「それにしても、他のメンバー達のデビューが決まってて本当によかったよね~」
更衣室のロッカーを開き、掛けておいた私服を取り出しながら、未央は私と卯月に向かって話を振った。
「皆でちゃんとデビューできるって分かって、とっても嬉しいです!」
卯月はワイシャツのボタンを締めながら、未央の言葉に笑顔で同意する。
今日は5月中旬の土曜日。時間はおやつ時をとっくに超えて午後五時。あと一時間もすれば綺麗な夕日が目に焼き付く刻限になる。
「そして、私達は明日。とうとうデビュー曲のレコーディング……。んんっ、今とってもいい流れが来てるっ、間違いない! デビュー第一弾組としてCPメンバー皆の期待を一身に背負ってるし、これはやる気出るってもんだよ!」
「き、緊張します……。今日はこんなに練習早く終わっちゃって大丈夫だったんでしょうか? もっと明日に備えて、遅くまでボーカルレッスンした方がいいんじゃないでしょうか……」
卯月は不安そうにして、ボタンを締めるのを止めた。まだ練習したりないという考えが、練習着から私服に着替える行為を躊躇させていた。
今日の私達の予定はもう入っていない。
いつもはもう少しダンスや歌の訓練を行うんだけど、明日がレコーディングということもあって、体調を崩したり、喉を痛めたりしないように、今日は早めに切り上げられた。
トレーナーさんがそう理由を説明してくれたけど、頑張り屋な卯月は時間がある限りレッスンに取り組みたいと思っているようだ。
私も卯月と同様に、本番まで出来る限りレッスンに取り組みたい。だけど不安を払拭するための気合いや熱意がどれだけ高まっていても、肝心の体がついてこないと意味がない。それはバックダンサーを経験したあの時に痛感したことだった。
懸念を抱く彼女の背中を、上半身だけはオレンジ色のワイシャツに着替え終えた未央がバシバシと叩く。
「大丈夫だよ! だって私達はもうやれること全部やったじゃん! 最後まで根詰めすぎずに、体を休めて、落ち着いて、いつも通りに歌えば絶対うまくいくって! ライブになったら何千人の前で歌うんだから、今からそんな張り詰めてたら調子でないよ!」
はっはっはと自信満々に未央は笑った。けれどその傍らで、対象的に卯月はうずくまってしまう。
「未央ちゃん……、背中を叩くのが強いです」
卯月は痛みでダウンしていた。
私は同情した。その痛みを私も知っていて、経験者であるから。
未央は元気づけたり、発破をかけたりする時によく背中を叩いてくる。だけど、あんまり加減をしてくれない。
笑顔や言葉も付けて励まそうとしてくれるのはいいけど、結局叩かれる側は痛みであんまり心に入ってこない。要するに痛いだけ。
不安なところに追い打ちのごとく背中に紅葉を作られるのだから、受ける側は堪ったものではない。
卯月の沈む姿に遅れて気づいた未央は慌てたように謝る。
背中をさする未央と、さすられる卯月。
二人を見ながら、特に話に加わることなく着々と着替え終わっていた私は、更衣室にある長椅子に座った。そして鞄を隣に置いて、彼女達が着替え終わるのを静かに待っていた。
◇◇◇
「カフェに新人男性が入った話、二人は知ってる?」
「新しい人ですか? ……最近は忙しくてカフェに寄ってないので、そんな人は見たことないですね」
「私も卯月と同じかな」
私達は更衣室から出て、346プロの出入り口に向かって帰路を進んでいた。建物を出て、ちょうど芝生などが生い茂る広場の道を一緒に歩いている最中。適当な雑談に身を投じていた私達に、未央は先の話題を放り投げた。
「私も実際に見たわけではないんだけど、莉嘉ちーから聞いた話によると、身長百八十くらいで濃いめ茶髪、整った顔の中でも釣り上がった目元が特徴で、飄々としていてクールな雰囲気。性格はあんまり掴み所のない印象を与えてくるけど案外気さくで、面倒見も良く優しい。だけどちょっと意地悪で悪い事も教えてくるらしい」
「なんでそこまで具体的に知ってるんですか?」
「そりゃあ、莉嘉ちーが知り合いだからだよ。といっても知り合ったのは最近らしいけどね。……それで、莉嘉ちーの語るその人の顔を見に行くために、ちょーっとカフェの前を寄り道していかない? その人、土日に働いてるらしいから」
「……まあ、私は別にいいよ」
ここからカフェを通って玄関に行っても、遠回りというほど迂回はしない。それにこの後予定が詰まっているわけでもないから、時間的な問題はなかった。
私は別にいいと思って卯月を見ると、彼女は私達に向かって了承の笑顔と言葉を返した。
進行方向を変えて足先をカフェ側に向ける。
「でもわざわざその人を見るためだけにカフェに行くなんて、なんで? 顔が見たいだけならカフェまで行かなくても、あそこで働いてるってことは芸能人だから、ネットで名前を調べれば済むと思うけど?」
カフェで働いている人は346プロ所属の芸能人ばかりだ。だから顔写真はほとんどネットに載ってる。といっても名の知れた有名人というわけではなく、未だ開花していない卵……というと大変失礼かもしれないけど、未だ芸能一本で暮らしていけないという方々が働いている。
未成年は親の保護下の元で不安定な芸能業ができるけど、大人にとっては芸能業が花咲かないことは生活に関わる死活問題。そういった人達の生活を支えるカバー的なバイトをこの346プロでは随時募集している。
写真撮影や番組中に出てくる着ぐるみの中にアイドルが入っていたり、会場のチラシ配りをしていたりするのがここでは案外普通の出来事だったりする。
アイドル側も現場がどんな雰囲気で、プロの仕事がどんな感じなのかを生で体験できるため、金銭面以外にもメリットは大きい。新人アイドルの場合はレッスン以外にもこういったバイトもスケジュールの中に入れられていて、実地見学代わりとされている。
その多岐にわたるバイトの中の一つがあの346カフェだ。でも346カフェの場合は別段芸能業とそれほど関係がないため、お金が主目的の芸能人が多数を占めている。
「それが莉嘉ちーが言うには芸能人じゃなくて、一般の高校生らしいんだって」
「ふーん」
「珍しいですね」
一ヶ月しか346プロでアイドル生活を送っていない私と卯月も、その珍しさに軽く驚いた。
「しかも、あのかなめんが推薦したんだってさ」
「かなめんって、もしかして要さんのことですか?」
「そうそう。だから一般人だけど逆に色々な点が珍しくて、むしろ気になっちゃったわけですよ。わざわざ見に行こうって提案したのはそういう理由だったりするの」
会話と同時進行で足はどんどん進んでいき、いつの間にかカフェの近くまで来ていた。
私達はとりあえず店前に広がるテラス席の外周を通って、件の人物がどこにいるのかを探す。
テラス席付近にはこの前知り合った安部さんが注文を伺っていて、それ以外に店員と思われる人はいない。
じゃあ店内にいるのかと思い、開閉ドアがない店の玄関を眺める。するとその付近でみくを見つけた。彼女はトートバッグを肩に掛けた私服の男性と向かい合っている。
「あれってみくにゃんだよね。その前にいるのは……ううん?」
「あの人って……」
「えっ……」
私達各々が注目する中、遠く離れた場所にいるみくが恥ずかしそうに顔を赤くして彼に何かを必死に告げる。そしてすぐさま居ても経っても居られずといった様相で、私達がいる場所とは別の方角に脱兎のごとく去っていった。
男性は彼女の後ろ姿をただ目で追いかけていて、その様相を少し嬉しそうに弛ませた。そして数秒の余韻に浸ると、歩き始める。
一方で注文を聞き終えた安倍さんが、店内に戻ろうしていた。
ちょうど二人がすれ違う際、安部さんはまるで同僚に話かけるように軽く声をかけてねぎらう。ここからでは内容はよく聞こえないが、二人の関係はなんだか親しそうだった。
お互いに手を降って別れると、男性は私達に真っ直ぐ向かうように舵を取る。そうすると猫背の人以外は大抵前を見るのだから、自ずと彼は私達の姿を視認した。
数秒、男性は膠着する。
私も同様に、未だ信じられない光景を前に閉口していた。
少しの喧騒はありながらも、時間が時間であり仕事の一息を取りに来た人が多いであろうカフェ。その落ち着き払った空間は私達の心境とは全くもって正反対で、どこかその光景が羨ましい。出来ることなら私もそちら側に混ざって安息に満たされながら現状を冷静に分析したい、混乱していた私は場違いにそんなことを思った。
先に再起動したのは男性だった。
その表情は先程の呆気にとられた間抜けな表情とは一変、真剣な表情に変わる。まるで短距離走を始める前の陸上競技者のように、ストレッチを始め、体を伸ばしてほぐし、軽く足首を回す。
最後に左右の順で肩を大きく回し終えると、肩に掛けていたトートバッグを手に持った。準備が完了したのか小学生がかけっこする時のような走る体制に入る。
テラス席に座っているお客の携帯が通知音を奏でる。
それを合図にしたように、男性は右足を高速で前に振り出す。トートバッグを持つ手だけは振動させないように気を遣いながら、交互にテンポよく地面を蹴り上げ、勢いよく走り出した彼は一直線に私に向かってくる。
「凛ちゃーん!」
前髪を風でオールバックにしながら、弛緩させた猫なで声で私の名を呼ぶ男性は、まごうことなき私の幼馴染だった。
◇◇◇
346プロで、凛ちゃんに、出会った。
「な、なんでアンタがここにいんの?」
面前にまで来た僕に凛ちゃんは唖然としながら、絞り出したように疑問を呈した。
ある種この顔を見るために内緒にしていた僕は、内心喜悦でお祭り騒ぎである。もちろんそんな僕が、彼女が問うて来たときのために返事を用意していないはずがない。
「なんだかんだと聞かれ――」
「――いや、今それいいから」
僕が言おうとしていた台詞を、凛ちゃんは食い込み気味に中止させた。
せっかく考えてきた口上が水泡に帰した。
少しそれが悲しかったが、この凛とした冷たい返しが久しくて心に響いた。多分今なら何言われても、心に響くとさえ思えた。
「で、なんでここにいるの?」
二度目の問いかけは、少し立腹しているように語気が強められていた。早く答えるように促されている。
だから、僕は簡潔にここにいる理由を述べる。
「君に会いたかったからだよ」
「……なんで人前でそういうこと言うかな」
「「キャー」」
僕が言葉に凛ちゃんはため息をついて、その隣に控えていた二人の女子は甲高い声を出した。
その二人は互いの顔を見合わせて、これは面白いものを見たと顔に書いているように目をキラキラとさせていた。
「み、未央ちゃん、聞きましたか今のセリフ!?」
「ええ、聞きましたとも! やはり、しぶりんとその幼馴染の間にはただならぬ関係が横たわっている!」
その姦しさで、二人の存在が有象無象の存在ではなく凛ちゃんの連れであることを認識した。
僕は驚いた。二人の顔には見覚えがあったからだ。それはつまり、他人の顔を覚える気があまりない僕においては、彼女達を見たのが最近の出来事であるのを意味した。
あの輝かしくも刺々しいステージの上に、凛ちゃんと共に立っていた二人だった。
