渋々   作:十郎

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約一年ぶりの更新です。大変遅くなりました。続きを楽しみにしてくれた人や、感想を書いてくれた人には、本当に申し訳ないです。


09 ずる休みと臆病と大切

 私――渋谷凛があの変わった幼馴染みと最初に出会ったのは、日差しが強く照りつける夏の公園ではなかった。

 一度も会ったこともない親戚の葬式――アイツの母親の葬式に参列した時が最初だった。

 葬儀場で初めて出会ったアイツは、まるでまどろみの中にいるみたいに呆然とする、無口で無表情な少年だった。無造作に伸び始めていた茶色の前髪は、眉よりずっと下まで届いてて、その奥にある切れ長の大きな両目は、私よりも鋭かった。

 私を挟むようにして立ってる喪服姿のお父さんとお母さん、アイツの手を握るお婆ちゃんが向かい合って、挨拶と共に今後のことを少し話してた。

 私の立場から見れば、義理の大叔母にあたる人――お婆ちゃんのことは、アイツに会うずっと前から知ってた。東京に住んでない祖父や祖母と違って近所に住んでるから、時々家に玩具を持ってきてくれて、無愛想で受け身な性格が災いして学校の友達ができない、いつも独りぼっちだった私と遊んでもらってたからだ。

 大人達の話を聞いてると、この葬儀はアイツの母親のために執り行われたもので、一緒に暮らす親を失ったアイツは、これからお婆ちゃんと生活していくらしかった。

 お父さんとお母さんがアイツに話し掛けてたけれど、アイツは焦点の合ってない瞳孔を向けるだけで、なんの言葉も発さなかった。条件反射みたいに名前を呼ばれた方向には振り向いていたけれど、意思の疎通を受け付けない。

 お父さん達は、母親を失ってしまった哀れで可哀想な子供に同情したんだと思う。ほとんど反応を示してくれないアイツに視線を向けながら、一同悲しそうにその顔を歪めてた。

 けれど幼い私には、アイツの空虚な目が、感情を伴わない顔が、大きな人形みたいで怖かった。相手の肌に触れていないのに、生きている人が持つ血の通った温かさがないように感じた。

 結局、その日のそれ以降に、私とアイツが向かい合うことも、言葉を交わすこともなかった。近付いたのも、挨拶を交わしたこの時の一度だけだった。

 だから、一人で遊びに行った夏の公園で、場違いに寝転ぶアイツを見つけて、幼い私がすぐに葬式で会った男の子だとわかったのは、葬儀場に同年代の子供がアイツしかいなかったこと、あんな顔をした人を生まれてこの方見たことが無かったこと、それが理由だったんだと思う。

 そして、今よりもっと不器用で人に積極的になれない私が、アイツに声を掛けられたのは、あの日見た生気の抜けた顔の少年が、下手すれば生死に関わるような猛暑の中で横たわってる姿を、無視することができなかったからだ。偏に、優しいお婆ちゃんが慈しむように話し掛けてた少年を見て見ぬふりして、後々強い罪悪感を抱きたくなかったからだ。

 私は人並みよりもずっと少ない勇気を精一杯振り絞って、倒れるアイツに近付いて話し掛けた。

 二度目に会ったアイツは、私のことを何一つ覚えてなかった。

 だけど、以前とは違って笑えるようになってた。とても感情豊かで、会話のたびに表情がころころと変わる。私よりも冷めた印象さえ与えそうなつり目なのに、無愛想な私と違って、相手に与える印象が全然違ってた。

 会話を交わすうちに、私はアイツがすごく変わった男の子だと知ることになった。

 アイツは何日もずっと、その公園で寝転んでたらしく、心配する私がどうしてか尋ねると、捉え所のない素振りで、遠回しな言い方ではぐらかしくる。アイツからヒントを貰いながら、真剣に考えてもその理由は全然分からない。

 結局、音を上げた私はアイツに頼んで、答えを教えてもらうことにした。

 すると、アイツは寝転んで私のスカート覗きをしてたと赤裸々に語り出した。

 寝転ぶ理由を散々勿体ぶられて、私が頭を悩ます節々で感情を逆なでするような態度をされて、私は少し気が立ってた。独特な言い回しや、態々煽るように嬉しそうな顔になるアイツを見て、そのセクハラ行為にとても腹が立ってきて、アイツの頬を勢いよく叩いた。

 猛暑と呼ばれる日中、アイツは強い太陽の光で暖められた日向の土の上で、ずっと寝転んでた。脱水で、熱中症にでもなってたのかもしれない。私が頬を叩いただけで、アイツは地面に横たわったまま、意識を失ってしまった。

 私は自分がしでかしたことに慌てて、近寄ってアイツの体を揺すって声を掛けるけれど、全く反応がなかった。

 周りには私達以外の子供が遊んでたけれど、倒れるアイツやその隣で泣きそうになってる私を、誰も心配して声を掛けてくれなかった。

 たぶんアイツは、私が声を掛けるずっと前から、この公園で心配する相手に飄々とした態度で接し、セクハラを行ってたんだと思う。だから、誰もアイツと関わろうとしないし、アイツに近づこうとしなかった。当時の私には小さな違和感を抱くだけで、どうしてか分からなかったけれど、アイツと小学校が同じ友達から、その頃のアイツの逸話を聞いて理由が分かった。

 こんな事態に遭遇したこともなければ、対処の仕方も学んでない。

 自分から周りに助けを求めることができたら良かったけど、消極的な性格が動揺という感情に支配されて、視野が狭くなってた私には、そんな選択肢が元々頭の中に存在しなかった。

 だから最初に助けを求めたのは、当時から自分の中で一番頼りになる存在――お母さんだった。

 もしもの時に渡されてた小銭を持って、近くの公衆電話に駆け込んだ私は、お母さんに電話を掛けた。その後は、汗を掻いて倒れるアイツを木陰に引っ張って、祈るように目を瞑って、隣で待つことしかできなかった。

 結局、アイツはお母さんが来る前に目を覚ました。

 突然、「喉が渇いた」と言って起き上がると、隣に三角座りで顔を伏せる私に気づかず、すぐに公園に設置されたトイレに歩き出した。

 心配して後を追いかけると、アイツはトイレの洗面所で何度も何度も手で水を掬い上げては飲んでた。

 洗面ボウルは、他の子供が汚れを落とすために使ったのか、泥だらけで滅茶苦茶。年季が入った汚い水栓は、管の出口周りさえも錆びの変色が目に付く。小学二年生と幼い年齢でも、飲み込むことを躊躇するだろうその場の水を、アイツは口に流し込んでた。

 私の目には、喉を潤わすことに必死でその水を気にしないのではなく、ただ体に気を遣ってないだけに見えた。だってアイツは、水を飲むというそれだけの行為を、酷く面倒くさそうに行ってたから。

 私は男子トイレの前に立ってたという事すら忘れて、「汚いから、飲まない方がいいよ」と、無意識にアイツへ声を掛けてた。

 すると、アイツは酷く気だるそうに私に顔を向けた。

 少し目を見開いて、「夢じゃない」と小さく呟くと、蛇口の水を掬い上げるのを止めた。そして出会った当初より、ずっと慈しむように、愛おしむように――。

 

「――おこられたことなかったから、わるいことだって知らなかったんだ。これからはもうしないよ、お母さん――」

 

 ――そう、私に言葉を返した。

 お母さんが公園に来てくれた後、アイツは気分も体調も良好だったから、病院に連れて行くほどの大事には至らなかった。とりあえず近くにある私の家でちゃんとした水分を取って、ご飯を食べる程度の看病とも言えないものを受けたくらいだった。

 でも、それからのアイツは、なぜか毎日私の家に来るようになった。

 一緒に遊んで、一緒に勉強して、よくおかしな言動で悪戯してきながら、時たま私を満開の笑顔で「お母さん」と呼んできた。

 当時の私は、なぜ私をそう呼ぶのかアイツによく問いかけた。だけど、アイツは嬉しそうに笑って、要領の得ない返答ばかりを口にして、時には私の質問自体無視した。

 アイツにいくら問いかけても納得のいく答えが返ってこなくて、私はお父さんとお母さんに相談した。子供の自分に分からなくても、大人の両親なら分かると思ったからだ。

 そうして、実情を知る二人の口から、アイツが私に母親を重ねていることを知った。

 アイツの母親は、お父さんとお母さんの従姉妹で、私と顔も雰囲気もよく似ているからだと、そう説明された。

 相談された二人は私に、嫌なら大人から止めるように話をしようかと提案してきた。

 私は首を横に振った。

 昔の私は、一緒に遊ぶような親しい友人が誰一人いなかった。無愛想な所や、会話に積極的になれない部分が祟って、クラスメイトに馴染めずにいた。

 話しかけてくれる親切な同級生も最初はいたけど、いつの間にか私よりずっと仲良しな人と遊ぶようになって、緊張や不器用で素っ気なくしてしまう私に声を掛けてくれなくなった。自主的に会話の輪に入ることが苦手な私には、休み時間に遊びに向かう彼女達を追いかけることができなくて、席に座ってずっと空を眺めたり、本を読んだり、一人でブランコを漕いだりして、退屈を凌いでた。

 そんな寂しいのにいつも独りぼっちで、でも現状を変えるほどの勇気が持てなくて、他人からの好意も禄に受けなくなってた私にとって、悪戯をされても自分に絶大な好意を向けて、いつも私を追いかけてくるアイツと一緒にいることは、決して嫌ではなかった。

 自分の不器用で言葉足らずな部分も気にせず、顔や声が無愛想になってしまっても、笑って隣にいてくれるアイツに救われてた。その行動に伴う感情が、間接的で偽物なのだと知ってしまっても、構わないくらいに。

 むしろ、偽物でも良いからもっと自分を好いて欲しくて、アイツの母親に近付くために、よくお母さんやお婆ちゃんに話を聞いてた。

 最初はそれだけが目的だったけど、次第に自身と似てる人の話を聞くこと自体が、好きになっていった。

 趣味や好み、性格がどうだったか、どんな人生を送ってたのか。

 私はアイツの母親を知るたびに、自分とどう違うのか、どこが同じなのかを比較して、果ては自分の未来を想像してた。

 アイツの母親は大学生の時に、両親であるお婆ちゃん達と仲違いしたらしかった。本当に激しい喧嘩だったようで、ほとんど絶縁のような状態にまでなってしまったらしい。

 だからお婆ちゃんや、家族ぐるみで仲の良かった従兄弟のお父さん達とも、アイツの母親はほとんど連絡を取らなくなってしまった。

 その後の生活を、アイツと共に過ごしてきた日々を、私の周囲にいる人達はほとんど知らなかった。アイツと母親がどういう関わり方をしてきたのかは、よく分からなかった。

 それでも具体的な人物像は私の中で出来上がってきてて、アイツの母親を頭の中に思い描くたび、私はその人とは乖離した別人であることを強く感じた。そして、アイツが母親に向ける好意の分け前を貰ってることに、少しの罪悪感と申し訳なさを胸に抱いた。

 アイツの母親について知りすぎたせいか、私はアイツの様子の変化にも鋭敏になっていった。

 アイツと一緒にいる時、母親とは顕著に違う行動や態度を私がすることはよくあった。別人なんだから当然だけれど、知識を得てそれを認識するようになってから、私はそういう時のアイツが決まって顔を曇らせてることに気付いた。まるで現実を思い出したみたいに、シンデレラの魔法が解けた見窄らしい本物の私を見てしまったみたいに、酷く打ちひしがれた表情を見せてくる。

 一度気付いてしまえば、目に付いた。アイツのその顔を見るたびに、躍起になって似るように意識した。

 ロングにしたいと思っていた黒髪も、アイツの母親に似せて、肩口に届く程度の長さになるように切った。泥団子を上手に作れるように必死になって練習して、爪先にはいつも泥が詰まっていた。「護」なんていう、小学二年生にとっては画数が多くて、左右のバランスが取りにくい漢字も、綺麗に書けるように何度も学習帳に記した。幼くてよく分からない純愛物の漫画も、お気に入りだった犬の貯金箱を壊して、古本屋に買いに行った。

 わざわざスカートを選んで穿いて、恥ずかしかったけどアイツが悪戯しやすくしたりもした。悪戯して私に怒られてる間は、比較的アイツは悲哀を見せなかったから。

 今考えると馬鹿だったと思うけれど、当時の私は、自分を好いてくる他人に飢えてた。

 家族は私を無償で愛してくれる。

 お父さんはどんな私も褒めてくれて、学校の行事でも、他のクラスメイトがどれだけ私より優秀でも一番だと称えてくれた。

 お母さんは、私がどれだけ無愛想に接しても、笑って支えて、私が理由も言わず泣きだしても、隣に寄り添って抱きしめてくれた。

 どんな自分でも崩れることがない盤石な家族愛。私は学校では独りぼっちだったけれど、家ではとても恵まれてて、十分以上に幸せな立場だった。

 けど、学校の誰からも好かれない自分でも、家族は愛してくれるからこそ、それは誇りや自信には繋がらなかった。

 自分が自分である意味が分からなかった。もし自分の立場が赤の他人と入れ替わっても、あの優しい父と母ならば、温かく受け入れてしまうんじゃないか。そんな不安に毎日押し潰されそうだった。

 自分がこの家族の元に生まれたのは運命なのだから、そんなもしもの話をする必要なんてなかったのかもしれない。けれど、この繋がりが運だけのものだなんて、そんな空虚なものだなんて思いたくなかった。

 家族でなければ愛されない存在なのか不安だったから、他人からも好かれる自分でありたかった。

 他人からの愛情を求めて、自分ではない誰かを演じる。目的と手段をはき違えた本末転倒な行動かもしれないけれど、私はその時、確かに満たされてたんだ。他人から好意を向けられない私が、他者に似せるだけで、他人から誰よりも愛される存在に、生まれ変わることができたから。

 薄くても血の繋がったアイツを、決して「はとこ」という血縁関係ではなく、その枠組みから外れた「幼馴染み」だと表現するのは、この頃からの癖だ。アイツは私にとって、出会った時から今の今まで、身内ではない単なる他人という存在だからだ。

 それだけに、独りぼっちで不安だった日々から私を救い出してくれたアイツが、悪戯をして私が泣いたくらいで、家に来なくなったことが辛かった。

 放課後家に帰ったら、白いソファーに座ってテレビを見ながらアイツが姿を現すのを待って、毎日ずっと待った。

 一週間待った。

 二週間待った。

 でも、いくら待っても私が座るソファーの隣は冷たいままで、あれだけ身勝手に私の側にいて、あれほど温かくて甘い感情を植え付けた存在は、まるでそれまでの出来事が夢だったみたいに私の前から消えた。

 だから、私はアイツの家に押しかけた。

 落ち込む姿を見かねたお母さんに毎日励まされたおかげでもあったけど、胸のうちに燻り続けた想いが、受動的な私さえも動かしてしまう原動力だった。

 玄関を開けたお婆ちゃんに手早く挨拶を済ませて、私は二階に続く階段を少し駆け足で上がり、アイツの部屋の扉を開いた。

 視界に入ったアイツはベッドの上で寝転んでて、大きな本を読みながら、ぐうたらしてた。

 私が寂しさと孤独に苦しんでる間、張本人は何でもないようにのんびりしてることに、どうしようもなく腹が立った。

 私に忘れられないくらいの沢山の好意を与えるだけ与えて、アイツが望むような人物になれるように鼓舞させたくせに。自分にできる限りの努力をあんなにしたというのに。アイツにとって私は、路傍の石ころを扱うくらい呆気なく簡単に見捨てられる存在だと、そう示されている気がして、心臓が痛いくらいに締め付けられた。

 足音を立てて近付くと、アイツは慌てて上半身を上げて、何事かと私を見てくる。

 私はそんなアイツの胸倉を掴んで、自分の上半身の体重を乗せたまま勢いよく押し倒した。

 

「なんで……、なんで会いにこないのっ」

 

 言いたいことは、待ち続けた二週間の内にいっぱい考えてきたのに、その時に吐き出せた言葉は少なかった。色々な激情で胸の中が一杯のはずだったけれど、そのどれもが喉を通って飛び出してくることはなかった。

 近づいたアイツの顔が、どこか遠くに離れてしまいそうな存在が目の前にあって、頭も体も全部、寂しさに塗り替えられてしまう。

 結局私が言葉に出来たのは、その一つの感情から生まれた言葉だけだった。

 それでも、私がアイツの家に訪れた理由を簡潔に伝えられたはずだった。

 けれど、アイツは私を戸惑ったように見つめるだけで、呼吸のついでみたいな音を吐き出すだけ。いつもは五月蠅いくらいお喋りで、馬鹿みたいに構ってくるのに、肝心な時だけ黙ったままで、言葉を返してくれなかった。

 なんでだろうと思った。なんでそんな酷いことするんだろうと思った。

 無遠慮に踏み込んできて、隣にいることが当たり前みたいな顔してずっと一緒にいて、愛情一杯の暖かい眼差しと言葉を向けてくれたのに、この時になって、まるで興味の無い他人と相対したようなその冷たい対応が、ただ悲しかった。

 視界がぼやけた。でも、その時は詰まる喉も、震える唇も無視して、感情をぶつけたかった。

 

「……かってについて来たのに、かってにいなくならないでよ。……いっしょにいたのに、ひとりにしないでよっ」

 

 アイツの顔がよく見えないくらい、視界は水分に覆われ霞んでた。でも、瞼では留めきれなくなった涙の感覚と共に、少しだけそれは明瞭になった。

 気づけば、いつの間にかアイツも泣きそうになってた。震える唇をきつく閉じて、眉間に何本も皺を寄せて、必死になって我慢してたけど、結局その目から溢れ出るものを抑えきれなくなって、大粒の涙が何度も零れだした。初めて見る泣き顔は、幼くも端正な顔つきの割に、とっても不細工で、いつも飄々とした態度から思い起こせないほど、弱々しかった。

 そんな姿を私の前で見せてくれたことが、言葉にならないくらい嬉しかった。同時に少し悔しくもあった。その顔は、私がアイツの大切な人に重なり切らない時によく見せる、悲しい表情の延長線上にあったから。

 私はまだ必要とされてて、でも、私という存在は必要とされてない。

 ごちゃごちゃに混ざり合った感情は、半分涙に変わった。残りの半分は、声と嗚咽になって口から漏れ出した。

 いつの間にか私とアイツは抱き合って、ベッドの上で泣いてた。

 私のことを顧みないアイツは、痛いほどにきつく抱きしめてきたけれど、それでもその体はとても温かくて、決して嫌ではなかった。応じるようにアイツのシャツの胸元を強く握ると、答えるように腕に力を込めてくれる。

