Fate/crescent 蒼月の少女【完結】 作:モモのすけ
──世界は今日も、地獄だ。
「ああクソ、うざってぇんだよ‼︎」
大きな拳が飛び、少女の頰をしたたかに打った。彼女はそれだけで薙ぎ倒され、硬い地面に倒れ込む。
唇が切れて血が滲んだ。
それでも、何故か心の方が痛かったのを、彼女は今でも覚えている。
「糞が、糞が、糞が…………‼︎」
──おとうさんの、怒った声。
──何を言ってるのか、よく分からない。
彼女が縋り付くように立ち上がろうとすると、完全に我を忘れた父は棍棒を持ち出し、その頭を殴り付けた。
鈍い衝撃音が炸裂する。今度は少なくない量の鮮血が飛び、汚れた床に散った。意識が半ば千切れて、ついに立ち上がれなくなる。
まだ齢10にも達していないような少女の身体は、まるでゴミみたいに持ち上げられると、家の扉から投げ棄てられた。
「ぁ、ぅ…………」
男は一瞥すらもせず、扉を閉める。
──いやだ。すてないで。
──おいて、いかないで……。
荒野の風が吹き荒れる中、彼女は一人取り残された。
愛なき親に見捨てられ、行き場をなくした孤児が一人。行く当てもなく、意識も覚束ないまま、彼女はふらふらと歩き始める。
だが数歩も歩かない内に、どさりと倒れてしまう。
傷は致命的だった。今すぐ処置を施さなければ、待っているのはまごうことなき死。
だが、彼女は最早指一本も動かせず、ただ血に濡れた地面を眺めて──、
「────なんだか。……さむい、な」
結局何もできずに、彼女は死を受け入れた。
意識が消える。
少女が最後に感じていたのは、死への恐怖などではなくて──。
◆
……事実だけを言えば。
幸運にも、彼女を神は見捨てなかった。
心優しい老人に拾われた少女は森深くの小さな山小屋に運ばれ、辛うじて一命を取り留めたのだ。
最初は何故生きているのか、と思った。だが神が与えたもうた幸運に感謝しなくては、それじゃあ生きなくては──そう、幼いながらも少女は思った。
そんな都合のいい話なんてあるはずない、と知ったのは、それからすぐのこと。
「なに……これ……?」
自分の手に視線を落とす。
黒い線のような、見ていて不安になる「何か」が纏わり付いている。
それは自分の体だけではない。小屋にも、渡り鳥にも、木々にも、その黒い何かは纏わり付いている。「線」として視える時もあれば、「点」として視えるときもあった。それらから目を逸らそうとしても、逸らした先にまで追いかけてくるのではどうしようもない。
黒い線を試しになぞると、言い表せないような悪寒を覚えた。
これ以上、コレと関わってはならない──確実に。
……そうして、一年が経った。
黒い何かは消えず、ますます数を増す。
……また一年が経った。
時折、頭が割れるような頭痛が襲うようになった。
……また一年が経った。
頭痛にも慣れた。この不安定な世界にも慣れた。
そんな頃、ふと思い立ったのだ。
三年前に捨てられたとはいえ、親は親。
十二歳になり、翁の元で細々と繋いでいる暮らしだが、それでもある程度の貯蓄はできた。今ならば迷惑をかけることもない。かつて自分を捨てた父であろうと、一目見るくらいは──。
「あァ……? 誰だ、お前…………」
三年ぶりに懐かしい扉を開けると、父はいた。
机の上に積み上げられた大量の酒瓶、酒臭い吐息。部屋の中は荒れきっていて、男の堕落ぶりを思わせる。
だが、懐かしい顔だった。黒い線は視界から消えず、男の顔には特に多くその線が刻まれていたが、それでも変わらない顔だった。
「お、おとうさん……おとうさんっ‼︎」
向日葵のような笑顔で顔を綻ばせる少女に、父は赤い顔を近づけて──。
「…………お前、女か」
ぼそり、と父は呟いて。
気が付いた時には、少女は床に押し倒されていた。
「……………………、え?」
行動の意味が分からない。
言葉の意味が分からない。
いや。とうに理解していた。理解できないと思ったのは、単に認めたくなかっただけ。
「女、女だな。おんな、おんな、女だ。丁度いい──」
ごつごつした手が擦り切れた服をめくり上げる。その柔肌に手が伸びる。
「ひっ、い、いや……なにを、して、おとうさん、わたしだよ、わたし……⁉︎ 覚えてないの、■■■■って名前を……やめて、いや──‼︎」
聞いていない。聞こえていない。
