Fate/crescent 蒼月の少女【完結】   作:モモのすけ

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七十八話 ただ一つの正義/Other side

『夏も終わり、秋が始まりつつある今にぴったりのニュースです。今日の夜にかけて、日本では普段よりも大きく美しい満月、いわゆる「スーパームーン」が観測される見通しで……』

 

 時間は午後二時。普通の人の感覚からすると、お昼過ぎののんびりとした時間帯だ。

 楓はニュースを垂れ流す部屋のテレビを切り、敷いた布団の上で唸りながら背筋を伸ばした。膝の中で猫のように丸まっている同室のフィムは、今はすやすやと寝息を立てている。こんなに幼いのに疲れが溜まっているだろうから、ゆっくりと休んで欲しいと楓は思う。

 

 ──戦いの始まりまで、あと残すところ10時間ほど。

 

 今日の夜遅くにここを発ち、明け方までに決着をつける。

 向こうの戦力は未知数、こちらの戦力はキャスターと不安定な兄のみ。はっきり言って勝ち目のない戦いだ。明日の今頃、自分が生きているという保証はどこにもない。

 

「…………」

 

 それを思うと──手先が、震えそうになる。

 フィムにそっと布団を掛けてあげながら、その恐怖と格闘する。

 魔術師である以上、死はすぐ近くに潜んでいるものだ。それは理解しているし、戦いの中で幾度も楓は絶体絶命の危機を乗り越えてきた。

 それでも、今は違うのだ。

 なまじ死地に赴くまでの時間がある分、自分から進んで絞首台に歩いていくことを強制されているような、じわじわとした恐怖が心に満ちていく。

 

「……駄目よね、こんなんじゃ」

 

 そう呟いて立ち上がる。

 うじうじ怖がっているだけなんて、それでは何も変わっちゃいない。いつかアサシンが言った通り、何もできない弱虫のままだ。それだけは、ずっと逃げ続けるなんて事は、もう許せない。

 

 戦いの前に、為すべきことを為しておこう。

 

 ゆっくりと息を吐いて、顔を上げる。

 迷いも躊躇いも振り切った。

 楓はひとつの覚悟を決めて、そっと部屋の扉を開けた。

 

 

 

 

「ねえ、起きてる?」

 

 布団の中、あまり襲ってこない眠気をなんとか呼び起こさんと足掻いていた倫太郎は、その声を聞いてはっと目を開けた。

 声のあと、ゆっくりた扉が開いた音がする。その奥から聞こえたのは、間違いなく楓のものだろう。それがいつもより少し沈んだ声だったので、倫太郎はやや困惑する。

 

「……寝てる」

 

「起きてんじゃないの」

 

 楓が呆れた声で返すので、倫太郎は微かに口元を緩ませた。

 しん、と静まり返る部屋。一体何の用件なんだろう、と倫太郎が身体を捻って楓の方に向き直ろうとしたその時、素足が畳を踏みつける音が聞こえた。

 それの意味するところを理解する前に、人の気配がすぐ近くに迫る。

 倫太郎が反射的に振り返ろうとするのを、楓は声で静止した。

 

「……そのまま、ずっとそっち向いておいて」

 

 楓が身体をかがめて、布団を持ち上げ、ちょっと手間取りつつその隙間に身体を滑り込ませる。

 その一連の動作を見るまでもなく感じ取った倫太郎は緊張で一言も発せぬまま、楓がぴたりと身体を密着させるまで固まっていた。

 ひとつの布団の中、二人は距離をゼロにしている。

 身体の仄かな熱と柔らかさを同時に感じて、倫太郎は息を呑んだ。咄嗟に何か言おうとしたけれど頭が真っ白になって何も言えないくらいには衝撃を受けて、同時に緊張していたのだ。

 

「……あったかい」

 

「そっ──そりゃ、さっきまで僕が寝てたんだから。当たり前だ」

 

 上ずった声で言葉を返す。

 それを知ってか知らずか、楓はいっそう身体を近づけたようだった。相変わらず口は固まったままで、向こうから何かを言ってくれないと、倫太郎は意味のある言葉を述べれられそうにない。

 

「ねえ、倫太郎」

 

「な、なに」

 

「今日の夜はきっと、最後の戦いになるのよね」

 