 私が愛される存在だと、強く実感させてくれた。

 その時の私は、ただそれだけで満足してた。偽物でもなんでも、アイツが自分を必要としてくれるなら、構わないと思ってた。

 他人に好かれたい、孤独ではなくなるから。他人に好かれたい、家族に好かれる自分の証明になるから。

 この腕に包まれてるだけで、自分という存在が愛される者だと安心できる。その安心が得られるならば、私は自分という存在を上書きしても良かった。私が私であることなんて、些末なことだった。

 二人で泣いた後。

 アイツが体を動かす振動で、私は顔を上げて、茶髪の先にある鋭い瞳を見た。

 そこには、目が真っ赤になって、鼻水と涙でぐしゃぐしゃに濡れた酷い顔をしたアイツが、私を見て笑ってた。どうやら私の方も酷い顔をしてたみたいで、乗りかかるように接してたアイツの胸が、上下に揺れた。

 不愉快で文句を言おうと口を開く私に、アイツはいつの間にか持っていたカメラに注目するように手振りをした。

 よく分からないアイツの行動を不思議に思ったけど、次の行動で、何を意図したかが分かった。

 アイツは器用に腕だけを動かして、カメラで床に座る私のスカートの中を撮った。

 そして、悪戯っぽく笑って私に言った。

 

「いとしいリンちゃんのパンチラしゃしん、ゲットだぜ」

 

 私はその言葉を聞いて、呆然とした。

 別にスカートの中を撮られたことに、そこまで驚いたわけではなかった。その悪戯の珍しい所は、カメラを使った点だけで、これまでに経験した、お尻や胸や足などの体を触ったり、トイレを覗いてきたりするような、あからさまに度が過ぎたものではなかったし、アイツは気付いてなかったけれど、その手に持ったカメラには、レンズを傷つけないための被せ物が付いたままで、写真が撮れてないことは一目瞭然だったからだ。

 だけど、私にとって驚くべきことがただ一つあった。それはアイツが初めて私の名前を呼んだことだ。

 真夏の公園で、アイツが初めて私の存在を認識したあの日から、決して変えることのなかった「お母さん」という呼び名。

 それは、アイツが私をどういう相手として接してるかを知る動機になって、アイツの感情の機微を理解する足掛かりになった。もっとアイツから好かれたかった私は、次第にその存在を目標にするようになって、好きなこと、得意なこと、出来たこと、色々なことを真似するための努力を始めた。

 アイツの想いが詰まった「お母さん」という存在に縋り付いてた私に相応しい呼称。私とアイツの関係性を明確に示すはずのそれを、この時、アイツは口にしなかった。代わりに、今後一度たりとも、決して呼ぶことのないだろうと思ってた私の名前を呼んだ。

 染み渡るような幸福感が訪れた。心臓が飛び跳ねそうなくらい血流を流し込んで、胸を中心に胴体を通って、指先、足先、鼻先にまで温かさが巡ってく。

 多分、これが私の始まりだったんだろう。

 私が、私として、こんな曖昧な関係に頼らずに、他者に好意を向けられて、認められるような人間になりたいと思うようになった最初の切っ掛け。

 自分だけの何かが欲しかったのも、アイドルみたいな珍しいことへ踏み出したのも、私だけの何かで、他人の好意を得たい気持ちが、日々大きくなっていったから。

 全部ここから始まって、ここから小さく積み上げてきた経験の先に今の私がいる。

 だけど、この時に生まれた想いも、強くなっていく想いも、これだけじゃなかった。対照的なもう一つがあった。

 アイツの胸の中にいた私は、本当に幸せで、笑顔を浮かべそうになった。

 でも、アイツは怒られることを望んでたから、喜びを胸の中に押し込んで、溢れ出そうな感情を不器用に必死に覆い隠して、得意の無愛想な顔のまま、アイツの頬を両手で引き延ばすことにした。

 怒られてるにも関わらず、嬉しそうな顔をするアイツをよそに、私はいつもの日々が帰ってきたことに安心する。

 ずっとこの日々が続いていけばいい、なんて思いながら、アイツの頬をこねくり回した。

 痛いと唸ってるのに、その声は楽しげな様子で、泣いて疲れてしまった私は、もうずっとアイツの胸の上でその頬を引っ張り続けて、一日ゆっくりしようと考えてた。

 だけど、幸せそうなその温かい瞳に映る、無愛想な自分の小さな姿が、まるでこの時幸せの渦中にいた自分ではない別人みたいに感じて、悪寒が背筋を駆け抜けた。

 そこでふと気づいた。

 アイツが口にした私の名前は、私じゃない、別の誰かに呼ばれたものだということを。私は、自分の名前すら、自分ではない誰かの影に奪われてしまったということを。

 アイツが口にする「凛」という言葉にはもう、お父さんやお母さん、お婆ちゃんと同じように、私自身を指し示す意味は無かった。

 これが、私がアイツの母親と似ていることを忌避するようになり始める、母親と私を重ねるアイツから距離を取るようになり始める、最初の切っ掛けでもあった。

 

 ◇◇◇

 

「――凛? おーい、凛?」

「え、あ、えっ、なに?」

 

 特に意識することもなく、ただ視線の先にあった店内の花を眺めてた私の目の前で、こちらの注意を引くように、長く細い誰かの手が揺れた。

 驚いてすぐに顔を後ろに引いた私は、振り向く前に、その手の持ち主が分かった。

 生まれた時から耳にする溌剌としたその声を聞き間違えるはずもなく、視界に入る指先は、毎日の水仕事や花の手入れのせいで、乾燥して白く割れてしまってて、所々に切り傷がある特徴的なものだったからだ。

 顔を隣に向けると、予想した通り、椅子に座る自分を見下ろすお母さんが立ってた。セミロングの黒髪を後ろで纏めて、動きやすい黒のパンツと、襟に切れ込みが入った紫のTシャツの上に、私と同じく店員であることを示す青のエプロンを着てる。

 

「……ぼーっとしてたわよ。考えごと?」

「う、うん。……えっと、今年はアイツよく風邪引くなーって。四月に私がアイドルになるって大騒ぎする前も、三日間ずっと寝込んでたことあったから」

 

 水曜日の今日、私は風邪でバイトに来られなくなったアイツの代わりに、店員としてカウンターにある木製の丸椅子に座ってる。

 平日の放課後。まだまだ働きざかりの時間帯なためか、花屋に来る人は限定されてる。住宅街が近く、商店街に店舗を構える立地の関係上、この時間帯に花を買いに来るお客さんは、専業主婦の奥様か、定年退職したお年寄りの人達ばかりだ。

 加えて、今日は六月にしては肌寒い気温で、朝から雨が勢いよく降ってたせいか、いつもよりさらに客足は少なくなってる。

 店側としては暇になってしまうから、いつの間にか思考に気を取られて、周りが見えなくなってた。

 こんなことでは、「最近何かと忙しかったし、折角の休みをのんびり過ごしたら?」と、店の手伝いを遠慮するお母さんを押し切って、この場所にいる意味が無い。

 少し頭を振って、頭にこびりつく雑念を振り払い、気合いを入れる。

 カウンターから店の玄関越しに外の様子を確認すると、朝よりだいぶん雨脚は弱まってて、このままいけばもうすぐ止みそうな具合だ。

 傘を差さずに歩けるようになったら、ここまで足を運んでくれるお客さんも増えるだろうから、ちゃんと接客できるようにしないと。久しぶりに店員として働くからって、失礼な応対をするわけにはいかない。この店が好きになってもらえるように、相手の気持ちに寄り添う花が提供できるように頑張ろう。

 それに雨も止みそうだから、店番が終わったら、ハナコと散歩に行こう。

 最近は忙しくて時間が取れなかったから、お父さんやお母さんによく散歩を任せてしまってる。自惚れじゃなければ、ハナコは一番私の事を好きに思ってくれてるから、雨上がりの道を一緒に散歩したら、とても喜んでくれるはずだ。

 散歩コースの公園で、濡れた土の上を走られると、汚れを落とすのが大変になっちゃうけど、ハナコは体を洗われるのが苦手じゃないから嫌がらないし、そこまで気負う必要もない。

 私は、頭の中でこれからの予定を思い浮かべていき、それだけを意識するようにする。

 けれど幾ら取り繕おうとしても、落ち着くことができず、罪悪感は消えることがない。店の手伝いをし始めてから、気持ちの制御に何度も失敗し続けてる私は、小さなため息を吐いてしまう。

 自分だけで納めるつもりだった感情の漏洩を、隣にいるお母さんは拾い上げる。

 

「ため息なんかついてどうしたの? なにかあった?」

「ううん、なにもないよ」

 

 素っ気なく返したこの言葉は、真っ赤な嘘だ。今の私は、自分が平常心でいられないくらい悪いことをしてる。

 今日、私はアイドル活動を休んでる。それもずる休みをして。

 こんなの良くないって分かってるけど、346プロダクションへ向かう足が進まず、何かをしてないと落ち着かないからって、気を紛らわすために家で店の手伝いなんかをしてる。

 昨日は未央も、卯月も、どちらも仕事に来てなかった。

 未央がデビューライブで起きたプロデューサーとのすれ違いで、アイドルを辞めるかもしれない。そんな状況に、昨日の私は疑心暗鬼になってた。卯月はプロデューサーから風邪だと伝えられたが、電話しても繋がらず、もしかして卯月もアイドルを辞めようとしてるんじゃないかと、考えてしまってた。

 でも、連絡が取れなかった卯月からは、昨日の夜に本当に風邪であると連絡が来た。どうやら私が邪推してただけで、卯月は風邪で寝込んでて、ただ連絡が取れなかっただけみたいだった。

 ひとまずほっとした私だったけど、未央に関してはどうなるか分からない。今日も来てなかったら、未央は三日連続で仕事の無断休暇を取ったことになる。

 今それを実行中の私がいうのもおかしいけれど、それは仕事の責任を負う立場の人間として、やっちゃいけないことだと思う。家の手伝いをしてると、仕事上の約束事を大切にするお父さんの姿を、何度も目にしたことがあるから。

 どうしよう、今からでも行こうかな。

 どんな場所より安心できる家にいて、少し冷静な判断がきるようになると、自分がとんでもないことをしてる気になってきた。

 でも、未央が今日も来てないかなんて知りたくない。そもそも、これ以上アイドルを続ける自信がない。これ以上続けることに意味なんてあるのか分からない。

 私よりステージに立つこと、人を惹き付ける才能がある人なんて山ほどいて、卯月や未央の隣に立つこと自体、私では事足りない気がする。

 自分だけの取り柄が得たくて、自分だけの何かが欲しくて、アイドルになった。

 私がアイドルなんて、性格的に合ってないと今でも思ってる。けれど、レッスンや広告活動、ライブを通して、少しずつアイドル自体の楽しさを実感してきた。孤独だった幼い自分の影響か、多くの人に好意を寄せて貰うことが人一倍嬉しかった。私自身で、多くの人を笑顔にできることが嬉しかった。進むべき道だと、全身全霊を捧げられるほどに、夢中になれることだと思い始めてた。

 でも、そんな感情はデビューライブのあの日に、儚く消え去った。こんなに自信がなくなったのも、頑張る気が起きないのも、ライブの時にアイツがあんな顔を見せてきたからだ。

 

「凛、やっぱり変よ? なにかあったんじゃないの?」

 

 カウンター奥にある通路を少し進んだ先の作業場で、注文されたアレンジメント作りを先ほどまで行ってたお母さんは、一段落して少し時間が空いたのか、それとも新しい花材を探しにきたのか、今は店内の花を見回ってた。でも、カウンターに座る私の様子をおかしく思ったらしく、再び近づいて話し掛けてきた。

 自分はそんなに分かりやすい表情をしてたのかな。

 無愛想とよく言われる私の表情の機微に、お母さんは昔から聡い。カウンター越しにいるお母さんは切れ長の瞳を使って、私の気持ちを明け透けに捉えてるみたいに真っ直ぐな視線を向けてくる。

 

「……うん、まあ、ちょっとだけ」

 

 私は曖昧な言葉でお茶を濁した。具体的にどう言葉にしていいのか分からなくて、自分の気持ちを家族とはいえ、包み隠さず話すのが少し怖かった。

 私はお母さんから視線を逸らして、カウンターのテーブルの上で両腕を組んで、前傾にもたれ掛かる。

 私の返事から、数秒間、互いに沈黙を守った。店内ではバックグラウンドミュージックとして曲を流してはいないから、外の車道を走る車の音が、こちらまでよく聞こえてくる。

 口を開かずにいたお母さんは、ため息というよりは自分の気持ちを切り替えるように、一度素早く息を吐き出すと、いつも通りのあっけらかんとした声を発する。

 

「マー君と仲直りできそう?」

「……知ってたの?」

 

 降って湧いたような言葉に、思わず返答が遅くなってしまった。驚きで無意識に視線を上げて確認したお母さんの顔は、飄々としてて、感情がよく窺えない。胸中にある問題を指摘されて、明らかに動揺した態度を晒した私には、その姿が純粋に羨ましい。

 お母さんは、昨日私とアイツが仲違いしたことなんて知らないはずなのに、なんで、どうして知ってるんだろう。

 

「いやね。あんな大声で叫んでおいて、まさか下まで響いていないと思ってたの?」

「えっ? ……あっ」

 

 私はお母さんが言ってる事実を理解した。

 昨日の私は、アイツと話してた時に大きな怒声を上げた、この花屋の上階にある自分の部屋で。私の気持ちを冷たくあしらったアイツに怒り、階下ではまだ店の営業をしてるというのに、そのことを顧みられないくらい頭に血が上って、思いの丈をぶつけてた。

 昨日の叫び声がアイツだけではなく、お母さんにも聞かれてると知って、先ほどから続く陰鬱とした思考は、急激に羞恥心一色に染められる。

 そして、最悪の事態を想起してしまう。

 

「も、もしかしなくても、……お客さんとか、いないよね?」

「ううん、一人いたわよ。もうね、私も、お客さんも、店の奥で作業していたお父さんも、皆で飛び跳ねたわよ。いきなり天井から大声が響き渡ったんだもの。……あっ、でも気にすることないのよ。その人は常連の方だったから、笑って許してくれたわ。むしろ凛の力の籠もった怒声に、『いつもクールな子が怒ると怖いわぁ』って、私達の中でギャップに一番驚いてたくらいだし」

「うわぁ……」

 

 私は組んだ腕を枕にして、テーブルに火照った顔を伏せた。

 昨日のあの時間に来る常連のお客さんで、語尾を少し伸ばしたような喋り方する人というと、最近娘さんがご結婚された、恰幅の良いお喋り好きなおばちゃんだと思う。結構昔からの顔見知りだし、次会った時、どういう顔して接客したら良いかわからないよ。

 お母さんは、顔を伏せて、心中悶える私の状態を気にすることなく、耳元に口を近づけて言う。

 

「それで、マー君と仲直りしに行かないの? 今日はアイドルの仕事、ずる休みまでしてるのに」

「……なんでそれまで知ってるの?」

 

 私は内心で愕然とした。羞恥を覆い尽くすように広がる後ろめたさで顔を上げられず、机と体に挟まれたくぐもった声で問いかけてた。

 

「さっき電話が掛かってきたのよ。プロデューサーの人から、『渋谷さんが時間になっても来られないのですが、何かありましたか?』って。だから、『ずる休みです』って答えといたわよ」

「うわぁ……」

 

 自分の知らないところで、最悪な出来事が二度も起きてしまった。私は腕枕を解いて、その腕を使ってテーブルに突っ伏す自分の頭を抱える。

 だけど、いつの間にかカウンターの内側に回り込んでたお母さんは、そんな私の肩を掴んで、強い力で上体を無理矢理起こさせた。少し慌てた私の顔を手で挟んで、お母さんの方を向かせてくる。

 中腰になったお母さんの顔は目の前にあって、その表情はいつもの朗らかな様子と違い、とても刺々しくなってる。

 

「凛には凛の事情があるかもしれないけれど、仕事を投げ出すなんて、責任感の無いことは今後絶対しないで」

「…………え?」

 

 小さな吐息のような声しか出せなかった。

 

「あなたが働いているのは、お父さんや私がいる、ここじゃないの。必ず誰かが後ろで支えてくれて、全身全霊であなたを護ってくれる場所じゃないのよ。……どんな小さな失敗でも、どんな小さな過失でも、たとえずる休みでも、怒られただけで、最後は全部帳消しになんてならないわ。積み上がった負の結果や信頼は、いずれ自分の身に降りかかるわよ。あなたがアイドルとして働く限り、未成年であっても、自己責任で、一人の大人として自立した振る舞いをしなければならないの。少しでも甘えた考えがあるのなら、今日で改めなさい」

 

 叱るお母さんの顔が真っ直ぐ見れなくて、目を逸らした。

 そうだった。なんで、そんな単純なことが分からなかったんだろう。お父さんやお母さんの働く姿を隣で見てきて、その手伝いをしてきて理解してるつもりだったのに、どうしてこんなに甘く考えてしまってたんだろう。

 私がしてるのは、お金を貰う仕事なのに。多くの人が関わって、大きな投資があって、私にはアイドルという立場があるのに、まるで学校生活の延長線上みたいな気分が抜けてなかった。

 私が所属するシンデレラプロジェクトメンバーは、これからユニットを組んで続々とデビューしていく。

 一番手としてデビューした私が、こんな身勝手な態度で仕事に臨めば、私よりずっと大きな想いを抱えて、何年も努力してきた他のメンバーの印象も悪くしてしまう。もしかしたら、成果を期待できないとして、プロジェクトそのものが畳まれてしまって、彼女達の先行く未来を、努力そのものを水の泡にしてしまうかもしれない。

 それは、私をこの道に誘ったプロデューサーにだって同じことが言えて、現状に満足できてなかった自分に、不器用だけど精一杯向き合ってくれた彼に、申し訳が立たなくなってしまう。

 未央が落ち込んで仕事に来られなくなった今だからこそ、沢山の繋がりの上で成り立つ自分達の立場を、しっかりと護り続けられるように、精一杯出来る限りの努力をしなければならない。

 それが私のやるべきことだったはずなのに、私はなんで、自分の一番安心できる場所に逃げ込んでしまったんだろう。

 もうしたい、したくないなんて話じゃなかった。しなければならない、そういう義務と責任があるはずなのに、私は身勝手に自分の感情を優先するばかりで、本当に何も理解してなかった。

