渋々   作:十郎

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08 母親と転校と盲目

 小学校一年目の終わりまで、僕は母さんと一緒に生活していた。

 

「ただいま、おかあさん!」

 

 慣れない小学生生活が始まって一ヶ月。一年生は勉学に不慣れなために授業は午前中には全てが終わり、給食を食べ終われば下校していた。

 僕は終わりの会が終了するのを今か今かと忙しなく貧乏ゆすりさえして待ちながら、別れの挨拶が終わると、まるでそれが陸上競技の合図であったかのように片道三十分の道を全速力で帰ってきた。

 僕は待望した玄関で脱いだ靴を急いで揃え直し、激しく音を立てて通り過ぎると、ダイニングテーブルの上にランドセルを投げ捨てて、キッチンに立つ母さんの元にいの一番に駆け込んだ。ほてる体も走った疲労もどこ吹く風で力いっぱい声を張り上げる。

 

「ただいま!」

「おかえり」

 

 母さんは肩まで伸びる濃艶な黒い髪を靡かせて、僕に振り返った。

 

「なにつくっているの? ……あ、この匂いはもしかして、もしかして!?」

 

 コンロの前で鍋をかき混ぜる母さんの横に立ち、僕は鼻から空気を吸い込んで、高さのせいで視認できない鍋の中身を予想した。

 

「そうだよ。今日の夕飯は護の大好きなカレーだよ」

「いやっふぉー!」

 

 すでに部屋に広がっていた鼻腔をくすぐる香ばしさで大方の予想がついていたとはいえ、その返事を聞いて、僕は大好物が食卓に並ぶ嬉しさのあまり半狂乱の舞を披露するのだった。

 首をぐでんぐでん、体をぐにゃんぐにゃん。軟体動物もかくやという頭のおかしい舞踊は、気持ちの悪さの観点からいえば、ある種芸能の域に達していたのではないかと、今では思える。

 

「このじかんからつくっているってことは、にこみバージョンカレーだぁ! やったぁ!」

「キッチンの近くで暴れない」

 

 母さんは暴れまわる僕を窘める。その表情は無愛想で、声音にほんの少しだけ宿る慈しみがなければ、窘めるより叱りつけるといったニュアンスだった。人によっては心の内側の激情を滲ませていると勘違いするかもしれない。それくらいの近寄り難い印象を与える形相の母さんだったが、その実、他者を考慮した感情表現が苦手で、不器用な人であるだけだった。

 喜ぶ時は笑い、怒る時は睨みつけて、不機嫌な時は眉間に皺を寄せる。けれど、あまり感情の起伏が激しい人ではないから、別段強い情動を抱いていない時は何でもない顔、要するに無表情の場合が至って平常だった。

 しかし、人は他者に印象を与えるために多彩な表情を作る。上司に愛想笑いを浮かべるのも、友達の話を楽しそうに聞くのも、子供が親に構って欲しくて拗ねたふりをするのも、その一例だ。

 感情表現がコミュニケーションの道具であることを感覚的に熟知している僕らがほぼ無意識に行っている所作を、母さんは強く意識しないと出来なかった。悪くいえば、無愛想。よくいえば、純粋とも捉えられるかもしれない。

 そのために母さんの表情は色とりどりに変わりにくく、世間の人からはその無愛想が不機嫌だと勘違いされるらしかった。

 だけど生まれた時からそのことに慣れ親しんできた僕にとっては、母さんが軽く注意しているだけだということも分かっていたので、何の気後れも抱くことはなく、怯えることなどありはしなかった。

 

「ならおくのへやで、おかあさんもいっしょにあばれようよ!」

「お母さんは今ルーをかき混ぜないといけないから忙しいの。それに下の階の人によく怒られるから家ではそもそも暴れちゃダメ。後、帰ったらまず手洗いうがいでしょ?」

 

 僕と母さんが住んでいた場所は、二階建ての少し古いアパートにある上階の角部屋だ。玄関から七帖半のダイニングキッチンが繋がっており、玄関のすぐ横には洗面所、トイレ、お風呂に向かう扉がある。ダイニングキッチンの奥には六と七畳の部屋が二つに分かれて入れる間取りだった。

 母さんと僕がいるキッチンのある部屋には、四人用の浅黒いダイニングテーブルがあって、上には僕が放り投げたランドセルが無雑作に置き捨てられている。壁沿いにある茶色の棚の上にはテレビが配置されていて、母さんが料理がてらのBGMとして聴いていたのか、再放送だと思われるドラマが流れていた。

 キッチンの隣には冷蔵庫。その隣には閉めていても中身が見える透明ガラスの据え付け食器棚があり、その中の入っている皿は種類ごとに綺麗に纏められていた。母さんお気に入りのマグカップは取りやすいように最下段に鎮座されていて、それは真っ白な円筒形という単調なデザインだった。

 母さんはそれでミルクたっぷりのコーヒーを飲むのが大好きで、表情の変化が乏しいはずの母さんが、その性分を感じさせないほどおいしそうに飲むから、僕は羨ましくてマグカップをせがんだことがあった。

 特に高い買い物ではなかったから、母さんは渋ることなく同じようなマグカップを買ってくれたが、結局僕のお子様だった口ではいくらミルクで薄めようが敏感にコーヒー独特の苦味を感じるようで、当時は和洋折衷のコントラストが美しいお茶請けと化していた。

 母さんに軽くあしらわれたことに少しむくれながら洗面所で手洗いうがいをしてきた僕は、食器棚から母さんのお気に入りの隣に陳列する自分のマグカップを手に取ると、冷蔵庫からお茶を取り出して注ぎ込む。

 勢いよく冷えたお茶を飲み込むと、走って帰ってきた影響で乾燥した口内に、染み渡るような旨さが広がった。

 子供のくせして年寄りくさく「ぷはぁ」と大きな吐息を漏らしたその時、僕の頭に閃きという閃光が走った。

 まるで調子に乗って酒を飲み過ぎて、体と理性の歯止めが利かなくなった大人のように、僕は足取りが覚束無い演技を始めた。

 ふらりふらりと左右に揺られながら、時には酔いどれの奇想天外な行動の如く「あらよっと」と突然盆踊りを始めながら、ゆっくりと母さんの背後に近づいた。

 そして僕は母さんを後ろから抱きしめて、母さんの足を紺色のジーンズ越しに撫でた。手をゆっくりと上下に沿わせながら、思わず垂れてしまった涎を啜る音までつけた迫真の演技で。

 

「あんさん、ええあししてはんなぁ。ぴちぴちでさらさら、わけぇいもんのとぅっけんですなぁ、げへへ」

 

 これは母さんに構って欲しかった僕がいつの日からか編み出した得意の手口だった。

 案の定、予想通りにすばやくこちらに振り返った母さんは、僕の顔を両手で一斉に左右からビンタするように勢いよく挟み込んだ。

 パチン。

 

「あいたっ」

「護……いつも言っているよね。そのセクハラまがい……というかもうセクハラでしかない言動は絶対に止めなさいっていつも言っているよね? ねえ、どうして止めないの? ねえ、ねえ。ほら、答える」

 

 母さんは凍えるような冷たい瞳で、僕を真正面から睨み付けた。その表情は少し前の軽く嗜めていた時の無愛想と違って、とても怒りを帯びていた。ついでに両手で強く挟まれてタコのイラストのように唇を突き上げている僕の顔を、さらにぐりぐりと円を描くように両手を動かすことによって、歪な顔にさせていった。

 僕は怒る母さんのなすがままに顔を変形されながらも、頬に感じる温かさと、僕を見てくれる母さんの瞳に嬉しさを隠しきれず笑っていた。

 この頃の母さんは夜に仕事をしていて、俗にいうキャバ嬢だった。

 父親は僕が物心ついてから数年もしないうちに離婚していなくなった。それ以来、専業主婦だった母さんはやむを得ず仕事に就いて女手一つで幼い僕を育てていた。

 母さんの容姿は、息子目線から見ても同年代の母親よりずば抜けて美人で整っていた。少し目尻が上がってぱっちりとした瞳と適度に通った鼻筋が綺麗で、ほっそりとしたものではなく卵型の輪郭と鼻下から顎が短い分、綺麗の中に可愛いも併せ持つような美人だった。

 母さんはその容貌を活かして働いていたが、あまり自分の仕事に好意的ではなかった。

 小さい頃の僕には水商売についての知識が全くなかったために嫌悪する理由がよくわからなかったが、大きくなった今だと推測できる。

 母さんは真面目な人だった。それに家事も育児も手を抜くことをせず、忙しい中でできる限り僕と向き合う時間を儲けようと必死に努力する誠実で思いやりのある人だった。

 純愛ドラマや一途な恋愛をする少女漫画が大好きで、健康習慣や行儀に煩い。手洗いうがいの注意は欠かさないし、人に指さしすれば怒り、「食事は感謝して、残さず食べないと、料理に関わった多くの人と命を恵んでくれた生き物に悪い」とよく言う。そんな真っ当な人間代表のような母さんが、好みと正反対の水商売を好むはずがなかった。

 加えて、母さんの性分である無愛想は、この仕事では圧倒的に不利なものだった。まして、自分が思いもしていない感情を、相手に合わせて臨機応変に表に出すなんて器用なこと、得意ではなかっただろう。

 そんな母さんにとって、無理にでも笑顔を作って盛り上げて、客の機嫌を良くしなければならない仕事は苦手だったはずだ。自らそんな職業を選ぶはずがなく、子育てのために無理して働いていたんだろう。

 その頃まで僕が不自由なく育ってこられたのは、嫌いなことを仕事にしてまで頑張っていた母さんのおかげだった。

 だからだろうが、仕事先の悪客のように女性の体を無理に触ることや、セクハラすることに対してとても怒る。それはもう絶対にそんな大人に育たないように、自分の作業をほっぽりだしてでも怒る。

 家族が大好きだった僕は、小学一年生になったこの頃にはもう、離婚して遠く離れた父親への愛情というものを持っていなかった。いや正確には、離婚して家族から他人なれば、僕のことを忘れたように会いにも、連絡さえもしてくれなくなった父親に、愛情を向けることをやめた。

 家族という立場があるからこそ、父親はいつも僕の手を握って、笑ってくれていた。感情は関係に付随していて、関係があるから、その関係に応じた感情が芽生える。

 だから、立場が家族ではなく他人になってしまえば、父親にとって僕はもう愛する対象にはならない。家族と他人には明確な境界線があって、その区分が意味するのは、愛せる相手と愛せない相手という排反関係だと、幼くてうまく言語化できなくとも、それを僕は学んでいだ。

 だから、僕が愛する相手は家族である母親だけになって、家族でなくなった父親も、愛せない他人も、どうでもいい存在になった。父親がいないという他とは異質である自身の家庭環境に、なんの感慨も抱いてはいなかった。

 けれど、よくよく振り返ってみれば、父親と同じように母親までもが自身から遠く離れてしまうのではないかという疑心暗鬼が、心の中で燻ぶり続けていた。

 その反動で、僕は母親と接することを強欲に求めていた。僕はその頃から、あまりにも家族に傾倒した子供だった。

 かくして子供ながらに母さんの怒るところを知っていた僕は、仕事や家事で忙しそうにする母さんに構ってもらいたいために、繋ぎ止めたいがためにいつもセクハラまがいなちょっかいを出しては、叩かれて怒られていた。

 叩かれて痛くとも、きつく睨まれても、僕は母さんが真正面から自分に向き合ってくれるこの時間が、普通の子供なら嫌がるお叱り時間が大好きでしかたなかった。

 

「……はあ。どこであんな言葉覚えてくるんだろう。……テレビとか?」

「あと、おかあさんのまんがぁ」

 

 僕はそう言って居間にある本棚から少女漫画を引っ張り出してきて、参考にしたページを開いた。

 そこにはセクハラ親父がヒロインに抱きついて、ヒロインの足を撫で回すシーンだった。

 その話では最終的に、セクハラ親父は背景が薔薇に囲まれたイケメンにボコボコにされていて、ヒロインは涙を流しながらイケメンに抱きしめてもらっていた。

 

