Fate/crescent 蒼月の少女【完結】 作:モモのすけ
「……うおおおおッ‼︎」
ナイフの刃先が地面を擦る程の低空から、跳ね上がるように刃を滑らせる。
まるでこの身に得体の知れない力が宿ったような違和感。
全身が
……いや、待て。待ってくれ。
そもそもなんで俺は、とうに俺の限界を超えて──、
「────っ‼︎」
無駄な思考を容赦なく切り捨てる。だがその隙が刃の速度を鈍らせたか、魔術師は容易く俺のナイフを回避。
月は先程から分厚い雲の向こうに隠れてしまい、辺りに光源と呼べるものは魔術師の四肢が発する仄かな輝き、そして星明かり以外存在しない。文明の光に慣れていると感じないが、月のない夜の闇はぞっとするほどに濃かった。この闇では、一メートル先の人の顔すらまともに把握できないだろう。戦闘中なら尚更だ。
「しッ‼︎」
入れ替わるように魔術師の攻撃。回避可能限界ギリギリの速度を伴って放たれる拳撃、それは破壊と速度が合わさった魔拳だった。
右、左、左、右、左、左、下、左──‼︎
渦巻く紅色の光を闇に刻みながら、猛然と唸る拳が身体を掠めていく。
こちとら喧嘩は得意分野だが、魔術で強化された相手方の動きが余りにも速すぎる。その実力差たるや、プロボクサーと素人が喧嘩しているよりもなお差があって余りある。
そして更に悪いことに、相手の拳は地面すら粉砕する一撃だ。まともに受ければ確実にこちらの骨が折れる。
辛うじて拳の軌道を直感で読み、サンドバックみたいに殴りまくられるのだけは避ける。けれどこのままじゃ埒があかない。
「チ……‼︎」
つけ入る隙が無いならば、無理矢理に作り出すしかない。
問題は頭に敵の拳を一発貰って意識を繋ぎとめられるか、否か。
ここで意識を失えば敗北は必至。しかし耐えきればほんの僅かな勝機を切り開ける──そう、俺の直感が告げている。
(なら賭けに出てやるよ、この野郎っ──‼︎)
俺は勢い良く一歩を踏み出し、自らの額でその拳の一撃を受けた。
拳だというのに、まるてハンマーでブン殴れたように視界がぐわん、と揺れる。事実、この魔術師の拳は鉄と同等の硬さを誇っていた。
脳の隅から隅まで衝撃が走り抜け、額が割れて少量の血が噴き出す。視界が遠ざかって頼りの綱の意識が遠く離れていく。
……しかし、ギリギリのところで耐えきった。
相手は拳を額で止められた事に驚愕したのか、動きがほんの僅かに止まる。
殆ど意識もせず、そして何の躊躇いもなく、逆手に握り締めたナイフを全力で突き出し──、
「く、このッ‼︎」
短い叫びが相手方から聞こえたと思った時には、強い衝撃に手首が跳ね上がっていた。
ナイフを取り落とさなかったのは奇跡に近い。
魔術師の爪先がナイフを蹴り上げたのだ、と理解したと同時──、
「ぐ、ふッ……⁉︎」
俺のこめかみに、重すぎる拳が突き刺さっていた。
脳へのダメージの蓄積が酷い。あと一撃貰えば碌に立てなくなる。今の一撃まで耐えられたのは幸運と言うしかない。
殴り飛ばされた反動すら活かして、坂道を無様にでも転がって距離を取る。ぜえぜえと肩で息をしながらナイフを眼前に構えるが、再度魔術師の靴裏が道路を蹴った。
”アイつを殺せ、殺セ、殺せ”
”それガお前ノ役割だ、ソレが──”
「ああ、そうだよその通りだ、だから少し黙ってろ……‼︎‼︎」
意識が混濁しかけているが、不気味なほどの冷静さが身体の芯を支えてくれている。ナイフを握り締める手はみしみしと音を立てるほどに力強く、足は血脈が数倍の速度で廻っているかのように軽い。
全身が戦闘に特化していくような不思議な感覚を噛み締める。
数秒前の攻防を思い返すに、どうも俺には色々と足りていないらしい。
さっきのは甘かった。まだ反撃の余地があった。
まだ、速さも正確さも、なにより殺意が全然足りていなかった。
命のやり取りを前に生存本能が働いたのか、意識が極限まで集中される。視界から敵の姿以外の情報が遠くなって締め出されていく。