 なんて幼稚な考えで、動いてたんだろう。

 目頭が熱くなる。涙が止まらなくて、頬を伝ってお母さんの手を濡らしてしまう。

 こんな不甲斐ない自分が嫌で、とても情けないと思うと、さらに抑えきれない気持ちが、涙に変わって止まらなくなっていく。

 

「……ごめん、なさいっ」

「……お店の中でする話じゃなかったかもしれないわね」

 

 お母さんは私の頬から手を離すと、ゆっくりと抱きしめてくる。

 そして昔みたいに、背中を撫でながら、優しい声で私に言う。

 

「まだまだ若い娘を甘やかしてあげたいんだけど、もうあなたがいる場所は、私とお父さんでは手の届かない所にあるから。心配だから、厳しくしてしまうわ。お父さんなんて、いつも凛のことを案じてるせいで、抜け毛が多くなっているらしいわよ。……あっ、これは内緒ね? 凛には伝えないでって念押しされているのよ。知らないふりしてあげて?」

「……ぅん」

「ちょっと話がズレちゃったわね。……つまりなにが言いたいかっていうと、保護者である私達がアイドルになることを許したことで、あなたが不幸になってしまったら、すごく後悔してしまうと思うのよ。でも、逆にそれしかできないともいえるの。あなたが飛び込んだ世界から見れば、自営業で花屋を営む親なんてあまりにも無力で無知で、できることは、あなたがまだ知らない社会での心構えを教えるくらいだもの。でもそれでも、後の祭りなんてことにならないように、あなたが幸せになれる確率が少しでも上がるように、私達が教えられる精一杯を伝えるつもりでいるわ。だから、あなたが真剣に受け止めてくれてるって分かって、お母さん、とっても嬉しいわ。……本当にありがとう」

 

 背中をゆっくりと撫でてくれるお母さんに、私はいつまで経っても敵わないと思った。

 世界中の誰よりも頼りになって、支えてくれて、思いやってくれる相手。こんな人の元に生まれてこれた自分の幸運が、未だに信じられなくなるくらい幸せを与えてくれる存在。それが私のお母さん。

 私が色々な経験を通して大人になっても、いつか子供を産むことになっても、こんな温かさを与えられる人にはなれそうにない。落ち着かせるために、私の呼吸に合わせて背中に伝わる振動も、花屋の特有の甘い香りが染みついた匂いも、昔から私の涙を止めてくれる。

 お母さんのおかげで、少ししてから涙が引いた私は、ずっと抱きしめてくれてた体から離れた。

 この間にお客さんが来なくて本当に良かった。まだ雨が降ってて助かった。

 

「……お母さん、私今から346プロに行ってくる」

 

 私は涙を拭いながら立ち上がって、カウンター奥の通路にある階段から、荷物を取りに向かおうとする。

 しかし、そんな私の腕をお母さんは握って、その場に留めさせる。

 

「今日は行かなくていいわ」

「えっ? でも、それじゃあ、あっちの人に迷惑が……」

「今日はレッスンだけなんでしょう? プロデューサーさんと電話した時、それを休んで大丈夫か聞いたわ。そしたら、ユニットの他のメンバー二人が今日は休んでて、単独でしか練習できないらしいから、レッスンは中止でも構わないそうよ」

「……そう、なんだ」

 

 私は安心して、近くの椅子に落ちるように座った。

 お母さんは、「でも」と言葉を差し込んで、表情を真面目にする。

 

「後日、ちゃんと謝りにいきなさい」

「……うん、そうする」

 

 私はその約束を守ると誓って、頷いた。それを確認したお母さんは、先ほどまでの重い空気を払拭するように笑顔を浮かべて、元気に声を張り上げる。

 

「それで、何を考え込んでいるのよ? マー君と喧嘩したこと? それとも、ユニットの子達が休んでいること?」

「……どっちもだったけど、たぶん、今はアイツの方」

 

 未央のことは心配だけど、それに関して私がやるべきことは、さっきお母さんと話した時に気づくことが出来た。

 アイドルという立場に、他の皆みたいに大きな夢や希望を持ってなかった私には、未央が大物アイドルのバックダンサーとして出演したライブとデビューライブの落差で抱いた悲哀に共感して、相談に乗って励ましてあげる事はできそうにない。

 けれど、プロデューサーは、今も未央が復帰できるように努力してるはずだ。

 彼は不器用で、感情を読み取るのも、伝えるのも下手だけど、真摯に相手と向き合える人だ。私をアイドルに勧誘した時も、みく達がデビューできるか不安で泣いたふりをした時も、いつだって自分のことだけを顧みず、不格好でも最後には相手に寄り添ってきた。

 無愛想で、人と向き合うことが苦手。私と似通った質をしてるから、彼がとても優しい人だとよく分かる。だから、プロデューサーが未央に踏み出すことができたら、その直向きな気持ちを伝えられたら、未央は必ず立ち直ることができるはずだ。

 なら、今の私に出来ることは、未央が元気を取り戻した時、今の立場に安心して帰ってこられるようにメッセージや声を送り、その立場を護ることだ。落ち込む未央のため、心配する卯月や他のCPメンバー、プロデューサーのために、義務と責任を全うすることだ。

 彼女のことで、私がやるべきことは、もう分かってる。だから、今はアイツのことの方がずっと悩ましい。

 私はこういう相談事をするのが、あまり得意じゃない。自分の内心を全部吐き出したことなんて、お母さんにだって、ほとんどしたことがない。

 でも、お母さんの胸の中で久しぶりに泣いたせいか、それとも二つあった懸念の一つが結論付いたからか、気持ちを晒すことに躊躇はいらず、自然と口は動く。

 

「私、前のライブ以来、アイドルをうまく続けていける自信がなくなってて。続けざまにメンバーが来なくなったりして、色々と不安で仕方なくて……弱気になってたんだ。だから、昨日アイツにアイドルを続けるべきか聞いてみたんだ」

 

 私は昨日の事を思い出して、拳を固く握りしめながら口を開く。

 

「そしたら、アイツ。その程度で揺らぐなら、アイドルなんて辞めてしまえなんて勝手なこと言ってきて。……アイツのせいで、自信なくなったのに。アイツがライブの時、あんな顔したからなのに。人の気持ちも知らないで、知ったかぶって……、かっとなって怒鳴ったんだ」

 

 途中から、何言ってるかよく分からなくなってきた。

 

「『あんな顔』って、どんな顔よ?」

「……昔よく見た、私とアイツの母親が似てない時にする悲しそうな顔。あんな顔されて、ライブに集中できるわけないよ。自信持てる分けないよ。私のライブ見に来て、私だけの姿を見て、なんであんな悲しそうな顔するかな……」

「なんで凛の自信がなくなるのよ?」

「……だって、それは……私の姿を見ても、母親の姿しか重ねないアイツの顔を見たら、自信持てなくなって……」

「いや、違うの。私が言いたいことは、なんでライブ中にマー君だけを見て、集中力も、自信もなくなっているのかってこと」

 

 私はお母さんの言っていることがよく分からなかった。

 首を少しだけ傾ける私を見て、お母さんは右手の人差し指を立て、右顎に当てる。空いた左手で肘を支え、指先で軽く顔を叩きながら、続きを話し始める。

 

「私も含めて、あの日は多くの人がライブを楽しそうに観ていたじゃない。私やマー君は凛との関係上、楽しさだけじゃない感情も確かに抱いていたわ。けれど、それでも私はしっかりと楽しめて、笑顔で凛の晴れ舞台を終えたわ。そしてあの時、他の多くのお客さんも笑顔だったのを知ってるわ。なのに、なんで凛はマー君の顔色一つで自信を失っちゃうの?」

「……それは」

 

 お母さんの問いに、私は答えを見つけられない。考えたこともなかったその問いは、私の脳裏で反響するばかりだ。

 頭で言葉を形作ろうにも、うまく纏めきれず、煙のように霧散していく。言葉にならなかったそれらは、次第に新しい像へとなり代わり、結局、アイツの悲しそうな顔ばかりが思考を漂って、痛くて仕方ない胸の内が、さらにぎゅっと締めつけられる。

 

「凛」 

  

 押し黙ってしまった私を、お母さんは優しく呼んだ。

 名前を呼ばれて顔を上げた私の目には、少し困ったみたいに眉頭を上げて、それでも温かい瞳を向けるお母さんが映ってた。

 お母さんは左手を腰の横に当てると、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

 

「こういう時はね、自分の気持ちの根幹から、きちんと整理していくの。上辺なんかじゃなくて、自分の正直な気持ちを見つめ直して、自分がどうしてそう思うのか、どうして行動しているのか、その整理をしていけば、案外簡単に答えは見つかるものよ」 

「気持ちの、整理……」

「まずは……そうね、自分がどうしてアイドルになろうとしたのか、そこから考えてみたら?」

 

 私はどうして、アイドルになろうとしたんだろう。

 

「……自分だけの、自分だけの何かが欲しかったから。誰かに好かれる自分になれるような、変わらない日々が変わるような、そんな何かが欲しかったから」

 

 答えはすんなりと私の口から溢れた。

 プロデューサーにスカウトされた四月から、この道を歩むと家族やアイツに話すまでに、ずっと考え続けて、導き出した答え。

 毎日予定が詰め込まれた大変なレッスンも、緊張してしまうような大きな舞台でも、ずっと私の原動力であり続けたもの。

 私の心の中に確固とした形で存在するそれは、全くと言っていいほど逡巡を介さず、自然と言葉になった。

 私の答えを聞いたお母さんは、少し安心したように笑うと、次の言葉を続ける。

 

「じゃあね、凛。どうしてその何かにアイドルを選んだの? 凛はアイドルになる前から、お仕事の手伝いができるくらい、お花に詳しくて、花束だって、アレンジメントだって上手にできる。その上、学校での成績も良くて、最後まで努力を突き通す根気もある。普通の子よりもずっと、凛だけの取り柄を持ってるじゃない。どこに拘って、アイドルになったの?」

 

 自分だけの何かが欲しい。その何かに、どうしてアイドルを選んだんだろう。

 卯月の話を聞いた時、彼女がこんな花咲く笑顔で憧れるような立場に向かって努力すれば、どんな人も惹かれるような自分になれると思った。

 スポットライトの上で美しく着飾ることができれば、何の陰りもなく自分という存在を出せたなら、誰かの影に捕らわれなくなるんじゃないか、そんな風に考えてた。

 じゃあ、なんで影に捕らわれたくなかったんだろう。

 

「凛がアイドルになって、多くの人に好かれることを嬉しく思う気持ちは理解できるわ。でも、アイドルになるそもそもの理由が、誰かに好かれたいからなら、好かれたかった誰かって、誰?」

 

 昔から、仲良しな友達を作るのが得意じゃなくて、中学生で友達が多く出来たのも、アイツが隣で馬鹿騒ぎをして注目を集めたからだ。それから色んな人が話し掛けてくれるようになって、その経験を通して、今はそれほど苦労することなく相手とコミュニケーションが取れるし、友達も作れるようになった。

 もう他人から仲良くしたいと思える程には、好意を向けられる自信を持てたのに、なんで私はアイドルになったんだろう。これ以上誰に好かれたくて、誰に惹かれて欲しくて、アイドルになったんだろう。

 

「変わらない日々が嫌だっていうけど、何がどう変わらないから嫌なの? 凛のこと、それともその周りのこと?」 

 

 志望校を決めるとき、どうして自分は決して裕福ではない自分の家庭を顧みず、私立の女子校なんて選んだんだろう。どうして母親を自分に重ねる誰かと一緒にいる時間が、楽しさよりも、我慢できない程に辛いと感じ始めていたんだろう。

 バックダンサーとして初めて舞台に立った時、大成功を収めて、関係者や家族みんなに褒められて、あれほど嬉しかったのに。誰かのたった二本のサイリウムが、私の大好きな色で振られていると気づいて、何よりも嬉しかったのはなぜだろう。

 CPメンバーの全員のデビューが確約されて、周りに空気はあれほど満ち足りていたのに、その事実が、誰かが他の人のために動いた結果だと知って、どうしてあれほど不安が込み上げてきたんだろう。

 私には貼り付けたような笑顔ばかり見せてきて、道化ばかり演じて決して本心を見せてくれないのに、お婆ちゃんにはあんなに綺麗に笑いかけるのを、ずるいと思ってしまったのはなんでだろう。

 私たちのデビューライブ。どうして私はたった一人の笑顔が見れないだけで、踊りに失敗するほど集中できなくて、辛い気持ちで一杯になったんだろう。誰に自分だけを見て欲しくて、誰に本当の笑顔を向けてほしかったんだろう。

 これまでの日々、これまでの自分の気持ちと行動を振り返ってみると、いつだって私の中にアイツがいた。全部全部、アイツが中心にいた。

 

「え……嘘。そんな、私、中学でアイツが告白されたの知っても喜んでたし。みくがアイツに告白してるって勘違いしても、逆に嬉しく思ってたくらいだから、そんなわけないのに……」

「あははははっ」

 

 慌てすぎて、自分に言い聞かせるようにぶつぶつと独り言を発する私の姿に、お母さんは笑い出した。何がそんなに面白かったのか、お腹を抱えて、声を出すお母さんは、まさしく抱腹絶倒という字を体で表現してるようだった。

 数秒、いや、数十秒経っても、ずっと大笑いしてて、カウンターテーブルを行儀悪くばんばんと叩いて、目尻に涙を浮かべ、息ができなくて苦しそうにしながらも、結局止まらない。

 

「……お母さん」

 

 流石にその反応は酷いんじゃないかと、目で訴えかけた。

 お母さんは吐息のように「ご、ごめん。でも止まらなくて」と苦しそうに答えるが、それでも体は正直だから、ずっとお腹を揺らして、頬は上がったままだ。

 それから幾ばくかの時間を掛けて、やっとのこと、笑いが収まったお母さんは喋り出す。

 

「はぁ、苦しかった。……それにしても、凛はマー君のことそんな風に思ってたの? マー君が他の人から好意を抱かれていると知っても、自分は嬉しく思うから、そんな気持ちはないって」

「……だって、普通は嫉妬するでしょ?」

 

 恋愛物の漫画やドラマにおいても、好意を寄せる異性が、他の同性からアプローチや告白されてる姿を見て、不安に感じたり、焦ったり、怒ったり、そのプレッシャーで積極的な行動に走ったりするのはよくある展開だと思う。取られたくない、負けたくないって気持ちで動き出す。物語によくある常套手段だ。

 そしてそれは、恋愛経験の疎い私でも理解できる程に、分かりやすい一般的な心の動きだと思う。

 

「全然思わないわよ。そんなの嬉しいに決まってるじゃない。私だって、お父さんがよくお客さんの女性達にちやほやされてる姿を見て、嬉しく思うわよ」

 

 でも、お母さんは私の意見を否定した。

 

「なんで、そんなのおかしいよ」

「凛こそ、何言ってるのよ。お父さんは私にぞっこんよ? 他の女に靡くわけないじゃない。私の選んだ男が、自分の元から絶対に離れないって分かり切ってるのに、どうして嫉妬する必要があるの? むしろ、私だけじゃない、多くの人から好意を寄せられる程に魅力ある相手だって知る機会よ、嬉しく思う他ないじゃない」

「で、でも、それはお父さんが特別だからでっ」

「凛だって、小百合を自分に重ねるマー君が、絶対に自分の元から離れないって自信があったから、嫉妬はせず嬉しく思ったんでしょ? ……だから、小百合に自分を重ねられるのが嫌でも、今まで怖くて言葉にできなかったんでしょ?」

 

 お母さんの言葉の意味を理解した瞬間、急激に体全体が熱を持ち始める。

 

「いや、でも、うそ、ちがっ」

 

 私は愕然としながらも、今まで過ごしてきた人生の半分で、因果関係を把握してると断じてた価値観を守りたくて、私の世界におけるアイツという存在が一変する事実に戸惑って、拒絶しようと躍起になる。

 けれど、幾ら否定の言葉を脳裏に浮かべても、激しくなる動悸は抑えられない。血流の巡りが早すぎて、沸騰したように体は熱く、額が少し湿りだす。

 頭の理性で違うと訴えかけても、多幸感を含んだ本能が胸の内から溢れ出てしまう。

 

「うわー、顔真っ赤。凛のこんな間抜けな顔初めて見た。マー君がここにいたら、写真撮りまくってたでしょうね」

「アイツここにいるの!?」

「いないいない。例えばよ、例えば。お茶持ってきてあげるから、ちょっと落ち着きなさい」

 

 そう言って苦笑いを浮かべるお母さんは、奥の通路に入って、居住スペースである二階に繋がる階段を上っていく。

 悶々とした気持ちを抱える私は、椅子の上で背筋を伸ばし、胸に手を当てて何度も深呼吸を繰り返す。ひとまず体の火照りを抑えるつもりだったけれど、浮き足だった思考は止まらず、自分の今まで言動が、こんな胸が一杯になるほどに想ってた誰かのためだったと再度思い起こしてしまい、面映ゆくて、誰も自分を見てないというのに、隠すようにテーブル上で、腕枕に顔を埋める。

 でも、視界が真っ暗になって外界の情報が大きく遮断されたのは逆効果でしかなく、どんどんと余計な想像をしてしまった私は、じっとしてることに耐えきれなくなって、膝同士を勢いよく揺すり始めてしまう。

 その状態は、お母さんが戻ってくるまで続いた。

 そんな私を見て、お母さんが爆笑するまで続いた。

 私は笑い転げる失礼な人を見て冷静になり、失礼な人の手から水筒を奪い取って、その中に入ったお茶を喉に流し込む。何度かそれを繰り返し、失礼な人の笑いが収まる頃には、なんとか落ち着きを取り戻してた私は、自分の気持ちを言葉に変えて、再度確認するように呟く。

 

「私、アイツに見て欲しくて、アイツのことがずっと……。なんか……センスないなぁ」

「お母さんの血を継いでいるもの。頼りない男を選んじゃうのは仕方ないわよ」

「それ自分で言っちゃっていいの? お父さん泣くよ?」

「いいのいいの、お父さんなんて。それより、凛が自分の気持ちに気づいたことの方が、ずっと大切よ。ほんといつになったら気づくのよって感じで、私はもやもやを通り越して、いつもむしゃくしゃしていたんだから」

「……そんなに分かりやすかった?」

「そうね。程度で言えば、お父さんも気づいちゃうくらい」

「嘘……、もう家の中歩けないよ……」

 

 私は再びカウンターに突っ伏すことになった。今日はこれで三回目だ。なんだかここ数十分で、色々な事実や感情に遭遇して、体力の大半を持って行かれてしまった。

 けれど、それでもアイツとの問題は大きく横たわったままで、決して光明を見出すことができていない。平静を取り戻した私は、それを思い出してしまう。

 