「……手の届かないところにしまっとこう」

 

 母さんは僕の手から本を回収しながら、ため息をついて囁いた。

 僕は取り上げられた漫画に手を伸ばしながら、嘆いた。

 

 ◇◇◇

 

「窓の鍵よし、ガスの元栓よし。それじゃあ、行こうか」

 

 母さんは家の窓とキッチンを見回った後、玄関に腰を下ろしてヒールに足を入れた。

 その隣で僕も靴を履く。

 母さんは僕と五時半に夕飯を食べて、その後すぐに仕事に向かう準備を始めていた。

 住宅街の真っただ中に住んでいた故に最寄りの駅も近くになかったので、母さんは仕事場へはバス、電車を通じて向かっていた。

 なぜ僕がそれを知っているかといえば、小学一年生の年――つまりこの年の五月初めまで、僕は仕事に向かう母さんに同行して、その途中で託児所に預けられていたからだ。

 数年通っていた託児所へ通う毎日は、この日で最後だった。

 理由は単純で、母さんが夜に働く仕事を辞めるために、僕を託児所に預けなくてよくなったからだ。

 月頭のゴールデン・ウィークが終わると小学校一年生は、本格的な勉強に取り組むための授業予定に組み替えられる。朝から午後三時頃まで僕の学業時間が延びるこの期に、今の仕事を辞めて、朝から夕方までの一般的なパートに変えるつもりらしかった。

 もうこの時には新しい仕事先は決まっており、次の日から始まる四連休の後、母さんは最寄りのショッピングセンター内のレストランで働くことになっていた。

 

「託児所の皆ともお別れだね」

「うん」

 

 母さんと手を繋ぎながらバス停に向かう道すがら、母さんは僕に向かって優しく尋ねた。

 

「寂しい?」

「ぜんぜん。お母さんとよるにいっしょにいられるようになるからうれしいよ。お母さんはさびしいの?」

「……そう、だね。お店で働く人達は、とっても良い人ばっかりだったから。お母さんが大変だった時は色々と支えてもらって、要領の悪い私にも懲りずに向き合ってくれた優しい人達だったからね」

 

 繋いだ手には少し力が籠もっていた。

 隣の顔を見上げると、いつもはあまり目にできない寂しむ表情が目に映った。僕はその顔を見るのがあまり好きではなかった。

 だから、僕は声を上げて別の話題を振った。

 

「それより、あしたからのやすみはお母さん、ぜんぶやすみになるんだよね。りょこうにつれてってくれるんでしょ! どこいくの!?」

 

 母さんは金銭面の関係上、ほぼ毎日働いていて、連休を取れることがなかった。だから遠出でどこかに向かうということもあまり出来ず、僕は母さんと父親が離婚してからこの年まで、行楽地には訪れても日帰りばかりで、一日、二日を跨ぐ旅行にでかけたことはなかった。

 母さんはそれを結構気にしていて、「いつか絶対に旅行に行こう」とよく言っていた。だから有言実行として、旅行の機会を転職による仕事間の空白期――つまり、この年のゴールデン・ウィークに設けたわけだった。

 

「どこへ行くかはもう決めているよ。……うーん、でも当日に驚いてほしいから、やっぱり今は内緒かな」

 

 母さんは少し意地悪な顔でそう言った。

 

 ◇◇◇

 

 託児所では、僕のお別れ会が開かれた。会と名付けられてもそれは軽いもので、所内の子供がそれぞれに作った僕へのプレゼントを渡してくれるというものだった。

 似顔絵や、折り紙で作られたメダルみたいな物を渡された。

 それ以外はさしていつもと変わらない時間を僕は過ごした。強いて違いを挙げるなら、遊ぶ時や寝る時に、周りの児童との距離が近かった程度だろうか。僕がいなくなるのが嫌で泣いたあの子の名前はなんだっただろうか。

 母さんが迎えにくるのは早ければ時計の短針が十二時から一時までを指している間、たまにそれより遅い時間な時もあった。

 帰りはいつも瞼を重くする僕の手を引く母さんに連れられて、知らないおじさんが運転する車に乗って家まで帰っていた。そのおじさんは夜遅くまで働く女性を安全に送迎するのが仕事らしく、車の中には帰宅を一緒にする同僚の女性もいた。

 僕は眠っていたのでその人達とは会話という会話もなく、その人達のことをほとんど知らなかった。母さん達も夜遅くで疲労が溜まっているのか、はたまた僕に気を使ってくれているのか、車内は静まり返っていたのも、それを後押しした。

 だけど、極たまに寝付けず起きている僕に対して、子供に聞かせても差し障りのない職場の面白い出来事を話してくれた女性の瞳と、家に到着して車から降りる時に必ずチュッパチャップスを一本くれるおじさんの目尻に入る皺が、この人達の優しさを子供心に実感させた。

 だから、僕は夜になると現れるほぼ見ず知らずの人と乗るこの車が決して嫌いではなかった。

 この日は、母さんが仕事を辞めるために最後の乗車ということもあって、僕は寝ずに車内の女性の話を聞いた。

 母さんはあまり仕事のことについて話そうとしないから、働く母さんとその職場について僕が知っていることは、ほぼ全部この女性の話から知ったことであった。母さんの極度なセクハラ嫌いもこの人から教えてもらった内の一つだ。

 話を聞いているうちに、いつの間にか車は僕達の家に到着していた。

 いつもは同乗する女性の家に先に向かうはずなのに、この日は僕達の家が先だった。いつもより話す時間が長いと感じていた原因は、これだった。

 母さんが今までの感謝を告げて、別れの挨拶を二人にすると、運転席に座るおじさんが助手席に置いていた袋を母さんに渡した。

 話によると、それは僕と母さんへのプレゼントだった。車内の話題の中で、僕と母さんがお揃いの安いマグカップを使っていることを覚えていたおじさんは、お別れの品に少し高めのマグカップを買ったとのことだった。

 瞳を潤ませた母さんは頭を下げて再度礼を言うと、車の扉を開いて先に降りた。

 一緒に感謝を言った僕もそれに従って車を降りようとすると、おじさんは僕にチュッパチャップスを三本渡してくれた。いつもと違う本数に僕が驚くと、おじさんは口角を片方あげて笑った。

 そんな僕の頭を隣の女性がクシャクシャと撫でると、顔を僕の耳元に近づけて、母さんが嫌がるセクハラ発言を二、三個教えてくれた。

 また驚く僕の顔を見て、女性はくすりと笑った。

 先に車を降りて、僕が出るのを待っていた母さんの促す言葉を聞いて、僕はそれに従った。

 扉を閉めて、車内の二人に向かって僕達は手を振った。それは発進した車が僕達の視界から消えるまで続いた。

 家を出発した時と同じように手をつないで、アパートの階段を上った。僕に向かって母さんは尋ねた。

 

「最後、あの人に耳元でなんて言われたの?」

「……ないしょ」

 

 怪訝そうにする母さんだが、あの女性は母さんにとって信頼足り得る人物だったんだろう。それ以上に言及してくることはなかった。

 それから何ヶ月もの間、僕は女性から教えて貰ったパワーワードを使って、母さんを怒らせて毎度構ってもらうのだけれど、僕は母さんに一度も情報元を教えたことはなかった。それがあの女性との約束だったからだ。

 

 ◇◇◇

 

「あっつい」

「暑いね」

 

 玄関と隣接するダイニングキッチンを抜けた先、居間兼寝室である和室は熱気に満ちていた。

 壁沿いには押し入れと本棚、タンスが一つずつ配置されていて、タンスの中には母さんの衣服やハンカチ等が入っている。その隣には幅があまりない長方形のテーブルがあり、母さんの化粧品類と大きめの鏡、目覚まし時計が置かれていた。

 中央にあるちゃぶ台があり、寝る時はいつもこのちゃぶ台の足を折り畳んで片付けてから、僕と母さんの布団を二つ並べていた。

 暑い夏のある日。

 チャブ台の隣で、僕と母さんは扇風機の風量を『強』にして、それと向かい合う形で座っていた。母さんは青色の中央に穴が空いた丸型クッションの上であぐらをかき、僕はその膝の上に乗って、母さんを背もたれにする形だ。

 母さんは半袖の白ティーシャツに明度が低い薄墨色のショートパンツという夏真っ盛りの装いで、僕も変わらず白半袖、土色半ズボンという虫取り網がジャストフィットしそうな服だった。

 汗ばんだ体は不快だったが、ほぼ全面に扇風機の風があたる位置を陣取っていたおかげで、僕は大分熱が緩和されていた。そのため「暑い」と言いながらも、その暑さを我慢して、母さんの体に密着させることを選んでいた。

 一方で母さんは、扇風機に真っ向から対面していても眼の前に僕という名の壁がいるために満足に涼めず、シャツの襟をパタパタとさせて服と体の隙間に風を送り込もうとしていた。

 母さんが扇ぐことによって生じる揺れに応じて、胸元の僕の体も大きく振動していたが、案外僕にはそれが心地よいものだった。子守唄ならぬ子守振動のように感じて、眠る時母さんが体をぽんぽんと叩いてくれた時のような安心感、あるいは揺りかごや振り子、メトロノームや秒針が進む音に似た規則性、あるいは振動によって密着した部分の熱が逃げていく開放感、それらが複合的に合わさってやけに気分を落ち着かせる効果があった。

 

「暑いなら、お母さんから離れてくれない? 別にひっつかなくても二人で扇風機の風浴びられるよね? 護の体温高くて、お母さんすごく暑いんだけど」

 

 頭上から、少し疲れたような声が聞こえた。

 僕は顔が床と平行するように首を全力で上に傾けて、体勢を変えずに頭上の母さんへ向いた。

 母さんの肩まで伸びる黒髪は強風にあてられて後ろに棚引いていて、前髪はオールバックになって少し汗に濡れた額が、窓を超えカーテンを超えて居間に降り注ぐ日差しによって輝いていた。

 母さんもまた僕の瞳を見つめ返して、視線が交差した。

 しかし、それは長くは続かない。

 風向と顔の角度によって、僕のその季節にしては暑苦しい長めの前髪は、重力に逆らって垂直に伸び上がり、母さんの顔を叩きつけ始めたからだ。

 母さんは邪魔くさそうに顔を後ろに遠ざけて、僕の視界から消えた。

 それを見届けた僕はゆっくりと顔を前に戻した。

 扇風機の激しい音だけが響く室内。遠くからは小さく冷蔵庫が可動する音が聞こえ、それと同程度のセミの鳴き声が外から耳に届いた。

 ふと視界の端に入る居間に完備されたエアコンは、物を言わないただのオブジェと化していた。母さんの意向で我が家では午後三時以降に規定の温度を超えないとエアコンの使用は許されていなかった。

 母さんの化粧台の上に置いてある目覚まし時計に目を向ければ、その時の時間は午後二時五十八分。

 夏休み中盤という業火に包まれているような錯覚さえ抱いてしまう苦しい猛暑の日々は、この時間の先か後かのどちらかで、地獄と天国がきっぱりと分け隔てられていた。

 僕は目を閉じて一分一秒でも、午後三時を超えることを祈った。

 だが、待てば待つほど、願えば願うほど、時間というのは遅く感じるもので。加えて子供の方が大人より体感時間が長いという哲学者の法則もあるように、子供の僕にはわずか残りの二分は悠久の時にも感じられた。

 

「いや、ちょっと護。……さっきの離れてほしいっていうお母さんのお願いに対する返事は?」

 

 可能な限り時間に意識を向けないよう、修行僧みたいに精神の統一を図っていた僕に、母さんは再び問いかけた。

 僕は仕方なく再度顔を上に向けて母さんの顔に髪をあてた。

 母さんもまたしても鬱陶しそうに顔を後ろに下げるのを確認して、僕は前を向いた。

 そして数秒後に母さんは、ふと気づいたような声を上げた。

 

「えっ……、もしかしてその髪をなびかせてくるのって、嫌だって意思表示だったりする?」

 

 僕はゆっくりと頷いた。

 

