Fate/crescent 蒼月の少女【完結】   作:モモ太郎

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四十七話 一日の始まり 【9月9日】

 熱したフライパンに卵を投入する作業をこなしつつ、俺は朝のキッチンに立っていた。じゅわあっ、と騒ぎ立つ油の心地いい音に耳を傾けつつ、朝の平穏をのんびりと味わう。

 普段なら朝食作りは楓の仕事なのだが、昨日のダメージを考えて今日は俺が担当する事にしたのだ。

 

「……………………む」

 

 菜箸で少し固まりはじめた白身を突っついていると、俺の背後から聞こえてくる楽しげな声がどうも気になった。

 

「セイバーちゃんは日本の食事って好みなの?」

 

「そうですね……私は料理という概念がそこまで発達していなかった頃の英霊ですから、現代の料理は概ね好みです。特にお菓子とか甘いものは好きですね、ほんとに好きですね」

 

「そう? なら良かった、昨日の朝に私がご飯作った時は口に合わないんじゃないかと思って内心ドキドキしてたのよね」

 

「カエデの料理は美味しかったです。ケントがいつか俺の妹は料理がうまいだのなんだのと話してましたので、不安はありませんでしたが」

 

 実に和気藹々とした会話である。だいたい楓よ、お前はいつのまにセイバーをちゃん付けで呼べるほど親しくなったと言うのか。

 彼女らを結びつけるような共通点が果たしてあっただろうか、と考えてみるも結果は芳しくない。大人しく、ダイニングテーブルに座る彼女らのために朝食作りに励むとする。

 

「ほい、出来たぞ〜」

 

 十分ほどのち、俺はテーブルの上に出来上がった朝食を運んでいた。

 時短重視なので野菜サラダは市販のをそのまま出しているだけだが、メインの目玉焼きはきちんと作った。部室に泊まっていた頃のコンビニおにぎり数個のような朝食よりかは、ずっと朝食っぽいものを出せたと言えるだろう。

 

「お、やればできるじゃないですかケントも」

 

「まぁ、楓には数段劣る腕だけど……というか、なんでさも当然のように家事も手伝いもしないお前が一番偉そうに意見を述べてんの?」

 

「いや、魔王ですし……」

 

「そんな免罪符みたいに魔王って御身分でなんでも押し通れると思うなよ、セイバー」

 

 とか言いつつも一応皿はセイバーの前にも置く。

 お箸は苦手みたいなのでフォークとナイフを添えるという、我ながら気の利いたサービス付きである。

 

「何だかんだ仲良いわよね、お兄ちゃんとセイバーちゃんは」

 

「ふっ、当然ですよ。マスターがサーヴァントを使役する上で最も重要なのはマスターの才能ではなく、如何にサーヴァントと信頼関係を築けるかなんです」

 

 セイバーはどこか得意げに語る。

 

「その点で言えばケントはひじょーに優れていると言えるでしょうね、ついでに魔術的な才にも恵まれていますし。私の前のマスターなんてもう、魔術師としては平凡なくせに私を破壊兵器か何かのように見なしていましたから最悪でしたよ。まともなこみゅにけーしょんも取ろうとしない」

 

「お褒めの言葉は光栄なんだけど、セイバー。俺はいついかなる時もお前がどこかでやらかさないかと不安なんですが、それは信頼関係と言えるんですかね?」

 

「それはつまるところ、「私が何かやらかす」という事を信頼しているから発生する感情であり、やはり信頼関係にあるという事実は揺るがないと思います」

 

「うーん、滅茶苦茶理論」

 

 アインシュタインも裸足で逃げ出す謎理論を披露するセイバーに話を合わせるのは放棄して、俺は若干死んだ目で卵焼きを口に運ぶ。

 

『──昨夜未明、〇〇県大塚市にて大規模な爆発が発生しました』

 

 つけっぱなしのテレビから聞こえてきたその声に、我が家の食卓が途端に緊迫感を孕んだ。箸を止めた俺と楓だけでなく、セイバーも目を細めてテレビの画面を注視している。

 

『原因は明かされておらず、爆破テロの可能性も視野に入れて警察は調査を続けており……』

 

「おいおい……これ、マズイんじゃないのか」

 