「────‼︎」
とうとう相手の姿以外が見えなくなった瞬間、勢いよく駆け出す。
魔術師が右腕を振り上げた。俺はナイフを水平に構えたまま、首を少しだけ沈ませる。最小の動きで右拳は避けたが、鋭く放たれた左拳が眼前に迫っていた。
──右はフェイク、それは読めている。
更に体を沈ませる。膝を曲げつつも突進の勢いを殺さず、スライディングに似た姿勢で顔面を捉える寸前の左拳も回避した。
その先に活路が見えてくる。
岩砕の拳を潜り抜けた先に迫るは、魔術師の無防備な懐──‼︎
「ぁ、くうッ……⁉︎」
微かな呻き声が魔術師の口から漏れた。素早く魔術師の脇を通り抜けた俺のナイフが、浅くとはいえ魔術師の脇腹を切り裂いたのだ。
掌にじわりと広がる、肉を裂く手応え。
震える。他者を傷付ける甘美な感覚を愉しむ。
気付いたら、口の端が歪んでいた。
──ああ、堪らなく気分が良い。
何故か鳥肌が立つほどに身体が高揚している。血が飛ぶ程の傷では無いが、確かに一撃を与えたのだ。俺の手にした刃は、俺の腕は敵の命を奪うことができる。
という事は、即ち──。
”ソウダ、お前は奴を殺せル‼︎”
「ははっ、──あはははははははは‼︎」
素早く身体を起こす。低姿勢から攻撃に移る。
先程止められた下段からの一撃では無く、大きくナイフを振り上げた大上段の一撃。半円を描く銀色の軌跡は魔術師の脳天に稲妻のように振り下ろされ──、
「こンの……舐めんじゃ、ないわよ‼︎」
だが、相手もそう甘くなかった。
背後に回った俺をまともに見ずに放たれた裏拳。だがそれは対照的な円弧を描き、見事なほど正確無比にコンバットナイフを捉え、
「⁉︎」
パキン、という嫌な音が響いた。
────折れた。
振り抜いたコンバットナイフの刀身は、その鉄拳に押し負けて柄のすぐ上から先が後ろに吹っ飛んでしまった。軽くなってしまったナイフの重みが頼りない。
好機とばかりに、魔術師が一歩前へ。懐に潜り込んだ小柄な人影は勢い良く左手を引き、溜め込んだ力を解放する。
予測──回避──不可──直撃する──。
人外の膂力を以って放たれた掌底は、俺の胸のど真ん中を直撃した。
「が……ごッ、は⁉︎」
喉奥からせり上がって来た塊は、血。
吐血の不快感に身を震わせる暇は無かった。悠に三メートルは宙を舞い、そのまま坂道を転がっていく。
全身に擦り傷を刻みながら停止するが、掌底を打たれた肺は悲鳴を上げていた。呼吸するたびに鋭い痛みが走り抜け、息を続けるだけでも苦しい。骨にヒビが入ったか、最悪折れているか。
──今ので確信した。アイツは魔術師なんて存在じゃない。
「魔術」を使っているものの、奴の本質は己が肉体を極める格闘家だ。一つ一つの動作が洗練されていて、俺の下手な戦い方とは比べ物にらない。
”殺せ、殺セ、殺セ、殺せ、敵はみナ殺せ‼︎”
聞こえてくるような、自分が言ったような、よく分からない声。
当たり前のように、俺はその声を肯定しようとして──、
「…………ぐ⁉︎」
気持ち悪い、全身が脈打つような感覚が俺を襲った。
この感覚。全身から身体のエネルギーを強引に吸い上げられるようなこの感覚は覚えがある。
間違いなく、どこかでセイバーが宝具を使ったのだ。
「ガっ……あ、はぁ、はぁっ‼︎ あいつっ、こんな時に──‼︎」
ぶつくさ文句を並べるが、その声は自分でわかるほど弾んでいた。
確かに目の前から消されたが、多分セイバーはまだ健在らしい。
よくよく考えればこの令呪が残っているので当たり前とも言える。だが確かな確証が得られたことで、俺は安堵から息を吐いていた。
だが、それはそれ。──敵対者への殺意が消える訳がない。
余分な懸念も無くなって、改めて頭を戦闘用に切り替える。
幸い近くに飛んできたナイフの刃先を拾い上げながら、俺は魔術師を睨み付けた。
「……………………」
魔術師はその余裕を誇示するかのように、無言でこちらに歩いてくる。