「……喋ったほうが早くない?」

 

 母さんが嘆息混じりの言葉を漏らした。

 僕が「喋ることさえ億劫」と伝えることさえ億劫に思っていたちょうどそのタイミングで、視界の片隅に捉えていた目覚まし時計の長針は十二を指し示した。

 僕は母さんの膝上から離れて、化粧台の脇に置かれたリモコンを取って、エアコンに向かって起動の赤外線信号を送った。そして元の体勢に戻るように母さんの上に座り、もたれかかった。

 機械音を立ててゆっくりと送風口を開いたエアコンは、数秒もしないうちに冷たい空気を送り始めた。

 ちょうどL字型の頂点にエアコン、扇風機、僕達が位置しており、角にあたる部分に扇風機があったおかげで、エアコンで流れ出た涼やかな風は扇風機を通してすぐに僕達に供給された。

 生ぬるく快適とは程遠い今までの風とは打って変わって、涼やかな空気の放流にうっとりと目を細める。

 僕はそのまま手探りで横に置かれた母さんの両手を探し当てると、それを引っ張り上げて僕の腹部でクロスするように動かした。要するに腹を抱えてもらえるような体勢にしたんだ。

 扇風機だけのうちは流石に暑すぎて、密着率が高いと逆上せてしまうのでしなかったが、エアコンという強力な仲間を手に入れたこの時、僕は気温に踊らされることなく母さんに抱きしめてもらうことができた。

 母さんも抵抗することなくそのまま僕をぎゅっと抱きしめた。

 母さんの艶やかな髪が頬を撫でて、同時にいつもの優しい匂いが僕の鼻先に届いた。

 そして耳元まで近づいた母さんの口から放たれた一言は、僕を絶望の淵に引き落とした。

 

「……三時になったら宿題するんじゃないの?」

 

 僕ははっと目を開けて、隣のちゃぶ台を見た。

 そこには広げられたドリルに、授業復習のプリントが数枚。全て今日中にやる予定の夏休みの宿題だった。

 そもそも僕達がなぜこの時まで二人で扇風機の前で何もせずのんびりしていたかといえば、エアコンがつく三時になったら宿題をすると母さんに約束していたからだった。

 発端は、この一時間ほど前に遡る。

 夏休みも中盤に入っていながら、あまりにも進捗状況が芳しくない僕の宿題を見かねた母さんが、「隣で見ていて上げるから、頑張りなよ」と僕に宿題を強制してきたんだ。

 幼少の頃から僕は宿題というのがあまり好きではなかった。

 頭の回転が速い方であると自負していて、一度授業で習えばきちんと理解は追いついていたので、その必要性をあまり感じていなかったからだ。それに、母さんと一緒にいられる放課後の時間をわざわざそれに割いてしまうのは、待ちに待った好物料理の隣に嫌いなおかずを並べられているような興ざめた気分になったからだ。

 僕は母さんの提案を蹴って遊んでいたかったのだが、宿題をやらないと一緒に遊ばない、アイスも食べちゃいけないという刑を判決され、嫌々宿題に手をつけることになった。

 しかしやる気も何も起きない僕は、三十分もしないうちに鉛筆を投げ出し、「暑いから集中できない」と理由をつけて駄々をこねた。

 母さんはじゃあエアコンをつけようと自分が宣言した家庭内ルールを破ろうとしたが、僕がそうは問屋が卸させないと「お母さまはごじぶんが作ったルールもまもれないんですの?」と、母さんの少女漫画に載っていた嫌味ったらしい金髪令嬢みたいに、ヤレヤレと両手を肩の高さまで上げて、大げさに首を振って、ため息をついてリモコンを取り上げた。

 そして午後三時までの三十分間という素晴らしい猶予を与えられた僕は、空いた時間に家事をしようとする母さんを無理やり引き連れて一緒にぼーっとするという、無駄に贅沢な時間を過ごしていたのだった。

 そのことを目につけないようにしていた、もといすっかり忘れていた、あるいはすでに終わった気でさえいた僕は暑さにやられて、気付けば平常通りにエアコン起動時間を待ちわびていた。その刻限が地獄へ僕を突き落とすデッドラインであるとも考えずに。

 僕は最後の強硬手段として、この居間から逃げ出すために立ち上がろうとした。

 だが僕はすでに首筋に死に神の鎌をあてられている致命的な状態にあって、とどのつまり母さんが先程抱擁に見せかけて僕をがっちりと抑え込んでいたために、すでに僕に選択権は残されていなかった。

 

「はーい。それじゃあ、宿題しようか? ……約束したもんね、護?」

「……うん」

 

 母さんは僕を抱きしめたまま、くるりと隣のちゃぶ台に向き直して、テキパキと僕の前にプリントと消しゴムを置いていき、僕の手に鉛筆を握らせた。

 それが終わると母さんは再度僕のお腹周りを軽くホールドするよう手を回した。

 母さんもその日はきちんと宿題をさせようと決意していたのか、継続して万全の警戒態勢は張り巡らせていた。

 これでは諦める以外どうしようもなく、僕は仕方なくプリントの名前欄に自分の名前を書き始めた。

 

「あれ……そういえばもう自分の名前、ひらがなじゃなくて漢字でかけるようになったの?」

 

 母さんは僕の頭の隣にひょっこりと顔を出して僕の手元を覗いていた。

 確かにその頃の僕は、揺れる直線、はね、とめ、はらいもうまくできていない拙い文字ではあれ、自分の名前をすでに漢字で書いていた。

 僕は名前を書き終えてから、横から顔を前に出している母さんに振り向いた。

 

「だって、これはお母さんががんばってかんがえてくれたなまえでしょ?」

「え? ……うん、そうだね。護が生まれるって分かった時から、いっぱい本を読んで名前の意味を調べたり、名字と相性がいい字画を探したり、お寺のお坊さんに訪ねに行ったりしたよ。だけどそれでもなかなか決まらなくて、護が生まれるちょっと前にやっと『護』に決まったんだ」

 

 僕は生まれた時から『護』であったから、自分の名前が他にもあったことに大きな違和感を抱きながらも、続きを話し始めた。

 

「なまえは生まれたときにお母さんからもらうさいしょのプレゼントって、学校の先生がいっていたんだ。なのに、そんなたいせつなものを僕がかけないのって、おかしいでしょ? 僕はひらがなの「まもる」じゃなくて、かんじの「護」なんだ。じぶんのなまえをかくところに、べつのなまえをかいたりするのはおかしいことでしょ?」

 

 母さんは僕の返事を聞いて少し呆然としていた。でも少し時間が経つと我を取り戻して、僕を抱きしめる腕に力が込めながら、その月一番に嬉しそうに、珍しくくしゃっとした笑顔を咲かせた。

 

「じゃあ、『護』っていう字をどういう意味で名付けたか分かる?」

「うーん……。まもる、まもる……、まもり、おまもり、じんじゃ、ぶっかく、ほとけ、ほっとけ、ホットケーキ、はちみつ、あまい、おこめ、しろ、とうふ、だいず、まめ、さやえんどう、ビール……」

「……れ、連想ゲームで考えるのはちょっと違うかな」

 

 母さんは割って入って僕の明後日方向の思考を停止させた。そしてそのまま続けて物語る。

 

「宿題しないといけないからもう言っちゃうけど、『護』って名前には、『周囲の大切な人達に護られ、またその人達を護れるような人』になってほしい、そんな意味でつけたの」

「お母さんをまもればいいの?」

 

 僕が大切な人と言われて思いつくのは、愛する母さんしかいなかった。学校のクラスメイトも先生も、託児所の児童も、母さん以外の人は遊んだり話したりすることはあれ、失っても構わない、あるいは代替の利く、愛せない他人という存在でしかなかった。現に高校生になった今の僕はその頃の友人の名前を一人たりとも覚えてはいないし、顔すらも思い出せない。

 唯一の例外は、母さんの周りの人達である車の運転手とそれに乗る女性くらいだろう。その例外が存在する動機さえ、失えば母さんが悲しむからという理由だけだったが。

 だから自ずと護る対象は母さんという家族に絞られたし、僕はそれが当然だと今も思っている。物体が下に落ちる、それくらい当然の帰結だと思っている。

 

「ふふ、ありがとう。だけどね……お母さんだけじゃなくて、これから増えていく大切な人達も対象にしてほしいかな」

 

 母さんは少し言葉を止めて考えた。

 

「……護が生きているうちに、必ず友達や恋人、色々な人が護にとってかけがえのない人になるはずだよ。もしかしたら護が大好きな人と結婚したら、奥さんはもちろんだけど、生まれる子供だってその中に入るかもしれない。そうなったら、護にはお母さんも含めたその大切な人達に想われて、想ってほしいの。周囲の人を護って、護られるような、優しい強さと好意を得てほしいの」

 

 僕は眉間に皺を寄せて、頭を傾けた。

 決して母さんの言いたいことが理解不能の域にまであったわけではなかった。ぼんやりとした内容は、頭に入っていたと思う。

 ただ、両親の離婚という経験を通して、家族だけが愛せる人であり、それ以外の他人は愛せない人であると知った僕にとって、大切な人それすなわち家族という図式が成り立っていた。

 僕の中ですでに出来上がった相関関係の上で、ただの他人のことを母さんと同じように想える未来の自分を想像することは難しかった。それに僕はこの頃、母さんと結婚するつもりだった。だから結婚しても他人は家族にならないし、子供である僕が子供を持つ、あの頃の僕にとってそれは決して起こりえない現象のようにさえ思えていた。

 他人に激しい恋慕も、燃え上がるような好意を抱いたことさえなかった僕には、極めて難解な想像だった。

 母さんは、僕が言っていることを理解できないと思ったのか、少し唸った。

 

「……ごめん、ちょっと難しい言い方だったかもしれない。そう……だね、簡単に言うと、好かれて優しくて頼りになる人ってことかな」

「お母さんにとって、ぼくはすかれてやさしくてたよりになる人?」

 

 家族である母さんが頷けば、すでに僕は『護』という名前に込められた願いを満たした人間になれている、そう僕は思っていた。

 母さんは手を前に出して、指折り数え始めた。

 

「どうだろう。お母さんは護のこと大好きだから『好かれる人』ではあるし、護はよく家事を手伝ってくれるから『優しい人』でもあるよね。あっ……だけど、少し頼りないかな?」

 

 母さんは二つ指を折ったところで、手を止めてしまっていた。

 

「ええ!? なんで!?」

「……だって、やらなければならない宿題をほっぽりだして遊んでばかりいるんだよ? そんな人は頼りにはできないかなと思って」

 

 僕ははっとして、母さんがとんとんと指で叩く白紙のプリントを見た。そして慌てて鉛筆を持つ右手を動かして、書き殴るように宿題を始めた。

 

 ◇◇◇

 

 その日は、熱気と湿気が堪らない夏を超えて、少し乾燥した日が続く秋の放課後だった。

 学校から返ってきた僕は、和室の隣にある部屋の押し入れから分厚い本を見つけていた。

 その部屋は元々物置だったが、この年の春から僕専用の子供部屋になった場所だった。

 小学生になれば、勉強用の机とか、一人でいられる時間とかが必要になるだろうと用意された部屋だったのだが、あまり活用はされていなかった。

 僕が宿題をするのは母さんがいる居間かダイニングルームで、わざわざ離れて一人になりたいと考えるわけがなかったからだ。

 その部屋にはすでに真新しい学習机や僕の着替えが置かれていたが、押し入れは物置としての役目を残していた。だから、僕はその部屋で着替えるついでに、暇つぶしで押し入れを漁り、自分が知らない本を見つけることになった。

 図書館や本屋でしか見かけない図鑑のような分厚さであったその本を持って、僕は居間にいた母さんの元へと向かった。

 

「お母さん、これなに?」

 

 居間中央のちゃぶ台には裁縫道具が広げられており、母さんは僕のワイシャツから解けてしまったボタンを縫うことに集中していた。

 声に反応して顔を上げた母さんは、僕の手の中にある本に視線を向けた。

 

