Fate/crescent 蒼月の少女【完結】 作:モモのすけ
鬱陶しい熱気混じりの夜風が吹き抜けていく。
目の前には立ち並ぶ家々の屋根。その奥には駅前の灯りが幾つも見え、ランドマークタワーの黒々とした影が天に向かって伸びている。それはまるで、漆黒を纏った巨人のよう。
「…………………………」
屋根に腰かけたまま、俺は息を吐いた。
頭の中で状況を整理する。
──「志原」という俺の家はありふれた普通の家庭ではなく、魔術に深く関わる魔術師の家系だったらしい。
俺はその後継者として養子に迎えられたが、それは外部からの圧力により頓挫。結局俺は厄介払いをされただけで、正当な血筋の妹が後継者として育てられた。
軽く息を吐いて、胸の中に溜まった感情を吐き出そうとする。
俺は養子とはいえ、話を聞いたところによると、元の家に捨てられたも同然の扱いだったらしい。魔術師という奴らは子供の安寧よりも、子供が持つ才能……ひいては自分達の家系の繁栄を重視するのだ。
それに対して──怒りは、あまりない。
不当な扱いを受けたとはいえ、そもそも顔すら思い出せないような連中だ。今更そんな不明瞭な奴らに対して怒る気にもなれないし、怒ったところで何か返ってくるわけでもない。
(ただ、問題は)
──問題があるとすれば、それは。
(俺の家族が……魔術師だった、って事だ)
その事実のみが、俺の胸の中で鬱陶しい錘となって俺を苦しめている。
魔術師。根元を目指す探求者たち。
そう聞けばまだ印象はいいかもしれないが、俺はセイバーから色々と伝えられたし、実際魔術師のせいで殺されている。
正直なところ、俺の中での「魔術師」に対する印象は最悪だった。
だから、聖杯戦争なんていう狂った儀式に参加している奴らも、総じて自分の事しか頭にない奴らなんだと思い込んでいた。
(けど──実際はどうだ。楓も、父さんも、母さんも、みんな平気で人を殺せるような奴らだったっていうのか⁉︎)
俺だって、人を殺す覚悟くらいはある。
そうでなければ生き残れないし、一度殺される恐怖を味わった上で易々と命を差し出すほど俺はバカじゃない。
けれどそれは、あくまで生存に必要だからだ。
俺のような例外を除けば、聖杯戦争の参加者は、自分自身の意思でこの儀式に参加する。それはつまり、最初から「人を殺す」事を手段として用いても構わない、と考えて参加しているということ。
つまり。楓は──魔術師は、そういう存在なのだ。
平凡な家族だと思っていた。
だが、魔術師なんて存在だったと知れた以上、俺はどう家族と接すればいいのか。それが分からなくなってきた。
「魔術師って何なんだよ。父さんも母さんも楓も魔術師だっていうんなら、今まで俺が見てきたのは何だったんだ⁉︎」
家族だと思っていた人たちが、形が同じだけの怪物だったようにさえ思えてしまう。これから何信じればいいのかも定まらない不安定な状況で、俺は絞り出した声を張り上げた。
当然、その声に答えはない。
闇に浮かぶ月と星々だけが、屋根の上で座り込んだ俺を眺めている。
(──ああ、もう、全部壊してしまえば)
ぎょっとして俺は目を見開く。
なにかとんでもないコトを考えた気がした。
想定外の事実を目の当たりにして気が立っているのか。とにかく何とかしてこのモヤモヤを心の奥に押し込んで、少なくとも朝セイバーに会うまでには元の俺に戻らなければ。
セイバーはやたら鋭いところがあるし、きっと俺の不調にも気づいてしまう──。
「あ、ここにいたんですか」
だが、最悪のタイミングで彼女は現れた。
いつものように素っ気ない口調で、けれどどこか楽しそうに。
(駄目だ。今は、まずい、来ないでくれ……‼︎)
色んな感情がごちゃ混ぜになって、何を言うべきかすら分からない。そもそも自分の意思すら定まらない。
それくらい家族が魔術師という存在だったことの衝撃は大きかったらしい。ともあれ俺は言葉に詰まり、セイバーが屋上に軽々飛び乗ってくるのを眺めていた。
「やれやれ。全くもって変なとこにいますね、ケント」
