Fate/crescent 蒼月の少女【完結】   作:モモのすけ

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八十三話 この世全ての悪/Other side

 絶え間無く響き渡っていた爆音が止んだ頃。

 代行者アナスタシアは、崩落した橋を跳び越え、瘴気渦巻く人工島に足を踏み入れていた。

 

「……アーチャー、敵の姿は?」

 

『いるようだ。が、既に一騎は仕留めた(・・・・・・・)

 

 その言葉を聞いて、少女はぴくりと肩を震わせる。

 

『ライダーだ。あの飛行物体が結界に亀裂を入れてくれたお陰で、その隙間から狙う事が出来た』

 

「……流石ですね、アーチャー。そのまま、可能であれば狙撃を続行してください。攻撃はあなたに任せます」

 

『ああ。散開した連中はここからじゃ狙えんが、互いに違う場所で争っていると見える。少なくとも、お前の進路を阻むものは何もない。が……気を付けろよ、マスター』

 

 念話を打ち切って、後ろめたい気持ちにかられる。

 アーチャーは「ライダーを仕留めた」と言ったが、彼女はライダーに返していない恩がある。弓兵の狙撃に口を挟まない約束とはいえ、恩を仇で返す形になってしまったのは少し心が痛い。

 無論、アーチャーから見ればライダーはかつて深手を負わされた怨敵だ。アナスタシアはともあれ、アーチャーが隙を見せた騎兵に容赦する理由はない。

 

 ──無理に道理を呑み込んで、ぐるりと周囲を見渡す。

 立っているのは島の中心まで続く一本の道。この周囲には、前まで鬱蒼と茂る木立があったはずだ。しかし今はその大半がなぎ倒され、融解した地面の中で木々の燃え滓がくすぶる、地獄のような光景が広がっている。

 思わず頰に冷や汗を流しながら、アナスタシアは唾を飲み込んだ。

 

「……行かないと。私は必ず、あの人を守るんだから」

 

 怯みそうになる心を奮い立たせて、アナスタシアは走りだす。

 ゴールは明らかだった。目の前に聳え立つ、超巨大な白い巨塔。

 そこに侵入して、今なお続けられている「捕食」を止める。誰かがそれを成さなければ、この街の人間が生きて朝を迎えることはない。無論、あの喫茶店の店主も死に絶える。

 それは嫌だ。

 だから、出来るか出来ないかなんて関係なく、アナスタシアは無我夢中に走り続ける。

 

「…………っ、く⁉︎」

 

 と。空を裂くような轟音に、アナスタシアは天を見上げた。

 一瞬で迫りくる危機を認識する。

 ほぼ反射的に彼女は飛び退いて、姿勢を低くして地面に伏せた。

 それと同時。眼前に、さっきまで宙を飛び回っていた謎の飛行戦艦が、全く速度を緩めずに墜落する。

 その爆発たるや、凄まじいものがあった。

 なんせ音速すら振り切った速度で、航空機並みの大質量が地面に激突したのだ。破壊痕(クレーター)のできた地面に、じわりじわりと炎が拡がっていく。

 

「げほっ、ごほっ……何、が──?」

 

 飛び散った飛行戦艦の残骸は、いくつか彼女の近くにも突き刺さっていた。黄金色のそれらは役目を果たしたと言わんばかりに、細かな粒子となって消えていく。

 しかし、そちらに目を奪われている場合ではない。

 その残骸に紛れて、二つ。黒焦げの燃え滓となった歪な肉塊(したい)が炎の中から転がり落ち、目の前でくすぶっていた。

 そして。

 

「……■、■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■‼︎‼︎」

 

「──お、オ゛ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ‼︎‼︎」

 

 同時、二つの咆哮が炸裂した。

 歪な肉塊が蠢く。それらは炭化した肌を元に戻し、欠損した肉体を取り戻して、みるみるうちに元通りとなって蘇った。

 確実に、誰が見ても死んだと分かるような傷を受けようと、しかしこの二人は斃れない。完全な死には至らず、死ぬ、もしくはそれに値する傷を負おうと立ち上がる。

 そんな、死に嫌われた怪物二匹の激突。彼らの眼中に、はなからアナスタシアは存在しないようだった。

 激しい旋風が巻き起こったと感じた直後、バーサーカーの巨躯が搔き消える。

 