「それはお母さんのアルバムだよ」

「アルバム?」

「そう、アルバム。アルバムはいっぱい写真が並んでいる本のことで、多分このアルバムにはお母さんが子供の頃の写真が入っているんじゃないかな」

 

 お母さんは針刺しに針を刺して、それらを入れた裁縫セットの蓋を閉じると、隣に近寄っていた僕に見せるように持ってきた本をちゃぶ台上で開いた。

 その本の最初のページには、頬ベタを真っ赤にした赤ん坊とその母親と思われる人の写真が載っていた。赤ん坊を抱きかかえる女性はとても嬉しそうであり、なおかつ今にも泣き出しそうであった。

 一ページに六枚ずつ入っているアルバムは、ページを捲るごとに写し出された子供が年月を経て成長していた。

 最初は髪もほとんど生えていないような赤ん坊は次第に大きくなる過程で女の子だと分かり、ランドセルを背負う頃には、お世辞にも写真写りがいいとは思えない無愛想な小学生になっていた。

 入学式の日に撮ったのか、校門前で撮られた娘と母親の二人手を繋ぐ写真は、嬉しそうに笑う母親と笑わない娘という対象的な母子の姿がとても印象深かった。

 

「このおこっていそうな小さい子がお母さん?」

「怒ってはいないよ。カメラを向けられると緊張して、表情がいつもよりきつくなっちゃっただけ」

 

 僕が尋ねると、母さんはやんわり否定しながら、この写真に写る少女が自分であることを肯定した。

 僕は自身とそう変わりないこの小さな子供が母さんだということを不可思議に感じながらも、その言葉を信じた。すると、写真の小さな子供がとても愛おしく思えた。

 次に、僕は入学式の写真と同時期くらいに撮られた隣の写真を指差した。

 

「ねぇ、お母さんとあそんでいるこの男の子と女の子は?」

「うん? ああ、この二人はお母さんのいとこ。お母さんが高校生になって、家の仕事の都合で東京に引っ越すまでは、近所に住んでいた人達だったの。三人の中で私が一番幼かったけど、無愛想な私にも優しい人達だったから、とても仲が良かったんだ。特にいとこのお姉ちゃんとは、容姿も似ていたから、姉妹に間違えられるくらいだったんだよ」

 

 母さんの話を聞いた僕は、開いているアルバムを一枚ずつ捲っていく。

 すると、アルバムの多くの写真にはその二人が母さんと写っていた。

 

「……懐かしいなぁ。お母さん、元気にしているかな。お姉ちゃんとお兄ちゃんも、仲良くしているかな」

 

 母さんは写真を慈しむようにゆっくりと撫でながら、少し寂しそうに目尻を落とした。

 その姿はいつもの母さんと違って弱々しくて、父親と離婚して離れ離れになった当初、時節見せていたものに近かった。

 だから、僕はなんとなくその頃を思い出して、母さんに正面から抱きついた。

 

「……どうしたの?」

 

 少し驚いた声音で、母さんは僕に尋ねた。

 僕は母さんの心臓の音に鼓膜を揺らしながら、すぐに返事をできなかった。

 この時身に降りかかっていた恐怖を口にすると、お母さんを責めることになるのは、子供ながらに分かっていたから。

 母さんが僕にそういう思いをさせないように精一杯の努力をして、最善を尽くしてくれているのを知っていてなお、それを糾弾し、もっと頑張らせるようなことを言いたくなかった。それに、そんな言葉を口にしてしまうのは、名前の由来の一つ――「頼りになる人」に対して相応しくない行動のような気がしたからだ。

 必死に言い繕おうと頭を回した。けれど、所詮小学生の浅知恵で回転数の少ない頭では思いつく方法は限られている。結局僕の口から出てきたのは、セクハラの勉強がてら学校帰りに寄り道したコンビニの雑誌に載っていた、ほのぼの癒やし系漫画のキャラクターが語っていた文言だった。

 

「ひんにゅうはステータスだ!」

「…………」

 

 耳に響く心臓の音が遅くになったので、僕は胸に押し付けていた顔を上げた。

 目前には、僕を冷たく見つめる母さんの姿があった。

 母さんは自身の正座している膝の上に、僕の腹が乗るようにさっと僕をうつ伏せの姿勢に変えると、僕のズボンを尻が露出するように剥いだ。

 ものの数秒で、見事な生尻叩きのお仕置き体勢に入っていた。

 唖然として行動を起こせなかった僕は、はっとして尻の痛みに怯えながら暴れた。

 尻叩きの刑は、左右顔パチンの刑、顔グニャグニャの刑とは比較にならない痛みを伴っていた。その痛みは、怒られてでも母さんに構ってもらいたいこの頃の僕でさえ、二度とやられてなるものかと、その意図を隠してゴム式ズボンのゴムを強化するように母さんに依頼したこともあったくらいなのだから。

 だが、抵抗は虚しく背中を押さえつけられた僕は何も出来なかった。まるで突如水面に叩き上げられた魚のように縦ピチピチ、横にピチピチ動いたが、母さんのホールドは揺るぎない安定感だった。

 体勢上、僕は母さんの顔を見ることができず、窓越しから視界に広がる青空に諦めたように喋りかけた。

 

「お母さん……優しくしてね」

 

 しおらしい僕の願いは聞き遂げられることはなく、数秒後に響き渡るのは僕の喘ぎ声だった。

 お仕置きを受けた後、ひりひりと痛むお尻を見てみると、アルバムの一ページ目にあった新生児の赤い頬と遜色ない色合いの桃尻に仕上がっていた。

 ちなみに母さんは極度に胸がなかったわけではない。ただ体がスレンダーである分、どちらかというと平均より小さい方ではあった。

 案外人っていうのは、極度な差異があれば諦めがつくもので、潔くなれるものである。

 母さんはどちらかといえば大きくない方だったから、後少しあればという願いが胸の奥底で燻っていた可能性は少なくはない。まして母さんがこの少し前まで働いていた職場はそういったことを言及してきてもおかしくない場所であったから、日々の生活で募っていたものがあったに違いない。だから、母さんにとって胸はとてもセンシティブな問題であって、僕が予習してきたあの言葉は、まさしく母さんの地雷を踏みつけたんだろう。

 

 ◇◇◇

 

 日曜日、小学校が休みを良いことに惰眠を貪っていた僕は、布団を剥がされて、薄手のパジャマのまま外気に晒された。

 肌寒くなった朝は痛いほどに冷えている。僕は自分の膝を曲げて、できるだけ部位が密着するように体を丸めた。

 しかし平時の状態において何者かが布団を引っ剥がす理由なんて、言わずもがな僕の起床を促すためであるんだから、それ以上の継続的な睡眠を取ることは当然妨害された。頭をぺしぺしと叩かれて、夢の世界から強制送還させられた。

 僕は未だ混濁した意識のまま、無意識に叩かれた方に顔を向けて瞼を開ける。ぼやけた視界の先には肌色と黒を基調とした何かがあって、瞼をこするごとに輪郭が浮き彫りになり、目前の存在が母さんであると認識した。

 母さんは僕に視線を送って、その唇を動かした。

 

「護、おはよう」

「……うぅん、おはよう、お母さん。……ふぁあ」

「……これまた大きな欠伸。だらしないな、もう。……ふぁあ」

 

 呆れたように言った母さんだが、その後僕につられて一緒に欠伸をしてしまっていた。少し恥ずかしそうに口元を隠した姿は、いつもと違って愛嬌があった。

 体を起こして壁際のテーブルの上に置かれた時計の針を確認すると、学校に向かう平日と同じような起床時間だった。

 早朝の寝室は凍えるような寒さで、扇風機と同じ場所に導入された石油ストーブは母さんがすでに起動しているが、その熱気は部屋の隅々までは届いていなかった。

 四季の中でも冷たさが痛さにまで至る冬を特に嫌っていた僕は、この空間にいるだけで気力、体力を持っていかれる。

 早急に布団に包まり暖を取ることを考えた僕は、母さんが未だ所有しているそれ目掛けて手を伸ばした。

 だが、それを察知した母さんは僕から滑るように遠ざかった。

 

「駄目。今日はお母さんとお出かけするって決まったから早く起きてよ」

「えぇ……やだ」

 

 僕は顔を顰めた。

 家族大好き人間である僕なら喜ぶ予定であるはずのそれを嫌がる理由は、ただ単純に冬空の下、外に出たくないからだった。

 

「『えぇ……やだ』、じゃない。今日は絶対に外に出てもらうから」

「……こんなさむい日に外に出たらしんじゃうよぉ。なんでそんなひどいこと言うの?」

「……十二月に入ってから三週間、お母さんは護が布団の中にいない時間を見たことがないんだけど。放課後帰ってきたら押し入れの中から掛け布団取り出して、ずっと包まってお母さんの漫画読んでいるし。寒くなる前はたまに外に遊びに行ったりしていたのに、今は外に出ようともしない。はっきり言って、お母さんは護の弛みきった生活に危機感を抱いているよ」

 

 母さんは冬のこの時期になると毎回僕の生活習慣の悪化を注意していた。逆に言えば、僕は冬になると毎回出不精になっていた。

 僕は小学生男児にしてはインドアな理由は主に母さんが家にいるからなので、決して外出することが嫌いなわけではなかった。暖かい季節は母さんと買い物に付き合ったり、一緒に外で遊んだりするのは当然、母さんにセクハラ、もといイタズラするための資料を読みに最寄りの古書店に一人で出かけてもいた。

 ちなみに子供は外で元気に駆け回るものという考えを持っている母さんは、僕が外で遊ぼうと誘うと、時間の空いている限り、優先順位高めに率先して遊んでくれた。

 近くの公園でキャッチボールをしたり、ブランコを一緒に漕いだり、鉄棒で逆上がりの練習をしたり、泥団子作りに精進したり、多種多様な遊びをしていた。成人女性であるにも関わらず息も切らさず、疲れた表情も見せず子供の自分と遊べていた母さんは、運動が得意だったのかもしれない。加えて、運動にあまり関係ない泥団子作りでも、泥から生まれたとは信じられないほど、輝かしい光沢の一品を作り上げていた。

 たまに公園にいた物怖じしない同年代の子供に誘われて一緒に遊んだりすることもあった。

 そういう時は隣にいた母さんが自然にフェードアウトしていて、ベンチに座っているか、連れ立っている親御さんと会話をする場合が多く、僕を遠目から眺めているだけだった。 

 おそらく母さんは意図的に僕から距離を置いて、一緒に遊ぶような友達を得てほしかったんだろう。僕も少しだけ不満は抱いたものの、母さんが近くで見守っていてくれれば他の子供と遊んでもよかった。家族が近くにいて僕を見てくれること、僕から離れていかないことを認識することが重要だった。だから僕一人で公園に行って、その子供と一緒に遊んだりすることはなく、誘われても断っていた。

 その子とは公園にいる時のその場限りの関係で、名前すらも今は覚えてはいない。だけど、月に何度かは母さん付き添いの元でその子と遊んでいた。

 しかしそれも、寒さが看過できない気温になってからは一度もなかった。

 

「それに、今日はクリスマス・イブだよ。護は欲しい物がないって言うけど、最後にもう一回欲しい物探しに行こうよ? 今日中に何がプレゼントをサンタさんにお願いしないと、プレゼント貰えなくなっちゃうんだからさ」

 

 この日になる数週間前から、母さんは仕切りに僕に欲しい物がないか尋ねてきていた。

 しかし、年頃の割に玩具に興味があるわけでもなかった僕は、この時それほど手に入れたい物があったわけではなかった。強いて挙げるとすれば、母さんを怒らせる勉強に使う漫画を中心とした書籍くらいで、それも別段物語に注目しているわけではなかったから、先の話を読むための新刊が欲しいわけでもなく、古本屋で立ち読みする程度で十分だった。

 本当に欲しい物がなければ買わない。無駄遣いはしない。それが幼年期から育まれた僕のある種ポリシーみたいなもので、母さんがお金を稼ぐために必死に働いていることを知っているからこそ、至った主義であった。