 それを聞いて、倫太郎は無言で唾を飲む。

 ──最後の戦い。

 それは正しいだろう。明日には、どんな形であれ、この聖杯戦争が終わりを迎えているであろう事くらい、倫太郎にも予想はできていた。

 

「……私達、生きて帰れると思う?」

 

 ひどく小さな声で、消え入るようなか弱い声で、楓はそんなことを呟いた。

 その表情は見えない。けれど、倫太郎には何となく予想できた。そんな彼の背中に額を押し付けて、彼女は続ける。

 

「そんな事、きっと誰にもわからない。きっとキャスターにだって。だから今のうちに……私と倫太郎が生きている間に、アンタと話がしておきたかった」

 

「……話、って?」

 

「それ、は」

 

 楓が、少し言葉に詰まった様子を見せた。

 喉の奥に言葉が引っかかってなかなか出てこないような、口にするのを躊躇っているような。それでも無理を通して、楓はゆっくりと、いつもの調子で言った。

 

「二年前のこと。倫太郎が、全部を無かったことにした日のことよ」

 

 それを聞いて、倫太郎は無言で目を閉じる。

 きっと、あの裏切りのことだろうと、とうに倫太郎は覚悟していた。そして、その事実と向き合う決意も。

 そんな倫太郎に対し、楓は淡々と言葉を重ねる。

 

「……私は、ずっと倫太郎を憎んでた。恨んでたわ」

 

「それは……僕の責任だ。君に恨まれるには十分過ぎることを、僕はした」

 

 楓は無言で、その言葉を受け入れる。

 

「……そうね。二年前にあんな事があってから、私はアンタのことを……その、例えるならマリウスみたいな魔術師だと思ってた。結局アンタも他の魔術師と同じで、私をゴミみたいに扱うんだって、バカみたいにヤケになったまま。ずぅっとイライラしたまま過ごしてた」

 

 二年前、倫太郎は楓に言ったのだ。

 「二度と僕に関わるな」と。

 繭村の体裁を保つ上で、嫡子である倫太郎が楓との繋がりを持つなど、それこそ芸能人のスキャンダルにも匹敵する一大事だ。それは理解してはいたが、楓は若さゆえか、愚かにも信じていた。

 倫太郎なら、きっと私のそばにいてくれる──と。

 結果は知っての通りだ。倫太郎は楓を突き放し、彼女は絶望に打ちひしがれた。それから二年、この聖杯戦争が始まるまで、彼らは一度たりとも言葉を交わしたことはなかった。

 

「でもね」

 

 楓はそんな前置きをして、続ける。

 

「二年ぶりにアンタと話すうちに、そんな事はないって分かった。……当たり前よね、最初からわかってたはずなのに。繭村倫太郎はそんな奴じゃないって」

 

 それは優しい声色だった。それと同時に、その過去を心から悔いているような、そんな色が滲み出ていた。

 

「たとえアンタが、「繭村家」なんてものの責務に縛られて、自分の意思を持たないロボットじみた奴だったとしても……倫太郎は私を助けてくれた。私に魔術を教えてくれた。それは他の誰でもない、倫太郎の意思だったんでしょう?」

 

 それだけではない。

 この聖杯戦争を戦い抜く中で、倫太郎は楓を倒すどころか、最初から彼女とだけは争う姿勢を見せなかった。繭村の意思に従うだけの倫太郎(ロボット)としては、あまりにも不自然な行為であるにも関わらず。

 つまり。そこにきっと、彼の希薄な意思が秘められているのだ。

 

「い、し……僕に足りない、もの」

 

 アサシンと楓に諭され、マリウスとの戦いを経たことで、倫太郎は既に知っている。

 自分に足りないものは勇気ではない。何を正義として魔術を使うかという、確固たる意思なのだという事を。

 それが一体なんなのか。

 自分が掲げるべきものを掴めそうで掴めないまま、倫太郎は最後の一歩を踏み出せないでいた。

 

「だから、教えてほしいの。なんで倫太郎は自分の意思を捻じ曲げてまで、責務を優先させなきゃいけなかったのか……その理由を」

 

 背中に身体を寄せる楓が、倫太郎のシャツをきゅっと握る。

 その手から伝わってくる、弱々しくもめげずに勇気を振り絞るさまを感じ取って、倫太郎は目を開いた。

 ──明かすべきなのだろう。

 二年前のあの日、なにがあったのかを。自分がなにを思い、そして、これからどうしたいのかを──。

 倫太郎は決意を胸に、前を見つめて口を開いた。

 