そして、凛ちゃんから聞いた外見情報から参照すると、片方は僕にとって因縁の相手だった。ここ何週間もの期間、その相手への憎悪で身を浸し続けていたほどだ。
最近ようやく悪因悪果の報いを与えたプロデューサーと並び、僕のブラックリストに載るもう一人の人物にして、凛ちゃんを拐かした魔女。
「しま、むら?」
「え? ……あっ、は、はいっ、島村卯月です。……ええと、えっと。……私のことを知ってくれていたんですか?」
僕が彼女の名を呼ぶと、彼女は突然先生に声をかけられたように慌てて恐縮したようにしている。ハムスターでも想起してしまいそうな弱々とした愛嬌がある。
だが見てくれに騙される僕ではない。
彼女の実績を知る僕が、こんなわかりやすいトラップに引っかかるわけがないんだ。腹の中どころか、五臓六腑全部が病気と間違うくらいまっくろくろすけな女だ。
夢と希望に溢れたキャラクターを模した着ぐるみの中身が、密閉空間で臭いや暑さに耐え抜く誰かだと理解しているなら、抱きついたりしないのと同じだ。
「知っている……、知っているとも。あは、あはは……ついに、ついにこの時が来たというのかっ、神よ!」
僕は長く抱き続けた機会が奇しくも偶然叶ったという事実を神に感謝し、ゆっくりと心に浸透させた。
訪れたのは歓喜だった。同時に憎悪が僕を支配する。
ああ、どうしてやろうか。どうやってこの女に悪夢を与えてくれようか。
魔女によって苦しめられた日々を一つ一つ思い出していく。思い出すたびに、憎しみの感情が肥大化していく。心の許容量に留めきれなかったそれは、「ふひ、ふひひ」という笑い声と共に外界へと放たれていく。
膨大な感情に支配されている僕だが、一方で理性的側面においては彼女に注意し、決して油断はしていない。
慢心は命取りになるからだ。
いかなる手の内を持つかも分からない魔女が相手だ。凛ちゃんを即落ちニコマさせたと語られる化け物が相手だ。隙をつかれて、一瞬でバタンキューされる可能性もなくはない。
僕が笑うのは喜悦と厭悪が主な故由であれ、緊張した内心や怯える心境を覆い隠すための虚勢のためでもあった。
突然狂ったように笑い出す姿には眉根を寄せる女子二人とは対象的に、僕の異変に最初に気付いたのは凛ちゃんだった。
「あっ。……卯月、アイツから逃げたほうがいいかも」
「え、何でですか?」
「ほら……宣材写真撮った時に話した……。わ、私が卯月と会話して、アイドルになることにしたって話の……」
「はい、ちゃんと覚えてますよ? あの時の凛ちゃんの言葉はとっても嬉しかったですけど、それがどうしたんですか?」
島村は、今一要領を得られずに首を傾げた。
「ち、違う。私が言いたいのはそっちじゃなくて――」
「――しまむらぁああああ!」
凛ちゃんの言葉はそこで遮られた。
なぜなら、僕が舌を巻いて叫び声を上げなら飛びかかったからだ、島村に。
すでに手提げ鞄を地面に置いておき、足腰だけでなく全身を使って高く跳躍した僕は、思いの丈を叫ぶ。
「しねぇえええええ!」
「え、えええええ!?」
「なんか飛んできたっ!?」
間違いなく赤の他人に近い相手に言っていい言葉ではないランキング堂々の一位をも飾れそうな罵詈を投げかけた。
僕が考えついた島村妥当の一手。神の一手。
それは歴戦の猛者達が、交渉が難しい相手、あるいは交渉決裂した相手、あるいは言葉巧みな知将を相手取った際、相手側が自軍の戦闘力より劣る場合のみに選び得る最良の手段。
その名を、物理攻撃と呼ぶ。
とりあえず、ボコボコにしてやる。
僕は両手を、料理で包丁を持つ時によく言われる猫の手の最終進化形。ネコ科最強にして百獣の王の名を冠した、通称ライオンクローの形にして攻撃を繰り出そうとする。
だが、僕の攻撃は島村に届くことはなく、その手前で押し止められた。凛ちゃんが僕を押さえつけるように胴体を抱き止めていたからだ。
「早く逃げて、卯月っ。コイツやるときはやる奴だからっ」
「え、ええええ!?」
「唐突なバトル展開に、この未央ちゃんも大パニックなんだけど!?」
島村を射程圏内に納めようと必死に手を伸ばす僕から、二人の女子は逃げ出した。
◇◇◇
「はぁ……。それで、どうやってアンタは346プロに入ったわけ?」
島村に逃げられて、幾ばくかの時が経った。
視界から怨敵が消えたことによって暴走が止まった僕は、凛ちゃんにこってり絞られ、どやされた。そしてアヘ顔ダブルピースした。
久し振りのアヘ顔ダブルピースに、凛ちゃんも思わずニッコリ……とはならず、さらに僕は叩かれて怒られた。そしてアヘ顔ダブルピースした。
久々に帰路を共にすることになり、僕のテンションは爆発的に上昇中だった。どんなに叱られてもアヘ顔になってしまうのも無理はなかった。
この無限ループを三度くらい繰り返したあたりで、凛ちゃんは諦めたように先の質問をした。
駅に向かう道の人混みは夕頃なためか混雑しはじめていて、僕達もまたその群衆に紛れ込んでいる。凛ちゃんの声は周囲の喧騒に負けないように比較的大きめだった。
「カフェでバイトとして働いているからだよ」
「えぇ……」
凛ちゃんは僕の返事を聴いて、困惑した声を出した。
「……もしかして莉嘉が言ってた新人バイトってアンタだったの? ……聞いてた人物像と全然違うんだけど」
「城ヶ崎? あの子とは一応知り合いだけど、どんな風に言ってたの?」
凛ちゃんは指折り数え、思い出しながら何個も城ヶ崎からみた僕という人間を語った。
曰く、クール。曰く、面倒見が良い。曰く、優しい。
語っている凛ちゃんも梅干しを食べたようなすっぱい顔だったが、聞いているうちに僕も梅干しを食べたような顔になっていた。
「え……、誰それ?」
「だよね」
凛ちゃんは本人から同意を得られたためか、自分が正常だとわかったからなのか、いつものクールを捨てて、ほっとして少し嬉しそうにしていた。
駄目な人間であることを喜ばれるのは複雑な気持ちだ。その気持ちがプラス方向かマイナス方向、どちらのベクトルに向かっているかは言及しないけれど。
「何嬉しそうにしてるの?」
彼女はそう言って、訝しげに僕を見ていた。
にしても城ヶ崎と会った二日を思い返してみるが、僕は城ヶ崎にそんないい顔をしていただろうか。いや、していない。
僕がなぜ城ヶ崎がそんな印象を持ったのか頭を悩ませていると、凛ちゃんはそんなしわ寄せ顔の僕を見て、あっと声を上げる。
「……顔補正とか?」
「顔補正?」
カメラの機能のことだろうか。
そんなことを思ったついでに、僕は手提げ鞄からカメラを取り出して凛ちゃんを一枚撮った。
カメラのディスプレイで写真を確認すると、突然の僕の行動に少し目を見開いて驚く彼女が写っていた。
隣を見ると、凛ちゃんはいつものむっとした表情より幾らかむっとしていた。
だけど言及するのも面倒くさかったのか、少しして続きを話し始める。
「前にも思ったことあったんだけど……アンタ、顔だけは良い部類に入るから、性格がアレでもカバーされるのかも。……そういえば、アンタは私に公共の場で色々とセクハラして騒いでいるのに、警察とか周りの人に一度も怒られたことないのって、よく考えたらおかしいし……」
確かに僕が公共の場でも遠慮のない発言や行動をして幾年。数ある法律の垣根を超えてしまいそうな言動や、グレーゾーンを一飛びした振る舞いは、周囲を震撼させていたのかもしれない。傍から見ていたら、嫌がる女子生徒に危ないちょっかいをかける男子生徒の図にも推察できるから、周囲の善人や警察に声をかけられてもおかしくないのかもしれない。
だが、未だ僕の行為が他人から注意されたり咎められたりしたことは一度もない。周囲の目が光っていなかったのか、警察がいなかったからなのか、数ある偶然が重なりあって、今の僕が存在するとも考えられる。だが一概に偶然の一文字で片付けてしまうのは、論証として空虚すぎる。
偏に僕と凛ちゃんが、行き過ぎた行為を許容しあえるほどに仲良しに見えるという理由でもおかしくないのだけど、彼女の持論では僕の外見が影響したと考えているのだろう。
「でもそうなると、スカウトされる切っ掛けが警察のお世話になったことである凛ちゃんは、悪人顔ってことになるね」
はっとした彼女は、その後ひどく悔しそうに、嫌そうに顔を顰めた。
その表情が偉く威圧的で高圧的だったので、僕は彼女の持論に若干納得がいった。
◇◇◇
「……ねぇ、346カフェの前でみくと何話してたの?」
私が話し合う二人を見た時から、内心気になっていたことをアイツに問いかけていた。
この言葉が私の口から出たのは、電車に乗って私の家の近所まで移動してからだというんだから、私がどれだけ口にするか迷っていたかが分かる。
恥ずかしそうに顔を赤くした女の子が男の子に何かを告げる。そんな光景を見れば、否が応でも邪推してしまう。
でも気にする素振りすると、まるでアイツのことが気に掛かっている、あるいは軽い嫉妬だなんて思われそうでなかなか切り出せなかった。
だけどこのまま無視するのもモヤモヤして気持ち悪いし、別にそう思っていないんだからなにも問題ない。そういう心の経緯があって、私は問いかけた。
卯月や未央ほどではないけど、私も恋愛に人並みの興味はある。あいにく隣を歩く幼馴染みのせいで恋愛経験は疎いけれど。縁遠い学生生活をしていたけれど。
行動を起こした私の心象とは真逆にアイツは平常運転で、気負った様子もない。「ああ」といつものように感嘆語を述べると、その口からつらつらと言葉を並べ出す。
「あれは――」
そこで聞いたのは、アイツが莉嘉やみくと知り合った経緯だった。
借りがある安部さんの頼みで、プロデューサーへの復讐ついでに、彼女達が抱えていた問題を解決する案を出した、だから後日お礼を言われたとアイツは他人事のように言った。
ここ数日前にシンデレラプロジェクト――CPメンバー全員に、プロデューサーから吉報があった。私達がCDデビューするように、他のメンバーもCDデビューする企画がちゃんと進行しているという報告だった。
それ以前までのプロデューサーは、私達の今後の展望に関して曖昧な言葉でお茶を濁していて、決して不確定なことを話はしなかった。大人の事情なんてこともあるし、何より私はデビューできる側であるために、あまり気にすることはなかった。だけど私よりアイドルをずっと前から目指し、期待と熱意を胸の内に膨らませていた他のメンバー達には不安や不満が溜まっていた。
CPメンバーの雰囲気も悪くなっていたし、彼女達が様々な方法でプロデューサーに掛け合っているところを何度も目にしていた。
だから、私達にとってその報告は曇天の中差し込む日の光のようなものだった。
どうしてプロデューサーが自分の意向を曲げたのか、突然そんなことを言葉にしたのかは、その時の私には分からなかった。ただ喜ぶ他のメンバーの笑顔を見て、決して間違った選択ではないことだけが分かっていた。
まさか一連の出来事の裏に自分の幼馴染が関わっているなんて、全く知らなかった。
落胆と不快感が胸を走った。