セイバーは軽やかに屋根の上を歩いてくる。
彼女が近くに来ると、ふわりと漂うような香りが鼻腔を刺激した。楓のゴムで髪を纏めているところと、仄かに紅くなった頰……でもって楓のジャージに着替えていることから察するに、風呂にでも入ってたらしい。
まったく呑気なヤツ……と俺が呆れかけた瞬間──、
「う゛ぐっ⁉︎」
セイバーの接近が何らかの引き金になったのか、それとも別の要因か。
"こンな事を、シテいる場合カ"
突発的に、脳髄の奥でなにかが蠢いた。まるで俺が抱いている鬱屈した感情を燃料にして、よくないものが本格的に稼働を開始したような感覚があった。
「ケント……⁉︎」
「ああ──。なんだ、セイ、バー……?」
「な……なに言ってるんですか、自分で分からないんですか⁉︎ 顔が真っ青じゃないですか‼︎」
そんなモン分かるか。自分の目は自分の顔を見れるようにできてないんだ。
違う、そんな事は今はどうでもいい。地獄の奥底から響いてくるようなノイズが俺の脳内を這い回っている。
「ああ、悪い、なんか気分、悪──」
がちがちと歯が鳴る。呼吸が荒い。
死神がすぐ後ろにいるような、異様な寒気が全身を襲っている。
すぐに意識が今にも途切れそうになってきた。これはまずい、今すぐ何らかの対策をしなくちゃ俺は──、
意識が、反転した。
「…………………………………………………………」
「な、なんですか? 急に黙り込んで。もう夜も遅いんですし、こんな所にいないで休んだほうが」
血管の浮き出た両手が異様な速さで伸びる。
セイバーは流石に想定外だったのか、その手を振り払うこともなかった。獣のようにセイバーに飛びかかった俺は彼女の華奢な身体を組み伏せ、両手を強く上から抑えつける。
彼女の体は驚くくらい軽く、簡単に屋根の上に押し倒せた。蒼色の髪が広がり、押し倒す俺の手にかかる。
「──────け……ケン、ト?」
距離が近い。綺麗な彼女の碧色の瞳が、柔肌が、唇がすぐそこにある。何を、と言おうとした彼女の口を俺は左手で塞いだ。
食い縛った歯の間から漏れる吐息は荒い。俺の両目は異様に血走って、セイバーの白くて細い首元だけを捉えている。
綺麗で/憎くて、愛らしい/殺したい彼女の顔に、驚きと困惑の表情が浮かぶ。
「……………………は、はははは」
乾いた笑いを漏らしながら、ひゅっ、と素早く右手を振り上げた。
一体何をする気なのか。俺が何をしたところで彼女に傷はつけられないだろうに。
それでも、俺は絶望的な危機感を覚えていた。今すぐ止めさせなければ不味いと、俺の直感が告げている。
止まれ、止まってくれ。
まるで手刀のように右手の五指が伸ばされる。勢い良く振り上げた右手は、更なる神速を伴ってセイバーの首元へと──、
(止まれってんだよ、俺の身体────‼︎‼︎)
意識が、反転した。
何かが起きて何かが正常に戻った。世界が歪んだかのような衝撃が脳髄を駆け巡り、俺は苦悶の声と同時に肉体の支配権を取り戻した。さっきまでの記憶が黒い洪水に呑まれて混濁する。
……俺は何を思い、何故彼女を押し倒したのだったか。
だが、既に右手は振り下ろされている。
多分そのまま振り下ろしても害はなかったろう。俺じゃあ彼女に傷を付けるのは難しい。それでも、俺は強烈な忌避感からセイバーの首筋に振り下ろされる手刀を全力で止めにかかった。
勢いは殺しきれず、結果的に振り下ろす起動が僅かに逸れる。
若干内側に曲がった俺の右手は勢いを緩めつつも結局止める事は出来ずに──、
「…………………………え?」
セイバーの柔らかな、そして結構大きめの豊かな胸部のど真ん中に着地した。
そのたわわな感触を味わった瞬間に俺の時間はぴたりと止まって
「え? じゃないでしょうが頭おかしいんですかこの変態愚か者不敬者ゴミクズ変態虫‼︎‼︎」
……時間が怒号と共に動き出し、俺は頭のどこかで想定していたビンタどころか、ショットガンを思わせる魔力放出の雷に打ち据えられて吹っ飛んだ。空気が肺から全部押し出されて、身体中を感電特有の嫌な感覚が駆け巡る。
