Fate/crescent 蒼月の少女【完結】   作:モモのすけ

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七十一話 終わりの始まり

 ケントの後ろに音もなく現れた、一人の女がいた。

 女は、まるで蚊でも払うように、その手を上から下へと動かしただけ。それで──、

 

「え?」

 

 すとん、と。まるでロボットの腕が外れるみたいに呆気なく、ケントの右手が血を噴き上げて切断されていた。

 それを、無造作に女が掴む。

 残り一画。最後の令呪が刻まれた、彼の右手を。

 

「ふむ、まだ令呪が残っているなら好都合か。原型が残っていれば複製の手間も省ける。この令呪、有り難く活用させてもらおう」

 

「……ッッ⁉︎」

 

 喉が干上がるような緊張と共に、私はその女に斬りかかろうとした。

 が。横合いに飛んできた「矢」が、私の横腹に突き刺さった。

 どす、と鈍い音を立てて、私は地べたになぎ倒される。

 

「が────ぁ⁉︎」

 

 ぼたぼたぼたぼた、と、右手首から多量の血を溢れさせるケントが、困惑混じりの悲鳴と共に膝をつく。

 それを丸きり無視して、女はいつのまにかケントの右手に刻まれた令呪を奪い取っていた。

 その白い右手の甲に、ケントと同一の令呪が刻まれる。

 やられた。私を律するマスター権は完全に、ケントから目の前の女へと移行してしまったのだ。

 

「き、さ……まぁぁぁぁッ‼︎‼︎」

 

 私は激昂のままに再度剣を振りかぶろうとして──、

 いつの間にか全身にのしかかってきている重圧に、ぴたりと動きを止めていた。

 動かない、のではない。動けない。

 あり得ない筈なのに、現実として感じられる緊張感がある。

 

 ──あり得ないことに。

 ──私たちは突如として現れた英霊たち数騎によって、完全に囲まれていた。

 

 脇腹に突き刺さった矢からどくどくと血が流れ出すのも無視して、私は狼狽を可能な限り抑えながら周囲を見渡す。

 

 木々の向こう。鎖を鳴らして立つ女がいる。

 暗い樹上。弓を矢をつがえた男がいる。

 頭上。浮遊し、複数の魔法陣を展開させた女がいる。

 背後。無言のままそびえ立つ巨人がいる。

 そして眼前。女の横に、漆黒の剣士がいる。

 

 全部で五騎。

 明らかな過剰戦力が、この場所に集結していた。

 

「そん、な……」

 

 思わず、絶望の呻きが漏れる。

 たとえ私が万全だったとしても、この数は相手にできない。先ほどの戦いに全てをつぎ込んだ今ならば、なおさら勝ちの目は薄い。いやそもそも、勝機など、この状況をどうにかする手段なんて存在しない。

 そもそも。一体この英霊たちは、どこからどうやって、魔力を感知させる事もなく現れたというのか。

 

「令呪をもって命ずる。動くな(・・・)、セイバー」

 

「うっ⁉︎」

 

 令呪の煌めきが放たれ、私の身体が完全に止まる。

 まるで、周囲の空気が固体になったようだ。

 私はぎりぎりと歯を食いしばりながら、女を睨むことしかできない。

 

「魔王とて気を抜くことはある、か。油断したな。今のように消耗していなければ、こちらの気配を直感で悟れただろうに」

 

「おまえ……セイバーに、何して……やがるッ‼︎」

 

「ほう? まだ吠えるか。それに、ここに至って自分ではなく他人の心配とは。全く見上げたバカ根性だよ、志原健斗」

 

 冷ややかな目でケントを見つめた後、女は口の端を吊り上げる。

 その表情を見て、一つ思い出したコトがあった。

 

 

『例の魔術師と、そこのセイバー。この二者を出会わせてしまったが最後、世界が脅かされる程の「何か」が起こる』

 

 

 いつぞや、抑止力を受けて顕現したという槍兵が語った言葉。

 もし。この女が、「例の魔術師」なのだとしたら。

 そしてこの女の狙いが、あくまで私一人なのだとしたら。

 

 ……既にマスターではないケントを、このまま生かしておく理由がない。

 

「や……やめろ‼︎ ケントに指一本でも触れてみろ下郎、貴様はどうやってでも、絶対に殺してやる──‼︎」

 