そして、私は自分のその感情に遅れて気が付いた。
落胆の理由は分かる。
私は内心でアイツが「告白された」という出来事を期待していた。それはたぶん、アイツに恋人ができたら私は解放されるかもしれないという単純な予想に基づいたものだ。
だけど、私が不快に感じた理由が分からない。どうしてか胸の痛みを錯覚するほどに不愉快だった。
うまく制御できない心がもどかしくて、私はさらに気分が悪くなった。
◇◇◇
今日は体育の授業がある。
自席に腰を据えて鞄から体操服を取り出していた僕は、そこでふと鞄に入っていたカメラを取り出した。
ミラーレス一眼カメラを起動させて、ディスプレイに映る写真履歴を確認すると、凛ちゃんがアイドルになってからの写真は数えるほどしかなかった。
最も新しく撮影された写真は、346で彼女と初めて会った日に撮ったものだ。その写真の撮影日時は五月十八日。
今日は五月最後の週の木曜日。一週間以上の期間、僕は彼女をこのカメラで収めていない。
僕が彼女をカメラに収めるのは、感覚的に日記に近い。
僕と彼女の間にあった出来事を、日常を忘れないものにするため。もしもの時、いつか振り返る時、決して忘れないための印だ。
だから、ここにデータが残っていないということは、それだけ僕と凛ちゃんの間には思い出が無かったということだ。
デジタルデータがひどく無機質に感じるアナログ人間ではないが、小さなディスプレイに映る日付がえらく冷ややかに感じた。
「『エロ写真でも盗撮して、ムラムラしてそうな、男』、略してエムオ。なに、ぼーっとしてんだよ。さっさと着替えねぇと授業始まるぞ?」
すでに体操服に着替えたサザンが、僕の元にやってきた。
教室の壁に掛けられた時計を見ると、授業までの時間はあまり残っていなかった。教室にいるのも僕とサザンだけのようで、僕は鞄の中にカメラをしまって、机の上に取り出していた体操服に手早く着替え始める。
数十秒で一式着替え終わると、サザンはドアの近くでまだ僕を待っていた。僕が暢気に歩いて近づくと、急かすように二、三個小言を放って早足で昇降口に向かう。
急ぐサザンから話しかけてくることはなく、僕も考え事をしていて何も話さない。
ただサザンがどんどん進んでいく後ろを、僕は無意識に追いかけていく。
靴を履き替えて、グラウンドへ小走りで向かう。
ちょうど昇降口とグラウンドの中間付近を通過する途中。
そこで僕は、ようやくサザンへ先ほどの礼を言うことにした。
「『最強の俺は、『雑種ごときでも、この俺に見惚れる能はあるようだな』っと言いながら、ン・ダクバ・ゼバを軽く超える、屈強すぎるこのボディで、露骨に女子にアピールしたけど、すごい気持ち悪がられて、散々な結果だったと友達に言うと、『んだんだ』と同意してくれた』、略してサザンクロスさん。さっきは急かしてくれて、ありがとう」
「……まあ、なんだ。……頑張ったな。すげぇ、無理あるけど」
集まったクラスメイト達の中に紛れると、ちょうどチャイムが鳴った。
◇◇◇
授業始めの準備体操を終えると、野球をすることになった。
体育は男女別で、三つのクラスが合同で行うことになっている。今日はクラスごとの三つのチームが、総当たりでの対抗戦を行うことになった。
現在僕が所属するクラスのチームは、攻撃側に回っている。
バッターボックスには一人ドラえもん(仮)の藤田が立ち、その外見のミックス具合は置いておくと、なかなかに様になるバットの構えでボールを迎え撃つ。
二クラスが試合中なので、もう一クラスは休憩時間だ。加えて、僕も含めた攻撃側クラスのメンバーもバッター以外特にすることなく暇なので、一様に運動場の外周に位置する階段コンクリートの日陰部分に座って、各々が好き勝手に過ごしていた。
身の入っていない声援を送る者、余ったグローブとボールでキャッチボールを行う者、野球とは関係ない話題で盛り上がる者。
十人十色とは言わないまで、それぞれが自由に過ごしている中、サザンと僕もまた野球とは関係ない話をしていた。
「そういえば、もうすぐ渋谷達のCDデビューを記念したミニライブがあるよな。今回は要と竹下の二人と一緒に見に行く約束をしているんだが、お前も一緒に行くか?」
今日から三日後の日曜の夕方六時に凛ちゃんのミニライブが予定されている。ショッピングモールに設置されたステージの上、そこで彼女は踊ることになっている。
「いや、一緒には行けない。前回はおじさんとライブに言ったから、今回はおばさんと一緒にライブを見に行くことになっているんだ」
「そうか。今度はおばさんが渋谷の晴れ舞台を見に来るわけだな。……ってことは、おっさんは今回見にいけないのか。ダンディな言動の割に渋谷に関しては真顔で恥ずかしいこと言ってくるほど溺愛しているし、今回も相当行きたがったんじゃないか?」
おじさんの身内以外への外面は中々なものだ。というか、仕事ではしっかりとしていると言ったほうが的確かもしれない。
流石に娘への愛だけは抑えきれずにサザンへ漏れ出しているらしいけど、それ以外の外面は基本大人の良い男なのだ。
だからサザンの中でのおじさんは気張った渋い姿であるだろうが、渋谷家の人達の中では身勝手なおっさん型小学生である。
今回も字面だけならサザンの予想通り相当行きたがっていた。
けれど前回同様、ライブの日には大切な取引先との仕事があった。その影響で、経営者であるおじさんとおばさんのどちらかはライブを見に行けなかった。そして、今回は順番的におじさんが仕事を請け負う番だ。
おじさんが、おばさんに痛々しく懇願する姿を何度見せられただろうか。
おばさんに対して綺麗な世辞の句をべらぼうに並べ立ててご機嫌を取ろうとしたり、おばさんの懐に自分のお小遣いを忍ばせて懐柔しようとしたりと、僕が知っている限りでも様々な方法で説得を試みていた。
前回のライブにおいておばさんが折れてくれた前例があるため、おじさんは今回も自分が行けるという期待値が高めだったんだろう。きっぱりとおばさんが拒絶しても、気にした素振りもなく何度もトライしていた。
だが、おばさんの意志は固かった。何度も何度もおじさんを跳ね返した。
最終的には、全く首を縦に振らないおばさんに対しておじさんは、欲しい物が買ってもらえない子供のようにリビングの床で横になってジタバタと駄々をこね始めた。
いい加減しつこくて堪忍袋の緒が切れたおばさんが、その動きを力ずくで止めようとした末、二人による大乱闘スマッシュファミリーズが勃発していた。
結果としておばさんはそんなおじさんとの紛争を経て、とうとう自身の権利を守り通すことに成功した。こうして、僕と二人でライブを見に行く約束を取り付けた。
現在、おじさんはすでにおばさんの説得を諦めている。
だがおばさんは、おじさんの断念に至るまでのしつこい行動の数々が相当癇に障っていたようだ。
僕とおじさんとおばさんの三人が会合する状態になると、「楽しみね! マー君とのデート!」と毎度嬉しそうに僕に話しかけてくる。どうもライブ観覧権に続いて、愛妻も奪われたかのように演出することで、嫌みたらしくおじさんに追い打ちをかける算段なようだ。
そのせいか最近は、おじさんに諸悪の根源が僕だと誤認され始めていて、血眼になって僕を威嚇するおじさんにいつ襲われるか、気が気ではない。
「……まあ、結構落ち込んでいたかな」
そんな渋谷家の一騒ぎを知らないサザンに、ことさらに実情を伝える意味もないので、適当な言葉を返すだけにしておいた。
僕の返答はサザンのイメージ上のおじさんともあまり相違がなかったんだろう。彼は苦笑いを浮かべるだけで、特に何も指摘することはなかった。
時を同じくして、僕達が無意識に視界に収めていた一人ドラえもん(仮)の藤田が、ボールに掠りもしないようなタイミングで三度目の空振りをする。
「アウト!」
キャッチャーの後ろで審判の役割をしている野球部が、勢いよく上半身と共に右腕を横振り、藤田の終わりを宣言した。
応援していた連中は「やっぱり駄目かぁ」と、特に落ち込む様子もない声を出す。
藤田の外見は大柄で強面、明らかに喧嘩を中心とした運動全般が得意なイメージを与えてくるが、それとは裏腹に実際の身体能力は低い。この数ヶ月でクラスメイトには自明の理として認識されているので、諦め半分で応援していたからだろう、クラスメイトに失望の色は一つとさえ見えない。
藤田が、落ち込んだ様子で帰ってくる姿を見て、サザンが立ち上がる。
「うっし、次は俺の番だな」
威勢が良いサザンは、肩を回しながら藤田が去ったバッターボックスに向かっていく。
現在のサザンの髪型は日差しに照らされて眩しく輝く金髪だが、中学の頃は野球部に所属していた。
その名残は現在の彼にも残っていて、中学三年生最後の大会で引退するまでは野球部の習慣で丸坊主だったために、それから髪を伸ばして金髪に染め上げた今でも、男子の中では比較的短くカットしている。
三年間で鍛え上げられた体格は悪くなく、身長は百八十くらいの僕より少し小さいが、中肉な僕より一回り筋肉がついている。
バッターボックスに立った彼は、体操服の袖を捲りあげて、少し朝黒い肌を惜しげもなく披露する。
春とはいえ、地球温暖化の影響で年々春が夏に占領されつつある現状。今日も日差しの中を立てば、ぽかぽか陽気ではなく、ホカホカ熱気に包まれてしまう。
湧き出る汗によって光沢を纏う二の腕、その先の両手にきつく握られた鉄バット。少し中腰で安定しない姿勢とも思えるが、肩幅以上に開いた股関節、適度に曲げられた足関節、そこから進んだ足先は、しっかりと土を掴んでいるように思える。
サザンの姿はいつもと違い、鋭利な迫力があった。
「ストライク!」
「ストライク!」
「ストライク! バッターアウト!」
流石だ。三年間ベンチに座ることを部活動にしていただけはある。
◇◇◇
ライブ前日。
忙しい日々は今の今まで続いていた。
ラジオにゲスト出演、新ユニットと新曲への取材、広告に載せる写真撮影。
新曲へ向けてのダンスレッスン、ボーカルレッスン。
私の予定はたっぷり詰まっていて、ここまで目まぐるしく日々は、私の人生の中でそうはなかった。
だけど、それも全部明日のミニライブでひとまず落ち着く。
ダンスのトレーナーさんに最後の調整がてら動きを見てもらった私達は、以前のレコーディングと同じように明日に備えて早めに切り上げていた。
終了時刻は、午後四時。
個人的な用事もなかった私は早々に346プロから家に帰宅した。
店の玄関から屋内に入った私はお父さんと鉢合わせた。軽く挨拶をして帰ってきたことを告げる。
お父さんは家族やアイツといる時より低めの声で返事をした。
お父さんの声が渋くて格好いい場合は、店内にお客さんがいる。私は仕事の邪魔をしてはならないとすぐに居住部の二階に続く階段に足を向けた。
途中たたきの上に見慣れぬ人の靴が置かれていた。ゆっくりと階段を上がり、リビングにつながる扉を開けると、そこにはやはりお客さんが来ていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。今日は早かったのね」
