Fate/crescent 蒼月の少女【完結】   作:モモのすけ

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三十三話 代行者の苦悩/Other side

 私──アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナは、ロシアの片田舎にある教会で産まれた。

 いつしか槙野さんに「家族はいるのか」と聞かれた時、私は咄嗟に「物心ついた頃には孤児院にいた」と答えたが、それは虚偽。

 私には──確かに、家族と過ごした記憶がある。

 ただ、それを今まで誰にも言わなかっただけで。その記憶を漏らしてしまえば、私は間違いなく教会の手で解剖されることになるだろう、と理解していたから。

 そもそも、私の家は代々続く聖職者の家系だった。家は立派な教会と隣り合わせになっていたし、父も母もそこで神に仕えることを何よりの喜びとしていた。清貧を守る質素な暮らしではあったが、家族の愛は満ち足りていて、平穏で、幸福な暮らしがあった。

 

 けれど──その生活を、人外の者らが引き裂いた。

 

 憶えている。憶えているとも、未だ悪夢にうなされるくらいには。

 奴らは突如として現れた。魔が蠢くのに最適な新月の夜、私たち家族の教会は何らかの魔族によって襲撃を受けたのだ。

 炎に燃え上がる教会。その裏口に私は立っていて、母が強く強く私の肩を掴む。父は少しでも時間を稼ぐために教会の中にいたのか、その姿は見えなかった。

 

『アナスタシア、貴方は逃げなさい』

 

 ……奴らの狙いは明確だった。

 遥か昔から、私たちの教会の地下深くに保管されていた「聖典」だ。

 神聖な神の文言が記された書物は、それ自体が神秘を重ねた時、強力な概念武装として働く「聖典」に変化することがある。それは吸血鬼の真祖たる存在に非常に有効に働くと共に、奴らにとっても最悪の兵器であるので、聖堂教会はそれらを非常に優れた代行者に与えていると言う。新米の私は見たことすらないが。

 だが、そうした教会で管理された聖典とは違い、私たちが保管していたものは家に代々伝えられる家宝であり、我が家の財産だった。

 故に一家以外の人間には伝えず、教会に託すこともせず、ただ無心にその聖典を保護してきたのだ。

 

『この聖典を──アナスタシア、貴方の身体に埋め込みます。そうすればこの聖典も、貴方も助かる。私がいいと言ったら、全力で走りなさい。とにかく遠く、遠くへ。決して振り返らずに』

 

 轟々と燃え盛る炎はすぐそこに迫っている。

 時折響き渡るつんざくような叫び声、炎に照らされた異形の影。

 その緊迫した状況に頷かされるように、私はその儀式を──聖典を我が身に融合させる禁忌を受け入れた。古ぼけた書物の形をしていたそれは、猛烈な勢いでページが千切れ飛んだかと思うと、全てが私の胸の中に吸い込まれていく。

 最後の一ページが吸収される瞬間、誰かの声を聞いた。

 それは恐らく、聖典を守護するという精霊の声だったのだろう。

 「儀式」が終わり、私は全身が異様な音と共に変革されていくのを感じた。内臓がひっくり返って全身を激痛という激痛が駆け巡り、全ての骨が膨張と収縮を繰り返す。

 最初はこれで死ぬのかと思った。

 だが、聖職者の血を引く私の身体は、かろうじてその反動に耐えたらしい。

 

『最後にこれを。アナスタシア……私の愛しい子。貴方は生きて、自分がすべきと思った事を成しなさい。──さあ、行って‼︎』

 

 古ぼけた、親指ほどの大きさの木彫りの十字架を手渡される。

 そして、母の背後から異形が飛びかかってくるのを見た瞬間、私は全力で駆け出していた。

 ピッ、と頰に生温い液体が飛ぶ。

 それがなんなのかを理解するのを拒んだまま、私は目に涙を溜めてひたすら走った。聖典を吸収した影響か、全身が異様に軽い。私は聖典を手にしたと同時に、代行者として生きていく権利も獲得したのだ。

 冷たい夜の雪の中を私は必死で走り、走り、走り──そうして、私は生存した。

 

 

 

 