「ふん、何を馬鹿な事を。(わたし)は彼を殺さんよ。そんな事をしたところで、己にはさしたるメリットがない」

 

 その言葉は、思わず拍子抜けしてしまう内容だった。

 私は思わず言葉を飲み込む。今ここに至って、私にも彼にも行動の優位権は存在しない。ただ、女の行動を受け入れることしかできないのだ。

 そう考えると、奴の言葉はまだ救いがある。

 そうだ。私が何をされるのかは知らないが、少なくとも彼は巻き込まれずに済む。

 

「令呪をもって命ず。お前が殺せ(・・・・・)、セイバー」

 

「………………え?」

 

 その瞬間、思考が凍りついた。

 令呪の行使。ありえない。ケントから奪い取った令呪は、最後の一画しか残っていなかったはずだ。もう女の手に令呪は刻まれていなかったはずなのだ。

 なのに。見れば、奴の手にはびっしりと赤の紋様が刻まれている。

 ありえない。魔術師が保有できる令呪は三画が限界のはず。なのにこの女に刻まれた令呪は、ゆうに十を超えている……‼︎

 

「が……あ、あ゛あああああ……っ⁉︎」

 

 令呪の強制力が働き、私の手がカタカタと震える。

 私の手が。私の月の刃が。意思とは関係なしに、彼の首を刈り取ろうと動いている。

 咄嗟に私はもう片方の手で右手を抑え、その衝動を抑え込む。

 

「強情だな。流石はセイバー、対魔力も群を抜いている」

 

「ケント……ケントっ、逃げてください‼︎ 逃げて‼︎」

 

「無駄だよ、魔王。もう既に意識を奪ってある」

 

 ハッとして目線を前に向ける。ケントは既に意識を失い、しかし何らかの力によって糸人形のように直立していた。

 

「重ねて令呪をもって命ずる。そこの男を殺せ」

 

「ぐ、ぐううううううっ────⁉︎」

 

 ぎりぎりぎりぎり、と、無理やり剣を振るおうとする力が増す。

 ……「魔王は彼を殺す。彼は魔王によって死ぬ」。

 またこうなるのか。これが、私たち二人の間に決定された、変えることのできない運命(Fate)だとでもいうのか。

 そんなの、許せない。

 そんな残酷な運命、私は絶対認められない。認められてしまうのなら、それこそ、この世界の方が間違っているに決まっている……‼︎

 

「三画目の令呪をもって命ずる。そこの男を殺せ」

 

 更に命令が上書きされ、三画ぶんの強制力が私を襲う。身体がめきめきと悲鳴をあげ、酷痛が走り抜ける。

 この無茶は、例えるなら、曲がらない方向に無理やり手足をへし曲げているようなものだ。

 道理に逆らうというのは、それだけで想像を絶する痛みを与える。

 それでも耐える。

 意思と気力だけで、三画の令呪による強制力に抗い続ける。

 だが──、

 

「四画目をもって命ずる。そこの男を殺せ、セイバー」

 

 その声と同時に襲い来る衝動が、私を完全に塗り潰した。

 無情にも令呪の輝きが放たれ、そして。

 

 ──ぶしゅっ! という、やけに耳に残る音が聞こえた。

 

 ぱたたっ、と頰を打つ熱い水滴。

 右腕を存分に振り抜いてしまった(・・・・・・・・・)感覚。

 恐る恐る、絶望を予感しながら、私は目の前に視線を戻す。

 

 そこには──、

 

「──────」

 

 首から上がなくなった、ケントの死体があった。

 先も言った通り。私の宝具は傷を塞ぐことはできても、切断された体を元どおりに癒着するような高等な再生機能は有していない。

 それこそ首でも刎ねられれば、それで終わり。

 たしかにさっきまでケントだったものが、呆気なく、私の方に倒れてくる。私の身体にたっぷりと血を擦り付けて、彼の身体は私にもたれるように倒れ込み、そのまま地面に倒れ伏した。

 それはもう、二度と動くことはない。

 

「あ、あ──うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎」

 

 そのまま、死んだ。

 ケントは、もう、死んだのだ。

 私の願いは、結局ところ、まるで意味を成さなかった。

 世界から音も光も、あらゆる全てが消えていく。

 

 ……嫌だ。もう、こんなの、嫌だ。

 ……なにかを考えるのも、もう嫌だ。

 