「うん、今日は明日に備えて早く終わったんだ」
テーブルでお客さんと対面していたお母さんが、お父さんと言葉尻だけが変えられた言葉を発していたので、似たもの夫婦だと密かに感想を抱いた。
お母さんに続いて、お客さんも私に声をかけてくる。
「あら、凛ちゃんもこんなにべっぴんさんになっちゃってまあ。それはわたしも腰が悪くなりますね」
「……お婆ちゃん、会うたび褒めてくるの、いい加減恥ずかしいから止めてよ。前に会ってからあんまり経ってないじゃん」
私を見て感服した人は、幼馴染みが愛してやまない家族であるアイツのお祖母ちゃんだった。
年ははっきりと覚えていないけど、六十真ん中くらいだったはずだ。アイツや私みたいなつり目と違って穏和な垂れ目が印象的で、外見のイメージと全く変わらない優しい人だ。
初めて会ったのは私が物心つく頃だった。昔より目尻に深いシワが入っているけれど、伸びた背筋で綺麗に腰掛ける姿は昔と変わらない。
「でも珍しいね、お婆ちゃんがうちにくるの。今日はどうしたの?」
私はソファーの横に鞄を置きながら、問いかけた。
さっきもお婆ちゃんが自分で言っていたように、私達が高校に入学する一ヶ月前くらいにお婆ちゃんは腰を悪くしていた。原因は食材の買い出しで重い荷物を持っていたからで、病気とかではなく年齢によるものらしかったけど、アイツが一大事のように大騒ぎしてそっちの沈静化が大変だった。
ちなみにもう二ヶ月経ちそうなくらい前の話だから、お婆ちゃんの腰は良好だ。
「いえ、これと言って用事があったわけではないんです。買い物をしたついでに寄ったのですが、……色々あって、お邪魔させていただくことになりまして」
私は話を聞きながらお母さんの隣の席に座った。そしてテーブルの真ん中に置かれた茶菓子に手を伸ばす。
私も話に混ぜてもらうつもりだからだ。アイツは言動が祟ってあんまりだけど、お婆ちゃんのことは好きだ。
祖父母は今も健在だけど東京には住んでいない。だからお正月とかのイベント時でないとなかなか会うこともなく、どうにも他人行儀に思えてしまう。逆に昔から知り合いで近くに住んでいるお婆ちゃんの方が身近に感じていて、私の中で「おばあちゃん」という言葉を聞いて真っ先に思い浮かぶのは、今目の前にいる優しげな人なくらいだ。
「ふーん、そうなんだ。……でもアイツがよく一人で買い物なんて許したね? お婆ちゃんが腰を悪くした時から、すごい過保護になってたでしょ。私の前で『これからはお婆ちゃんに荷物は持たせない!』って張り切って宣言してたし」
「…………」
お婆ちゃんはすっと顔を逸らした。
「えっ……、もしかしてアイツに言ってないの?」
「……その、あの子に食材の買い出しを頼むと、献立が事前にあの子に伝わってしまうんです。かといって一人で買い出ししようにも、最近はあの子がついていないと許してもらえません。今までは孫との買い物が、それはそれで楽しかったので我慢していましたが、最近はバイト等で忙しそうにしてますから、あの子が一人で食材の買い出しをすることが多くなってしまいました。そうなると、予想もしない料理で驚かせてあげたい欲望が、ふつふつと蘇ってきたといいますか……。そもそも、あの子の驚いた顔を見るのが、料理を作る一つの楽しみだといいますか……」
私の言ったことは図星だったらしく、お婆ちゃんの弁舌は後になるほど萎んでいき、さらに肩身狭そうに顔を下に向けた。
なんというか、アイツがサプライズ好きな理由は、絶対お婆ちゃんの影響だと思う。この前も、私を驚かすためだけに、346プロで働いているのを隠してたみたいだし。
そのまま黙ってしまったお婆ちゃんの代わりに、お母さんが続きを話し始める。
「それでマー君に黙って買い物してきちゃったらしいのよ。だけどマー君も事前に予想してたみたいで、『もし一人で荷物抱えている所を見かけたら、連絡を下さい』って言われてたから、とりあえず家に上がってもらって、連絡したのよ」
「アイツはなんて?」
「もうカンカンっ。電話越しだけど、マー君のあんな怒った声初めて聞いたわ。あれは、こう、最近の子がよく使っている言葉でしか表現できないくらいよ。……えーっと、なんだったかしら。……そ、そう! 激おこスティックファイナ、えっと、ファイナ……」
「……ファイナリアリティぷんぷんドリーム(神)?」
「そうそう、それよ! あれはもう激おこスティックだったわ! それで電話の最後に、『バイトが終わったらそっちに寄って、負ぶって連れて帰るので待機させといてください!』って激おこスティックしながら言ってきたわ」
「お婆ちゃんが荷物運んで疲れてるからって、わざわざ負ぶうって……」
うちからアイツの家まで結構な距離がある。人一人抱えて歩くのは、想像するだけでも大変そうだ。
加えてお婆ちゃんが買ってきた食材だってある。お婆ちゃんも腰を痛めた前例があるため大量に買ってはいないようだけど、それでもスーパーの袋二つがお婆ちゃんの隣の椅子に置いてあった。
「なんなら、車出してあげたら?」
「私もそう思って言ったんだけど、『孫が苦労して自分を運ぶ姿を見た方が、心に響いて二度としなくなると思うので』ってあっさり断られたわ」
「……意地悪いね」
アイツは家族のことになると強情な所がある。アイツがお婆ちゃんを負ぶう未来は、ほとんど確定して起きそうだ。
……仕方ない。お婆ちゃんを負ぶうアイツの代わりに、荷物は私が運んであげようかな。
私はそう思いながら、未だ縮こまるお婆ちゃんに声をかけた。
「まあ、アイツが来たら庇うようにするけど、それでもガミガミ言われると思うから、心積もりしといた方がいいかもね」
「…………はい」
◇◇◇
お母さんが仕事に戻った後。
「しかしまあ、凛ちゃんは日に日にうちの娘に似て来ますね。……凛ちゃんが芸能人になることをあの子から聞いた時はとても驚きましたが、うちの娘は夫に似て顔立ちが整っていましたから、凛ちゃんがそうなるのもおかしくありませんね」
心持ち元気を取り戻したお婆ちゃんは目を細めて、懐かしそうに顔をほころばせた。
私とアイツのお母さんが似ていることは、お婆ちゃんから耳にタコができるほどよく聞かされていた。
「……アイツのお母さんの写真は見たことあるから、言いたいことも分かるけどね」
私はアイツのお母さんを写真でしか見たことがない。
アイツのお母さんは、私とアイツが知り合う前に事故で亡くなっている。そもそもアイツが東京に越してきた理由は、お婆ちゃんが代わりの保護者になったからだ。
元々は別の場所に住んでいて、母子家庭だったらしい。父親はまだアイツが物心つく前に離婚していて、それ以来一切の縁はないとアイツは言っていた。
「私が母親似だから当然だけど、うちのお母さんにも結構似てるよね」
「ええ。ですが凛ちゃんのお母さんは感情表現豊かな方ですから、無愛想だった娘とは性格面で対照的で、大分印象が違いますね。纏う雰囲気も似ているんですよ、凛ちゃんは」
「それ、遠回しに私のこと無愛想って言ってない?」
「…………愛らしい無愛想だったんですよ?」
「なにそれ。愛想あるのかないのかよく分かんないよ」
まあ、お婆ちゃんは苦し紛れによく分からないことを言っているけど、私の愛想がないのは自覚している。私はお母さんみたいに情味のあるタイプではないし、人前で作り笑いをするのも苦手だ。
小学生の頃はその影響で、友達もろくにいなかった。わざわざ仏頂面のクラスメイトを遊びに誘い続けてくれる物好きは、私のクラスメイトにはいなかったから。
だから、昔はよくお婆ちゃんに、アイツのお母さんがどんな人だったのか聞いていた。自分と似た人がどんな人生を送ったのか興味があったし、参考に出来る部分はうまく真似したいと思った。それに私と会うまでの間、アイツに何があったのか知るためでもあった。
アイツ本人に尋ねたりはしない。アイツに母親の話をすると、普通を装っているけど表情や息遣いがぎこちなくなる。いつも能天気なアイツの中に暗い影が見え隠れしていたのに気付いた私は、決してアイツには母親関連の話題を振らなくなった。
そういう経緯があって、今ではアイツのお母さんのことをそれなりに知っている。
でも、今では聴かなければ良かったと、知らなければ良かったと少し思っている。だから、私はこの話題がもう好きではない。
私がそんな思索にふけっている時、私達のいる居住スペースへ向かう階段を急いで上がる音が届いた。
数秒もしないうちに、リビングの扉が勢いよく開く。
「お祖母ちゃん! 大丈夫!?」
もうじき梅雨が始まるからか、今日は湿度も高くじめじめとした不愉快な暑さだ。
走って戻ってきたのか、額に汗さえ見えるアイツはそれを気にする素振りを見せず、お婆ちゃんの体調ばかりを案じている。
お母さんが電話した時は、お母さん曰く激おこスティック(以下略)だったらしいけど、それも時間が経つうちに心配に変わってきたみたいだ。
何度か質問して、特にお婆ちゃんの体に問題が無いこと確かめたアイツはほっと一息ついた。それから、お婆ちゃんの前で座って背中を向ける。
「それじゃあ、いこうか」
「いえ、背負わなくても一人で歩けますから……」
「いやいや、スーパーからここまで荷物を持って歩いてきたんでしょ? 疲れが溜まっているはずだから、危険だよ。世の中には疲労骨折なんていう、疲れが原因で起きる怪我もあるんだから」
疲労骨折ってそんな原因じゃなかったと思う。
確かスポーツ選手とかが体に鞭打ちすぎてなっちゃうやつでしょ、それ。
「で、ですが……荷物もありますから、大変でしょう?」
「大変な姿を見せるためでもあるからね。……それに、僕はお祖母ちゃんのお尻に触れて役得だよ?」
「こらっ、年寄りになんてこというの。勘違いされちゃいますよ?」
「いいよ、別に」
コイツは見境なしだ。お祖母ちゃんに対しても平気でセクハラ発言してる。
というか、コイツは私とお祖母ちゃん以外にこんなことを言わない。お母さんにも、中学のクラスメイトにも、他の誰一人としてそんなことを言ったりしない。
そして私よりお祖母ちゃんと話している時の方が、素直な表情を向ける。私の時とはどこか違う、何かが明確に違う純粋な表情。
理由はなんとなく分かっているけど、それをアイツに言ったりしない。たまにそれを恨めしく思う時があるけど、今の今まで黙ってきたから指摘しない。
恨めしく感じるのも別に嫉妬ではない。目の前で見え隠れされると無視できないのと同じ。蚊が近くを飛んでいると、ちょっと気になって鬱陶しいのと同じ。
そうであるから、少し不愉快な気分になってもおかしくない。
「私が荷物持っていくから、お祖母ちゃんはアンタが運んでね」
私は未だ押し問答を続ける二人の会話に割りこんだ。そして、お婆ちゃんが嫌がる方の提案を進行させた。
「で、ですが、凛ちゃんは明日大切な舞台があるのでしょう? 私は歩けますから、明日に備えて休んだ方が……」
「いいよ、別に。いつもより早く練習も終わって、あんまり疲れてないし。適度に体動かしていた方が、明日のためにもなるから。それにさ――」