 

 

 

 繭村倫太郎。

 繭村家の嫡子に天才児として生を受けた彼には、幼き頃から徹底的な英才教育と、人格形成の調整が行われた。

 その血の一滴に至るまで、全ては繭村家の為に。

 成長するにつれ、彼は次第に意思というものを失い、全ての行動を「繭村家」にとって利か害であるかによって決定するようになっていった。それが悲しい事であるという事実を、認識する自由もないままに。

 

 そして、とある夏の日──。

 黄色いリボンをつけた女の子が倒れるのを見た瞬間、機械的に生きることを定められていた倫太郎の運命は変わったのだ。

 

 その女の子の名前は、志原楓といった。

 知らないはずがない。この大塚に住むもう一人の魔術家系の子にして、かつて倫太郎が傷つけてしまった女の子だ。

 志原の魔術師など、言葉を交わすことすら忌まれる禁忌。生きようが死のうが知ったことではない。このまま捨て置けと、繭村家の総意に沿うよう調整された意識が訴えかけるのにも関わらず、倫太郎は迷う事なく彼女を抱き上げていた。

 

「──おいっ、しっかりしろ‼︎ なにがあった⁉︎」

 

 頭痛がする。ひどい頭痛だ。例えるならありえない異常行動に脳が処理に失敗しているような、そんな痛み。

 それでも無視して、彼は楓を助けた。

 理由なんてない。ただ、とても久しぶりに、身分も生まれも無視して「そうしたい」と感じたから、彼はそうしたのだ。

 

『……なんで、私を助けるのよ』

 

『君には大きな貸しがある。それを返したかっただけさ』

 

 意識を取り戻した楓に、倫太郎はそんな事を言った。

 半分本当で、半分嘘だ。

 たとえ幼い頃の貸しが無くたって、自分は彼女を助けただろう。何故かは分からないが、彼女を見つめていると感じ取れる心の暖かさが、言外にそう告げていた。

 

『あの時はごめん。──うん。今度は守れたみたいで、良かった』

 

 それが、全ての始まりとなった。

 繭村倫太郎にとって大きな存在となる「志原楓」という魔術師との交流は、そうして始まったのである。

 

 

 

 

 ──月日が経っても、倫太郎は楓と会い続けた。

 弟子と師の真似事までして、楓の面倒を見続けたのだ。

 自分に求められる責務とは相反した、許されないことをしている。そんな自覚は常にあって、今すぐ楓との関わり全てを破却しろと歪んだ意識が叫んでいたが、倫太郎は全てを無視した。

 その理由は一つしかない。

 彼女と話し、関わり続けることが、楽しかったからだ。

 

『あーもう、なんだか気がつまってきた。なんかやってよ、倫太郎』

 

『だから毎度毎度僕に無茶振りをするのはやめてくれよ……まあいいけど。これが終わったらイメージ構築だからな』

 

 楓のあんまりな物言いに呆れながら、倫太郎は笑っていた。

 なんかやってよ、だなんて。極東に名を轟かせる繭村、その天才たる跡継ぎにその奇跡を見せてほしいだなんて、普通なら途方もない額の拝見代を積まれるのが当たり前だ。だというのにこの少女は何の気なしに、友達に頼むかのような気軽さである。

 彼には逆にそれが心地よくて、嬉しかった。

 心地よかったのはその時だけでは無い。彼女といると、どんなことだって、経験したこともないくらい素晴らしいもののように思えた。

 奥底に秘められていた本当の自分が、この時だけ、彼女と共にある一瞬だけは表に出せるような気がしたのだ。

 

『………………』

 

 声には出さずとも、倫太郎は感謝していたのだ。

 色を無くしたような日々を、彩りで染め上げてくれた彼女に。

 思い返してみれば、たくさんのことがあった。

 

 ──時には笑いあって、

 

 ──時には取っ組み合いのケンカをして、

 

 ──時には同じご飯を食べて、

 

 ──時には魔術について語り合い、

 

 ──時には心の傷を共有した。

 