 わたしは、さいごに、なにかがこわれるようなおとを──……、

 

 

 

 

「ライダー。もう出てきて良いぞ。事は済んだ」

 

「やれやれ、セイバーの魔力感知も面倒臭いものです。貴方が使役する影の英霊たちであれば、いつ何処であっても泥を媒体としてあれ出現しますが……私はそうはいかない」

 

 それまで遠くに潜んでいた騎兵が、雷光とともに姿を見せる。

 彼は正規の英霊だ。以前も前例があるように、セイバーの魔力感知には反応してしまう。

 

「セイバーの方は?」

 

「見ての通り。我が手中に収めた。これより(わたし)は仙天島で魔王の最終調整に入るが、貴様らは例の屋敷を潰してこい」

 

「御意のままに。貴方は平気なんですか? いくら令呪の戒めを持つとはいえ、彼女は魔王。一人きりで扱うのは危険では?」

 

「この女の顔を見てからモノを言え」

 

 茫然と地面にへたりこんで俯いているセイバーの髪を乱暴にひっ掴み、ライダーは面倒臭そうに彼女と目線を合わせる。

 そうして、彼はつまらなそうに溜息を漏らした。

 女の言葉の意味を、一目で理解したからだ。

 

「──この女にはもう、まともに「戦う」などという気概は残ってはおらんさ。己の生を放棄した、ただの壊れた器だよ。少しは気概を削げるかと思ったが、まさかここまで黙りこくってくれるとはな」

 

「理解はしますが、全くもってつまらない。彼女が獰猛なままであれば、私も少しは楽しめたかもしれないのに。やや期待していたんですがね、本当の本当に激昂した、真の魔王とやらを見るのを」

 

 興味を無くした、とばかりに、ライダーは無言で背を向ける。

 常人の精神構造から逸脱している彼にとっては、戦う相手のみが興味対象なのだ。一部の例外を除いて、だが。

 

「行くのか」

 

「ええ。こちらも残党狩りは得意ですので、お任せを」

 

 彼は影の英霊たちを引き連れ、西の空へと跳んでいく。

 その背中を見守って、女魔術師はローブを翻した。

 

「……さて、と。目的は達したが、一つやり残した事があったか」

 

 

 

 

「ご苦労だった、と言っておく」

 

 コツ、コツ、と、冷たい床を踏みしめる音がする。

 薄暗い発電小屋の中。姿を現した女の前には、口元を血で濡らした男と、純白無垢の少女がいた。男の傍には、不恰好に歪んだスーツケースが転がっている。

 少女の方は、彼女を見るなり怯えたように身をすくめる。

 対し、男──マリウス・ディミトリアスは、閉じていた目を少しだけ開いて女を見上げた。

 

「……フン、貴様か」

 

 マリウスは嘆息する。バーサーカーが討たれたということは、既に令呪の消失によって理解していた。

 

「セイバー及びそのマスター、志原健斗の誘い出し。それに加えて、あれ程までにかの魔王を追い詰めてくれた」

 

「下らんな。結局、いいように使われただけだろうに。……全く。少しは組む相手を選べ、お前は」

 

 憔悴しきった今では手を動かすのも億劫なのか、マリウスは視線だけを少女に向ける。

 

「さて」

 

 女が、その豪奢な金髪を搔き上げる。

 それはまるで、サラサラと揺れる金糸のようだ。

 

「既に貴様らはマスターではない。セイバーの確保に貢献してくれた恩もあるし、このまま去ってもいい──が」

 

 ピリッ、と空気が痙攣する。

 少女はそれだけで知覚した。何も混じっていなかった女の瞳に、今の言葉を皮切りに混じったものがある。

 

「魔力回路が不全状態にある貴様は置いておいても……そこのホムンクルスは看過できん。もし仮にサーヴァントでも再召喚されれば、面倒な障害になりうる」

 

「…………‼︎」

 

 少女は、思わず身を縮こませた。その視線に込められた殺気を敏感に感じ取って、思わず頼りになるあの姿を探してしまう。

 しかし、もういない。

 かの狂戦士は、もうこの世界に存在しないのだ。

 

「悪いが、そこのホムンクルスは処分させてもらおう。なに、別段ディミトリアスの血統を絶やすというわけでもあるまい? 備品の一つや二つを紛失したのと同義だよ」

 

「ぁ……」

 