「────、く‼︎‼︎」

 

 獰猛な気配は背後。

 右から左に振るわれる大剣を、少年は間一髪で回避する。そのまま縦の振り下ろしを紙一重で躱し、地面すら穿つ勢いをもって、その刀身を踏みつける。

 

「■■■■■■ッ‼︎」

 

 それを見たバーサーカーは、刀身を蹴って宙に跳んだ少年を睨みつけ、握りしめていた刀の柄を潔く手放した。

 地面にめり込んだソレを引き戻すのでは間に合わない、という刹那の判断。狂戦士らしからぬ戦士の直感は確かに的中し、バーサーカーが上体を逸らすや否や、放たれた蒼雷が空いた空間を焼き焦がす。

 

「彼は……」

 

 空を飛び回る謎の飛行戦艦が結界を破壊したという事実はアーチャーの報告で聞いてはいるし、実際に見てもいる。しかし、その正体は分からぬままだった。

 だが、あの破壊兵器を操っていたのが、よもや英霊ですらなかったとは──。

 彼は確かセイバーのマスターだったはずだ。それがどうして破壊兵器を駆り、バーサーカーと戦うだけの力を行使しているのか、アナスタシアには想像もつかない。

 

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ァ‼︎」

 

 再度剣を握り直した隻腕の巨人が、嵐の如く暴れ狂う。

 その破壊をかいくぐる少年。二つの影は離れる事なく、互いに手を伸ばせば触れ合えるような至近距離で、凄惨な殺し合いを続けていた。衝撃波と飛び散る土塊、蒼雷を見て、アナスタシアは判断する。

 

(あれは自分が手出しできる戦いではない。いえ、そもそも、私がやるべき事はきっと別にある)

 

 理屈ではなく、感覚があった。

 為すべきことがある(・・・・・・・・・)、という、何故か、魂に訴えてくるような想いが。

 体の中が燃えている。為すべきことを為せ、と、全身の細胞が叫んでいる。

 

「そう。立ち止まってなんて、いられない」

 

 アナスタシアは、再度立ち上がって走り出した。

 鼓膜を破らんばかりの轟音と咆哮。すぐ目の前を二つの影が駆け抜けて、アナスタシアの髪が烈風に揺れる。飛び散る土くれが頰を裂いたが、それでも彼女は止まらない。

 そうして、アナスタシアは死と隣り合わせの激戦区を抜けた。

 背中に戦闘音を聞きながら、まっすぐに塔の入り口を目指す。

 すると──、

 

「…………⁉︎」

 

 右前方で爆炎が膨れ上がり、彼女の顔を朱く照らし出した。

 辛うじて破壊を逃れた木々に遮られて、交戦しているのが何者なのかは判別できない。だが、炎の赤の中を飛び交う無数の剣を、彼女は確かに見た。

 さっきのバーサーカーと少年に負けぬほどの気迫が、遠く距離をおいても伝わってくる。

 そして、更に──、

 

「また……‼︎」

 

 今度は左。

 そちらからは閃光と紫電が連続し、空気を焦げつかせる嫌な音が響いている。

 こちらも、誰が戦っているのかは分からない。矢継ぎ早に放たれる多種多様の魔術攻撃はもはや爆撃に等しく、そちらは眩い白光で埋め尽くされていた。

 その中を駆け抜けていく人影は敵か味方か。どちらにせよ、アナスタシアがやる事は他にある。熱風に全身を叩かれ、今にも膝をつきそうになりながら、這ってでも前へと進む。

 

「はっ、はっ……ここ、ですね……‼︎」

 

 そして──ついぞ足を止めることなく、塔の入り口へと辿り着いた。

 巨樹に空いたうろのようなそれに足を踏み入れると、樹木のような外見に反し、内部にはだだっ広い空洞が広がっていた。壁面には直径数メートルの根が幾重にも絡みつき、複雑な模様を描いている。目に見える人工物は、塔の天辺まで続いていると思われる、巨大な螺旋階段のみだ。

 白く輝く壁面に手を触れながら、アナスタシアは注意深く周りを見渡した。

 

(敵の気配はありませんか。この階段を登れば、上に向かう事は出来そうですが──)

 

 焦って上に向かいそうになる気持ちを抑えて、冷静に考える。

 ──自分は何をするべきか(・・・・・・・・・・)