男は酒に溺れていただけではない。きっと麻薬の類に犯され、最早まともな思考すらも持っていなかったのだ。そんな獣の前に、少女は無警戒に姿を晒してしまった。
「なんでっ、わたしは、こんなの……‼︎ やめて、やめてよ、触らないで……わたしは、わたしはっ、愛してもらわなくてもよかった‼︎ ただ、一言……言葉を交わしたかっただけなのに、ただ、それだけなのに──‼︎」
身体を大きな手でまさぐられる不快感に襲われながら、少女は必死に手を動かした。床に散らばったガラクタが手に当たり、なんとか酒の空き瓶を掴み取る。
「ぐ……う、うあああああああああああああああああ────‼︎」
それを力一杯叩き割り、尖った先端を突き刺した。
狙うは、謎の
──力は
ただ、この眼があれば。
かつてないほど必死で、それでいて驚く程冷静に、少女は父だった男の脇腹に酒瓶を突き刺した。
そして。その瞬間、全てが弾けた。
「え…………ぁ…………?」
ぶしゃあっ、と血が舞った。
一瞬で十数個に解体された
何が何だかわからない、といった表情で立ち上がり、血まみれの自分と床に散らばる肉塊を見て、少女は自分のした事を認識した。
殺した。
殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。
わたしは、父を、この手で、殺し─────────。
「……………………は、ひ、はは……はは」
大切な何かが、壊れた音がした。
「あはっ、ひっ、ははははははっ、ひゃはははははははははははは‼︎‼︎」
狂ったように笑った。
いや、そこでもう狂ったのか。
ともあれ、笑わないとやっていられなかった。
──今更やっと、認識した。
今日も、じゃない。明日は、じゃない。
そもそも、未来に希望を抱くことが間違っていた。
──この世界は、元から地獄だったのだ。
ふらふらと、扉を押し開けて外に出る。
何もかも、全部殺し尽くしてやりたい気分だった。
「しんじゃえ……こんなの……」
ヒュン、と酒瓶の破片を振り抜く。
それだけで、家だったモノはバラバラになった。
「しね……しんじゃえ、ぜんぶ、こんなもの────‼︎‼︎」
この場所に残るかつての痕跡を、僅かに残っていた両親との思い出ごとすべて殺し尽くして、彼女はふらふらと歩き出した。
それはまるで、三年前の焼き直し。
ただ、今度は違う。死から逃れる力と引き合えに、彼女はかつての心を喪ったのだ。
◆
気が付いた時には、少女は
死に魅入られていた彼女にとって、その生業は最適とも言えるものだった。その能力を高く買われて暗殺教団に転がり込み、人を殺す事を少しも躊躇わない気性に卓越した才能、そして暗殺者にとって「最強」とも言える魔眼の力によって、いつしか彼女はその長──「山の翁」の地位にまで登りつめる。
「────────」
数年が経ち、彼女は常に目隠しを着けるようになっていた。
あまりに眼の効力が強すぎるせいで、こうでもしなければ正気を保つのは困難だったのだ。
この魔眼が捉えるのは、万象の「死」。
死という、明確だが抽象的な現象を視覚情報として捉え、干渉、発現すらも可能とする反則級の異能。どんなものであれ、たとえ生物ではなかろうとも、彼女はそれが抱え込む「死」を捉えてしまう。
暗殺を生業とする上ではこの上ない能力だが、人の身に余るそれは、間違いなく有償の奇跡だった。
歳を経るにつれて魔眼の力を強力になり、彼女の脳も悲鳴を上げ始めた。本来捉えられる筈のないモノを常時見せつけられ、自分自身の、世界の脆さを嫌でも思い知らされる。
……そんなの、正気でいられる筈がなかった。
それでも彼女が暗殺者をやれていた理由は、きっと、「あの日」からどこか狂ってしまっていたからなのだろう。
父を殺し、彼女は一切の殺人に躊躇いを覚えなくなった。
どんな困難な任務をも率先して引き受け、実質的な事務は適当な連中に任せて、ただただ人の命を奪うことに没頭した。しかし、殺すのは、彼女が認める「悪人」のみにすると決めていた。
彼女の半生は血に濡れた道だ。だが、それを振り返っても後悔はない。
元よりこの世界は地獄であり、従って自分の人生も地獄に等しいのは道理だろうと、そう考えていたからだ。
そうして刃を振るい続け、何年が経ったのか──。