 喉が乾く。形のある死を前にした緊張感。搭載された心が、恐怖という感情でがたがたと震えている。

 思わずマリウスの方を見る。

 だが。

 彼は無言のまま、軽く目を閉じただけだった。

 

「決まりだな」

 

 女がにやりと口の端を吊り上げて、ゆっくりと少女に近づいてくる。両目が煌々と輝き、まるで夜に潜む肉食獣を連想させた。

 その瞳は尋常ならざるもの──すなわち、魔眼。

 不気味な輝きが、一つの事象を結実させる。

 避けられぬ死を前に、少女は勢いよく横に駆け出した。

 逃げよう、と思ったからではない。ただマリウスに縋り付いていては、命が助かるかもしれない彼まで攻撃に巻き込んでしまいそうだったから、あえて自ら離れたのだ。

 

 ──そして。

 

「ああ、決まったよ」

 

 ゴキャッッ‼︎‼︎ という暴力的な轟音が炸裂し。

 顔を歪めた女が、壁をぶち抜いてすっ飛んでいった。

 

「………………え?」

 

 ガラガラ、と、木製の発電小屋の壁が崩れる音が響く。

 少女の眼前。そこに、女魔術師を容赦なく殴り飛ばしたマリウスが立っていた。

 

「フン、少しばかりすっきりした」

 

 派手な音を立てて、右腕を包んだ魔術式強化外骨格(オルカルクム・フルアーマー)が放熱する。

 それは礼装がとるべき完全体ではない。

 前の戦いで破壊されたが故に、礼装の展開が不十分なのだ。いや、そもそも今のマリウスでは、完全に展開された魔術式強化外骨格は使えない。

 

「立て。貴様はこのマリウス・ディミトリアスが叩き潰す」

 

 だが。そんな事は気に介さず、マリウスは悠然と立っている。

 その様に弱々しさは見られない。万全には程遠いコンディションを、気力のみで補っている。

 突然の事に困惑しきりの少女がおろおろしていると、木々の向こうの暗がりで、何かがぞわりと蠢いた。

 それは「影」だ。

 無傷で姿を現した女の背後。一目見ただけで理解できる悪しき何かが、蛇の如く鎌首をもたげている。

 

「理解できんな。貴様程の秀才が、なにゆえ道具の為に命を賭ける?」

 

「たわけ。ホムンクルスは厄介だから殺すが、私は脅威ではないから殺さない、など──それこそディミトリアスの血統への侮辱だろうが」

 

「ハッ。ここにきても矜持(プライド)、か。面白い。「汝の意志するところを成せ、それが全ての法とならん」……すなわち貴様にとって、その一点のみが殉ずべき法という訳だ」

 

 マリウスは礼装を装着した右腕をぐるりと回す。

 制御可能な機能は約四割ほど。魔力量も底をつきかけている。あんまりな状況にやれやれと溜息を漏らして、彼は目の前の敵を睨んだ。

 

「──魔術師、マリウス・ディミトリアス」

 

 毅然とした宣言が、夜の冷えた空気に響き渡った。

 それは宣言だ。敵対者に対し、自らが戦うという証明に他ならない。

 その言葉をもって、この場所は作り変えられる。

 静謐に包まれた森林公園が、一つの決闘場として再定義される。

 

「ほう。名乗りをあげる形式の決闘とは古式だな」

 

「若造には馴染みがないかね?」

 

「莫迦を言え、これでも齢は百を超えている。貴様よりかは慣れているよ」

 

 女魔術師は愉快げに笑って、それから表情を引き締めた。

 矜持、己が意思に生きんとするこの男に敬意を評し──彼女もまた、知られざるその名を高らかに告げる。

 未だもって誰も知らない、その名を。

 

 

「──魔術師、アレイスター・クロウリー」

 

 

 マリウスの目が、驚きからかすかに見開かれる。

 近代の魔術師において、その名を耳にしたことがない者はいない。

 様々な肩書きを持つ「世界最悪の魔術師」。神秘の流出を恐れずにメディアへの顔出しを繰り返し、独自の魔術理論を構成。時計塔も国家も敵に回した、20世紀においてもっとも知られる魔術師である。

 もっとも、正史において、彼は既に死んでいるはずだが──。

 

「……偽名ではあるまい。この21世紀に、未だ生きていたというのか。容姿すらも記録とはまるで異なるが」

 

