のある相手だからできること、楽しんでほしいって考えちゃうの」

 

 家族も含めたほとんどの人が、アイツとの関係を惚れた腫れたの話に持っていきたがるのは、どうかと思う。

 お父さんとお母さんはアイツの性格を知っていて、私の態度を間近で見ているんだから、そんなことが起こり得ないって分かり切ってるのに。

 

「そういうのじゃないから。……ステージの感想とか聞きたかったんだよ。お父さんだと身内贔屓で、よく分からないし」

「ワタシの思いは凛に届いていなかった……」

 

 お父さんは苦しそうに胸を押さえて、悲しんだ。

 

「……一理あるわね。マー君って正直に言うとこあるから、辛辣だけどちゃんと評価してくれるものね。……たまに素知らぬ顔で、大法螺吹いてくる時もあるから、ちょっと怖いけど」

 

 お母さんは首を縦に振って納得した。

 私はきちんと勘違いを解いてくれたと思って、ほっと一息つく。

 でも、お母さんの言葉はそこで止まらなかった。続けて、疑問に思ったように首を傾けて、半信半疑に言う。

 

「あら……? でもそれって、褒めて欲しかったってことじゃないの?」

「……なんでそうなるの?」

 

 眉を寄せる私を目の前にしながら、頭の中を整理するように上を向いたお母さんは、一つ一つ考えを述べてく。

 

「だって今日のライブは、お父さんの意見は除外するとしても、凛本人からも教えてもらった通りに、関係者やライブを見にきてた同じ所属の子も一同大成功だと思うできだったんでしょ? ならマー君の評価だって上向きなものばかりだろうし、それは当然に予想できるもの。もし小さいミスがあったとしても、ライブ初心者、アイドル素人のマー君が、細かい部分を酷評できるとも思えないし」

 

 確かに、お母さんの言う通りライブは成功を収めて、関係者の方々からも、ライブを客席から見にきてたCPメンバーからも、多くの賛辞を貰った。

 私自身も、申し分ない踊りを披露できたと自負もしている。足りない所は多々あれ、今できる自分の全力を出し切ったと思ってるからだ。

 それに、何より、ステージから観客の盛り上がりを肌で感じさせたあの一時が、身に染みてそれを実感させていた。

 そんな自他共に認めている成功を、私はアイツの口から聞こうとしてたと、お母さんは言った。

 顔が、急に熱を持ち始める。

 

「ち、ちがっ……うよ」

 

 なんとか否定するけど、次の言葉が続かなかった。

 お母さんは、ニヤニヤと笑う。

 

「……あらあら、これは本当に……春が来ちゃったのかしら」

「だから、そういうのじゃないって!」

 

 思わず語気を強めて言ったけど、後で思い返せば、これは大きな間違いだった。

 たとえそれが、ぞんざいに扱っていた幼馴染の言葉に、それなりの価値を見出してたと、無意識に公言した恥ずかしさによるものとしても。

 必死に否定したら、火に油を注いでるようなものだと。

 私のミスによって、お父さんは大爆発する。

 

「うがああああ! マー君、どこだぁ! 今すぐ八つ裂きにしてやるぞぉ!」

 

 獣のような咆哮をあげながら、お父さんは席を立ち上がって、リビングを出ようとする。まるで外に続く階段に向かうように。まるで今からアイツの元に襲撃しにいくような形相で。しかも、なぜかサイリウムを両手に一本ずつ持って。

 

「アナタ!?」

 

 私より対応が早かったお母さんは、慌てて席を立ち上がって、お父さんの腕を進行方向と逆に引っ張る。

 

「母さん、離してくれ! ワタシはマー君に引導を渡してこないといけない! この名剣――『ブルー・リン・ソード』で!」

「百円ショップのサイリウムでいったい何ができるっていうのよ!?」

 

 お母さんの怒り気味なツッコミも、暴走したお父さんでは聞く耳を持たない。

 二人の抗争が激しく行われる最中、私は娘的になんとも言えない恥ずかしい名前がついてる青のサイリウムを見て、ステージに立っていた時の光景を思い出す。

 私が踊った曲――『TOKIMEKIエスカレート』は、オレンジ色のサイリウムを振るのがファンの決まりだった。

 そのため、客席は一色に輝いてて、統一的で美しい光景が広がってた。まるで私達アイドル側が、逆にお客さんのステージを見せてもらってるような、そんな勘違いを起こすくらいの絶景だった。

 ステージに立つまでの間に、私がずっと抱えていた緊張がなくなって、ただ愚直に踊り続けられたのは、あの景色が他の一切合切の情動をかき消すほど、あまりにも感動を呼ぶものだったから。

 だから、そこに違和感があると一際目についた。光輝の中にほんの一部、小さくて弱々しい、だけど浮き彫りに存在感を示す、私の好きな蒼い四つの集まりがとても印象深かった。

 あの内の二つは、お父さんだったんだ。

 そのことに気づいた瞬間、自ずと残りの二つが、誰による者だったのかも分かった。

 私の心は、色々な感情がないまぜになった。うまく言葉に収まりきらないそれは、心に染み込むような温かい何かで、決して嫌な気持ちではない。

 私が感慨にふけっている間にも、女とはいえ一人分の力が掛かってるのに、お父さんは前にズカズカと進んでいく。

 お母さんは靴下を履いているせいで、フローリングの上をアイススケートのように滑ってく。

 

「止まりなさい!」

 

 お母さんは叫ぶ。

 

「断る!」

 

 お父さんも叫ぶ。

 同じようなやりとりを何度か繰り返した後、お母さんが痺れを切らして声を上げる。

 

「ああ、もう! またお風呂一緒に入ってあげるから、とにかく止めなさい!」

 

 すると、今までの力が嘘のように、お父さんの動きはピタリと止まった。全くもって、欲望に忠実過ぎる反応だった。

 先程までの騒ぎとは一転して、静まり返るリビング。壁に立てかけられた大きな時計の秒針が進む音だけが、微かに鼓膜を振動させる。

 止まった世界の中、ゆっくりと振り返ったお父さんの顔は、一変して、喜びに満ち溢れてた。

 

 数日後、私を含むバックダンサー三人をグループにしたCDデビューが決まった。

 

 ◇◇◇

 

「こんにちは。今日も一緒にご飯を食べていいかしら?」

 

 弁当箱の包みを開ける僕と、サザンに声を掛けてきたのは、要だった。

 

「おう」

 

 サザンは普通に了承する。

 僕も適当に頷く。

 先ほど言った要の言葉は、「こんにちは」からその先の終わりまで、毎回の挨拶みたいなものなので、要も僕達の反応を確認する前から、いつものように空いている椅子を持ってくる。

 そして、いつもとは違って、僕の席でお弁当を広げようとする。

 

「いや、サザンのところで食べなよ。お弁当を広々と食べられなくなるじゃないか」

 

 普段の要は、隣の机をサザンと共同で使っているはずなのに、今日に限ってどうしてかこっちに来る。

 僕は机の上を存分に使って、広々と昼食を食べるのが好きなんだ。

 サザンが椅子だけを持って来て、僕の机でご飯を食べようとしたことにNGを出して、隣の机を借りて食べるスタイルになった、という経緯まであるというのに。

 

「えぇ……!? だって今日ここに来た一番の目的は、ゴールデンウィークにあった凛さん達のデビューライブの感想を、あなたと話そうと思ったからなのよっ!? 佐山くんとはライブ帰りに、それはもう色々と話をしたんだけど、あなたとはまだ話してなかったでしょ!? だから、お願いよ!」

 

 そう言って僕の目の前で手を合わせて、懇願してくる要は、男のくせに、そんじょそこらのモデルやアイドルより可愛いと巷で言われている。僕の知っているモデルやアイドルなど数えるほどしかいないから、本当にそうなのかは甚だ疑問が残るところではあるが、それでも群を抜いて可愛いといって構わないだろう。

 だが、いくら可愛いかろうが迷惑は迷惑だ。

 僕はきんぴらごぼうをシャキシャキしながら、手をひらひらとさせて、サザンの方に行けとジェスチャーを送る。

 しかし、要の我慢はもう臨界点を突破していたのか、僕の目の前で、立ったまま話を始める。

 