 直感が告げている。必ずあるはずだ。自分にしかできない事が。

 この樹木に酷似した塔の構造さえ理解できれば、何かが掴めるかもしれない。ひとまず中心に向かって、半径30メートル、高さ約200メートルの巨大な空間を歩いていく。

 

「これは……下にも、道が?」

 

 少しだけ歩いたことで、見えてくるものがあった。

 空間の中心には巨大な螺旋階段があり、200メートル上へと真っ直ぐに続いている。しかしその背後に、まるで大地に穿たれた亀裂の如く、巨大な縦孔が空いていたのだ。

 じりじりと近づいて、少しだけ頭を傾け、その下を覗き込む。その瞬間──、

 

「────う゛っ‼︎⁉︎」

 

 下から吹き付ける生暖かい風が頰を撫でた瞬間、言葉にできない不快感から、アナスタシアは思わず嘔吐しそうになった。

 身体の中で、何かが拒否反応を起こしたように暴れ狂い、臓器をめちゃくちゃに掻き回されるような錯覚さえする。

 しばらく肩で息をして、アナスタシアはその縦孔を睨んだ。

 

「こ、れは……っ」

 

 考えるまでもなく直感で悟った。

 よくないものが、この先にある。

 再び、身体の中心で誰かが叫ぶ。お前が為すべきことが待っているぞと、この先に進めと訴えてくる。

 迷いはあった。この、昏く何も見えない孔に身を投げてしまえば、戻ってこれなくなるのではないかと。

 けれど──、

 

「……それが、何だと言うんでしょう」

 

 躊躇うことなく、彼女はその孔に身を投げた。

 生暖かい風が全身に吹き付ける。体内で再び暴れ狂い、現出しようとする「何か」。それを宥めながら、短くて長い落下を終える。

 それはどれほどの深さなのだろう。潜れば潜るほど、落ちれば落ちるほど、全身を駆け巡る悪寒は増していく。

 やがて底が見えた。着地の衝撃をなんとか殺しきって、ゆっくりと立ち上がる。

 そこに、広がっていたのは──、

 

「これが……大聖杯……こんなものが」

 

 眼前に広がる巨大な地下空洞。その中心に座した、蠕動しながら赤の燐光を放つ超抜級魔術炉心。

 そこに、異形があった。

 見るだけで嫌悪感を催すような、泥と肉塊。

 それが魔法陣に絡まるように拡がり、中心で積み重なり、地下空洞の天井へと伸びている。規則的に収縮を繰り返すそれは、まるで何かを咀嚼し、呑み込んでいるかのようにも見えた。

 

(こんな悪しきモノを、私は見たことがない。形を得た呪詛なんてものが、この世に存在していいはずが……‼︎)

 

 それは、世界に在ってはならないモノ。

 この世界を生きる生物としての本能が、彼女にそう告げていた。

 

「ああ、その通りだ」

 

 聞き覚えのある声が、地下に反響して響き渡る。

 アナスタシアは弾かれたように横を向いた。暗がりに、倒れた小さな人影がある。

 それを凝視して、彼女は思わず驚きの声をあげた。

 

「……ライ、ダー……?」

 

 金髪を逆立てた少年は、しかし動こうとしなかった。

 否。動けないのだ。倒れた彼の周りには、べっとりとした血がこびりついている。今も出血は続いているのか、ライダーは地下空洞の壁に背を預けたままだ。

 

「ハッ……やってくれ……やがったな、女」

 

「アーチャーの狙撃を受けて、上からここまで落下しましたか」

 

「ああ……クソッ、いつぞやの借りを返された。これからが……楽しいって、時だってのに」

 

 ギリ、と歯を噛み締め、鬼の形相でアナスタシアを睨むライダー。

 それはそうだ。アーチャーのマスターは彼女なのだから。

 その猛獣が如き視線を受け止めながら、彼女はゆっくりと彼に近づいていく。

 

「フン……つまらん閉幕だ。最後の戦いを前にして……この……俺が、こんなところで、テメエ風情に……とは」

 

「いいえ。違います」

 

 ライダーの予想に反して、アナスタシアは、瀕死の彼にトドメを刺そうとはしなかった。その側にかがみこみ、穿たれた傷跡へと触れ、魔術回路を起動させる。

 

「な……ッ」

 