 確か、魔術師は神秘の秘匿とやらをしなければならないのではなかったのか。こんな全国区ニュースで流れる事態はまずかろう、と俺が楓に視線を移すと、楓もこくりと頷く。

 

「とうとう隠蔽が間に合わなくなってきたんでしょう。魔術師たちも努力している筈ですが……」

 

 そもそもこの聖杯戦争が本来の開催地から外れた、イレギュラー的に勃発したものであるがゆえに、隠蔽役や監督役の機能が上手く働いていないというのは周知の事実だ。聖杯戦争も日にちが経つにつれて戦況は激しくなり、魔術師連中の手も回らなくなってきたのだろう。

 

「ニュースになってないだけで、行方不明者はこの街で頻発してる。詳しいことは私でも分からないけど、もう二十人に届くくらいの数になるんじゃないかしら。とにかく、民間人を巻き込んで暴れてるサーヴァントがいるみたいなのは確かよ」

 

「こんな戦い、さっさと終わらせないと」

 

 生き延びる為に聖杯を手に入れたいという思いはあるが、それは別として街の人々に危害が及ぶのは避けたい。

 テーブルの上で拳を握り締めるも、ふとこの場所にいない人物がいた事に思い当たる。

 

「……あれ、そういやキャスターは?」

 

 昨日の夕方に何があったのかを聞く予定だったのだが、彼は姿を消したまま今朝になっても戻らず。結局、謎の黒い巨人が突如として楓とアサシンのマスターである少年の前に現れ、二人と二騎が一時停戦して命からがら生き延びたという経緯は楓の口から聞くことになった。

 

「アイツ、あれ以来帰ってないの。向こうからなら念話で連絡できるんだけど、こっちからは連絡できないし……」

 

「カエデをほっぽらかしにしてどこで何をやってるんですかね、あの外道ヒョロ男は……。まあ私としては奴が視界にいないだけで気分が良いんですけどね、はははは‼︎」

 

 ……どうも恥をかかされたことをまだ根に持っているらしい。

 ちなみに後で楓にあの時の疑問について聞いてみると、無言で俯かれたあと顔を赤くして去っていった。謎は迷宮入りとなったのだ。

 ともあれ楽しそうなセイバーは置いておいて、確かにキャスターの行方は気になるところである。楓の令呪が消えていない以上、どこかで勝手にくたばっているという事はない筈だが──、

 

「他にもわからない事はある。楓たちを襲ったっていうバーサーカー だけど、そいつは自壊したんだよな? それは消滅したって考えてもいいのか?」

 

「わからない。けど、あのバーサーカーは何か異質だった。あれほど強いんだから消滅しててくれる事を願うばかりだけど……」

 

 伝え聞く限り、バーサーカーは相当な強さを誇る英霊だったらしい。

 魔力切れだったとはいてサーヴァント二騎を相手に反撃も許さず蹂躙するその力は、確かに聞くだけでも恐ろしいものがある。

 

「やはり強いですね、今回召喚されているバーサーカーは。膂力も振り切れていますが、何より素早さがずば抜けている。私の目をもってしても捉えられない英霊は初めてです。昨日消滅してくれたなら助かりますが……もし奴と戦うのなら、万全の体制を整えて挑みましょう」

 

「んー……セイバーが特筆するほど速かった、かな……? まあ私の目からすればどのサーヴァントも神速じみてるから似たようなものか……」

 

 微妙に噛み合ってない感のある会話。何かひっかかるものを感じながらも、俺はバーサーカーがどうなったのかを考える……も、無知な俺が明確な答えにたどり着けるはずもなく。

 

「やばい、そろそろ時間だ。俺は登校するけど……楓、お前は大事をとって休んだ方がいいんじゃないか」

 

「大丈夫よ。このくらい、鍛えてるんだからなんともないわ」

 

 俺としては反対なのだが、反対しすぎてまたセイバーに過保護と言われるのも嫌なので黙っておく。

 まぁ、登校するといっても──、

 

「ん? なんですケント、そんなジトっとした目で」

 

 ──この剣士がいる限り、授業を全て受けるのは困難であろうよ。

 セイバーは昼頃までは我慢が効くが、恐らく昼休みを過ぎたあたりで暇を持て余したあげく学校に突撃をかけてくる。

 ただでさえ大雅のバカによる情報漏洩によってクラスの男どもにセイバーの事を知られてしまっているというのに、学校に当の本人から来られては堪ったもんじゃない。今日も多分明日も、俺は昼休みで早退しつつ暇な魔王さまに付き合わなくてはならないだろう。