 許されない繋がり。ありえない関係。

 それでも彼らは互いに互いを大切に想い、尊敬し、信頼していた。

 倫太郎と楓はそれほど良き友人であり、きっと、それ以上になれるくらいに仲のいい二人だったのだ。

 

『倫太郎、どうしたの?』

 

『なんでもないよ』

 

(あり得なくとも……もし、叶うなら──)

 

 叶うなら、ずっとこのまま。

 この小さな倉庫の片隅で、魔術も繭村のしがらみもぜんぶ捨て去って、共に在ることができればいいのに──。

 倫太郎は純粋に、消えかけの意思で、ただそう願い続けていた。

 

 

 

 だが。その幸せであり得ざるユメは、ついに終わる時を迎えた。

 二年前のある日。倫太郎は久方ぶりに父に呼び出され、そこで通告を受ける運びとなった。

 魔術刻印の移植、及び繭村家当主を継承するにあたる様々な手続きや、各方面への連絡など。面倒な課題が山積みになる中で、倫太郎は一つだけ気になることがあった。

 

「……父上。何故、最終試験が僕には課せられないのでしょうか」

 

 繭村の魔術師が、当主の座を得る際に要する最終試験。

 しかしそれが、倫太郎には与えられなかったのだ。

 理由は簡単だった。繭村倫太郎という少年は、最終試験などする必要すらないほどに、才覚に恵まれた天才だったからだ。

 しかし同時に、そんな倫太郎にも一つの欠点があるということを、彼の父親は見抜いていた。その欠点とはすなわち、本来相容れぬ者にさえ絆されてしまう……繭村の当主には不要な、"甘さ"だ。

 そして倫太郎の父は、彼がひそかに志原の魔術師と密会を重ねていることを、倫太郎に事実として突きつけた。老いたとはいえ慧眼を誇る倫太郎の父の前では、彼の隠し事も意味を成さなかったのだ。

 

「ぐっ……黙ってアイツに会っていたことは……謝罪します。しかし、彼女が志原の一族とはいえ、実情はちょっと魔術をかじったくらいの女の子だ。そこまで忌み嫌う理由もない、出自だけで害だと判断するのは間違って……‼︎」

 

 倫太郎の言葉を遮るように、彼の父は無言で倫太郎を睨みつけた。

 ──わざわざ自分が言わずともいい。

 ──当主になる以上、そんな子供じみた理屈が通用するわけがないと、お前も理解しているはずだ。

 彼の顔は無言のままに、倫太郎にそう告げていた。

 

「………………っ」

 

 倫太郎だって分かっていた。家柄や名声が重要視される魔術の世界において、「志原のような一族と、繭村の当主たる人間が繋がりを持っている」という事実は、なにより繭村家の権威を失墜させる原因たり得る。

 だからこそ志原との関係を悟られぬよう、ここまで立ち回ってきたつもりだったのだが。

 

(まさか筒抜けだったとは……くそ、どこで勘付かれた)

 

 悔いる間もなく、さらに続けて父の口から語られた言葉に、倫太郎は愕然とする。

 

「な……僕が考えを変えないなら、繭村の手で志原を消す(・・)と……⁉︎」

 

 繭村家の権威と勢力を持ってすれば、自らの管理地内における一人二人の殺人など容易いことだ。それが例え魔術師の子息であろうと、彼らの権威の前には関係ない。

 あの少女は人知れず殺され、闇に葬られることだろう。

 

「それが……そんなふざけたやり方が、繭村のやり方だと仰るんですか……?」

 

 怒りに肩を震わせる倫太郎に、父親は言葉を投げる。

 「この処置に不満ならば、私達が手を下すよりも早く、お前自らの手で奴との全てを断てば良い。これをお前に向ける最終試験とする」と。

 選択肢など無いようなものだった。

 

 自らの手で全てを無かったことにするか。

 それとも、あの少女が殺されるのを見送るか──。

 

 それから数時間後。

 倫太郎は無言のまま、廃工場へ向かう農道を、自転車に乗って走っていた。

 木刀をひっつかんで家を飛び出したものの、まだ覚悟は決まっていない。

 彼は魔術を使うことが嫌いだが、今回のそれは、生涯において最低な魔術行使になるであろうことは予想できた。なにより一度志原の顔を見てしまえば、踏ん切りがつかなくなることは目に見えていた。

 だから彼は約束の時間より早く、こうして自転車を漕いでいる。

 