 お店の隣に生えた小さな庭木。そこに数羽の雀が止まったかと思うと、可愛らしい声でさえずり始めた。

 朝を告げるような鳴き声の合唱。アナスタシアはむくりと起き上がると、目を擦りながら大きなあくびをして立ち上がる。

 

「おはよぅ……ござい、ます……」

 

 今にも消え入りそうな声で、アナスタシアは小さなダイニングの扉を開けた。朝食のベーコンエッグを作る音が響く中、この家の家主である店主、槙野和也は笑みを浮かべて振り返る。

 

「おはよう、アナ。もうできるから座って待っていて」

 

「はぃ…………ぐう、ぐう……」

 

 槙野はこの、朝食を食べ始めるまでの時間が好きだった。住み込みで働くアナスタシアの面白い姿が見れるからだ。

 このアナスタシアという少女は無愛想に見える事を除けば、なんでも完璧にこなす完成された人間のように見える。だが唯一の欠点として、何より朝の早起きが大の苦手らしい。

 店主の朝は早い。頑張ってそれに合わせて起きてくるのはいいが、アナスタシアは朝食を食べるまでは意識がはっきりしない。テーブルに座ってはこっくりこっくり、槙野が朝食を並べるまで可愛い寝顔で船を漕いでいる。

 

「アナ。おーい、アナスタシア。できたよ、朝ごはん」

 

「……ハッ⁉︎ あ、ありがとうございます……いつも申し訳あり、ま……くぅ…………」

 

「全くもう、ホラ、また寝かけてる。そんな苦手なら無理しなくてもいいんだよ、どうせ店を開けるのはもっと後からだし」

 

「大丈夫……大丈夫、ですから……貴方は、私が、守ります……そのためなら、無理だって……」

 

 寝ぼけているのか、よく分からないことをブツブツ言いながらアナスタシアは否定する。店主の朝は非常に早いので、朝が苦手なアナスタシアにはとくに厳しいだろうに、真面目な彼女はどうしても手伝うといってきかない。

 まあ早朝から働いてくれれば助かるのは事実だ。それに朝食を食べて目が醒めるまで覚醒と微睡みを交互に繰り返す彼女の姿も可愛らしいので、槙野は今日もアナが朝食を食べるまで声を掛け続ける。

 

「今日、朝のお客さんが落ち着いてきたら、僕ちょっと用事で出てくる。その間は店番を頼めるかな? アナにも今まで色々と教えてきたし、もう一人で任せられると思うんだ」

 

「任せて下さい……頑張ります」

 

「うん、なら任せるよ。そういや、大学の方には顔を見せなくてもいいのかい?」

 

「大学……とは……い、いえ、今のところは大丈夫ですので、問題はないと思います、はい」

 

 一瞬自分が留学生と偽っていることを眠気の彼方に忘れかけていて、アナスタシアは思わず必死で首を振って誤魔化した。

 本来、こうずっと店にいるのは怪しいものだが、店主の槙野には軽い暗示をかけてある。アナスタシアの行動に対し、大した疑問を抱かないようにする作用を持つ術式だ。

 それが上手く作用しているらしく、槙野は簡単に納得してくれた。

 だが、こうした会話をこなすたび、アナスタシアは槙野和也を……どこまでも善人の見本のような彼を騙して、作戦の為に利用しているということをまざまざと自覚させられる。胸の痛みを貌の奥に包み隠して、アナスタシアはようやく朝食に手をつけた。

 

 

 

 

「……………………」

 

 ほとんど真顔だが、心なしかムスッとした表情のアナスタシアは、何かを忘れたいかのようにせわしなく店内を歩き回っていた。

 開店から二時間ほど、モーニングセット目当ての客も落ち着き、穏やかな空気が店内に戻ってきた。流れるクラシック音楽に耳を傾けながら、頭の中で悶々と自己嫌悪に陥る。

 ──なんで自分はあんなに朝が苦手なのだ。

 これだけは、どうあがいても治せる気がしない悪癖らしい。寝惚けているとまともに思考が働かず、ついつい言ってはいけないことまで漏らしてしまいそうになるのが心臓に悪い。

 と、ドアに備え付けられた鈴が爽やかな音を立てた。

 来客を示すその音に反応してアナスタシアは頭を下げ──ようとして、真顔のまま軽く眉を吊り上げる。

 