 

「はぁ……セイバー、昼まででいいからじっとしてろよ」

 

「なんですか人を聞き分けのない子供のように、失礼ですね」

 

(オメーは実際そうだろうが──ッッ‼︎‼︎)

 

 喉まで出かかった言葉を辛うじて呑み込みつつ、引き攣った笑顔を浮かべてお皿を片付ける。不可解は多く、言いようのない不安感は残ったままだったが──それでも、今は日常に溶け込むしかすべき事は見当たらないのだった。

 

 

 

 

「ぅ…………」

 

 倫太郎が目を開けた瞬間、視界を遮るような紫色が見えた。

 身体の感覚が鈍い。それを我慢して指先を動かし、自分の身体に寄りかかっているモノが何かを突き止めようとする。

 ふにふにとした柔らかい感触に、嗅いだことのない独特な匂い。

 干したてのお布団みたいに暖かいこれは、本当に一体なんなんだろうか──、

 

「マスター……の……えっち……」

 

「なっ⁉︎」

 

 耳元で甘く囁かれて、倫太郎は半覚醒した目を見開いた。

 視線だけ横に向けると、数センチ先に見慣れた少女の顔があった。褐色色の肌に包帯を巻きつけて、紫陽花色の髪は倫太郎の顔にかかるくらい近い。そしてなんともみもみしていたのはアサシンの黒いぴっちりタイツに覆われた柔らかなお胸であった。

 倫太郎が意識を取り戻したことに気を良くしたのか、アサシンは倫太郎の目の前でにっこりと笑う。

 

「──────…………ぐう」

 

「こら……あんまり驚いたからって……現実逃避して、寝ちゃダメ。夢じゃ……ないんだ、よ?」

 

 不機嫌そうに唇を尖らせると、アサシンは倫太郎にますます擦り寄ってくる。布団は一つなのに入っている人間は二人分、当然身体と身体は密着しあってぎゅうぎゅうだ。

 さらにアサシンの四肢は倫太郎を逃すまいと絡みついていて、硬い男とは全く異なる女性特有の柔らかい身体の感触に、思わず顔を真っ赤にして倫太郎は現実を受け止める。

 

「わかった、わかったよ、わかったけど恥ずかしいからこれは駄目‼︎」

 

「嫌ー……」

 

 なんで嫌なのか、そもサーヴァントとはいえ若い男女がこんな朝っぱらから同じ布団でぴったりとくっつき合っていることが問題なんじゃないか──⁉︎

 抱き枕のようにされたまま、倫太郎は色々と青少年には厳しいものがあるお布団の中から脱出を試みた。が、派手に動こうとすると関節に鈍痛が走り抜け、倫太郎は呻きながら大人しくなる。

 

「つ゛……ぁ、そうか……僕は、まだ生きてるのか……」

 

 記憶の糸を解いていくと、こうして自分が家に戻っている事がまだ夢のような気がしてしまう。

 志原を庇ってから意識は飛んでいたが、意識とは別の深層的なところで自分は死に瀕している、とぼんやり感じ取っていたのを覚えている。あのバーサーカーはどうなったのか、そして志原は無事なのか、ともあれそこらの確認から始めなければならない。

 

「アサシン……僕を助けてくれてありがとう。あれから何が──」

 

「待って、マスター」

 

 ぴたり、と。突き出されたアサシンの細指が口に押し付けられ、倫太郎は面食らって口をつぐむ。

 

「それは……あとで、いい」

 

「あとで……? じゃあ、まず何をしろと?」

 

 口の端を吊り上げて、アサシンが包帯を解いた。妖しさすら感じされるほどの美しい赤眼が奥から現れ、倫太郎の目を覗き込む。かつて一度経験して抵抗力が備わったからか、特に強力な「直死の魔眼」を覗き込んだことによる強烈な拒否反応の類は起きなかった。

 最初見たときは身体をバラバラにされたかと思って、思わず冷や汗を流したものだ。というかこのサーヴァントは召喚するなり殺そうとしてきたりと、思い返せば思い返すだけゾッとする目に遭っている気がする。

 

「ねえ、マスター……?」

 