私はお祖母ちゃんに、ほんの少しだけ意地悪く言う。
「――大変な姿を見せるためでもあるからね」
◇◇◇
凛ちゃんのライブは、ショッピングモールの地下、屋内広場で行われる。
毎度聞かされる要の豆知識によれば、そこは業界人から「アーティストの登竜門」とも言われており、多くのアイドルやアーティスト達がミニライブを行う場所であるらしい。
広場は地下にあると言ってもその上階は大きな四角にくり抜かれている。別の上階からでもガラス張りの手すり越しに広場を見下ろせて、逆に地下の広場からは、最上階の天井まで見ることができるという構造だ。
広場の中心は広くて少し高い台になっており、そこをステージに見立ててライブをするようだった。
前回とは違って大型ショッピングモールの中の広場でやるので、観覧は無料である。そもそも今回のミニライブは新曲の広告活動の一環であるらしいから、彼女達を知らない人達が見れなければ意味がない。つまり収益性は皆無であり、今回は先行投資という形だ。
にもかかわらず舞台には塗装した木板かなにかで構成される簡易的な城が背景として建っている。また棒状のスタンドライトが左右に総計十数本、前方にフロントライトまで用意されている。
照明系はレンタルや元々購入していた場合もあり出費は少ないかもしれないが、城に関しては制作コストが馬鹿にならないだろうと素人が判断できるくらいに見栄えよく、まさしく大盤振る舞いである。
僕の仕事経験はバイト以外皆無であるし、人の上に立って大きなお金を動かす立場の人間の考えなど分かりはしない。
だから346プロにはたぶん僕も知り得もしない経営戦略があると思う。数ヶ月前までずぶの素人だった凛ちゃんが、今後確実に営業利益に繋がるという確信があるんだろう。
そう考えれば、今回のミニライブに使われた資金はそのまま彼女達への期待値の高さを物語っている。
僕はステージから少し離れた場所で、建物の支柱である太くて白い柱にもたれ掛かり、祖父からのお下がりであるアナログ腕時計で時間を確認する。
時刻は五時四十五分だった。
開演は六時だ。
日曜日ということもあって、結構混雑している。
流石にデビューしたてのアイドルを追いかけるような物好きは少ないためか、わざわざステージ前に張り込む人はあまり見かけないが、大形な舞台が設置されているだけに、足を止めて見入る人が多くいた。
おそらくライブが始まれば、通りすがりの人の多くが目を向けてくれるだろう。
前に見た彼女達のダンスは、申し分なく足を止めるだけの価値があった。
「マー君」
声をかけられて振り向くと、おばさんがトイレから戻ってきていた。
おばさんの格好は白のトップスに色が重い青のジーパン、低ヒールのパンプスというシンプルなものだ。
だけどトップスの首元は波打つようなカーブのVネックであり、袖口には控えめなフリルが付いているため、肩肘張っていない自然な感じをだしながら、お洒落である。
また百七十あまりという女性にしては高めの身長は男に威圧感を与えてしまうため、適切なローヒールを選ぶことで、低く見せながらも腰から足先にかけての全体像が美しく見える仕上がりになっている。
いつも低めの位置で留められたポニーテールと違い、今日は長い髪全体を向かって左側に寄せ、肩より前に出した後ろ髪はしっかり巻かれている。大人の上品さと、落ち着いた魅力がある髪型だ。
髪を寄せた反対側の右耳は髪をかけて露出されており、耳から首筋にかけてのラインがセクシーに見える。いつも耳たぶに付けている小さく軽めなスティックを吊すピアスより、比較的大きめのピアスを付けているのも、注目をセクシーラインに集めさせるためのワンポイントといったところ。
……というのが、待ち合わせ場所の渋谷家でおばさんが自慢げに話していたことである。
それも、おじさんと僕の前で。
どうやらおばさんはライブ当日になってもまだ、おじさんにしつこく迫られたことを根に持っていたようだ。
僕相手に女として努力している姿をおじさんに見せつけることで、愛する妻を間男に奪い去られる演出に拍車を掛けていた。
出かける僕達を食い入るように睨み付けた、あの嫉妬に狂ったおじさんにいつ八つ裂きにされるか、不安で仕方ない。
背筋をぶるぶるっと震わせた僕は、もたれかかっていた柱から背を離して、おばさんに近づく。
「トイレ、思いのほか遅かったですね。体の調子は大丈夫ですか?」
「……あのねぇ、そういう話題は、普通はあえて無視するべきだと思うわよ。もしマー君が女の子とデートする時とかに同じことがあっても言及したら駄目よ。分かった?」
「はあ、一応覚えときます。……それで体の調子は大丈夫ですか? お腹良くなりました?」
そう尋ねると、おばさんは周囲を窺って、僕に顔を寄せて内緒話をするように小声でつぶやく。
「あとね、あえて言っておくけど、……私がしたのは小さい方だからね?」
「…………それでお腹の調子は大丈夫ですか?」
「そう、それ。その『お腹の調子は大丈夫ですか?』って、どう考えても大きい方を確信しているような言い方だったから、ちゃんと訂正しといたのよ。なのに、なんで訂正した後も言ってくるのよ?」
「だって小さい方にしては長い時間でしたし、大きい方であれば、普通にできそうな時間だったでしょ? おばさんが自分から説明し出した時に『あ、これは恥ずかしくて嘘を吐いているんだな』と思いまして。だから、おばさんの教え通り、気を遣ってそういうトイレの話題をあえて無視して、体の調子だけを言及しました」
僕が事情を説明すると、おばさんは顔を勢いよく離して、声量は普通に話し始める。
「無視しすぎよっ。話題を無視するついでに真実も予測で片付けちゃってるじゃないっ。そーれーにっ、もし気を遣うにしてもこの場合はちゃんと信じたふりして悟られちゃ駄目よっ。気を遣っていることに気付いたら、気を遣われない時より心を痛めることになるんだから。って、こんな必死に言ってると私がまるで嘘ついているみたいな感じになっちゃうけど、もちろん嘘吐いてないわよ?」
そうやって身の潔白を伝えてくるおばさんのために、僕はサムズアップして声高に言う。
「分かりました、僕は信じますよ。おばさんがうんこしてないって!」
「ぎゃああああああああっ」
僕はおばさんに片手で口を押さえつけられた。そして、もう一方の手で頬を力一杯摘ままれ、引っ張られた。
「いひゃい、いひゃいっ」
「え、なんで今それ言ったの? 公共の場であることを慮って私が耳元で囁いた意味は!? 表現を別にしていた意味はなんだったのっ!?」
僕の口元を覆う手がどけられ、返答を促される。頬が引っ張られたままなので、自由の利かない口を精一杯駆動させる。
「しぇんじたふりぇしぇろって。ぐひゃいてきにいっひゃほうがひゃんとつちゃわるかなゃって」
「それにしても声大きすぎるわよっ! しかも、『ふり』ってことは未だに本当は信じてないじゃない!」
むしろあんなに頑張って否定する姿を見て、どこをどう信じろと。
「ちょっと時間が掛かったのは、帰る途中で佐山君に会ったからなのよ! 分かった!? …………分かった!?」
僕が首を縦に振らずにいると『分かった!?』が永遠に終わりそうにないので頷くと、おばさんは僕の頬を離して、普通の距離感になるように遠ざかった。
未だ痛みとしびれを伴う頬をなでながら、本日この場所に集まっているクラスメイトを頭の中に思い浮かべる。
「いたた……サザンに会ってたんですか?」
声を掛けられたおばさんは怒り半分疲れ半分の表情で、ちょっと間を置いてから喋りだした。
「……そうよ。たまたま通りですれ違ったから挨拶がてらにちょっと話をしたのよ。その時は佐山君一人しかいなかったけど、他に二人の子と一緒に来てるって言ってたわ。知り合いと凛のステージを見に来てくれたみたい。……それで『応援してます』って言ってくれたわ」
そこでおばさんは言葉を句切った。
僕の方に向けていた瞳を、少し離れた噴水前のステージに向ける。その瞳はステージだけではなく、その周辺の全体を見渡していた。
もうすぐ開演のため、周辺は先ほどより幾分か騒々しい。少し興味を持って足を止める人もしばしば見かけて、ちらほらと人が集まり始めている。
家族連れの人、友人と笑う人、恋人と寄り添う人。一人で歩く人。それなりの人の視線がステージを行き交っている。
その光景を見て僕の方を嬉しそうに振り返ったおばさんは、「でね」と間を埋めるように一語置いてから、話を始める。
「佐山くんにそう言われて、あの子がアイドルになったこと、やっと実感したわ。……後ね、ちょっとほっとしたのよ」
おばさんは、優しげに口角を上げた。そして、呼吸といっても差し支えないほどにゆっくりと、小さなため息をついた。
おそらく、それはおばさんが無意識に吐き出したものだったんだろう。それなりの喧騒にあるこの場所で僕がそれに気づくことができたのは、ただおばさんに注意を向けていたからだけではなく、偶然の要素も大きかった。
僕にはおばさんがため息をついた理由が、なんとなく予想できた。
おばさんは凛ちゃんがアイドルになることをずっと肯定していた人だ。僕やおじさんと違い、一度も滞らず、この道を進もうとする彼女の背を押し続けてきた。
その姿はいつも自信に満ち溢れていて、先行きが不確かで不安を抱える彼女の心を明るく照らしていた。
彼女がアイドルになることを一番に励ましていたのは、間違いなくおばさんだろう。大切な人からのぶれない支えがあることは、なにより増して心の原動力になる。
母は強し。まさしくおばさんの言動にはこの言葉が的確だと思う。一度も後ろを振り向かない気丈な振る舞いは凛ちゃんにとってとても頼もしく、力強い。
だけど、彼女を応援することに伴って、おばさんもまた不安を抱えるはずだ。
相手への言葉には責任が付き纏う。その言葉に影響があればあるほどに、作用反作用の法則みたいに重責は身に返ってくる。もし相手が大切な人であれば、もし重大なことであれば、さらにそれは増していく。
未だ未成熟で大人ではない、親の庇護下で学ばなければならない愛娘の大きな決断。それをひたすらに肯定し続けたおばさんの重責はいかほどだろうか。その身にどれほどの責任を感じていたんだろうか。
間違いなく、凛ちゃんをアイドルに誘ったプロデューサーや島村の比ではない。おじさんや僕だって、遠く及ばない。
今まで人知れずおばさんを苦しめてきた責任が、今回の出来事を通して軽くなった。サザンの「凛ちゃんがアイドルであることを肯定する」言葉が、凛ちゃんの大きな選択を正しかったと証明し、おばさんの心を解きほぐした。
他人ごとではあれど、良い方向に転がったなら良かったと思った。
僕がそんな心中を胸に抱いた後。少ししてから、おばさんは突然僕の頭を撫でてきた。
「……あの、なんですか、いきなり?」
僕は怪訝な表情で身を逸らすが、おばさんは僕の動きに合わせて体を近づけて、決して撫でるのを止めようとしない。
おばさんはその顔に笑みを貼り付けている。