数メートル吹っ飛んだ俺はあろうことか道路を飛び越え、向こう側の民家の屋根の上を転がって停止した。全身がずきずきと痛むのを感じながら、どうせなら今回も気絶しときたかったとぼんやり思う。
そして、仰向けの俺に歩み寄ってくるセイバー。彼女の眉はぐいぃんと釣り上がり、怒りで漏れ出した魔力が火花を散らしている。
「──ヘンタイ‼︎ ヘンタイですよ‼︎ そんな 男だったなんて見損ないました‼︎」
「いやっ……違うんだっての‼︎ 落ち着いて、ゴカイ、ゴカイデス」
「なぁにが違うんですか触っておいて‼︎‼︎」
……正直なところ、今更なにを言っても押し倒したのはまごうことなき事実であって。
まだ痺れてよく動かない身体をもぞもぞと動かして、憤慨する魔王様に日本人特有の伝統謝罪体制ことドゲザを披露する。まさか向かいの渡辺さんの家の屋根で土下座をする日がくるとは思わなかった。
「……いやその、すいませんでした」
「むっ」
構うものか、ガンガン額を擦り付けていけ。この局面を切り抜けるには誠心誠意魔王さまに謝罪の意を表明するしかない。
元より俺とセイバーは運命共同体、生死を共にするパートナーなのだ。こんな事で関係を険悪にするなんてたまったもんじゃない。
「…………………………ま、いいですよ。顔を上げてください」
「えっ、こんな簡単に許してくれたり⁉︎」
「ンなこと言ってないでしょうが‼︎ とりあえず顔を上げろと言ってんですよ‼︎」
人ん家の屋根の上でずいぶんと大声で騒いでるな俺たち……とセイバーの言葉をよそに考えてみるが、今更どうにもならないので諦めた。内心ではセイバー同様にご近所さんに謝っておきたい気分。
「これから私の不敬ゲージを数本ぶんは貯めた先の行いついて問い詰めますからね。そう、魔王裁判です。被告人である変態クソ野郎ことケントは誠心誠意真実を述べるように」
「んな魔女裁判みたいな……」
唐突に始まった魔王さまの裁判。
セイバーの口調がやけに速いし所々声が裏返っているのを鑑みるに、珍しく気が動転しているのだろうか。最もそれはこちらもなので、何がどうなるという訳でもない。
「では……ケント、もとい変態クソ野郎。なんであんな事したんですか」
「えー、あの、ですね。まず先に結構精神的にきついからその呼称やめてくんない? いや、悪いのは確かに俺なんだけど……」
……正直なところ、分からないのだ。
身体が気がついたら動いていた、なんて言っても信じてもらえないだろう。絶対セイバーの怒りを煽るだけになる。
けど、他に言うべき事もない。俺が最近頭に違和感を覚える事は多いが、その違和感が消えた頃には何がどうなったのか記憶が混乱しているのだ。「セイバーを確かに押し倒した」という記憶はあっても、その瞬間俺が何を思っていたのかよく思い出せない。
「最近…………変なんだよな」
「変?」
「なんか時々頭に靄がかかったみたいになって、強烈なノイズみたいなのが走ったと思うと……気がついたら相手に手が伸びてたりする。そんで何を思ったのか覚えてない」
「──────」
あれだけ騒いでいたセイバーが沈黙する。なにか、俺がとんでもない事を言ったような表情だった。
「そんなバカな……まさか宝具が……」
何かを危ぶむかのように俺を見て、セイバーは長い眉毛を伏せた。
「えっと、どうしたんでしょうか、裁判長?」
「いや、その……とりあえず、さっきの蛮行は許してあげるとします。そもそも変た……ケントは死んでる上にもともと一般人なんですから、表面上は見えないようでもストレスが溜まってたのかもしれませんね。あんなことをしてしまうくらいに」
まあ、精神的負荷はあったのかもしれない。
突然殺されたかと思えば超人たちの殺し合いに巻き込まれ、挙げ句の果てに家族が魔術師だったと立て続けだ。セイバーの言葉通り、確かに結構な負担が肩にのしかかっているのを感じる。
……けれど、その程度の原因で俺が理性をなくしかけるとは思えない。
そも、セイバーという最良にして最強のパートナーが俺にはついているのだ。彼女には実際にも精神的にも救われているし、そんな彼女をわざわざ襲おうとするなんてことは──。