 お金は時間に変えられる。それを知っていて無駄遣いをするはずがない。我慢をすればするほど、僕は母さんとの時間を手に入れられたんだから。

 しかし、そうは言ってもその年の昨年まで、僕はサンタさんにプレゼントをきちんとお願いしていた。赤の他人であるサンタさんからタダで何かが貰える。これほど気前の良いおじいさんを利用しない手はないからだ。

 だけど小学一年生にもなれば、クラスメイトの一人がサンタの正体見たり我が家族と声高に真実を暴露してくる。

 だから僕はこの年のクリスマスに至るまでに、誰が僕のサンタであるかを知っていた。

 真実を知った時は愕然とする僕だったが、よくよく考えてみれば、嘘が下手な母さんのクリスマスにおける挙動不審具合は、古くさい刑事ドラマの犯人もかくやとばかりの大根芝居で、疑って下さいと食って掛かってくるような、胡散臭い言動ばかりだった。背後にそんな真実が隠されているのであれば、それまでの母さんの振る舞いに納得がいった。

 そういう経緯を経た僕がサンタさんに欲しい物をお願いするはずもなく、かといって、母さんが頑張って隠してきた事実をどう扱えば良いのかわからず、とりあえず知らないフリをしてクリスマス・イブを迎えていた。

 

「えー、べつにほしいものなんてないよ」

「そんなこと言わずにほら、ちょっと電気屋さんの広告見てみなよ。ゲームとかおもちゃとかいっぱい新しいのが出ているよ?」

 

 そう言って、母さんは僕の購買意欲を掻き立てるための事前準備として脇に置いておいたのか、僕にも見えるように広告を取り出して広げた。

 

「あ、この新しいゲーム機器なんてどう? CMでよく見るし、今すごく人気らしいよ? 二画面もあって、画面に触れて操作できるんだって」

「それ、はつばいしたばかりで、いまどこもうってないくらい人気らしいよ」

「えっ……、そうなの? ……じゃあ、ちょっと止めとこうか。……ほら、サンタさんも取り寄せとかいろいろ大変だろうし」

 

 相手が嘘をついていると思うと、事実のわずかなズレに目が行くものだ。

 この日より前、いつの日かの母さん曰く、サンタさんは独自のおもちゃ工場を持っているらしく、クリスマス・イブが終わる二十四時までに願えば、どんな物でも対応可能で、クリスマスに配達してくれるらしかった。

 しかし、この日の母さんが最新ゲーム機の購入を推薦しなくなった理由が、サンタ側の取り寄せ問題なのであるから、明らかに設定的矛盾が発生していた。

 母さんはそんな失敗に気づかずに僕にあれやこれやと、他の商品を勧めた。

 

 ◇◇◇

 

「うう、さむい……」

 

 ショッピングセンターから自動ドアを通って外に出ると、肌に刺すような寒さが身を包んだ。

 特に冷えるのは直に外気と触れ合う顔と手だった。軽い商品を詰め合わせたレジ袋を引き下げる両手の指先からは、冷たさというより痛みの感覚の方が大きい。

 思わず体を震わせる僕を見て、正反対に寒さに強い母さんは少し呆れていた。

 

「だから手袋持って行こうって言ったのに」

「……だって、おかあさんの手あったかいから、つないだらさむくないし」

 

 手を繋いでいるおかげで転ぶ心配もないから、繋いでいない手はポケットの中に突っ込んでおけば大丈夫だと安易に考えていた。

 だけど、帰りには買い物袋で手が埋まる可能性をすっかり忘れていた。母さんの両手は膨れ上がったレジ袋で占領されていて、僕の入り込む余地は微塵もなかった。

 

「じゃあお母さんが護の荷物を持つから、その代わりに今から渡すカイロでも握って我慢しなよ。流石にポケットに手を入れて歩くと危ないから駄目だけど、カイロ握りながらならちょっとはましでしょ?」

 

 そう言って、母さんは僕の荷物を持とうと手を伸ばした。

 しかし、僕は腕をずらしてそれを避けた。

 

「……これはぼくがもつよ」

「……そう?」

 

 母さんは僕の返事を聞いて、少し違和感のあるような顔をしながら空振った手を引っ込めた。

 母さんの手にも両手いっぱいの荷物があった。その中に僕の荷物も加わってしまうのは、流石に大人であろうと大変だとその時の僕は思った。

 母さんに辛いことを押し付けて、僕だけが楽な状態になるのは、僕の名前の意味――「優しい人」の行動ではないと思ったんだ。

 最寄りのショッピングセンターから出て、歩道を二人並んで歩いた。

 冬の季節が来たとはいえ、十二月。気温はまだまだ落ち込み始めたばかりで、一月、二月頃の極まった気温とは違い、息をすることさえ億劫になるような寒さではない。

 ホワイトクリスマスとは縁遠く、その年は素敵な日を演出するような雪降る気候ではなかった。

 僕は寒いのが苦手ついでにそれに付随する雪にもあまり好意的でなかったから、特に盛り下がることはなかった。ただその日は分厚い雲に覆われて光が届かず、全体的に町並みがどんよりと暗かった。

 せっかくのクリスマス・イブなんだ。ロマンチックに雪を降らすか、清々しいまでの快晴のどちらかに傾いて欲しいと、その時の僕は思っていた。

 

「でも、本当に良いの? クリスマスプレゼントが『カレー』なんかで?」

 

 今朝方から続いていた話題を、母さんはもう一度話に上らせた。

 

「うん。ぼくはおもちゃをもらうより、お母さんのにこんだおいしいカレーがたべたい」

 

 物欲がそれほどない僕が出した結論は、食欲で代替とすることだった。

 といっても、すぐにこの妙案が出たわけではなかった。寒さを嫌がる僕は結局母さんに叩き起こされて外出することになったし、ショッピングセンターの玩具売り場も見て回ることになった。

 結局その時は何も決まらず、昼を迎えた僕たちはショッピングセンター内で外食することになり、その後は、これは良い機会だと母さんは僕の新しい服を探しだしたし、そろそろサイズが合わなくなってきた僕の靴まで買うことになった。

 いつの間にか本当の目的を忘れていた母さんに付き合っているうちに、次第に時は過ぎていき、僕たちは夕飯の買い物をするために食料品売り場へ向かった。

 そこで僕はようやく、欲しい物を好きな料理にすることを思いつくわけだった。

 

「そっか。じゃあ今日の夕飯はカレー……にしたいとこなんだけど、カレーは今から煮込むと護が好きな具材に味が染みた状態にならないから、今日はいつも通り唐揚げにして、明日をカレーにしようか」

 

 母さんが確定的に唐揚げを食べると言っていたのは、僕の家というより母さんの実家では祝いごとやイベントがあると、なぜか唐揚げを食べる習慣があったからだ。

 少し変わった習慣にも思えるけれど、特に実害があったわけではない。

 母さんが当たり前のように思っているから、僕も別段不自然に思わずこの習慣を受け入れていたし、クリスマスはチキンを食べるイメージがあるから、クリスマスにおいてこの習慣は、別段風変わりなチョイスを推奨するものではなかったからだ。それに料理上手の母さんが作る品は基本的にどれもおいしく、唐揚げはその習慣によって鋭意工夫がなされた他の追随を許さない熟練の一品なので、カレーに匹敵する僕の好物だったりする。

 一日中外に出ていた気疲れはあったが、それでも二日続けて好物が出るというのは嬉しいことだった。僕のテンションは嫌悪する寒空の下にいるにしては、割りかし高めだった。

 僕は浮かれていた。周囲の光景にあまり注意がいかないほどに。だから、気づくのが遅れた。

 横断歩道を渡る僕の隣で、母さんが微かに悲鳴のような声を上げながら僕を突き飛ばした。

 両手に荷物があるとはいえ、母さんの言いつけでポケットに手を入れず、多少自由に使えた僕は、体を強打することなく、比較的うまく受け身を取れた。それでも少し肩あたりに鈍い痛みを感じたが、それと同時に背後から大きな衝突音が聞こえ、次にアスファルトの上を多くの何かが転げ回る音が聞こえた。どこかの車が急ブレーキをかけたのはその後だ。

 僕は音に驚いて母さんの方を振り向いたが、そこには誰もいなかった。

 だけど周囲には散乱した子供用の服や靴があって、容器から飛び出して殻が割れた卵が、灰色のアスファルトを無造作に塗装していた。

 僕の視界に入る物の散らばりは不規則に見えて、その実、僕のいる場所から十メートル以上離れた先のある一点に繋がるように転がっていた。

 たまねぎ、にんじん、鶏肉、カレーのルー、中身が飛び出したサラダ油。

 どこかで見たことがある食材を目で追っていった。それらは全て僕の好物であるカレーと唐揚げの具材で、ショッピングカートに母さんが順繰りに入れていた物と酷似していた。

 視線が行き着いた先には、停まった車とそこから降りてきた運転手が慌てたように横たわった何かに声をかけている。

 運転手が見つめる先には、赤く染められたアスファルトがあって、その上には、

 肩越しに届きそうな黒くて艶やかな髪が、

 暖かさと安心を与えてくれた体が、

 僕の大好きで、大切な人が――、

 

 ――横たわっていた。

 

 当時の僕はずっと変わらない日々が続けと祈っていた。明日も明後日も、一週間後も、一ヶ月後も、一年後も。いつまでも僕の隣には母さんがいて、甘えたがりな僕を叱りつけながら、僕と共に笑ってくれると願っていた。

 愛して、愛されて。僕は誰よりも母さんを愛していたし、母さんは僕を誰よりも愛してくれていたと思う。なんなら母さんと結婚して一生こんな人生を送ることを夢想しながら日々を歩んでいたほどだ。それくらいに僕は、未来永劫この幸せが終わらないと考えることで、失うことの恐怖を紛らわし続けていた。

 でも、当時の僕が考える別れより酷い出来事は、突然に訪れた。『護』という名を授けられながら、僕は結局何も護れなかった。呑気に日々を過ごして、母さんが隣にずっといると願い続けるだけの日々は、唐突に終わりを告げた。

 

 ◇◇◇

 

 母さんが事故で亡くなった。

 それを知ってからの出来事は一つとして覚えていない。その当時に僕がどう過ごしていたのか、周囲がどのような感じだったのか、僕は何も思い出せない。

 母さんの死後、僕の記憶が再開したのは、引き取られたお祖母ちゃんの家で初めて手料理を食べたときだった。

 お祖母ちゃんが作る料理は、毎日食べていた母さんの料理と似た味だった。母さんに料理を教えたのがお祖母ちゃんなんだから、当然といえば当然だけれど、どことなく濃い味付けは、遜色なく僕が好きだった母さんの料理と同じ味だった。

 だから、僕は母さんが帰ってきたと勘違いした。

 

「……お母さん?」

 

 僕は自分がいる場所がどこかも分からなかった。何も考えず、息をして、目を開けて、食べて、寝て、誰かに手を引かれて歩いていただけだった。

 現実から目を瞑って、自分の殻に籠もり続ける。それが幼い僕にできる唯一の抵抗だった。

 そのために、対面の木製テーブル越しに座る物腰柔らかな年配の女性が誰なのかさえ、この料理を食べるまでは認識していなかった。すでに自己紹介をされたであろう人は、僕にとっては未だ見知らぬ他人だった。

 だが、その顔には見覚えがあった。秋の日のいつかに見た、アルバム写真に母さんとよく映っていた大人の女性だった。皺が増えて若々しさが拭い去られても、僕はその人が母さんの母さんであると理解できた。なぜなら、アルバムで見た嬉しそうに赤子を抱く女性と、その時目の前にいた妙齢の女性の笑顔が重なって見えたからだ。だから、僕は一度も会ったことのないその人のことを祖母だと理解した。