「お礼よ、お礼。いい子、いい子ってね」
「……えらく唐突ですね。まあ、貰える物は貰っておく主義なので受けとっときますけど、できれば高い物の方が嬉しいですね。お金になるので」
「売る気満々ねぇ~」
「……いや、なんで嬉しそうにしてるんですか?」
どう考えても、今のはブラックジョークだ。
「理由、言っちゃっていいの?」
「どうぞ?」
「だってマー君、今日は八割増しで冗談ばっかり言ってくるじゃない? どうしてかな~ってずっと気に掛かってたんだけど、さっきの話でやっと理由が分かっちゃったのよ。……ふふ、まさか私のためとねぇ」
「……」
「凛のライブに初めて来る私の、不安な気を紛らわそうとしてくれたんでしょう?」
「……そうおばさんが思いたいなら、おばさんの中ではそうなんじゃないですか?」
「ふふ、意味深に言っても騙されないわよ」
今し方の笑顔とは違って、にやにやと僕の方を見てくる。
僕はその表情がうざくて顔を逸らした。
おばさんは勘違いしているようだが、はっきりいうと、全くもって見当違いである。
僕の言動がおかしかったのは、僕自身の気持ちが抑えきれなかったからだ。自身の不安な気持ちを別のことで紛らわせないと落ち着かなかったからだ。前回のライブでおじさんとサイリウムを使って馬鹿なことを言い合ったのと、心理的な経緯はほとんど同じだ。
僕は個人的な理由で、いつもより狂っていたのだ。
それをまかり間違っておばさんのためだと感じてしまうのは、おばさんにとってのご都合主義展開だ。自意識過剰という奴だ。
だけどパニックを起こしていたという醜態を覆い隠せるという面で、僕にとっては怪我の功名であった。
だから、僕は調子の良いおばさんに水を差してまで、わざわざ否定することを選びはしなかった。
「それにしても……佐山君って、『サザン』って呼ばれてるの? 変わったあだ名よね」
「正式には『サザンクロスさん』ですね。今度会ったら呼んであげて下さい。そうしたら、彼は頭を抱え出すと思うので」
「えっ、そのあだ名滅茶苦茶嫌がってるじゃない。……もしかして苛め?」
「まあ、クラス単位で定着して最近は諦観してますけど、最初は凄く嫌がってましたから、見方によってはそうかもしれません」
「……よし。ちょっと首謀者教えてくれないかしら? それと今どういう状況なのかとかも。ご両親や先生に掛け合って、どうにか大人側で解決の手助けができるようにしてみるから。もしかしたら当事者の佐山君も、マー君も、思うところがあって黙っていたかもしれないけど、そういうのって早めに沈静化しないと苛烈になる場合もあるし、案外大人や第三者が介入すればすんなり収まると思うのよ。だから、今後のことは大人達が責任を持って受け持つし、マー君が言伝したことは絶対内緒にするから、罪悪感とか、クラスメイトとの関係とか、全然気にせず話してくれないかしら?」
「別にそこまで気負いませんよ、全部お話します。えっと、まずは首謀者ですよね――僕です」
「え?」
「だから、首謀者――僕です」
「え、ちょっと、どういうこと?」
「だから、僕が佐山に『サザンクロスさん』ってあだ名を命名したんですよ。放課後の教室で彼の僕への態度に納得がいかなかったので、少しばかりですが灸を据えてやったんですよ。そうしたら僕の言葉に従わざる終えなかったクラスメイト達が嬉しくも僕に賛同してくれまして、彼は孤軍奮闘状態。でもその抵抗むなしく、最後に彼は発狂して叫びましたけどね。……今でも覚えてますよ、あの時の彼の唖然とした顔は。あれほど愉悦と優越を感じたのは久方振りでしたよ。もう一度あの日が体験できるならしてみたいですね。あの快楽はアミューズメントパークのアトラクションでは味わえないですから」
僕はくすくすと笑った。
そんな僕を見ておばさんは沈黙した。
最初は目を見開いて呆けているようだったが、次第にその表情は理性を取り戻していく。終いには顎に人差し指を当て、眉間に皺を寄せて考えを巡らしている様相を見せる。
「……よし、分かった。今全てを理解したわ」
「やっと分かってくれましたか。どうですか、解決できそうですか?」
「ええ、予想以上にすぐに終わりそう。とりあえず、手始めに近くの極悪人を処罰しようと思うの」
おばさんは僕に平手打ちをかました。
◇◇◇
広場の照明がいくつか落ちた。
少し周囲がざわつくが、舞台に照明類があることを確認していた僕は特に驚くことはなかった。それはおばさんも同じようで、二人静かに舞台を見守る。
ちなみに僕達がいる場所は、ステージの真正面をずれて大分離れている場所だ。さりとて、観客にしてはという条件がつくからステージを見るのにあまり影響はない。
知り合いが真ん前を陣取ると踊りにくいだろうと考えたおばさんが気を利かせた結果、ステージから目立ちにくい所を選ぶことにしたのだ。
盛況を促すようなBGMが流れ始めると、司会の女性が舞台に現れる。それとほぼ同時に暗くなった屋内を代わりに照らしたのは、舞台両脇に置かれたスタンドライトと、手前に置かれたフットライト、そして二階付近の上部に元々設置されていた舞台だけを照らす指向性ライトだ。
それらは今まで僕達を照らしていた暖色系の温かい色合いとは正反対の、冷たい氷をイメージさせる青であった。
一瞬、蒼色好きの凛ちゃんのために用意された色だと思った。
だけどイベント予定の順番では凛ちゃんの出番はまだであることに気づいて、少し早く脈打つ心臓を静める。
今回のミニライブは凛ちゃんが所属するユニットと、他のシンデレラプロジェクト――CPメンバーのユニットによって行われる。
順番では凛ちゃんのユニットが後だ。だからこの色は先のユニットのイメージカラーとかそんな感じだろう。
「今日ここで踊るのは、新田美波さんとアナスタシアさんの二人によるユニット――『ラブライカ』。本田未央さん、渋谷凛さん、島村卯月さんの三人によるユニット――「ニュージェネレーションズ」の二組で~す!」
僕が思考に耽る間に、司会者は前口上を済ましていく。
マイク越しに司会者の元気な声が、広場全体を反響する。
その陽気な声が耳障りに感ぜられて、少し気分が悪い。
「それではお待たせしました。ラブライカの登場ですっ! どうぞぉ~!」
司会の人はそう言いながらステージ向かって右側に捌けていき、逆側から華やかな衣装を纏った二人が登場した。
同じ薄水色のドレスを着た二人が少し挨拶すると、曲のイントロが流れ始める。
彼女達はそれに合わせて、踊り、歌い出した。
彼女達の曲は、しっとりとして悲しげな曲調だ。
歌詞はせつない女性の恋を語ったものだ。愛していた人に振られた女性が、時の流れに癒やされて前を向いていくという話だ。
はっきり言って、僕はこの歌詞に込められた感情を好ましく思えなかった。他者に対してそこまでの感情を持つことが愚かな行為だからだ。失われない明確な繋がりもない、確定した愛情も何もないのに、他者に依存する。その一瞬で崩れ去る脆い関係が、正しく、美しく、大切だと知得できない。
現にアイドルには恋愛の曲が多いが、その愛はファンには向いたりしない。自信に向けられていない愛情に心酔するほど、ひどく滑稽な様はない。
いかに気に入った旋律だろうと、どれだけ素晴らしい歌声だろうと、背景に感動する想いが込められていても、それが恋歌だったなら、僕はそれがちっぽけに感じてしまうだろう。そしてふと自分に当てはめて、脆弱な関係で成り立っている自分に不安が止まらなくなる。
だから普段は言葉の意味なんて追求しない。歌詞は何かを伝えることが目的ではなく、歌声を奏でるための方法であると考えて、音楽だけを楽しんでいる。
だけど、今日の僕は不安を胸に抱いていて、平常の精神ではなかった。
恐怖で怯える人が周囲の音や動きに鋭敏に反応するみたいに、僕もまた流れる曲の歌詞を目敏く読み取ってしまった。
だから僕はまた逃げ出した。
おばさんにトイレに行ってくると言って、僕はその場を後にした。
◇◇◇
僕がおばさんの所に戻ってきた時には、すでに凛ちゃんの曲が始まっていた。
とはいってもサビに入る手前だ。三十秒程度出遅れたくらいだろう。もしかしたら、二曲目のサビかもしれないが。
先ほどのユニットは青一色でステージを照らしていたが、凛ちゃん達のユニットは青、黄、赤の信号機配色がイメージカラーなようだ。実際の信号機は緑なので若干表現が間違っているような気もするが、色とりどりでライティングされた城は華々しい。
とぼとぼと歩いてくる僕に気づいたおばさんは、視線をステージから外して僕を心配した。
おばさんは気づいているんだろうか。僕に対してトイレについて言及しているし、大便確定で喋ってきていることに。自分が注意したことを、丸々自分が犯していることに。
そんなことが頭の中で浮かんだが、つい先ほど終わった話題を蒸し返して、この時間を待ちに待ったおばさんの邪魔をするのもどうかと思ったので、言葉にするのは控えることにした。
僕は適当に頷くだけしてすぐにステージを向いた。実際体調は悪くないので嘘はついていない。
そんな特に気にする所はない返しをしたのだが、なぜだかおばさんは僕に視線を向けたままだ。彼女のステージが前で行われているというのに。
「どうしました?」
痺れを切らした僕がステージを向いたまま横目を向けて尋ねる。
「……ううん、なんでもない。……いや、なんでもないことはなかったかも。ちょっと凛の様子がおかしいのよ。勘違いかもしれないけど、あの子の表情が少し暗い感じがするわ。もしかしたらどこか調子が悪いかもしれない」
「……そうですか? むしろ僕にはいつもより良い笑顔、体調万全に見えますよ?」
僕の瞳に映る彼女は、前のライブの時と同等かそれ以上に活き活きと舞っていた。
僕の返答に一瞬ぽかんとしたおばさんは、失礼にも僕に懐疑の視線をよこしてから、舞台に焦点を当てた。
「……あれ、おかしいわね?」
「たぶん、気持ちのエンジンが掛かるまで不安だったとかじゃないですか?」
「…………」
おばさんは返事をしなかった。無言の肯定というやつだ。
だから、そこで会話は終わる。おばさんは舞台に集中し始めて、僕も倣って踊り歌う彼女だけに意識を向ける。
けれど、それも長く続かない。いや、続けられない。
彼女のことを心の底から応援できない僕の意地汚さが、邪魔をする。彼女の努力、その一挙手一投足を見逃す罪悪感を抱えてでも、終わった会話を再開でもして気を紛らわせたくなってしまう。
彼女の輝く姿は、僕に孤独と寂しさを与える。なけなしの自尊心で弱音は絶対吐かないが、顔には出てしまいそうだ。
周囲が暗くなっていて良かった。光がステージに集まっていて良かった。僕の表出した暗い内心は、文字通り闇に葬られる。
一分一秒が長く感じる。そう思ってしまうのは、僕が今を嫌がっているからだろう。
そもそも僕は今回のライブを知った時、最初は行く気が起きなかった。
前回のライブで酷く理解したことがあった。それは、ライブが僕と彼女の距離を如実に示してくることだ。これが僕らの関係の真実なんだと、目を逸らし続けた事実に向き合うことを強制させる。