「でも、いくら頑張っても、アイツ、全然私だけを見てくれないよ……。人を惹きつけるアイドルになっても、素敵な衣装に身を包んで、歌って、躍っても、結局あんな顔するし……」

「たった一回だけで、諦めちゃっていいの?」

「……え?」

 

 靴と堅い床が奏でる音を聞いて、私は顔を上げた。

 お母さんは、私がいるカウンターの内側から出ていき、近くに陳列してる水の入った瓶から、花冠を覗かせる切り花の一つに触れる。

 それは、縦長で夕焼け色の花びらが、重ならないように中心に集まる一重咲き花で、開花時期は春と秋。六月初旬になり、おそらくこれが最後の入荷になるだろうその花は、時期外れになりつつある今でも、彩度の高い、瑞々しく咲き誇る姿を見せてくれる。

 お母さんは何十本あるその中から、一番上を向いてる物を選び出すと、優しく抜き取って、私の元まで戻って来る。続けて、カウンターテーブル上に用意してる、フラワーパックと呼ばれる包装フィルムとリボンで、それを手際よく綺麗にラッピングする。

 そして、真っ直ぐに私の瞳を見ながら、両手を使って、その一本の切り花を慈しむように差し出す。

 

「この二ヶ月、ずっと頑張ってきたじゃない。まだ、諦めるには早いんじゃないの?」

 

 受け取った花は、オレンジのガーベラ。花言葉は、我慢強さ、常に前進、希望。

 花好きや花屋で働いてなければすぐに気付けない、遠回しで少し面倒くさい応援。だからこそ、言葉なんかよりずっと心の奥底まで響く激励。

 でも、この花を他の誰が渡してきても、こんなに強い気持ちを与えられない。今の私が落ち込んでるからだとか、渡してくれたお母さんが私の大事な家族だからとか、そんな私個人の中で終わる小さな理由だけじゃない。

 花屋として毎日朝早くから一生懸命頑張ってきて、花と人に向き合ってきたお母さんだから、誰かのために花を選び、渡すという行為そのものに、こんなに想いを込められるんだ。

 胸の中が、薪をくべられたみたいに、熱くなる。どこか重苦しかった体が、力を取り戻していく。

 自分が直向きに頑張ってきたことは、人の心をこんなにも簡単に動かす大きな力になるんだ。

 私の前に立つお母さんは、私を励ますと同時に、そのことを教えてくれた。まるで、次は自分の番だと言われてる気がした。

 玄関口から覗ける外は、すでに雨が止んでて、雲間から差し込んできた日の光が、アスファルトを照らし出してた。

 そして、私達のいる店内に二人のお客さんがやって来る。その二人は私がよく知ってる人物で、あのライブの日以来、元気をなくして顔を見せなかった茶髪の少女と、私をアイドルへと誘った強面で大柄な体格の男性だった。こちらに近づく二人の目には、自身の過去を清算し、これからの未来に踏み出す決意に満ち溢れてた。

 

 ◇◇◇

 

 懐かしい過去を夢で見た気がした。

 ベッドで横たわる体の上から、薄い掛け布団をどける。腕を支えに使って上半身を起こした僕は、枕元に置いた目覚まし時計代わりのスマートフォンで、現在の時刻を確認する。暗がりの部屋の中では眩しく感じるディスプレイに表示された四桁の数字は、いつもより数分だけ早い起床時間だった。

 僕は眠りが深く、夢をみることは少ない。けれど、久々に夢を見たせいか、いつもの清々しい目覚めはなく、若干寝不足気味だ。すでに意味をなくした目覚まし時計の起床アラームを解除した後、僕は掛け布団から足を出してから、遮光カーテンを滑らせて、窓越しに外を眺める。

 空には晴れ間が広がっていて、週初めから数日続いていた雨の気配は全く感じられない。

 僕は木製の学習机の前に移動して、その上に置かれた二つのアルバムに触れる。どちらも大きな図鑑程度の面積があって、片方はもう一方より傷もあって古くさい。

 新しい方のページを捲ると、一人の少女が収められた写真のアルバムであることが分かる。無愛想な幼い少女は、年月を経るごとにカメラ写りが良くなっている。撮影者が不意打ちにシャッターを切ることが多かったからか、自然体で自分を綺麗に見せるコツでも掴んだみたいだ。

 一方で、古い方のアルバムに載っている少女は、どれだけページを捲ってもぎこちなさを伴った無愛想のままだ。最後の一枚である高校の卒業式の写真ですら、嬉しそうでも、悲しそうにするでもなく、緊張して硬い顔付きになっていた。

 二つのアルバムを見比べてみれば、全然違う。二人の容姿は似通っているといっても、相違点は一目瞭然で、目を懲らす必要もなく別人だと分かる。そんなことは分かり切っているはずなのに。

 僕はまだ、君に死者の影を見続けている。

 机の脚にもたれ掛かる通学鞄の中から、スマートフォンを取り出す。

 スマートフォンをあまり使用しない僕は、こまめな充電をしない。右上のバッテリー残量を示すマークは赤くなっていたが、あまり気にせず緑色のアイコンが目印のSNSアプリを開いて、彼女の母親――おばさんにメッセージを送る。

 花屋であるおばさん達の朝は早い。花の仕入れや仕入れた花の処理、店内の花への水やり、店頭に並べる花の移動等、開店準備は多々あって、それを毎日行わなければならないのだから当然だ。何度か手伝いをしたことがあるけれど、朝の時間帯が一番大変だった。

 この時間なら、もうおばさん達は働き始めているはずだ。だから、朝早くにおばさんへメッセージを送っても、睡眠を邪魔しないという意味では、あまり迷惑にはならない。むしろ、このメッセージを遅くに送る方が迷惑だろう。なんなら、このメッセージ自体が迷惑だ。

 それでも今の自分には、気持ちの整理をする時間が必要で、あの場所に行くだけで、心が惑わされそうだから、こんな身勝手を許してしまう。

 手元で光るスマートフォンの画面には、今日も風邪でアルバイトに行けない旨が、端的に記されていた。

 

 ◇◇◇

 

 僕が彼女を傷つけたと知ってから、三日後の金曜日。今はホームルームを終えたばかりの放課後始めだ。

 少し落ち始めた西日が差し込む校舎の階段にいる僕を、幾人かの生徒がすれ違っていく。

 大小幾つかの鞄を抱えた生徒は部活動へ。時間を気にして階段を駆け下りる生徒はアルバイトへ。仲良く二人でカラオケの話をする生徒は娯楽施設へ。各々、それぞれ違った目的の時間を過ごすのだろう。

 けれど、その背中を眺めていた僕には、これと言った予定はない。正確には、あったのだけれど、僕の気儘によってなくなった。

 今日まで、僕は一度も彼女の家を訪れていない。今日も体調不良なんて嘘をついて、すでに花屋のアルバイトを休む連絡をしている。

 こんな中途半端な状態を三日も続けていることで、おじさんやおばさんにはとんでもない迷惑が掛かっているだろう。賃金をもらう立場でありながら、仮病で仕事を放棄するなんて、最悪な行為だ。

 こんな馬鹿みたいな事になっているのも、僕が決断を先延ばしにしていたからだ。

 他人でしかない彼女の時間や感情を縛らないために、僕はもう彼女に関わるべきではない。そんな正しい選択肢を最後の最後まで選び取れなかった自分の弱さが原因だった。

 僕にとってあの家で働くことは、他校に行った彼女と、アイドルになった彼女と、時間を共有する最後の糸だった。僕が彼女との関係を対外的に保障する免罪符だった。

 だから、退職という選択をして、それを手放すことにこれほど躊躇してしまった。仮病なんて、曖昧な行動しかできなかった。

 けれども、僕の選ぶ道はとうに確定しているのだから、その踏ん切りに猶予を与える意味も価値もない。時の流れは僕を救うわけでもなく、周囲の状況だけを悪化させていく。それが不利益な行動であると分かりきっているならば、いい加減、感情を押し殺してでも足を進める必要があるだろう。

 今日家に帰ってから、電話でアルバイトを辞めるとおじさん達に伝えよう。そして金輪際きっぱりと、彼女と、あの家の人達と、関わらないようにしよう。

 三日間ずっと悩み苦しんで、やっと決めることができた。

 幼い彼女が独りで寂しそうにしていたから、僕はそれを言い訳にずっと彼女へすがり寄っていた。母さんの存在を卑しくも望む僕の内心を、彼女の寂しさを建前に振りかざしたんだ。

 でもその関係も、いつからか僕の一方的なものに変わっていた。

 彼女は僕を必要としていない。そのことを実感し始めたのは中学の頃からだ。

 中学生になる前、別の小学校に通っていた僕と彼女は、放課後、いつも二人きりでずっと遊んでいた。

 小学生の僕は、彼女と出会うまで誰彼構わず変態的な言動を繰り返していたから、周囲にいる多くの同級生によく思われていなかった。けれど、時が経つに連れ、彼らからその記憶は風化されていったのか、小学校中学年にもなれば、僕に話掛ける同級生が何人も現れるようになった。僕は学校の休憩時間、暇つぶしに同級生と遊ぶことは構わなかったが、放課後の遊びの誘いはいつも断っていた。僕はその時間を、母親としての愛情を向ける彼女と一緒にいたかったからだ。

 小学生の彼女は、今より無愛想で受動的な所があったせいか、友達がいなかった。それは高学年になろうと変わらず、彼女本人から仲良しな学友の話も、学校の出来事もほとんど聞いたことがない程だった。だから、彼女はいつも放課後僕と遊んでいた。

 小学校の六年間を通して、表面的に愛想がない態度や積極性に難はあっても、性格は人好きされそうな彼女に親しい友達ができなかったのは、何らかの理由があったのだろう。

 長い期間を掛けて、同級生の中で彼女は話掛け辛い存在になっていたのかもしれない。いつも一人でいる生徒を笑い物にしたり、格好悪いと吹聴したりするのは、どこの学校でよくある話だ。むしろ、多感な時期である小学校高学年になれば、その傾向は顕著になりやすい。当時の僕のクラスにも一人や二人、そんな生徒は存在していた。

 結局の所、小学生の彼女がどういう経験をしてきたのかはよく知らないが、その間、彼女にとって僕が、僕にとって彼女が、同年代で一緒の時間を過ごす、過ごしたい唯一の存在だったのは確かだ。

 でも、中学に上がれば、周囲の環境はがらりと変わる。

 彼女と同校になった僕は、場所が学校だろうと、いつものように彼女と接していたけど、多くのクラスメイトは、同年代の男女間で積極的に好意を向ける僕の対応に色めいて、その対象である彼女に興味を持った。注目を集めた彼女へ、それを切っ掛けに多くの生徒が話し掛けるようになった。

 元々、消極的な部分と状況が上手く噛み合わなかっただけで、決して彼女は人から忌避されるような人間ではない。次第に、彼女は親しい友人を何人も得るようになり、多くの人と関わり合う経験を通して、いくらか積極的な姿勢を身につけていった。

 彼女は学校の休憩時間や、時間のある放課後や休日、僕以外の友人と遊ぶようになっていき、逆に僕と一緒にいる時間は減っていった。

 多くの友人を得たこの頃から、彼女はもう僕がいなくても孤独ではなくなっていた。

 あの日、小学二年生の彼女が泣いて側にいることを望んだ僕という存在は、無用の長物になっていたんだろう。母親を重ねて、おかしな言動で自分と接する相手より、何者でもない自分という存在だけに好意を向けてくれる相手を選ぶのは、至極当たり前のことだ。

 離れなければならない。僕と彼女を唯一繋ぐ『弱さ』を、既に彼女は克服していて、この関係がもう一方的でしかないことを認めなければならない。利害が一致しなくなった今では、僕が向ける愛情も、会話も、共にいる時間さえも、ただの迷惑行為に成り下がっている。

 臆病な僕は、問題を先送りにして今まで過ごしてきた。この不安定な関係の上でも、上辺だけを取り繕って一緒にいた方が、母親を感じさせる彼女を失うよりよっぽど楽だったからだ。

 時間が止まればいい、このままであって欲しい、そうずっと願いながら。変わらない環境に甘えて、変わらない自分を許容していた。

 彼女の時間も、思い出も、自由も、貞節さえも浸食しておいて、そのことに罪悪感を抱いても、なお僕は彼女の隣にいた。

 だけど変化が起きた。彼女がアイドルになった。

 僕は家族だけに好意を向ける人間だ。生きていく都合上、仕方無く他人という存在が付き纏うだけで、他人がどんな状況に立たされようが、何を思おうが、心底どうでもいいと思っている。

 ニュースを見ているようなものだ。対岸の火事をどこか浮き足立って見ることはあっても、被害者へ向ける気持ちなど、雀の涙程度もありはしないのと同じだ。意見を述べる評論家に怒りを持つのは、その意見が自分に沿わない、あるいは自分に不利益を与える事になるからで、その評論家の気持ちに思いを巡らし、まして関心を持つことはないのと同じだ。

 僕にとって周囲の他人とは、画面越しに映るどこの誰とも知らない人と変わらない価値しかない。

 けれど、そんな僕にだって他人に向ける多少の良心がある。人から借りたものを、しっかりと返す道理くらいは弁えている。たとえ興味のない他人であろうと、受けた恩は必ず返す。

 だから僕は、僕の身勝手で彼女から無理矢理奪ってきたものに、報える人間であると信じていた。

 母親の代わりとして僕の隣にいなくなっても、彼女のしたい事を、ちゃんと応援するべきだと思った。応援できると思った。

 冗談で嫌がったりして、それは全く心にもない偽りではなかったけれど、彼女がしっかりとアイドル活動に専念できるように、私生活側の手助けとして花屋のアルバイトも率先して始めた。

 決して彼女の邪魔はしないように、むしろ手助けするように立ち回っている気でいた。どこか内心でそんな自分を称えていた。花屋のアルバイトは給金を貰う仕事であって、知識のある人材が急募でなければ幾らでも代わりが用意できたのに、今まで散々代償を支払わせた彼女への罪滅ぼしができていると錯覚をして、あまつさえ僕が彼女の近くにいる理由にもしていた。

 日々積み上がっていた罪悪感を緩和させて、問題を払拭させたつもりになっていたんだ。

 でも、そんな僕の思惑は、彼女の初ライブで瓦解した。

 僕はどこまでも自己中心的な人間だった。彼女がアイドルとして突き進む姿を見て、苦しいほどに胸の痛みを感じた。湧き上がる寂しさと孤独感は、彼女の成功を手放しに喜べなくさせた。

 僕の内懐は、彼女の夢を妨害してでさえ、母親を求める欲望を優先させたがっていた。決して、彼女の夢を応援している人間とは思えない感情を抱いていた。

 それに気付いてしまったら、ショックで笑えそうになかった。暗い気持ちを隠して、彼女のデビューライブを祝う席に座ることは、できそうにもなかった。

 押し寄せる虚しさ、自己嫌悪によって摩耗した精神は、結局彼女を求めた。いや、正しく言ってしまえば、彼女の先にいる母さんを求めていた。側にいてほしくて、癒やしてほしくて、このどうしようもない自分を忘れさせてほしくて、僕は彼女の仕事先にまで押しかけた。

 彼女を支えるために僕は花屋のアルバイトをしていたはずなのに、それを蔑ろにして彼女の元に訪れた。

 僕の思考と行動はちぐはぐだった。結局、僕が彼女の望みを応援したいと考える気持ちは、薄皮一枚程度にも満たない重厚さだったんだろう。

 そして、二回目のライブで、僕の感情が彼女の全てを否定した。

 僕は彼女の多くを奪って起きながら、彼女自身の存在に見向きもせず、彼女が大切に育んだ努力さえも目の前で一意に不要だと断じて、僕の隣で母親の代替でいることだけを求めた。

 こんな結果になって、彼女をここまでに傷つけておいて、三日も仕事を怠って迷惑をかけて、散々逡巡したあげく、僕はようやく彼女から離れる決断に至った。花屋のアルバイトという僕と彼女を繋ぐ唯一の立場を捨てる決意を抱けた。

 彼女の居場所を支えるという行為自体が、そもそも間違いだった。僕は彼女がアイドルになると宣言したあの日に、彼女の目の前から消え去るべきだったんだ。

 最後の最後まで選択を誤って、取り返しのつかなくなったところで、ようやく正しい選択に到達した。我ながら、女々しさの塊みたいな奴だ。

 僕は自身の感情を纏めると同時に、床のゴミも箒で纏める。

 掃除当番だった僕は、クラスの名前順で決められた五人の班員と一緒に、四階と三階を繋ぐ階段の掃除をしていた。

 明日が休日の金曜日ということもあって、掃除中にすれ違う生徒は誰もが浮き足立っている。いつにも増して騒がしい学校だが、対照的に僕は黙々と掃除を完遂へと向かわせていた。

 

「……なあ、マジで明日の渋谷のライブ、見に行かねぇのか?」

 

 一緒の班である佐山十三――通称、サザンがそんな沈黙を破ったのは、僕が階段の上部から掃き落としたゴミを、折り返し地点に集め終えた時だった。

 彼は持ってきた塵取りをゴミの近くで構えて、しゃがみ込む。僕が箒でゴミを流し入れると、少しずつ塵取りを後ろにずらしていき、床との隙間に入ったゴミも集められるように動く。

 

「それ、何回聞くの? 体育の時も、昼食の時も聞いてこなかった?」

「仕方ねぇだろ。いつも渋谷と家族のことしか目がないお前が、件の相手が行うライブに行かないなんて言い出すのは、なんせ気持ち悪いんだよ」

 

 サザンは煮え切らない感情を表現したいのか、塵取りから左手を離し、その手で頭を強く掻いた。

 

「僕はその日、346カフェのアルバイトがあるから行けないんだ」

「なに、さらっとバイトが原因みたいに言ってんだよ。お前は休日申請して、ちゃんと当日の時間空けてただろうが。俺や要と一緒に行く約束までしてたのに、頼まれたバイトの代理を受け持つから無理なんて、普段のお前なら考えられねぇよ」

 

 立って箒を掃く僕からは、しゃがんで床に顔を向ける彼の表情は窺えなかったが、その代わりに染めた短い金髪の頭頂部がよく見て取れる。あまりカラーリングの頻度が多くないのか、根元が少し黒くなっている髪に向かって、僕は言葉を紡ぐ。

 

「それも昨日から説明してるじゃないか。仕事中のミスを助けてもらったことがあって、頼んできた人には大きな借りがあるんだ。彼女のライブは今後もあるんだから、今回はその人に義理立てることを優先したまでだよ」