(サバイバルナイフは折れた、ハンドガンは当てられるか怪しい……じゃあ残ってるのは……)
ポーチの中身を改めて思い返しながら、俺は勢いよく地面を蹴った。
だが走っていく方向は違う。敵魔術師がいる真正面ではなく真横。伸びる住宅の合間の路地に飛び込んだのだ。
「‼︎」
突然逃げに徹した俺を見て、魔術師が一瞬動揺したのが視界の端に見えた。
肺が痛む。それどころか打撲で全身が痛む。だが走って、走り抜く。
セイバーは今も戦っているのだ。ならば俺もそれに倣うまで、俺だけが諦めるなんて許されない。
停電はここら一帯に及んでいるのか、いくら走ろうとも闇はしつこく纏わり付いてくる。路地に入ると更に星の光は減り、闇に溶け込んだ室外機やゴミ箱に衝突しそうになりながら、必死で狭い路地裏を駆け抜けていく。
「はぁっ、はぁっ──‼︎」
背後を振り返るが、あの紅色の輝きは見えない。
だが追ってこない、というのもあり得ないだろう。俺が目指す場所はもう少し先、まだ止まるわけにはいかない。
と、視界の上端で何かが見えた。嫌な予感に従って目線を上げて、
──そこに、いた。
魔術師らしく飛んだり絨毯にでも乗るのかと思っていたが、奴は単純に走って俺を追走していた。
だが魔術師の足が蹴り立てるのは地面ではなく、壁だ。
魔術師はその尋常でない脚力を使いこなし、聳える住宅の壁を疾駆している──‼︎
「……っ⁉︎」
予想外の追走に、思わず反応が遅れる。
その隙を突いて、身体を斜めに傾けたまま魔術師が何かを投擲。
フリスビーを投げるような軽い動作だったが、魔術で強化された腕力は投擲物に恐ろしい速度を付与するに至る。黒塗りのクナイじみた鋭い何かは太腿と腰と、更に肩口に突き刺さった。
飛ぶ鮮血。爆発する激痛。
俺はくぐもった呻きと共にバランスを崩し──、
「式神跋祇、
その言葉は、敵対者が有する絶対の一撃へ繋がる詠唱なのだと、うねり上がる魔力の渦を感じ取ってから理解した。
魔術師は空中で姿勢を整え、前傾姿勢へと移行。小さな右腕に装着された白籠手が、風を裂く一筋の槍と化して俺に迫る。
防御──は、腕が砕ける。
魔術の強化に数メートルの高さが乗った分、あの一撃は受け止められない。
回避──は、無理。
体勢を崩した今、回避行動を取るのは難しい。
二つの行動案が刹那的に浮かんでは消える。最終的に俺は身体を反転させて両腕を交差し、正面の魔術師を睨み付けた。
激突の寸前、僅かに跳ぶ。この僅かな滞空が俺の命を辛うじて保つ。
丁度一秒後に魔術師の飛び蹴りが俺を捉え、体の芯まで震わせるような衝撃が走り抜けた。
両腕を貫いて心臓を潰すどころか俺の体を貫いてしまうであろう威力を秘めた一撃。しかし忌々しい摩擦力から解放された俺の身体は勢いよく弾き飛ばされ、激痛こそあれ重症は免れる。
「ぐ……‼︎」
俺は跳ね起きると転がるように路地を抜け、線路の下にひっそりと設けられたトンネルに転がり込んだ。
トンネルと一言に言っても歩行者用に作られた小型のもので、その長さは五メートル程、幅はたった二メートル程に過ぎない。当然車道なんて広いものはついていない。
「………………」
追い付いた魔術師が、何か呟いた気がした。
一帯の停電の影響はトンネル内の照明にも及んでおり、星の光が遮られた分、周囲の視界は無いに等しい。魔術師がまだ姿を捉えやすい入り口付近に立っているのが幸いだった。
トンネルに転がり込んだ際に取り出しておいたハンドガンを腰の後ろに隠しながら、魔術師を不遜にも睨みつける。
「──随分と変な魔術、だな……」
魔術師が、少し肩を震わせた。
このままハンドガンを馬鹿正直にぶっ放そうと、奴の身体能力からすれば当たる確率は低いだろう。当たっても一撃で仕留めなければ分は悪くなる。
この切り札を切る前に、それ相応の隙を作り出す必要がある。