 僕はそれまで一言も喋らなかったらしい。僕の言葉を聞いてお祖母ちゃんはひどく取り乱しながらも、歓喜という言葉がぴったりなほどに嬉しそうに笑った。

 色々な言葉をかけられた。

『喋ってくれてよかった』だの、『体調は大丈夫ですか』だの、『ご飯はおいしいですか』だの。

 僕の返事を顧みず、多くの質問を一斉に言葉に変えた。

 当時のお祖母ちゃんもまた、娘を亡くして神経衰弱していたんだろう。加えて娘の残した一人息子がショックで感情を無くし、喋らなくなってしまった状態だったんだ。

 葬儀や、手続き、色々な作業で右往左往していて、料理好きのお祖母ちゃんが半月の間手料理を振る舞えないほど目の回る忙しさだったはずだ。そしてようやく一段落して、孫と一緒に自分の家に帰ってきた。

 これからの生活に不安を覚えながらも、長年寄り添った夫は亡くなっていて、一人暮らしで頼る相手はいない。突如孤軍奮闘を余儀なくされたお祖母ちゃんの重責は計り知れなかっただろう。

 だからお祖母ちゃんが、僕が最初に発した言葉を見失っても何もおかしくはなかった。

 けれど僕はそんな情緒を慮ることもなく、僕と同じように苦しむお祖母ちゃんに再度残酷な問いかけをした。

 

「お母さんはどこにいるの?」

 

 お祖母ちゃんの質問に重ねるように言った僕の言葉は、矢継ぎ早にお祖母ちゃんの口から飛び出す言葉の続きをかき消した。

 ほんの数秒の間、お祖母ちゃんは言葉を失った。

 少しの間、僕から見えないように顔を下に反らした後、一変して真剣な表情を僕に向けた。

 

「お母さんはね、ここから遠い空の上のもっと先、そこにある天国にいます」

「……お母さんはいつ帰ってくるの?」

 

 この時の僕は、お祖母ちゃんの言葉が遠回しに意味することを知らなかったわけでなかった。小学一年生になれば、遠からず死がどういうことで、天国がどのような人が行ける場所かなんて、すでに知っているんだから。

 だけどそれを理解するのを拒んだゆえに、僕はその言葉を額面通りに受け取り、決してその裏に隠された真実に目を向けようとはしなかった。

 母さんと二度と会えないなんてことを、考えたくもなかったんだ。

 

「そこから、お母さんは帰ってこられません」

 

けれど、お祖母ちゃんはとてもつらそうな表情で、幼い僕に優しい嘘ではなく、厳しくても、向き合わなければならない真実を告げた。

 とても遠回しな言い方で、死という言葉を用いなかったのは、母さんの死を目の当たりにした僕の気持ちを、ほんの少しでも傷つけまいとしたお祖母ちゃんなりの配慮だったのかもしれない。

 

「……なんで?」

 

 でも、その言葉を聞いても、いや、その言葉だからこそ、僕はお祖母ちゃんに何度も見当違いな問いかけをした。

 どうして帰ってこないのか。

 なんで僕を置いていったのか。

 お母さんは何をしに行ったのか。

 お祖母ちゃんが言葉を詰まらしながらも、遠回しに事実を返答するたびに、僕はその言葉の意味に勘付いていながら、さらに頓珍漢な質問をお祖母ちゃんに投げかけていた。

 僕はその回答を聞いて、オブラートに包まれた事実を理解しようとも、受け入れようとも考えてはいなかった。お祖母ちゃんの回答のほとんどを無意味だと断定して、考えを及ばさなかった。

 なぜならそれは、誰かの口から僕にとって都合の良い事実を抜き取るためだけの抵抗だったからだ。

 母さんともう一度会える。母さんに構ってもらえる。

 母さんと笑いあえる。

 大人でも、子供でも、見知らぬ他人だろうと、誰でもいいから、母さんの死という事実を否定してくれる言葉を求めた。そして、母さんとの再会を肯定してほしかった。

 事実を別の言葉に置き換えてくるならば、事実自体を置き換えてほしかった。そんな言葉を求めた。

 お祖母ちゃんは、なかなか僕の望むような答えを返してくれなかった。いくら僕が質問しても、決して母さんと会えるなんて嘘の言葉を返さなかった。

 それは、お祖母ちゃんが幼い僕にさえ、正直に向き合ってくれたからだろう。そして悲しくて辛くとも、事実と向き合うことを望んでいたからだろう。

 けれど、僕は癇癪を起こしたように、なんで、どうしてと問いかけ続けた。お祖母ちゃんが望まない、僕が望む嘘を引きずり出そうとした。

 言葉は時として、別の意味に伝わってしまうことがある。だから、何度も言葉を交わせば、僕とお祖母ちゃんとの間に意味の齟齬が生まれる。

 お祖母ちゃんにとって死と同義の言葉が、僕にとって生を意味するように捉えられた言葉があった。

 

『いつか姿を変えて、あなたに会いに来てくれるかもしれない』

 

 お祖母ちゃんは信心深い仏教徒だったわけではない。しかし輪廻転生という仏教の概念からこの言葉を持ち出したのは明らかだった。

 死者だけに与えられる特別な機会。科学が進んだ現代においては到底起こりえないことが証明された現象。

 お祖母ちゃんにとってこの言葉は、母さんの死と向き合い、それでいながら、明日に向かっていく原動力を、前向きに生きていく考えを与えたかったのかもしれない。

 けれど、母さんとの再会を誰かに肯定してほしかった僕の現状にとって、その言葉は、まるで天啓を得たかのようにすんなりと、再会という都合の良い部分だけを切り取った形で心に染み入った。死者だけに向けられる言葉を、生者と信じたい者に当て嵌めたんだ。

 僕はその日から、盲目的に母さんの帰りを待つようになった。

 

 ◇◇◇

 

 僕がお祖母ちゃんの家で住むようになって半年が過ぎた。

 母さんと暮らしていた時の学校を転校して、東京にあるお祖母ちゃんの家近辺の学校に通うようになった。

 母さんと共に暮らしていた頃も、母さんとの時間を作るためにクラスメイトとの付き合いが悪かった僕は、決して交友関係の広い子供ではなかった。だが、それでも休み時間を共に遊ぶような友達数人はいて、僕は一人ぼっちというわけではなかった。

 しかし、転校してから僕の周りには誰一人友達と呼べる相手はいなくなった。

 それはすでに交友関係が確立している小学二年生の時点での転校だという点と、僕がおかしな言行でしかクラスメイトに接しなかったことによる結果だった。

 その頃の僕にとっては、ある一点を除いた全てがどうでもよいことだった。娯楽も勉強も友人も、全ては二の次でしかなかった。

 休み時間も放課後も日がな一日中空を見て、僕は遠い空の向こうの場所にいる母さんを想っていた。

 いつになったら母さんは生まれ変わって僕の前に帰ってくるんだろうか。

 望むべき答えしか信じない僕の思考は、半年間を費やした結果、一つの行動パターンを僕に与えた。母さんがいつも必ず叱っていた言動を繰り返すようになった。

 天国の母さんがどうしようもなくダメダメな僕を心配して、怒って、姿を変えてでもすぐに帰ってきてくれるはずだ。家事をほっぽり出して叱ってくれたあの日々のように、天国の柵も顧みず帰ってきてくれるはずだ。

 僕はそんな考えを胸中に、ずっと寝転んで空を見上げる僕を心配して声をかける大人の女性や子供の女の子に対して、セクハラ親父もかくやという態度で接していた。

 毎日のように空を見上げなから、セクハラを繰り返していた僕に話しかけるクラスメイトはいなくなった。

 だから僕は放課後になると、寝転ぶ場所を転々としていた。

 公園や空き地。様々な場所を回った。寝転ぶ僕を心配する人間が一人もいなくなったら場所を変えて、またそこで声を掛けてもらう。それの繰り返し。

 その当時の僕にとって、まだお祖母ちゃんは家族ではなかった。正確には愛情を向けられる立場の人ではあったけれど、愛情を注ぎたい人ではなかった。

 母さんと同じ味の料理が確かに僕とお祖母ちゃんを繋いでいたけれど、逆に言えばそれだけでしかなかった。

 だから、僕はいつも夕飯前にならないと家に帰らなかった。母さんという家族の代わりを祖母に求めることはなかった。

 そんなある日、公園で寝転ぶ僕に、一人の女の子が声を掛けた。

 僕はいつもどおりのセクハラ対応をするために、視線を少女に投げかけると目を疑った。

 その少女の髪が、その凛とした容姿が、その無愛想な表情が、アルバム写真に写っていた幼い母さんと瓜二つだったからだ。

 僕は、母さんが姿を変えてついに僕の元に現れたのではないかという期待と、その期待が裏切られるのではないかという不安の両方を抱きながら、少女との会話を続けた。

 だがもちろん、少女は母さんではないんだから僕との間に記憶はない。故に態度も違う。猶且つ、少女は僕と同年代の年齢だ。幼さ故に未だ拙い喋り口調や、節々から垣間見える初心は、ひどく母さんとは乖離していた。

 それに失望を感じながらも、僕はこの少女との会話を出来るだけ長く楽しみたいとも思っていた。

 いや、会話ではなく彼女をただ眺め続けたいと思った。いや、眺めていてほしいと思った。その母さんに似た瞳を逸して、僕を独りにしないで欲しかった。

 そしてある種僕にとっては定例通り、彼女にとっては不快極まりないセクハラ言動を僕が投げかけた時、彼女は僕に対して怒って、叩いたんだ。

 その瞬間、僕の中における彼女の立場は一瞬で塗り替えられた。

 僕のその時の心境は、ただただ、幸福感と達成感に満たされていた。

 それは子供だったあの頃だろうと、高校生になった今だろうと言い知れない、主観的な名のもとに生まれた幸福で。僕が彼女に怒ってもらいたいと思ったきっかけであった。

 彼女が怒った時。その時、彼女は母さんだったのだ。経験の差異や記憶の相違、容姿の異同、あらゆるものをかなぐり捨てて、僕のセクハラに対する嫌悪。嫌悪という感情に伴った怒りの表情、行動、感情、その全てが僕の求めるものだった。

 それは数ヶ月間、母さんの返りを祈り続けた僕にとっては奇跡のような出来事であり、現実という世界を直視できない僕の弱い精神が、彼女を母さんの生まれ変わりだと誤認させるには十分な条件だった。

 

 ◇◇◇

 

 彼女に付き纏うようになって数ヶ月が経った。

 僕と彼女は同じ小学校には通っていなかった。だから僕は彼女に会いに放課後毎日彼女の家に向かっていた。

 彼女の両親は自営業を行っていて、店舗併用住宅の一階を花屋に、二階を居住スペースとしていた。

 忙しい彼女の両親にとって、娘に友達が増えることは喜ばしかったんだろう。少し父親の方は嫌な雰囲気を出していたが、総じて連日家に訪れる僕を煙たがったりはしなかった。

 それは少女も同じで、僕を決して追い出したりはしなかった。

 変態的言動で不快感を与える僕が彼女と縁を切られずに済んでいたのは、彼女の遊び相手が少なかったのが遠因にあったのかもしれない。

 彼女の両親は階下の花屋でいつも働いていた。

 僕が訪れると必ず店員として働きながら、僕と挨拶を交わす。そして店の奥の階段を上って居住スペースに辿り着くと、いつも居間にテレビの音だけが響いていて、その前のクリーム色のソファーに座る少女に話しかける。それが僕の日課になっていた。

 時たま両親の手伝いをする彼女を見かけたこともあるが、頻度は少ない。

 花屋の仕事は案外力仕事が多いせいか、幼い少年少女では体が成長していない分、体格的な面で限界があった。それに刃物を扱ったり、取り扱いに注意しなければいけない花もあったりと、経験不足、知識不足の面でも彼女の足を引っ張った。

 そのために放課後は、いつも僕と彼女の二人だけで過ごしていた。

 外に遊びに行くこともあったし、二人で宿題することもあったし、ちょうど流れていたドラマを二人でみることもあった。

 言葉にすれば一見仲良しな子供同士の平凡な日常風景に思えるが、その実情は違っていた。

 僕の彼女に対する変態的言動は抑えることを知らなかった。むしろ激しさ増す一方だった。

 その理由は、僕が彼女からもっと母さんを感じたかったからなのだが、彼女と接するたび言い知れない焦燥に駆られていたからでもあった。

 彼女は母さんではない。

 外で一緒に遊ぶと、泥団子作りがあまりうまくないことが分かって。一緒に宿題をすれば、僕の名前を漢字で書けなくて。一緒にテレビを視聴すれば、ちょうど放送されていた純愛もののドラマに熱中しなかった。