「よう、マスター。調子はどうだ」

 

 そこに立っていたのは、現代の服に着替えたアーチャー。

 迷彩柄の軍服から、どこから頂戴したのか立派なジャケットを身につけている。ダメージジーンズやワイルドな絵柄のシャツは実に軍人である彼らしく、ミスマッチさは特に感じない。

 

「アーチャー。何をしに来たんですか?」

 

「喫茶店に来る用事なんて大したもんじゃないだろう。暇つぶしだよ、あと休息。なんだ、アンタは俺に二十四時間ずっと街を見張れと命令するのか? 日本のブラック企業もびっくりな勤務方針だな‼︎」

 

「そこまでは言っていませんが、ここに来るのはやめて下さい」

 

「何故」

 

「……はっきりとした理由は、ありません。心情の問題です」

 

 はぁ〜、と大きな溜息をついて、アーチャーは勝手にカウンター席に腰掛ける。マスターの言葉はガン無視してくつろぐつもりらしい。

 どこか西洋風の雰囲気がある店内に、灰色の髪に白肌のアーチャーの姿は実にしっくりくる。

 彼の持論は「戦場で息抜きもできない奴はまっさきに死ぬ」というものだが、アナスタシアは真面目すぎるところがあるせいで、朝はともかく、この場所で働いている時にも緊迫感が抜けきっていない。そんなんだからますます無愛想に見えるんだ、とアーチャーは考えていたが、この頑固な聖職者見習いは簡単にそのスタンスを崩さないだろう。

 

「ふぅむ。じゃあひとまず、コーヒーをアイスで一つ貰おうか」

 

「……お金はあるんですか? アーチャー。いくら貴方でも対価を払わない客に出すものはありませんよ」

 

「なんだ、ケチな奴め」

 

「当然です」

 

 布はあるか? とアーチャーが尋ねるので、テーブルを拭くための濡れタオルを手渡す。するとアーチャーは重い音を立ててカウンターの上にサブマシンガンを置き、上機嫌で銃身を拭き始めた。

 更に片手で器用に煙草を取り出すと、これまた器用にライターで着火する。身勝手かつ非常識な行動に流石にイラっときたアナスタシアは、近くにあったお盆でアーチャーの短く刈りそろえられた髪の目立つ頭をすぱん、としばいた。

 

「なんだ、なんだよマスター、いきなり暴力とは酷いじゃないか。アンタらが大好きな聖書にはなんて書いてある? 人を叩け、なんて馬鹿げたことを書いているような本だったか? え?」

 

「口を閉じなさい。ここは禁煙ですし、銃の手入れをする場所でもありません。ルールに則らないのであれば出ていってもらいます」

 

「……ったく、じゃあ何をしろと」

 

 大人しく銃を霊体化させて、退屈そうに頬杖をつくアーチャー。

 彼はアナスタシアが渋々差し出してきたお冷を喉に流し込むと──、

 

「そういや、怪我のほうはどうだ。アサシンの野郎に受けたのはそこそこな傷だったと思うが」

 

「いまだ本調子にはほど遠いですが、活動に支障はありません。戦闘であろうとこなしてみせます」

 

 昨日のこと。トンネルの中から異様な気配を感じ取ったアナスタシアは、そこで人を喰らうアサシンと遭遇したのだ。

 その後、彼女は追い詰められながらも命からがらトンネルを抜け、アーチャーが狙撃でアサシンを仕留めた。

 その際に負った傷は深く、出血も多かったことから、アナスタシアは傷の治療と血の補給にかなりの時間を費やした。そのため帰りが遅くなってしまい、槙野にはとても心配をかけてしまったことが少し申し訳ない。

 

「ならいいんだが。……まあ、俺とアンタで七騎のうち一騎は仕留めたんだ。それに厄介なアサシンを真っ先に仕留められた。好調な出だしといってもいいだろうさ」

 

 乾杯、とばかりに軽くコップを掲げるアーチャー。

 

「その通りですね。これで私も、多少は夜間の警戒を緩めて体力回復に努められる。あと、問題があるとすれば──」

 

「キャスター、だな」

 