「それにしてもすごかったわよね! TOKIMEKIエスカレート! 何度かライブを見に行ったことはあるんだけど、今回のも最高級にグッドなライブだったわ! 美嘉さんは前にも増した素敵さだったし、新人三人も、後れを取らない素晴らしい踊りだったわ。美嘉さんはモデルからアイドルに転職した方だけど、歌唱もダンスもできて、苦手なことが見つからないってくらい、パーフェクトなアイドルなのよ。ライブを見に行くたびに、彼女の格好良さと可愛さの見事なハーモニーを感じて、カリスマたる所以を肌で実感するんだけど……、その話は今度の方がよさそうね。今回の本題はデビュー組の、渋谷凛、島村卯月、本田未央の三人。新人アイドルとは聞いていたけど、まさか、知り合ってすぐにステージデビューを果たすなんて、思いも寄らなかったわ。しかもっ、彼女達はアイドルになり始めたばかり新人だっていうのに、最初からあんな大舞台で、あそこまで素敵な表情で踊れるなんて……、計り知れない努力と胆力よ。あれはアイドルの才能の塊、間違いないわ! それでそれで、今回も注目したい、というか前回も、前々回も、いつも注目しているんだけど、バックダンサーの衣装がとても良かったわ。あの曲は、若い女の子の初々しい恋の感情を歌詞にしていたから、衣装はブレザー型の学生服をモチーフにしたみたい。バックダンサーとして目立ち過ぎないように、学生服のジャケットやスカートは灰色だったけれど、今時の枠にとらわれない若者っぽさの演出として、ジャケットの前を開いて、その裾をお臍まで短くしたり、白シャツの裾を外に出したり、赤いネクタイを緩めたりと、小さな変化を加えて、日常の服装から特別な衣装にまで持ち上げていたわ。特に、普通は男性しか付けないはずの黒いベルトを腰に巻いているのが、ギャップがあって、とても良かったわね! あと、黒のロングブーツと小さな帽子が――」

 

 流石は、アイドリングストップと呼ばれるだけはある。怒涛の勢いで、ガトリングのようにペチャクチャとアイドルの話を飛ばしてくる。

 しかし、その話題は、今の僕の精神的によろしくなかった。

 

「……はあ」

 

 ため息をつく僕に気付いて、要は珍しく話を止めて、心配げにこちらを見つめる。

 

「……あら、どうしたの?」

 

 その問いに答えたのは、僕ではなくサザン。

 

「ああ。なんか渋谷がまた忙しくなるらしくて、ライブ前の時みたいに、あんまり会うことができなくなっちまうんだってよ。だから、今日はずっとこんな調子で、ころっと逝っちまいそうなくらい、生気がない」

「なるほど。それは……大変ね。アイドルの原石に長時間魅了され続けた結果、欠乏症みたいになっているのかしら……。やっぱりアイドルって凄いわね……」

「いや、それはおかしいだろ」

 

 要は顎に指を添えて、少し考えるそぶりを見せる。

 数秒して、要はなんの気概もない顔で僕に言う。

 

「なら、346プロに連れていってあげましょうか?」

「え?」

「マジかよ!? そんなことできんの!?」

 

 平然と言ってのける要の言葉に、僕達二人は驚いた。

 凛ちゃん曰く、346プロにはアイドルがいっぱいいるらしい。

 要の事も無げな言い方からして、簡単に入れるように思わせてくるが、そんな所に気軽に入れるなら、ファンとか押し寄せるんじゃないか?

 というか、アイドル云々とか関係なく、企業に完全な部外者たる僕が入ることは、到底無理なはずだ。

 そんなことは分かり切っているはずなのに、一体どんな手を使うっていうんだよ。

 

「私がお父様に頼んだら、いけるんじゃないかしら?」

 

 親の七光りだった。

 ……そういえば、そうだ。要の名字は美城。346プロダクション現会長の息子だった。

 凛ちゃんと知り合ったのも、346プロ敷地内のカフェだと聞いたし、要はアイドルに一目会うために、自由に出入りしていると公言していた。

 そんな息子の身勝手を許す駄々甘い父親なら、可能性がなくはない。

 もしかして……、これは案外いけるかもしれない。

 僕は自分の弁当箱を中央から自分側に寄せて、要様が弁当を広げるスペースをご用意するのだった。

 

 ◇◇◇

 

「……というわけで、私はこの346カフェで働いてる安部菜々です! 今日からよろしくお願いしますね!」

「はい、よろしくお願いします」

 

 僕はこれから仕事を共にする安部さんに一礼する。

 結局、要のお父さんから承諾を得ることはできなかった。

 流石に愛息子の頼みとはいえ、見ず知らずの関係者でもない僕を、社内に入れることは難しいと断られたからだ。どうしてもというなら、社員の誰かを付き添いにしなければならないらしく、それは流石に迷惑すぎて頼めるわけがなかった。

 だが、そこで話は終わらなかった。要のお父さんが、別案を提示してくれたからだ。

 それはアルバイトという名目で、346プロに入るという方法だ。もちろん本命が346プロに出入りするためとはいえ、きちんと働く必要があり、原則ほとんどの建物内の立ち入り権利を持たない、という問題を抱えている。

 しかし、その案は怪我の功名というか、むしろアルバイトで入った方が良いとさえ、僕は判断した。

 なんでも要の話によると、僕がアルバイトに入れる346プロ施設内のカフェは、芸能人やアイドルが休憩に使う、憩いの場的なポジションらしかったのだ。

 もし僕が346プロ施設内の建物へ、自由に出入りできたとしても、凛ちゃんがレッスン等のアイドル活動に従事していたら、会える、会えないの問題ではなく、ただの邪魔者でしかない。

 彼女がお金を貰って、責任を持って仕事をしている以上、真面目に取り組む彼女の妨害するわけにはいかない。そんなことをすれば、彼女が僕を許さないだろう。

 逆説的にいえば、僕が彼女と会えるのは、ピンポイントに休憩時間だけなのだ。それはつまり、休憩場所として活用されそうな場所で働くことは、最も時間対効果の高い素晴らしい案だといえる。

 この提案に乗る形で、僕は346カフェで働くことになった。

 こんな我が儘を相談して、真面目に検討してくれた要と要のお父さんには、頭の下がる思いだ。

 それにおじさんやおばさんにも迷惑を掛けたかもしれない。

 もうすぐ母の日ということもあって、花屋は忙しい時期になる。そんな時期にも関わらず、僕は休日の二日をここで働くことにしたのだ。

 おじさんとおばさんは毎年、繁忙期には予め臨時アルバイトを雇うことにしている。だから、普段より多くの人数で店を回すことになるのだけれど、それでも忙しいものは忙しい。去年までは凛ちゃんという優秀な補助戦力もいたが、彼女の活躍は今年からは見込めなくなった。

 通常時のシフトでの僕は、家族と一緒に過ごす時間を大切にしたいがために、土、日曜日の二日はシフトに入っていない。けれど忙しい時期ともなれば、もしもの時に時間の自由が利く僕がピンチヒッター、あるいは助勢として必要になるかもしれない。それにも関わらず、僕は別のアルバイトで休日の予定を埋めている。

 別に僕はただのアルバイトでしかないのだから、本来ならそんなことは気に掛けなくていい。けれど僕が花屋で働き始めた理由は、凛ちゃんが抜けた穴を補うためだ。彼女の役割を補えなければ、僕があそこで働き始めた意味がない。

 そんなことは分かっていながら、僕はこの346カフェのアルバイトを始めた。

 日に日に、彼女が僕の知らない場所へ行ってしまうのがどうしようもなく怖い。自分と彼女が希薄な関係であると自覚するのが耐えきれない。

 だから、僕もまた彼女と同じ場所を知っている、そこに属している、そこで会うことができる、そんな安心感が欲しかった。

 僕と彼女の軽薄な繋がりを補おうと、必死に取り繕うとした末路がこの結果だ。

 少し落ち着いて振り返った自分の軌跡は、結局、昔と何も変わらない自分本位で、馬鹿の一つ覚えだった。そんなことは冷静な部分で自覚しているはずなのに、僕は未だに自分をコントロールできずにいる。もっと正しい時間の使い方が、家族と一緒に過ごす時間を優先するという僕の考え方が、全うできない。

 一貫性のないちぐはぐな行動で、僕は今ここに立っている。

 現在の時刻は十時半。今は開店前の準備中だ。

 僕は今、執事のようなユニフォームを着ている。ちなみに僕を教導する安部さんは、本格的なメイド服ではなくスカートの丈が短めなコスプレっぽいユニフォームだ。互いに衣装はメイド喫茶や執事喫茶っぽくて、場違い感が否めない。

 安部さんは、品定めするみたいにじっくりと、僕の頭からつま先まで見つめる。

 

「……似合ってますね。アイドルか俳優、どちらの方なんですか?」

「僕は別に、芸能人とかじゃないんですが……」

「えっ、そうなんですか!? す、すいません。ここに働きに来る人って、生活費を稼ぎたい新米芸能人や、未だ人気が今一な芸能人がほとんどなので……、勘違いしちゃいました」

 

 346カフェも含めた346プロ内のアルバイトでは、外部の一般の人をあまり募集はしていない。

 多数の芸能人が在籍しているため、基本的に内部の芸能人で、時間の空いている人を雇っているらしい。もしアイドルだ、俳優だ、なんだのと騒がれたら仕事や休憩にならないし、客側も迷惑するからだ。同職の人ならば、比較的そういう人間は少ない。