(志原との関係の全てを、断つ……そんなことが、できるのか)

 

 責務と相反する己の意思が、心の内で暴れている。

 

(いや違う。前提として僕は繭村の魔術師だ。だからこそ、たとえどんな事だって……それが僕の責務上必要とされるのなら、僕は絶対に遂行しなくちゃならない。「繭村の魔術師」であろうとする事だけが、僕の存在理由なんだから)

 

 あれこれ考えているうちに、彼は見慣れた廃工場に辿り着いた。

 自転車を止めて、敷地の端にひっそりと立つ小屋に向かう。その扉を開けると、どこか懐かしい香りが鼻腔を刺激して、倫太郎は思わず目を細めた。

 目線を巡らせれば、色々なものが目に飛び込んでくる。

 楓に見せるつもりで積んである魔術書の類。興味本位で持ってきた魔術礼装もどきのガラクタ。床に転がっているのは、もはや魔術など何の関係もないキャッチボール用のグローブとボール。

 そのどれもが、まるで宝石のように、大切な思い出を秘めている。

 

(僕は……僕は、魔術師だ。だから、これを──……)

 

 ……自分には、できそうにない。

 これら全てを燃やし尽くして、大切なひとを裏切ることなんて、自分には到底できそうにない。

 小屋の中で一人もがいた葛藤の末に出した結論は、それだった。

 それが、「繭村倫太郎」という人間の答え(いし)だった。

 

 だが、たとえ不可能でも、やるしかない(・・・・・・)のだ。

 やらなければ、死ぬ。大切な人が死ぬ。

 

 もう少しで志原がやって来るだろう。それまでにケリをつけて、自分は過去を無かったことにしなければならない。

 

(……志原は、怒るかな。そうだよなあ、数十発は殴られても文句言えないよ)

 

 ──ふと、彼女の顔を思い描いた。

 初めて会った時には、ずいぶんと危険に巻き込んでしまって。

 数年後、次に会った時は強烈だった。いきなり路上でぶっ倒れて、目を覚ますなり野良猫じみた警戒ぶり。挙げ句の果てに散々文句を言われるし。

 それが何の因果か、こうして師弟関係を結ぶまでに至った。

 楽しかった。思い出すだけで笑ってしまうくらい楽しかった。

 倫太郎は魔術を使うのが大嫌いだったが、自分ならぬ彼女のためならば、まったく苦にせず魔術を行使することができた。この場所は、辛い魔術の研鑽だけで埋め尽くされた倫太郎の生涯の中で、もっとも暖かさに満ちた場所だと断言できる。

 考えても、考えても、駄目だった。

 限りなく冷静に、どこまでも冷徹にあろうとする思考に反して、脳裏に色々な志原の姿が浮かんでくる。

 

 思えば──志原楓という魔術師は、自分を「繭村の後継者」という肩書きを抜きにして見てくれる、たった一人の存在だった。

 繭村の嫡子でもなければ、稀代の天才でもない。

 「繭村倫太郎」というひとりの人間にあそこまで接してくれた魔術師は、後にも先にも存在しなかった。

 

(だからこそ、このままアイツといたいと願ってしまうのか──)

 

 けれどそれは、決して叶わぬ幻想だ。

 ここで倫太郎が木刀を投げ捨てたとしよう。己が役割を全て放棄し、自分自身の感情に従うとしよう。

 だが──そうして志原を連れて出来る限り遠くに逃げようとしたって、自分たちは所詮、この世界では無力な二人の子供に過ぎない。いつかは限界が来て、繭村の連中に追い詰められる。

 そうなれば二人揃って野垂れ死にだ。

 そんな簡単な予想から目を背けるほど、倫太郎は愚かではなかった。

 

(時間がない。覚悟を決めるんだ、繭村倫太郎。自分の意思なんて切り捨てろ、そうすればアイツだって助かるんだから)

 

 繭村の魔術は"概念切断"。それは目に見えぬモノすら断つ、奇跡の斬撃魔術である。

 志原との間に積み上げてきた、目には見えない大切なものだって。

 繭村の魔術師たる倫太郎の刃ならば──容易く両断してみせることだろう。

 一度深く息を吸い込んで、倫太郎は全てを放棄した。

 

 心は零度よりもなお冷たく。

 鉄のように頑なで、もう揺ぎはしない。

 