とある古城の最上階で、暗殺者は短刀を構えていた。
今日も変わらず、人の命を奪うために。
『や───やめろ、待────⁉︎』
「じゃあね」
短刀を、もはや眼帯越しですら把握できてしまう「黒点」に突き入れる。
それだけで
どのような堅牢な城塞であろうと、彼女の眼の前には意味を成さない。どれほどの数の兵士であろうと、闇に潜む彼女を捉えることはできない。
──彼女はまさしく、死神の体現者だった。
「これで、おわり…………」
……ずきり、ずきり、と頭が疼く。
眼の奥が異様な神経痛に悲鳴を上げている。
神すらも殺し得る力の代償が、彼女の体を蝕んでいたのだ。
「……はぁ……はぁ……はぁ……っ」
自分でも分かってしまうほど、終わりが近い。
息を荒げながら、彼女は古城を離脱した。
擦り切れた黒衣を翻して、夜の荒野を駆け抜けていく。
──たとえ、この命の終わりが近くとも。
──わたしは、最後まで…………。
そんな事を、思考すら朦朧とさせるような頭痛の嵐に苛まれながら考えていると、少女はつんのめるようにして転倒した。
「……ぁ、ぐ……?」
こんな何もないところで転倒するなど、どうかしている。
自分の未熟さを恥じながら、彼女は立ち上がろうとして──そして、どう足掻いても足が動いてくれないことに気が付いた。
「……………………」
何かを観念したくないように首を振って、少女は眼帯を外した。
だというのに、世界は黒色に染まったままだ。
美しい満月も、満天の星空も、見慣れた赤銅色の大地も。
──何も、なにも、見えない。
「そん、な。……まだ、わたしは」
辛うじて手を動かし、自分の体を少しでも前へ。
まだ手が動くならば、足掻く。
最後まで、最後まで、自分は暗殺者であると決めたのだ。
誰かを殺して、そして誰かを救うと決めたのだ。
目が潰れたくらいでなんだ、足が動かぬ程度がどうした、そんな事で都合よく自らの道を諦めるなど許されない。この身が絶対の死に追いつかれるまで、
『────終わりだ、魔眼の。その首、確かに戴こう』
……荘厳な声が、聞こえた気がした。
何処からか響き渡った万鐘の音が鼓膜を震わせた瞬間、彼女の首に漆黒の大剣が突き刺さる。
致命の一撃、それは
だが──もう、そんな事はどうでもよかった。かの声を聞き届けたとき、少女は「自分の終わりが此処なのだ」と悟っていた。
(あぁ……なんだ。……これで、おわり……か……)
つまらなそうな、しかし安堵したような表情で、少女はゆっくりと目を閉じた。
──散々人を殺してきた罪人にとって、この荒野で野垂れ死ぬというのは相応しい末路だろう。
眼を失い、同時に「山の翁」としての資格を失った少女に手を下した何者かが、夢幻のように消え去っていく。その正体を考える余裕もなく、少女は自らの死を受け入れた。
(そっか……けど、やっぱり)
荒野の冷たい夜風が吹き抜けていく。
誰にも見届けられず、彼女はその生を終える。
(死ぬのは、さむいし────寂しい、な……)
そして。
その場に残されたのは、ただ一人で命を燃やし、その生涯を駆け抜けた──哀しい暗殺者の死体だけだった。
◆
「………………っ」
微かに呻きながら、倫太郎は目を開けた。
がたん、がたんと揺れる車内。通常より遅い思考速度でここは電車の中だと認識して、今まで自分がもたれかかっていたモノに視線を向ける。
「おはよ」
「……あー、ごめん。寝てたのか、僕は」
どうも、電車の座席に腰掛けながら居眠りしていたらしい。
聖杯戦争が始まって以来寝不足だなぁ、と少し憂鬱になりつつ、倫太郎は目を擦った。
時間はとっくに終電を過ぎている。隣町の潜伏場所を片っ端から調べたせいで、こんな時間になってしまったのだ。
しまった、タクシー代残ってないじゃないか僕のバカアホマヌケ……などと倫太郎が致命的なミスに気付いたころ、丁度車庫に戻る電車が走っているのを発見。アサシンに頼んで車内に強引に侵入し、二人はこうして無銭乗車を行っている。ちなみに諸々の証拠隠滅は渋々倫太郎が引き受けた。
「……どうしたの?」
「なんでもない──って言いたいけど、そんなこともないな」
座席に腰かけたまま、呟くように口にする。
「さっき夢の中で、君の……たぶん、過去を見た」
アサシンはいつもの如く表情を少しも変えず、その告白を受け入れた。紫陽花色の長髪を揺らし、彼女は倫太郎を包帯に隠された瞳で見つめる。