 ぽう、と柔らかい光がライダーの体を照らしだす。回復魔術により、アナスタシアはその傷を塞ごうと試みていた。

 

「何してやがる、テメエ」

 

「貴方には一度、見逃して頂いた借りがありますから」

 

「……あのな。大体、それなら最初からアーチャーの狙撃を止めさせろ。弓兵はテメエのサーヴァントだろうが。なんだ? テメエ見た目に反して馬鹿なのか? マッチポンプって言葉は知ってるか?」

 

 容赦なく放たれるライダーの口撃が、アナスタシアにぐさぐさと突き刺さる。

 

「そっ、そ、それは……私は狙撃術に関しては完全に門外漢ですし、アーチャーの狙撃には口を出さないようにしていまして……」

 

「ケッ。自分のサーヴァントくらい自分で制御しとけ、間抜け」

 

 忌々しそうに唾を吐き捨てるライダー。アーチャーが戦いやすいように気を遣った結果とはいえ、正論だ。言い返しようがない。

 バツが悪くて俯いたまま、アナスタシアは傷の治癒を続行する。

 

「ハァ。まあ、テメエが俺を助けんとする理由は理解したが。分かってるよな? ──この後俺に殴り殺されようと、文句は言えんぞ」

 

「それは……困ります。私にもすべき事がありますから。そうなれば、貸し借りもなくしたうえで、もう一度戦うしかありません」

 

 自分自身、何をしているのだろう、と疑問に思う。

 少なくとも「この地を訪れる前の」自分であれば、敵であるライダーは、有無を言わさずここで処分していただろう。こんな情に流されるような弱さは、きっと持ち合わせていなかった。

 けれど……それは、弱さなのだろうか?

 アナスタシアは少し考え込んで、目の前のライダーの瞳を見る。

 

「なんだ。やっぱり気が変わったか? そうしといた方が身の為だぞ……というか、女に助けられるなんざ羞恥の極みだ。早く殺せ」

 

「やはり尊大ですね、貴方は」

 

「当たり前だ、誰に口きいてると思ってる。皇帝(ツァーリ)だぞ、俺は」

 

「ええ。イヴァン4世……かつてわたしの故郷を治めた、雷帝と呼ばれた無二の皇帝。それが貴方」

 

 それを告げると、ライダーは少し意外そうな顔をした。

 冷徹、残忍、暴君。彼が背負う「雷帝」の異名には、そんな人々からの畏れが込められている。その名を知ってなお平然と接する彼女に、ライダーも驚いたのだろうか。

 ぽつりぽつりと呟いて、アナスタシアは続ける。

 

「ずっと、貴方に聞きたいことがありました」

 

 ライダーとアナスタシアが、初めて戦った夜。

 問答の果てに、彼はアナスタシアを殺さなかった。この街を去れと忠告して、殺せたはずの敵対者を見逃したのだ。

 

「ライダー、貴方は……あの魔術師がしようとしている事を、知っているんですか?」

 

「当たり前だ。マスターの望みくらい理解している。そしてそれが、世界を壊すユメだという事もな」

 

「では何故それに従うんです。貴方とて、かつては人を統べた皇帝。この世界を守護せんとする意思はあるんでしょう」

 

「ああ──当然、俺は皇帝だからな。それがただただ、世界を壊すだけのモノだったなら、俺は奴に反旗を翻しただろうさ」

 

 力を抜いて、ライダーは遠くを眺めるように呟いた。

 

「……けど、マスターはそれだけじゃねえ。巫山戯(ふざけ)たことに、奴は世界を愛するが故に(・・・・・・・・)、この世界を壊そうとしているのさ。だから、まあ、その結末に少し興味が湧いた」

 

「この世界を愛するが故に、壊す……?」

 

「矛盾しているようだが、正しい。世界を壊すのは悪意ではなく善意だ。あの女は誰よりもこの世界を愛し、慈しみ、憂いている。……少し何かが違えば、奴も聖人とやらの一人になれたのかもな」

 

 分からない、とアナスタシアは首を振る。

 あの魔術師は世界を愛しているが故に、世界を壊すという結論に至った。それは理解できても、理屈が分からない。

 しかし、それでも──、

 

「そう、ですか」

 

 アナスタシアは、ほっとしたように、少しだけ笑っていた。

 それを見て、ライダーは怪訝な顔をする。

 