「剣鬼、抜刀」

 

 たった一言の詠唱を口にした瞬間、彼の周囲で激しい暴風が巻き起こった。

 凄まじい回転速度で、才能の怪物たる繭村倫太郎の魔術回路が駆動を始める。普段ならばあり得ないほどの回転数。奇跡をなす準備は、ものの数秒を待たずに果たされる。

 この時の倫太郎に、魔術に対する嫌悪感は存在しなかった。

 何故ならこの魔術行使は、決して「自身の為」ではないのだから。

 

(ごめんよ、志原)

 

 ──この一刀は己が為ではなく。

 ──ただ、自分が最も守りたいものに捧げる最後の魔術。

 

 最後に彼は目を閉じた。それが燃え尽きていく様を、出来る限り直視したくはなかったから。

 そうして──。

 轟々と燃え盛る刃を、倫太郎は倉庫に振り下ろしたのだ。

 

 

 

 

 その葛藤の吐露を無言で聞いていた楓は、彼が語り終えてもなお、無言のままで固まっていた。

 なんと言っていいのか分からないので、倫太郎も無言を保つ。

 しばらくしてから。

 長いのか短いのか分からない沈黙の果てに、楓が口を開いた。

 

「……なによ」

 

 言葉の意味が分からずに聞き返そうとする倫太郎を遮って、楓はその両手で、ぎゅっと倫太郎のシャツを握る。

 

「じゃあ……アンタは、責務を優先させてなんかいなかった」

 

 楓は反射的に思い返していた。

 二年前、かつて自分を助けてくれた倫太郎の姿と。

 二年の時を経てなお、命を賭して黒泥のバーサーカーの前に立ち塞がった、彼の姿を。

 

「昔からずっと変わらずに、ただ、私を守っていてくれていただけじゃないの──」

 

 その言葉を聞いた刹那。

 倫太郎の頭の中で、最後のピースが埋まった音がした。

 

「それなのに……私……ずっとアンタを……」

 

 絞り出される声が震えている。倫太郎はその声を聞いて、楓の言いつけも忘れて身体をぐるりと反転させた。

 狭い布団の中で倫太郎がいきなりこちらを向いたので、びっくりして視線を彷徨わせる楓。それに構わず、倫太郎は楓の顔を覗き込んで、そっとその両目に溜まる涙を拭う。

 

「こ、こっち見ないでって言ったでしょっ」

 

「いや見る。君に言わなきゃいけないことがあるから」

 

「な、なによぅ……急にハキハキして……」

 

 しどろもどろのまま、楓はもう参ったとばかりに動くのをやめ、倫太郎と間近で向かい合う。彼の瞳。美しく純朴なそれを、本当に久しぶりに、こうしてまっすぐ見たような気がした。

 そうだ──。

 二年前に、初めてこの綺麗な瞳を見た時。志原楓は、彼を信じてみたいと思ったのだ。

 そんな事を思い出して、思わず言葉を失ってしまう。

 

「ずっと、僕には君が眩しかった。……僕は、誰かに敷かれたレールをなぞってきたんだ。それの良し悪しなんて関係なく、ただ命じられたことだけを成せばいいと言われて」

 

「──────」

 

「だから君が……自分の意思で全てを決められる志原が、僕には眩しく見えた。それを認める事は、最近までできなかったけれど」

 

 才能も、権力も、何も持たない楓。彼女はそれでも闇雲に、何度も折れそうになっても、決して魔術師として生きる道を諦めようとはしなかった。

 その強さ。誰でもない自らの意思で生きんとする、荒地に芽吹く一輪の花のような生き様を、倫太郎は尊いと感じた。

 だがそれを認めてしまえばどうなるかは明白だ。繭村倫太郎という人間が今まで歩んできた道のりは、正しくなかったと否定することになる。彼は信じ、積み上げてきたものが崩れ落ちる事実を恐れて、それを認めまいと心の奥底に閉じ込めた。

 

「でも、学校で『自分のようにしたいように生きろ』……って志原が僕に言った時、やっと気付けたんだ。誰かの言いなりになる人生なんて僕のものじゃあない。僕は繭村の当主である以前に、繭村倫太郎っていう一人の人間だってことを。だから──僕は、僕が成したいことをする」

 