 その言葉にアナスタシアは頷く。

 サーヴァント七騎のうち、唯一アナスタシアの正体を把握しているサーヴァント……それがキャスターだ。

 彼女はマスターであることを隠した上で、工房などではなく敢えて一般市民が営む喫茶店に隠れている。そうする事で敵からの発見を困難にする狙いであり、実際そうした手段で生存したマスターも存在する。だが運の悪い事に、偶然からキャスターがこの場所の存在を知ってしまったのだ。

 

「この場所に潜伏していることを知られた以上、一刻も早くあのサーヴァントとマスターの少女は殺害します。ですが、私が仰せつかった役割は……不本意ですが、未だに「現状維持」。あのアサシンのようにサーヴァントに偶発的に遭遇、打倒できるならまだしも、こちらから大きく私が単独で動くと上からお咎めがあるかもしれません」

 

「まあそうだろうな。そもそもアンタら代行者の役目は聖杯の回収で、その連中が失敗した際の予備がアンタなんだっけか?」

 

「はい。ですが──朗報がひとつ」

 

 微かに声が弾む。アナスタシアはようやく自分たちの職務を果たせる時が来たことを伝えると、基本的に無表情な彼女でもわかるくらいには笑みを浮かべた。

 

「今夜、聖杯奪取の作戦が決行されます。突き止められた場所は大塚市の西端、湖に浮かぶ「仙天島」。あそこに聖杯がある、との情報は間違いないようです」

 

「……おいおい、待て。アンタらは正気か? 今あの島は──」

 

「ええ、分かっています。あの島は今現在……神殿(・・)クラスに分類される結界が張られている。代行者が四人とはいえ、真正面からの突破は困難を極めるでしょう」

 

 言いつつ、アナスタシアは少しだけひっかかるものを感じていた。

 アナスタシアがあらかじめ入手していた情報は、「聖杯戦争を開始したのは金髪の女魔術師であり、幼い容姿のサーヴァントを連れていた」というものだ。

 驚くべき事にその女魔術師は、湖の人工島……「仙天島」に大聖杯を敷設し、たった一人で聖杯戦争を始めたのだという。

 正体不明、データベースにも乗らない謎の存在。

 だが、あれほどの陣地を形成できるのは「陣地作成」のスキルを持った魔術師(キャスター)のサーヴァントに限られる。考えれるとすれば、あの少女とキャスターのペアが、仙天島に巣食うという女魔術師に協力しているという可能性だが……。

 

(どうも──その線は薄い気がする。昼間からこの店に立ち寄るほど、精神的にも強さにも余裕があるようなサーヴァントとマスターが、急に陣地を構築して籠城するような策に出るとは考えにくい。あまりに方針転換が急過ぎます)

 

 あのキャスターと少女が、仙天島の女魔術師に協力しているという可能性は低いだろう。

 であれば、様々な矛盾点が発生してくるのだが──力技で内部を殲滅してしまえば、何もかも明らかになるだろう。

 衛宮士郎と遠坂凛とかいうイレギュラーのせいで作戦決行の延期を余儀なくされた上層部もいい加減我慢の限界らしく、この作戦が延期される事はない。今夜にでも決着がつく可能性は高いのだ。

 

「困難なら、どうすると言うんだ」

 

 怪訝な顔のアーチャーには答えず、アナスタシアはカウンター越しに少しだけ身を乗り出した。彼女はなんだか嫌な予感がするぞ、とでも言いたげなアーチャーの瞳を覗き込んで──、

 

「簡単です。──貴方の力で、神殿に穴を穿つ(・・・・)。後は一気に制圧を試みます。確かにあの島の結界は強力ですが、霊体……サーヴァントに強烈に作用することに主眼を置いている。サーヴァントでない人の身であれば、一本しかない橋を渡らずとも侵入は可能でしょう」

 

「……オイオイ、冗談を言うな。俺は狙撃手だぞ? かさばるロケットランチャーを担いだ歩兵じゃあるまいし、そんな破壊力を求められても俺には無理だ」

 

「いえ。シモ・ヘイヘ……貴方は狙撃手である以前にサーヴァントです。たとえ無理難題だとしても、その無理を押し通す──それが英霊という存在なのでは?」

 