それは決して悪いことではない。本来であれば、当初の僕が望んだ通りであったはずだ。僕が彼女にできる唯一だったはずだ。
けれど、僕はその最低限のことですらできなくなり始めている。代替として扱い続けた彼女から離れるべきだと自覚しておきながら、僕の感情は未だこの一方的な関係を手放したくないと悲鳴を上げている。
だけど、それを誰にも悟らすわけにはいかない。だから、今日のライブも行かないわけにはいかなかった。誰一人として、僕が行くことを疑わなかったのだから。
いつもと違う行動は、僕が普通ではないと知らせることになる。周囲の大切な人に弱い自分を悟らせるわけにはいかない。それが僕の矜持だ。
視界に捉える彼女が踊る姿を、彼女の歌声を、彼女の表情を、とても愛おしく感じる。
だけどそれは不特定多数に向けられたもので、僕へ向けられたものではない。
そして、僕自身が抱くこの愛情もまた、彼女になんて向けられていない。
心酔すればするほど、僕は滑稽になっていく。愛おしくなればなるほどに、僕は不安に駆られる。
アイドルと観客、舞台と客席。決して交わることがない平行線を辿る関係が僕達の本当の物だと思い知らされて、僕の不埒な欲望を糾弾されているように感じる。
僕と彼女の関係がすでに一方的な繋がりでしかないなんて知っている。彼女が僕を必要とした時期なんてとっくの昔の話で、すでに淡い幻想になったと理解している。
彼女の夢を邪魔しない。それが僕の望みだ。
でも愛おしさや孤独が僕を子供に抑えつけて、無意識に我が儘に振る舞うことを許容する。
冗談や笑い話で終わるくらいなら、構わない、それが今の僕の立場だ。だけど本心から僕がその望みを叶えたくないと思ってしまったら、最後の最後、ほんの一握りしかない人間性を僕は失う。礼節と限度を弁えないヒト科の獣に落ちぶれる。
僕と彼女は他人だ。彼女は僕の大切ではない。
「……やっぱり凛の様子がおかしいわ。いや……おかしくなってきてる?」
「え?」
彼女を見ているつもりで、いつの間にか虚空を見つめていた。
おばさんの言葉を発端に、カメラのピント調整みたいに視点を合わせると、確かに彼女の動きに切れがなくなっている。不調の様子は重くなってきた表情にも現れている。
ただ彼女が感情を表に出しにくいたちであるから、彼女をよく知らなければ目立った変化ではない。
一体何が原因なんだ? 前回のライブではもっと輝かしい笑顔を浮かべていたはずだ。
そうして以前の光景を夢想した時、僕は凛ちゃんではなく他のメンバー二人奇妙な違和感を覚えた。
内心のショックが大きかった分、目に焼き付いた前回のライブで三人が一緒に笑い合う姿。僕の内実さえ区切れば、純粋に綺麗だと感じるあの光景を僕は確かに覚えていた。
だからこそ、理解した。
凛ちゃん以外の他の二人もまた笑顔が霞んでいることに。必死に取り繕い貼り付けた笑顔であることに。
「……凛ちゃんだけじゃないですね。……他の二人も本調子じゃないみたいです」
僕がそう言った直後、島村が少し不安定なターンをしたように思えた。
しかし軸が少しずれたように見えただけだったので、すぐに体勢は元に戻り、しっかりとリズムに合わせていた。
観客が島村の動きに動揺した様子は見られない。僕もまたそれがミスであるかどうか判然としないくらいで、声に出して言及することはなかった。
だが、次に起きた出来事に僕とおばさんは思わず声を上げた。
理由は多分、それを起こした彼女の人柄を僕達がよく知っていたからだ。やると決めればどこまでも熱意を持ってやり遂げる完璧主義者で、今回も多くの時間をミニライブの練習に充てていた彼女の人柄を知り過ぎていたからだ。
心配する気持ちはあった。だけど、どこかで安心していた。
彼女なら大丈夫だろう、と。
経験則に基づいた抽象的な安心。長年の前例による確率論的な安心。それが僕達の心の奥底に眠っていた。
だけど、それは絶対ではない。絶対に起きないことなんて、この世には存在しない。
僕達が起こらないと無意識に確信していたことが、今日ここで起こった。
◇◇◇
梅雨が始まった。今朝方テレビに映っていた天気予報士が、例年よりいくらか早い梅雨入りについて解説していた。
薄暗い雲に覆われた空は、やけに怪しげだ。湿気を帯びた空気は体を重くさせる。
僕は凛ちゃんの部屋の前を訪れていた。
彼女の様子が最近おかしい。表情の機微もいつもより薄く、落ち込んでいるように見えた。
原因ははっきりとわかる。一昨日のライブで彼女に何かがあったのは明白だ。
ミニライブは、凛ちゃんの少しのミスはあったが全体的な目で見れば成功の二文字だった。
観客は笑顔で拍手を送り、彼女達を称えた。初めて彼女のライブを見に来たおばさんも、開演の間は散々凛ちゃんに気を配っていたが、最後は満足していた。
だけど、当事者達は違っていたようだ。
前回バックダンサーとして踊った後に浮かべたあの輝く笑顔は鳴りを潜めて、三人は淡々と挨拶をしてステージから立ち去った。
帰ってきた凛ちゃんに振る舞われたおじさん手製の毎度お馴染み祝い唐揚げも、彼女はほとんど口を付けなかった。それだけでなく、どれだけおばさんやおじさんが声を掛けても空返事ばかりで、僕には無言を突き通した。
何がライブ中彼女達に起こっていたのか、僕にはさっぱりだ。三人が表情を暗くした理由が二日経った今でも見当が付かない。
今日も僕はいつも通りに花屋のバイトをしていた。すると彼女はいつもより早く家に帰ってきた。
ちょうど店内の花の手入れと掃除に勤しんでいた僕に声を掛けることもなく、僕が投げかけた「おかえり」に対する返答もなく、二階に続く奥の階段に去っていった。長い髪が靡く後ろ姿は、雲に覆われた空の影響で、より薄暗く感じられた。
僕は彼女の様子が気になりながらもバイトに励んだ。途中でおばさんやおじさんに落ち込んでいる理由を尋ねたけれど、芳しい答えが返ってくることはなかった。
だから僕はバイトが終わると、彼女の部屋に向かうためにリビングへと向かった。
リビングと彼女の部屋を隔てているドアを三度ノックする。
数秒間じっと佇むが一向に部屋の中で動きがあるような兆しが見えず、返事もない。
僕は部屋の外から彼女に声を掛ける。
「凛ちゃん?」
僕の声はただリビングに反響するだけだった。その中に彼女の声は混ざることはなく、扉近くの硝子にぶつかる雨音だけが、密かに溶け合った。
彼女の部屋に入るドアには鍵がついている。といってもそこまでの防犯性はなく、外側にある縦に一本線の入った溝に小銭を差し込んで回せば、簡単に解錠できるタイプだ。
彼女が部屋に入ってほしくない時はいつもこの鍵をかけているが、今日はロックされていなかった。
鍵をかけわすれていたのか、そうでないのかは分からない。だけど、僕はゆっくりとドアノブを回してその中に入る。
部屋に入ると、先程までいた誰もいないリビングと同じように、雨が降り注ぐ音だけが聞こえてきた。
人の熱を感じないひんやりとした空気はそのままフローリングにまで伝達して、靴下越しの足先に冷たい感触を与えてくる。
一瞬、部屋の中に誰も居ないのか見間違いそうになった。いつも彼女が座っている学習机の椅子に彼女がいなかったからだ。でもそれは間違いで、ベッドの上の掛け布団が大きく盛り上がっている。加えて、部屋の隅の小さなクッションのようなベッドにはハナコが眠っていた。
雨のおかげで、今日は六月初めの割にとても涼しい。むしろ、少々肌寒さを感じる程だ。薄いかけ布団の中で暖を取るのは気持ちよさそうだ。
僕は寒さが苦手で、少しでも寒いと感じると布団に潜る習慣があるから、彼女の今のポジションは素直に羨ましいと思う。
壁沿いに配置されたベッドの上で、彼女は息をひそめるようにゆっくりと呼気を繰り返していた。壁側の方を向いて横になっているので、顔は僕から伺えない。長い髪が重力に従い、乱雑に広がっている。彼女が髪のことを気にせず、無雑作にベッドに倒れ込んだ光景を予想した。
「凛ちゃん?」
僕は扉越しでしたように、彼女の名前を呼びかけた。
彼女が返答すること、振り返ることはなかった。まるでそこに僕がいないように、彼女は単調な呼気を続ける。
寝ているようだ。
彼女は疲れが溜まっていたのかもしれない。規則正しい生活を送る彼女が昼寝をするのは珍しい。若者らしく夜更かし万歳なんてことはなく、いつも早寝早起きの健康優良児なのが彼女だ。
僕のマイナス側に傾いた予想の一部は、だるさや疲労によるものだったのかもしれない。
雨の影響を受けてか僕の思考が下向きになっていただけで、杞憂でしかなかったのかもしれない。
そんな風に考えると、安堵の息が肺から静かに漏れ出した。
僕はそのまま部屋から引き払うために、踵を返す。
彼女が疲れて寝ている以上、僕にできることはない。寝ているところにドッキリを仕掛けて怒られるとか珍しいからやってみたいけれど、疲労が溜まった彼女にそれをするのは流石に憚られた。
これからの彼女はさらに忙しくなるのかは知らないが、働き始めた彼女が疲れて空き時間を睡眠に充てることは多くなるはずだ。
機会が訪れる回数が必然的に多くのなるのは目に見えているんだから、そこまで焦る必要はない。今日は彼女が精一杯休めるように大人しくするのが最善だ。
僕はそんな思考に頭を回しながらも、同時に喉に何が詰まったような煮え切らない違和感を抱いていた。
「……帰るの?」
僕がドアノブに手をあてたところで、寝ていたはずの彼女は小さな声で僕に喋りかけた。アスファルトや建築物にぶつかり跳ね返す大きめの雨より小さい声量。
いつもの張りがある瑞々しい声とは違い、喉から絞り出したように掠れた声は、他人に聞かせるものではなく無意識に紡がれた独り言のような印象を受ける。
違和感が杞憂ではないと悟った僕が振り返ると、彼女は先程と変わらない体勢で、目どころか顔も向けず横になったままだった。
数秒が経った。
しかし、彼女が続きの言葉を発することはない。
僕はドアノブから手を離した。そして部屋の奥にある学習机の椅子を取り出す。
キャスターがカラカラと音を立てる。ベッドの近くに寄せると、僕はそこに座った。
「帰らないよ」
「…………」
静寂に近い室内で、雨音だけが鳴る。
僕はその音に耳を寄せた。時間が進んでいることを音で聴いている気がした。秒針とは違い時の流れが遅く感じる。
彼女が息を呑む音が聞こえた。
「アイドル……続けない方がいいかな?」
それはひどく彼女らしくない質問だった。とても弱々しく、情けない質問だった。彼女が最も嫌う身勝手な言動で、周囲も責任も顧みない我が儘な質問だった。
僕は理解が追いつかず言葉を失う。
どうしてこのタイミングなんだろう。僕が真っ先に抱いたのは、そんな単純な疑問だった。
彼女は二日前にCDデビューを果たし、持ち歌でライブをしたばかりだ。アイドルの一つの壁を乗り越えた、新しい段階に一歩進んだというのに、どうしてそんな質問を僕に問う必要があるのか。