「んな訳あるか。言い訳なんて求めてねぇんだよ」

「なんで断定するの? 理由を教えてくれよ」

 

 僕の質問と同時に、床のゴミを塵取りに集め終える。

 塵取りを片手に立ち上がったサザンは、少し濃い眉の間に皺を作り、普段に増して柄の悪い表情を向けてきていた。

 彼に少し睨まれたからといって、僕が恐怖を抱くわけがない。逆に、何度も断っているにも関わらず、しつこい彼の態度が少々癪に障り、その瞳を無表情に見つめ返す。

 

「……ちっ、経験と勘だ」

 

 この問答の何が不満なのか、舌打ちをしたサザンは、他の班員が集めている下部のゴミも収集しに、階段を下りていく。

 僕はその姿を見て、軽く肩を落とす。続けて、誰にも聞こえないように小さな溜め息を吐いて、他の班員の手助けをしに彼の後に続く。

 非常に面倒くさい。それが今の彼に対する実直な感想だ。

 中学校で知り合った僕とサザンは、出会った当初から今まで、暇潰し、ただそれだけの関係だ。

 僕が彼と一緒に行動するのも、よく会話するのも、昼食を共にするのも、退屈な時間を潰すためだ。学校という僕の行動を大きく制約する場所だからこそ、空いた時間を共にしているだけで、放課後の自由な時間を使ってまで、態々彼と一緒に過ごそうなんて考えない。

 今回のライブだって、僕が凛ちゃんのライブに行くという目的が先にあって、ついでに彼や要と行くことになっただけだ。

 互いに退屈しのぎという役割しか与えない存在。授業中のペン回し程の手慰みと代わらない人間関係を許容し合うのが、僕達の在り方。

 相手に合わせて一緒にいる時間をもたず、気を遣って表情を作らず、関係維持を目的とした会話をもちこませず。良い見方をすれば気軽三原則、本当の見方をすれば粗雑三原則で関わる、学友という皮を被った娯楽。

 僕達は、相手にとって自分の立場が、優先順位の下層に位置していることを理解している。

 自分の言葉や行動が、相手を動かす大きな力を持たず、その逆もまた同じだと分かっている。

 だから、互いに拒絶することや、拒絶されることに、大きな遺恨はないし、気にすることもない。最初から期待していないことに、大きく落胆する人間なんて、相当切羽詰まった人間でもない限り、早々にいないだろう。

 ましてや、期待できないことを何度も繰り返す人間なんて、宝くじやギャンブルみたいに、その行為自体に娯楽性がなければ、積極的に行うはずがない。

 それにも関わらず、今日の彼は弁えていたはずの境界を跨いで、期待値が限りなく低い、娯楽性のない無駄な言葉を、何度も僕に投げかける。

 折角僕が表向きに断る理由まで説明したのだから、聡い彼はいつものように自分の立場を理解し、出しゃばらないで欲しかった。どうせ僕と一緒に行きたがる要に頼まれたとか、外的要因が理由なんだろうが、それがなんだろうと、今の彼の行為は僕にとって、非常に面倒くさいだけだ。

 確かにサザンの言うとおり、僕は346カフェのアルバイトの有る無しに関わらず、彼女のライブに行く気が無い。

 彼女をメンバーに含んだアイドルユニットである「ニュージェネレーションズ」は、二度目のライブを今週の土曜日――明日に控えている。

 先週行われた一度目のライブは、デビューしたばかりの彼女達と新曲の宣伝活動を目的としたもので、大掛かりなセットを用いて、大型ショッピングモールの広場で行われていた。

 今度のライブも、狙いと規模は同じだ。元々、大手芸能事務所に所属する、新進気鋭のアイドルである彼女達が行う宣伝ライブは二度、週を分けて場所の違うショッピングモールの広場で行われることになっていた。

 三日前に彼女から聞いた話では、他のユニットメンバー二人が無断欠勤や体調不良で休んでいたらしいが、中止連絡がアイドル情報通のサザン達に届いていないとなると、無事その問題は解決し、開催に漕ぎ着けたようだ。

 僕はそんな明日のライブに向けて、基本的に休日シフトが入っている346カフェでのアルバイトのシフトを調整していた。そして、サザンや要と見に行く約束をしていた。

 彼女のライブは僕にとって、楽しむより辛さの方が上回っていたが、行かないことで彼女やお祖母ちゃんに違和感を持たれる方が嫌だった。僕は自分の「弱さ」を大切な人に晒す、頼りない人間になりたくない。それは僕が自分の名前に相応しい人間であるための矜持だ。

 けれど、もう彼女と関わるつもりはなく、自ら彼女の舞台を潰しに行くような真似をする気はない。

 だから当日ライブに行かず、346カフェでアルバイトに励むことに躊躇はなかった。

 サザン達への説明は、彼の経験と勘からくる疑いの通り、半分虚言だ。346カフェの同僚から代理を頼まれて引き受けたのは事実であるが、別にその相手に借りなんて一切ない。そこは一部実情を伏せた話をスムーズに進め、説得力を増すために、即興で適当に見繕った嘘だ。

 アルバイトを引き受けた実際の理由は、ライブに行かず時間が空いてしまうと、休日まで使って深く考え込んでしまいそうだから、体と脳を別のことに動かして余計な思考を遮断したかっただけだ。アルバイトなんかより、家でお祖母ちゃんとのんびりする方が大好きだが、今はその時間を能天気に楽しめるほど、僕に余裕がない。

 彼女との関わりを絶つと決めた以上、その346カフェで働くことも今後辞める予定だ。けれど、一ヶ月間仕事をして、未だに346カフェで彼女が飲食する姿を見たことがなかった以上、あの場所で僕と彼女が関わる可能性は極めて低いと考えている。

 ならば、要や要のお父さんを頼って得た立場であるアルバイトは、それなりの期間を働くのが筋というものだろう。

 逆に彼女の両親にその筋を通さないのは、カフェと正反対に花屋が彼女とあまりにも近すぎる場所だからだ。義理立てて、新しいアルバイトが見つかるまで働けば、どうしても彼女と会ってしまうかもしれない。そして、おじさんや、おばさんは仲を取り持とうと無理矢理お節介を焼くだろう。それくらい優しい人達だと知り過ぎる程度に、長い付き合いだ。

 サザンの後ろに付いて階段を下りた僕は、彼が構えた塵取りに、先ほどと同じように箒を掃いてゴミを入れていく。

 

「約束を破ったことは、悪かったよ。でも、別に僕が行かなくても問題ないだろう? サザン達の大好きなアイドル談義に花を咲かせられるほど、僕はそれに興味も知識もない。一緒にいてもそこまで話が盛り上がるとは思えないよ。要は変わらず一緒に行く予定なんだから、二人で楽しんできたらいいじゃないか」

「お前が行かなきゃ意味ねぇだろ。前回も前々回も、お前は渋谷の親と行ってたからな。今度は俺達で行こうって話だったじゃねぇか。昼飯の時お前に断られて、要も落ち込んでただろ?」

 

 階段掃除といっても、その周りの渡り廊下の一部も範囲に含まれる。既に集め終えている階段のゴミを僕が塵取りに収めている間にも、他の班員から周りの廊下のゴミが、バケツリレーの如く送られてくる。

 僕とサザンは、どちらも頭を下にして、床のゴミに視線を向けながら喋る。

 

「そんなに言われても、どうしようもないよ。もうアルバイトが当日に入っちゃったんだからさ」

「自分で入れたの間違いだろ? バイトのせいにすんなよ」

「うるさいな。そこまで言うなら僕も思っていること、君にはっきり伝えるよ。ずっと言わないでおいたけど、今日はやけに臭うよ」

 

 しゃがんだ態勢のサザンは、摺って後ろに進む足と塵取りの動きを止めた。そんな彼を尻目に、僕は箒を掃く。

 

「……なあ、嘘だろ。唐突過ぎるだろ。……今日体育あって汗掻いたけど、そんなに臭うのか?」

「体育がどうとかは、関係ないと思う」

「……俺、今日一日中臭かったのか? 朝起きてから、今に至るまで思い当たる節が全く無いんだが。……もしかして、素の体臭がやばい?」

 

 彼は鼻を襟元に近づけ、自分の体臭を何度も確認していく。そんな彼を尻目に、僕は箒を掃く。そして、一泊してから補足を口にする。

 

「違うよ、面倒が臭う」

 

 その一言を聞いて、呆気にとられた顔を晒したサザン。驚きで咄嗟に僕を見上げただろう彼は、その瞳を次第に責め立てるように細めていく。そんな彼を尻目に、僕は箒を掃く。

 

「……お前さぁ、マジ、ほんと、面倒臭いってちゃんと言えよ。体育終わった後に会話した全ての人が、走馬灯のように脳裏を過ったぞ」

「よし、掃除終わりっと」

 

 適当な戯れ言で時間稼ぎをして、全部のゴミを塵取りに入れ終えた。僕は箒を止めて、これ以上話を続けないように階段を上がって、掃除用具を片付ける自分の教室ロッカーへ向かう。

 あまり教室から離れた掃除場所ではないため、箒や塵取りは全て教室から持ってきている。場所によっては帰りの荷物を持って向かう場合もあるが、今回の階段掃除においてはその必要がない。

 まだ話したそうにするサザンを置いて、足を進める。僕は、彼が近くの男子トイレにあるダストボックスに集めたゴミを捨てて、すぐに追いかけてくると思っていたが、彼は塵取りをその場に置いて、携帯で誰かに電話を掛け始めた。

 階段の折り返し地点でそれを確認した僕は、彼を再び視界から消した。

 僕達より先に清掃を完了していた教室のドアを通って、掃除用具入れを開く。

 ロッカーは、ごちゃごちゃして整頓されていなかった。無理矢理箒を詰め込んで、僕は自席に座り、帰る準備を始める。

 最後に彼女の家を訪れて以来、僕はぼーっとしていることが多い。暇があれば日がな一日取り留めの無い思考の渦に飲み込まれて、今日もあっという間に放課後になっていた。ショートホームルームの時間に終わらせるはずの帰宅準備もろくにしないまま放課後が始まり、僕はサザンに促されてようやく我に返り、掃除に向かった程だ。

 もし誰かに声を掛けられなければ、僕は人形のようにずっと席に座っていたかもしれない。もしサザンでない誰かだったなら、僕は掃除など忘れて帰路についていただろう。

 そういう経緯があってまだ帰る準備が終わっていない。僕に比べて、すでに準備を済ましているサザンは、後から教室に戻ってきても、席に座ることもせず、鞄を手に取ってさっさと先に帰ることだろう。

 一番前の席で、鞄に今日使った体操服を入れる僕の隣を、誰かが通り過ぎる。だけど、その人物が教室のドアへ向かうことはなく、僕の席の前で振り返る。

 ズボンだけが視界の隅に入り、数秒経っても一向にそれが動き出さない。頭を上げてみると、先ほど僕が置いていった人物が鞄を肩にぶら下げて、僕の顔を見下げている。

 

「そんなにバイトを理由にするなら、その問題が解決すれば、明日のライブに絶対来いよ」

 

 サザンはぶっきらぼうな言葉だけを残して、この場を立ち去った。

 

 ◇◇◇

 

 学校の帰り道。

 季節が春から夏に移り変わっていくことが、公園に立ち並ぶ新緑から見て取れる。

 いつかの夏の日、彼女と初めて出会った公園の側を僕は歩いている。アルバイトを休み、花屋に迂回しなくてよくなった僕にとって、この道を進むのが最寄り駅から最短で家に辿り着ける経路だ。

 まだ昼間ということもあって、車の通行量は少なくない。だが、狭い二車線道路が続くこの細道を使用するのは、近くのマンションや住宅に住む人か、郵便物を届けに来た配達員くらいだ。車の走行音が五月蠅いと感じる程度ではない。

 自分の他にも通行者はちらほらいるが、年寄りや専業主婦と思われる女性が多い。

 同年代の中高生は見掛けない。掃除に時間を取られたのもあるが、そもそも僕が通う学校は、彼女が選んだ女子校近くという理由で進学したため、ここら近辺に暮らす学生の一般的な進路の高校と比べて距離は遠い。僕と同じように帰路を真っ直ぐ進む近所の学生とは、帰宅時間が重なりそうになかった。

 周囲には三、四階ぐらいの横幅が短いマンションが多く、建物と道の距離が近い。強い西日が建物に遮られて影を作る歩道には、明るい場所と暗い場所が交互に続いていく。

 ただ前を進むだけで、明暗の差による急激な光の変化で目が疲れる。そんな道半ばで、進行方向の先に現れたのは、自分と向かい合う形でこちらへ歩いてくる壮年の男性だった。

 普通なら、お互いが道の片側に寄って通り過ぎるだけで終わるはずだが、生憎その男性は僕がよく知る人だった。

 

「やあ、マー君。体調の方はどうだい?」

 

 立ち止まって、片手を軽く挙げた彼女の父親――おじさんは、僕に話し掛けてきた。

 薄い口髭、綺麗に揃えた顎髭。片方の口角をそれらと一緒に上げることで、頬に年季の入る皺を寄せて、洒落た笑顔を向けるおじさんは、平日の日中から住宅街を練り歩く立場の人ではない。

 

「……まだ昼間ですよ? 仕事しなくて良いんですか?」

「配達が一通り終わったからね。残りの仕事は母さんに頼んで、少し時間を貰ったんだ。それで、マー君の見舞いに来た。むしろマー君こそ、三日もアルバイトを休むほど体調が悪かったなら、治り始めだとしても学校なんて行かず、家で療養した方が良かったんじゃないかい?」

「そういう演技はいらないですよ。おじさんは、僕の家の方向からやって来た。見舞いだと言うなら、僕が療養しているはずの家へ真っ先に向かったのは間違いないはずです。ならお祖母ちゃんから、僕が体調を崩していないことはもう聞いているでしょ?」

 

 僕はお祖母ちゃんの前では、嘘を吐くこともせず、ずっと健康でしかなかった。そんなお祖母ちゃんと見舞いの名目で話をすれば、すぐに僕のアルバイトを休む理由が嘘だと分かるのは、当然の成り行きだ。

 

「素っ気ないじゃないか。ワタシと偶然出会った君が、偉く饒舌になりながら、必死に一から百まで嘘八百を並べることに、少しは期待したんだがね」

 

 おじさんは、いつものように気軽に、僕に皮肉を言ってくる。

 けれど、恐らくそんなおじさんとここで会ったのも、全部が偶然ではない。

 僕の家から花屋に歩いて帰る最短経路に、この道は外れている。態々迂回経路を通る理由が、買い物の寄り道みたいな弱い理由であることは、おばさんに仕事を任せて、見舞いのために少し時間を貰っているおじさんの状況的に考えづらい。

 加えて、家からこの道までの距離を考慮すると、僕が放課後開始からすぐに帰宅して到着するくらいの時間まで、おじさんが家にいた可能性が高い。となると、数十分程度の掃除時間で普段より帰りが遅れたことで、おじさんはいつ帰ってくるか分からない僕を待つより、仕事に戻る選択を優先したんじゃないだろうか。

 ならば、駅から家に帰ってくることを考えた上で、少し帰宅時間がずれた僕が通る確率の高い道を選んだという予想は妥当性を得てくる。職場に戻る行為に迂回する行為を掛け合わせる程の動機は、おじさんが僕の帰りを待つに至った目的の、予想に基づく完遂。最も効率的な電話による僕の所在確認をしなかったのも、お祖母ちゃんとの話で、僕がおじさん達を避けていると分かっていたからだとすれば、矛盾はない。

 しかし、おじさんが僕の体調不良を嘘だったと知った以上、見舞いという本来の目的には意味が無くなっている。となると、その目的は違うものに更新されているはずだ。

 つまり、健康体と分かった僕に会いたい理由が、三日間嘘を吐いて欠勤した立場の人間に会いたい理由が別にあるんだろう。

 そんな理由は、僕が思いつく限り、一つしかない。

 僕がおじさんに会ったら、始めに行わなければならないことは決まっていて、今までの会話はお互いの認識をすり合わせる挨拶みたいなものだ。僕は早急に次の段階に移行し、事を行う必要がある。

 僕は両手を太股の側面に沿わせて、姿勢を正すために胸を張って、肩甲骨を内に縮める。

 おじさんの顔を注視し、視線が交差したのを確認してから、僕はゆっくりと深く頭を下げる。

 

「この三日間、ご迷惑をお掛けして、本当にすみませんでした」

 

 ◇◇◇

 

 おじさんに誘われて、僕はすぐ側にあった公園に足を運んだ。一番入り口から遠い場所にあり、公園で遊ぶ子供達からも離れた木製のベンチに二人で腰掛けている。

 六月に入って次第に気温は高くなってきているが、今日は梅雨入りしてから初めてとなる雲一つ無い快晴だ。照りつける日差しは強いが、比較的からっとした気候であり、風も吹いているため、体感気温はそれほどでもない。

 外で遊ぶにはもってこいの昼時の公園は、遊具や鬼ごっこに興じる子供達の楽しそうな歓声が、遠くからでもこちらに響いてくる。平日の放課後を飾るのに相応しい平凡なその風景を、ベンチに座る僕とおじさんは少し間、黙って眺めていた。

 公園の角に追い立てられ、逃げ場をなくした子供が捕まって鬼になる場面を見届けた所で、おじさんが落ち着いた様子で喋り出す。

 

「なあ、マー君。ワタシが珍しく君の見舞いに行ったのはなんでだと思う? 君に断られてから、こんな真似はしなくなっただろう?」

「……仮病だって、大方の予想はしていたんじゃないですか? 僕が休み出したタイミングは、花屋で彼女の怒声が響いた後だ。体調不良が原因とは、考えにくいですから」

 

 おじさんが見舞いに来たと僕に伝えた時から、その行為自体が日常において、おかしいという違和感は持っていた。

 彼女がアイドルになると言い始めた四月。僕が連日風邪で寝込んだ時だって、おじさんが見舞いに来ることなんてなかった。それは僕が中学校に上がった頃から変わらない。

 どこまでも他人に親身になれるおじさん達は、小学生でまだまだ体が幼い僕が風邪で寝込んだ時は、よく見舞いに来てくれた。

 まあ、見舞いというのも名目上のもので、実際は看病だと言った方がいい。

 幼い僕は、風邪を引いたら満足に動けなくなるような子供だったから、その世話が大変なお祖母ちゃんの手助けをしてくれていたんだろう。老化で運動能力が低下してきていたお祖母ちゃんの代わりに、僕の体を拭いてくれたり、着替えさせてくれたり、トイレに連れて行ってくれたり、力が必要な看病を引き受けてくれることはよくあった。