「けど、注意してください」
「……無罪放免お咎めなしってのは非常にありがたいんだけど、何でしょうか」
「今後、精神をしっかりと保つこと。今後不穏な兆候があれば私が必ずケントを引き戻しますが、それでも自己防衛は心がけてください」
「自己防衛……? 精神をしっかり保つったって、何に備えろって言うんだ」
セイバーが言葉に詰まった。自分の事を俺に言いたくないときの態度によく似ている。
「例えるなら……わーっと怒りたくなったり人を殺したくなったりするような、そんな悪い感情です」
「なんだそれ。そんな物騒なことを俺が思ったりするわけないだろうに……やるからやられるかの極限状態なら、やむなくそんな手に出るかもしれないけど」
「いえ──まあ、そうなんですが……」
顔を俯かせると、セイバーはかき消えるような声色で俺を肯定した。
なんだか腑に落ちないが、ひとまず無罪放免のありがたさを味わっておこう。
「それはそれとして。もしかして、なにか悩み事ですか?」
「へ? なんだよ、藪から棒に」
「屋根の上にいたケントの顔、なんだかとても悲しそうだったので」
「…………はあ」
軽く頭を掻く。流石はセイバー、変なところで目敏いやつ。
この際だ、この魔王さまに愚痴に付き合っていただくのも悪くないだろう。ひとまずセイバーに抱えられて我が家に飛び移り、微かな傾斜がある屋根の上に腰掛ける。
「なあセイバー、俺はさ────」
暫く沈黙を挟んで、俺は話し始めた。
「これから……どうしていけばいい? 分からないんだよ。妹が魔術師だって分かって、それでも俺には何の知識も力もない」
セイバーは無言で俺を見ている。美しい碧色の瞳は俺の姿を映し出し、ただただ俺の言葉を待っていた。
「……ぶっちゃければ、楓に魔術師なんてやつにはなって欲しくないんだ、俺は。お前も確か聖杯戦争について話してくれた時に言ってただろ、魔術師は人でなしばかりの集まりだって……」
「まあ、例外もあると思いますけど」
「楓はそうじゃない……とは言い切れない。だってあいつは確かに、
「そりゃ一般人のケントからすれば人殺しなんて最大の禁忌でしょうけど、魔術師にとってそういう道徳的な倫理観は薄いですからね。己の目的が全てにおいて優先されるんです。決して彼らは無法者という訳ではありませんが、必要に迫られれば容赦をしない」
「だろ? まあ要は……怖いんだ。楓が、いやそれだけじゃなく、魔術師だっていう父さんと母さんにまで恐怖を感じてる」
……普通そうじゃないか。
今まで何の変哲もない家族だと思っていたのに、俺以外は全員人であって人から外れた存在だったんだから。
孤独感と疎外感、それに得体の知れない「魔術師」という存在への恐怖が心の中に溜まっている。
「俺は、これから家族とどう接すればいいかが分からない」
声が震える。言葉を重ねるごとに語気は強まっていき、最後の方は苛つきと理不尽を言葉に乗せて吐き出したみたいになってしまった。
「……ケントは、当たり前の事を忘れていませんか」
セイバーは隣に腰かけたまま、夜空を見上げてそう言った。その言葉は毅然として、まるで彼女ではないかのような声質を伴っている。
「ケント、貴方の目を見れば分かります。その目には濁りも曇りも、闇だってない。きっと今までのケントの人生は幸せなものだったんでしょう」
幸せか……と聞かれれば、確かにそうかもしれない。
人並みに不運や悲しい事も経験しているけれど、逆に言えば人並みに幸せを享受できているとも思える。特に一度死んでからは、何気ない日々の幸福が異様にありがたく感じられたものだ。
「それなら分かる筈ですよ。確かにケントはかつて魔術師に捨てられましたから、魔術師を嫌うのも道理ですが……それでも、ケントが家族と今まで積み上げてきた過去は揺るぎません。もう一度思い出してみてください。ケントの今までの人生が、良いものだったというんなら──」
セイバーの碧色の瞳が、俺の瞳を覗き込む。