 加えて安部さんが言っているように、売れない芸能人が生活で困らないように、受け皿としての側面もある、というよりこっちが本命らしい。職場二つが同じ場所にあるというのは結構便利で、変則的になりがちな業界に対しても理解があるため、副業として取り組む芸能人側からも、評判がいいと要が言っていた。

 だから、ここに僕がいるのは案外普通ではない。安部さんが勘違いするのも無理はない。

 僕の場合はカフェの店長と知り合いだった要が、会長を後ろ盾に掛け合ってくれたのだ。要と会長様様だ。

 

「どうしても346プロで働きたかったので、店長と交流があった友人に頼んでもらって、ここで働かせてもらうことになりました」

 

 僕の言葉を聞いて、安部さんは思い出すように視線を上に向ける。

 

「その知人って、……もしかして美城要さんだったりします?」

「あれ、要のこと知っているんですか?」

 

 僕は今顔を思い浮かべていた人物の名を当てられて、微かに驚いた。

 彼女はにこりと笑うと、説明を始める。

 

「はいっ、友達ですよ。前にバイトがどうとか店長と話してる姿を見てたので、もしかしたらと思ったんですけど、やっぱりそうだったんですね。最近、休日によく働いていた子が仕事が増えた都合で辞めちゃったので、店長も喜んでいると思いますよ」

 

 346カフェ側に迷惑が掛かっていないことは僥倖だった。

 芸能人を優先的に雇っている以上はシフトが変則的なものになりやすいようで、店長も理解を示しているが、それには頭を悩ますことが多いらしい。休日固定で入れる僕は、シフトを考える側としては重宝な存在みたいだった。

 それにしても、要と安部さんが友人だったのには驚きだ。凛ちゃん、サザン、竹下、安部さん。要の交友関係はどこまで広がっているんだろう。すでに僕の周囲の人は全員、要と知り合っているんじゃないかと疑ってしまうほどだ。

 そんな僕の感想は心の片隅に置いておいて、安部さんに指示よって清掃を開始する。僕は彼女と一緒に、明るめの茶色いテーブルを拭いていく。

 店内に加えてテラス席もあるから、テーブルの数は割りかし多い。そのため、僕は単純作業を繰り返すロボットのような気分で、ひたすらに体を動かす。

 安部さんは慣れたように手を動かしながら、僕と会話を続ける。

 

「……でも、わざわざここで働きたいということは、要さんと同じように、芸能人に一目会うのが狙いとかですか?」

「……まあ、そんなとこですかね」

「なら、もうその願いは叶っちゃいましたねっ」

「なんでですか?」

「えへへ、その理由はですね……、私がウサミン星からやってきた歌って踊れる声優アイドルだからですっ!」

「へえ、そうなんですか」

 

 僕はそのまま新しいテーブルを拭いていく。ひたすらに同じ動作で、ロボットのように。

 しかし、数秒経っても安部さんが何も言ってこないのでそっちを見ると、彼女は肩透かしをくらったようにガックリしていた。

 

 ◇◇◇

 

 朝から働いて昼頃になると、接客に関する大体の仕事内容が分かってきた。

 客が少ない間に安部さんの後ろをちょこちょこと付いていき、接客の見学。オーダーがなくて暇になったら、安部さんは僕に対して接客や簡単な飲み物の入れ方、掃除の仕方や伝票の取り方などを、詳しく教えてくれた。それを何度か繰り返しているうちに、昼時になっていた。

 この時間は、昼食を取りにきた社員で混み合い始め、僕も手探りながら接客をしていた。まだ知識不足で不安な面も多々あったが、そこは安部さんがカバーしてくれた。

 客側から声をかけられた場合は、不自然のない範囲で、できる限り安部さんがオーダーを受けてくれて、僕は使用済みの皿とカップの後片付けをしたり、テーブル拭いて清掃したり、初心者でもどうにかなる仕事を中心に回していた。

 ピークを越えると、客足はすっかり落ち着いていた。それからは、指導に当ててもらえる時間が多く取れた。

 夕時手前に仕事を終えた僕は、安部さんにお礼を言って帰宅した。今日は346プロに来ている凛ちゃんに、会うことはなかった。

 

 ◇◇◇

 

 次の日。

 

「こちら、ご注文のアイスココアになります」

 

 僕はオープンテラスに座ってスマートフォンをいじる女性のテーブルに、カップを置く。

 僕に気づくと女性はスマホを机に素早く置いて、背筋を伸ばして体裁を整えて、髪を整えながら、仰々しい笑顔を見せて会釈をした。

 接客の経験は花屋であったが、カフェとなると色々と異なることも多い。感想としては花屋のアルバイトの方が楽だなと思った。理由は誰もいない時に座ることができないから。後、アットホーム感がないから少し落ち着かない。

 

「仕事を覚えるの、早いですね」

 

 接客が落ち着いた安部さんが、僕に話しかけてくる。

 昨日も今日も僕と一緒に働いているけれど、本業の方は大丈夫なんだろうか。

 

「大体のことは安部さんから教えてもらいましたし、元から物事を覚えるのは得意なんですよ。それに接客のアルバイトは経験があったので、特にお客とのコミュニケーションに緊張することもないですから」

「……若いのにしっかりしてますね」

 

 安部さんは、年寄りみたいなことを言い出す。

 

「色々な人のおかげでここにいますしね。面目を立てる必要がありますし、それに仕事で働いている以上、迷惑はかけられませんから。ちゃんと真面目にやりますよ」

「ほほう。つまり、プライベートではそれなりにやんちゃなんですか?」

 

 安部さんは片手で僕の胸元をつついてくる。こういうちょっかいの出し方が、なんともおばさん臭い人だ。

 

「やんちゃではないですよ。どっちかっていうと……そうですね。――変態、ですかね」

「へ、変態……ですか?」

 

 そんなやりとりをしていると、お客さんから声がかかる。

 僕は今もなお唖然としている安部さんとの会話を切り上げて、そちらに向かった。

 

 ◇◇◇

 

 特に忙しくもなく、安部さんとちょくちょく会話をしながら接客業に勤しんでいると、あっという間に時間が過ぎていった。

 もうすぐ僕の勤務時間も終わる。結局、今日も凛ちゃんと会うことはなかった。

 カフェに備え付けられた時計を見ると、すでに短針は五の数字に近づいている。

 五月に入り、段々と夜になるのも遅くなってきている。この時間では、太陽は沈む兆候をみせず、まだ天高く僕達を見下ろしている。

 店内の客足は少なく、ほとんどの人はオープンテラスに座って、仕事に勤しんだり、休憩がてらお喋りをしていたりする。

 346カフェのオープンテラスは一種の休憩所みたいなもので、メニューを渡しても、注文を取らずに座っている人も案外いる。

 普通なら許されない行為だが、ここは346プロの敷地内にある346プロ経営のカフェだ。

 そういう行為も許されているらしく、混雑時以外は、僕達店員側は注意しなくていいとのこと。

 このルールが客に与える影響は強いのだろう。気軽に出入りして、座っていられるテラス席を選ぶ客層はとても多い。

 加えて、今日は涼やかで日差しが気持ちいいのも、現在のオープンテラスの人気に拍車を掛けているのかもしれない。

 僕は客がいなくなった外のテラステーブルを片付け、反比例して静まり返った店内に食器を運び終えた。そして、そんな僕の目に映ったのは、年若い三人の女性が店内のテーブルを勝手に運んでいる姿だった。

 

「あの……何をなさっているのですか?」

 

 流石に不審に思った僕は、声をかける。

 

「まずいにゃ、ストライキしようとしてることが見つかったにゃっ」

「ど、どうしよう!?」

「お、重い……」

 

 中学生、中学生、小学生と年齢をイメージできる背丈の女の子三人。

 一人は僕と同じ茶髪で、喋り方が猫っぽい女子。

 もう一人は金髪で、まつ毛がすごく長いつり目の女の子。

 最後の一人は、三人で運ぼうとしている机に逆に潰されそうになっている、超絶小さい金髪少女。

 三者三様個性的な出で立ちだけれども、等しく顔立ちは整っている。

 芸能人だろうか?