 そもそも僕が彼女を母さんと同一視できたのは、彼女が怒っている時だけだった。似ているとは言っても結局は別人なんだ。日常において相違する部分が大半を占めていた。

 彼女は常時怒髪天を衝く野蛮少女でもなければ、ヒステリックな情緒を持つ少女でもない。逆に僕の都合よく彼女がよく怒る人間であったとすれば、そもそも僕は彼女に母親を求めてはいなかっただろう。元々彼女が持っていた雰囲気が母親に似ていたからこそ、怒りにおいて彼女と母親が重なったんだから。

 事実、彼女の母親も彼女と顔が似ている。つまり、僕の母親とも似ていたわけだったが、朗らかな雰囲気が母さんとは全くの別物だったために、僕が少女へ向けた感情の流れはなかった。

 今とは違い盲目的に彼女を母さんの生まれ変わりであると断定した僕にとって、彼女と母さんの乖離は日を追うたびにみすみす放って置けるほど小さな問題では最早なくなってきていた。

 実像を覆い隠せるほどの虚像。俗に言う彼女の母さんっぽさを感じようと躍起になっていた。

 だけどその頃の僕にとって胸中にそんな思惑があるなんて考えもしていなかったし、原因も分からず、ただ胸をかきむしる焦燥感ゆえの行動だった。

 だから僕は自分の感情にかまけるばかり、推し量るべき一線を軽々と跨いでしまった。

 僕はある日、彼女が使用中のトイレに押し入った。

 木製の扉には鍵がかかっていたが、緊急時のためにロックの溝にコインを入れて回せば、簡単に開けられた。

 母さんに怒られたいから、叱って欲しいから、叩かれたいから。そして、募る焦りを拭い去りたいから。

 それだけのための行動だった。

 僕がトイレに入ると、彼女は驚いて、顔を真っ赤にして、俯いて、最後に泣いた。

 僕のおちゃらけた言葉に見向きもせず、顔を手で覆って、嗚咽を続けた。

 子供達の様子がおかしいことに感づいたのか、タイミングよく居住スペースにいた母親がかけつけた。

 彼女は足元のパンツもスカートも穿かず、やってきた母親に縋り付いて泣きじゃくった。とても取り乱して、言葉にならない言葉を吐き出すように声を上げた。

 彼女の母親は、そんな彼女の背中をゆっくりと擦って、落ち着かせるように声をかけていた。

 僕はそれをただ、ドアが開いたトイレの外側から眺めていた。他人ごとみたいに眺めていた。

 母さんはどんな時も僕の前では泣かなかった。でも彼女は泣いた。

 母さんは僕を抱きしめてくれた。でも彼女は抱きしめられていた。

 母さんは僕を護ってくれた。でも彼女は護られていた。

 母さんは母親だった。でも彼女は幼い子供だった。

 多くの相違があった。だけど、それだけだった。

 母さんと彼女の影は大きくずれていた。けれども、その程度で僕の曇った眼が晴れていたのなら、この日に僕がトイレに押し入ったりしなかっただろう。焦心はしても、改心はしない。だから、その差異はあの時の僕にとって注目する事柄ではなかった。

 その時、個室の外側にいた僕からは、ドアの枠が木製の茶色い額縁で、母子の大きな写真が壁に飾られているように見えていた。

 抱きしめ合う二人は家族として完成されていた。とても美しくて眩しくて、遠くて虚しかった。

 撮影者がフィルムに収めた写真に干渉できないように、目の前の繋がりを僕の意思で身勝手に書き換えることはできなかった。

 まるで平面に接しているように、その空間に見えない壁があるように、僕という人物が立ち入ることができない気さえした。

 ああ、これは僕が写る写真ではない。僕のではない、他所の家族の風景を切り取った一枚だ。

 確かにそう思った。そして彼女の側からは、額縁で切り取られた僕はどう見えるだろうかと考えた。

 右を見て、左を見て、振り返って。もう一度前を向いた。

 だけど、そこには誰もいなかった。僕が独りだけ佇んでいた。

 僕の写真は、僕しかいない。

 

 ――ああ、そうか。お母さんはもういないのか。

 

 すんなりと、僕はその事実を受け入れた。数ヶ月経っても認められなかった母さんの死を、その一瞬で受け入れた。

 それから彼女が少し落ち着いて、僕は騒ぎを聞きつけた父親から叱られた。とても長い説教になりそうだったけれど、母親がそれを止めた。

 彼女はショックが大きかったのか、その日それ以降僕の前に現れることはなく、時間も夕暮れに近づいていたので、僕はそのまま帰路についた。

 お祖母ちゃんの家の玄関を開けて、上履きを脱いで丁寧に揃えた。

 まず洗面所に向かって、手洗いうがいをした。それから、水分も取らず、僕は二階に新しく設けられた自室へ続く階段を上った。それなりに経年劣化した木製のフローリングを軋ませて、いつもより大きな足音を気にせず、木製のドアを勢いよく開いた。

 目に最初に見えた物が、以前まで住んでいたアパートで母さんの化粧台に置かれていた目覚まし時計だった。

 だから、それを手に取って、床に全力で投げつけた。

 大きな音を立てて時計は跳ね返る。背面のプレートが取れて、電池すらも弾け飛ぶほどの衝撃。

 普段は耳障りでしかないはずの騒音が、その時だけはとても遠くから聞こえた気がした。

 次に、母さんが入学を機に買ってくれた筆箱を壁に叩きつけた。

 マグネットの蓋が衝突で開き、鉛筆も、消しゴムも、四方八方に散乱した。壁から跳ね返って運良く足下に戻ってきた筆箱を、僕は再び遠くへ蹴り飛ばした。

 固い筆箱を全力で蹴った足先の靴下は、血で赤く染まっていた。けれど、全く痛みを感じなかった。心臓は痛いくらいに締め付けられているのに、きつく噛みしめた奥歯も、四肢も、麻酔を掛けられたみたいに感覚が鈍かった。

 ランドセルも、教科書も、手に取れる物は何れ構わず、どこも構わず投げ飛ばした。感情の赴くままに僕は、母さんとの思い出が詰まった物に手をかけた。

 大切な物のはずなのに、幸せな時間を共に過ごした物のはずなのに、母さんの優しさが詰まった物のはずなのに、それを通じて思い出が頭の中に蘇るたびに、胸が痛くて耐えられなくなった。僕はそれらを遠ざけることで、それらを壊すことで、この胸の苦痛から逃れたかった。

 でも、思い出の物が壊れていくたびに、背筋に悪寒が走った。二度と戻ってこない者と僕を繋ぐ、唯一の存在が失われる光景は、僕の心のうちにある理性に後悔と絶望を与えた。

 それでも、大切な人の死という事実に押し潰されてしまいそうな感情は、僕の体と心を蝕んで、視界に入る全ての思い出を消し去り、一時の安住を手に入れようとした。

 次の物に手を伸ばそうとするが、何かに抑え付けられて身動きが取れなくなった。だから、体を動かす変わりに僕は狂い叫んだ。

 どうして母さんがこんな辛い目に遭うのか、どうして僕の大切な人ばかりを奪うのか。

 目につく全てに、怒鳴り散らした。

 溢れ出る怒りを言葉にしなければ、自身さえ壊してしまいたくなった。母さんの隣にいながら、あの時何もできなかった自分という存在を殺してしまいそうだった。

 誰かの、何かのせいにすることが、僕が生きるための抵抗だった。

 母さんが産み落としてくれた、愛してくれた僕という存在を護る、僕にできる全てだった。

 それは数秒、いや数分、もしかしたら数十分以上続いたのかもしれない。

 息が乱れ、喉が痛くて、体中が疲労でいっぱいになって、我に返った。

 いつの間にか、僕はお祖母ちゃんに抱き止められていた。

 目前に広がる僕の部屋は、暴風にでもあてられたような惨状だった。元がなんだったかさえ分からない部品がいくつも転がっていて、学習机の椅子は、足が天井を向いていた。

 後ろから僕を抱きしめていたお祖母ちゃんは、涙を流しながら僕に何度も謝っていた。

 謝罪の上の枕詞を伺ってみれば、『ちゃんと言わなくて』、『死んだって伝えなくて』、『期待を抱かせて』と言っていた。

 僕は荒れ狂いながら、お祖母ちゃんにも暴言を浴びせていたんだろうと、後になって気付いた。

 まったく検討外れな怒りを、我狂うままに利己的な言葉しか受け取らなかった馬鹿な自分の言葉を、お祖母ちゃんは自分のせいだと悔いて嘆いていた。

 お祖母ちゃんが流す涙は、僕の肩に少し生ぬるい感触を与えた。

 だけど、僅かながらに通うその暖かさが、僕を思ってくれるその暖かさが、どうしようもなく温かくて、暴れたのにもかかわらず冷め上がっていた僕の体に小さな灯火を与えた。

 悲しみ、怒り、憎しみ。色々な感情が落ち着いていくのが分かった。

 開け放たれたドアの縁を見て思った。

 ――僕の写真にはまだ、お祖母ちゃんがいてくれた。

 僕は初めてその時、真摯に僕想ってくれていたお祖母ちゃんが家族であると認めた。

 

 ◇◇◇

 

 母さんの死を理解するようになって、僕は彼女を盲目的に求めることはなくなった。

 彼女に毎日会いに行っていたのは、僕が彼女を母さんの生まれ変わりだと信じ込んでいたからだ。現実を受け入れた僕がそんな誇大妄想に囚われ続けることはなく、トイレに押し入った日以来、彼女の家に行くことを辞めていた。

 そもそもこの時の僕は、これ以上彼女に関わるつもりがなかった。

 彼女は僕の大切な家族ではない。これからも毎日会って、生活に密接に関わることになるクラスメイトでさえ気に掛ける余地はないのだから、それより会う頻度の少ない彼女のことは、心底どうでもよかった。

 そんな相手に少しでも時間を掛けるより、家族であるお祖母ちゃんと一緒に過ごす時間の方がよっぽど大切だった。

 その日は、休日だった。

 僕は自室に置かれた低い高さのベッドで無気力に横になって、母さんのアルバムを眺めていた。

 母さんの死を受け入れた日から、僕は独りで一時間程度アルバムを眺めるのが日課になっていた。ふとした瞬間に、写真越しでもいいから無性に母さんに会いたくなっていた。

 お祖母ちゃんの話によると、このアルバム写真を撮ったのは数年前に亡くなったお祖父ちゃんらしかった。お祖父ちゃんの趣味は各地の名所を写真に収めることで、仕事が休みの日はよく写真を撮りに行くついでに家族旅行に行っていたらしかった。

 母さんが僕を旅行に連れ出そうと張り切っていた理由が、その話を聞いて何となくわかった。

 母さんのアルバム写真の最も日付が近いページは、ちょうど高校の卒業式で終わっていた。学生服を身に纏った愛想の悪い母さんが、黒色の筒を片手にお祖母ちゃんと写っていた。

 僕は毎回そのページに行き着くと、胸が痛くなった。それから先の母さんの写真がないことが、虚しかった。

 母さんと過ごしていた日々は、とても幸せなものだった。失ってから気付いたわけではないけれど、失ってからいろいろな後悔が押し寄せた。

 その一つが、失うための準備を何一つしていなかったことだった。

 大切な人がいつまでも隣にいるとは限らない。だから、その人との思い出一つ一つをちゃんと形として残すべきだった。

 もしお祖父ちゃんが残した母さんのアルバムが無かったらと想像すると、僕はぞっとした。

 僕の中で、すでに母さんの存在が色あせ始めていた。

 声も、表情も、匂いも、温かさも、出来事も、思い出せた。けれど、明瞭と言い切れるほどではなかった。それが嫌で思いだそうと意識すればするほど、その記憶はこぼれ落ちていく気がした。