だがコンバットナイフを失った以上、戦闘面で隙を作るのは不可能に近く、残された手段は話術のみだ。
「全く笑わせるよ。跳ぶだの壁を走るだの、オマエはさっきから猿の真似しかできないのか? くだらない」
「ッ‼︎」
嘲笑を込めてせせら笑うと、魔術師が全身から凄まじい怒気を迸らせるのが分かった。運のいいことに、どうやら奴の地雷を見事に踏み抜いたらしい。
「けどな、その猿真似も見飽きたよ。これからオマエに、本物の魔術ってのを見せてやる──……」
右腕をゆらり、と掲げる。
その動作で、目の前の魔術師は身体を強張らせた。
ばっちり予想通り、俺が魔術を使うのを警戒しているらしい。マスターであるという事は魔術師であるという事とほぼ同義だろうし、魔術を使わない方が異常なのだ。魔術師の警戒も当然だろう。
……まあ、これっぽっちも魔術の知識はないが。
内心で独り言を呟きつつも、そんな表情はおくびにも出さないよう努力する。こちらの右腕に意識を向けられればそれでいい。
「────くらえッ‼︎」
大仰に右腕を振りかざし、俺は素早く左手を跳ね上げた。
躊躇わずに引き金を引く。
ズガン、と小さなトンネルに響き渡る銃声。どうしてか、自分でも恐ろしくなるほど正確に腕は動いた。
狙いはほとんどシルエットしか見えない敵の頭部、だが確実に弾道は着弾コースを駆け抜ける。が──、
「ン、な……ッ⁉︎」
高らかな金属音が響いた瞬間、飛び出してきた何かに弾かれた跳弾が俺の真横を駆け抜けていった。
驚嘆する俺の前で、魔術師の姿が霞む。その姿を自分の懐に視認した時には、魔術師の両腕が唸りを上げていた。
──双手突き。
空気すらも揺さぶるような左右同時の一撃が、俺の喉と鳩尾を確実に捉えた。
肋骨が限界を迎え、ついにへし折れた音。そして手から離れたハンドガンが地面で跳ねる音をやけに遠く聞きながら、俺は血反吐を吐いて地面に叩きつけられた。
◆
身体の芯を捉える嫌な感触と、骨を二、三本一撃で砕いた不快な感触。それらが同時に彼女の身体を貫いた。
まるで自動車に轢かれるかのように吹っ飛んだ黒ジャケットの敵対者──暗過ぎて顔までは分からないが、声からして恐らくほぼ歳の変わらない少年──は、何度か地面を転がり、ボロ切れのように横たわった。
視線を地に伏す敵に向けると、敵影の輪郭が苦しげに呻いているのが分かる。
彼の最後の攻撃──こいつも魔術師だったのかと焦ったが、どうも近代武器に頼った攻撃だったらしい。やはりキャスターの読みは正しかったという事になる。
そして巧妙に放たれた起死回生の一手は、懐から自律的に飛び出した小型の紙人形によって無効化されていた。
(キャスターの式神……ポケットに紛れてたんだ。いつもヘラヘラしてる癖に用意周到というか、なんというか。けど、助かったのは事実ね)
弾丸を受け止め、くしゃくしゃに潰れてしまった式神。
それに感謝の念を抱きながら、彼女は隙を見せた自分を戒める。キャスターの気遣いが無ければ今頃死んでいたのは自分だったのだ。
(しかし──こいつ、なんて奴よ。魔術も使えないのに、私相手にこれだけ粘ったっていうの……?)
目前の少年の不自然なまでの強さが、魔術師には不快だった。
聖杯戦争に巻き込まれた一般人らしい、という考察は当たっていたが、それにしても妙だ。徒手空拳を用いた戦闘に自信はあったが、このマスターは劣勢ながらも自分の拳になんとか追いついていた。
否、追いついていたのではない。
恐らく、己の拳はハナから全て
何故かは知らないが──彼は全ての攻撃を見切り、目で追っていた。自分が勝てたのは、単純に彼の身体能力がその直感に追いついていなかったから。「ここでこう殴られる」と読み切っても、回避する運動能力が足りなければ意味がない。
……それに何より不快なのが、この少年の発する気配。
殺意に嗤うこの少年の姿には、一瞬恐怖を感じかけた程だ。戦いの最中、まるで人間ではなく
(こいつ……本当に、人間……?)