 とりあえず、僕は三人に告げる。

 

「申し訳ありませんが、机の持ち出し、持ち帰りはできませんので、ご遠慮ください」

 

 まさかカフェの接客業で、こんな注意を促すことになるとは思わなかった。

 僕の言葉を聞いた金髪二人は、どうやらこのグループのボス的ポジションの、語尾がおかしい茶髪女子の方を向いた。

 二人に見つめられた彼女は、数秒目を閉じて考えるように唸ると、カット目を見開いて叫ぶ。

 

「きょ、強行突破にゃ!」

 

 彼女の言葉に従って、僕の言葉を無視して三人は机を運ぶ。

 進行方向にいる僕は向かってくるそれを掴む。

 

「ちょっと、なにしているんですか? このまま行かせるわけにはいきませんよ」

 

 僕はテーブルを彼女達が押す方向と反対に押す。

 そんな僕の妨害に、猫語を操る女子は声を上げる。

 

「な、なんでにゃ!? ちょっと店でストライキするだけにゃ! 店の前で机を壁みたいに並べて、ストライキするだけにゃ!」

「ちょっとやそっとでストライキされたら、堪ったものではないので。とりあえず、落ち着いて話し合いましょう」

「こうでもしないと、プロデューサーに私達の思いが伝わらないんだにゃ! しょうがないんだにゃあ! みく達だけ、CDデビューできないなんて嫌だにゃあっ!」

 

 何言っているか分かりません。

 というか、芸能関係の話だよね、それ。カフェでストライキする意味なくない?

 このカフェに恨みのある人とか、なんとなく勝手に予想していたけれど、どうやら全然違うようだった。

 

「迷惑極まりないので、そういうのは身内だけでやってくださいよ」

「もうやったにゃ! それでも何も伝わらなかったにゃ! みく達のデビューは検討中としか、言ってくれなかったにゃ!」

「なら諦めるべきです」

「嫌だにゃ! みく達の物語はこれからにゃあ!」

 

 流石に女三人相手との押し合いは、男一人で相対するにも厳しい気がするが、まだ僕には余裕があった。おそらく、机に潰されそうになっていた金髪小学生の力は、ほとんど役に立っていないのだろう。特に筋肉質というわけでもないし、僕。

 

「よく分からないけど、だからって、他人に迷惑かけてどうにかなる問題でもないんじゃないんですか、それ? こんなことしたって、そのプロデューサーにたぶん迷惑を掛けるだけですよ。後、ここの経営とか、従業員とか、他のお客様にも迷惑がかかります。ひいては、ご両親、泣かせることになりますよ?」

 

 とりあえず力押しもどうかと思うので、適当に常識的で、体裁の整った良い言葉を紡ぐ。気分は犯人を説得する警官のような感じだ。しかし、警察に逮捕される側の変態である僕が言うと、なかなかに説得力がない。

 だが僕の説得力皆無の言葉は、一直線に彼女に届いたらしく、猫語使いを中心に、広がるように三人はテーブルを押すのを止めた。

 ほっと一息ついて前を見ると、金髪二人は心配そうに茶髪猫娘を見ている。

 

「なら……どうしたらいいの?」

 

 猫娘はなぜか泣いていた。

 そして、騒ぎが聞こえた安部さんがこちらに寄ってくる。

 

「騒がしいですけど、なにかあったんですか? えっ……? どうしてみくちゃんが泣いてるんですか?」

 

 そう言って、なぜか『みくちゃん』と呼ばれる猫娘と、机越しで面と向かう僕を見る安部さん。

 なんなんですか、その目。ちょっと疑っているような、そんな目。

 止めて下さいよ、僕何もしてないです。ちゃんと働いていただけですから。

 

 ◇◇◇

 

 オープンテラスの端の席で、丸テーブルを四方で囲むように僕と三人の少女は対面していた。

 安部さんにアルバイトを少しだけ早く上がっていいと言われ、僕はなぜか彼女たちの話を聞くことになっていた。

 事情はちゃんと説明して勘違いを解いたとはいえ、泣いている子をこのままほっておく訳にもいかないと、安部さんに頼まれた僕。

 仕事帰りに、お祖母ちゃんから頼まれた食材と特売品の買い出しをする予定だった僕は、はっきり言って、心中不愉快でしかなかった。

 早く行かないと、お一人様限定の特売卵が売り切れてしまうのだ。周回していくつか手に入れてやろうとも算段していたからに、時間的余裕はほとんどない。

 そもそも、僕は全くもって部外者であり、芸能人である彼女達の悩みを聞いて、おいそれと理解できる立場にいない。加えて、僕は彼女達の話を聞く義理もなければ、そんな善意を押し出すような人間でもない。

 知り合いで、アイドルの安部さんが話を聞いてあげた方が、間違いなく良いと思う。

 そう僕が説明すると、安部さんはアルバイトのシフトがまだ残っていると、悲しそうに言ってきた。

 ここ二日懇切丁寧に指導していただいたことに恩義を感じていた僕は、彼女の頼みを断ることも出来ず、ずるずるとこの場所にいる。

 まあ、安部さんに三人の少女について紹介された時点で、僕にメリットが全くもってないわけでもないことが分かったのが、そもそもの大きな理由だ。

 彼女達は、互いに同じプロジェクトに所属するアイドルで、僕の前方で未だ落ち込んだ表情を見せるのが、猫語を操る僕と同い年の前川みく。

 僕から見て左側の席に、ダルそうな表情で、ダルそうに座る人が、金髪超絶ロリッ子体型の双葉杏さん。その容姿からは考えられないが、僕より年上らしい。

 そして最後に、僕の右側で、ストローでオレンジジュースをちびちび飲む金髪中学生は、城ヶ崎莉嘉。

 城ケ崎といえば、この前ライブで、凛ちゃんがバックダンサーを担当したアイドルが城ケ崎美嘉。その妹にあたるのが彼女らしい。

 ここまでの情報を知って僕が思い出したことは、城ケ崎美嘉の妹は凛ちゃんと一緒のプロジェクトメンバーである、と言っていた要の言葉。

 情報を点と点で結んでいくと、彼女達が僕の幼馴染の所属するシンデレラプロジェクト――CPに所属していることが分かった。先ほどちゃんと彼女たちに聞いたから間違いない。

 つまり、彼女達がカフェ襲撃を企てることになった主な原因たるプロデューサーとは、僕の憎むべき相手であり、報復すべき相手だ。

 奴は島村と共に、凛ちゃんをアイドルに陥れた罪状があり、僕が凛ちゃんと話せなくなったのも、花屋で働くようになったのも、カフェで働くようになったのも、安部さんにあらぬ疑いを掛けられたのも、ひいては奴のせいだ。

 だから、僕もプロデューサーを遠因に困らせられるという一点に置いて、ストライキの手助けをすることにやぶさかではなかった。

 

「それで、君達がCDデビューしたくてストライキしたのは知っているけど、なぜにカフェで?」

「カフェならインパクトがあって、アタシたちの思いが伝わると思ったからー」

 

 城ヶ崎はストローから口を離して、能天気にそう答えた。

 

「……ごめん、やっぱり帰るよ」

 

 僕はそう言って、席を立ちあがった。

 このメンバーはダメだ。考えなしにも程がある。僕には理解できそうにない。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ、お兄ちゃん!? アタシたちがCPメンバーって知ったとたん、ノリノリで相談に乗ってくれようとしたのに、今頃どうして!? 飲み物までおごってくれた、優しいお兄ちゃんはどこへ行っちゃったの!? せめてみくちゃん元気にしてから行ってよ!?」

 

 そういって、僕に縋り付く城ヶ崎。

 

「なんで僕が?」

「だって、お兄ちゃんの言葉でみくちゃん泣いちゃったんだよ!?」

 

 いや、あれは正論を言っただけで、僕は決して悪くない。

 それにも関わらず、泣かせた方が悪いとさも当然といった風に言葉を返す城ヶ崎に、僕は多大な面倒くささを抱いた。言外に、『なんでそんなことも分からないの?』といったニュアンスが隠されている気さえしてくる。

 最近の世の中では、いくら立場が立場でも、泣かせた方も悪いとなるのだろうか。

 何勝手なこと言ってやがる、といった感じの不快感が、僕の胸に燻って熱を発する。

 

「僕は悪くないよ」

 

 それだけ言って、僕はジュースの代金を払うための伝票を持って、レジスターに向かう。

 だが、僕に縋り付く城ヶ崎は、三メートルほど引きずっても腰に掴まって放そうとせず、僕のウエストゴム式ズボンが段々とずり落ちていく。

 

「女泣かせな男は悪い人だって、お姉ちゃんが言ってたよ!? いいの!? 悪い人のままで!?」

 

 人聞きが悪いよ。まるで僕が前川を弄んだみたいじゃないか。

 

「もうそれで結構だから、腕を放してほしい」

 

 城ヶ崎のホールドがズボンと一緒にずり落ちて、世間に下着を晒すという危機的状況下に置かれている現在の僕は、ほぼパンツ越しの尻に頬タッチしている彼女の腕を、無理やりこじ開けようとする。

 だが、彼女のホールドは中々に決まっていて、力強い。四苦八苦しながら、僕は言葉を続ける。

 

「大体、どうして僕をそこまで引き留めるのさ? 今日知り合ったばかりで、ほとんど関係がないのに。僕が居たところで、どうにもこうにもあんまり変わらないじゃないか」

「……だって、お兄ちゃんがいなくなったら、この後あそこで一人になっちゃうじゃん」

 