 記憶の中の母さんは永遠ではない。僕自身が記憶できる限りしか、僕は母さんを思い出すことができない。

 自暴自棄になって母さんの形見の多くを投げて壊してしまったが、あの時に感じた悪寒は忘れられそうになかった。あれは母さんとの繋がりが失われていく感覚だったんだろう。

 アルバムだけは投げていなくて本当に良かったとほっとした。

 横になったままの体勢で、隣を見た。

 そこには少し前までホコリを被っていた一眼レフカメラがあった。カメラに興味を示した僕にお祖母ちゃんが譲ってくれた物で、それはお祖父ちゃんが最期まで愛用していたカメラだった。

 僕はこのカメラを使って、大切な人と過ごした日々を撮っていくことに決めていた。絶対にその人のことを忘れてしまわないように、その人が僕の元を離れてしまっても、後悔しないようにするためだった。

 といっても僕の大切な人はもう、家族であるお祖母ちゃんしかいなかったから、お祖母ちゃんだけを写真に収めていこうと考えていた。

 そんな昼過ぎの時間、訪問を告げる呼び出しチャイムの音が鳴った。

 お祖母ちゃんの家は、二人で住むには少し広い二階建てだった。僕の部屋は二階にあって、リビングの真上。

 階下の居間にいるお祖母ちゃんがインターホンへ返事をする声がフローリング越しに聞こえて、ほどなくして玄関の扉が開く音が響いた。

 お祖母ちゃんが誰かの来客を歓迎するような言葉が、小さいながらも部屋に届く。

 僕はお祖母ちゃんの友人でもやってきたんだと思った。

 けれど、訪れた足音がリビングに向かうことはなく、階段を上って、僕がいる部屋の前で止まった。

 ゆっくりと開いた扉の前には、僕と同い年の、ここ最近まで毎日のように見ていた顔がそこにはあった。

 グレーのティーシャツ、淡い水色スカートを穿いた少女の目つきは、いつも以上に鋭かった。

 明確に怒りの意思が伺えた。対象的に、僕は間抜けにも寝転びながら口をぽかんと開けていた。

 肩にまで届く黒い髪が揺れた。少女の像が次第に大きくなる。

 驚いて対応が遅れた僕が上半身を起こし終えた頃には、彼女は手の届くような距離にまで辿り着いていた。

 

「っ!?」

 

 彼女は上半身を起こす僕の襟元を勢いよく掴んで押し倒した。

 僕に覆い被さるように影を落とす彼女。その顔はとても距離が近くて、睫毛の本数さえ数えられるような気がした。

 交差する視線は数秒の時を経ても、互いに相手の瞳から外れることはなかった。けれど、次第に彼女の瞳が揺れていくように見えた。

 

「なんで……、なんで会いにこないのっ」

 

 彼女は絞り出すように、あるいは吐き出すように言葉を紡いだ。

 僕は一瞬、彼女が何を言っているか分からなかった。少しして、その意味を飲み込んでさえ、戸惑った。僕が予想した怒りの矛先とは、全く見当違いな方向に怒りが向いていたからだ。

 僕は、彼女がトイレを覗かれたことに対して未だに怒っていると思っていた。きちんと謝罪にこない僕にしびれを切らして、直接文句を言いに来たのではないかと考えていた。

 しかし、実際に彼女が語った言葉は、ただ僕が彼女の家を訪れなくなったことへの怒りだった。

 

「えっと……」

 

 すぐに言葉が出なかった。

 別に彼女との距離が近すぎて落ち着かなかったからではない。別に予想しない言葉に驚いたからではない。

 僕は素の自分で彼女と向き合ったことがなかった。だから、どういう態度で接するか少し迷ったのだ。

 彼女と出会い、僕は怒る彼女に母さんを重ねた。そして、彼女に母さんの代替を求めた。

 それは逆に言ってしまえば、彼女に怒ってもらう以外で、母性的な繋がりを感じることは不可能だったということだ。

 僕がいくら彼女を母さんの生まれ変わりだなんて妄想を抱こうが、結局は同年代の子供という接点しか無い。

 僕と彼女は結局他人だった。母子のような関係性を築くことはできない。いくら愛を語ろうとも、表現しようとも、あの厳しくて、優しくて、包み込んでくれるような愛が返ってくることはない。

 母さんに母親以外の繋がりで接する。大人になればそんなこともあるだろうが、子供である僕にとっては、途方もない難題であった。そもそも、その関係は僕の求めるものとはかけ離れていた。

 だから、僕は元々母さんとのやりとりでありながら、母子の関係では珍しいやりとりであった変態的言動でしか彼女と関わることをしてこなかった。

 いつも道化を演じていた。そうしなければ、僕は彼女に母さんを感じられなかったし、彼女が母さんとどんどん乖離していくからだ。

 でも、もうその必要はなくなった。彼女は母さんではないんだから。

 ならば、いつも他人に接するように言動を変えれば良かった。代替の利く相手に接するようにすればいいだけだった。名前も思い出せなくなった託児所の人達のように。顔も覚えていない前の学校のクラスメイトのように。母さんがいなければ遊ばなかった公園の少女のように。

 僕の大切は家族だけなんだから。それしかいらないんだから。

 けれど、それがうまくできなかった。

 理由は単純だ。数ヶ月間続けて習慣になっていた言動が、無意識下で簡単に制御できるものではなくなっていたからだ。もしかしたら、彼女と母さんが似ているという点も、言動の切り替えを手間取らせる一つの要因だったかもしれない。

 僕が愚図ついている姿を見て、彼女が僕の感情をどう捉えたのかは分からない。

 鼻をすする音が聞こえた。

 彼女の瞳を揺らしていた水気はいつの間にか瞼を超えて、頬を伝う涙として流れ落ちていた。

 母さんと似ている冷淡で無愛想ないつもの表情と違って、眉間に皺ができていた。唇を噛み締めて、まぶたを不細工に歪めていた。

 

「……かってについて来たのに、かってにいなくならないでよ。……いっしょにいたのに、ひとりにしないでよっ」

 

 まるで迷子になってしまったかのように、彼女は寂しさに肩を振るわせていた。

 普段は冷淡に見える彼女が、その本心を包み隠さず僕に訴えた。

 彼女は、僕という迷惑な人間と一緒にいることを嫌がっていなかった。それは彼女と接するうちに分かっていたことだ。

 しかし、彼女が涙を流してまで僕と離れたくない理由が分からなかった。

 彼女と共にいた数ヶ月の間に、僕が彼女に与えられたものなんて、皆無に等しいはずなのだから。

 なぜか、唐突に、胸が痛くなった。

 彼女を見ていると、なんの関係もないはずの母さんとの思い出が次々に脳裏をよぎって、胸が痛くなった。

 別に、目の前の少女が母さんと似ていたからではない。

 彼女の姿が自身の鏡を見ているかのようで、心の中の隠しきれない自分が、鏡越しの目前にいる気がしていたからだ。

 僕は独り寂しがる自分を彼女越しに見て、ずっと見ないようにしていた感情を見せられていた。自分が母親と共にいられないことにどれほどの寂寥と孤独を感じていたのか、その表情を見て思い出してしまった。

 頬を伝う彼女の滴が僕の胸元に落ちると、僕の中に膨大な寂しさが広がった。

 目の前の少女の輪郭がぼやけだした。瞳の周りがとても熱かった。

 泣きたくなかった。

 僕にとって涙を流さないことは矜持のようなものだった。涙を流すことはとても「頼りない」ことで、自分の名前の由来を知って以来、その行為は自分に相応しくないと思っていた。

 でも、何度拭っても、目を瞑っても、歯を食いしばっても、涙が溢れだして止まらなくなった。

 母が死んだことをちゃんと認識したあの日でさえ、抱き合う母子を見ても、涙を流す祖母の傍らでも、僕は決して泣かなかった。それは僕の心が強いからだと勝手に思い込んでいた。

 だけどそれは、僕が抱えていた怒り、後悔の感情を隠れ蓑に、寂しさを覆い隠していただけだった。胸に溢れる最も大きな感情――寂しさを忘れることで、虚勢を張っていた。胸の痛みを抑えるための、悪足掻きだった。

 けれど、気付いてしまえばもうこの感情に歯止めが利かない。

 母さんはもういない。母さんとご飯を食べることはできない。母さんと手を繋ぐことはできない。母さんと一緒に勉強することはできない。母さんと一緒に買い物に行くことはできない。母さんに怒られることは、もうできない。

 あの匂いも、あの声も、あの温かさも、決して戻ることはない。

 僕達二人は、互いに泣きあっていた。

 僕は父さんが出ていってしまったあの日のように、大きな声を上げて涙を流した。

 いつの間にか僕の胸元に顔を埋めるようにして泣く彼女を強く抱きしめて、肩を震わせた。

 回した腕に目一杯の力を込めていて、小さな体を押し潰してしまいそうだった。でも、力を抑えられそうになかった。

 僕の胸元で強く握られた彼女の手も、僕の肌を巻き込んで服にしわを作っていた。

 胸に引っ掻かれたような痛みを感じた。でも、それがどこか嬉しかった。

 お互い訳も分からず、理解もなにもしていなかったと思う。

 全く違う理由で泣いていて、彼女には彼女の涙を流す理由があったんだろう。

 だけど、どうしてか僕は彼女の音を聞いてさらに涙が止まらなくなって、彼女も同じように僕の声に涙を流した。

 彼女から感じる匂いや体温は母親からは遠く離れていて、尚更寂しくなった。けれども、それでも、僕は彼女が大切に思えた。

 それは、理性とは裏腹に僕が彼女を家族と見做してしまっていたからだろう。

 僕が向けられる愛は、家族愛だけだ。家族以外に大切だと想う人は存在しない。

 家族という条件の上でしか愛情を向けられない。小学二年生までに経験したことが、そういう人間性を僕に寄与した。

 亡くなった母親の面影を性懲りも無く重ねていた。だから、他人であるはずの彼女が大切に想えてしまった。

 そうでなければ、この感情に説明ができなかった。

 独りになりたくなくて、独りにしたくなくて。

 僕が感じた痛みをこれ以上彼女に感じてほしくなくて、僕もこれ以上そんな彼女を見たくなくて。

 だから、僕は分不相応に彼女へ愛を語ることにした。僕が用いられるたった一つの愛情で、彼女の寂しさを覆い隠そうと思った。

 抱きしめていた手を動かして、頭の隣に置かれたカメラを取った。

 僕の動きに気付いて、彼女が顔を上げた。

 僕が言えたことではないが、その顔はなんとも無残だった。目が真っ赤に腫れていて、涙を擦り付けたように頬が濡れていて、鼻水も垂れていて、前髪もぐちゃぐちゃだった。

 整った顔が崩壊した様に、僕は空気も読まず笑った。

 自分の顔見られて笑われる。そんな不快な行為をされれば、彼女の顔が不機嫌になるのは当然だった。

 彼女が文句を言おうと突き出した唇を開こうとしたが、僕はそれより先に、彼女の視界に入るように手に取ったカメラをひらひらとして注目させた。

 僕の意図が分からなくて左右の眉が不均衡になった彼女を確認した僕は、カメラをゆっくりと動かした。

 彼女の視線がカメラを追いかけ、辿り着いたのは彼女の下半身近くだった。

 その時、彼女の上半身は少し高さのあるベッドの上いる僕の胸元にあって、下半身は女の子座りで床に座る状態だった。

 彼女が履いている淡い水色のスカートは比較的短く、床と完全に密着して下着を覆い隠すほど長くはなかった。

 だから僕は、カメラのレンズをスカートが写せる位置に動かして、シャッターを切った。

 パシャッ。

 小さな音が部屋を反響した。

 ぽかんとした彼女に向かって、僕は嬉しそうに笑った。

 

「いとしいリンちゃんのパンチラしゃしん、ゲットだぜ」

 

 僕は初めて彼女の名前を呼んだ。僕の唯一の愛が、孤独に苦しむ彼女と僕を救うと願って。

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