 僕はバカだから、こんな事に気づくのにも時間がかかったけどね、と倫太郎は申し訳なさそうにしゅんとする。

 いつもバカバカ言われていたのは楓の方だったので、逆に変な気分になって、優しく頭を撫でておいた。

 

「それじゃあ……参考までに……聞いてもいい? アンタがやりたいと思うことが、何なのか」

 

 この戦いを通じて彼が得た答えとは、繭村倫太郎という少年が見つけたひとかけらの意思とは、何をどうすることなのだろう。

 そんな事を思う楓は、わずかな距離を間に挟んで、真っ直ぐに倫太郎を見つめ返した。

 視線を交わしながら、倫太郎は口を開く。

 繭村倫太郎がずっと探し続けていたもの。無我夢中にずっと探し続けていたけれど、本当は、最初から心に秘めていた一つの輝き。

 それは──、

 

 

「僕は君を守る。世界全ての脅威から、志原だけは守り通す」

 

 

 そうして言葉に出してみれば、それは簡単なことだった。

 昔も今も、決して変わらないもの。

 初めて出会った時も、二年前の決別の日も、彼女と戦った時も、逆に共闘した時も。全ての時、あらゆる戦いと苦境に立たされても、倫太郎には一つだけ貫き通したものがある。

 つまり──何があろうと志原楓を守るという信念だ。

 

「それが……それだけが。「自分の意思」っていう、当たり前のものをほとんど持たない僕が持つ……ただ一つの正義(いし)なんだ」

 

 しみじみと呟いて、気付くのが遅くなったと頭を掻く。

 当たり前の人間とは異なる環境、歪な教育の中で育ったが故に、倫太郎にはそれを理解することができなかった。けれど分かってしまえば、それは、彼にとっては当たり前のことに過ぎなかったのだ。

 自分が成したいこと。自分が何を正義とするか。

 そんなものは最初から、この戦争が始まる前から定まっていたのに。

 

「……本当に、それでいいの?」

 

 慎重に紡がれた問いに、倫太郎はこくりと頷く。

 すると、なぜか楓は顔を耳まで真っ赤にして、あちこちに視線を彷徨わせた。赤くなっていることの自覚はあるのか、その顔を見られるのを避けるように、楓は布団の奥の方に潜り込むと、

 

「わ、わっ。どうしたんだよ」

 

 倫太郎にしかと抱きついて、顔を胸のあたりに埋めてしまった。

 突然抱き枕と化した倫太郎は頭を掻きつつ、ゆっくりと彼女の背中に手を回して受け止める。

 

「倫太郎」

 

「何さ?」

 

 彼女は小さな声で、彼の名をぽつりと呟くと、

 

「…………今まで、その、ごめん」

 

 目だけをこちらに向けて、そんなことを言った。

 その声が聞いたこともないようなしおらしさだったせいで、倫太郎は思わず笑ってしまう。それがムッとしたのか、楓は今度こそ顔を上げて倫太郎を軽く睨んだ。

 

「ははは……いや、その。こんな時に謝られると、どうしていいか分からなくて」

 

 でも、そうだな、と彼は前置きして、本当にすぐ近くにある彼女の瞳を見つめ返す。

 

「謝らなきゃいけないのは僕も同じだ。二年前……もっと上手いやり方はあったはずなのに、結果的に君を傷付けた。だから、ごめん」

 

「じゃあ、互いに謝ったんだし……これで、おあいこってことにした方がいいかしら」

 

 頰を掻きながら、少し変な声で彼女は言う。

 その変わらぬ不器用さが、何だかとても愛しくて、倫太郎は自然と彼女を抱きとめる力を強めていた。

 

「その方がいい。これでやっと、仲直りだ」

 

 ちょっとのすれ違いと、踏み出せなかった臆病な心が、かつての彼らを引き裂いたけれど──。

 長い時を経てようやく、二人はもう一度、元どおりになることができたのだ。

 

「──……そ、それじゃあ。こ、このまま一緒に寝る?」

 

「ぶッ……⁉︎」

 

 思わず咳き込んで、倫太郎も顔を赤くする。もっとも更に赤くなっているのは楓の方なので、あまり気にはならなかったが。

 何を馬鹿なことを言ってるんだよ、と反射的に言いそうになって踏みとどまる。

 もう時間は残されていない。今くらいは、気分を変えて彼女の言葉に従ってみるのもいいのかもしれない。

 