 尻に張り付く城ヶ崎が、内心を小さな声で吐き出した。

 僕が件のテーブルに目を向けると、方や泣きべそをかいて落ち込み、方や瞳を閉じて、椅子にだらりと座って寝ている。

 確かにあのテーブルは今、どんよりとした暗い空気が滲み出ている。クラスで起きた問題について担任に問い詰められている生徒達のように、物音一つ発することができない雰囲気が出ている。

 道理を弁える安部さんが、わざわざ無関係な僕に後の世話を頼むくらいだ。それくらい居心地の悪い、不愉快な空間に仕上がっているのだ。

 ならば、ほぼ他人でもいてもらった方がマシ、というのが城ヶ崎の本音なのだろう。前川を心配するふりして僕を攻めていた割には、利己的考えが彼女の心中を横行していた。

 僕は軽くため息をつく。

 安部さんに恩を返すために。そして、僕の報復のために。

 

「……分かったよ。戻るから腕を放して」

 

 僕はあえなく、席に戻ることにした。

 

 ◇◇◇

 

「えっと君達の望みは、プロデューサーにCDデビューを確約してもらう、ってことで良いのかな?」

 

 仕切り直した僕の最初の質問に答えたのは、僕が頼んだジュースを手に持つ城ヶ崎だった。

 

「うん……アタシ達もCDデビューしたいけど、お姉ちゃんと一緒に踊った凛ちゃん、卯月ちゃん、未央ちゃん三人と、美波ちゃんとアーニャちゃんの二人がユニットでデビューしちゃうんだ。プロデューサーにアタシ達のデビューはどうなるのって聞いても、企画中としか言ってくれなくて、色々な方法でアタシたちの思いを伝えたんだけど、ダメだった……」

 

 凛ちゃんと島村卯月は知っているけれど、それ以外は知らない名前だな。

 

「で、双葉さんは『ストライキ』=『働かない』と勘違いして手伝っていたと」

 

 寝起きの双葉さんは、僕が奢ったジュースをストローで啜り、潤った喉を揺らす。

 

「杏は働かないことを人生の抱負にしているから、ストライキなんて素敵ワードについ反応してしまったんだよ」

 

 働きたくないなら、なんでこの人アイドルになったんだろうか。

 

「ちなみにストライキしようと思うまでは、どんな方法で思いを伝えてみたの?」

「えーとね……」

 

 そういって城ヶ崎が語りだしたのは、僕の想像をはるかに超える行動の数々だった。

 なんでも、自分達の方がCDデビュー組より優秀であることを示すためにパーティーゲームを挑んだり、自分が思い描くアイドル像を絵にして描いたり、すでに決まったユニットに自分を割り込ませようと、直談判したりと。

 それでも色よい返事がもらえなくて、カフェ襲撃。

 これがアイドルの世界。やはり住む世界が違うのか。アグレッシブ。

 

「でも、企画中って言ってくれたんでしょ? なら、考えているってことじゃないの?」

「……プロデューサーは、それしか言ってくれないの。……全部同じ言葉を返すだけ」

 

 前川が下を向いたまま、ぼそっと囁いた。

 僕は頭を掻いた。

 つまり、彼女は何度言っても同じ言葉を返されるだけで、流されているのではないか、嘘なのではないかと考えてしまっているのか。

 

「でも、カフェなどを襲って、実害を与える方法での呼びかけはよくないと思うよ。アイドルである以上、人の目を集めるのは必然。たとえ未成年で間違いを許される年齢だとしても、他人に迷惑を掛ける行動をすれば、これからのアイドル活動の足かせになるだろうからね」

 

 僕は凛ちゃんがアイドルになるのを反対した時のおじさんの言葉を主軸に、少し装飾して意見を言った。同年代の僕が一から思考するよりは、大人の意見を混ぜ合わせた方が説得力が増すだろう。

 この言葉は前川と城ヶ崎に突き刺さったようで、眉を八の字にしていた。残りの双葉さんも眉をピクリと動かした。

 

「とりあえず、まずは企画中かどうかの真偽を確かめるべきだと僕は思うんだ。まだ本当に企画している可能性もあるんだ。だから、もう一回聞いてみたら良いと思うよ」

 

 僕は社会に出て企業で勤めたことがまだないけれど、企画段階で確定的でないことに言質を取ってしまうと、後々色々と不都合が生じるであろうことは分かる。だから、プロデューサーは具体的な言葉を控えているのではないだろうか。

 それに、期待を抱かせておいてやはり無理でしたというのは、アイドル側への淡泊すぎる対応であるから。

 そう考えると、プロデューサーが企画中という一言でお茶を濁しているのは、大人の事情という奴で、なんならアイドル達を慮っているともいえるのだ。

 プラス方向で考えれば、社会のルールに囚われながら苦し紛れの一言に思える。

 マイナス方向で思慮すると、ただ何も考えていない言い訳とも見える。

 そして、その二つのどちらが事実かを指し示す指針は、未だ明確に振り切っていないはずだ。

 

「……どうせ何回言っても、同じ言葉しか返ってこないよ」

 

 前川が希望のない瞳でそう返した。

 彼女の考え方には、間近でプロデューサーの返答を何度も味わった故の経験則が混じっているのだろう。

 だが、僕は事実だけしか知らないし、プロデューサーの人となりも凛ちゃんから少し聞きかじっている程度だ。客観的な立場にいて、平生の情念から見下ろした彼女達とプロデューサーのやり取りは、僕からはどうにもまだ希望があるように思えてならない。

 ましてストライキをするような状態に陥るほどに、苦心して、思慮して、思いを伝えるための多くを試していないというのが正直な感想だ。

 親でもない赤の他人へのメッセージとして、デビューしたくてパーティーゲームを挑んだり、自分の思い描く未来像を絵に描いたり、ユニットに自分を割り込ませようとしたり、そんな無計画で現実性のないやり取りをしただけで、その相手に、自分が苦しいほど切実に悩んでいると伝わるわけがない。

 僕ならそれを、友人の持っている物と同じ物を欲しがるような無邪気な我が儘だと思って、相手にしない。

 プロデューサーとやらが、現在進行形で凛ちゃん達のデビューに向けて色々と動いているのだとしたら、なおさら、そんなことは後回しにするだろう。

 だから、伝える必要があるのは、彼女達の内面における事の重大さ、事の深刻さの一点だ。

 それだけを伝えれば、プロデューサーにとって、それは早急に取りかからなければならない問題に浮上し、なんらかの対応があるだろう。

 僕みたいに他人を大切に思えない人間なら、責任の観点や総合的な判断で変わらない対応をするし、人情味のある人なら、なんらかの答えを返すだろう。

 生憎、そこからはプロデューサーの人柄によってしまうけれど、まあ、大丈夫だろう。

 人の気持ちを慮る優しい幼馴染みが、少なからず信頼たり得ると選んだ相手なのだから。

 

「なら、少し聞き方を工夫してみたらいいよ」

「聞き方って、どんなぁ?」

 

 ストローでジュースを吸っていた城ヶ崎が、僕に尋ねる。

 

「目薬さして、迫真の演技で訴えかける」

「……ただの泣いたふりじゃん」

 

 因果応報作戦と呼んでほしい。

 僕が受けた仕打ちの一つを、そのまま奴に味わわせてやるのだ。僕は名も知らぬ相手にされたが、奴の場合は担当アイドルということになる。僕と同じく仕事上の関係悪化の危険に加えて、奴には良心の呵責を与えてやる。それも一人ではなく三人。よって、その破壊力は単純計算で六倍にまで跳ね上がる。

 

「いや、これが案外困るんだって。例にさっきも前川に泣かれて、僕は色々と立場が悪くなりそうになったし。件の彼も困って思わず、濁していた言葉の奥の真実を、ポロリと言っちゃうって」

「そんな簡単なことで本当にうまくいくのぉ? なんだか頼りないよぉー」

「いけるいける。絶対いける。経験者は語る。はい、決定」

 

 僕は軽々しく自信満々に少し前のめり気味に宣言した。その視線は、刻々と時を刻む腕時計の針に向かっていたが。

 

 ◇◇◇

 

 前川達アイドル組との出会いから、一週間が経った。

 僕は今週末も店員として活動しながら、凛ちゃんが訪れるのを待っている。

 今日も合わせて三日間しか働いていないけれど、それでも期待に胸を膨らませていたせいか、少し気落ちしながらアルバイトをしている。

 休憩に来た彼女と出会うという僕の計画は、少し運の良すぎる考えだったのかもしれない。

 日がな一日ここでアルバイトをしていれば、確実に一度は出会えると推定していたのだけど、僕の当ては大きく外れていた。

 しかし、よくよく状況を整理すると、凛ちゃんが忙しくなれば、その可能性が少なくなるだろうし、今がその渦中にあたるのだから、当たり前といえば当たり前に思えてくる。

 一目会いたいという思いで働いているけど、そううまくはいかないものだ。

 まあ、場所や時間を選ばず会いたいというだけなら、夜まで僕が渋谷家に残ればいい話ではある。芸能業とはいえ未成年であるから、凛ちゃんはしっかり規定の時間までに仕事を終えて、渋谷家に帰ってくるからだ。