思わず、そんなことすら考えてしまった時。
「………………‼︎」
魔術師の瞳が驚愕に見開いた。
確実に急所を、それも彼女が他一切の魔術の研鑽を捨ててまで磨き上げた格闘特化の異端魔術、「徒手魔術」を重ねた拳で打ち抜かれた少年は、しかしそれでも立ち上がろうともがいている。
「は……ぁ、が……っ。ぐ、が──」
喉への打撃で、暫くの間は呼吸をするだけでも激痛に苛まれるであろう身体を無理矢理引き摺り、彼は少しでも身体を動かしていく。
──ともあれ、これで終わりか。
その瞳に少しの哀れみを浮かべながら、魔術師はゆっくりと彼に歩み寄った。
「………………」
この傷だらけの少年に何ができようか。
武器は折られ、起死回生の奇襲は破られ、もはや満身創痍で諦念の視線を向ける事しか出来ない。
息を吐いた魔術師は、尻のベルトに挟むようにして隠し持ったクナイを引き抜いた。
──悪いが、その令呪は有効利用させて貰う。
こちらにはキャスターもいる。上手くいけば、最優のクラスであるセイバーを手中に収められるだろう。
ここで迷い無く命を奪えるのが魔術師「らしい」んだろうな──と少し自分自身の甘さに憂鬱な気分に浸りながら、ぎらりと光る刃を構えて少年へと歩み寄る。
「はぁ……っ、たく、ちくしょう……」
と、少年が血に濡れた唇を動かし、喉奥から掠れた声を絞り出した。
(………………え?)
風に乗って届いたその声に、身の毛のよだつような強烈な殺意は全く含まれておらず。
──そして敵でありながら、どこか安心するような声質だった。
遺言じみた台詞を言うくらいは許そうと、僅か二メートル程の距離を開け、魔術師はその苦しげな声に耳を傾ける。
「頼りの、不意打ちも……失敗……か、くそ」
そこまで言って、脱力するように肩を落とした少年は苦しげに咳き込んだ。
吐き出された少量の血が床を赤く濡らし、彼は痛みを誤魔化すように、前髪を震える手で搔き上げる。
「⁉︎」
魔術師は短く息を呑んだ。長めの前髪からちらりと覗いた黒い瞳に、ひどく見覚えがあるように感じたからだ。
(……嘘よ、まさか。ありえない)
街灯を潰したせいで、星の光の届かないトンネル内はなお暗い。
手足の強化ばかり練習してきた彼女は、他の魔術師のように眼球を強化して闇を見通すなどという器用な事ができない。微かに紅色の光を放つ両腕で少年の顔をじっくり照らせば顔は判別できるかもしれないが、この光は懐中電灯なんかよりずっと弱々しい。
──そういえば。
何故この少年は先程いきなり逃げ出したのだろうと、ふと思った。
威勢良く掛かってくるかと思えば、唐突に背を向けて逃亡を試みる。かと思えば攻撃し、瀕死の身体で悪態を吐く。
行動の指針が一定していないように思え、その違和感はかえって、もはや彼の生殺与奪権を握ったと言っても過言ではない魔術師の心に疑問という名の小さな針を刺した。
こうも追い詰めているのに。
なのにこの、首筋にまとわりついて離れない悪寒は何だ──?