「……分かったよ、もう」

 

 今更体勢を変えるのも億劫なので、彼女を腕の中に抱いたまま、倫太郎はゆっくりと目を閉じる。

 

「いい? あくまで寝るだけだからね」

 

「も、元からそのつもりに決まってるだろ⁉︎」

 

 その問いに笑いを返した楓はもぞもぞと体を動かすと、彼の腕の中で体を丸めた。その姿がいつもより幼く見えて、倫太郎は苦笑してしまう。

 じゃあ、おやすみ、と言葉を残した楓は、しばらくしないうちに本当に眠り始めてしまった。目が冴えてしまった倫太郎からすると、そのこんな状況で眠れる図太さが羨ましくもある。こんな事を言うと怒られるので、あくまで言葉には出すまいと思うが。

 

「──────」

 

 部屋を包み込む、心地いい静寂。

 その安らかな寝顔を見ていると、胸の奥を満たす、暖かい何かがある。

 これは何なのだろう。この気持ちの名前に気付く時が、いつか彼にも来るのだろうか。感じたことのない何かをしかし確かに受け止めながら、倫太郎は目を閉じようとした。

 と──、

 

「……倫太郎」

 

 楓の口がほんの少し動いて、彼の名を呼んだ。

 まだ起きてたのか、と言いかけた彼を遮って──、

 

「ありがとう。私を、ずっと守ってくれて」

 

 彼女の目尻に光る雫が一筋流れ、頰を伝って落ちた。

 それだけ呟くと、彼女は今度こそ口を閉じる。

 楓の言葉を受けて、倫太郎はぴくりともせずに固まっていた。その言葉の衝撃が、彼の身体を貫いていたのだ。

 

 ──……「ありがとう」と、彼女は言った。

 

 かつて、倫太郎は楓を守ると決めた。たとえそれが苦渋の選択の果て、大切な人に敵視される道であろうと、構わないと決めた。

 だがそこには、迷いも後悔もあったのだ。

 少女の純粋な信頼を裏切り、傷付けなくてはならないという事への悔いは、ずっと倫太郎の内で燻っていた。

 しかし──、

 

「僕は」

 

 たった一言で良かった。

 その言葉一つで、燻っていたものが全て霧散していた。

 後悔した。何度も何度も自分の選択を悔いて、苦しんだ。

 もっと彼女を傷付けない方法はなかったのかと。何も言わずに終わらせようとするのではなく、リスクを無視してでも彼女に全てを告げるべきではなかったのかと、二年に渡って悩み続けた。それでも、

 

「僕はそれでも……正しいことを、したのかな」

 

 ──楓は。その一言をもって、倫太郎の選択を赦したのだ。

 

 気がついた時には、目から涙が溢れていた。

 繭村倫太郎は今初めて、志原楓を守るという、自分の意思(せいぎ)が間違いではなかったという証明を掴んだのだ。

 

「────……明日。生きて帰れるか、って話をしたけど」

 

 その衝撃。自らが信じるものが正しいと認められた衝撃と歓喜を、涙を拭って乗り越えていく。

 

「大丈夫だよ、志原」

 

 安らかな寝息を立てる彼女の髪をそっと撫でて、倫太郎は一人呟いた。

 

「僕は誓った。君は、この命に代えても守ってみせる」

 

 彼の中に一つしかない答えは、もう出された。

 ──繭村倫太郎は、志原楓を守り抜く。

 いついつかなる時も変わらない唯一の誓い。ただ一つの正義を胸に、倫太郎は目を閉じた。

 

 決戦は近い。

 それでも迷いはしない。そう、かつて、己が正義を信じ抜いたアサシンのように──。

 彼もまた、決して躊躇うことも、立ち止まることも無いだろう。




【繭村倫太郎】
十五歳。繭村家19代目当主。
魔術そのものを嫌い、怖がる三流魔術師だと彼は誤解していたが、その魔術への躊躇いは生来の魔術使いとしての気質と、志原楓のように「大切な誰かを傷つけてしまうのではないか」という優しさ/トラウマから来るものだった。
ただし。聖杯戦争という戦いを経て、他の誰でもない自分が何のために戦うのかを見つけた今、倫太郎には迷いも躊躇いもない。
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