 でも、僕はその選択肢を選ぶつもりはない。

 僕は家族と夕飯を食べるために、夜は家に帰らなければならないからだ。

 家族との夕食は大切な時間だ。それを僕のつまらない理由でキャンセルするのは嫌だし、お祖母ちゃんが毎日腕に縒りを掛けて作ってくれる料理を、最高のタイミングで一緒に食べたい、食べ逃したくない。だから、彼女を遅くまで待つことはできない。

 ならば、夕飯の時間を遅らせればいいかもしれないが、あまりお祖母ちゃんに夜分まで無理をさせたくない。

 お祖母ちゃんは数ヶ月前に体の調子を悪くしている。僕はお祖母ちゃんにいつまでも健康でいてほしいと心から願っているし、そのための健康管理を手助けしたいと考えている。そんな僕が、こちらの身勝手で悪い生活習慣にさせるなんて以ての外だ。

 よって、僕は夜間渋谷家待機以外の方法を選んだ。

 欲をいえば、凛ちゃんが自発的に346カフェにいる僕に会いに来てくれたら最高なのだけど、それは今の所絶対ないといえる。

 なぜなら、僕がここで働いていることは彼女に内緒にしているから。このことを知っているおばさんやおじさんにも黙ってもらっている。

 隠している理由は、単に驚いた顔を見ようと思うイタズラ心。それで怒られたりしたら万々歳。だけどそれも流石に寂しくなってきたから、ネタばらしをしてでも会いたいと、今は考え始めている。

 テラス席の片付けをしている僕が、ため息一つついて、遠くの建物の上にある空を見上げる。

 快晴の空が広がっていた。雲一つない、一面が青。透き通るような空の先には、太陽だけが照りつけて、星も、天国なんてものも、何も見えやしない。

 そんな僕の肩を、誰かが叩いてくる。

 すこしバランスの悪い前傾姿勢でテーブルの奥を拭いていた僕は、思わず顔だけをそちらに向けた。

 すると、待ち構えたように伸ばされていた誰かの人差し指が、僕の頬を押し込んで沈む。

 子供騙しのイタズラを仕掛けた人物に目を向けると、そこには黒髪黒目、黒を基調とした服を纏った女性、いや正確には見た目は女性、体は男性がいた。

 

「どうなの、調子は?」

「要? ……なんでここに?」

 

 僕の前にいたのは、ここで働くことに何かと世話を焼いてくれた要だった。

 

「どんな調子か見に来たのよ。私が一応推薦人だしね」

 

 頭上から降り注ぐ光が反射して、エンジェルリングと呼ばれる、艶やかな髪だけに現れる光沢の輪が要の頭にできている。

 黒と白によるボーダー柄のTシャツと、まっ黒なスカートが、要の透き通るような肌を目立たしている。

 学生服の時とは違い黒のストッキングは履いておらず、いつもは隠された足がさらけ出されているが、全くもってそこには毛が生えていない。

 要の顔に髭の痕跡が見当たらないのは学校で確認したが、足もツルツルテカテカだった。男の足とは思えない。

 嬉しそうに僕の頬をついていた要は、僕の不躾な視線の先を追いかけて、自分の足元を向いた。

 そして僕が何を思っているのか気付いたのか、はにかみながら彼女は言う。

 

「私、すね毛生えてこないのよ。産毛はもちろんあるけどね」

「は?」

 

 この世にそんな男が存在するのか。そんなありえない存在が実在しているというのか。

 あ、ありえない。脱毛したとか、除毛クリームを塗ったとかの理由の方が、信憑性があるから、嘘をつくならそちらを選ぶべきだ。

 そう指摘したいところだが、ここで敢えて僕に嘘をつく意味が要にはない。見栄を張った可能性も無きにしも非ずだが、仲良しなサザン以外の誰でも臆せず男だと言い張ってきた要が、そんな小さいことだけ隠すとも思えない。

 僕はこの天然記念物に匹敵する存在に、ある種恐怖を感じていた。

 要はつま先から頭まで僕の体を見る。

 

「それにしても……、その服を来たあなた、とっても格好良くて似合っているわよ」

「あ、ああ、うん」

 

 未だ衝撃の抜けきらない僕は、間抜けを携えて彼女に体を向き直った。そして、身に纏う燕尾服のネクタイをいじる。

 

「……そういえば、安部さんにも似たようなこと言われたけど……、そこまで言われるほどかな? むしろ動きにくくてあんまり好きじゃないよ、これ」

 

 コスプレ要素が高いというか、なんだか非現実的な感じがして、未だにこの服がしっくりとこない。

 燕尾服という字のごとく、黒ジャケットの後ろ裾が燕の尻尾のように伸びている。だからか歩くたびに太ももに上着が当たるので、気になって仕方ない。ズボン越しにスカートを穿いているような感覚に近いだろうか。そんな奇抜なファッションはしたことがないので、イメージでしかないけれど。

 仕事着だから着ているが、明らかに仕事の妨害をしているような気がする。

 要は不満そうな僕を見て、ふんすと胸を張って声高に宣言する。

 

「おしゃれは我慢よっ!」

 

 いや、仕事で着ているんだよ。おしゃれじゃない。

 その時、ふと僕の思考上にぷかぷかと浮いてきたのは、少し前から根付いていた小さな疑問。

 

「安部さんみたいな女性従業員はメイド服で、僕みたいな男性従業員は執事服だけど、このカフェは秋葉系を目指しているの?」

 

 要は人差し指でこめかみをツンツンとしながら、頭の中の記憶から情報を捻り出す。

 

「そっち系は別に目指してなかったはずよ。私もそのことを店長に聞いたことがあるの。なんでも、このカフェで働く人は美形な人が多いから、その華を際立たせるために用意したって言っていたわ」

 

 確かに、ここで働く人は売れない芸能人や新人が多いらしい。ならば、美男美女でこういった服を着せても見栄えする人が多いのかもしれない。一般の人になると、需要がなければ馬子にも衣裳くらいにしかならない。けれど従業員が特殊なここは例外で、わざわざこんな凝った衣装を用意しているようだ。

 僕の中でくすぶっていた小さな疑問が解消されて、すっきりとしていると、要は僕が掃除し終わっていたテラス席へ、その腰を下ろした。

 

「メニューをもらえる?」

 

 首をかしげて笑顔で僕に頼むその姿は、いちいち男心を刺激してくる。要の行動一つ一つが、あざとさに包まれている。しかし、それがアイドルという理想像を目標とした、努力の意識で編み込まれたものだと考慮すると、決して悪いものには思えなかった。

 

 ◇◇◇

 

 僕がメニューを要に持ってきた後。すぐさま店内に戻ろうとする僕を、要が引き止めた。

 

「もう注文が決まったの?」

 

 つい先ほどメニューを渡したばかりで、その冊子は折り畳まれた状態のまま机に伏せてある。

 どう見ても、中身すら確認していない。予め注文する物を決めていたんだろうか。

 

「今はお客が少ないから、もうちょっとお話しましょうよ」

 

 周囲の席を確認した要につられるように首を振ると、閑散としたテラス席に、ぽつぽつとしか人はいない。外から店内も覗いてみるが、もぬけの殻だった。

 確かにピーク時の昼時を終えて時間はすでに、午後一時半。ほとんどの人が仕事に戻って、一番客が少なくなる時間帯だ。

 土曜日であっても、芸能プロダクションのここに勤務している人は多数いる。芸能界に定休日はないといえば聞こえが悪いが、この346プロには撮影所等もあり、多くの芸能人やスタッフが休日でも、ここを忙しそうに行き来しているのは事実だ。

 安部さんの解説によると、イベントが行われるのはお客の都合がつきやすい休日であるし、他の職より若い未成年が多く在籍する芸能界で、その未成年が学業の影響を受けず、存分にフルタイム活動できるのも、やはり休日であるらしい。ならば、社員は平日より休日の方がかえって忙しくなる場合もあり、昼食時を除いて、主客を失ったカフェ側はいつもより暇になると言っていた。

 だから現在、閑古鳥が鳴いてもおかしくない光景が眼の前に広がっている。

 

「一応仕事中だから、話すのは止めておくよ」

 

 僕がそう告げると、要は頬を膨らませる。

 