 けれど、中学生になる頃には、僕はそこまで酷い風邪の引き方をしなくなった。だから、見舞いや看病に来ようとするおじさん達を僕から断った。

 当然だ。おじさん達は社会人として毎日仕事に勤しむ立場の人であるし、風邪を引いている人間の元に行って、感染リスクを背負い込む必要はない。僕から風邪が移ってしまえば、後々責任を取ることが面倒だ。

 それに、風邪だからといって他人に家に来られても、僕が自分の範囲で被害を抑えられるようになった以上、迷惑を掛けるつもりはないし、何かをしてもらう事は無い。そもそも、他人であるおじさん達にそこまでしてもらう道理も意義も、最初からない。

 要するに、僕が断固とした意思表示で断って以来、仕方無く納得したおじさん達は、見舞いに来なくなったということだ。

 だから、今日の普段と違う行動には、体調を心配する感情とは別の要因があるはずだ。そしてそれは、おじさん達が知っているだろう情報を整理すれば、容易に答えを導くことができた。

 

「いや、ワタシの中では、病気と仮病、どちらの可能性も一考の余地ありでね。むしろ、体調不良だと思っていたんだ」

 

 おじさんの返答を聞いて、僕は自分の予想が外れていたことに少し驚いた。

 

「どうしてですか? 僕を疑う理由はあっても、信じる理由はないでしょ?」

「そんなことないさ。君は仕事に対して、真面目に取り組む人間だ。君がお金の価値を、それと天秤に掛ける信頼と責任、時間の重要性を理解していると、ワタシはよく知っている。ならば、仮病で休むとも考え難かった。加えて母さんから、雨の中で傘も差さずに飛び出したことも聞いていた。精神的に参ってしまった状態で、追い打ちを掛けるように濡れて体を冷やしてしまえば、風邪を引くのも無理ないかと思ったんだ。だから正直に言うと、体調不良に一票を投じていたよ。……まあ、外れてしまったけどね」

 

 おじさんは冗談めかして笑い、額が見えるように大きく分けた黒い前髪を揺らした。

 僕は、この人達に大変な迷惑を掛けた。彼女を内側から支えると決意し、自分からアルバイトを受け持つことを提案したはずなのに、その仕事を放り出し、身勝手な行動の尻拭いをおじさん達にさせている。今も花屋で仕事をしているおばさんは、抜けた僕の代わりに、家事の時間を仕事に回しているはずだ。

 僕はもう彼女と、その両親であるこの人達と関わるつもりがなかった。そういう決断をした。

 だから、アルバイトを辞退することも、今日電話という簡単な行為だけで済ますつもりだった。勿論、謝罪は心の底からするつもりだったけれど、直接会いに行かず電話という粗略な方法を選んでいた。

 内情に逃避や臆病故の考えが無かったと言えば嘘になる。しかし一番の理由は、僕が直接赴けば優しい彼女の両親が気を回して、必死に僕に手を差し伸べようとすると思ったからだ。未だに心残りを感じている僕が、その甘い誘惑に乗らない自信がなかったからだ。

 でも、既に僕の目の前にこの人達が立ったなら、その問題は後回しだ。まず僕はこの人達に精一杯の謝罪を心と体で示さなければならない。それが、僕の身勝手に害を被る相手に対する最後の誠意だからだ。

 僕は立ち上がって、隣でベンチに座るおじさんに向かって再び頭を深く下げる。

 

「本当に、すみませんでした」

 

 僕は他人を大切に想えない。それでも、恩や借りを忘れる人間ではない。優しい母さんは、僕に良心という大切なものを教えてくれた。他人への愛情が欠落した僕に、この社会を普通に生き抜く力を与えてくれた。

 下げた頭の視界には、僕の履いているスニーカーと、薄茶色の土しかない。ベンチと側に立つ僕を覆う大きな樹木の影は、軽く吹いた風で揺れる。小さな木漏れ日が足下に幾つかの模様を作り出していた。

 前方から、低い声が届く。

 

「頭を上げてくれよ、マー君。……別に怒ってないんだ。叱りつけるつもりもないんだ。会った時から、君は反省していて、真剣にワタシへ謝意を見せてくれた。その姿を見られただけで、ワタシには十分気持ちは伝わっているんだ」

 

 おじさんが、扉をノックするかのように、ベンチで軽く音を鳴らす。

 

「だから、もう謝罪は十二分に受け取っているから、さあ、座ってくれよ。まだ君と話したいことが一杯あるんだ」

「……ありがとうございます」

 

 僕はおじさんに促される形で、重い頭を上げる。そして、まだ温かさが残っていたベンチに、座り直した。

 そんな僕を横目で確認したおじさんは、公園の中心付近に雄々しく伸びる立ち木の葉を見上げる。

 

「じゃあ、続きを話そう。ワタシはずっと君が体調不良で休んだと思っていた。けれど昨日店に、佐山君と可愛い女の子――美城さんだったかな、君の友人二人が来てくれたんだ」

「……二人がですか?」

「ああ。ワタシは佐山君達から、連日アルバイトを休む程体調が悪いはずの君が、普通に学校に来ていることを聞いた。そして彼らは、マー君の様子がおかしいから、凛と何かあったんじゃないかと、心配して態々ワタシに尋ねに来てくれたみたいなんだ」

 

 サザンと要が、僕の様子を訝しんでいたのは知っていたが、そこまで行動をしているとは思わなかった。

 そういえば、今日掃除をしている時のサザンは、僕が彼女のライブに行かない嘘の理由を伝えた時、偉く断定的にそれを否定していた。おじさんから、三日前に起きた出来事の断片を聞いていたとすれば、その発言に納得がいく。

 しかし、サザン達がそこまで行動する意味が分からない。彼らにとって、僕の様子がおかしい原因を確認することが、おじさん達の元まで尋ねに行くほど価値があるとは思えない。

 奇怪の二文字が真っ先に脳裏に浮かぶ。

 所詮、僕とサザンは中学の名前順の席が前後だったから、話すようになった間柄だ。別に共通の趣味を持つわけでもなく、自分が暇だと思った時だけ利用する関係だ。お互いがそれを許容して、相手に深く踏み込まないのが、僕達の在り方だ。

 サザンは毎年、姉の誕生日に送る花選びをおじさんに相談している。だから、おじさんと知り合いと言える関係だが、それでも気軽に尋ねる間柄でもない。そんな相手の元に僕のことを尋ねに行くなんて、奇怪以外の感想がでない。

 それは要にも当て嵌まる。

 僕は要が愛してやまないアイドルという存在に興味がない。ただ、幼馴染みがその立場に立ったというだけで、それだけから繋がりを持った間柄だ。

 サザンが僕と昼食を一緒にしているから、要とも一緒に食べるようになっただけだ。要がいくらアイドル談義に花を咲かせようが、僕は聞くことしかしない。まして、共感なんてものを抱くことはない。

 要にとって、僕という存在は、話を聞かせるだけの相手だ。誰にだって、沈黙を貫くただの人形にだって、取って代われる。

 そのはずなのに、要は僕が彼女と会えなくて落ち込んでいた時も、手を差し伸べてくれた。今も変わらず、必死に僕がおかしくなった原因を知ろうとして、僕が一緒にライブに行かないことを酷く悲しそうにしていた。

 僕には到底理解できない要の人間性。どうでもいい他人の為でさえ動くことができる、そんな温かい理念が、要の心と行動に介在しているのかもしれない。

 他人事として、淡々と思い浮かべていた彼らへの見解は、強い風に気を取られた拍子に、遠くへ吹き飛ばされた。

 勢いのある風は、頭上の枝を揺らす。葉の擦れ合いが、子供達の笑声と混ざり合って音を奏でる。

 木々の隙間を縫って届いた光が所々に転がる光景は、二度目に頭を下げた時も見た。けれど大きく開けた視界の中で、周囲に立ち並ぶ木々が一斉に木漏れ日を送る姿は、より一層幻想的に感じた。

 おじさんも、同じ感想を抱いたのかもしれない。感嘆の吐息を含んだような優しい声が、様々な音と重なり合って、僕の鼓膜を揺らす。

 

「……まだ君は、凛に小百合を求めているのかい?」

「はい」

 

 僕はすぐに、肯定の言葉を返した。

 今でこそ僕は彼女のことを名前で呼んでいるが、昔は「お母さん」と呼んでいた。そのことを知る人ならば、僕が母親を求めた故に、その代替として彼女と接していた事実を認識しているのは、当然だろう。

 だから、この質疑応答に意味はなく、導入への言葉遊びでしかない。

 僕は堂々巡りの思考から抜け出すための決意表明の如く、おじさんの返事を待たずに続きを話す。

 

「でも、彼女に付き纏うことを、もう辞めようと思います。……前から一方的な関係だって分かっていましたけど、離れる機会がなくて困っていたんです。今まで、惰性でこの関係に浸っていましたが、そろそろ他人でしかない彼女に母親を重ねるのは止めるべきだ、ずっとそう考えていました。……だから、この機会に一新したいと思います」

「一新? どういうことだい?」

「……三日も休んだ挙げ句、本当にすみません。突然で悪いんですが、アルバイトを辞めさせて下さい。彼女の近くにいると、長年の癖で余計な真似をしてしまいそうです。これ以上、あの家と、彼女に近しいおじさん達の側にいると、ご迷惑をお掛けすると思いますから」

 

 僕は座ったまま、膝に手を置いて、隣のおじさんに頭を深く下げる。

 

「身勝手な行いを立て続けにして、本当にすみません。……今まで、お世話になりました」

「……なあ、マー君。君は凛に、小百合だけを求めているのかい?」

 

 僕はその言葉の意図がうまく掴めかった。母さんの話を切り出す最初の問いかけと、相も変わらぬように思えるその言葉を発した訳が分からない。

 二つの発言を比較しても、大方の違いは「だけ」という一言が付いたくらいだ。

 疑問が浮かぶ頭を上げて、相手の表情を視界に捉える。おじさんは真剣味を帯びている瞳を、真っ直ぐに僕の瞳に向けていた。

 

「……どういうことですか? さっきの言葉と同じ意味ですよね?」

「いいや、違うよ」

 

 おじさんは、首を横に振った。諭すような口調で、粛々と喋っていく。

 

「好きな人と同じ部分を、他の人に求めることなんてよくあることだ。好きなタイプは誰だと聞かれて、恋人や友人の特徴を思い起こすように、人それぞれ、友好的な相手に求める基礎の部分は、多かれ少なかれ決まっている。だから、愛する母親に似通った部分を持つ人に好感を寄せるのは、決しておかしいことじゃない」

 

 確かにそうかもしれない。それは案外普通なことなのかも知れない。

 でも、僕の場合は違う。

 

「僕は、母親でない他人の彼女に、母親としての役割を押しつけていた。そこに、彼女が彼女たる意味はないんですよ。……そんなの、おかしいに決まっている」

「凛と会ったばかりの君ならそうだったんだろうね。でも、今は違うだろう?」

 

 おじさんの視界には、僕の何が変わったように見えているんだろう。

 これまでの日々を振り返る。けれど、頭上に広がる空に雲が一つもないように、僕の変化にも思い当たる節が一つも見つからない。

 僕の中の彼女は、ずっと同じだ。彼女と共に涙を流したあの日から、僕が彼女に抱く価値は定まったままだ。

 

「今も昔も変わりませんよ。僕は彼女に母さんの面影を求めている」

「それだけじゃないだろう? 君は凛を凛として好いてくれている。それもずっと昔からだ」

「おじさんは、何か勘違いしてますよ。現に僕は彼女の舞台を笑顔で応援することができなかった。それどころか嫌悪の感情を抱いていた。……彼女本人からも伝えられましたよ。出会ったばかりの頃と変わらない、彼女と母親が重なりきらない時の表情を浮かべていたと」

 

 僕は彼女がアイドルになることを、本心で応援なんてしていなかったんだろう。

 だからあの時、母親としての役割を果たせない彼女に、失望を露わにしていたんだろう。

 

「違う。君も、凛も、勘違いしている。その表情の内側にある感情を、間違えて認識しているんだ。ずっと隣にいたからこそ、当然の結論に至れていない。出会い方に従って、経験則に従って、主観的に気持ちを捉えてしまっている」

「そんなことないですよ。僕の感情は他でもない僕が一番分かっている」

「マー君。……親しい人間が自分から離れることを寂しいと思うことは、普通のことだろう?」

 

 ああ、そんなことか。根本的に違うんですよ、おじさん。

 

「僕は昔から、他人を代換えの利く存在としか思えないんですよ。家族以外を大切に想えない。母さんと一緒にいた頃から、僕はそんな人間だった。そんな僕が、他人である彼女が離れていくことに何かを思うとすれば、それは偏に、彼女に家族を感じていたからだ。……こんなことを言ってはなんですが、僕はおじさんやおばさんが死んでも、何も思いませんよ。だって、そうでしょう。おじさん達は代換えの利く他人ですから」

 

 僕はもう一度、おじさんの顔に視線を向けた。

 自分の価値観が、鋭利な刃物のように他人の心を傷付けると、僕はこれまでの人生経験から知っていた。

「類は友を呼ぶ」なんてことわざは、間違いなく嘘だ。

 僕の周りは、いつも他人を思い遣る性格の人ばかりで、僕のように他人を簡単に切り捨てられる、社会通念上――冷酷である人間は誰一人いなかった。

 だから、他者に言葉にしてまで、この価値観を伝えたことは一度もない。その言葉に面した相手が、怒るのか、悲しむのか、その反応を確認したことはない。

 

「周囲の人に手を差し伸ばせる優しい君が、そんなわけないだろ」

 

 おじさんは怒っていなかった。悲しんでいなかった。首元の当てられた刃が、まるでジョークグッズの偽物だと分かっていたとばかりに、感情の変化が窺えなかった。

 目の下に薄く刻み込まれた皺に影を作り、黒い瞳孔がこちらを向いている。忌避感も、嫌悪感もなく、温かくも真剣な眼差しだけが、僕を射貫く。

 おじさんは、沢山の想いを込めるみたいにゆっくりと丁寧に、酸いも甘いも噛み分けてきただろう口を動かして、言葉を紡ぐ。

 

「……凛がアイドルになると言い出した時、優しい娘に日常的に家事や仕事の手伝いを頼っていたワタシ達は、娘が憂いなくアイドル活動に取り組めるように、家事や仕事の心配はいらないと強がった。しかし、事実として凛の抜けた穴は大きく、困っていたワタシ達を見かねた君は、ワタシ達の元で働いてくれると言い出してくれた。君が大切にしていた家族との時間を擲って、毎日の放課後は、強がる大人の手助けをしてくれたじゃないか」

 

 違う。

 

「ただ、彼女に大きな借りがあったからですよ。僕の義理立てに、間接的におじさん達の状況を利用したに過ぎない」

「君は凛に対して、バイトを始めた理由も誤魔化してくれていた。『男が寄り付いていると思われないためにバイトを始めたみたい』と、君が吐いた嘘の理由を、凛から聞いたんだ。見栄を張るワタシ達の為に、君は、自分の優しさが何も本人に伝わらない嘘で、真実を隠してくれていたじゃないか」

 

 違う。

 

「僕は、彼女に借りを返したかっただけで、感謝の押し売りをする気はありません。本当の理由を一々説明するより、誤魔化す方が手間じゃなかった。ただ、それだけが理由ですよ」

「毎年君は、君が言うどうでもいい他人であるはずのワタシ達の誕生日に、プレゼントを用意してくれたじゃないか」

 

 違う。

 

「毎日のように他人の家にお邪魔しているんです。一家の食事に参加させもらった事も、看病をしてもらった借りもある。それくらいするのは、当たり前ですよ」

「ああ、そういえば、母さんが凛のライブで緊張していた時、君は冗談で気を紛らわしてくれていたんだろう? 母さんが助かったと言っていたよ。ワタシが落ち着かなかった時も、公共の場で馬鹿な話に付き合ってくれて、ありがとう」

 

 違う。全く違う。

 

「……どこまで気持ちの悪い勘違いをするつもりですか。あの時の僕は、ただ自分の感情に従って、自分のために狂っていただけだ。……どれもこれも、僕に媚びへつらうように物事を捉えられては、話にもならない。僕は貰える物は貰っておく主義だ。けれど、謂われのない賞賛で否定した事実をねじ曲げられるのは、単なる迷惑でしかない」

 

 僕は反吐が出るような言葉の羅列に、おじさんを睨み付けた。けれど、おじさんは僕の威圧を受けても、一向にその瞳を逸らすことはない。

 

「他人のために行動する時、君は貸し借りの精算を理由に答える。行動の真意を尋ねれば、君は家族以外のどんな相手にだって、自分本位な理由を並べ立てる。けれど表面的な行動を顧みれば、君はいつも他人の気持ちを慮って、他人に寄り添って、優しさに溢れている。そんな君が、家族以外を大切に想えていないわけないじゃないか。君は他人を大切に想えないんじゃない、想わないようにしているだけだ。……愛情が大きすぎる君は、周囲の大切な人が離れることを怖がっているから、そう思おうとしているんだ」

 

 おじさんはそう言って、ベンチから立ち上がった。僕と向き合う形に振り返り、花屋の水仕事で乾燥してしまった荒い指先を、僕の髪の隙間に通して、優しく撫でる。

 伸ばされた腕の隙間から視線を向けると、おじさんは眉間を狭めて、少しだけ口角を上げた。

 

「大切な人を失うことは、辛いことだ。幼い頃に両親と離ればなれになった君が、どれほどの恐怖や孤独を感じていたかを、ワタシは想像することしかできない。君にとって、大切な人を家族だけと限定することが、自身を守る手段だったのかもしれない。だけど、それでは寂しいじゃないか。ワタシにとっても、妻にとっても、もう君は他人じゃないんだ。ずっと昔から、愛する家族の一人だと思っている。だから、そんな寂しいこと言わないでくれよ」

 

 向けられたその表情が、その瞳が、余りにも愛情深くて、視線を逸らした。

 大きな掌で包むように頭を撫でるその姿が、ずっと昔に、幼い僕と一緒に笑っていた一人の男を想起させてくる。

 僕の父親――僕の父さん。

 まだ父さんが隣にいたあの頃。物心がつき始めた僕と、母さんと、三人で食卓を囲んだ幼い日。あの日々が続いていた時まで、僕は家族だけじゃない多くの人を大切に想えていた。

 僕は母さんのことが大好きだった。だけど、別に父さんへの愛情が劣っているわけではなかった。今も世界の誰よりも大切に想っている母さんと同じくらい、愛する人だった。

 だから、離婚して父さんと離れることが決まった僕は、毎晩泣き続けた。母さんの胸元に顔を埋めて、止まらない涙と鼻水で服を汚した。父さんには癇癪を起こして怒鳴り散らし、自分の望みを叫んだ。