「たとえ魔術師であったとしても。ケントの両親は、他人の家の子であろうと等しく愛情をかけられるような、きっと素晴らしい人たちなんだと思います」
セイバー自身の家族について語ろうとした時、彼女は顕著な拒否反応を示してはいなかったか──と俺は彼女の身を密かに案じたが、セイバーの瞳に揺らぎはない。
おもむろに、彼女が俺の手を軽く握る。
その暖かさと、「それが真実だ」と高らかに述べているような瞳に励まされて、俺の中の鬱屈した感情が消えていく。鬱陶しいなにかの雑音も、それに伴って引っ込んだ。
「たとえ魔術師だったとしても、今までの思い出に変わりはない、か。確かにそうだな、その通りだ」
……気を取られて、忘れていた。
両親と妹の正体がなんであれ、俺と彼らの間に築かれた確かなものは消えない。否、その程度のことでは消えさせない。
全くもって笑えてくる。
正体がどうあれ、俺が尊いと感じたものに揺るぎはないというのに。俺は、もの凄くつまらないことで悩んでいたらしい。
「ありがとう。またお前に助けられた」
「いえいえ、構いませんよ」
セイバーははにかむように笑う。
それを見て、俺は思わず息を呑んだ。
朱が差した頰。風に微かに揺れる蒼髪。長い睫毛の奥から覗く碧色の瞳。月光にその身を浸したような彼女の姿は一瞬呼吸を忘れるくらいに美しくて、俺はその間だけ、彼女が誰なのか分からなくなった。
(──────っ、あ)
その姿を見て、雷のように走った感情があった。
(……そんなの分かってた、本当はとっくに理解してたよ。ただ、こうして完全に自覚したくなかった……)
昨晩、彼女との別離を強く意識してしまったからだろうか。
それとももしかすると、俺は最初に彼女を見た時、もうこの感覚を抱いていたのか。
(けど、俺はやっぱり、セイバーのことを……)
気を抜くと、心の内で渦巻く感情を認めそうになる。この感情を認めてしまったところで、最初から俺たちの別離は決まっている。
ならば、後に残るのは身を切り刻むような悲しみと孤独だけ。
──それは、それだけは嫌だ。
ならばせめて、この感情は胸の奥の奥にしまい続けよう。
嫌だけど、心の底から耐え難いけれど。
もし「その日」が来てしまった時、目の前の彼女に涙を見せないように──。
「いいところ、失礼しますよっと」
と、何か変なヤツが出てきた。
その和風の男はどんくさくベランダから屋根に登ってくると、ああ疲れた、とばかりに軽く溜息。腰掛ける俺とセイバーの近くまでやって来る。
「貴様、キャスター……何をしに来た」
「おっと。僕らはもう戦わないと決めたはずやん?」
セイバーがやおら立ち上がって長身痩躯の男に向き合う。セイバーの鋭い視線も意に介さず、キャスターは俺の方に視線を向けた。
色んなものが入り混じった瞳だ。だが、少なくとも不快感はない。
「君ときちんと話しとらんかったな、健斗クン?」
「……ああ。妹が世話になったみたいだし、一応それについては礼を言っとく」
「はははは‼︎ さっきまで敵やったっちゅうのに、随分礼儀正しいもんや」
畳んだ扇子を口元に当てて笑う。まるで平安時代の貴族様だ。
──いや、違う。
この男はサーヴァントだ。ならば当然、この男も今ではない時代を生きた超常の存在。であればこの男は本当に、かつての日本に生きた英雄なのか。
「さて。楓ちゃんはお風呂入ってもうたんで、僕が代わりに来たっちゅうわけやな。ひとまず停戦するとはいえ、それ以外のことは何にも決めとらん訳やし」
「何にも……と言うと?」
「例えば情報交換。それを踏まえた上での行動方針の決定……。楓ちゃんがおらんのやから細かいことは決めれんが、真名を明かし合うくらいの事はすべきなんちゃうか?」
「………………‼︎」
びくり、とセイバーの肩が震えた。間違いなくキャスターの言葉に過剰な反応を示している。未だに彼女は俺に真名を明かす事を拒んでいるらしい。
だが、キャスターはセイバーの動揺を知った上で──、
「まあ、こっちはセイバーの真名を把握しとるんやけど。かの魔王───」
「やめろ‼︎‼︎‼︎」