「なっ⁉︎ な、な、ななな、何だよアサシン? なんか雰囲気おかしいぞ、今でもはたから見たらヤバいのに一体何する気なんだよ──っ⁉︎」

 

 先程痛みを我慢して引っ込めていた手を、アサシンはあろう事か自ら掴んで自分の胸に押し当ててしまった。先程よりも意識が覚醒したぶん、よりリアルな女体の感触が手のひら越しに伝わってくる。

 悲鳴とも歓声ともつかぬ奇声を上げる倫太郎がたいして力が出ないのをいいことに、アサシンは倫太郎の耳元を舐めるように囁く。

 

「あの時……君は、あの子を……庇ったよね。自分の命も顧みずに」

 

 全く慣れていない雰囲気に、思わずこくこくと頷くことしかできない倫太郎。

 

「それはきっと……君の、成長の証……だと思う。染み込んじゃった、ロボットみたいな考え方は……すぐに、戻らないとしても……それでも君は、あの時、一人の人間として行動した」

 

 全くもってその通り。繭村の魔術師にとって、自分を敵対視する敵マスターを自分の命を投げ打ってでも救おうとするというのは、あまりに道理から外れている。だがそれを知った上で、あの時の倫太郎は反射的に自分の道理に従ったのだ。

 

「それは……ぅん、えらい。だから、ごほうび」

 

「え?」

 

 嫌な予感と素敵な予感の二つを同時に感じつつ、倫太郎が首を傾げると──、

 

 

「……揉むくらいなら、いいよ?」

 

 

 若干頰を赤らめたアサシンは、しかしあくまで倫太郎の目を直視しながら、そんなとんでもないことを言ってのけた。

 今も手のひらに押し付けられる柔らかな胸。下の方では倫太郎の足にアサシンの太ももが絡みつき、よく引き締まりながら柔らかさを失っていない独特の感触を残している。

 

「だ──駄目だ、駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だよ‼︎」

 

「なんで」

 

「そ、それは……その、なんか……そういうの、よくなくない?」

 

「わたしが、いい、と言ってるの」

 

 そりゃ分かってるそもぞいいと言われなくても今すぐ指を痛みなどガン無視してわきわきして胸の感触を存分に記憶媒体に残したいんだこっちは、と内心の葛藤を決して言葉には出さず、倫太郎は謎のやっちゃいけない感に従って身体を硬直させる。

 そんなつれないマスターを見ると、アサシンの方も不機嫌になるのであって。一応暗殺者である自分にそれらしい魅力がないと否定されては、さすがにもう引き下がれないのであって。

 

「……それなら……さーびす……付けちゃおうか、な?」

 

「うっ、うわあああああ駄目だってほんとに────‼︎」

 

 ……二人の熾烈な攻防は、まだ始まったばかりである。

 

 

 

 

「おはよう〜」

 

「お、おはようございます……」

 

 エプロンを紐を結びながら、アナスタシアは若干小さめの声で槙野の挨拶に答えていた。朝の心地いい日差しが窓から差し込み、木の薫りに満ちた居心地のいい店内を明るく染め上げている。

 

「ん? どうしたんだい、何か元気無さそうだね?」

 

「そんな事はありません。今日もきちんと職務を果たします」

 

 基本的に感情を表に出さないアナスタシアだが、ここに居候している以上槙野とアナスタシアは基本的に近くにいるわけであって。やっと近頃は、微妙な表情の変化でアナスタシアの様子を正確に捉えられるようになってきたのである。

 そんな槙野の喜びも知らず、アナスタシアは心の中で溜息を漏らす。

 それも当然、彼とは昨晩に決別するつもりで此処を出たのだ。

 きちんと後悔がないように、別れの言葉も言い残して。

 でも──未熟な自分は幸運と敵の気まぐれに助けられて、恥ずかしながらも生き延びてしまった。そうして敗残者と化したアナスタシアは、一人ですごすごとこの場所に戻ってくるしかなかったのだ。

 そういう事情を彼は覚えていないにしても、わざわざ「ありがとう」とまで言い残した彼の前にもう一度戻ってこざるを得ないという今の状況が悔しくて恥ずかしすぎて、アナスタシアは今にもどこかに隠れたい気分だった。

 

(これが……ニホンの慣用句に云う、「穴があったら入りたい」……)

 