「日本風に言えば、事実は小説よりも奇なり、だよ。時計塔の連中が下手に情報統制を敷いてくれたおかげで、性別すら異なる歪んだ「アレイスター・クロウリー」の人物像と歴史が構築されてしまったという訳だ。もっとも、己はまだまだこうして存命だとも。色々と敵に回した、孤独な逃亡者の身分だがね」

 

 不敵な笑みを浮かべ、クロウリーは一歩前に出る。

 無言ながら、明確な戦いを始めんとする所作だった。

 それに応えるように、マリウスが一歩を踏み出す。それを見て、少女は思わず付いていこうと足を動かしかけた。

 それを、彼の魔鉄に包まれた右腕が遮る。

 彼はすこしだけ後ろを見て、少女の瞳を見て言った。

 

「大馬鹿が、邪魔になるからとっとと離れろ。できるだけ遠くにだ」

 

 いつものように肩を震わせて、少女は竦むように動きを止める。

 だが決して、この場から離れようとはしなかった。

 

「……ひとつ、言い忘れていた。バーサーカーを失った今、私はもう聖杯戦争の参加者ではない。お前の役割も終わり、という事だ」

 

 大きな背中を向けたまま、マリウスは独り言のように呟く。

 

「行け。自分の思うがまま、好きな所に行くがいい。ああでも、まずは繭村の魔術師を訪ねることだ。駆動時間(じゅみょう)の問題も、彼ならツテがあるだろう。本国の工房もお前にくれてやる」

 

 少女は、無言のまま首を横に振る。

 困惑している中でも、彼が何をしようとして、どうあがいても勝ち目のない敵に挑もうとしているという事実は理解できた。

 

「行け、と言うのが分からんか、あいも変わらん大馬鹿が」

 

「でっ、でも……!」

 

「いいから行け。もう、お前を縛るものは何もない」

 

 とす、と少女の頭に硬い手のひらが置かれる。

 彼女を見下ろすその視線は、見たことがないほど優しかった。

 そう、それは、まるで──……。

 

「これから先、お前の道は自分で切り開く事だ。戻っても回り道をしてもいい。ただ、他の誰でもない、自分の意思で進んでいけ」

 

「──……ありがとう」

 

 最後に。言いたい事を口にできないまま、少女は駆けだした。

 森林公園の出口に向かって走る。ひたむきに走って、決して背後は振り返らなかった。

 

「これでようやく、慣れん子守りからも解放か。全く」

 

 彼女の姿が消えてから、マリウスは漫然と口を開く。

 その声に含まれた感情が、果たしていかなるものなのか。

 それは誰にも分からない。ただ、プライドに生きるマリウスという男のみが、その意味を知っている。

 

「それにしても──律儀に手を出さないとは。驚きだな」

 

「不要な抑圧や束縛から逃れ、真の意思(テレマ)に従って行動するものを己は尊重する。それだけだ」

 

「成る程。実のところ、貴様とは気が合いそうだ」

 

「フ。無意味な仮定だが、確かにそうかもしれん」

 

 それを最後に、しん、と静まり返る夜の森林公園。

 魔力が膨れ上がる。魔術師同士の決闘、それは即ちどちらかの命が尽きるまで行われる、文字通りの死闘に他ならない。

 もう既に、交わされる言葉はなかった。

 数秒間の静寂があり、両者は示し合わせたようにニヤリと笑う。

 そして──。

 

 次の刹那。

 閃光の白と影の黒が、真正面から激突した。

 

 

 

 

 少女は、振り返らずに階段を駆け下り、夜の街を走っていた。

 やや蒸し暑い空気を裂いて、ひたすらに走り続ける。

 行き先は縛られない。どこへだって、自分の望むがままに行ける。

 今までに味わったことのないこの爽やかな気分が、自由というものの味なのだろうか。

 だが。それを楽しむよりも、今は悲しみの方が勝っている。

 

「──────」

 

 もう、マリウス・ディミトリアスに会うことはないだろう。

 あの廃棄場から自分を救い出した、あの男には。

 

「──────」

 

 思い返せば、彼は色々なことを教えてくれた。それこそ自分をただの備品として考えていれば、全くもって必要のないことだ。

 必要もないのに、彼は、彼女と言葉を交わし続けたのだ。

 それはただの気まぐれだったのだろうか。

 あるいは、マリウスという魔術師に残留していた何かが、彼をその無意味な行動に駆り立てたのだろうか。

 