 母さんは涙に弱かった。食事の時、僕が苦手な野菜を皿の上に残せば、母さんは無言の圧力を掛けてきて、口を無理矢理開いてでも食べさせてくる。でも僕が涙を流すと、困ったように謝って、その手を止めてくれた。

 厳格とは正反対な父さんは、我が儘をよく聞いてくれる人だった。買い物に行った時、欲しい玩具が陳列する棚の前まで父さんを引っ張って、僕が欲しい気持ちをアピールすれば、母さんを説得する見方になってくれた。母さんを説得仕切れなくても、父さんは最後に再三本当に欲しいかどうかを僕に尋ねてきて、それに頷くと、母さんに怒られながらも玩具の箱を勘定場に持って行ってくれた。

 生まれてこの方そんな二人と過ごしてきた僕は、泣いて、自分の気持ちを正直に訴えることが望みを叶える一番正しい手段だと思っていた。そうすることで、叶えられない願いなんて存在しないと信じていた。

 どんな事情があるにしても、母さんと父さん、そして僕の三人でこれからも一緒にいたいと、その時僕が抱える精一杯の想いを、一日の全ての活力を注ぎ込んで涙と、言葉で示した。僕は毎日、疲れて眠り落ちてしまうまで、内から溢れ出る恐怖と寂しさを生ぬるい水と震える声に変えた。

 けれどそんな僕に対して、母さんは謝るだけで、父さんは申し訳なさそうに顔を歪めるだけで、離婚を折れてくれることはなかった。

 それどころか、僕は見知らぬ土地のアパートで暮らすことになった。財産分与の関係上、それまで暮らしてきた一軒家は父の物で、家賃や立地などの色々な事情もあったのか、僕はそこから離れた別の場所で母さんと暮らすことになった。

 幼稚園で鬼ごっこをよくした友達と別れて。好きだと言い合った幼い女の子には、俯きながら手を振って。近所に住む蜜柑をくれたおばちゃんには、挨拶もできなくて。公園でゲートボールを教えてくれたお爺ちゃんの元へは、遠くて遊びに行けなくなった。

 誰よりも大切な人が、ずっと自分の隣にはいてくれないことを知った。家族という関係でなくなった人は、僕を遠く離して、愛してくれなくなることを理解した。

 住む場所が変わって、家族ではない周囲の人も、僕の目前から姿を消した。家族でなければ共にいることはできなくて、遠く離れただけで、幼い僕がその人達と築き上げてきた関係は、何もかもなくなった。

 もう、僕の近くには母さんしかいなくなっていた。

 一緒に暮らす家族以外の関係全てが弱々しく見えた。家族でなくなった人はいなくなって、元から家族でなかった人もいなくなった。

 誰かを大切に想うことは、その誰かが側にいなくなることを悲しむことだ。

 大切な人と離ればなれになることは嫌なことで、当時の幼い僕にとってはどうしようもないことで、ただただ辛いことだった。

 もうこんな経験をしたくなかった。誰かを大切に想うことが怖かった。失ってしまった相手に、失うことになる相手に、気持ちを磨り減らしたくなかった。

 だからまず、家族という枠組みから外れた父さんを、大切に想わなくなった。次に、遠く離れてしまった家族以外の他人を大切に想わなくなった。そして、新しく出会う幼稚園や託児所、公園の子供や大人を大切に想わなくなった。

 大切は家族で、家族は大切。それ以外は有象無象で、どうでもいい存在。家族以外の他人に、どう思われようが、いくら離れようが、死のうが生きようが、気にしない、気にならない。

 そう考えたら、心が軽くなった。涙が止まった。胸の痛みがなくなった。

 おじさんの言う通り、幼い僕にとって、家族以外の存在を愛情の対象外にすることが、心を守り、恐怖を抱きながらも誰かを愛する手段だった。

 けれど、僕は家族以外の他者をこの価値観で切り捨てて、この十年間をずっと生き続けてきた。

 学友との繋がりは暇潰しの意味しか持たず、態々放課後や休日を共にする意義はなく、いつ失っても構わない関係だ。

 長い年月の間、毎日花屋に通って遊びに来る僕を優しく出迎えてくれた、母さんのいとこである二人は、ただ彼らの娘に用があるから続いた取るに足らない関係だ。

 自分の自由な時間を家族にだけ費やして、母さんを、お祖母ちゃんを愛した。そして、どうでもいい他人であるはずの彼女を、家族の面影を感じるからなんて下らない理由で、ずっと求め続けることができた。

 それはもう、僕の精神に、冷酷な本質が元々あったからなんだろう。経験という養分を得てそれが表層まで成長し、茎を伸ばして花が開いただけの話だ。

 今更、僕にどうしろと言うんだ。

 おじさんは、僕が未だ他人を想う気持ちを持っていると言ったが、そんなことは断じてない。人が他者を本質的に捉えることなんて出来ない。全ては仮定でしかなく、僕の行動が表層では良心的に見えるからといって、僕の本心が同じと決めつけるのは間違っている。

 建前と本音。人の思考が言葉や行動でしか示せないというのならば、両者の間に線を引くのは、観測者である曖昧な人間だけだ。

 優しさに偏った人間が、偽善を善だと思い、悪を偽悪だと推し量るのは当然だ。

 好きなスポーツチームが勝つと喜び、負けると擁護するのと変わらない。芸能人の不祥事を庇うファンも、子供の為なら、善悪問わず理不尽な要求をしてくる親も似たようなものだ。

 心の中にある行動原理を、その唯一の真実を明確に語れる人間は、その本人だけだ。

 本人の気づいていない、理解していない感情ならば、他者はその観測を通して、気づきを与えられるのかもしれない。

 けれど、僕はきちんと自分の感情を、それに行き着いた理由も認識している。僕は社会的な善悪の価値観を持ちながら、他人に掛ける優しさも、思い遣りも、心の底から溢れ出る温かい感情を忘れているという自覚がある。

 万が一、おじさんが言っている言葉が正しいとしよう。僕が心の裏側にある本心を正確に捉えられてないとしよう。けれど、その仮定を通しても、結局何も変わらない。長年そう信じ続けた事実を裏返すことは、生き方を変えることだ。

 おじさんの中では、踏み出す勇気のない僕を、軽く後押ししているつもりなのかもしれない。けれど、僕にとってその言葉は、容易に受け入れる程に安価な代物ではない。

 過去の歩んだ経験も、この価値観を抱くに至るまでの思考も、全部をかなぐり捨てて、僕に生まれ変われということだ。

 僕が、どうして僕が、僕に何の利益が、何も悪くない僕が、もう僕には面倒で、なんで僕が傷付かなければ、僕は家族だけで十分で、僕の価値観を否定されて、僕が生きてきた証しを、僕が苦労して歩んだ経験の意味が、僕の痛みを知らないのに、何のため僕が頑張って、僕をそんな目で見つめるな、僕に理想を押しつけるな、僕の気持ちを想像で――。

 

「――渋谷護」

 

 おじさんは、願うように僕の名前を呼んだ。

 そっと僕の頭から手をどけたおじさんは、柄にもなく手を震わせる僕に向けて、三日前のあの日、雨の中おばさんが僕に向けた言葉と同じものを口にする。

 

「臆病にならないでくれ」

 

 ◇◇◇

 

 茶褐色の玄関扉を横に滑らせて、家に入る。

 温かい外と違って、冷たさを伴った桧の香りが鼻腔をくすぐる。コンクリートの土間と木製の廊下を分ける段差に座り、固く結んだ靴紐を解かず、踵を手で押さえて靴を脱ぐ。近くの洗面所に向かい、手洗いとうがいを行う。

 音も立てず廊下を通って、タオルで拭いてもまだ水気を感じる手を使い、居間の扉を開けば、その先にはいつも見慣れた光景が広がっている。

 敷き詰められた六枚の畳。小物や雑誌が置かれた本棚、切り花を添える透明の瓶が置かれた長方形の低いテーブル。それから人一人通る隙間を空けて、壁に沿うように置かれたソファー。きつね色のそれに座るお祖母ちゃんは、部屋の角に設置された台上のテレビを眺めていた。

 

「お帰りなさい」

 

 僕が帰宅を告げる前に振り返ったお祖母ちゃんは、垂れた目を細めて、優しく挨拶をしてくれた。

 

「ただいま」

 

 慣れ親しんだ声を聞いた僕は、いつものように笑顔で返事をして、背負ったリュックサックをソファーに立て掛ける。次いで、基本的に開いたままの襖を抜けて隣室の台所に向かい、冷蔵庫からお茶を取り出す。

 僕の愛用するマグカップは二つある。一つは母さんが買ってくれた物で、もう一つは、託児所に預けられていた僕と仕事帰りの母さんを車で送迎してくれた人から、プレゼントで貰った物だ。

 もう十年近く使っているそれらは、毎日のように使ってきたにも関わらず、どちらも健在だ。

 僕は物持ちが良い方だという自信はある。けれど、日用品でここまで使い続けているのは、この二つくらいだろう。これ以外の容器を使って何かを飲むと、いつもより味が落ちたように感じる。もし壊れでもしたら、僕の飲水生活の品質は格下げ待ったなしだ。

 僕は母さんが買ってくれた白のマグカップを手に取って、冷たいお茶を注ぐ。そして、渇いた喉にお茶を勢いよく流し込む。

 飲み込む喉の音が鼓膜を揺らし、かき氷を食べた時のように頭が少々痛くなった。それでも、留まることなくマグカップを傾け、最後の一滴がなくなるまで僕は体勢を変えない。

 数秒も経たず、僕は中身を綺麗に空にしたが、ほんの少し満足できなかった。後は居間で程よく飲もうと思った僕は、再度マグカップにお茶を入れる。

 

「お祖母ちゃんも、お茶飲む? なんなら、コーヒーの方が良い?」

 

 僕は視線をお茶が流れ込むマグカップに向けながらも、隣室に届く程度に声を張り上げた。すると、お祖母ちゃんは「コーヒーをお願いします」と返事をした。

 僕は自分の飲み物を注ぎ終えると、冷蔵室を再び開いて、右手に持つ物をコーヒーの紙パックに入れ替える。お祖母ちゃんが使う縦長のグラスを水切りかごから左手で取り出し、一旦二つを台所の上に置いた。

 電気代や動作音で、お祖母ちゃんが買い換えを悩んでいる家の冷蔵庫は古い。自動で氷を作る機能は付いていない為、溜めておいた氷がいつの間にか無くなっていることはよくある。

 僕は製氷皿を、雑巾を絞るように捻り、凹みから外れた氷をグラスへ入れた。必要のない残りを冷凍室の氷を保管する入れ物にしまい、製氷皿に次の氷になる水を入れて、ゆっくりと元の場所に仕舞う。

 コーヒーを紙パックからグラスへ入れる。幼少期の頃から未だに美味しさが理解できないそれは、流し込んだ勢いで氷を転がし、涼やかな音を響かせた。

 紙パックを片付けて、二つの容器を持って移動する。ソファーにいるお祖母ちゃんに水滴が浮かぶグラスを渡して、その隣に腰を下ろした。

 感謝の言葉を口にしたお祖母ちゃんは、少しずつ区切りながら、グラスに口を付ける。

 僕も似たようにちびちびと飲んで、背もたれに上半身を預ける。

 テレビでは、再放送の漫才番組が流れている。新人のテンポの悪い漫才を眺めていると、お祖母ちゃんは穏やかに喋り始める。

 

「お仕事、休んでよかったんですか?」

 

 たわいもない話をするように投げかけられた言葉。

 僕は、テーブルの上に置かれた切り花を視界の端に捉える。

 

「うん。僕はもう、花屋のアルバイトに行かないし、放課後に寄ることもないと思う」

 

 予想以上にすんなりと、口が動いた。

 

「……そうですか。じゃあ、空いた時間に部活動に取り組むのも良いんじゃないですか? 中学の時から、一度も経験したことがなかったでしょう?」

「部活は嫌だよ。お祖母ちゃんと一緒に居られなくなる」

「……その理由は、私としては嬉しい限りですけど、決断は早まらないで良いんじゃないでしょうか? スポーツや芸術に取り組むことも、学生の本分だと思いますよ」

 

 そう言って微笑むお祖母ちゃんは、僕が仕事を休んでいることを知っているのだから、見舞いに来たおじさんと話をした後のはずだ。僕がここ三日バイトに行かなかったことも、その大方の理由も、既に知っているだろう。

 それにも関わらず、僕の快く思われない行動に対して、注意や説得を試みず、軽く流すように事実を受け入れてくれる姿勢は、今の僕にとって、十二分にありがたかった。

 お祖母ちゃんはコーヒーを一口啜った。その後、少し考える素振りを見せてから、僕の方に振り向く。

 

「でも、そうですね。まだ何も決まっていないのでしたら、とりあえず私と一緒に買い物にでも行きましょうか。護君の体に合う服も少なくなってきましたし、似合う服を探しに行きましょう」

「最近二人で出掛けてなかったから、一緒に買い物には行きたいな。服は安いので良いけど」

「ちゃんと似合う服を選んでください。護君が選ぶ服は、値札の数字を優先するばかりでいけません。髪はしっかり整えているんですから、服装も格好良くするべきです」

「花屋のアルバイトは、ほとんど学生服の上にエプロンを着ていたし、カフェのバイトは制服があるから、髪と顔以外の身嗜みは重要じゃないよ」

「そう言わず、一着や二着はお気に入りの物を見つけておくべきです。友達と遊びに行く時、着る物がなくて困りますよ?」

「そんな機会はこれまでなかったから、これからもないんじゃないかな」

 

 小学校に入学した頃から今まで、同級生と放課後を一緒に過ごしたことはなかった。家族か彼女、どちらかと一緒にいる時間を優先してきた。

 もう断ってしまっているが、明日サザン達と出掛ける約束をしたのも、彼女のライブに見に行くという目的が先にあったからだ。そうでなければ、僕は絶対に彼らと共に自由な時間を費やすことはない。

 そう考える僕を、どうしてかお祖母ちゃんは訝しむように見てくる。

 

「……もしかして、何かと理由を付けて私に服を選ばせないようにしていますか? 去年、凛ちゃんの誕生日に服をプレゼントした時、反応が微妙だったのを見てから、薄々気になっていたんですが……」

「僕はお祖母ちゃんのセンス、良いと思うよ」

 

 お祖母ちゃんが気に入った服は、安い服や売れ残りが多い。同じデザインの服が、色々なサイズで有り余っているから、大きさが合わなくて購入を断念するということもない。だから、安くて楽で良い。

 

「……とても遅ればせながら気付いたんですが、護君の『良い』は、お洒落に関して『どうでも良い』から、なんて意味は含まれてませんか?」

「そうだよ。僕が値段だけで選んだ物より安いのを掘り出してくれるから、最終的に洋服代の負担が少なくなって良い、っていうのが意味の中心だけど」

「……ですよね。……いつも孫が満面の笑顔で褒めてくれるので、疑うことなく有頂天になってました」

 

 お祖母ちゃんは俯いてしまい、太股の上に載せた手が持っているコーヒーを見つめている。

 言葉選びを間違えたかもしれない。僕にお祖母ちゃんを落ち込ませる意図は全くなかったが、話の流れを考えると、まるでお祖母ちゃんのセンスを否定しているみたいだ。

 けれど、そもそも僕は身に付ける服のデザインや機能性に頓着していない。そんな人間が、服に関してセンスの善し悪しを計る程の好みも、知識も有している訳がない。

 常識の範疇に収まっているならば、形や色はなんでも良くて、機能性において語れる唯一の好みは、ウエストベルト式よりウエストゴム式のズボンが好きなことくらいだ。それが好きになった元々の理由だって、体の成長に合わせて伸びてくれるから、長い間履いても腰回りが締め付けられず、使い続けていられるからだ。

 とどのつまり、僕にとって服を安く買える能力というのは、何よりも十分な魅力がある。だから、お祖母ちゃんが選んでくれた服に不満を抱いたことはないし、愛する人が自分の為に一生懸命物を選んでくれているのだから、その行為自体が嬉しいに決まっている。

 勘違いを解いて、元気を取り戻してもらわなければ。そう思った僕は喋り出す。

 

「お祖母ちゃん、僕は別に服選びのセンスが悪いなんて言ってないよ」

「……良いんです、自分でもなんとなく分かっていましたから。年を取るということは、体だけでなく、時代に合わせた感性すら鈍ることだと……。若かりし頃に夫を射止めた美的感覚も、娘に教え込んだ知識も、既に過去の産物です。女物でさえ全盛期の力を失っておきながら、恋人時代に夫の服選びに熱中して以来、触れてさえこなかった男物を再び手に取った。長年で培ったものを今まで信じてきましたが、どうやらそれは、視野を狭める見栄や誇りしか残っていなかったようです」

「……お祖母ちゃん。そんな、気にすることないよ。僕には服の事はよく分からない。だけど、その頑張って選んでくれている気持ちが、一番嬉しいんだ」

「ありがとうございます」

 

 困り顔と笑顔を合わせたような表情を浮かべて、吐き出すように言葉を紡いだお祖母ちゃんは、手に持っていたコーヒーの残りを喉に流し込んだ。

 テーブルに空になったコップを置くと立ち上がって、近くにあった本棚から数冊の厚みがそれほどない本を持ってくる。そして座り直したお祖母ちゃんは、幾つかの本を扇子のように広げて、僕に表紙を見せてくる。

 

「で、す、が、今回からは大丈夫です。若者服はこの雑誌で一杯勉強してます。近くのショッピングセンターに、新しくできたお洒落な洋服店がありますから、一緒に見て回りましょう!」

 

 その表情は先ほどと打って変わって、自信に満ち溢れていた。

 少し呆気に取られた僕が何も言えずにいると、お祖母ちゃんは何かを思い出したのか、付け足すように言葉を続ける。

 

「あ、でも、もし夕飯の買い出しも纏めてするのでしたら、献立は秘密にして驚かせたいので、食品売り場は別行動ですけどね」

 

 暢気に笑うお祖母ちゃんを見て、僕の心配は何だったのかという気持ちになった。

 だから、強く首を横に振って、断固たる否定の意を示す。

 

「駄目駄目。透けるレジ袋を見たら、どうせ何を作るか分かるんだから、一緒に回ろうよ」

「大丈夫です。色つきで不透明のエコバッグを持参します」

「荷物は僕が運ぶんだから、持っている時に上から袋の中身が分かるし、買ってきた食材を冷蔵庫や戸棚に片付けるのも手伝うから無意味だよ」

「私が運びます。私だけで片付けます」

「この前、それで腰を痛めたのは誰だったかな?」

「はて……、誰でしょうか?」

 