「ちょっとくらいいいでしょう? あなたの様子を見に来たなんて理由は二割未満で、八割方、友達にアイドルの話しようと思って、ここまで来たのよ?」

「要の話となると、ちょっとで終わらないじゃないか。それ絶対長くなるよね?」

 

 人は考え事をする時に上を向くが、要も例に漏れずこの仕草をする。

 数十秒を要して、要はゆっくりと視線を下に戻す。その表情は若干気まずそうで、もごもごとさせた唇から、小音の言葉が紡がれる。

 

「……なるわね」

 

 考えるそぶりを見せて置いて、平生と全く変わらない答えに行き着いた要は、僕の顔から視線を背けた。

 僕達の会話は終了した。

 要の傍から離れようと動き出す僕だったが、その目には、金髪の女の子がはしゃぐように、元気にこちらに向かって駆けてくる姿が映っていた。

 新たな知人の登場である。

 だが、なにか様子がおかしい。その少女は減速の兆しが一向に伺えず、勢いは止まることを知らず僕の方へ、ロケットパンチでも打つかのように腕を真っ直ぐ伸ばして、突進してくる。

 腹部を狙うように定められた腕に、理由は分からないが危険を察知した。当たる直前で横にさっと回避する。

 そして、僕を狙い損ねて、通り過ぎた彼女を見ようと後ろを振り返った瞬間、すでに急速反転した彼女の腕が僕の腹をえぐる。

 

「ぐふっ」

 

 三十センチ届くかという身長差があるために、痛みで腰を折ると、彼女の頭頂部にちょうど僕の顎を置くような体勢になった。

 髪からシャンプーの甘い香りが鼻孔をくすぐるが、腹部の衝撃で若干過呼吸になっているため、感慨は全く浮かばなかった。

 

「お兄ちゃん! 探したんだよ!?」

 

 一歩後ろに下がって、ビシッと僕を指したのは金髪少女――城ヶ崎莉嘉。

 顔の下に彼女の頭がなくなったことで、さらに腰を折り曲げて腹を押さえ、よく分からないことを抜かして怒る、この少女に尋ねる。

 

「ど、どういうこと?」

「どういうことって、お兄ちゃん、先週泣いたふりの話をした後、すぐ帰っちゃったじゃん! 『それじゃあ、僕はこれで。今日はスーパーでお一人様限定、特売卵の日なんだ』とか言って、連絡先も交換せずに急いで帰っちゃったじゃん! だからアタシ、お兄ちゃんに結果を教えるために、毎日カフェに通ってたんだよ!?」

 

 ……ああ。確かに、あの日はそんなことを言って話を切り上げた。セール品が売り切れる前に早くスーパーに向かいたくて、僕の思いついた解決策兼、復讐案を彼女達に放り投げて、そこに行き着いた思考経路の解説をやや投げやりにして、早々に帰った。

 しかしだ。

 

「……それと出会いがしらで僕に腹パンすることに、何の関係があるっていうんだよ」

「一週間だよ、一週間! その間毎日ここに行っても、全然見つかんないんだもん。おかげで、お店によるたびお小遣いが減っちゃって、大変だったんだから!」

 

 それはどう考えても逆恨みで、自業自得だ。ここではテラス席なら座っていても、別段何かを注文する必要はない。それに、ここで働いている知人の安部さんに僕のシフト状況について尋ねれば、答えてくれただろう。

 だが、そんな不条理もなかなかに許せないことであれ、それ以上に気になる点について訴えるために、僕を指さす少女の右手を両手で握る。

 

「な、なに?」

「人に指を向けちゃ駄目だ。それは失礼に値する行為だからね」

 

 彼女の人差し指を無理やり折り畳み、握りこぶしを作らせた。

 こういう行儀に関して母さんは口うるさかったから、僕も気になるようになってしまった。

 

「……なんか、お姉ちゃんみたい」

「……お姉ちゃんじゃなくて、お兄ちゃんじゃないの?」

「ちがうよ。うちのお姉ちゃんって意味」

 

 ああ、そういうこと。

 僕は納得すると同時に、握ったままの城ヶ崎の拳を、両手で力強く握りしめる。

 

「ふっ!」

「いたたたたっ!?」

 

 僕の両手から我武者羅に手を抜き去った城ヶ崎は、苦い顔をして、手の痛みの熱を冷ますようにスナップを利かせる。

 そして、ちょっと潤んだ瞳で僕を睨んだ。

 

「もうっ! 何するの!?」

 

 その小動物が威嚇しているような、あまり威圧感と迫力のない仕草を見て、僕はただ笑ってやる。そんな僕を見て、彼女はさらに威嚇レベルを上げるが、全く恐れるに足らない。

 

「腹パンと指さした罰」

「ひ、ひっどい! か弱い乙女に手を出すなんて、やっちゃダメなんだよっ!?」

 

 先に殴ってきたのはそっちなんだから、お互い様というやつだ。

 未だに鋭い目線を送る彼女から逃れるために、僕は話題を本題に戻す。

 

「それで、結果を教えに来てくれたんじゃないの?」

「え? ……あっ、そうだった。あの後、お兄ちゃんが言った通り、目薬さしてみくちゃんと二人でプロデューサーの部屋に行ったの!」

 

 先週僕と話をした三人のうちの一人――面倒くさがりの双葉さんは行かなかったようだ。

 城ヶ崎は両手の人差し指で、目尻横に引き伸ばして狐目のようにして、半眼で目を据えて、ムッとした口の無愛想な表情を作る。

 

「そしたら、いつもこーんな顔して無表情のプロデューサーがアタシ達見て、アタシにも分かるくらいメチャメチャ驚いたのっ!」

 

 次にその表情のまま、半ば開いたまぶたを、普通に開いた。

 いやいや、ほとんど面持ちが変わっていないじゃないか。全然驚いている表情じゃないよ、それ。

 僕は城ヶ崎の再現力の低さに、苦笑するしかなかった。

 

「それで、『どうしたんですか?』って聞いてくるプロデューサーに、悲しい顔して『企画中って本当に本当? 嘘じゃない?』って聞いたの。そしたら、またこーんなびっくりした顔のまま、少し固まったんだ。でっ、その後に慌てて必死に色々話してくれたんだよっ! ……でねでねっ、なんとなんとっ、実はアタシ達もちゃんとCDデビューできるんだってっ!」

「……じゃあ、『企画中』って言ったのは、別にはぐらかしているわけではなかったんだね?」

「そういうことっ!」

 

 城ヶ崎は今にも踊りだしそうなくらい、満開のスマイルでVサインをするが、騙して情報を聞き出した経緯上、無邪気さの中にある鋭利な残酷さが垣間見える。

 この子は将来、純粋無垢を装って、素知らぬ顔で男を騙す悪女になりそうだ。知り合ったばかりの男である僕に対しても、無邪気に気安くしてくる元来の素質もあれ、僕がその教育の一端を担ったと考えると、…………特に何も思うことはなかった。存分に武器は武器として使っていけばいいと思う。

 そんな風に少し彼女の未来の行く末を想像していたが、どうやらそうは問屋が卸してくれなかったようだ。彼女は一変して眉をひそめ、その表情を暗いものにした。

 

「でもね。お姉ちゃんにCDデビューの話をした時に、嘘泣きして聞き出したって言ったら、すごく怒られたんだ……。『そんなことしてたら、いつか誰にも信じてもらえなくなって、自分すら信じられなくなるから、止めなさい』って」

 

 どうやら彼女の姉は、生真面目な気質の持ち主のようだ。

 前回のライブで見た時は、凛ちゃんばかりに集中していたせいでほとんど記憶にないが、髪色がピンクだったのは覚えている。その奇抜な見た目の割に、言動は倫理的で道徳的な教育者だったようだ。流石はカリスマうんたらかんたらと呼ばれているだけはある。

 

「その後、みくちゃんもお姉ちゃんに怒られて、二人でプロデューサーに謝りに行ったんだ。そしたら、逆にプロデューサーに謝られちゃった。『こちらこそ不安な思いにさせて、すいませんでした』って。……アタシ、真剣に向き合ってくれたプロデューサーに、とってもずるいことしちゃったんだって、よく分かったの。……だからね、これから嘘泣きはもう絶対しないって決めた」

 

 そう告げる彼女の表情は、先週に見た時より少し大人びていた。

 幼さは何色にでも塗り固められる白色のキャンパスみたいだ。何色を塗ることもできて、少し塗るだけで、その変化は顕著に目につく。

 この一週間で、彼女のキャンパスには新しい色が塗られたのだろう。他人を想わない僕がパレットに混ぜた黒色ではなく、彼女の姉とプロデューサーが足し合わせた、もっと明度の高い何色かが。

 

「……でね。お姉ちゃん、お兄ちゃんにもすごく怒ってた……」

「あれ? 僕のことまでそのお姉ちゃんに伝えているの?」

「『言い出したのは誰?』って、お姉ちゃんに問い詰められて……。ごめんね、お兄ちゃんは相談に乗ってくれただけなのに」

 