 彼の弾丸は魔力で編んだ魔弾だ。アーチャーは生前の、単純に持ち運べる残弾量という(くびき)から解放され、今やハンドフリーで魔力の続く限り弾丸を精製し続けられる超人と化した。

 それは通常人が持ち運べる弾丸量を遥かに超越できるという利点をもたらしたが、運用法を変えれば、もう一つの使い方が見えてくる。

 ──本来、弾丸は一発一発が規定の大きさ、威力を持つ。

 サーヴァントと化したアーチャーもそのセオリーに則り、魔力弾を一発編むのに要する魔力をある程度、生前に使用した弾丸に酷似するレベルに抑制している。

 だが──使い勝手を度外視して、「ただ一発にアーチャーが込められる全魔力を詰め込めば」どうなるか。

 簡単だ。狙撃手は正確性と連射性を失うかわりに、たった一発に全てを込める、また違った一撃必殺の体現者となる。

 

「ハァ。まあ、やるだけやってみるが……あまり期待はするなよ。俺にそんな役割を求めたのは恐らくお前が初めてだ」

 

「何事も挑戦です。それに聖杯奪取が済んだ暁には、もう槙野さんを危険に晒す必要もなくなるんですから。頑張りましょう」

 

 何やら気合の入っているアナスタシアをジト目で眺めて、アーチャーは氷の入ったコップをカラカラと鳴らす。

 

「前も言ったが、随分とあの店主にご執心のようで」

 

「…………そんな事はありません」

 

 思わず熱くなった自分を戒めるように、アナスタシアは俯く。

 

「ふむ、ここに潜伏するうちに情が移ったのか?」

 

「そんな事はあり得ません。私は神の代行者ですし、自分の職務を完璧に理解しています。任務が終われば、私はここを去るでしょう」

 

「別に悪い事じゃないと思うがね。カトリックの神父でもあるまいし、人を好きになって何が悪いんだ。人として当たり前だろうに」

 

「……あのですね。そもそも私がそういう感情を彼に抱いている前提で話を進めていますが、私はいっさい恋慕やそれに似た感情を誰かに持ったことはありません。これまでも、これからもです」

 

「自分に嘘をつくなよ、代行者。アンタはただ怖いだけだ。自分がもしそうした感情を持っていたとして、その上で「代行者」という自分を保ち続けられるのかどうかが怖いんだろう」

 

「っ……馬鹿にしないで‼︎」

 

 珍しく……本当に珍しく、彼女は明確に怒りを露わにした。

 アナスタシアの両手が木製のカウンターを強く叩く。めきょ、という音ともに凹む平らなカウンターの惨状も無視して、アナスタシアは自分を分かりきった風なことを言うアーチャーに反論した。

 

「私には、聖典をこの身に宿してまで生き延びた者としての義務があるんです‼︎ 主の教えに従わない魔の者らを、代行者として駆逐する義務が‼︎ それほどの覚悟を持っている私が、そんな事で──」

 

 そこまで口早に述べてから、アナスタシアは顔を青くして口を押さえた。誰にも漏らすまいとしてきた秘密を、感情的になったあまり口走ってしまったからだ。

 

「成る程ね。アンタはそういう過去を経て、わざわざ代行者になろうと決意したわけだ。そんな過去を背負っている以上、自分が代行者としての職務を果たすことに揺るぎはない──そう言いたいんだな」

 

 彼女の母は、今生の別れの際に言い残した。

 「貴方は生きて、自分がすべきと思った事を成しなさい」と。

 その言葉に対してアナスタシアが出した答えは、「代行者として生きる」という事であった。魔に対する概念武装である聖典を身に宿し、かつて築いた全てを魔の者らに全て奪われたのであれば、差し出す答えなど一つしかなかった。

 ──これが、この生き方こそが、私のすべき事に違いない。

 そう信じ込んで、アナスタシアは今までの人生を駆け抜けてきた。

 だからこそ、代行者として振る舞う自分を、アナスタシアは持てる全てを使って構築してきた。そんな自分が不要な感情一つで崩れるほど脆い存在であるなど、断じて認めるわけにはいかない。

 