 お祖母ちゃんは、白々しく首を傾けた。重力に引かれて、襟足で揃えられたストレートの黒髪が揺れる。毎日手入れが念入りに行われているその髪は、六十代という年齢に沿わず瑞々しく、綺麗さを保持している。

 

「そこまで献立を内緒にしたいの? じゃあ、僕が言う条件を呑んでくれるならいいよ」

「なんでしょうか?」

「毎日、僕がお祖母ちゃんの腰をマッサージすること」

「……それは私にとって、願ったり叶ったりの条件に思えますが?」

「でも、僕が間違えてお祖母ちゃんのお尻を揉んでしまっても、その事を母さんとお祖父ちゃんの仏壇の前で喜々として語っても、文句を言わないでね」

「な、なんてとんでもない報告をするつもりですか!」

 

 慌てた表情をこちらに向けるお祖母ちゃんの姿が愛おしくて、僕は笑顔を浮かべた。

 どこかほっとしたような気持ちになって、僅かに尻が滑る。腰で座るとは言わないまでも、少し行儀の悪い姿勢になった。けれど、背もたれに腰を当てて、背筋を伸ばしたお祖母ちゃんより、僕の方が未だ目線は高いままだ。

 いつ頃から、僕はお祖母ちゃんの身長を追い抜いたんだろう。この家が、僕の帰りたい家になったばかりの頃は、ずっとお祖母ちゃんを見上げていたのに。

 百八十くらいになった身長はまだ伸び続けている。でも隣に座るお祖母ちゃんが昔より小さく見えるのは、僕の体が大きくなったからだけではないだろう。

 普段は気にならない、お祖母ちゃんの目の下に通る皺に、視線が向く。

 どれだけの喜怒哀楽を抱けば、この筋を刻み込めるのだろうか。ふとそんな疑問が脳裏を過った。

 僕の中でお祖母ちゃんは、家族という愛情を向ける対象でありながら、人生において一番尊敬する人でもある。

 母さんが亡くなって半月が経った頃、お祖母ちゃんは茫然自失となった僕に、辛くても理解しなければならない真実を突きつけた。大切な人の死を受け入れられない弱い僕に、現実と向き合うことを望んだ。

 優しい人間にとって、人を悲しませ、叱り付け、傷つけることは、自分にも痛みが伴うことだ。

 生涯を共に支え合う夫を亡くし、成長を見守った愛娘を失い、その娘の子供は心を閉ざした。あの頃から今に至るまで、僕を育て上げてくれたお祖母ちゃんの状況は、精神的にも、身体的にも、決して楽ではなかった筈だ。

 けれど、お祖母ちゃんはそれでも、決して甘えた決断を選び取ることはなく、僕の将来の為に、厳しくも優しく僕に向き合った。

 幼い僕はその想いを酌んで上げる事ができなくて、身勝手な思い込みで、外では誰彼構わずおかしな言動で接するようになって、家では何ヶ月もの間、お祖母ちゃんとの会話を無視し続けていた。

 僕は何度かお祖母ちゃんと一緒に、学校に呼び出されたことがあった。僕の学校生活があまりにも投げやりで、同級生に対して変態的な言葉と行動ばかり起こすからだ。

 お祖母ちゃんに連れられて、迷惑を掛けた同級生とその保護者に、一緒に頭を下げに行ったこともあった。

 彼女と初めて出会った夏の日、僕が倒れた連絡を受けたお祖母ちゃんは、彼女の家まで駆け込んでくれた。その後おばさんから事の経緯を聞いて、嫌な思いをした彼女と、苦労を掛けた保護者であるおじさん達に謝罪と感謝を述べてくれた。

 僕が問題を起こす度、被害を受けた人に頭を下げた。お祖母ちゃんは幼い僕をよく咎めたが、他者から十分な叱責を受ければ、それ以上に言葉を重ねることはしなかった。お祖母ちゃんの厳しい言葉はいつだって、怒りや苦しみをぶつける為じゃなくて、僕の正しい成長を願ってのものだった。

 得るものなんて何もなかったはずだ。傷付き、失うことばかりだったはずだ。それでも僕を見限らず、温かいご飯と、綺麗な服と、帰る場所を用意してくれた。

 僕が現実を思い知って怒り狂った時でさえ、僕自身がお祖母ちゃんに罵声を浴びせた時でさえ、精一杯に抱きしめて涙を流してくれた。周囲を傷付けることでしか強がれない僕の代わりに、涙を流してくれた。

 母さんが僕を愛してくれたように、母さんの子供である僕を愛してくれる人。同時に、未熟な僕を教え導いてくれた人。

 多くの思いを重ねてきたから、お祖母ちゃんはここまで優しくて強いんだろう。辛いことも、悲しいことも、楽しいことも知っているから、言葉を交わしただけで、こんなに安心を与えてくれるんだろう。

 けれど、僕はそんなお祖母ちゃんから、昔の話をあまり聞いた事がなかった。お祖母ちゃんだけでなく、母さんのいとこであるおじさん達にも、僕の大切な人の過去を、関わり深い相手のことを聞いた事がなかった。

 今を生きる僕は、過去を深く知るより、過去を護ることに力を注いでいたからだ。

 僕は思い出を護ることに必死で、大切な人を深く知るよりも、思い出が書き換わることを怖がっている節があった。

 僕の生き方は、幼い時の経験を元にしたものだ。僕の根幹を担う全てが、書き換わることが嫌だったから、だから、知ることを選ばなかった。

 それに、僕は今はもういない母さんとの思い出を、ずっと一緒にはいられないお祖母ちゃんとの思い出を、生涯の支えに生きていかなければならない。

 ショーケースに入れた大切な物を、僕は取り出さないし、誰にも見せることはない。

 たとえ、共に並べることでさらに魅力溢れる物が現れようとも、ショーケースを開いたせいで埃一つでも入ってしまうなら、そんな物はいらない。

 たとえ、大切な物が認識以上に素晴らしい物で、鑑定者に調べてもらうことで真の価値が見出せるとしても、僕が向ける感情にどんな小さな変化でも生じるならば、そんな事は望まない。

 変化を怖れ、停滞を望むのが、僕の在り方だ。

 だから、止まった時間が納まる写真が好きなんだ。衰退していく記憶なんかより、ずっと明確に留まり続ける一枚を求めてしまう。

 

『臆病にならないでくれ』

 

 唐突に、公園で話をしていたおじさんの言葉が意識に上った。

 

『臆病にならないで』

 

 降り落ちる雨の中、傘を差したおばさんの声を思い出した。

 

「……僕の、僕の母さんは、僕の父親は、どんな人だった?」

 

 気付けば、僕はお祖母ちゃんに問いかけていた。本当に小さく、ため息と勘違いされてもおかしくないような声を吐き出して。

 話の流れも何もない、僕の思考ともかけ離れた、まるで体が人形で、糸で操られているかのように勝手に動く奇妙な感覚。

 潤っていたはずの喉が急激に渇いていき、持っているマグカップが小刻みに振動を始める。僕はマグカップを両手に握って、震えを抑えようとするが一向に止まる気配がない。渇いた喉を潤そうにも、口元まで持ってきたマグカップは揺れて、縁と前歯がぶつかり合って、うまくお茶を飲み込めない。

 仕方無く、僕は膝を支えにしてマグカップを固定するが、それも意味がない。膝もまた、貧乏揺すりをするかのように震えていて、マグカップのお茶が零れてしまいそうだった。

 そんな僕に構わず、お祖母ちゃん問いに答えを返す。

 

「……護君のお父さんは、身なりがしっかりとした人、でしょうか?」 

「……含みのある言い方だね」

 

 僕は絞り出すように声を出した。

 心臓が痛い。血液の流れが倍速になったみたいに脈打っていて、吐き気さえ催してしまう程に急激に調子が悪くなり、覚束ない意識は纏まらない思考の海を漂う。

 僕にできる唯一の抵抗は、常に信条に掲げている、自分の弱さを大切な人に悟らせないことだけだった。

 

「すみません。でも、護君のお父さんと、面と向かって話をしたのは、私も一度しかないんです。成人して間もない娘の結婚を、私と夫はとても反対しました。ですから、一度目の結婚の挨拶以降、断固とする意志を持った私達は、話し合いの場を設けることを許しませんでしたから」

 

 お祖母ちゃんは、過ぎ去ってしまった日々を思い出すように、垂れた目を伏して、言葉を続ける。

 

「護君のお母さん――私の娘は恋愛に関して余りにも直情的だったんです。純愛ドラマや漫画が昔から大好きだった影響か、好きになった人には一直線で、出会って半年も経たない相手と学生の身を降りてまで結婚すると言い張った」

 

 お祖母ちゃんは僕の方を向いた。

 

「護君。その時にはもう、あなたは娘のお腹の中にいたんですよ」

「……え?」

 

 お祖母ちゃんが何を言ったのか、最初はよく分からなかった。

 無意識に自分から過去を聞き出しておいて、それを知ることを僕は拒んでいた。けれど、そんな感情を差し引いても、その言葉の羅列を簡単に理解することは出来なかっただろう。

 ……なんで、そんなことに。

 確かに母さんは一児の母でありながら、他の子供の親よりもずっと若かった。でも、僕の知る母さんは、考えなしに自分の体を扱うような人ではなかった筈だ。

 

「娘にとって、あなたのお父さんを愛することが全てだったんでしょうね。自分の身も、心も、立場さえ委ねてしまえる程に、行き過ぎた愛情を抱えていた。愛し合う二人が弁えるべき、行為の歯止めさえ忘れてしまったのでしょう。あの子は過去の繋がりも、今の立場も、将来の行く末さえも、愛する人に明け渡し、その人との間に生まれてくるあなたを愛した」

 

 お祖母ちゃんは申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。

 

「私は今、護君を心の底から愛しています。ですが当時の私は、お腹にいるあなたを降ろすように言って、ちゃんとした戸籍を持たせてあげたいと、急な結婚を願う娘を反対したのは事実です。……けれど、多くの反対を押し切ってさえ、あの子はあなたを生むことを選びました。あなたのお父さんとは一回り年が離れていましたが、立派な仕事に就いている人でしたので、経済的な問題はそれほどなく、あの子も幸せな家庭を築く自信があったんだと思います。現にあの子は、大学を中途退学して結婚し、専業主婦になって、あなたを生みましたから」

 

 小さな両手を膝の上で握るお祖母ちゃんは、悲しそうに表情を歪めた。

 

「ですがそれ以来、私達と娘夫婦の間には溝ができてしまったんです。時の流れは、優しくも残酷です。ほとぼりが冷めていきましたが、引っ込みがつかなくなっていきました。おそらくですが、どちらも相手側が行動を起こすことを待っていたんでしょうね。……だから、夫が急性疾患でなくなって、取り返しが付かなくなってから娘と葬儀で再会した時、私は初めてあの子が離婚していたこと知り、初めて、幼い護君と会ったんですよ」

 

 そういえば昔、僕は母さんと一緒に変わった場所に行ったことがあった。そこは、誰もが黒い衣服に身を包んでいて、荘厳な雰囲気がある場所だった。

 よくよく今になって霞がかったその景色を想起すれば、花に囲まれた台の上に誰とも知らぬ男性の顔写真が飾られていた気がする。それは今の知識に照らし合わせれば、間違いなく遺影写真で、曖昧な記憶ではあれど、葬儀場であることは明白だった。

 僕はその頃、父親とも、仲の良かった人達とも離されて、心を閉ざしていた。

 母さんと二人暮らしをするようになって、慣れない匂いがするアパートの一室で、足を丸めてよく泣いていた。母さんも新しい生活や僕の状態に疲れていて、僕を励まそうと側によく寄り添ってくれたけれど、その口から零れる言葉はどこか投げやりで弱々しく、仕事の時間になれば僕を託児所の他人に預けて、離れる事が嫌で涙を流す僕へ振り返ることもなく、足早に出て行った。

 ずっとずっと胸が痛くて、自分の気持ちで精一杯だったあの頃。周囲を顧みれる程の余裕を持てなくて、母さんに心労ばかりを与えていたどうしようもない僕が、他人を大切に想わなくなるようになったのは、思い返せばその日からだったのかもしれない。

 視界に映るテーブルの上に置かれた透明の瓶には、僕が花屋でバイトを始めるようになってから、毎週違う切り花が生けられている。

 花の仕入れが行われる月曜日、水曜日、金曜日のバイト終わり、新鮮な切り花をおじさん達からよく渡されていたからだ。僕は花に魅力を感じないし、興味が無いからいらなかったが、一度無理矢理持ち帰らされた花を見たお祖母ちゃんが偉く喜んで以来、無料でお祖母ちゃんを笑顔に出来るなら儲け物だと、快く受け取るようになった。

 今週の初めに貰った青い紫陽花は、お祖母ちゃんが水を毎日取り替えている事や、少し手間の掛かる焼き揚げという処理を行っている為に、日持ちが良い。花首が真っ直ぐしていて、多くの集まった花びらは瑞々しくて鮮やかだ。

 母の日に贈る花の一つとしても挙げられる紫陽花は、梅雨の長い雨に耐えて咲き誇る姿から『辛抱強い愛情』、小さな花が群を作っているように見える事から『家族』という花言葉を持っている。けれど、日本ではネガティブなイメージもまた多く、青色の紫陽花にはそのカラーイメージから『冷淡』、土壌の性質によって色が変わることから、自分の主義や主張を変える『変節』といった意味を持っている。

 毎日花屋に通い、その店主と会話をしていれば、嫌でもこの辺の知識は身につく。

 僕がこの花の話を聞いた時は、まるで母さんを表現したような花だという感想を抱いた。しかし、四つの内の『変節』という花言葉には、全くと言って良いほどに納得がいかなかった。

 苦労を重ねながら女手一つで僕を育ててくれた母さんは『辛抱強い愛情』を持つ人で、大切な僕の『家族』だ。無愛想で表層的に与える印象は『冷淡』だったけれど、内面はどこまでも温かい優しさがあって、どんな大変な時でも『変わらず』僕を愛してくれた。

 だから、『変節』なんて言葉は一途な母さんには似合わない。そう思ったんだ。

 けれど、普通に考えれば、無常の愛なんて存在しない。母さんが僕を愛してくれていたことは確かだったけれど、僕を手放してしまいたいと願ったことは少なくないだろう。

 僕は母さんの笑顔を覚えているが、それと同じくらい辛そうな顔を覚えているから。

 

「……母さんは、後悔しなかったのかな?」

 

 酷く抽象的な言葉だ。

 僕自身、自分の言葉が何を明確に対象にしているのか、よく分かっていない。

 僕の父親に恋をしたこと、親の反対を押し切ったこと、祖父が亡くなるまで再会できなかったこと。そして、僕を生んだこと。

 僕の中の母さんはとても優しくて、自立していて、聡い人だった。けれど、決して最初からそうだったわけではないことを知ってしまった。

 多くの迷惑や身勝手、間違いを繰り返して、深い悲しみや痛みを抱いて、僕の側に居てくれた母さんになったんだ。

 

「……後悔ばかりしていたと思いますよ。あの子は夫の葬儀に参列した人の中で、一番泣いていましたから。ずっと謝って、涙を流していました」

 

 そうだ。あの時、僕は大切な人を失って涙を流す母さんを見て、他人を大切に想う事を、多くの人を大切に想う事を、辞めようと心に誓った。

 幼い自分より長く生きてきた母さんでもあんなに辛いなら、苦しい感情を抱えることになるなら、臆病な自分には耐え切れられそうになくて、側に居てくれると分かりきっている人以外の、誰も大切に想わない方が良い。僕は母さんの姿を見て、そう思うことに――。

 

「――ですが、護君の手を、最後はちゃんと握っていましたよ」

 

 そう言ったお祖母ちゃんは、マグカップを握る僕の左手を、優しく撫でた。

 

「罪悪感も大きな要因ではあったかもしれませんが、葬儀で再会した後も、あの子は決して私を頼ることはしませんでした。それは覚悟の表れとも言えますが、自殺行為でもあります。親になってみると分かりますが、一人で子を育てるというのは、身を削るような大変さです。お金を稼いで、家事をして、あなたに愛情を注ぐ。余裕のある時間なんてありません。全てを捨てたいと思う時もあったでしょう。全部やり直したいと思うことが、一度や二度ではなかったと思います。……けれど、それでも、娘はあなたと寄り添う道に、妥協はしなかったみたいです」

 

 お祖母ちゃんは、僕に笑いかけると、優しく言う。

 

「だって、あなたにとって私の娘は、最高の母親だったみたいですから」

 

 僕にとって、母さんは誰よりも大切な人だった。

 だからこそ、今もこんなに色々な物を引きずって、馬鹿みたいに悩んでいる。

 何年経っても、胸の痛みを忘れられなくて、こんな痛いことになるなら、誰かを大切に思うことを止めてしまいたいと思う。

 だけど、それじゃあ僕は寂しくて不安になってしまうから、手に取れる範囲で、失うことのないような関係の人だけに愛情を向ける。

 大切に想ってしまう事が怖くて、いつか失われてしまう可能性がある者へ愛情を向ける事に、臆病になっていて。友愛も、恋愛も、親愛も、全部頼りなくて、もろく崩れ去ってしまうならばそんなものはいらない。

 僕の不器用な精神は、そうやって出来上がってきた。

 

「娘は、多くの大切な人を失いました。けれども、多くの大切な人を失った娘は、側にいる大切な人を護る決意を抱きました」

 

 お祖母ちゃんは、僕を真っ直ぐ見つめる。

『変節』。母さんはあの葬儀の日、涙を流しながら決意したのかもしれない。どれだけ悲しくても、どれだけ辛くても、どれだけ後悔を抱えても、最後まで大切な人を想うという誓いを立てたのかもしれない。

 変わらない愛を抱く為に、変わったのかもしれない。

 

「護君。想ってくれる大切な人を失ったあなたは、大切な人を想う決意を抱けましたか?」

「……僕は」

 

 護。渋谷護。

 それが僕の名前だ。

 

『周囲の人を護って、護られて、優しい強さと好意を得て欲しい』

 

 母さんの温かい言葉が、温かい想いが、ふと脳裏を過った。

 おかしな事に、その言葉を捉えた瞬間、僕の震えは止まった。

 それがどうしてか明確に分からない。あれほど落ち着かなかった心臓も、震えも、憑き物が落ちたみたいに元の状態に還った。


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