「そう。──あんまり、楽しいものじゃ……ないでしょ?」
「まあね。少なくとも、良い夢って訳じゃなかったな。救われない話は好きじゃないんだ」
「む。なんか、ごめん?」
「いや……それは、君が謝る事じゃない」
たった一人で荒野に残された彼女を思い返しながら、倫太郎は息を吐いた。
英雄とは、往々にして非業の死を遂げるものだ。ニーベルンゲンの歌のジークフリート然り、アーサー王伝説のアーサー王然り。幸福な最期を迎えられた英雄の方が圧倒的に少ないだろう。
故に、彼女の生涯も、数多の英霊たちの中では「ありふれた」ものなのかもしれない。
だが──だからといってその悲しみを素直に呑込めるほど倫太郎は大人ではなかったし、そんな大人になる気もなかった。
「……僕が聖杯に託す望みは、繭村の魔術師に相応しい度量と勇気を得る事だ、って言ったの覚えてるか?」
「うん、覚えてる。そうじゃなきゃ、あそこで殺してたし」
「……今の物騒な発言はスルーするけど、その上で君に尋ねたい。今の今まで聞くのを忘れておいてなんだけどさ、アサシン……君は聖杯に何を求めて、僕の召喚に応じた?」
問い掛けにすぐに答えはなく、沈黙が場を包みこむ。
がたん、がたん……と、電車が揺れる音が連続する中、アサシンは窓に映る夜の街の光を眺めながら、相変わらず心情の読めない口調で呟いた。
「この世界は、きっと地獄だから。……だから、わたしは、すこしでも……この世界を、しあわせにしたいと思ってる」
「──世界を?」
「うん。だけど聖杯っていっても、たぶん……限界はある。全人類を幸せにする、なんて……わたしには、どう願えばいいか、分からないしね。それこそ、何十年考えても……わたしには、たぶん答えを出せない。だから、とりあえず……聖杯を得たら、「もう少し、できるだけでいいから、世界をしあわせにしてほしい」って願うつもり」
「けど、君は英霊だろう。聖杯が願いを託され、その魔力で願いを叶えたら、君はそこで消える。願いを受けて、「しあわせ」になった世界に君がいられないとしても、その願いは変わらないのか?」
「うん、変わらないよ」
「────ふぅん、そう」
なんとなく、倫太郎は嬉しかった。
この暗殺者は、恐らく、その願いをずっと抱き続けるのだろう。
曖昧模糊で、まるで無垢な子供が世界を救う「正義の味方」に憧れるように──幼稚かもしれない、愚かと断じられるかもしれない願い。
……だが。その確かな輝きだけは、きっと誰にも否定できない。
「話を変えるけど。参考までに聞いていいか」
「うん。ひま……だし」
「じゃあ質問。──君は生前、沢山の命を奪った暗殺者だな」
「そのとーり。それだけ?」
「……いや、これは確認だ。別にその罪をいまさら咎めようなんて気はないんだけど、ひとつだけ気になっててね。どうして君は、暗殺者になったんだ? 積み上げた死体の果てに、君は何を求めていたんだ」
母に棄てられ、父を殺し、狂い果てた少女。
その生涯の最中で得た「魔眼」の力を見込まれ、暗殺教団にスカウトされたというのは倫太郎にも解る。彼女ほどの人材はそうはいないだろう。だが、そこで「暗殺者になる」と決めたのは彼女自身の意思だ。
その理由が、倫太郎には分からなかった。
「────最初は、暗殺者になった意味なんて……なかった」
彼女の声は静かだ。
かつて世界に絶望した彼女は、周囲に流されるように暗殺者への道を進み始めた。
「けれど、人を殺し続けてるうちに……気付いた。私の行いは、絶対に悪だけれど……それでも、救われる人がいるんだ、と」
それは、至極当たり前の話だった。
救われる人──それは、暗殺を依頼して我欲を満たす人間のことではない。ただ彼女の暗殺の「結果」のみを受け取る人々だ。
例えば、熾烈な圧政を敷く領主を彼女が殺せば、その地の人々は平穏を取り戻した。戦乱を巻き起こす暴君を彼女が殺せば、一国の人々は戦禍を免れた。
「けど……当然、救われない人も、いる」
例えば、領主にも妻がいた。例えば、暴君にも娘がいた。
「これは、わたしが暗殺者である以上……どうしようもない。だからわたしは、その人たちから
人を殺す事になんの罪悪感も感じない狂人だったとしても、彼女はどこかで「人間」だったのだろう。