「なんでテメエが笑ってる」

 

「いえ。これまで貴方のマスターは、不倶戴天の敵としか思っていませんでしたが──」

 

 あの女魔術師が、その感情を戦う理由にするのなら。

 それは、ここまで辿り着いたアナスタシアと、何も変わらない。

 

「それなら私と同じです。自分ではない誰かの、何かのために戦うのなら、それは進む道が異なっていただけ。きっと、根本は同じなんでしょう」

 

「ハッ、馬鹿言うな。一度俺のマスターと話してみろ、テメエとは考えも好みも性格も厭らしさもまるで違うぞ。同じなのは性別くらいだ」

 

「いいえ。目に見えないところで、きっと同じなんです」

 

 アナスタシアが立ち上がる。ライダーの治癒を終えたのだ。

 とはいえ、アーチャーの弾丸は呪詛を孕んだ一撃である。その道を極めた術者でもない、回復魔術に関しても少しかじった程度のアナスタシアでは、完全に傷を塞ぐには程遠い。

 せいぜい外見を整えて、これ以上の出血を止めるくらいが限界だった。

 

「……ライダー、その」

 

「チッ……謝る必要はねえ。元々期待してねえからな」

 

 う、と言葉に詰まるアナスタシア。それを尻目にライダーはだるそうに立ち上がり、四肢の調子を確かめる。

 出血は止まったため、このまま消滅するのは免れた。しかし、身体に刻み込まれたダメージは健在だ。万全には程遠く、四肢の感覚は鈍い。得意の殴り合いも封じられた。本気で戦えば、この代行者にすら勝てないかもしれない。

 萎えた表情のまま、彼はアナスタシアを眺める。

 

「俺からも聞こう。どうしてテメエはこんな地の底に現れた?」

 

「……この戦いを、終わらせに来ました」

 

 迷いなく放たれたその言葉に、ライダーは失笑を返した。

 

「ハ……思い上がるなよ代行者。サーヴァントですらねえテメエ一人に、聖杯の呪いを何とか出来るとでも?」

 

「無理だとしても退くわけにはいきません。聖杯の呪い……恐らく、この黒泥が全ての元凶なのでしょう?」

 

 アナスタシアは、振り返ることなく、黒々としたタールの海に歩いていく。

 その不用心さが癪に触り、ライダーは思わず声を上げてしまう。

 

「その無謀さが分かってねえようだから教えてやる。……それはこの世全ての悪(アンリマユ)と呼ばれる、ヒトが持つ全ての悪性が形を持った極大の呪詛だ。見りゃ分かるだろう。聖職者一人がどうこうできる次元のモンじゃねえ」

 

 この世全ての悪、その異名に偽りはない。

 つまるところ、アナスタシアがこの黒泥にその善性をもって立ち向かうというのは、文字通り世界を敵に回す所業である。

 ──70億 対 1。

 それは無謀と言うのすら憚られる、敗北に身を投げるだけの戦いだ。

 

「ヒトが持つ、全ての悪性、ですか」

 

 彼女は理解する。

 この黒泥が何なのか。それがあり得ざる、許されざる、人の悪意全てが形をもってしまった、目に見えるほど濃密な呪いであると。

 そしてそれが、人間に打倒できるはずのないものであることも。

 

「ありがとうございます、ライダー。わざわざ忠告して頂いて」

 

「……何だって俺がテメエの身を案じなきゃならん。今のはあまりにテメエが無知蒙昧ゆえ、上位者として哀れに思っただけだ。自殺するなら勝手にしろ」

 

 ライダー自身、自分がおかしいのは自覚していた。

 この少女を前にすると、その獰猛さを上手く発揮できなくなる。かつての伴侶に名前が似ているだけの、顔もまるで違う少女だというのに、どうにもやりづらいと感じてしまう。

 それを彼女は理解しているのかいないのか。

 無防備に背中を向けたまま、アナスタシアは一歩、黒泥の海へと足を踏み出し──その瞬間。

 

「──────なにッ⁉︎」

 

 騎兵の口から驚嘆の声が漏れる。

 ありえない事が、起きた。

 海のようにたゆたうだけの意思を持たぬ黒泥が、まるで敵意を持ったかのように牙を剥き、彼女を一口のうちに喰らい潰したのだ──。

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