直後、凄まじい暴風が吹いた。いつしか喫茶店で見せたものとは比べ物にならない、蒼色の稲光が彼女の体から噴き出すほどの衝撃だった。
俺は思わずセイバーを見て、驚きに目を見開いた。
彼女の笑った表情を知っている。怒った表情を知っている。……淡々と殺戮を行いながら孤独を秘めたような表情だって、俺は知っている。
──だが。
この瞬間まで、彼女が
大地に響くような怒声を張り上げて剣に手をかけていても、セイバーが浮かべているのはれっきとした恐怖だ。顔は青く、隠しきれない怯えの色が滲み出ている。
「……口に気を付けろ魔術師。それ以上言えば首を刎ねる」
「せ、セイバー?」
「おっと。この街を一度更地にしておいて、まだ暴れ足りんのかいな。ま、そんな嫌なんやったら僕も言わんどこうか」
キャスターは面白そうに口の端を歪めると、わざとらしく首を振った。
なんとなく気に入らん奴だなあと俺が考えていると、それはセイバーも同じだったらしい。鼻を鳴らしてそっぽを向くセイバーをよそに、俺はキャスターに歩み寄った。
「……キャスター。お前は楓のサーヴァントで、サーヴァントってのはマスターを守るものなんだよな」
「如何にも」
「じゃあ──約束してほしい。必ず、何があろうと、俺の妹を守り抜くって」
真剣な目でキャスターを見る。彼の顔は異様な妖しさを纏って、一目見られただけで足がすくみそうだった。
それでもコイツは楓のサーヴァントであり、楓が最も信頼を置く男だ。
俺は多分、他人の事まで気が回らない。俺一人、なんとかかんとか生き延びるのが精一杯だ。だからどうしても、大切な妹を守る役目はこのキャスターに頼むしかない。
「ンー、その願いに相応しい対価は?」
「お前が満足しそうなモンなんて、俺には提示できない。けど、お前だって
「ほう……なんで僕の真名が分かった? 君は確か、魔術師ですらない素人の筈や」
「楓は昔からやたら陰陽師……特にお前が好きだったし、サーヴァントを呼ぶならお前以外あり得ないと思ったからな。それに、そんなバレバレの格好してたら、日本人なら大体察せると思うぞ」
内心、外れてたら恥ずかしすぎると思っていたので安心しつつ、少し得意げに言い放ってやる。
「かぁー、やっぱ有名って罪やわぁ。人気って罪やわぁー。僕レベルになると素人にも分かっちゃうんやねこれが、いやあ参った参った」
言葉と裏腹に、物凄く嬉しそうな顔だ。
話に若干置いていかれたセイバーは俺の後ろでしばらくきょとんとした顔をしたあと、
「いや、私全然知らないんですけど。なに? 極東の英霊ですか? ハン、あべのせいめいだかアベノミクスだが知りませんが、田舎者風情があまり調子に乗らない方がいいと思いますよ」
「あっ、いいのかなそういうこと言って。君の真名、彼にばらしちゃおっかなぁ〜ン」
「キサマ──‼︎」
どうやらこの二人は相性が悪いらしい。
待て待て待て待て、とすぐに再会しかけたケンカを無理やり中断させて、俺は改めてキャスターに尋ねる。
「……で、どうなんだ、キャスター。俺の約束に従う気はあるのか」
「当然、僕は元からそのつもりやぞ。……君が僕の真名を当ててなかったら、対価としてせんべい100枚くらい要求したろかと思っとったけど。今の僕は気分がええからな」
「ならいい。じゃあ──これから、楓をよろしく頼む」
手を差し出すと、キャスターは硬くその手を握り返した。
その握手を今は信じることにして、もう一方の手でブチ切れた猫みたいな唸り声を上げているセイバーを制止する。
「私、こいつ嫌いです」
「はっはっは、たしかにお胸は楓ちゃんと違ってデカいけどな、僕も大事な大事な十二天将の皆を素手で虐殺するようなロリ巨乳もどきはお断りやわ」
「こ、こ、こッ‼︎‼︎ この不敬も@△◆¥●&〜〜ッ‼︎‼︎‼︎」
「オイだからやめろ、喧嘩すんなセイバー何言ってるかわかんねえし雷漏れてるから‼︎ あと頼むからお前も煽るのをやめろ馬鹿陰陽師‼︎」
まったく仲良くなりそうな気配がない二人を見て、俺は今後の戦況がさっそく不安になってきたのであった。