故に、自らの行いで救われる誰かの存在を信じ続けて、数多の命を奪い続けた。
それが、彼女がかつて暗殺者として生きた理由。
「自分勝手、だね。都合のいい……ばかな理由。キミは、軽蔑……するかな?」
可愛らしく首を捻るアサシン。倫太郎はどう答えればいいのかもよく分からないまま、
「──軽蔑は、しない。君は確かに悪だったんだろうけど、その行いで救われた人が一人でもいるなら、僕は決して君を軽蔑したりはしない」
それでも、そう口にした。
詭弁ではなく、心からの言葉だ。アサシンの無表情な顔が微かに綻んだような気がしたのは、きっと気のせいではないだろう。
「ありがとう、アサシン。質問に付き合わせて」
「むむ。ぜんぜん構わない、よ」
サーヴァントとマスターの信頼関係は非常に大切だ。互いの事を深く理解する事は、きっとこの戦争で有利に働くだろう。
だが、そんな実利的な要素を排除しても、倫太郎はこの問答に確かな意味があると思った。
「──さて、あと十分くらいで大塚駅か……」
電車のパネルに表示された時間を見ると、時間は深夜の一時。
これはまた寝不足だな、と再び憂鬱になりながら、倫太郎は目の前を流れていく夜の風景に視線を戻す。
──そこに、いた。
──白い何かが、猛烈な速度で迫っていた。
「⁉︎」
アサシンに手を引かれるように、倫太郎が座席を飛び退く。
その瞬間、右から左へ貫通していった白色の豪雨が、車両の壁面を粉々に吹き飛ばした。烈風が半壊した列車の中に吹き込み、赤銅色と紫陽花色の髪が激しく揺れる。
「おー……きたね、敵」
鋭い風切り音を立てて、アサシンが短刀を構える。
その目線の先には、数百の群れをなした鳥型の紙人形が、一つの群体と化して電車に並ぶように宙を飛んでいた。
「自立人形……⁉︎ いや、アレは……なんだ……⁉︎」
「なんだっていいよ──あと、聞き忘れてたこと、言っていい?」
「え、今⁉︎」
纏った黒外套を風に激しく揺らしながら、暗殺者は言う。
「わたしは、
……その言葉は、倫太郎の胸に矢の如く突き刺さった。
彼女は暗殺者でありながら、どこまでも正義に憧れた。
人を殺しながら、人の幸せを夢想した。
どこまでも矛盾した存在が彼女だった。いくら正義を夢見ようと自分は暗殺者であり、人を殺す事こそが役割だ。だからこそ、このアサシンは何よりも「自分が暗殺者である」事を嫌悪している。
正義の味方なんて、そんなものなのかもしれない。
分かりやすい正義でさえ、悪の側からすれば悪なのと同じ。万人全てにとっての正義など存在せず、彼女はどう足掻いても「誰かのための正義を遂行するには、別の誰かにとっての悪になるしかない」という自己矛盾から逃れられない。
かつて彼女はその矛盾を受け入れ、「別の誰か」を切り捨てて、自分の正義を貫いた。
「………………」
彼女が求めるのは、たった一つの言葉だ。
片方だけの正義を貫くのは確かに万人にとっての正義ではないのかもしれない、自分勝手なエゴなのかもしれない。それでもそこには高潔な意思が有ると、彼女はずっと認めてもらいたかったのだ。
その思いを知った上で、マスターが彼女をどう認識するのか。
サーヴァントはサーヴァント、所詮は殺す事しか知らぬ
「アサシン」
倫太郎は、もう見慣れてきた彼女をもう一度見つめなおす。
小さな身体に黒衣を纏って、短刀を数本構える彼女。目元に巻かれた包帯の奥にはどんなものでも殺し尽くす魔眼が潜んでいて、その姿は闇に溶け込む暗殺者そのものだ。
けれど、彼女は暗殺者である以前に、一人の少女であって──、
「断言するよ。君は僕の、
思いのまま、倫太郎はそう口にした。
「────うん、ありがとう」
アサシンが微笑む。それはドタバタと契約を結んで以来初めて見せた、小さなアサシンの笑顔だった。
その表情に奮い立った倫太郎は、竹刀袋から木刀を引き抜く。
アサシンも短刀を構え、包帯の奥の瞳で敵対者を睨み付ける。
時速百二十キロの戦闘は、そうして幕を開けたのだった。
【アサシン】
世界に絶望した彼女が聖杯に臨む願いは、「世界総体の幸福」。
魔眼以外に何も持たなかった少女には、暗殺という手段しか残されていなかったが、それでも彼女は世界が少しでも平和になる事を強く願っている。
彼女もまた、「正義の味方」に憧れた一人と言えるかもしれない。