「……ええ、そうです。私は聖典を身に宿す者として、決してこの世界に存在する魔を許すわけにはいかない。それが私の信念です」

 

「誰がそんな義務を決めたのやら。まあいいさ、アンタがそれを「すべき事だ」と考えているんなら、俺は口を挟んだりしない」

 

「何か言いたいことがあるんなら、どうぞ」

 

「今にもカウンターを飛び越えて胸ぐらを掴んできそうな女に文句を言えるほど俺は蛮勇じゃないんでね。──と、時間だ。じゃあなマスター、興味深い話が聞けて楽しかった」

 

 その言い分に思わず舌打ちするアナスタシアをよそに、アーチャーは霊体化して姿を消した。

 ほぼ同時に、店主の槙野が扉を開けて帰ってくる。

 反射的に姿勢を正すアナスタシアの前で、槙野は大きな荷物を持ってフラフラとカウンターまで歩いてきた。積み上げられた箱の山は槙野の顔まで隠してしまい、前が見えていないせいで足取りがおぼつかない。

 

「──ま、槙野さん。お帰りなさい。荷物、お持ちします」

 

「いやいや大丈夫だよ。ってアナ、段差に気をつけ──」

 

 状況が急展開した事で内心焦っていたアナは、カウンター奥と店舗内を繋ぐ場所に設けられた一段ぶんの段差を完全に失念していた。

 バランスを崩し、アナスタシアは前のめりに転倒する。

 代行者の身体能力であれば擦り傷ひとつ負わずに受け身を取ることも可能だったが、アナスタシアがそれをすることはなかった。何故なら荷物を全部放り出した槙野が、アナスタシアの身体を咄嗟に抱きとめたからだ。

 

「うわっ、た、た……っと。大丈夫? ごめんね、設計の関係上変な段差ができちゃってて。怪我はないかな」

 

「…………は、い、いえ、そんな事より荷物が‼︎」

 

「ああコレ? 大丈夫だよ、不足分のコップとかだけど、中に緩衝材とか入ってるし……たぶん。それにコップがいくつか割れるより、君が怪我する方がよっぽど大ごとだしね」

 

 アナスタシアは呆然としてその言葉を聞いていた。

 抱きとめられた腕は男性特有の逞しさを確かに含んでいて、心拍が戦闘時並みに加速していくのが把握できる。槙野がアナスタシアを椅子に座らせて怪我がないかを確認する間も、彼女は自分の変化に戸惑うことしかできなかった。

 

(……違う、違う……こんなのは、私では──)

 

「アナスタシア?」

 

 どうしたんだい、ぼーっとして……なんて言われて、アナスタシアはカタコトで「何でもないです」とだけ呟いた。

 ──彼はあくまで、職務を遂行する上で利用しているだけの存在。

 それをハナから理解して、暗示までかけてアナスタシアは彼と接している。つまりどんな状況に於いても、アナスタシアは彼の生存よりも任務の遂行を優先しなくてはならない。

 

 なのに──。

 果たして今の自分は、彼を切り捨てる事ができるのだろうか。

 

 もし、彼を優先してしまったその時。

 自分がすべきと思っていた全ては、一体どうなってしまうのか。

 自然と震えてくる手を押さえつけるようにして、アナスタシアは自問自答をただ繰り返していた。




【アナスタシア】
本名、アナスタシア=グレチニシコワ=イリイーニチナ。
代行者見習いにして、未公認のNo.13、第十三聖典およびその守護精霊と融合した少女。
本来代行者としての素質は持っていなかったが、聖典と融合したことで「聖なる者、神に仕える者」としての属性が強化され、代行者たりうる素質を獲得した。だが、その分思考もそちら寄りに変化したため、自分は必ず聖職者であらねばならない、それを何よりも最優先すべきである、という強い思いを抱いている。

【第十三聖典】
儀礼用ながら強力な概念武装としての性質も持つが、アナスタシアの身体と融合しているために実体はない。
某カレー先輩の持つ第七聖典が「転生批判」の概念武装であるのに対し、こちらは「原罪からの解放」の概念武装とされる。
守護精霊、及び重ねた年月の詳細は不明。
"十三"という数字はユダの原罪による裏切りを示す忌み数。
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