確かにライブでの小さなミスはあった。しかし、逆に言えばそれだけだ。
ライブは成功を収めていたし、彼女達と一緒にライブをしていた同期のユニットに引けを取らない舞台を飾っていたはずだ。
それなのに彼女が口にしたのは、結果とは相反し、アイドルを辞めることを想起させる言葉だった。
理解不能の彼女の内心に戸惑いを隠せない。
「……なんで?」
今度は僕が声を絞り出す番だった。
だけどその震えた声は動揺が原因なのだろうか。突如訪れた幸運に巡り会えたような、そんな喜悦に満ちた震えではないのだろうか。
自身の感情でありながら、それがよく分からなかった。いや、ただ認めたくないだけなのかもしれない。
僕の問いにゆっくりと彼女は答えた。
「……未央が、ライブが終わってから、仕事に来なくなった。……あの子は前のライブみたいに、大人数が来てくれるって期待してたみたいなんだ。でも、予想よりもずっと少なくて……プロデューサーとのすれ違いもあって、来なくなった。……今日は卯月も休んでて、……プロデューサーは風邪って言ってたけど、それが本当かどうか分からない。……電話しても出てくれなくて、もしかしたら、卯月も嫌になっちゃったのかもしれない」
僕は彼女の言葉を聞いて、事成り行きを察した。
彼女達がライブの時にどこか表情が悪かったのは、前回のライブが原因だったようだ。
彼女達は前回のライブで、好調な滑り出しを切り過ぎていた。
アイドル業という仕事のスタートを切って一日二日の駆け出しでありながら、有名アイドルの目に留まり、大きなステージの上に立つことになった。
毎日毎日、何度も何度も、そのステージに立つことを一心に脇目も振らず努力を重ねた。
そんな彼女達が見たのは、多くの人の心を掴むアイドルのみが生み出すことができる絶景。
好意、羨望、応援。ありとあらゆるプラスの感情が蔓延した世界。
アイドル業の一つもしていなかった初心者でありながら、贅沢すぎるそれを彼女達は一身に浴びた。
だから勘違いしたのだ。それが努力と才能、なにより多大な時間を掛けて作り出された輝かしい結晶であると理解していなかった故に、たった一区切りの努力程度で自身もまたそれを受けることが当然の人間であると錯覚してしまったんだろう。
なんとも滑稽な話だ。
虎の威を借る狐が、威を借りていることに気付いたのが、独りで表舞台に上がった後だというのだから。
己の自信が仮初めだと気付いた時、彼女達の中に降り立ったのは羞恥か絶望か、それとも落胆か。
どれであろうと、彼女達の心に大きな影響を与えたんだろう。
「……だから、私ももういいかなって。アンタも私に辞めて欲しいって思ってるみたいだしさ」
彼女もまた例外ではなかったようだ。
感情を分かちあう仲間は来ず、自信の要を失った。だから、この流れに任せて自分も辞めてしまっていいんじゃないかと弱気になっている。僕まで引き合いに出して、理由を作ろうとしている。
痛々しい限りだ。
そのいつもは焦がれる姿も、いつもは嬉しく思う言葉さえも、今の僕は怒りしか抱けない。
これほどまでの苛立ちを彼女に覚えたことは、今日を置いて他に思い当たらない。それくらい彼女の言動が気に障った。
僕が応援したいと望んだ彼女の決意が、この程度のことで流されてしまう柔なものだと知らしめてくるからだ。
「ははっ。自信がなくなって逃げだしたいなら、すぐ辞めちゃいなよ。その程度の気持ちだったってことなんだからさ」
僕は意地悪く笑いながら言った。
肯定か否定。どちらを彼女が求めていたのか、今の冷静ではない僕には分からない。分かりたくない。励ましの言葉を紡がなかったのは、ただ僕の怒りがそれを許さなかったからだ。
「……なに、それ?」
僕の返答が癪に障ったんだろう。彼女は低い声で問い返した。
喧嘩腰な彼女の声音に、僕もまた跳ね返りよく厳しい口調になる。
「だから、そんな半端な気持ちなら――」
「――ふざけないでよっ!」
起き上がった彼女は僕の制服シャツの襟首を勢いよく掴んだ。
あまりにも強い力。シャツに皺どころか、ボタンさえちぎり取ってしまうような強い力が込められている。
喉元を押さえつけられた僕は、うまく喋れず言葉を止める。目を見開いて、ただ唖然と視界の大部分を占める彼女の揺れる黒い髪を見るしかない。
「私が半端な気持ちで続けてる!? 勝手な憶測で物事語んないでよっ!」
彼女の声は、刺々しい敵意に塗り固められていた。
いつもの静かに怒りを煮えたぎらす時とは違う。彼女の感情は、抑えきれないほどに溢れ出ている。何年も共にいたはずの僕でさえ、彼女のこんな姿を見るのは幼い頃の一度でしかない。
だからこそ、真正面からそれをぶつけられた僕は圧された。
「半端な気持ち!? それはアンタの方でしょ!? いつまでも私に母親の面影を見てるくせに、母親代わりにしてるくせに、自分のこと棚に上げて私の気持ちを馬鹿にするなっ!」
僕はその言葉を聞いて、頭を鉄バットで殴られたような強い衝撃を受けた。
それは彼女が僕と知り合ってから、およそ口に出したことはない真実。
「……それは」
「アンタはいつも私のことなんか見てない! ミニライブの時もアンタは寂しそうな顔で、昔の私と母親の違いを見つけたような顔で、ずっと私の先にいる母親だけを見てたっ!」
僕があの日、暗闇で隠していたと思っていたものを彼女は見つけていた。
「私の踊りも、歌も、努力も、気持ちも、何もかも全部、母親に似ているかどうかでしか判断しないくせに、私の全部を否定したのはアンタなのに、ふざけたこと言わないでよ!」
部屋に彼女の言葉が反響した。
少し息を切らした彼女は未だ僕の胸ぐらを掴んでいる。
僕は勘違いしていた。
あのミニライブの時、彼女のユニットメンバー全員の様子がおかしかったから、一同に同様の理由が原因だと勘違いしていた。彼女達ユニットメンバーに起きた悲劇を、同じく彼女にも当てはめてしまっていた。
だがそれは間違いだ。彼女は決して虎の威を借りる狐ではなかった。彼女はそこに傷ついてはいなかった。
彼女は理知的な人間だ。自分自身をしっかりと俯瞰できる人間だ。
アイドルに情熱を抱いてきたわけでもなく、プロデューサーや島村、おじさんやおばさん達と話をして、考え抜いた上で歩き出した道だ。
自分がどういう立場に立っているのか、しっかりと認識できていないはずがなかった。
彼女の様子がおかしかった理由は、偏に僕にあった。
あの日あの時、暗がりだから誰も見ていないと安心していた僕を、しっかりと彼女は目に収めていた。
そして僕の表情が彼女の積み上げてきたあの瞬間を否定していた。
僕は彼女の集大成を、ただ母親と似ていないからと切り捨てたのだ。
彼女は僕を引き合いに辞めたがったんじゃない。僕が彼女を辞めたくなるほどに傷つけたんだ。
今できる自分の努力、その集大成を披露した時、観客が笑顔でもなく、感動した様子もなく、ただ悲しい表情を向ける。そんなことをされた彼女が受けた痛みは、どれほどだろうか。僕はどれだけ彼女を傷つけたというんだろうか。
ああ、なんて僕は滑稽なんだ。他人ごとだと、第三者だと思い込んで、身勝手に勘違いしたあげく腹を立てて、僕は彼女の想いすら馬鹿にしていた。僕が全ての元凶だというのに。
僕があの場にさえいなければ、彼女はもっといい舞台を踊ることができたはずなのに、ミス一つ犯すことさえなかっただろうに。
僕という存在が、彼女が多くの時間を掛けて作り上げたその全てを狂わした。
それなのに、辞めてしまえと、そんなちっぽけなもの捨ててしまえと僕は言ったんだ。
「……出てって」
彼女は呆然とする僕の体を強く押した。
椅子ごと後ろに押された僕は、キャスターがコロコロと回転すると音と共に彼女から遠ざかった。ベッドとは逆側の壁沿いにある棚にぶつかって、椅子は止まった。
彼女から距離が離れて僕は初めて高さで視界に収められなかった彼女の表情を見た。
きつく睨み付けたその瞳には、大粒の涙が溜められていた。その涙がシーツの上に染みを作ると同時に、彼女はもう一度言う。
「出てってよ!」
二度目の言葉でようやく足が動き出した僕は、うまく力入らない足を必死に動かして、扉へ向かう。
あれだけ冷たく感じたフローリングの感触がどこか遠い。足が麻痺していしまったようだ。
呼吸さえままならない。水に溺れているみたいで一歩一歩進むだけで息が乱れる。
視界が揺れる。まるで平衡感覚を失ってしまったみたいに足下がおぼつかない。
雨音が聞こえない。唯一聞こえたのは僕が扉を開けた時に聞こえた小さな足音だけだ。
扉を閉める時振り返った僕の瞳に映ったのは、彼女の手を舐めるハナコと涙を流す彼女の姿だった。
◇◇◇
何も考えられない。思考が纏まらない。唯一僕を突き動かすものは、彼女から離れて、彼女の望みを叶えてあげることだけだ。
だから僕はおばさんに声をかけられるまで、身一つで外を歩いていることに気付かなかった。
「ちょっとマー君! 荷物忘れてるし、傘差していきなさいよっ!?」
おばさんは自分が差している傘に入るように僕を引っ張った。
ビニール傘と雨粒がぶつかる音を聞いて、僕は初めておばさんを認識した。
「あ……、おばさん。どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも、荷物も傘も忘れていっちゃうから」
その手には僕の登校用バッグと紺色の傘があった。今日も僕は登校後直接雨の中バイトに来たのを忘れていた。
「……ありがとうございます」
「…………顔色悪いけど、なにかあったの?」
僕はおばさんから受け取ったバックを背負って、おばさんに背を向けて自分の傘を開いた。
「……いえ、何もないです」
そう言って僕はおばさんの傘から自分の傘へ移ろうとするが、おばさんが僕の肩を手で握って進行を妨害する。
「嘘ね。あの子の怒鳴る声、一階まで響いてたんだから。お客さんなんて、飛んでビックリしてたわ。まあ、私もお父さんも似たようなものだったんだけど。……それで……喧嘩でもしたの?」
力尽くで、おばさんを振り切っても良かった。今はとにかく独りにして欲しかった。
でも優しく語りかけるおばさんに毒気を抜かれた僕は、簡潔に出来事を伝えて解放されることを選んだ。
「…………いえ、僕が一方的に彼女を傷つけました」
「……そっか。……お母さんの、小百合の話だったんでしょ?」
「……丸聞こえですね」
「あの子の声、よく響く綺麗な声だもの」
そこで会話は止まった。
僕らが立つ歩道に隣接する車道を車が通っていき、アスファルトの上に溜まった水を飛ばす。
僕達の横を通り過ぎる幾人かは、傘を広げておきながらその中に入らない僕を奇怪な表情で一瞥する。
何台か、何人かが僕達を通り過ぎた時、おばさんは僕の肩から手を離した。
僕はそれを合図に、自分の傘に移動した。
振り返りもせず、小さな音で別れの挨拶をすると僕はおばさんから離れて帰路を進む。
「護!」
おばさんが久し振りに僕の名前を呼んだ。僕はその珍しさに思わず振り返った。
「臆病にならないで」
おばさんは僕の目を真っ直ぐ見て、慈しむようにそう言った。