 若干顔を赤くしながら、てきぱきと開店準備を進める。

 朝が大の苦手なアナスタシアは、普段ならばこんなにてきぱきと動けない。基本的に半分寝ているような状態でフラフラとしているのが常なのだが、昨夜の戦闘を経てから寝ようという気にもなれなかったので、今日は例外的に朝でも元気に動けるのだ。

 槙野に「夜更かしでもしたの?」と尋ねられ、思わず「ちょっと過激な夜更かしになりました」と変なところで正直に答えたせいで、彼に変な顔をされたアナスタシアであった。

 

『……随分と変わり身が早いな、マスター?』

 

 聞き慣れた低めの声。彼女のサーヴァント、アーチャーによる念話が繋がったのだ。その言いように反論したい気分だが、彼はライダーに受けたダメージを癒すために喫茶店近くの空き家で休んでいる。大方、屋上からアナスタシアが働く喫茶店の中を眺めていたのだろう。

 

『アーチャー、話せるくらいには回復したんですね』

 

『ま、しぶとさには自信があるんでね。かつて顎が吹っ飛んでも生還したお陰か、俺が持つ単独行動スキルのランクはA+だ。そう簡単にはくたばらんさ』

 

 てっきり消滅してしまったと思っていたが、あれからアーチャーはボロボロになりながらもアナスタシアの元に生還した。元が狙撃手なだけに単独行動のランクも高く、たとえマスターを失ってもなかなか死なないのが自分のいいところだとアーチャーは嘯く。

 

『ライダーはこの街を去れ、と言いました』

 

『そりゃあ正論だな。まだ外見だけは取り繕っているが、この街はもう戦場と化している。これから更に戦いは苛烈さを増すだろう。命が惜しいんなら、こんな場所からとっとと逃げた方が賢明だ。どうする? アンタが逃げると言うんなら、別に俺は止めんぞ』

 

『………………』

 

 皮肉っぽいアーチャーの言葉は、しかし確かに正しい。

 アナスタシアが頼りにしていた代行者達は全滅した。聖堂教会は想定していたとはいえ、あり得ざる大失態に対する始末と後処理に追われているのか、あの夜以来連絡が途絶えてしまっている。

 すなわちアナスタシアは、たった一人で戦場のど真ん中に取り残されたも同然の状況なのだ。

 

『教会からの支援もなく、貴方以外に頼れるものはもうありません。あの仙天島の主に対する勝ち目もありませんし。……ええ、貴方の言葉通りです。このままここに残れば、遅かれ早かれ私は死ぬんでしょうね。それは避けたいです』

 

『いい判断だな。なに、アンタの芯の強さならどこに逃げたってやっていけるさ。そうと決まればさっさと荷物をまとめて──』

 

『ですが』

 

 アナスタシアは朝日の差し込む喫茶店の中をぐるりと見渡してから、カウンターの奥でいつもと変わらぬ手つきで開店準備を進める槙野を見て目を細めた。

 

『私は……偶然に転がり込んだこの場所で、様々な事をさせて頂きました。両親を失ってからずっと復讐と信仰しか無かった愚かな私に、平穏と平和を、両親が何より望んでいたものを思い出させてくれたんです』

 

 微かに笑う。顔に無表情を貼り付けて、感情を封殺して生きてきた代行者の少女は、それでも確かに笑ったのだ。

 

『だから私は戦います。この命が尽きることよりも、大切だと思えるものを失ってしまうことは──ずっと、怖いことですから』

 

『チッ。早死にするぞ、アンタ』

 

『警告どうも。そして感謝を、シモ・ヘイヘ。貴方が私を安否を案じて先の言葉を述べてくれたことは、確かに理解していますから』

 

『……フン、礼は受け取っておく』

 

 念話が途絶える。最後の言葉は照れ隠しなのか、普段に比べてやけに平坦でぶっきらぼうな口調だった。

 あのサーヴァントは皮肉屋かつドライな男で、熱血系委員長タイプなどと通りすがりの金髪少年に言われてしまうような自分には、性格的に合わない英霊だと何度も思ったものだが……少しだけ、考えを変えてもいいかもしれない。

 

「アナ、開店時間だ。今日も一日頑張ろう」

 

「……は、はい!」

 

 少し弾んだ声を出して、アナスタシアは喫茶「薫風」の扉を押し開けた。


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