「わたしは…………」

 

 心に、わずかな後悔が残る。

 

「わたしは…………‼︎」

 

 ああ、直接、言葉にして伝えたことはなかったけれど。

 その姿は、あるはずのない父親のようで──、

 

 最後に、彼にその言葉を言えなかった事への悔いを噛み締めて、少女は夜を駆け抜ける。しばらくして、人気のなくなった深夜には珍しく、一台の車が住宅街をこちらに走ってきた。

 それはまるで少女に反応したかのように、すぐ近くで急ブレーキをかける。甲高いブレーキ音とともに停車した車の中から姿を見せたのは、どこかで見た少年の姿だった。

 彼の名前は……確か、繭村倫太郎。

 いったい、なぜ彼がこんな場所にいるのか。

 それを聞く前に、倫太郎が口を開く。

 

「────君、いったいなんでここにいる⁉︎」

 

「バーサーカーが、倒された。わたし達は、負けたの」

 

「…………マリウスは?」

 

「あの女……仙天島の魔術師と、戦ってる。今も」

 

 それを聞いて、倫太郎は状況を把握したらしい。

 彼は無言で目を閉じると、優しく少女の手を掴んだ。

 その瞳が、切迫した状況を告げている。

 

「来るんだ。ここにいたら危ない。……といっても、僕たちも最悪最低の状況に追い込まれてるんだけど。今の大塚を一人であてもなくふらつくよりは、ずっとマシだ」

 

「うん」

 

 手を引かれて、大型の車に乗り込む。

 中にはキャスターとおぼしき英霊に加え、志原楓、それに見知らぬ男女が一組、運転席に座っていた。皆が一様に重苦しい顔で、とても楽しいドライブといった雰囲気ではない。

 少し肩身の狭い思いをしつつ、少女は倫太郎の膝の上に腰かけた。

 

「倫太郎、その子を連れてっても大丈夫なの?」

 

「ああ。彼女はもう、聖杯戦争とは無関係の人間だ。大塚には教会も無いんだし、こっちで保護した方が何かと安全だろ」

 

「倫太郎君の言葉は正しいわ。魔力貯蔵量の多い魔術師やホムンクルスなんて、今の大塚市内じゃ魅力的な餌でしかない。放っておけば、遅かれ早かれ殺されるだけよ」

 

「──……よし、出るぞ」

 

 黒髪の女の言葉を聞き終えた赤い髪の男がアクセルを踏み込み、猛烈な速度で車を発進させる。

 ヘッドライトが不気味な夜闇を裂いて進むのを、少女はしばしの間、無言のままに眺めていた。

 

「突然の事で悪いと思うけど、まずは名乗らせてほしい。僕は繭村家19代目当主、繭村倫太郎」

 

「うん、知ってる」

 

「あ、そ、そう……君は?」

 

 心なしかしゅんとした倫太郎の問いに、少女はふと思う。

 名前。自分がこれからの道を歩んでいく上で必要になる、大切な自己の証。それが今まで、彼女には欠けていた。

 自分を闇の淵から引き上げた男の顔が、脳裏で揺れる。

 決まっている。名前なんて、もうそれしか考えられない。

 少しの沈黙を経て、少女は顔を上げた。

 

「…………ディミトリアス」

 

 小さく、されど確固とした響きが、車内の空気を震わせる。

 その名を告げると、不思議と心が踊った。

 彼女はもう、名も無く、意思も持たない人形ではない。

 

「そう……わたしの名前は、ディミトリアスだ」




【アレイスター・クロウリー】
ライダーのマスター。1800年代から現在まで生存している、正真正銘の本物。幾度もの封印指定と、教会からの異端宣告を受けながらも、100年以上にわたって逃げおおせている。時計塔でも限られたものしかその存在は知らず、彼女の存在は長らく禁忌として扱われてきた。
史実とされるオッサンの写真とは異なり、容姿は金の長髪を持つ美しい女性。容姿は20代の頃に固定してしまったらしい。
黄金色に輝く魔眼を持つ。それについての詳細は不明。ただ、系統に囚われず様々な魔術を無詠唱で使いこなし、聖杯戦争のシステムすら再現、介入して自在に操ってみせる常軌を逸した能力は、間違いなく魔眼の力が関係している。
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