 城ヶ崎は申し訳なさそうに、顔を下に向けた。

 姉である城ヶ崎美嘉が抱く僕への心証が悪くなったことに、どうやら負い目を感じているようだった。

 だが、所詮他人が抱く僕への心象なのだから、僕は別段その事実をあまり気にしていなかった。まして、知りもしない相手だ。城ヶ崎という繋がりはあれ、そんな相手から怒りをむけられようが、どう思われようが関係ない。

 だから、彼女を特に責め立てようという気は起きなかったし、そもそも僕がそうする筋合いもない。僕は僕の復讐のために彼女達を利用したのであって、そのお姉ちゃんとやらに睨みを利かせられる理由として、順当に事足りるのだから。

 

「別にいいよ、僕にも非があるんだから」

「お兄ちゃん……」

 

 顔を上げた城ヶ崎が、未だ後ろめたい感じの様相だったので、僕は城ヶ崎の頭に手を置く。

 その滑らかさと艶に感心する。若さだけでは、ここまでのものには至らないだろう。きちんとケアされていることが、なんとなく分かった。

 だが、そんな情緒はタンスの引き出しの奥にでもしまって、僕はそのまま手を無作為に動かして、髪をぐちゃぐちゃにしてやった。

 

「ああっ、セットした髪がぁ!?」

 

 城ヶ崎は悲鳴を上げる。僕の手からさっと距離を置いて、髪をなんとか元に戻そうと手櫛で梳かす。それと並行して、彼女は僕にぶつくさと文句を言って怒る。

 

「唐突にやりたくなったんだ。今は悪いと思っているよ」

 

 僕は笑いながら、彼女に謝った。

 

「全然謝ってる顔じゃないじゃん! 髪は女の命なんだよっ!? それをぐちゃぐちゃにしたんだから、重大事件だよ! ちゃんとそこのところ分かってるの!?」

「オッケー」

「なんか返事軽いよっ!」

 

 やはりこの少女には、先ほどのしょげた顔より、今みたいに五月蠅いくらい豊かな表情の方が断然似合うと思った。髪がボサボサなのはマイナスポイントだけれど。

 

「ねえ、そろそろ会話に入れてもらっていいかしら?」

 

 僕達に話しかけてきたのはすぐ隣のテーブルに座っている要だった。

 

「……あれ? 要ちゃんじゃん!」

「こんにちは、莉嘉ちゃん」

 

 驚く城ヶ崎に、要は笑顔で挨拶を返した。

 どうやら要は城ケ崎と知己の関係のようだ。要の交友関係はどこまで広がるのか。

 城ヶ崎は、会話できる距離にいる僕達二人に、交互に視線を向ける。

 

「……ううん? もしかしてお兄ちゃんと要ちゃんって知り合いなの?」

「ええ、そうよ。私と彼は同じ学校に通っているの。彼にここのバイトを紹介したのも私で、今日はその様子を見に来たってところなのよ。……それで、さっきの話って結局なんのことだったの? 込み入った話みたいだったから、あまり聞かないようにしていたんだけど、CDデビューとか気になるワードが色々と飛び込んできて、やっぱり気になっちゃって」

「えへへ、それ聞いちゃう?」

「もちろん聞いちゃうわ。差し支えなければだけど」

「いいよ、いいよー。あんまり言い広めないように言われたけど、要ちゃんは特別に教えてあ・げ・るっ。えへっ」

「……いや、それたぶん、差し支えあるわね」

 

 全然言うこと聞いていないじゃないか。なんなら、僕もこの話を聞いたら駄目な側なんじゃないか?

 おそらく、この軽い感じの城ヶ崎とはいえ、喋る相手は選んでいるだろうが、ハードル低めな気がする。要と城ヶ崎の親密度は知らないから、判断できないが、僕なんて相談に乗ったとはいえ、実質今日を合わせて二回しかあっていないのだ。そんな相手に伝えた時点で、ハードルが高いとはいえないだろう。

 これなら、プロデューサーが「企画中」って言葉で、情報を広めないように動いたのも、頷けるというものだ。個々による違いはあれ、人の口に戸は立てられぬという諺にもあるように、話は広がっていくのだから。

 伝える相手が、自己の情動を抑制できない、精神的、経験的未発達な僕ら若者が多いアイドルなら、なおさらだ。最初から口に何も持たせないのが、一番理にかなっている。

 それに、こんなに城ヶ崎の期待値が高いと、企画が後戻り、あるいは崩れたなんてことは許されない状況にある。そんなことになれば、彼女のモチベーションや自分に対する信頼に、大きな打撃を与えることになるだろう。

 事情や情報、感情や期待。周囲に張り巡らされた様々な鎖が絡まり合って、身動きがとれないというのに、時間は刻々と過ぎ去っていく。時の流れで移ろう環境は選択を迫り、手探りながらも、最善を選び抜かなければならない。加えて、採択した道には、大きな責任が付き纏うのだから、大人は色々大変なのだろう。

 同情心のかけらもなく、そんなことを思う。

 互いに話し合う二人を残して、僕はひっそりと仕事に戻ることにした。ちょうど新しいお客さんがお見えになったからだ。

 

 ◇◇◇

 

 時はすでに夕刻。僕が仕事に従事して、数時間が経った。

 要と城ヶ崎は、とっくの前にカフェから去っている。

 二人は仲が良いようで、終始楽しそうに会話していた。たびたび、僕が暇なタイミングを見計らって話しかけてきたが、滅茶苦茶テンションが高かった。

 話題は城ヶ崎の姉だったみたいだが、要がその人を褒めれば、城ヶ崎がそれに関連したマル秘エピソードを語る。それに興奮した要が、さらにその人の素晴らしさを語れば、城ヶ崎も同意して、凄さを語り出す。だいたい、これの繰り返しだったんじゃないだろうか。僕の耳に届いた会話は、全部このパターンだった。

 仕事が終わった僕は、堅苦しい仕事着から開放され、スーパーのセールで買った、胸元に『GREAT!』と記されたパーカーに着替える。

 城ヶ崎のズボンずり下げ事件の影響で、あえなくウエストゴム式ズボンから、ウエストベルト式ズボンに変更することになったわけだか、どうも学校以外でベルトのズボンを穿くのは、窮屈で仕方ない。休みの日くらい、開放的になりたいという欲求が、僕の心中にあった。

 落ち着かない感覚のまま、店の玄関から外に出る。

 いつもは従業員出入り口から帰宅するのだけれど、今日は346カフェのコーヒーを飲んでみたいとお祖母ちゃんに頼まれていた。そのため、客としてテイクアウト購入した都合で玄関から帰る。

 買ったコーヒーはすぐに持参の手提げ鞄の中に入れる。

 そんなことをしていると、テラス席にも座らず、カフェ玄関近くで壁にもたれかかる、見覚えのある顔を見つけた。

 僕とほぼ同時に彼女もこちらに気づくと、一拍おいて、話し掛けてくる。

 

「あのっ!」

 

 彼女は予想以上に大きくて、トーンがおかしな声を出した。この前聞いた時より、幾分か甲高くなっている声。

 それは叫んでいるとも取れる声量で、僕も驚いたが、声を出した本人が一番驚いた顔をしていた。

 視線からして間違いなく僕を呼んでいただろうから、僕は彼女に向かって歩を進める。

 

「なにか用?」

 

 僕が尋ねながら近くまで来ると、彼女は先の言動を恥じらいだしたのか、その顔を赤くして、焦ったように目元を回す。

 もじもじもじもじ。

 手をこねこね、髪をさっさっさ。唇むずむず。

「えー」とか「あー」とか、会話を必死に繋ごうと合いの手を入れるが、次の言葉はなかなか出てこず。

 最終的に、深呼吸のように大きく息を吸い上げた彼女が、とうとう吐き出したのは、たった一単語。

 

「……ありがとうっ……にゃ」

 

 それだけを言って、彼女は僕が返事をする機会を与えずに、あさっての方向に駆け出していってしまった。

 僕がその後ろ姿を追う理由はなかったので、ただ眺めていた。

 彼女が何に対するお礼を言ったのかは、城ヶ崎が語っていた一連の結果を聞いていたから分かる。

 僕の復讐と、安部さんへの借りによって生まれた助言は、褒められた内容でないとはいえ、どうやら彼女が自分を取り戻す助力になってはいたようだ。

 現に彼女は、出会った当初の、気落ちして涙を流す前に扱っていた猫語を取り戻していたのだから。

 生憎、僕には語尾を変える意味がよく分からなくて、目の前でにゃあにゃあと鳴かれても、ただひたすらにウザいだけなのだけど。

 でも、それでもまあ。今回の鳴き声は、別段悪い気はしなかった。

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