「しかし、魔術師ってのは……散々、サンドバックにしてくれやがって」
なお喋り続ける少年に、魔術師は底知れぬ焦燥感と共に一歩を踏み出した。
──なにか、マズイ。
──このまま喋らせていれば、死ぬ。
前に出た魔術師に反応して、伏せられていた瞳がこちらを捉える。
その時彼女が感じたのは、紛れも無い恐怖。
そこにあったのは、言葉では言い表せないほどの黒々とした感情。それに囚われたおぞましい両眼が、黒い前髪の間から覗いていた。
「…………っ⁉︎」
それは一般人の彼が持ちうるはずのないものだったのだが、その瞳に気圧された魔術師がそんな事を知る由も無い。その隙に、少年は隠し持っていた武器をごろり、と床に転がらせた。
ハッとして少年に視線を移すと、彼は既に右腕で顔を庇い、更に痛む上半身を捻って衝撃と閃光に備えている。
(………………ぁ)
反応は、できなかった。
余りに恐ろしい人外の視線に捉えられ、魔術師は一歩たりとも動く事が出来なかったのだ。
キュガッッ‼︎ という炸裂音を放ち、花火の光を何百も集中させたかのような途轍もない光量が、魔術師の瞳を灼いた。
「きゃ──っ、あ⁉︎ うぐ……⁉︎」
そこで、ようやく魔術師は知った。
閃光手榴弾は、閉所で使わなければ効果が飛躍的に下がる。
わざわざ停電を引き起こしたが故に、外で使用しても一定の効果は得られるだろうが、それではまだ足りないと判断したのだろう。
そのしたたかさに舌を巻くくらいの思考能力は残されていたが、平衡感覚、聴覚、視覚の全ては一瞬で失われる。
自分が無様に倒れ伏したのを、地面に体が激突した衝撃でようやく魔術師は知った。
「っ、あぅ……この──……っ‼︎」
視界にまとわりつく真っ白な光を振り払おうと必死に頭を振るが、全く視界は回復しない。音すら聞こえず、軽いパニックに陥りながら、彼女は滅茶苦茶に両手を振り回した。
(これは……駄目、早くしないと──⁉︎)
あの少年が幾ら満身創痍とはいえ、この隙は余りにも──……、
「死ね」
短く、冷淡で。
故に彼の全てが籠められた言葉だった。
その身体で何処から掻き集めたのか、と思える程の腕力で、背後から首に腕が回され、同時に首元に何かが突きつけられた。
っ! と声にならない声を上げ、魔術師は全身を硬直させる。
(あ──わたし、死)
直感的に悟った時には、折れたナイフの刃が首筋に僅かに沈み始めていた。毛細血管が途切れ、鮮血が球となって溢れ──、
「………………え?」
だが、魔術師の頚動脈が搔き切られる事はなかった。
何があったのかと疑問に思う速く、身体が無理矢理反転させられる。
短い驚嘆の声が漏れると同時に、魔術師は上手く機能しない視界の中心に、始めてその少年の顔をまともに顔を捉えた。
紅光を纏った腕が彼の手で持ち上げられ、自分と相手の顔を微かに照らす。
「お前、まさか」
瞼から涙を溢れさせながら、魔術師は必死で目を瞬かせる。
ぼんやりと涙と光で滲む顔には、やはり見覚えがあった。
その頑固さを表すように硬くて、それでいてボサボサに跳ねた黒髪に、驚く程鋭い眼光。太めの眉に、程よい高さの鼻梁がよく似合っている。
喉元から自然に出ようとした言葉を、魔術師は逆らわずに口にした。
「…………お兄、ちゃん?」
殆ど機能しない視界でそうと判ったのは、きっと日々、彼の顔を見慣れていたからなのだろう。
魔術師──志原楓は、震える唇で、呼び慣れた愛称を口にした。
【志原楓】
十六歳。キャスターのマスターであり、志原の家を継ぐ、大塚の地に住むもう一人の魔術師。
因縁のある繭村倫太郎とは対照的に、魔術回路の質は低い。使える魔術は「身体強化」系統の魔術のみ。身体の強化に特化しすぎたせいで物体の強化は苦手であり、成功したことはない。
自分の魔術を否定される事を強く嫌うと同時に、激しいトラウマを抱えている。そのため、そういった事を言われると激しく怒る。
【楓の戦闘服】
志原の家に伝わる由緒正しい忍び装束。母親のを勝手に借りている。
暗殺を家業とした志原家の役割に適するように設計されており、一式を適切に装備すれば顔を隠蔽させる魔術が自動発動する優れもの。
【繭村倫太郎と志原楓】
この二人を形作る上で、SNの主人公とヒロインである「衛宮士郎」と「遠坂凛」の要素をごっちゃ混ぜにして詰め込んだので、二人には士郎と凛を思わせる要素が多いです。
倫太郎は「剣」「宝石魔術」「赤髪」「魔術師としては優等生」「屋敷住まい」、楓は「強化(しかできない)」「ツインテール」「料理」「魔術師としてはへっぽこ」……などなど色々。